坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

トロトロ

2008年07月16日 | 坊主の家計簿
 7月16日

 諸々  たぬき蕎麦      240円
     オニオンサラダ    100円
     ごま油        198円
     中華ドレッシング   168円
     回数券(昨日)   3700円

 合計            4406円
 7月累計         64520円

 朝、帰宅。
 休みなので寝る。
 おお、素晴らしいぞ!延々と寝れるではないか!
 と云う事で、起きたら夜の10時過ぎ。
 パソコンを広げる(ノートパソコンなもんで)のも億劫だったのだが、なんせここは家計簿である。で、家計簿を数日放ったらかしにしておくと忘れる事もある。
 あ、そういや、昨日、回数券を買ってんや。付け加えんと。

 ちなみに以前も書いたと思うが、この『坊主の家計簿』には元ネタがある。その名も『武士の家計簿』というやつで、本でも売っている(http://www.shinchosha.co.jp/book/610005/)し、NHKでテレビにもなったらしい(http://www.nhk.or.jp/shiruraku/200607/thurseday.html)。ちなみに両方とも見ていない。けど、勝手に刺激を受けて、勝手に真似てるわけでんな。

 別に清貧でもなく、勤勉でもなく、ゴージャスでもなく、ただ単にある一人の坊さんの家計簿でんな。
 どうだ、坊さんに対する幻想が破れるだろうが(笑)
 今日のお坊さんは、一日中二日酔いで寝てました。よって、トロトロにトロけています。だって、休みやし~♪

フラフラ

2008年07月15日 | 坊主の家計簿
 7月15日

 諸々  のり弁        290円
     居酒屋       2400円
     ドグラマグラ    2300円
     漫画喫茶      1610円
 
 合計            6600円
 7月累計         60114円

 学習会。後に居酒屋。数人でタンガクラブへ。店を出ると結構エエ時間だったのだが、なんせ私は次の日が休みである。一応ツーリングに行こうと思っていたから早めに帰ろうと思っていたのだが、私は酔っぱらいである。気がつくと毎度のドグラマグラ。しかし、それでも終電で帰ろうと思っていたのだが、タマに会うクリスチャンの人と宗教談義。当然、終電ブッチ。え~。。。漫画喫茶で爆睡と。

ヘロヘロ

2008年07月14日 | 坊主の家計簿
 7月14日

 諸々 かけ小          105円
    サンダル        1000円
    ビザトースト       290円
    ファイバーブラン2    396円
    ケール青汁        698円
    大麦若葉青汁2      596円
    うこん         1480円
    ビタミンC        340円
    シークワーサー      598円
    おにぎり2        200円
    発泡酒          218円
    タンガクラブでビール   500円
    ドグラマグラ      1500円

 合計             7921円
 7月累計          53514円

 お買い物。&飲み。
 終電で帰って来たのだが、「ヘロヘロでござりまする。。。」と云う事で深夜番組を少し見て寝る。

『職業』と『身分』

2008年07月13日 | 坊主の家計簿
 7月13日

 雑費  短パン        1290円
 食類  ビール         288円
     野沢菜漬け       198円
     納豆           78円
     ビタシー10      480円
     茄子          188円
     トウモロコシ        1円
     うす揚げ          1円
     なたね油        128円
     ソーセージ       218円

 合計             2870円
 7月累計          45593円

 俺って、疲れてるよなぁ。。。っちゅうくらいに、今日も夕寝で爆睡。
 当り前なんだが、ストレスも溜まっとる。よって、明日は買い物と飲みに行きたい。っちゅう事で「赤松のボケ!」と叫びながら筆ペン練習。あ~。。。ようやく終わったけど、今回のテキストは厳しかったぞ。ヘロヘロやんけ。。。

 しかし、赤松は阪神に育てられた恩義を忘れたのか?っちゅうか、新井のFAの交換要員やってんな。。。よう頑張っとるやないかい。でも、新井のあの打球を捕るか?無茶苦茶ファインプレーやんけ。しかもエエ所で打つし。ホンマ、エエ選手になってもうたのぉ。。。嬉しいけど、残念や。ちょっと悔しいぞ。

 と云う事で、私は心的ストレス障害になってしまった。赤松ショックである。治療に一番良いのは赤松が来年阪神に再入団する事なんだが、ちょっと無理か。。。しゃーない。このストレス障害を抱えたままで生きていったろうやんけ。

 と、まあ、ホンマの心的ストレス障害の人に怒られそうな事を書いているのだが。。。

 記者「総理、今回の大分の教育委員会での不祥事に関してどういう風に御考えですか?」
 総理「おお痛ぁ。」

 と云う事で、大分である。何やら大変らしい。ついでにテレビコメンテーターの話を聞いていると「子ども達への影響が心配される」との事である。
 それはそうであろう。自分の担任が裏口で先生になった人なのだ。自分が尊敬する先生が賄賂を渡して不正受験して先生になったのだ。それが発覚すれば生徒は大きなショックであろう。。。
 って、なんでやねん。そんな事でショックを受けるか?だいたい義務教育の教師を『先生』として尊敬しているガキはいるのか?一応「ショックだと云った方がウケがいいから」ぐらいで、「え~ん。。。先生が、先生が」と嘘泣きぐらいは計算高いからするかも知れんが、そんなもんDSの新しいソフトでも買ってもらえばすぐに治るのではないのか?私ならハンバーグで治るぞ。いや、もうちょっと駄々をこねるかも知らんが。
 教育委員会や学校の先生達が逮捕されるというのは、ガキにとってはエエ教育ではないのか?
 え?「学校の先生を信じられなくなる」だと。最初から信じる方が『アホ』なのではないのか?義務教育でっせ、義務教育。義務教育の教師は、義務教育のカリキュラムの勉強さえ教えていればいいわけであって、それ以外の事は『どうでもエエ』のではないのか?不倫しようが、不正で教師になろうが、別にどうでもエエのではないのか?
 だいたい、義務教育の教師から「私は先生から人生にとって一番大切な事を教えて頂きました」等とは気持ち悪くないか?義務教育でっせ、義務教育。読み書きそろばん以外の『心のノート』なんぞは奴隷養成マニュアルでんがな。
 まあ、確かに『心のノート』を実践して、今まで以上の管理教育、つまり『よゐことしての国民』を作り上げるには義務教育の教師が不正で教師になっていたら困るのだろうが、今回の事件によって『教える側の先生も他の大人と同じく薄汚れた存在である』と云う事が解ってエエのではないのか?
 例えばでんな、教師が何か偉そうな事をいっても「そんな事云っても先生だって賄賂で先生になったんでしょ?」とやなぁ。素晴らしいではないか。
 「私がやった事ではないの。お母さんが勝手に私の事を思って賄賂を渡したの」と先生が云っても、生徒は「先生!他人のせいにしてはいけません!」とやなぁ。見事やないか。見事に『聖人君主』としての『教師』の崩壊でんな。ハッハッハッハ!

 で、子どものショック。そんな事で傷付く子どもが居るとは思えんが、まあ、傷ついたとしよう。なら、傷ついたままでエエのではないのか?
 「もう、大人なんか信じない」の、どこが傷ついているのだ?当り前の話ではないのか?子どもの頃は「30以上の大人を信じるな!」と誰だってパンクスではないのか?よく知らんが。
 「ショックで御飯が食べれない」のなら、食べなくてもエエではないか。そんなショックで食事が出来ないのなら食べなくてもエエではないか。引き蘢りになる、登校拒否になる。なればエエではないか。それも人生だろうが。
 別にガキを全く傷つかない安全な所に放り込むなんぞは無理だし、ガキの頃は散々殴り蹴り刺しあってやな、言葉の暴力で傷つけあってやな、それでタフになって『大人』っちゅうもんになって行くのではないのか?そんなタフになる力『生きる力』を奪ってどうする。奪っても、学校を卒業して社会に出れば裏口の世界でっせ。教師になるのに賄賂を渡さないといけない世界でっせ。
 
 「こんな世界は穢れている!」は、早いうちの方がエエ。早いうちに立派にグレて、不良になって、タフになった方がエエ。でないと大人になってヨソの家庭の不倫話しですら許されへんような大人しか出来ひん。たかが19歳のアイドルがタバコを吸ったぐらいで排除するような大人にしかならん。そういう大人はそのうちに「この非国民が!」と、たかが戦争に反対したぐらいで、国の方針に反対したぐらいで排除する大人にしかならん。あるいは、違う意見の持ち主を『敵』だの『保守』だの『国家の犬』だのとしか云えないような大人にしかなれん。自分の考え方だけが正しくて、あとの意見は全て「間違っている」と云う事に対して全く疑問を感じないような大人にしかなれん。かも知らん。よう解らん。まあ、それぞれの人生やし。
 まあ、ただ、『教師は聖人君主』であるとか、今日の報道では「子どもにとって教師は神様」とか云っていたが、私には理解出来ない。教師は単に『教師という仕事』なだけであって、決して神様でも聖人君主でもなんでもない。単なる仕事でんな。
 単なる仕事だから、当然、ヤクザや、会社員や、僧侶や、国会議員などとも同じ。単なる世間での役割分担での仕事でしかない。
 その仕事の中で賄賂を渡して試験に合格するのは当然おかしい。別に教師だけの話ではない。民間会社で入社試験がありながらも不正が行われていたらおかしいのと同じ。
 一応『公務員』として限定するのなら、自衛隊だろうが、警察だろうが、役所の人達と同じ。『教師だから特別』という発想自体が理解出来ない。
 で、こういう理解出来ない話が多い。
 「あなたは教育者だろう。そんな不正なんかして許されると思っているのか!」
 って、別に『教育者』である事は関係ない。
 
