坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

隠し砦の三悪人

2009年02月26日 | 坊主の家計簿
 2月26日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     レンタル2        210円
 食類  諸々(水・ワイン込)  1647円

 合計              1977円
 2月累計          106445円

 レンタル2は
 『隠し砦の三悪人』
 『カメレオン』

 『隠し砦の三悪人』だけ見る。
 レンタル屋の新作コーナーにあって「お!時代劇やんけ」で借りてみたのだが、長澤まさみが出てやがった。。。どうも好きになれん、この女優さんは。

 江戸時代の身分制度は『僧』と『俗』に分けられていた。そして『俗身分』の中での『士農工商穢多非人』である。

 『隠し砦の三悪人』では長澤まさみ演じる姫に『民』が頭を下げる。え~。。。なんで下げなアカンねん。長澤まさみがやたらと「民は」「民が」等と云う。姫だろうが、殿だろうが、天皇だろうが、人間やろうが。人間が人間に『身分』という事だけで頭を下げる理由があるのか?あるとしたら、それはどんな理由やねん。どんな差別的な、人間を粗末にした発想方法やねん。
 しかし、人間は鬼畜である。人を粗末にする事を屁にも思わないのが悲しいかな人間である。差別を肯定する事に全く疑問を抱かないのも人間である。それは毎日食べる食べ物が「私の為の犠牲になっている」とも思わず、「当り前」であったりする事から考えてみればすぐに解る。
 もしくは近くの寺の本堂に行けば『仏華』という切り花がある。「仏様に供える為」なんぞと斬り殺す。その後に土に埋めようが、その後に子孫を残そうがなんだろうが、『斬り殺す』事には一切変わりはない。そしてそれが平気の当り前の事になっている。あれが『僧』と『俗』の差別意識の典型である。つまり『僧』は『俗』の犠牲を何ら一切お構い無しに『当り前だと』思っている。犠牲が当り前の所に『罪悪』も『煩悩』も成り立たない。一切成立しない。つまり『問われる』という事がない。現状維持の御偉い御上人様のマンマ。
 「奉仕されるのが当り前」「布施されるのが当り前」「下々の『民』が私に頭を下げるのは当り前」である。そこに『苦』など一切ない。求めない人間に『苦』はない。生きる屍に苦があるはずがない。我欲に酔い、酔っている事にすら気づかない。

 『隠し砦の三悪人』を見る前に、テレビで『秘密のケンミンSHOW』を見てた。何やら東京に『かすうどん』の店が出来たらしい。
 『油かす』は、大阪の被差別のソウルフードである。被差別のソウルフードがついに『秘密のケンミンSHOW』という全国ネットの結構視聴率の高い番組に出たわけだ。

 主に在日コリアンの人達のソウルフードだったホルモンは、今日では全く珍しくない。それでも、在日一世の人が体験した話では、日本人から「お前らはクソ袋を食べるのか?」と侮蔑されたらしい。

 被差別に対する差別は無くなっていない。
 在日コリアンに対する差別も無くなっていない。

 女性に対する差別も無くなっていない。
 「女が男を支えるのは当り前だ!」等という『内助の功』が当然とされ、美徳とされる。差別が美徳とされる。

 『姫』に対して『民』が頭を下げるのは礼儀作法である。世間の礼儀作法である。
 『姫』に対して『民』が敬語を使うのも礼儀作法である。世間の礼儀作法である。

 今日、学習会での発表なんぞも終わり、読んでた本をすぐに引っぱり出せるようにしてある『手元本棚』から、『通常本棚』に本を戻してたら、母校の卒業生会報を発見。え~。。。放ったらかしにしてあったわけでんな。開封すると、表紙にある先生の文章が載ってた。『恩師』とは呼ばないが、それでも1年間一緒に生活して、『先生』として教えて下さった方。
 ガキが出来たらしい。学生時代の頃を思い出して、懐かしく思い出しつつ、変わらず不器用に迷いつつ子育てをしながら、自分や自分の子どもを他と比較してしまう日常生活の中で恩師・竹中先生の「くらべず、あせらず、あきらめず」という言葉を聞きながら生活して居られ、
 
 【ふだんは育ててやっている意識でいるけれど、実は育てられているのは私】(生實良子『青草第195号』より)

 という言葉を教えて下さった。

 ペラペラ捲って行くと、恩師・竹中先生の亡くなる三日半前に書かれた手紙が紹介されてあった。卒業生の機関紙という『公』に発表された文章なので、かつ、人類の遺産なので勝手にこのブログにも一部引用。

【念仏者が繰り返し法難を受ける時は、逆に、真宗が民衆の中に興隆している時にかぎってのことなのです。なぜなら、
 一、阿弥陀如来の摂取不捨(えらばず・きらわず・見すてず)の本願を、その本願こそ真実とえらび取った念仏者は、その阿弥陀如来の本願によってひらかれた国、浄土を我が本国、故郷として、ここにあって自覚し、自証しながら、四海の内みな兄弟として出会いながら、ねんごろな交わりを開くことをよろこびとするからです。
 しかし現実は、民族問題にしても、民族内問題にしても、とくに日本民族は天皇を中心とする差別的な血統信仰を根づよく伝統してきていますから、その阿弥陀如来を中心とする平等思想を容易に受けいれることができません。そのため念仏者は迫害排除されてきた歴史があります。こういう中で、あえて「念仏のみぞまこと」と言いきれば首が飛びます。それが法難の歴史であり真宗興隆の歴史です。
 二、安楽房は後鳥羽上皇に直接、念仏者を迫害し念仏を誹謗されるのに対して、回心懺悔されることをすすめ、六条河原で断首されています。
 しかし、その後鳥羽上皇は安楽房のいのちがけの念仏のすすめにより、のちに隠岐に流されて後、念仏者となり、無常講式を作り、念仏者を讃嘆しています。それが蓮如上人の白骨のお文にもなっています。
 門徒は、絶対の権力をもつ天皇も阿弥陀仏の本願真実、浄土真実に背ききることはできず、必ずその本願真実、浄土真実に信順するほかないことを充分にうけとめていたといえます。
 この伝統こそ、法難を逆縁として真宗が興隆することを証明しています。
 三、流罪の教団、流罪の聖人を口にすることは、ながい間禁句でした。それを禁句でなくタブーでなく、逆に流罪の教団だからこそ真宗を興隆するパワーを宿していることを是非公にして下さい。】(竹中智秀『青草第195号』より)

 引用文を書きながら、

【たとい、かの聖教を山野にすつ、というとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくわれて、ことごとくその益をうべし。】(口伝鈔より)

 という言葉を思いだし、「どこに書いてあったかな?」と探す。

 仏法の私有化、仏法を私個人の都合の為の道具にする。相手に『勝つ為』の道具にしてしまっている。
 でも、引用の先生達の言葉を紹介出来るだけでもエエか。

 生實先生(旧姓・柴田先生)の文章を読んでて「シバっちは変わってないのぉ」なんぞと思ったりする。
 私も、きっと変わっていない。変わらず「文句あったら殺すぞ」である。