坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

2008年07月19日 | 坊主の家計簿
 7月19日

 外食 ちゃんぽん       660円
 食類 鶏ミンチ        112円
    鶏胸肉          87円
    なめたけ         58円
    うどん玉         28円
    豆腐           98円
    水菜           98円
    もやし          29円
 雑費 たばこ(昨日)     300円
    タバコ10(昨日)  3000円
    レンタル        105円

 合計            4575円
 7月累計         88033円

 昨日、深夜帰宅だったので、今日はヘロヘロ。よってレンタル屋に行ってボンヤリ見れそうなビデオを探す。
 『東京原発』http://www.bsr.jp/genpatsu/に決定。ぼんやり観る。

 映画と全然関係なく。
 安田理深という大谷派のスーパービックネーム先生が亡くなられた後に部屋を整理していたら『片肺不全。不安に立つしかない』というメモが出て来たらしい。あくまでも『らしい』である。それに私の記憶が間違っているかもしらんし、あくまでも『らしい』と云う事で。

 この間、某学習会で「ビハーラは真宗ではない」という意見がある事に対して少し議論があった。
 まあ、当然、っちゅうたら当然だろう。『ビハーラ=真宗』なら、念仏は不要になる。『念仏=真宗』以外の論理はないだろう。
 それは別に『非戦=真宗』でも『解放運動=真宗』でもなんでもイイ。
 非戦運動=浄土往生であるわけがなく、解放運動=浄土往生であるわけがない。念仏は念仏でしかなく、念仏申す生活の中にビハーラがあれば、その人にとって『ビハーラ=真宗』になるのだろうが、それは直接的なものではない。直接的なのはあくまでも念仏でしかない。それは非戦でも、解放運動でも同じである。決して直接的な事ではない。
 
 ビハーラが単なる緩和ケアなら、それはあくまでも緩和ケアでしかない。
 遺族外来はあくまでも遺族外来にしか過ぎない。あくまもで『癒し』である。
 当然、癒しも大事である。私が専修学院という坊さん道場を一度卒業してから数年後にヘロヘロになってもう一度行った時に当時の院長先生は「まずはゆっくりと休んで下さい」と云ってくれたし。
 また、傾聴や寄り添う事も大事である。相手を相手のままに受け入れる事も大事である。
 だが、当然の如く、それ等がイコール真宗であるわけがない。

 『片肺不全。不安に立つしかない』という言葉がまた気になる。
 片側の肺がダメになった、自分の死がどんどんと近づいて来ている。それは外の誰でもなく私の人生である。だから引き受けなければならないのだが、煩悩がある。煩悩があるから不安がある。故に『不安に立つしかない』と、いう事なんだろうか?

 『不安を絶つ』のはアヘン。あるいは「まあ、パア~っといっときましょ」っちゅう感じか。
 『不安を和らげる』のは癒しか。癒しでもって不安を和らげる。
 『不安に立つ』は不安を私にする。不安なのだ。不安でしかない。そんな不安を消す事も、和らげる事もなく不安を不安として引き受ける。立つ。

 本を読んでたら安田先生のこんな言葉が出て来た。
【自分の分限を忘れている者を凡夫に呼び帰す。呼び帰された凡夫は単なる凡夫ではない。そのまま無限を実現する場所となっている凡夫である。】(二階堂行邦『自分が自分になる』113ページより)

 不安になる時が多々ある。そんな時に安田先生の『片肺不全。不安に立つしかない』という言葉を思い出す。
 不安であるが故に不安を忘れようとしたり、不安を誤摩化そうとする。でも、先生はそうではなく、『不安に立つしかない』である。
 変な表現だが、「不安であってもイイんだ」と。不安というマイナスイメージを消し去ろうとしなくても全く構わないと。そしてそういう事を言葉でもって残して呉れて、私がそれを知る事ができ、私の力になる。

 よゐこはカッコ付けでもあるので、「俺に不安なんてないぜ」に成りがちであって、それはそれなりに突っ張らなくては生きて行けない哀しみでもあるのだが、そうやって『不安』であるとかを否定する言葉を残して行く事によって、「不安であってらイケナイんだ」になる。
 違う表現では「いつも明るく元気よく」である。いつも明るく元気よく振る舞おうとする。そういう状態でない時は『世間』に出れない。
 出れないのは「出てくるな!」という事でもある。『明るく元気よく』が世間に出る条件になる。落ち込む、悩む、不安などは『マイナス』であり、『マイナス』であるが故に、世間に出れない。「出てくるな!」である。
 健康でないと、世間での居場所がない。自分で与えない。
 「申し訳ない」になる。「申し訳ないね。」になる。「こんな状態で申しわけないね」になる。
 それは排除である。「こんな状態で申し訳ないね」とは排除であり、「こんな状態では世間に出てはいけない」「世間に出てくるな!」である。

 当然、無理して出る必要もない。言い換えると「どんな状態であっても、そのままの状態で世間に出なければならない」というのも『元気』を中心にした思考である。健康第一の発想である。

 選択肢。
 「明るく元気よく」でないと世間に出てはいけない、というのなら選択肢がない。『出てはいけない』という選択肢しかない。社会制度で定められた『喪』である。『喪中につき』なんたらかんたらである。

 と、なんたらかんたら書いてたら眠くなったので寝よ。