 教育者、つまり学校の先生だって援助交際する事もあるだろう。パンツを盗む事もあるだろう。でも、それは他の仕事についている人達と全く同じ『罪』のはず。
 ニュースキャスターがやる不倫は、他の人がやる不倫と同じはず。
 未成年のアイドルが吸う煙草は、未成年の工場労働者が吸う煙草と同じ。

 「○○だから」
 つまり、「聖人君主だから」、あるいは「僧侶だから」でもエエ。
 何か、自分達とは違って『特別な存在』というのはない。単なる仕事でしかない。その仕事での専門知識があるだけの話でしかない。
 人間としては全く対等な、平等な存在でしかない。
 もの凄く当り前な事なんだが、なんか忘れてないか?何時から『職業』は『身分』に逆戻りしたのだ?
 義務教育の教師は『仕事』である。
 当然、『仕事』といっても諸々あるし、その仕事での役割を求められる。
 今の私は『僧侶』という仕事だから、当然、『仕事』以外でも仕事上の相談は受ける事がある。それは別に『僧侶だから』という話ではなく、バーテン時代は店が終わっていてもバーテンとしての仕事上の話もする。
 教師も同じだろう。学校が終わっても教師としての仕事を求められる場合もあるだろう。でも、それだけ。他の役割分担上の他の仕事と全く同じ。
 職業に貴賤はない。当り前の話である。
 よって、『学校の先生だから』というのは、職業に貴賤を生じる発想でしかない。単なる職業差別でしかない。
 で、叩く。
 「先生らしくない振る舞い」だのなんだのと。
 では『水道工事職人らしい振る舞い』ってなんや(笑)

 多分、地方では『教師』とは『名士』であるのかも知れん。そういう風潮が残って居るのかも知れん。そっちがおかしくないか?平等ではないやん。平等の発想ではないやん。
 当然、その逆に、たかが義務教育の教師が偉そうにしてたら「お前は民主主義っちゅうもんが解っとるのか?」と批判すればイイ。「単なる仕事やろうが」と。
 当然、どんな仕事であっても、その職業に人生を捧げ、その職業に自信を持つ事は大切である。
 だから、学校の先生は、単なる『学校の先生』という職業でしかない。
 他の職業についておられる方が、仕事を離れても仕事上で得た経験と知識でもって何かしらの社会貢献をしている事も多くあるし、また、その仕事を辞められた後も、その仕事自体に関わった人間関係を大切にしておられる。それは別に珍しい話でもなんでもなく、別に学校の先生だけが特別な存在なわけでもない。

 まあ、でも、今回のような不正は決して大分だけでの話ではないと思う。
 っちゅう事は、ビビっている人達が多い、っちゅう事になる。
 っちゅう事は、これまた、警察、検察に首根っこを掴まれたわけでんな。
 ああ、大人は怖いのぉ。。。
 子ども達、これが『政治』という大人の社会でっせ。

もぐら叩き

2008年07月12日 | 坊主の家計簿
 7月12日

 外食  ぶっかけ大      380円
 食類  発泡酒        198円
     フルーツゼリー2   196円
     細うどん        20円
     タマゴ豆腐      138円
     エビ天         49円
     お好み焼きちくわ    39円

 合計            1020円
 7月累計         42723円

 しまった。。。今日も爆睡しようと夕方6時から寝始めたのはエエのだが23時で断念。。。水分補給とトイレに行ったついでに「腹が減った。。。」とやなぁ。。。まあ、エエか。

 マグダラのモナ、ちゃうわ、山本モナが気になる。あれって、基本的に二岡家の家庭内の話やんな。二岡家の浮気性のお父ちゃんが浮気しただけの話やんな。山本モナは独身であって、別に誰と恋愛しようが関係ない。相手が二岡家のお父ちゃんだったから問題になったのだが、この場合、悪いのは二岡家のお父ちゃんである。基本は二岡家の家庭内だけの話でしかない。夫婦間の話でしかない。よって、この事を問題に出来るのは二岡家のお母ちゃんしかない。二岡のヨメはんだけが問題に出来るわけであって、他の人達にとっては「どうでもエエ話」でしかないはずである。
 なんだが、どうでも良く無いと思われる人がいるみたいなので、私にとってもどうでもよくない問題になる。

 山本モナの前(?)の恋愛相手の細野とかいう民主党議員は民主党内の役職は辞めたらしいが、当然、国会議員は辞めていない。当り前だ。たかが『浮気』等と云う家庭内の話で国会議員を辞める事は馬鹿げている。ついでに民主党内の役職を辞める事も馬鹿げている。
 だが、山本モナはあの時も芸能活動の自粛であり、今回もキャスターの仕事だけでなく、芸能活動もまたまた自粛らしい。
 山本モナの会社は北野たけしの会社らしい。え~。。。たけしって不倫騒動が多くなかったか?細川ふみえだの、宮沢りえだのと。しかも馬鹿げたマスコミの報道の仕方なのだが、確か両方とも「たけしさんの御手がついた」みたいな報道の仕方ではなかったっけ?まあ、お笑いやな。
 関連して気になるのだが、男は「据え膳喰わぬは男の恥」やったっけ?そんな感じなのかどうか知らんが、今回の山本モナの
恋愛騒動でも山本モナの方が処分が厳しくないか?ヒマな大学生のレポートぐらいにはなるテーマだと思うのだが。『不倫騒動における男女差別』とかなんとか。過去の『不倫騒動』でのマスコミの叩き方&処分の厳しさを調べてみるのもオモロイと思うのだが。

 ちなみに『不倫は文化である』とは当り前の事である。一夫一妻制もあるが、一夫多妻制もある。まれではあるが一妻多夫制もある。
 それ以前に夫婦関係なんぞは自由なもんだ。当然、「女は何時も被害者である」とは妄想にしか過ぎない。え~。。。具体例ならいくらでも知っている。男が被害者の不倫関係もある。

 不倫。
 まあ、今の所の日本では一夫一妻制。だから不倫になる。なるのだが、ナベツネが二岡の処分に対してのコメントを求められた時に「君達だってしているだろう!」と云ったらしいが、まあ、ナベツネを囲んでいた記者が不倫しているかどうかは知らないが、不倫話しは幾らでもある。不倫をテーマにした文学や、映画、テレビドラマも沢山ある。昼メロなんぞは不倫のオンパレードではないのか?
 当然、今回でなら二岡のヨメはんがどう考えて居るのか知らんが、二岡のヨメはんがイヤだったら、それは二岡が二岡のヨメはんに対して悪い事をした。さっさと二岡は二岡のヨメはんに謝罪すべきである。離婚するのなら、離婚の条件にはなると思う。多額の慰謝料も貰えるだろう。
 それだけの話である。
 それ以外は、井戸端会議でしかない。で、井戸端会議で処分されるかどうかは、井戸端会議での内容による。北野たけしと宮沢りえとの不倫での井戸端会議では誰も処分されなかったと記憶しているのだが。
 つまり、決まったものではない。決まったものとして『不倫したらなになに』というわけでもない。いわゆる、謎の世論である。コソコソ話し、ヒソヒソ話しである。
 で、そういう話は面白い。御近所の噂は面白い。村社会の噂は面白い。
 ただ、その『面白い話』でもって、山本モナの仕事が無くなってしまうわけやね。これは面白い話ではないな。

 姦通罪は無くなった。っちゅうか、旧憲法での姦通罪でも
【夫のある夫人が姦通したときは二年以下の懲役に処す。その夫人と相姦した者も同じ刑に処す。
 前項の罪はその夫人の夫の告訴を待ってこれを論す。ただし夫が姦通を縱容したときは告訴の效なし】
 らしいのだが。。。
 
 まあ、旧憲法に男女平等を乗っけたとしても、今回の事は二岡のヨメはんがどういう風に思っているだけの話でしかなく、しかも姦通罪は廃止された。あとは『不倫』という倫理道徳という、ほとんど教育勅語みたいな話でしかなく、不倫で大騒ぎするのは個人の意志よりも、あやふやな『倫理道徳』という事を優先する宗教の人達なんだろう。まあ、なんちゅうんですか?毎日、早起きする人達でんな(笑)。
 「夜遅くまで街をふらついている若者は居ね~か!」と云う、夜回りなまはげの支持者達なのかも知らん。

 二岡家の家庭内での問題が結構な騒ぎになる。
 「お前等、ヒマか?」なんだが、まあ、ヒマなんだろう。
 もしくは、倫理道徳という一つの宗教観に囚われて、そこから「不倫をした人を許せない。不倫をした人は穢れである。穢れであるが故に排除しなければならない。それが社会人としての役割だ。」等々。
 当然、そういう意見もあってイイ。
 私は真っ向から反対するだけの話だし。

 なんか、ストレス発散の為の『悪いやつ探しゲーム』が横行している気がする。
 なんちゅうんですか?昔、『もぐら叩き』っちゅうゲームがありましたがな。もぐらが穴からヒョコン、ヒョコンと出てくる。それを次から次へと叩くゲーム。
 「加護ちゃんがタバコ吸ったぞ!」
 「山本モナが不倫したぞ!」
 等々と、叩いて行く。きっと、何でもエエのだろう。社会正義というもので叩ければ。
 で、私はその『社会正義で叩く側の人』を、やっぱり私なりの社会正義でもって、酒を飲みつつ、ストレス発散で叩いているだけの話でんな。全く変わらん。

マグダラのモナ

2008年07月11日 | 坊主の家計簿
 7月11日

 外食  味噌ラーメン      409円
 食類  せり           60円
     グリーンボール      98円
     ベーコン        272円
     イカゲソ        142円

 合計              981円
 7月累計          41703円

 ふ~。。。これを書いているのは7月12日午後。昨日は、寝たぜ。夜の8時から今日の朝8時まで12時間爆睡でっせ。途中水分補給2、トイレ1を挟んで爆睡でっせ。

 と云う事で、山本モナである。


【イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」】(ヨハネ8ー1~11)

