10月11日
雑費 交通費 540円?
土産焼酎&水 2028円
チーズバーガー 120円
外食 ラーメン 690円
合計 3378円
10月累計 66838円
休み♪
なんだが、夕方より所属寺の報恩講に行く。当然、昼の部もあるのだが、「なんで久々の休みの日に朝から外出せなアカンねん」っちゅう事で行かない。日々の仕事なら体調が悪かろうが熱があろうが「仕事でっせ」っちゅう事で行くが、仕事でない以上は自由意志なので行きたくなければ行くわけがない。まあ、夕方からなら完璧に気分は「お休み♪」だし、報恩講なので行く。
で、当然の事ながら真宗寺院なので夜は酒を飲み、っちゅうか、自分で買って行った焼酎を飲んで、結構、酔っぱらってまふ。
で、帰宅してビックリ。
なんと、なんと、フルハム三浦、ちゃうわ、三浦和義氏が自殺したらしい。当然、今現時点での報道であり、真相は解らないのだが。
自殺、っちゅうのは、死であると同時に殺人でもある。え~。。。私は『心優しい教』に入信していないので『殺人』とも書く。
ある意味、精神的な自然死でもあるのだろうが、やっぱり殺人でもある。
三浦氏が自殺であったのかどうかは解らないが、現時点報道されている段階ではそうなのかも知れない。
だが、自殺であろうが、他殺であろうが、死には変わりはない。人間は死ぬ存在であり、殺す側にもやはり何らかの悲しい事情があり、何かに追いつめられた事情があり、そして殺すのだろう。
『殺す』と云う事を他人事にする。簡単である。「殺したのは私ではない」と。当然、私ではないのだが、でも、一緒に生きているのではないのか?この世に、一緒に生きているのではないのか?当然、それが故に殺すのはおかしいし、殺されるのはイヤに決まっているのだが、だからといって『殺した人』を他人事にして、「悪いヤツ」、あるいは自殺した人を「弱いヤツ」と決めつけるだけで終わらせるのもどうなのだろうか?
あえて、問題を『自分を殺す』だけに絞る。いや、結局、同じなんだが、都合の悪い存在は殺すのだ。
裏にあるのは、裏側の幻想は何?何を目指しているのか?
何を目指した上での幻想なのか?何を目指した上での『夢』なのか?
当然、夢も幻想もなくなるわけがない。
世の中には様々な意見の人達が居る。当然である。60億人の人達が居れば、60億の考え方がある。
その中で私の考え方がある。違って当然である。
んが、その違いを「いや~、そうでんな」なら、違いが違いにならない。なり得るわけがない。当り前である。違う意見に賛同しているわけなんだから。
例えば、ある限定された条件なんだろうが、原爆の話がある。人間がおこした最大の大量虐殺の話でもあるのだが、違う見方をすれば日本が植民地支配していた人達の解放の為でもある。
だが、『解放』という大義名分によって、人類が殺人を犯して来た、つまり日本が朝鮮半島を『解放』という名目によって虐殺をしてきたのと同じく、原爆によって虐殺されただけの話である。
見方が違えば『解放』なんだろうが、その解放とは虐殺である。その解放を純粋に喜ぶのは、日本が植民地下で虐殺という解放をしたのと何ら変わりがない。
最近の流行は『自虐史観』とでもいうのだろうが、別に日本だけが虐殺をしたわけでもない。当り前である。それが『戦争』なんだから。
「日本軍はそんなに酷い事をしていない」
っちゅうのは、自分がキレイな存在に居たいだけの話なんだろうし、その逆に、
「日本だけが酷い事をした」
っちゅうのも同じである。
「私って、こんなに悪い子」
「私って、こんなによゐこ」
も変わらん。
決して、等身大ではない。
よゐこも、悪い子もない。人間は人間なのだ。
縁、っちゅうか、その場のその人であるのなら、間違いなく虐殺もしてしまうのが人間なのだ。
『同じ人間』とよくいうが、『同じ人間』なら、東條英機氏だろうが、宅間氏であろうが、マザーテレサであろうが、『同じ人間』でしかないのだ。
虐殺を肯定するのは、植民地支配から解放された人達も、植民地した人達も何ら変わる事がない。
それが人間でしかない。
それが、悲しい、非常に悲しい、人間でしかない。
「自分さえよければイイ」
「自分(達)さえよければイイ」
と、あくまでも、自分中心の考え方中心にしか他ならない。
当然、自分中心の考え方なんぞなくなるわけがない。
いや、無くすのは簡単である。自分を殺せばイイ。他人の考え方に合わす事によって自分を殺せばイイ。
自分を殺し、相手を殺しているのが、『都合』であり、わがままでしかない。当然、そんな事はなくなるわけもない。煩悩がなくなるわけもない。
都合が悪ければ相手や、自分を殺してしまうのが人間である。
でも、それが人間同士でんがな。
誰も裁く事は出来ない人間同士でんなが。
雑費 交通費 540円?
