10月30日
雑費 ワイン 350円
居酒屋 6840円
合計 7190円
10月累計 140623円
所用で外出。
なので、小西真奈美タン主演『小児医療』は録画で観る。
しゃて、第三話なり。
『親が居てても子は育つ』
とは、とある人から教えて頂いて、結構気に入って居る。
そりゃ、そうである。親が居なければ子どもは産まれないが、育つ環境の中では『親が居てても子は育つ』でしかない。事実として、親が居なくとも育っている人達がいるのだから。
でも、「子どもには父性と母性が必要なんです」等という人も居る。全く事実を無視した幻想の世界を先に立てる方々も多い。
真奈美タンもその被害者であった。まあ、『真奈美タン』っちゅうか、テレビドラマ『小児医療』の主人公なんだが、面倒なので『真奈美タン』で通すが。
子どもの頃に両親が離婚したり、あるいは両親が亡くなったり、あるいは最初から孤児だったりする人達も居ている。事実居て、生きて居られる。
だが、今回の『小児医療』もそうなんだが、『親からの愛情』っちゅうもんを全面に打ち出し、『親からの愛情』を受けないと子どもは『育たない』みたいな事を云う人も居る。
今回出て来た女の子もそうだったし、真奈美タンが子どもの頃もそうだったみたいである。親からの愛情を受けたいが、受けれないが故に悩み苦しむ。
苦しめばエエのに。
と、単純に思う。今回出て来た女の子は、真奈美タンとの出会いがなければ、きっとグレるだろう。
グレればエエのに。
単純な話である。グレて不良になって、自分と同じ若かりし時から『苦』に出会い、『苦』と格闘する人達との交流を深めればエエのに。まあ、PTAとか、夜回り先生からは付け狙われるだろうが、グレればエエ。それも人生である。
だが、単純に思うのだが、ある程度の年齢に達すると、つまり、『自我』なんぞが芽生える時ぐらいからは、その『親の愛情』なんちゅうのも比較になっていないか?
「周りの家族には親が揃っているのに。。。」とか、
「私の親は私に対する愛情が足りない」なんぞと。
真奈美タンは、親からの愛情不足でもって、子どもの頃に自殺を考えたらしい。自殺を考えられるのは立派な自我である。自我があるが故に自殺なんぞを考えられる。
真奈美タンは今でもそうなんだが、周囲が見えていない。その親がどれだけ苦労しているのかが、全く見えていない。
今回出て来た少女も同じであって、やはり真奈美タンと同じく、親からの愛情不足で自殺を考えたらしいが、両親は忙しく働いて居る。両親とも、忙しく働いて居る。なぜ、その『忙しく働いて居る姿』を見ようとしないのか?
当然、ガキには難しい事なんだと思う。故に、単純に「寂しいから、私に注目して!」という事なのかも知れない。
んが、やはり、それだけでない気がする。やはり周囲との比較があるのではないのか?
「○○さん家は、毎日一緒に晩御飯を食べるのに、私は何時も1人で食べる」
なんぞと。
当然、そういう外との比較をしてしまうのが私(達)なのであり、その比較がある現状であるが故に、その比較の中で悩んだり、孤独感が強まったりする。
「外の人達は愛情に包まれた生活をしているのに、なんで私だけ。。。」
である。
テレビドラマ『小児医療』は、あくまでもテレビドラマである。が、『テレビ』というマスメディアを通じて今回も『親からの愛情の大切さ』なんぞの偏見を再生産している。
当然、そういうのが現状であるのだろうが、事実として親からの愛情がなくても生きている人達は沢山居ているし、また、今日の豊かな日本の中で、『親からの愛情が足りない』人達にとって、今回のテレビドラマはどうだったのだろうか?夜の21時過ぎに、まだ両親とも仕事で忙しく帰宅出来ずに、1人で晩御飯を食べている少女が今回のテレビドラマを見たらどういう感情を抱くのだろうか?