『映画・靖国』と『あっさり』と『こってり』

2008年07月10日 | 坊主の家計簿
 7月10日

 食類  焼き鯖メシ       200円
     海鮮          100円
     菜の花         100円
     パスタ5        490円
     うどんスープ2     256円
     豆腐          138円
     麺スープ        228円
     トマトジュース       1円
     ペット水36     2520円
     アミノサプリ10    980円
 外食  アイスコーヒ&唐揚げ? 150円
 
 合計             5163円
 7月累計          40722円

 御仕事忙し。なんだが、何じゃかんじゃで昨日買った『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』を読み終える。
 
 映画『靖国』には上映中止騒動があった。詳しく知りたい人はネットで調べて下さい。経緯は諸々あったのだが、上映を中止した映画館が多数あった。第七藝術劇場以外は上映中止を決めたらしい。まあ、その後、全国の色々な所で上映しているらしいが。

 長野での聖火リレーでの自粛もあった。善光寺は自粛した。その自粛を善光寺は見事にイメージアップにつなげる事が出来たのだが、最初は圧力であった。

 少し前だが、自転車で道を走っていると見通しのいい住宅街の交差点で右手からオッさんがやはり自転車に乗ってやって来た。私はその交差点を直進する。オッさんは私が来た道の方に曲がりたかったらしい。オッさんとの距離を5メートルは残して私はその交差点を通過した。なんだが、オッさんは「何をフラフラしとるねん」と。
 私は「そうであった。。。私は世間に振り回され、その事がイヤになり今度は本当の自分を探そうとフラフラしていた。そういう常にフラフラしている『今の自分』を見出す事なく、フラフラしていた。フラフラしているのが紛れもなく『私』なのだ。他に『私』などいないのだ。師よ。御言葉をありがとうございます。」等とは言わずに瞬間にブチ切れて「お前もやろが!」とオッさんを睨みつけて怒鳴った。
 ああ、やっぱり外出は刺激的である。部屋で一人で居るとこういう刺激的な事はない。外出して『他者』がいるからこういう刺激的な事も起こりえる。

 映画『靖国』は様々な議論を起すぐらいには刺激的な映画である。まあ、靖国神社を取り上げたというテーマ自体が刺激的なんだろうが。その事によってある国会議員からの反発をくらい、ごく少数の右翼が、ほんのわずかな抗議行動をとっただけで上映が中止になった。まあ、著作権の問題もあったが、不思議な事である。

 外出は刺激的である。
 今日の帰宅途中、団地の茂みの中に猫がいた。何かを狙って居る様子である。狙って居る先を見ると鳩がいた。なんか呑気そうに居た。瞬間、邪魔しようかな?と思ったのだが、鳩が猫の晩飯になるのかもしれないのだし、辞め。

 安全な街。当然、安全な方がエエのだが、実際は安全でない場合もある。先の交差点でのオッさんなら、ほんの少し小言を云っただけである。多分、疲れていたのかなんなのか知らんが、心の中で思った事をフト言葉にしてしまっただけの話である。そしたら私から怒鳴られる。瞬間ブチ切れ状態だったのでフルマックスの声で怒鳴られる。まあ、お互い様だから別に私は悪いとは思っていないが、それでも怖かったやろうなぁ。。。ぐらいは思う。
 外出する事には多少の危険性がある事もある。無い場合が殆どだが、ある場合もある。人と人とのコミュニケーションは多様である。何か辛い出来事があって、「やってられるか!」状態の人から刺される危険性だってある。当然、ない方がイイのだが、ある場合もある。それが生きているという事だと思う。鳩は猫に狙われる事もある。

 狙われる事もある。決して安全でない場合もある。それがイヤなら死ぬしかない。あるいは部屋に閉じ篭って「誰も私を傷つけない空間」で過ごせばイイ。あるいは仲良しこよしの仲間達とだけコミュニケーションを取ればイイ。何を発言するにも、何を表現するにも、決して『仲良し』以外の人には眼の付かない所で、狭い空間で過ごせばイイ。他者不在の幻想の中で過ごせばイイ。
 喧嘩もしない。議論もしない。批判もしない。常に自分を傷つけない空間に籠ればイイ。

 結局仕事で行けなくて、結局右翼も来なかったイベントに『ショーは終わってんのお』やったかな?そんなイベントがあった。まあ、単純な話だ。京大・西部講堂で昭和天皇が死んだ時にパンク系のライブをやるだけの事。ただ、自粛ムードに反対しての事なので「右翼が来るかもしらん」と云う事で警備(?)を頼まれていた。まあ、喧嘩要員でんな。

 自粛。自粛なんぞせずに喧嘩を買うつもりで居ればエエのに。売られた喧嘩は買えばイイ。暴力がイヤなら議論すればイイ。映画『靖国』でも右翼が集まって議論したらしいし、右翼を『同じ人間』として見ないから自粛なんぞするのかも知れないし。抗議するのは意見があるからだろう。意見があるのなら議論すればイイ。

 『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』では、宮台真司と鈴木邦男の対談が面白かった。そこで宮台が紹介していたのは『ラディカル・デモクラシー』という概念。なにやら面白そうである。

【民主主義という市民社会的観点からも、治安維持という統治行為的観点からも「多少迷惑でも包摂しよう」と言い合えるのが重要です。包摂した上で「あんたは間違っている」と言えばいい。「あんたは間違っているが、あんたを抹殺しようとする者がいたら命がけであんたを守る」のが大切です。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』72ページより)

【ラディカルデモクラシーは二つの意味で「敵の抹消」に抗います。一つは「みんな仲良し」とか「対立がないのが良い社会」といった意味での「敵の抹消」。そんな社会じゃ誰も政治に参加しなくなります。もう一つは「民主制を認めない奴は抹殺する」という意味での「敵の抹消」。民主制を認めない奴でも、当座は暴力を振るわないというのなら存分に喋らせよ、それが民主主義だというのです。民主制は統治の問題ですが、民主主義は市民の覚悟の問題です。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』82ページより)

【「敵だから排除しろ」だと、いずれ自分が排除されます。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』84ページより)

 以上は宮台氏の発言だが、それ等を受けての鈴木氏の発言

【味方だと思ってた人の中にもひどい人が多かった。一方、敵と思っていた左翼の人たちの中にも、遠藤誠さんや、竹中労さんなど素晴らしい人がいることがわかったんですね。純粋培養された人は、幻影だけが大きくなって、敵にもいい人がいるということが分からない。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』85ページより)

【同じ意見の人が集まって、「異議なし」ってやってるほうが気持ちいいんですよ。それは僕も体験しているから分かる。それは左翼も右翼もそう。そういう人たちがどんどんいなくなって、右翼も左翼もほとんどないにも関わらず、悪い遺産だけが一般社会に拡がっているんです。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』91ページより)

 敵。昔なら鬼畜米英であり、今なら鬼畜中朝だったり、あるいは、まあ、やっぱり『敵』か。
 『他者』。他者は他者である。違う人間であるが故に他者である。全く同じ意見などあり得ない。あり得ないのだが、違いを見出すのでなく、同じになろうとする。つまり『違う部分』を隠す。「それは違う」と表現出来ない。
 嫌われる事の怖さ。孤独に陥ってしまうかもしれない怖さ。身内でワイワイと「みんな仲良し」の社会。閉鎖的な社会。
 
 傷つく事を怖れる。傷つける事を怖れる。怖れるが故に、幻想として、経験としての無難な事しか表現しない。まゆの中に包まれた閉鎖的な居心地のイイ空間。外出する事を避ける。他者と出会おうとする事を避ける。自分を覆い隠して、違い、他者と出会おうとしない。
 
 大義名分が流行る。大義名分があれば大義名分で押し切る事が出来る。大義名分が『答え』であるのなら、その答えをいえば『正しい』。大義名分の答えと違う意見は『間違っている』から。
 「貴様はそれでも日本国民か!」である。違いを認めない社会である。『正しい人』と『間違っている人』が分けられている社会である。
 当然、『正しい人』には居場所が与えられ、『間違った人』には居場所が与えられない。
 だが、『ラディカル・デモクラシー』では
【包摂した上で「あんたは間違っている」と言えばいい。「あんたは間違っているが、あんたを抹殺しようとする者がいたら命がけであんたを守る」】
 である。
 常に自分の考え方なんぞは『正しい』と思っている。故に違う考え方の人は『間違っている』に決まっている。そこで排除するのでなく、議論する場があればイイ。平等に議論出来る場があればイイ。
 議論し、「私の考え方はこうである」と言い合える、つまり「仲良しこよし」のナアナアでなく、血塗れの徹底批判が出来合えればイイ。
 映画『靖国』に関しては様々な見方が当然ある。恐らく監督の意志を離れて「私はこう受けとった」というのがあってもイイ。そこで監督が「私はそういう意図で作りませんでした」というのが『答え』でなく、平等に議論しあえればイイ。
 議論をするのは、自分の意見を表明しなければならない。
 「私はこういう風に考える」と。
 それは何かの『答え』ではない。生きている中での『絶対的な答え』などないのだ。
 「私は答えにはほど遠い」では、自分を粗末にし過ぎている。

 意見、意志を表明する。当然、異論もある。中には強烈な抗議行動を取る人もいる。それでも「私はこういう風に考える」と。
 それは個人である。当然、孤独に陥る事もある。死罪、流罪になる事もある。それでも「私は私である」と云う事は間違いない。その間違いない事を、大義名分や答えなどの人間が勝手に作り上げた幻想でもって粗末にするのは自分自身に対する冒涜である。
 同時に『違い』がなくなる。個々の違いがなくなる。仲良しグループで引き蘢るのは鬼畜米英と『作られた日本人』の閉鎖性と同じである。独り独りが違うのであれば『仲間』等居ない。それはイコール『敵』等居ない。単にどんなに気の合う人と同じく『他者』でしかない。

