坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

明日のれじめ

2009年02月23日 | 坊主の家計簿
 2月23日

 雑費  薬局諸々    1784円
     回数券     3700円
     ドグマグ    3100円?
     タクシー    5050円
 外食  かけ小      105円
     ラーメン焼き飯  787円

 合計         15471円
 2月累計       99240円

 休み♪
 行きたい学習会があったのだが、朝起きて夕方に又寝てたら行きそびれる。
 んで、ドグマグ→タンガ→ドクマグで飲んでて、最後のドグマグで話し込んで終電終了。よってタクシーで帰宅。今から寝ます。

 ついでに明日のレジメを貼っとこ。

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   かなしきかなや道俗の
   良時吉日えらばしめ
   天神地祇をあがめつつ
   卜占祭祀つとめとす

  @意訳

【悲しいことには出家者も在家も日時の善悪吉凶を選び、天地の神祇を崇拝して禍を避け福を求め、卜筮や祭祀を専らとしている】(岩波文庫『親鸞和讃集』P204より。)

  @語句の意味

 1 天神地祇

 天神・・・天津神(ヤマト王朝の神々。)
 地祇・・・国津神(ヤマト王朝に平定された神々。)
 あわせて『神祇』という。
 また、
【天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり】(浄土和讃)
 である。

 善鬼神・・・仏法を守護する
 悪鬼神・・・国土人畜に害をもたらす
 (真宗新辞典P95より)

【(四教儀集解)神智法師(従義)釈して云わく、餓鬼道は、常に飢えたるを「餓」と曰う、「鬼」の言は尸に帰す。『子』の曰わく、「古は人死と名づく、帰人とす。また天神を「鬼」と云う、地神を「祇」と曰うなり。」乃至 形あるいは人に似たり、あるいは獣等のごとし。心正直ならざれば、名づけて「諂誑」とす、と。】(P397より
 
 尸・・・屍(しかばね)
 諂(へつらう)誑(たぶらかす)。読み方は『てんおう』

【(往生要集)源信、『止観』に依って云わく、魔は煩悩に依って菩提を妨ぐるなり。鬼は悪病を起こす、命根を奪う。已上】(P398より)

【『教行信証(化身土末巻)』において、聖人は多くの経・論・釈から引文して、仏教にあらざる外教として「鬼・神・魔」の俗信をあげておられます。それは禍福をえらばずにおれぬ人間の弱さにつけこんで人を脅かし、誑し、惑わせ、それによって人をして怖れしめ、へつらわせ、祭祀に奔命させて、ついに「生きる屍」と化してしまいます。それは仏道を歩み菩提を求めようとする心を障えるゆえに、聖人は「邪偽の異執」と断じておられます。
 ところで、経・論・釈から引かれたこれら「鬼・神・魔」は、もともとインド民族・中国民族の俗信であって、日本人のそれではありません。それにもかかわらず聖人がそれらの俗信にただならぬ関心を寄せられるのは、日本人の現実の上にその姿を見られたからです。では、日本人の「鬼・神・魔」とは何か。それは「良時吉日えらばしめ 天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)をあがめつつ 卜占祭祀(うら・まつり・はらえ)つとめとす」るような、日本古来の「霊の信仰」と外来の俗信とをつきまぜた、当時の習俗宗教にほかなりません。】(和田稠『信の回復』P124~125より)


 2 道俗
 
 道・・・出家
 俗・・・在家
 
 利他・・・他を利すること(真宗新辞典P506より)

【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。「お布施が安いとうかばれんぞ」、というのは完全に支配です。宗教に専門的に関わっているものがもつところの支配権です。
 そういう点でいえば「余道に事うる」とか「天を拝す」とか「鬼神を祀る」というような問題も、個人だけの目で見れば、そうとやかく問題にならないかと思うんですけど、鬼神を祀るにしろ、天を拝するにしろ、それぞれの専門家の存在があるということです。その専門家への布施によって、その行為は成り立っている。より多くの利他を引き出すために専門家がある。その専門家に布施供養することによって、そこから利益を引きだすという宗教構造だろうと思います。そうすると、専門外の人々は布施をすることで、先ほど言いました収奪の問題、専門家のあり方次第によってはどんな利益がでてくるかという、そういう支配される関係を結ばざるをえません。そして、その宗教が回向利益という構造にある場合は、収奪・支配の関係をまぬがれません。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P81~82より)

【法然は回向を必要とし、それによって利益を引きだしていくような宗教構造全体を切られたわけです。それが不回向です。我われの方からの回向というあり方を切られた。それは教理的にも大きな問題がありますし、同時に民衆のあり方、専門家のあり方まで変えるものだったのです。ですから、回向・不回向という対立する、この表現はすさまじいものであったと考えます。民衆のあり方や、専門家のあり方まで変えるのに十分な力をもっている。それが法然のはたされた思想的な一大事業であったかと思います。回向・不回向という違いをたてられたところに法然の事業があったといえます。
 そういうことを親鸞は「化身土」ということで問題にされています。そして、具体的にはあらゆる宗教は利他を表し、それが化身として実体化されることで回向の宗教は成立するとみられます。そして、化身である限り、回向ということが必要とされる。そこにそれを専門にする者と民衆という図式ができあがる。また、それが化身である限りにおいては、民衆と専門家の間には収奪の関係、同時に支配の関係が必然的についてまわる。
 このように化身(利他性)、利益の構造を基礎づける、民衆からの回向を必要としないといった場合において、なお回向ということがありうるなら、それは如来からの回向にほかならないと親鸞は捉えます。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P83~84より)

【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、あるいは教団の命脈を保とうとしてきたといわなければならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはだしい生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P7より)

【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P17より)

【大谷派教団では、門首制と、「門徒はすべて帰敬式を受けて」という、この二つが新しい宗憲の柱なのです。「門徒はすべて帰敬式を受けよう」、ということは、本当に画期的な意味をもつわけです。(中略)
 私は直接確かめてはいないのですが、大谷派の参議会から声が挙がって、「百万人帰敬式運動」ということが始まっているというのです。百万人の門徒の人が帰敬式を受けられたら、日本は変わるでしょう。門徒の人たちの声が上がって、百万人帰敬式運動が始まるということであれば、すばらしいことです。そうすると、住職さんは段々と仕事がなくなるかもしれません。「逮夜参りはもう結構です、私たちでお内仏のお勤めをします」ということになるのではないでしょうか。本来そういうことだったのが門徒の行儀なのです。
 門徒の行儀として蓮如上人の時からずっと大事に伝統されたのが、在家勤行なのです。お内仏の前で、家族そろって毎日朝夕の勤行をしていたのです。生活にまでなっていくわけです。聞法が一つの生活を作り出すというのが、お内仏のお勤めということです。これは門徒の行儀なのです。しかし、それが江戸時代以来の檀家制度の中で崩れていったのです。
 それが、今度、「門徒はすべて帰敬式を受けて欲しい」として、百万人帰敬式運動ということが始まっていくというのは、これは本当に宗門が再生していくチャンスです。】(竹中智秀『浄土を本国としてこの世を生きる』P143~145より)


  
  @所感

 和讃に『道俗』とある。親鸞は『非僧非俗愚禿釈』である。


 
  @超訳

 悲しい事に友たちは
 『僧』は高慢『俗』は卑下
 煩悩具足の名告りなく
 己の死臭に気づけない