『家庭』っちゅうのは様々な形がある。当然である。両親が揃ってなくとも家庭であり、両親が忙しく働いていて『親からの愛情』が足りなくとも家庭である。
一人暮らしでも、家庭である。
家庭に決められた形なんぞない。
勝手に『健康な家庭の姿』なんぞを決められる権限を持つ人はいない。
その、誰かが勝手に決めたであろう『健康な家庭の姿』という妄想によって、「私の所はそれに当てはまらない」なんぞという、妄想の被害者を再生産する必要もないだろうに。
現実に、そういう妄想の被害者は、別に『健康な家庭』だけでなく、その事柄、例えば「私は負け組だ。。。」なんぞも含めて多く居る事だと思うし、そういう人達に対する『応急処置』は当然必要不可欠な事だとは思うが、応急処置だけで終わるのなら、被害者は次から次へと再生産されて行くばかりである。
雑費 ワイン 350円
居酒屋 6840円
合計 7190円
10月累計 140623円
所用で外出。
なので、小西真奈美タン主演『小児医療』は録画で観る。
しゃて、第三話なり。
『親が居てても子は育つ』
とは、とある人から教えて頂いて、結構気に入って居る。
そりゃ、そうである。親が居なければ子どもは産まれないが、育つ環境の中では『親が居てても子は育つ』でしかない。事実として、親が居なくとも育っている人達がいるのだから。
でも、「子どもには父性と母性が必要なんです」等という人も居る。全く事実を無視した幻想の世界を先に立てる方々も多い。
真奈美タンもその被害者であった。まあ、『真奈美タン』っちゅうか、テレビドラマ『小児医療』の主人公なんだが、面倒なので『真奈美タン』で通すが。
子どもの頃に両親が離婚したり、あるいは両親が亡くなったり、あるいは最初から孤児だったりする人達も居ている。事実居て、生きて居られる。
だが、今回の『小児医療』もそうなんだが、『親からの愛情』っちゅうもんを全面に打ち出し、『親からの愛情』を受けないと子どもは『育たない』みたいな事を云う人も居る。
今回出て来た女の子もそうだったし、真奈美タンが子どもの頃もそうだったみたいである。親からの愛情を受けたいが、受けれないが故に悩み苦しむ。
苦しめばエエのに。
と、単純に思う。今回出て来た女の子は、真奈美タンとの出会いがなければ、きっとグレるだろう。
グレればエエのに。
単純な話である。グレて不良になって、自分と同じ若かりし時から『苦』に出会い、『苦』と格闘する人達との交流を深めればエエのに。まあ、PTAとか、夜回り先生からは付け狙われるだろうが、グレればエエ。それも人生である。
だが、単純に思うのだが、ある程度の年齢に達すると、つまり、『自我』なんぞが芽生える時ぐらいからは、その『親の愛情』なんちゅうのも比較になっていないか?
「周りの家族には親が揃っているのに。。。」とか、
「私の親は私に対する愛情が足りない」なんぞと。
真奈美タンは、親からの愛情不足でもって、子どもの頃に自殺を考えたらしい。自殺を考えられるのは立派な自我である。自我があるが故に自殺なんぞを考えられる。
真奈美タンは今でもそうなんだが、周囲が見えていない。その親がどれだけ苦労しているのかが、全く見えていない。
今回出て来た少女も同じであって、やはり真奈美タンと同じく、親からの愛情不足で自殺を考えたらしいが、両親は忙しく働いて居る。両親とも、忙しく働いて居る。なぜ、その『忙しく働いて居る姿』を見ようとしないのか?
当然、ガキには難しい事なんだと思う。故に、単純に「寂しいから、私に注目して!」という事なのかも知れない。
んが、やはり、それだけでない気がする。やはり周囲との比較があるのではないのか?
「○○さん家は、毎日一緒に晩御飯を食べるのに、私は何時も1人で食べる」
なんぞと。
当然、そういう外との比較をしてしまうのが私(達)なのであり、その比較がある現状であるが故に、その比較の中で悩んだり、孤独感が強まったりする。
「外の人達は愛情に包まれた生活をしているのに、なんで私だけ。。。」
である。
テレビドラマ『小児医療』は、あくまでもテレビドラマである。が、『テレビ』というマスメディアを通じて今回も『親からの愛情の大切さ』なんぞの偏見を再生産している。
当然、そういうのが現状であるのだろうが、事実として親からの愛情がなくても生きている人達は沢山居ているし、また、今日の豊かな日本の中で、『親からの愛情が足りない』人達にとって、今回のテレビドラマはどうだったのだろうか?夜の21時過ぎに、まだ両親とも仕事で忙しく帰宅出来ずに、1人で晩御飯を食べている少女が今回のテレビドラマを見たらどういう感情を抱くのだろうか?
『家庭』っちゅうのは様々な形がある。当然である。両親が揃ってなくとも家庭であり、両親が忙しく働いていて『親からの愛情』が足りなくとも家庭である。
一人暮らしでも、家庭である。
家庭に決められた形なんぞない。
勝手に『健康な家庭の姿』なんぞを決められる権限を持つ人はいない。
その、誰かが勝手に決めたであろう『健康な家庭の姿』という妄想によって、「私の所はそれに当てはまらない」なんぞという、妄想の被害者を再生産する必要もないだろうに。
現実に、そういう妄想の被害者は、別に『健康な家庭』だけでなく、その事柄、例えば「私は負け組だ。。。」なんぞも含めて多く居る事だと思うし、そういう人達に対する『応急処置』は当然必要不可欠な事だとは思うが、応急処置だけで終わるのなら、被害者は次から次へと再生産されて行くばかりである。
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