 エゴ。エゴとは全く「他人の事等どうでもイイ」という事である。
 だからエゴを捨ててよゐこになろうとする。「みんな仲良し。ファシズム同盟」である。それが故に云う。「あの人ってワガママよね」。
 ワガママなのは『エゴ』があるが故であって、エゴは誰でも兼ね備えている。無くなったのならそれは仏である。仏である事は人間ではない。つまり対等ではない。対等でないからエゴを無くしてしまったかのような勘違いでもって、つまりエゴでもって排除する。神仏という大義名分等を持ち出して排除する。答えでもって排除する。
 エゴを包み隠したつもりの勘違いは『仲良しこよし』の引き蘢り。引き蘢りが故に排除する。
 『他者』を受け入れる事が出来ないのはエゴを持っているから。そしてエゴは誰しもが持っている事。ならば、互いにエゴを持ったワガママ極まりない人間として出会っていくしかないのではないのか。
 自分のエゴを見るのもイヤだし、他人のエゴとも出会うのがイヤ。というのは不可能である。何故ならそれ自体がエゴである。煩悩である。欲である。

 エゴとは逆にいうと『自分の事しか考えてくれない』と云う事である。
 今日、車に乗って移動している時に、交差点で赤ちゃんを抱いた母親に出くわした。私は信号を待ち、交差点でもその親子が通り過ぎる事を待っていたのだが、それでも母親にメンチを切られた。あ、『メンチ』とは大阪言葉か。まあ、睨まれた。母親は、自分の子どもを守る事だけに精一杯なんだと思う。
 エゴとはそういうもんであって、常に自分の事しか『考えてくれない』。自分の事しか『想ってくれない』。常に考え続け、想い続けてくれる。そういう働き。
 なら、変な話なんだが、安心して外出出来ないか?互いにエゴを持ったもの同士でしかない。互いに煩悩を抱えた者同士でしかない。似た者同士である。誰が正しい、という事もない。それぞれがそれぞれのエゴで、意見でもって出会っていけばイイだけの話だ。
 
 エゴを包み隠す、正解、よゐこ。
 『同じ意見の人が集まって、「異議なし」ってやってるほうが気持ちいいんですよ。』(鈴木邦男)

 『鵺のようなファシズム』確か辺見庸の言葉だったと思うが。
 自分の意見をいわない。自分の意見を包み隠す。自分の意見は『他者』に解らない所、「みんな仲良し」の場面でしかいわない。それが鵺。
 辺見庸氏が表現したかった事とは違うと思うが、個人が『鵺』になっているからファシズムになる。
 意見が違うのは当り前なのだ。他人は他人であり、私は私でしかない。それを引き受けようとしないから排除する。ファシズムになる。
 それが故に【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】である。
 どんな人生でも天下一品である。
 そして、天下一品はやっぱり美味い。
 天下一品は『こってり』である。あっさりラーメンの方は私は食べない。天下一品はこってりなのだ。あの煮まくってなにが何やら解らんが、とりあえずドロドロのこってりラーメンが天下一品なのだ。
 私は常日頃、天下一品のラーメンを食べながら、「このドロドロ感、このこってり感こそが人間関係ではないのか?最近の人間関係はあっさりし過ぎているのではないのか?」と感じている。。。え~。。。当然、嘘です。

映画『靖国』の多分その1

2008年07月09日 | 坊主の家計簿
 7月9日

 食類  タコ飯        200円
     梅干し        600円
 外食  たぬき        280円
 雑費  映画『靖国』    1800円
     本         1050円
     居酒屋       5750円
     阪急         300円

 合計            9980円
 7月累計         35559円

 本は『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』(http://xc523.eccart.jp/h575/item_detail/itemId,196/

 と云う事で、映画『靖国』。
 帰りに居酒屋で飲んで来たので酔っぱらってまふ。
 っちゅうか、毎日酒を飲みながら書いているのだが。。。

 感想。
 1 中止騒ぎがなければ、それ程観客が来たかなぁ。。。
 2 やっぱり反日映画である。
 3 単純に面白い。

 とりあえず、なんだ。各地で上映会をしているらしいので、観た方がエエ。当然、『映画』なので主観の塊でしかない。だって編集作業があるのだから。『映したものをそのまま』という事はあり得ない。
 映画には沢山の議論が出てくる。同時に、多くの右派が出てくる。少しであるが左派も出て来る。大谷派からみでいうのなら、恩師の一人も映ってたし、旧知のおっさんも映っている。本願寺派の菅原氏なんぞはバリバリインタビューに答えていた。主要登場人物の3人の中の一人である。
 靖国神社に関しては何度も書いたので、今日は何時もよりも酔っぱらっているし、書かない。あくまでも映画『靖国』の話。
 で、右派が一杯出て来る。当り前だ。8月15日の靖国神社のシーンを映しているのだから。宗教法人靖国神社に対する信仰を持たれている人達が多く出てくる。当然、靖国神社でのアピールが撮影されている。
 ドキュメント映画で『右翼』というのがあるのかどうかは知らないが、日本の右翼をこれだけ撮影した映画としてもかなり貴重。様々なアピールをする。
 
 映画の最後辺りに靖国神社で行われた集会に抗議にやってくる兄ちゃんが撮影されていた。誰かに殴られて口から出血。出血しながらも必死のアピール。
 私が左派なら彼の肩を持つのだろうが、私は左派ではない。単なる観客である。なんか彼のアピールが映画の中では、かなり怖かった。映画の中で同じ怖さをもったアピールは戦争体験した爺ちゃんが「今の日本人は大和魂を忘れて居る」と必死にアピールしているのが匹敵するくらいで、後の、まあ、右翼のアピールは、「ちょっと待て。右翼が『終戦』という言葉を使うな!」と、こっちが怒りたくなるくらいである。まあ、他にも星条旗を持ち、小泉元総理(当時の総理)の参拝について賛成している事をアピールしているアメリカ人に対して「星条旗を降ろせ!」とか排他的になっていた人や、抗議して殴られた兄ちゃんに対して「中国人は出て行け!」やったかな?そんな事を必死に叫んでいた人ぐらいのもんである。違う相手を認めない度合いの強さは別に右翼も左翼も変わりない。単なるどこまで狂信的になれるかどうかだけの話である。

 映画『靖国』は反日映画ではあるが、かなりイイ映画である。単なる『反日映画』だけでは止まらない映画である。
 それは靖国刀を作っていた刀鍛冶のお爺ちゃんが戦争中の話をした時に涙を流したシーンも編集カットされていなかったから。

 え~と、かなり酔っぱらって居るし、眠いので終わりなのだが、観てない人は観た方が絶対にイイ映画。
 で、どっちかっちゅうと、私も社会現象にまでなった『映画・靖国』の方に興味があるので、気が向けば、明日は今日買って来た本を読んだ上での感想を書くかも解らん。
 今日の私はかなり酔っぱらっていて、しかも眠い。別に英霊になるつもりはないので、ちゃんと書くつもりもない。

 あ、同じ監督にドキュメント『檀家制度』っちゅうのを撮影して貰いたいなぁ。。。靖国神社は明治政府が建てたもんだが、江戸期の日本って、ほとんど仏教が国教でんがな。檀家制度でんなが。制度でっせ、制度。どっかの寺の檀家でないとアカンかった時代でっせ。江戸初期にどれだけの寺が出来てまんねん。

 寝よ。

天下一品

2008年07月08日 | 坊主の家計簿
 7月8日

 外食  回転寿司       504円
 食類  厚揚げ(数日前)   170円
     ダカラ        100円
     エリンギ        98円
     天かす         30円
     モヤシ         29円
     タマゴ        198円
     豆腐          98円
     地鶏         209円
     麺類3         84円

 合計            1520円
 7月累計         25579円

 朝、大雨。雷は鳴るわ、「無茶苦茶でんな。。。」なんだが、仕事なので傘とカッパのダブル防御で出かける。なんだが、踏切が。。。元から朝のラッシュ時には弱いのだが、雷雨のせいか、電車も遅れているみたいで踏切が開かん。踏切を待ってる間に雨が小降りになって来たからまあエエか。

 とは云え、昨日、帰り際に天下一品でついつい唐揚げ定食を食べてもうてやなぁ。。。ちなみにラーメン並(当然、こってり)と唐揚げ&白飯。昼飯でもボリューム満点や、っちゅうねん。朝から、胃が重い、っちゅうねん。

 テレビで『僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった-カウラ捕虜収容所からの大脱走』(http://www.ntv.co.jp/cowra/)を観る。
 最初辺りは晩飯を作りながらだったのでちゃんと観てないのだが、かなりエエ。
 けど、少し気になった部分があった。
 最後の辺りに加藤あい演じる孫が、戦争経験したお爺ちゃんに、捕虜収容所に居たお爺ちゃんに対して「お爺ちゃんは私の何倍も真剣に生きて来たのね」みたいなセリフがあった。ひょっとするとちゃんと観てなかった最初辺りにお爺ちゃんをバカにする様なシーンがあったのかも知れない。それに対する懺悔としてのセリフだったのかも知れない。
 なんだが、少し気になる。

 確かに、『戦争』や『捕虜収容所』という経験をした人は今の私(達)にとって珍しい経験をした人ではある。が、それも人生だったはずである。それぞれの人生経験でしかないはずである。
 方や、戦後の平和ボケで生きている人生もある。
 決してどちらが真剣で、どちらが真剣でない、と云う事はあり得ない。比較する人生が違うから。比べるべきものではない。
 これは一人の人間の中での時間軸でも同じである。「あの頃はよかった」「あの頃の俺は輝いていた」等は、おかしい。比較すべきものではない。変わっただけなのだ。変わったにも関わらず、『思い』が苦しめる。

