坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

いちょう通信

2008年10月25日 | 坊主の家計簿
 10月25日

 外食  ラーメン          409円
 食類  諸々            368円
     無洗米          1680円
     野菜ジュース6      1068円
     ノンフライ麺5       298円
 
 合計               3823円
 10月累計          111725円

 所属寺での学習会だったのだが、別件もあったし、少し熱っぽいので今日はサボリ。

 秋である。食欲の秋であり、読書の秋であり、両方が合わさってメタボの秋でもある。10月も末になって来て、「紅葉はまだかな?」みたいな会話もする。
 『こうよう』と打ち込むと『紅葉』と出て来る。
 『もみじ』と打ち込んでも『紅葉』と出て来る。
 どうやら『もみじ』は『こうよう』が存在意義であると日本語文化圏では思われているのだろう。
 
 『こうよう』しなくても『もみじ』は『もみじ』でしかない。
 けど、『もみじ』は『こうよう』を求められる。

 『いちょう』と打ち込むと『銀杏』と出て来る。
 『ぎんなん』と打ち込むと『茶碗蒸し』と出て来る。え~。。。違う、『銀杏』と出て来る。
 どうやら、『いちょう』は『ぎんなん』としての存在意義を与えられているのかも知れない。まあ、私にとっては『茶碗蒸し』なんだが。『ぎんなん』なんぞは茶碗蒸しに入ってなかったら食べんぞ。茶碗蒸しに入っているから、「せっかくやし」と云う事で食べるが、あんなもんは喰わんぞ。
 っちゅう事で、私にとっての『ぎんなん』の存在意義は茶碗蒸しの中でしか与えられない。「焼いて喰うたら美味い」とかいう人も居て、死んだ爺ちゃんなんかも『ぎんなん』を焼いて食べてたが、私は認めん。断固として認めん。『ぎんなん』とは茶碗蒸しの中で初めて存在意義を持つのだ。

 というのは、当然、ワガママでしかない。
 『こうよう』していない『もみじ』も、『ぎんなん』が実ってない『いちょう』も存在している。
 茶碗蒸し以外の食べ方も『ぎんなん』にはあるのだろうし、それ以前に、『ぎんなん』は人間に食べられる為に存在しているわけではない。
 勝手に決めつけているだけの話でしかない。
 
 『花』と勝手に呼んでいる状態の植物は、別に人の眼を楽します為に存在しているわけではない。仏壇や、墓地に供える為の『生け贄』の為に存在しているわけではない。

 『もみじ』も、『いちょう』も、それぞれがそれぞれに存在している。
 『花』が咲かなくとも『桜』は『桜』でしかない。
 それを見出せないだけの話である。

 人はどうなんだろうか?
 『利用価値』という言葉を思いつく。
 当然、判断するのは『私』でしかない。あくまでも『私』にとっての利用価値にしか過ぎない。私にとって利用価値が『ある』『ない』の話にしか過ぎない。

 「私なんて、どうなってもイイの!」
 と、自分自身の存在価値を見失った状態の人は叫ぶ。

 娑婆世間では『もみじ』は『こうよう』であり、『いちょう』は『ぎんなん』である。
 そういう中で、私(達)は苦しめられる。
 『私』という自分自身の存在が、自分自身が決めつけている価値判断でもって苦しめられている。つまり、『私』は何かの利用価値があるが故に初めて価値を認められる存在であると、『思い込んでいる』。偏見でもって『思い込んでいる』。

 『こうよう』でなくとも『もみじ』は『もみじ』でしかない。
 同じく『いちょう』は『いちょう』でしかない。
 『いちょう』はきっとこう云いたいのではないかと勝手に思う。

 「金メダルを取らなくても私は私でしかない!」
 
 って。
 あ、これはアマレスの『伊調馨』か。

 え~。。。寝よ。