坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『小児医療』第二話

2008年10月23日 | 坊主の家計簿
 10月23日

 食類  かに飯&海鮮       300円
 
 合計               300円
 10月累計         103307円

 あまり有名な話ではないのだが、多くのお寺は年中無休24時間営業であったりする。
 一応、休みもある。例えば31日なんぞもそうである。31日は2ヶ月に1回ぐらいしかないので、多くの寺は『基本』休みである。だが、当然、『基本』でしかない。年末年始も休みにしている所が多いだろうが、それもあくまで『基本』でしかない。基本は基本なので、緊急時には関係ない。
 緊急時、つまり、どなたかが亡くなられた時には関係ない。正月だろうが、休みの日であろうが関係ない。当り前である。亡くなられる方が日時を選べないのと同じ様に、それに関わる私たちも同じである。
 だが、まあ、私は住職ではないので、結構しっかりと休ませて貰って居るのだが、住職達の話を聞くと「旅行に行っててもすぐに帰ってこなあかん時もある」なんぞと大変みたいである。

 年中無休24時間営業が寺の実態であっても、現状はそこまで仕事がないが故に目立たないだけの話である。また、深夜に亡くなられても朝まで待つ方も多く、早朝に連絡がある場合もあるが、それでも夜中に飲んでいる先輩住職が寺から連絡があり、急いで大量の水を飲んで急いで寺に帰られる場面も見たことがある。
 あとは、目立つか目立たないかの差である。

 目立つか、目立たないか。
 つまり、有名であるか、無名であるかの違いだけである。

 真奈美タンの病院は24時間体制の小児科病院であるらしい。当然、深夜は手薄だし、必要不可欠な病院である事には間違いがないのだが、なにかそういう病院にばかり眼が行く。昼間に頑張られておられる病院が多くあり、その病院も真奈美タンの病院と同じく必要不可欠な病院であるにも関わらず。

 寺にも同じ事が云える。
 多くの寺は基本24時間体制である。だが、現状は小さな寺が多く、24時間稼働していない。稼働していない事をあげつらって「あの寺はサボっている」等と云う権利は誰にもない。
 大きな寺なら、大きな寺なりの仕事があり、その現場で頑張っておられるだけであって、それが小さな寺であっても同じである。大きな寺で様々な行事が出来る寺は有名になるのだろうが、小さな寺で、例えば兼業をしながらも、それでも御自分たち『門徒集団』の寺を守っておられる方も居られる。目立つ事はないが、それでも頑張っておられる方々も居られる。
 ある意味、大きな寺は目立ちやすい。小さな寺は目立ち難い。
 そういう現状の中で、「何もしていない坊主」等と云える様な権限を持つ、そういう判断を出来る人は、そういう特権意識、差別意識を持つ事が出来る権限を与えられた人は居ない。居るならばそれは正真正銘の確信的差別者である。

 『寺』という組織、あるいは『教団』という組織は無名の人達の支えがなければ成り立つ事が出来ない。
 法要でも、寺の行事でも同じである。あえて『無名』と書いたが、それぞれに名前を持つ、それぞれの人達の存在なくして法要も、行事も出来ない。それどころか、寺の維持も、教団の維持も出来ない。

 さて、クイズです。
 「大阪城を造った人は誰でしょう?」
 大阪城を造ったのは豊臣秀吉だけではない。無名の多くの大工さんであり、多くの肉体労働をした方々も居られる。
 しかし、大阪城を造った人は豊臣秀吉だけになっている。それは無名の人達を無視する思想である。今は単にそういう思想がはびこっているだけの話である。当然、昔からの事なんだろうが、今も変わらずはびこっている。
 それでも人は生き、そしてそれぞれの人生を歩み、そして死んで行く。
 その中に差は一切ない。あるのは人間の主観、つまり偏見でしかない。

 多くの『無名』と呼ばれる方々を無視する思想を私は悪魔の思想と呼ぶ。
 それぞれの人生を無視する発想方法を国家中心の国家に魂を売り渡した売国奴と呼ぶ。

 以前にも書いたが、ソウルフラワーの中川が阪神大震災の折に被災地を巡りながら『がんばろう』という労働歌に

 ♪がんばれる人は
 
 という歌詞を付け加えざるを得なかった。
 つまり

 ♪がんばろう
  がんばれる人は

 と、歌わざるを得なかった。
 それは中川が被災地で出会った人から感じた事である。
 頑張る事が出来ない縁にある人達との出会いの中から産まれて来た言葉が

 ♪がんばろう
  がんばれる人は

 である。
 『がんばろう!』という合い言葉が変わらず流行中である。しかし、その『頑張ろう』という言葉によって、「私は頑張る事が出来ない」という卑下し、鬱になる人達もいるのが、この世界の現状である。娑婆世間での社会貢献が『こころのノート』を筆頭に囁かれるが、そんなもんは、それぞれの人生でしかあり得ない。
 
 靖国の英霊以外にも、多くの戦死者は『日本国内』に限定しても居られる。英霊と無名である。
 『思い通り』と『思いの外』である。そして、『思いの外』が日々起る。
 また、いつまでも有頂天に居続ける事は無理である。当然の事ながら、『有頂天』は迷いの極致である。その有頂天からの発想方法でもって、人を斬り裁くのは如何なものであろうか?
 人間に人間を差別する権限は一切ない。
 どんな人間であっても差別される筋合いは一切ない。
 誰も、そんな権限を持ち得ない。
 持ち得るのは単なる煩悩である。
 煩悩=菩提ではない。
 煩悩→菩提である。
 煩悩が多ければ多い程、つまり差別意識が強ければ強い程、より強烈に菩提を願わずにはおられない。他人事でなく、求道する私の歩みとして願わずにおられない。

 私は目立ちたがり屋である。
 それが私の課題である。
 『無名』よりも『有名』になりたいのが私の実態である。
 だが、それでは『有名』である時、あるいは『有頂天』である時の私しか、私は私自身を私として認める事が出来ない。
 つまり
 「こういう時の私は好き」
 「こういう時の私はキライ」
 である。
 有頂天になり、その逆に「私なんて居なくてもイイんだ」になる。
 それは迷いであり、偏見でしかない。そんな権限が『迷い』の中に居続け、『偏見』しか持ち得ない私にあるわけがない。
 しかし、変わらず私は迷いの中、偏見の中にしか生きる事は出来ない。
 恐らく、私と同じく迷い、偏見の中でしか生きれない人達と何ら変わり得る事のない存在にしか過ぎない。全く平等の、全く対等の『差別者』として、存在しているにしか過ぎない。

 私は私に出来る事しか出来ない。
 私は私として生きる事しか出来ない。
 そして、今日も私は私として生きている。
 誰からも卑下される、差別される筋合いのない存在として生きている。
 ただ、その事を伝えたいだけである。