 今日も阪神が勝った。金本は同じ年のはずである。下柳もか。同じ年でありながら、私と阪神の4番とエース(?)は全然違う。向こうはスポットライトを浴び、そして特に金本なんぞは『阪神を変えた男』である。練習の虫・金本の加入によって阪神は変わった。他の選手達が金本から多大なる影響を与えられた。
 方や、私は昨日の夜遅くに食べた天下一品唐揚げ定食で「ああ。。。胃が重いよぉ。。。」と部屋でゴロゴロである。その辺は見事にスポットライトや収入に反映されている。
 んが、私には私の人生がある。胃もたれする人生があっても構わない。
 
 「ああ、金本って同じ年やのに偉いのぉ。。。」とは思うが、それで自分を苦しめても仕方がない。意味がない。あり得るとするならば、比べてしまう事によって「あなたにはあなたのたった一度きりの人生があるではないか」である。
 どうしても比較してしまう。比較して「あいつより上」「あいつより下」等と、本来無いはずの座標でもって慢心し、卑下する。比較の中から「念仏申せ」と、比較する相手から念仏を勧められている気になる。そして何故比較してしまうのか、例えばテストの点数であれば「上の方がイイ」という『思い』に私が縛られているが故に、テストの点数でもって自他を判断し、慢心し、卑下する。
 金本なら努力や、才能や、注目度なんだろう。それ等の意識に私が縛られているが故に、金本と自分を比べて「ああ、羨ましいのぉ」なんだが、それはイコール自分よりも『下』の人に対しては慢心して『下』と判断し差別してしまっている事になる。
 他人と自分を何かの座標軸でもって比べる。で、上だの下だのと。比較を通して自分が何に縛られているのかを見つめ直す事が出来る。そして、「私は私である」という事を、つまり、全く独立出来ていない自分を見出すが故に、独立者になろうとする働きが芽生える。

 戦争中。今日の『僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』を観ながらも思ったのだが、戦争中は兵隊がカッコ良かったらしい。「大きくなったら兵隊になりたい」等と。私たち世代なら、野球選手やプロレスラーに憧れるみたいな感じで兵隊に憧れたのだろう。戦死が栄光であり、『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』であったらしい。
 別に戦争時代だけではない。
 自分の人生を誰か、何かと比べて、自分の人生を『トイレットペーパーよりも軽く』扱っていないだろうか?
 また、何かの価値観でもって、つまり偏見でもって、他人の人生を『トイレットペーパーよりも軽く』扱っていないだろうか?一体、誰にそんな権限があるのだろうか?あるのなら何か超越的な存在、神であったり仏であったりするのだろうが、まあ、『神』には様々な宗教の神がいるから一概にはいえないが、どんな人生を歩んでいても、その人生を『トイレットペーパーよりも軽く』扱ってイイ、というような仏は仏と呼べない。それは仏弟子であっても同じ事だ。

 『僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』では、大泉洋演じる兵隊が当時の価値観では『みっともなく』とも生きる道を選んだ。同じ班で、たった一人だけ、周囲から何を云われても『生きる道』を選んだ。
 
 戦争は終わった。が、時代が変わっただけで、価値観の戦争は変わらずある。
 戦後の民主主義では民主主義に貢献したかどうかも価値観戦争である。
 サミットという戯けた秘密集会の入会条件には『民主主義国家である事』等もあるらしいが、それのどこが民主主義なんだろうか?民主主義主義でしかない。
 どれだけ社会貢献出来たか、であろうが、何の価値観であろうが、時代が変わってもある。
 それに対して無関心であるのでなく、言葉を代えて云うと「そんなん、他人と比較したらカッコ悪いやん」という価値観でなく、価値観に縛られている、つまり『苦』があり、その『苦』を通して、比較を通して、引き受けられない自分を通して、それを力にする。独立者になろうとする。
 「独立者である。」とは無関心である。それには『呼びかけ』がない。本来、独立者であるにも関わらず、そうはなれない、死ぬのはイヤだし、何かの価値観の中、『思い』の中で縛られている。それが故の『呼びかけ』であり、『帰依』である。『帰依(南無)』しようとする事が出来る。

 価値観の戦争は終わらない。煩悩がなくならないから終わる事などあり得ない。
 その為に「自分は負け組だから。。。」等と自暴自棄になったりもする。何かの価値観でもって、居場所を無くす。居場所を与えられない。戦争中なら「貴様はそれでも帝国軍人か!」である。
 違う、私は私でしかない。
 念仏者は浄土にしか行けない。何か特別な事をしたからといって、何か特別な所に行けるわけがない。靖国の英霊にはなれない。なり得るわけがない。どれだけ、例えば仏教教団に貢献した、日本の仏教界に貢献した、多額の布施をした、多くの人を教え導いた、多くの人命を救った、からといって、何か特別な所には絶対に行けない。念仏しか申す事が出来ない人と同じ所にしか行けない。それはイコール、まあ、娑婆世間での価値観は違うだろうが、こと『仏教』という事に関しては全く同じ価値しかない。阿弥陀如来から与えられた絶対平等の価値観しかない。
 「私はあの人に比べて。。。」等は、個人の『思い』でしかない。
 故に【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】という仏からのメッセージを大切に出来る。

 「真剣に生きる」も、「精一杯生きる」も、所詮は『思い』である。差別原理である。
 だから、「あの人は私よりも数倍真剣に生きている」と云う事は、「あの人は私よりも真剣に生きていない」と云う事でもある。
 「あの人は精一杯生きている」は「あの人は精一杯生きていない」である。
 それを個人にするのなら、「私は真剣に生きていない」であり、「私は精一杯生きていない」と自分を追い込む。だから苦しい。

 先の戦争は終わった。平和である。が、決して平和ではない。価値観の戦争は変わらず続いている。
 価値観の戦争も人を殺している。自分を殺し、他者を殺している。
 戦争はしていない。でも、戦争の準備は常に問われている。
 『トイレットペーパーよりも軽い』人生など、あり得るわけがない。
 っちゅうか、『トイレットペーパー』も、元々は木であり、その木を育てる為に大地があり、自然があり、それを『トイレットペーパー』として作った人達がいて、運んだ人がいて、買った店の人達がいる。だから、トイレットペーパーでも、比べる事はおかしな話なんだが。トイレットペーパーと同じ価値しか本来ないはずなのだから。同じ価値しかなくとも、それよりも『重い』とか『軽い』とかの話は妄想でしかない。あくまでも価値観でしかない。

 常日頃から、様々な『価値観』に左右されて、自分を自分として引き受けれない事は、その価値観が『御国の為に』なり『世界平和の為に』なり、『アジア民衆の解放の為に』なり等の価値観に振り回される危険性がある。実際、今、何かの価値観に振り回されているのだから。
 【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】
 というのは、常に過激な平和メッセージである。
 戦争中は国家から期待されるような国民に成らざる得なかった。今でも何かの価値観から期待されるような生き方をしようとしている。何かの価値観に縛られている。
 それが故に【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】である。
 どんな人生でも天下一品である。
 そして、天下一品はやっぱり美味い。
 通販でも買えるみたいなので、食べた事のない人は是非是非。
 http://www.tenkaippin.co.jp/pcindex.html
 ちなみに今買うと「天下一品オリジナル・天下一品ロゴ入り扇子(限定品)」というのが貰えるらしい。

七夕

2008年07月07日 | 坊主の家計簿
 7月7日

 外食  ミニ焼そばミニお好み焼き定食 650円
     天下一品唐揚げ定食      850円
 雑費  リベット          2300円
     発泡酒            218円
 
 合計                4018円
 7月累計             24059円

 今日も御仕事忙し。しかも暑い。よって終了後にヘロヘロ。。。
 ついつい冷凍室にあった餃子に手を出してしまう。「餃子、ちゅうたらビールやんな」と、夕方早い時間にも関わらずビールをプシュ!っと。
 「おお。。。今日も一日、よく働いたぜ。。。よっしゃ飲みに行こ」とモードが切り替わる。
 
 ちゅう事でヘロヘロです。
 飲み代が書いてないのはタンガクラブで飲んでたからです。

 七夕→欲望→思い通りになれ!
 サミット→選民思想→思い通りになれ!
 まあ、似た様なもんでんな。
 サミットに参加する『主要国』『先進国』は他人事ではありまへんな。選民思想は他人事やおまへんな。
 でも、おかしい話でんな。
 そのおかしい話を『川向こう』の話にするのか、川を越えて平等になろうとするのとは、ちと、ちゃいまんな。

 あかん、寝よ。

サミット

2008年07月06日 | 坊主の家計簿
 7月6日

 外食  ちゃんぽん       630円
 雑費  さるまた       1000円
 食類  醤油          198円
     チーズ         158円
     発泡酒         185円

 合計             2171円
 7月累計          20041円

 アカンわ。強い、強過ぎるぞ、阪神。今日、勝つか?あれで勝つか?
 今日は御仕事でバタバタと。途中に少しだけ阪神戦を見る。4対4。「おお、エエ試合しとるやないかい。。。」で、ウイリアムスが崩れる。まあ、エエ。2勝1敗でも充分やし。次の仕事まで少し時間があったので3点取られた段階でテレビを切り、少しだけ仮眠。
 で、すっかり負けたもんやと思てたら、勝ってたのね。8回裏に3点取られても勝ってたのね。強いわ。ホンマに強いわ。何やら明日から北海道で世界のお偉いさんが集まって阪神対策をするらしいが、まあ、無理やで。
 やっぱり、平野の加入とか、新井の加入とかもデカイけど、鳥谷が変わった。顔つきが変わった。エエ感じの選手になってきたやんけ。裏MVPは鳥谷やな。

