坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

天下一品

2008年07月08日 | 坊主の家計簿
 7月8日

 外食  回転寿司       504円
 食類  厚揚げ(数日前)   170円
     ダカラ        100円
     エリンギ        98円
     天かす         30円
     モヤシ         29円
     タマゴ        198円
     豆腐          98円
     地鶏         209円
     麺類3         84円

 合計            1520円
 7月累計         25579円

 朝、大雨。雷は鳴るわ、「無茶苦茶でんな。。。」なんだが、仕事なので傘とカッパのダブル防御で出かける。なんだが、踏切が。。。元から朝のラッシュ時には弱いのだが、雷雨のせいか、電車も遅れているみたいで踏切が開かん。踏切を待ってる間に雨が小降りになって来たからまあエエか。

 とは云え、昨日、帰り際に天下一品でついつい唐揚げ定食を食べてもうてやなぁ。。。ちなみにラーメン並(当然、こってり)と唐揚げ&白飯。昼飯でもボリューム満点や、っちゅうねん。朝から、胃が重い、っちゅうねん。

 テレビで『僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった-カウラ捕虜収容所からの大脱走』(http://www.ntv.co.jp/cowra/)を観る。
 最初辺りは晩飯を作りながらだったのでちゃんと観てないのだが、かなりエエ。
 けど、少し気になった部分があった。
 最後の辺りに加藤あい演じる孫が、戦争経験したお爺ちゃんに、捕虜収容所に居たお爺ちゃんに対して「お爺ちゃんは私の何倍も真剣に生きて来たのね」みたいなセリフがあった。ひょっとするとちゃんと観てなかった最初辺りにお爺ちゃんをバカにする様なシーンがあったのかも知れない。それに対する懺悔としてのセリフだったのかも知れない。
 なんだが、少し気になる。

 確かに、『戦争』や『捕虜収容所』という経験をした人は今の私(達)にとって珍しい経験をした人ではある。が、それも人生だったはずである。それぞれの人生経験でしかないはずである。
 方や、戦後の平和ボケで生きている人生もある。
 決してどちらが真剣で、どちらが真剣でない、と云う事はあり得ない。比較する人生が違うから。比べるべきものではない。
 これは一人の人間の中での時間軸でも同じである。「あの頃はよかった」「あの頃の俺は輝いていた」等は、おかしい。比較すべきものではない。変わっただけなのだ。変わったにも関わらず、『思い』が苦しめる。

 今日も阪神が勝った。金本は同じ年のはずである。下柳もか。同じ年でありながら、私と阪神の4番とエース(?)は全然違う。向こうはスポットライトを浴び、そして特に金本なんぞは『阪神を変えた男』である。練習の虫・金本の加入によって阪神は変わった。他の選手達が金本から多大なる影響を与えられた。
 方や、私は昨日の夜遅くに食べた天下一品唐揚げ定食で「ああ。。。胃が重いよぉ。。。」と部屋でゴロゴロである。その辺は見事にスポットライトや収入に反映されている。
 んが、私には私の人生がある。胃もたれする人生があっても構わない。
 
 「ああ、金本って同じ年やのに偉いのぉ。。。」とは思うが、それで自分を苦しめても仕方がない。意味がない。あり得るとするならば、比べてしまう事によって「あなたにはあなたのたった一度きりの人生があるではないか」である。
 どうしても比較してしまう。比較して「あいつより上」「あいつより下」等と、本来無いはずの座標でもって慢心し、卑下する。比較の中から「念仏申せ」と、比較する相手から念仏を勧められている気になる。そして何故比較してしまうのか、例えばテストの点数であれば「上の方がイイ」という『思い』に私が縛られているが故に、テストの点数でもって自他を判断し、慢心し、卑下する。
 金本なら努力や、才能や、注目度なんだろう。それ等の意識に私が縛られているが故に、金本と自分を比べて「ああ、羨ましいのぉ」なんだが、それはイコール自分よりも『下』の人に対しては慢心して『下』と判断し差別してしまっている事になる。
 他人と自分を何かの座標軸でもって比べる。で、上だの下だのと。比較を通して自分が何に縛られているのかを見つめ直す事が出来る。そして、「私は私である」という事を、つまり、全く独立出来ていない自分を見出すが故に、独立者になろうとする働きが芽生える。