土産焼酎&水 2028円
チーズバーガー 120円
外食 ラーメン 690円
合計 3378円
10月累計 66838円
休み♪
なんだが、夕方より所属寺の報恩講に行く。当然、昼の部もあるのだが、「なんで久々の休みの日に朝から外出せなアカンねん」っちゅう事で行かない。日々の仕事なら体調が悪かろうが熱があろうが「仕事でっせ」っちゅう事で行くが、仕事でない以上は自由意志なので行きたくなければ行くわけがない。まあ、夕方からなら完璧に気分は「お休み♪」だし、報恩講なので行く。
で、当然の事ながら真宗寺院なので夜は酒を飲み、っちゅうか、自分で買って行った焼酎を飲んで、結構、酔っぱらってまふ。
で、帰宅してビックリ。
なんと、なんと、フルハム三浦、ちゃうわ、三浦和義氏が自殺したらしい。当然、今現時点での報道であり、真相は解らないのだが。
自殺、っちゅうのは、死であると同時に殺人でもある。え~。。。私は『心優しい教』に入信していないので『殺人』とも書く。
ある意味、精神的な自然死でもあるのだろうが、やっぱり殺人でもある。
三浦氏が自殺であったのかどうかは解らないが、現時点報道されている段階ではそうなのかも知れない。
だが、自殺であろうが、他殺であろうが、死には変わりはない。人間は死ぬ存在であり、殺す側にもやはり何らかの悲しい事情があり、何かに追いつめられた事情があり、そして殺すのだろう。
『殺す』と云う事を他人事にする。簡単である。「殺したのは私ではない」と。当然、私ではないのだが、でも、一緒に生きているのではないのか?この世に、一緒に生きているのではないのか?当然、それが故に殺すのはおかしいし、殺されるのはイヤに決まっているのだが、だからといって『殺した人』を他人事にして、「悪いヤツ」、あるいは自殺した人を「弱いヤツ」と決めつけるだけで終わらせるのもどうなのだろうか?
あえて、問題を『自分を殺す』だけに絞る。いや、結局、同じなんだが、都合の悪い存在は殺すのだ。
裏にあるのは、裏側の幻想は何?何を目指しているのか?
何を目指した上での幻想なのか?何を目指した上での『夢』なのか?
当然、夢も幻想もなくなるわけがない。
世の中には様々な意見の人達が居る。当然である。60億人の人達が居れば、60億の考え方がある。
その中で私の考え方がある。違って当然である。
んが、その違いを「いや~、そうでんな」なら、違いが違いにならない。なり得るわけがない。当り前である。違う意見に賛同しているわけなんだから。
例えば、ある限定された条件なんだろうが、原爆の話がある。人間がおこした最大の大量虐殺の話でもあるのだが、違う見方をすれば日本が植民地支配していた人達の解放の為でもある。
だが、『解放』という大義名分によって、人類が殺人を犯して来た、つまり日本が朝鮮半島を『解放』という名目によって虐殺をしてきたのと同じく、原爆によって虐殺されただけの話である。
見方が違えば『解放』なんだろうが、その解放とは虐殺である。その解放を純粋に喜ぶのは、日本が植民地下で虐殺という解放をしたのと何ら変わりがない。
最近の流行は『自虐史観』とでもいうのだろうが、別に日本だけが虐殺をしたわけでもない。当り前である。それが『戦争』なんだから。
「日本軍はそんなに酷い事をしていない」
っちゅうのは、自分がキレイな存在に居たいだけの話なんだろうし、その逆に、
「日本だけが酷い事をした」
っちゅうのも同じである。
「私って、こんなに悪い子」
「私って、こんなによゐこ」
も変わらん。
決して、等身大ではない。
よゐこも、悪い子もない。人間は人間なのだ。
縁、っちゅうか、その場のその人であるのなら、間違いなく虐殺もしてしまうのが人間なのだ。
『同じ人間』とよくいうが、『同じ人間』なら、東條英機氏だろうが、宅間氏であろうが、マザーテレサであろうが、『同じ人間』でしかないのだ。
虐殺を肯定するのは、植民地支配から解放された人達も、植民地した人達も何ら変わる事がない。
それが人間でしかない。
それが、悲しい、非常に悲しい、人間でしかない。
「自分さえよければイイ」
「自分(達)さえよければイイ」
と、あくまでも、自分中心の考え方中心にしか他ならない。
当然、自分中心の考え方なんぞなくなるわけがない。
いや、無くすのは簡単である。自分を殺せばイイ。他人の考え方に合わす事によって自分を殺せばイイ。
自分を殺し、相手を殺しているのが、『都合』であり、わがままでしかない。当然、そんな事はなくなるわけもない。煩悩がなくなるわけもない。
都合が悪ければ相手や、自分を殺してしまうのが人間である。
でも、それが人間同士でんがな。
誰も裁く事は出来ない人間同士でんなが。