 仕事が終わって、お疲れモード。当然、筆ペン練習なんぞする気にならん。天気もエエ感じやし、セミが鳴いてた。よって今日から夏。「夏だ!」と云う事で原チャリ孫一にでも乗ってショート・ツーリングに出かけようかと思ったのだが、お疲れモードだったので辞め。辞めてレンタルDVD屋に出かける。諸々探したのだが、なんか気に入るのがなかったので借りるのを辞めて本屋でフラフラと。蒼井優ちゃんが新しい本を出したらしい。YOUの新しい本も並んでる。う~ん。。。気になる。。。買いたい。。。けど、勿体ない。。。ああ、我ながらケチだ。。。などなどと思いつつフラフラと。
 店の外に出たら、夕日がキレイ!多分、小1時間ぐらいは店内に居たのだが、その間に夕日がキレイでキレイで思わず夕日に向かって自転車を。

 二つの後悔。
 「ああ。。。あの時に仮眠なんぞせえへんかったら阪神の逆転シーンを見れたのに。。。」
 「ああ。。。あの時にバイクに乗って出かけていれば、海辺で夕日が見れたのに。。。」

 今日は法事。暑くて暑くて汗をダラダラ流しながらの法事。いつもの感じでやったはずなのだが、終わってみて時計を見たら何時もよりも10分ぐらい早い。え~。。。暑かったので読経がハイペースになってもうたかな?
 法話は他の仕事で行けなくなった住職の代行(?)なので、住職から教えてもらった『出鱈目』という事で。いや、違う話をしていたはずなのだが、暑さでボケてもうてやなぁ。。。もうちょっと一向宗について話したかったのだが、途中から路線が変わってもうてやなぁ。。。

 『出鱈目』。サイコロで出た目がを引き受けて行く事。何が出るかは解らない。でも、出た目を引き受けて行く事。「ホンマはこんなはずじゃなかったのに。。。」とか、「ああ、もっとエエ感じに楽しめたはずやのに。。。」等々のままで不平不満だらけ。でも、それが間違いなく私の人生である。サイコロで3の目が出たら「サン!」と世界のナベアツのマネを出来たはずなのに、2が出たから世界のナベアツのマネが出来なくなった。。。でも、2が出た。私の人生で2が出た。世界のナベアツのマネは出来ないが、2が出たら、2が私の人生である。他の誰でもなく、私の人生である。
 なんだが、え~と。。。法事で自分が喋ったサン!時間後ぐらいには最早「なんであの時にバイクに乗れへんかってんやろ。。。」とやなぁ。
 オモロー!でんな。

 明日は七夕らしい。
 煩悩の河で離ればなれになっている自我と自己が年に一度だけ出会える日であるらしい。。。
 って、この嘘はあんまり面白くないのぉ。。。っちゅうか、真宗門徒には関係のない話やし。クソ、話をキレイにまとめたろと思ったのだが、辞め。

 人権。
 黒人は人間ではなかったらしい。奴隷だったらしい。
 本屋に行くと『新潮文庫の100冊』やったけな?そんなのがあって『十五少年漂流記』が置いてあった。古典の名作らしいなので読まれた人も多いと思う。そして読むとよく解る。あの本には16人の少年が出てくる。厳密には一人の老人(?)も出てくる。『少年』だけでも16人だったはずである。
 一人の少年と、船長は黒人。まあ、舟を動かしていた船長は別にして『少年』は16人である。はずである。確か読んだ時に数えた記憶があるから。
 まあ、単純な話、奴隷は『人』ではないから、当然、少年の数は15人なのだ。だから『十五少年漂流記』なのだ。

 七夕になると『橋のない川』をなんとなく思い出す。
 旧友が川向こうの被差別の友達との子ども時代の想い出を歌った曲がある。確か
  ♪ボクは解った 川の向こうには行っちゃいけないんだ
 と、親から「あの子と遊んじゃダメ!」と云われてなんでか解らなかったのだが、ある日、学校で道徳の時間(人権学習)で初めて理由が解ったという歌。それを哀しく歌い上げる曲。

 川向こう。私が育った辺りには聞かなかった言葉。でも、生々しくある言葉。
 別にタブーなんかではない。単なる同じ人間が住む町でしかないのだから。同じ人間なのだ。

 サミット。何が『主要国』なのかは知らんが、サミットで決めた事が、たかが数カ国で決めた事で阪神の優勝を阻止するなど馬鹿げている。。。
 ちゃう。何が『主要国』やねん。
 世界は個々である。個々が、個々として対等な、平等な立場であるから『世界』なのだ。
 『主要国』なんぞは、その正反対の選民思想やろうが。

ツチノコ

2008年07月05日 | 坊主の家計簿
 7月5日

 外食  かき揚げ蕎麦     326円
 雑費  アクロン       278円
 食類  レタス        100円
     ほうれん草       88円
     レバニラ       149円
     ハンバーグ      129円
     うどん玉        28円

 合計            1098円
 7月累計         17870円

 今日も暑かったのぉ。。。日差しが真夏気分で暴力的。
 
 夏バテ防止にはツチノコが良い。
 あれは数年前。私が酷い夏バテで食欲も失せ、体力ががた落ちして危なかった。そんな時に友人が熊野の山奥までツチノコを取りに行って呉れた。当然、ツチノコなど簡単に見つかるわけもない。海を越え、山を越え、熊野に入り、途中、野蛮人や宇宙人に襲われたりしながら友人は命がけでツチノコを取って来て呉れた。何やら、1000メートル級の崖の途中に居るのを発見したらしく、友人は1000メートルの崖を命綱も付けずにツチノコを捕まえてくれたらしい。
 ああ、あの時に友人がツチノコを捕まえて来てくれなければ今頃私の命はなかったであろう。。。

 と、まあ、毎度変わらず嘘バッカリ書いているわけなんだが。。。

 私の命は助かった。故に、私は感謝する。私にとって友人は善である。
 しかし、ツチノコにとっては友人に見つかり殺されてしまったわけだから、友人は悪である。
 まあ、そんなもんやね。立場が違えば。つまり絶対的な善などない。ツチノコと私を同じ価値とするのなら善などない。

 部屋のポストに宗教団体の勧誘チラシが入ってた。何やら、生前の行いが死後の世界に通じるとかなんとか。故に生きている間に善をしましょう、とかなんとか。
 個人のプライバシーをネット上であっても暴露するのはイケナイ事だが、その友人もそういう宗教に入っている人だった。
 その友人は天国に行けるのだろうか?善をしたとは決して云えない。何故ならツチノコにとっては大迷惑な話だから。。。え?嘘はもうエエってか?

 人の命を助ける。友人にツチノコを食べさせて頂いた私は変わらず命を奪い尽くしている。なんせ人間でっせ、人間。横暴極まりない人間でっせ。殺菌なんぞ人間ぐらいしかせえへんやろ。殺菌された方はたまったもんやおまへんで。ひとつの菌と私の命が同じ価値ならば、友人の取った行為は悪である。何故なら大量殺人犯を捕まえずに放置し続けて行くわけなんだから。宇宙からやって来た怪獣を地球防衛隊の人達がせっかく仕留めかかったにも関わらず、「大丈夫?」と云って治療して元気満点になった怪獣が地球防衛隊や、世界中を破壊し尽くしているにも関わらず、「ああ、私はなんてイイ事をしたのかしら。。。」と云っているようなもんである。死んだ後に閻魔大王に「私は怪獣を助けました」と自慢しても、閻魔大王は「その事によって人類は絶滅したのだが。。。」と頭をポリポリかくだろう。
 まあ、嘘話しの上の極論なんだが、善悪なんぞそんなもんでっせ。あくまでも個人的なもの。個人的な事。それが絶対的な事であるとは限れるわけがない。

 さっきまで、テレビで『テレビ朝日開局50周年記念特別番組 ~地球危機2008~』っちゅうのを見てた。メシ喰ったり、筆ペン練習をしながらなのでちゃんと見てないのだが。
 『地球危機』ではない。それは嘘である。困るのはあくまでも『今の生活』だけの話である。今の生活が困るだけの話である。『地球危機』とは地球が半分に割れてなくなるとかいう話なら、「おお、地球危機やのぉ。。。」に少しはなるが、今の生活をし続けていく上での地球環境が危機なだけの話である。あくまでも自己中心的な話である。最後に古館が語っていた事が端的なんだが、困るのは『家族』であったり『孫子』であったりするわけだ。人間中心、自己中心の発想でしかない。その自己中心の発想が、『環境』を破壊している。当り前である。自己中心なんだから。所詮、『自分(達)さえよければ構わない』という発想でしかないのだから。
 だから、『地球危機』でなく、『自分(達)にとって都合が悪い』という事でしかなく、番組タイトルも『生活危機』の方が良かったのではないのか?

 人間は死ぬ。死亡率は100%である。当然、私も死ぬ。死ぬ事は当り前の事なんだが、んなもん、絶対にイヤに決まってまんがな。執着である。別に悟り澄ました坊さんでないので、私は「死ぬのはイヤだ」と言う。あくまでも個人的な『思い』でしかない。
 その『思い』で迷っている。執着し続けて居る。温暖化等々もそういう範囲でしかない。
 そういう範囲である。故に問題なのだ。決して善とか悪の問題ではない。環境破壊=悪、環境保全=善という価値判断は『思い』でしかなく、絶対的なものではない。
 しかし、私が友人のツチノコで助けられたように、それは『思い』では大切な事である。あくまでも『個人』として大切な事である。決して絶対的ではないが、個人の思いでは大切な事である。
 だが、個人の思いである事も間違いない。
 その『思い』は立場によって違う。

 立場。

 
   朝焼け小焼だ
   大漁だ
   大羽鰮の
   大漁だ。

   浜は祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   鰮のとむらい
   するだろう
  (金子みすゞ『大漁』)


 まあ、そんなもんである。
 そんなもんではあるが、鰯は美味い。刺身でも、ヌカ漬けでも、焼いても美味い。ショウガと一緒に煮ても美味い。

 生活=死殺である。

 善。
 絶対的な『善』等というのは私(達)側には決してないはずにも関わらず、『善』がある。善を持ち出す。
 善をしたらエエ条件で生まれ変われる事が出来る等々。が、解りやすい。善でもって差別する。差別を固定化する道具にする。なんだって差別する為の道具に使ってしまうのだ。地球温暖化だろうが、なんだろうが。ボランティアでも、解放運動でも。なんだって。そういう在り方でしかない。そういう在り方でしかあり得ない。
 何かの価値判断の上下でもって、「あいつよりは上」「あいつよりは下」等と、比べるべき存在でない『他者』との比較をしる。してしまう。
 
 平等とは人間の側にはない論理。人間の視点での平等なら、「平等に貢献した人が上」である。平等に貢献しない人は見下す。それが人間の論理。今でも、山ほどある話やんけ。っちゅうか、それが今の流行やろ。戦前、戦中には『国家に対する貢献』やったのが、形が変わっただけで同じやんけ。
 で、変わらず、そこからの声は聞かない。聞こうとしない。抵抗勢力とでもいうのだろう。保守とでもいうのだろう。
 当然、『保守』と呼ばれる人達も『話を聞けない』人も多くおられるだろう。同じ人間なんだし。
 同じ、対等な人間としての『業』。
 条件さえ整えば大量殺人すらしてしまう人間の業。

 裁く。裁き続けている。そんな権限などないにも関わらず、裁く。善とか悪とかはあくまでも個人的な問題でしかないにも関わらず裁く。
 裁かれた側。差別された側はたまったものではない。何かの条件でもって裁かれた側はたまったものではない。
 対等でないと、平等でないと『固定化された側』はたまったものではない。
 所詮、勝手な思い込みの善悪で裁かれ、差別され続けた側はたまったものではない。


   何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
   動物園の四坪半のぬかるみの中では、
   足が大股過ぎるぢゃないか。
   頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
   雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
   腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
   駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢゃないか。
   身も世もないように燃えてゐるぢゃないか。
   瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
   あの小さな素朴な顔が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
   これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
   人間よ、
   もう止せ、こんな事は。
  (高村光太郎『ぼろぼろな駝鳥』)


 『善』『正義』に適う事をしていると『思い込んでいる』から思考停止する。問われ続ける事の断念。悪人の堕落。悪人=凡夫でなく、仏の側へ。
 尊く、善であり、正義であるが故に、保守であり、批判を聞かなくてイイ側に立つ。そんなもんなどありゃしない。仏を言い換えて『現人仏』とでも言った方が解りやすいかな?
 現人神。そんなもんはない。単なる人間でしかない。
 天皇だろうが、殺人鬼だろうが、マザーテレサだろうが、同じ人間でしかない。

 「私は立派な仕事が出来ないの」
 「私は善が行えないの」
 「私はダメな人間なの」
 って、思い込みやろ。思い込んでいるだけの話やないかい。

 人権。人間だけが尊いという人権思想には真っ向から反対するし、ただ『人権』という名前自体にその危険性も兼ね備えている事は確かなんだが、それでも人権。限界はあるが、人権。
 人権に条件はない。条件がある人権、多分、元々の人権には条件があるかも知れんが、んなもんは学者さんに任せておいたらエエ話であって、「どんな私であっても、どんなあなたとでも対等である」っちゅうのはエエ感じでっせ。

 今日の運勢は、「やった昨日と同じや!」でっせ。
 ♪あしたという字は、単なる『あ』と『し』と『た』と書くのね
 でっせ。
 明日が『明るい日』である必要がない。
 まあ、あって貰いたいが、そんなもんは単なる迷いでしかない。

 土の子。
 土着の子。
 ドンマカ、ドンマカと大地を歩く土の子。
 「あなたはあなたになればイイ。あなたはあなたであればイイ」という土の子。

『鬼畜・阿弥陀仏よや、おいおい』(西村望)

2008年07月04日 | 坊主の家計簿
 7月4日

 雑費  温泉マッサージ     1000円
 外食  回転寿司         315円
     焼肉ビール       1869円

 合計              3184円
 7月累計           16772円

 御近所温泉へ。で、ビックリ。うちの風呂場には鏡がないのだが、温泉にはある。で、ビックリ。首から上が真っ黒け。丁度、法衣で隠れてない所が日焼けバリバリでんな。今日も暑かったし。

 「経は鏡の如し」やったっけ?そんな言葉を教えて貰った事があるのだが、まあ、教えを聞いて我が身を見出す。か。

 今日は温泉マッサージだけの予定だったのだ。前の休みの時に爆睡したとはいえ、体の疲れは取れてない。ので、温泉マッサージだったのだが、焼肉ビールは血液サラサラ計画でもって辞めとこうと思っていたのだが、マッサージ機に揺られている間にこれがでんなぁ。。。温泉から出ると自然に自転車が焼き肉屋に向かっててでんなぁ。。。まあ、いつもよりは控えめだったんだが、焼肉ビールと。

 【さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし】(歎異抄 第十三条)

 この間、某バーで朝までゴチャゴチャと諸々話。なんか、話が他者理解へ。
 他者を理解する事は不可能である。あくまでも自分から見た他者でしかないし。それはどこまで行っても変わるわけがない。
 が、「その人を理解しようとする事」とは別問題。
 「あんなヤツ」等と切り捨てるのでなく、「理解しようとする」「出会おうとする」事は大事な事だと思う。
 エゴ(自我)は切り捨てる。「あんなヤツ」なのだ。敵だったり、キライな相手だったりする。そうやって、気の合う人達とだけ仲間になろうとする。で、理解不能な人、キライな人、敵の云う事は聞こうとすらしない。出来ない。
 そうやって、『出来ない自分』として自分を見出すのか、それとも常に相手のせいにするのか。この辺が変わり目だと思うのだが。
 相手のせいにする。認めない相手の云う事は聞こうとすらしない。そうやって、自分の世界を狭める。
 敵、キライな相手の話が聞けないのは当り前の事なのだ。それは鬼畜米英が証明だろう。だが、今日、鬼畜米英と同盟国の日本であったりもする。今は、鬼畜中朝か?時代は変わっても人間は変わらない。

 行動する仏教。
 自分が居座っている『座』から立ち上がり、行動する。別に社会運動だけの話ではない。当然、社会運動もそうなんだろう。真宗僧侶といっても江戸時代の身分は庶民ではない。民衆とは別身分であった。それが故に「そんなもん、勝手に行ったらエエやん」という所、人に会うのも躊躇する人も居てる。
 まあ、社会運動だけでなく、単に『認めていない人』なんだろう。すぐに社会のせいにするのは自己がなくて大キライな話なんだが、それはそういう人生を歩んで来られただけの話だけだし、まあ、しゃーない。
 『認めてなかった人』『認めたくない人』
 例えそれを『社会』のせいにしようが、前世のせいにしようが、何のせいにしようが、まあ、認めてなかった認められない人達。その壁を越える。寺社会なら寺の塀を越える。
 個人の垣根を越える。

 違う意見は聞けないし、聞こうとすら出来ない。例えそれを『社会』のせいにしようが、解放の大義名分だろうが、そんなもんを取っ払ってしまえば、単に聞けない個人しかいない。聞こうとしない個人しかいない。

 当り前の話なんだが、立場が違えば違う立場である。そこに差異はない。単に立場が違うだけの話である。
 違う立場を認める事が出来ない事を社会のせいにする。
 天皇が清浄な世の中ならば社会的に穢れとされていた人、等々。
 社会のせいにして、個人から逃れる。
 差別しているのは社会のせいでなく、個人の問題である。個人の問題でしかない。それ以外の所に、例えば『社会』のせいにするから個人が忘却される。

【阿弥陀如来が全責任を負うてくださるということは、それは、自分が全責任者であることに帰着する。】(曽我量深『異るを嘆く』より)

 この一文が好きだ。大切にしたい言葉。
 
 社会に奪われる。個人を社会に奪われる。私を社会に奪われる。
 私もやりがちなのだが、何か大きな事件があると社会的に判断したりする。「こういう社会であるから、こういう事件が起こるのだ」と。
 それは一面、事件を起こした人以外の私(達)の責任を考える為であると思うが、それなら、『社会』のせいでなく『私』のせいである。犯人の親は「私の育て方が悪かったから」と明確に『私』がある。決して『社会』ではない。
 どうなのだろうか?犯人の親が「子どもが殺人を犯したのは社会が悪いのです」と云ったらどういう印象を持つだろうか?それと同じ事をやっている。社会に生きている『私』の忘却である。社会に『私』が奪われている。
 犯罪を起した人。「どうせ負け組だから」等。それも社会意識が先にある。どんな生き方であってもそれが私の人生である、という事がない。

 『みんな』
 「みんながやってるから」という答え。「みんなが云ってるから」という答え。
 そんな答えでもってアクセク、あくせく。

 『みんなと私』
 自立と連帯。

 意見は異なる。立場も異なる。
 異なる立場の人の意見は聞けない、聞こうとしない=鬼畜中朝。

 わがまま。自我。エゴ。
 故に、違う立場には違う考え方がある。

 批判は、相手の話を徹底して聞かなければ批判は出来ない。だから議論は楽しい。違う、異なる立場の人達が、同じ場に居れるから。

真宗仏教の御布施

2008年07月03日 | 坊主の家計簿
 7月3日

 食類  野菜ジュース      198円
     タマネギ        125円
     とんかつ        138円
     牛バラ         292円
     牛バラ         240円
 雑費  散髪         2000円

 合計             2993円
 7月累計          13588円

 朝、昨日は一日中寝てたし、目覚めもスッキリ。なんだが、眼鏡っ娘(?)の私は寝る時は眼鏡を外している。多分、裸眼で0.03ぐらい。何やら黒いものが。。。近寄る。クモやんけ。。。微妙にデカイクモやんけ。。。うちは4階やぞ、ようここまでやって来た。と、資料入れに使おうとストックしている大きな使用済み封筒でクモをすくって窓からポイ!っと。まあ、クモやし、軽いから死ねへんやろ。部屋に置いとくのはイヤやから追い出すけど、殺すのはイヤやし。
 ああ、朝からなんて私は素晴らしい事をしたのでしょうか。これで私は地獄に堕ちても大丈夫なのです。地獄に堕ちた時に、今日助けたクモが「兄ちゃん、あの時はありがとうな」と、私を地獄からクモの糸で助けて呉れる事、間違いなしなのです。。。
 と、アホな慢心気分で仕事スタート。クモ一匹助けたからいうて、毎日どれだけ見えへん命を殺しとるねん。自覚出来ひんもんはもの凄く殺しとるぞ。

 仕事が終わって、意味なくカレー作り。なんとなく食べたくなったのだ。まあ、大量に作って冷凍室に放り込んどけば便利やし。
 カレーを作り終わって、早めの晩飯を食べたら睡魔が来る。夕寝の始まり始まり。
 起きたら阪神ピンチ。1対1である。今日、勝てば完全に中日を突き放す事が出来るのだ。優勝が半分は決まるのだ。しかも今日は朝からクモを助けた。あのクモがきっと阪神を勝たせてくれるはずである、やった矢野!バット折りながらよう打った!
よっしゃ、これで大丈夫や。後は藤川やから負ける事はない。
 
 ふと視線を変えると携帯電話がピコピコと光ってる。何やら寝てる間に電話があったらしい。
 電話する。ある人から御布施の相談。「明日法要やねんけど、御布施ってどれだけ包んだらエエねん」知らん、っちゅうねん。。。しかし、世話になった人なので「知らん、っちゅうねん」とは云えず、「いやぁ~、よう知りませんわ」と。内容は変わっていないが、とりあえず言葉使いだけは若干丁寧にやなぁ。。。
 んが、まあ、向こうが世話になる寺は私がよく知っている寺だし、場所柄なんぞも考えて、一応の目安みたいなもんは伝えたのだが、当然、「知りまへんで」と付け加える。知らんもんは知らん。

 御布施。一度ちゃんと書いてみたかったのだが、今日は阪神が優勝半分決まった日なので、半分だけ書こ。つまり『丁寧に』ではなく、適当に、と云う事で。
 御布施。検索したらすぐに見つかると思うが御布施は行である。修行である。布施を渡す方(檀家)も、受けとる側(僧侶)も共に布施に執着してはいけない。まあ、具体的には金になるのだが、「金額が多いの、金額が少ないの」という執着に対する修行である。
 よって、「当寺の御布施は、法事はナンボから、葬儀はナンボからとなっております」というメニューみたいなもんはない。ある寺もあるのかも知らんが、今の所は知らん。一応、「なんとなく」である。なんとなくであるから、今日私に電話して来た人も、その寺の住職とも直接の知り合いであるにも関わらず、「何度も聞くのはイヤやしなぁ。。。」と私に電話してきたりする。「だいたい、どれぐらいやねん」と。
 一応の建前が御布施だし。渡すのが『御布施』である以上、やっぱり執着に対する修行だし。

 真宗仏教での修行は『ただ念仏』だけである。他の修行はない。なんだが、不思議な事に布施行だけはある。
 私が知ってる範囲では親鸞は布施ではなく『こころざし』ではなかったか。関東の門弟(?)から金をもらった時も「こころざし」である。

 例えば
【護念坊のたよりに、教念御坊より、銭二百文、御こころざしのもの、たまわりてそうろう。】(大谷派の真宗聖典569ページより)
【さては、御こころざしの銭五貫文、十一月九日にたまわりてそうろう。】(大谷派の真宗聖典575ページより)
 等々である。

 なので、大谷派の本山でも、本山でする読経については『読経志』として「ナンボ以上」と金額が明記されている。これはいわゆる『相場』というやつとは呼べない。金額が見事に明記されている。よって『御布施』等とは呼べない。金額が明記されている以上、金銭に執着しているわけだし。

 ついでだが、本山でタダで出来る法事もある。なに、単純な事だ。本山では毎日読経をしているし、一緒に勤行(読経)出来るようにもなっている。正信偈は一緒に勤行出来る。多分、誰でも参加出来る。当然、タダである。何度も行ったが金を請求された事はない。法話もタダで聞ける。私も法事に行く事があるが、私なんぞよりも遥かに法話が上手な人の法話がタダで聞ける。
 「○○さんの為」という事ではないが、参加する側の意識までは縛る事は出来ない。一緒に勤行して、法話を聞いて、帰りに家族なんぞで一緒にメシを喰えばイイ。メシ代だけで済む。向かいに王将もあるし、餃子2人前とビールで1000円くらいか?まあ、どうでもエエねんけど。
 まあ、本山でもわざわざ読経して貰えば『読経志』がかかるが、まあ、タダでも法事が出来るわけでんな。一応、参考までに。行くのなら、日曜日の高倉会館が狙い目でっせ。

 ん?話が。。。
 『読経志』は布施ではない。布施行ではない。よって、本山では見事に金額が『ナンボ以上』という形ではあるが明記されている。これは布施行とは呼べない。
 っちゅうか、最初から真宗では布施行などないのだから。あったらおかしい。ある方がおかしい。

 坊さん同士の御布施の話もよく聞く。
 その逆の話もよく聞く。
 当然、『真宗』に限定した話である。真宗に限定した話なんだが、真宗仏教では僧侶も門徒も共に『真宗門徒』であり、基本的にはいわゆる『僧』と『檀家』の関係ではない。共に同じ念仏という修行しかしない。故に、真宗僧侶は全く貴くない。門徒と同じ立場でしかない。後は役割の問題でしかない。
 また、修行方法も念仏だけである。故に、御布施についての愚痴(?)不平(?)は、真宗坊主、門徒側からもよく聞く。執着バリバリである。当り前である。執着から離れる事など出来るわけがないし、御布施が修行である事なんぞも、まあ、知らない人の方が多いのではないのか?

 先日、違う教団なのだが、同じ真宗仏教教団で葬儀をした人と偶然にあった。話を聞いてみると法名(いわゆる戒名)を付けるのに最初「20万円必要」と云われたそうな。当然、『院号』という特別料金がかかるものではない。院号なしの単なる法名である。結局値段は下がったらしいのだが、え~。。。この辺が『御布施』の怖い所。
 真宗教団以外ではかなり高額な話を聞いたりもする。まあ、それはそれなりの『御布施』としての意味があるのだろうが、真宗仏教に御布施ってなぁ。。。かなりそぐわんと思うのだが。。。

 布施に関しては思い出がある。恩師から「布施は法施に対するものです。法施がなければ泥棒です」と。
 それは名前を『読経志』に変えても同じであろう。
 
 ただ、『御布施』という名称は修行方法であり、(現在では)金銭に対する執着心に対する修行方法である。だから、おかしな事が多々起ってくる。

 一休禅師の歌で
 【人はみな 欲を捨てよと いいつつも あとで拾うは 寺のしょうにん】
 とかなんとかいう歌があったと思うが、調べても出て来んし、本棚を調べるのも面倒なので「あったと思う」なんだが、「そのまんまやんけ」っちゅう部分が多くないか?

 執着を離れる為の行とかいうのでなくやな、「ナンボ以上」と明記しつつも、「御相談にのります」でエエのではないのか?なけりゃ、なけりゃでエエやん。
 持っているなら「ナンボ以上」の金を払えばエエのだし、なければ「すいません、これしか出せないのですが。。。」でエエやん。

 ちなみに大谷派の東京辺りでの支部(東京教区)では『仏事代行』っちゅうのをやっている。
 なにやら、首都圏に出て来た門徒さん家族が亡くなった時に、葬儀屋に頼むのでなく、東京にあるらしい真宗会館に電話してくれとの事。で、そこから坊さんを派遣してくれるらしい。
 最初に知った時から「おお、素晴らしい制度やのぉ。。。」と注目をしているのだが、いかんせん私は大阪であり、しかも東京は小笠原を取った巨人の本拠地である。小笠原には阪神が似合うではないか。小笠原が居れば阪神のサードは小笠原で決定であって、もっと早くに優勝が決まっていたではないか。
 1番 鳥谷
 2番 赤星
 3番 新井
 4番 金本
 5番 小笠原
 6番 林
 7番 矢野
 8番 関本(藤本)
 で見事な打線ではないのか?

 ん?そや、よって東京は巨人の本拠地なのでいかんせん好きではない。関ヶ原の怨みもまだ忘れん。
 なので、ちゃんと調べていないのだが、この『仏事代行』の葬儀にかかる金、葬儀をする時に真宗会館(僧侶)に払う金は『読経志』なのだろうか、それとも『御布施』なのだろうか?
 また、金額が提示されているのだろうか?
 首都圏は葬儀の相場が高いと聞いているが、相場と比べてどうなんだろうか?ある意味、首都圏の葬儀相場の目安になると思うのだが。
 気が向いたら、調べよ。

 寺の経済の話はタブーなのかも知れない。
 けど、恐らく江戸期に『一休禅師作』として作られた歌が
【人はみな、欲を捨てよと いいつつも あとで拾うは 寺のしょうにん】
 である。
 今も変わらぬ状況がある。
 真宗僧侶が清貧である必要もないが、「御布施が高いから」というだけの理由で仏事が出来ないのは悲し過ぎる。そういう状況が都市部では多くある。

休み

2008年07月02日 | 坊主の家計簿
 先に6月〆

 一般会計       112482円
 電気代(5月分)     2073円
 水道代          5768円
 ガス代(6月分)     3145円
 国民健康保険      26400円
 医療保険         4740円
 家賃          32430円
 携帯電話         3786円
 ネット代         3360円

 合計         194184円
 これに一括払いの年金の月割り14109円をプラスすると
            208293円



 7月2日

 1円も使ってません。

 7月累計         10595円

 休みなので、休む。