 戦争中。今日の『僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』を観ながらも思ったのだが、戦争中は兵隊がカッコ良かったらしい。「大きくなったら兵隊になりたい」等と。私たち世代なら、野球選手やプロレスラーに憧れるみたいな感じで兵隊に憧れたのだろう。戦死が栄光であり、『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』であったらしい。
 別に戦争時代だけではない。
 自分の人生を誰か、何かと比べて、自分の人生を『トイレットペーパーよりも軽く』扱っていないだろうか?
 また、何かの価値観でもって、つまり偏見でもって、他人の人生を『トイレットペーパーよりも軽く』扱っていないだろうか?一体、誰にそんな権限があるのだろうか?あるのなら何か超越的な存在、神であったり仏であったりするのだろうが、まあ、『神』には様々な宗教の神がいるから一概にはいえないが、どんな人生を歩んでいても、その人生を『トイレットペーパーよりも軽く』扱ってイイ、というような仏は仏と呼べない。それは仏弟子であっても同じ事だ。

 『僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』では、大泉洋演じる兵隊が当時の価値観では『みっともなく』とも生きる道を選んだ。同じ班で、たった一人だけ、周囲から何を云われても『生きる道』を選んだ。
 
 戦争は終わった。が、時代が変わっただけで、価値観の戦争は変わらずある。
 戦後の民主主義では民主主義に貢献したかどうかも価値観戦争である。
 サミットという戯けた秘密集会の入会条件には『民主主義国家である事』等もあるらしいが、それのどこが民主主義なんだろうか?民主主義主義でしかない。
 どれだけ社会貢献出来たか、であろうが、何の価値観であろうが、時代が変わってもある。
 それに対して無関心であるのでなく、言葉を代えて云うと「そんなん、他人と比較したらカッコ悪いやん」という価値観でなく、価値観に縛られている、つまり『苦』があり、その『苦』を通して、比較を通して、引き受けられない自分を通して、それを力にする。独立者になろうとする。
 「独立者である。」とは無関心である。それには『呼びかけ』がない。本来、独立者であるにも関わらず、そうはなれない、死ぬのはイヤだし、何かの価値観の中、『思い』の中で縛られている。それが故の『呼びかけ』であり、『帰依』である。『帰依(南無)』しようとする事が出来る。

 価値観の戦争は終わらない。煩悩がなくならないから終わる事などあり得ない。
 その為に「自分は負け組だから。。。」等と自暴自棄になったりもする。何かの価値観でもって、居場所を無くす。居場所を与えられない。戦争中なら「貴様はそれでも帝国軍人か!」である。
 違う、私は私でしかない。
 念仏者は浄土にしか行けない。何か特別な事をしたからといって、何か特別な所に行けるわけがない。靖国の英霊にはなれない。なり得るわけがない。どれだけ、例えば仏教教団に貢献した、日本の仏教界に貢献した、多額の布施をした、多くの人を教え導いた、多くの人命を救った、からといって、何か特別な所には絶対に行けない。念仏しか申す事が出来ない人と同じ所にしか行けない。それはイコール、まあ、娑婆世間での価値観は違うだろうが、こと『仏教』という事に関しては全く同じ価値しかない。阿弥陀如来から与えられた絶対平等の価値観しかない。
 「私はあの人に比べて。。。」等は、個人の『思い』でしかない。
 故に【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】という仏からのメッセージを大切に出来る。

 「真剣に生きる」も、「精一杯生きる」も、所詮は『思い』である。差別原理である。
 だから、「あの人は私よりも数倍真剣に生きている」と云う事は、「あの人は私よりも真剣に生きていない」と云う事でもある。
 「あの人は精一杯生きている」は「あの人は精一杯生きていない」である。
 それを個人にするのなら、「私は真剣に生きていない」であり、「私は精一杯生きていない」と自分を追い込む。だから苦しい。

 先の戦争は終わった。平和である。が、決して平和ではない。価値観の戦争は変わらず続いている。
 価値観の戦争も人を殺している。自分を殺し、他者を殺している。
 戦争はしていない。でも、戦争の準備は常に問われている。
 『トイレットペーパーよりも軽い』人生など、あり得るわけがない。
 っちゅうか、『トイレットペーパー』も、元々は木であり、その木を育てる為に大地があり、自然があり、それを『トイレットペーパー』として作った人達がいて、運んだ人がいて、買った店の人達がいる。だから、トイレットペーパーでも、比べる事はおかしな話なんだが。トイレットペーパーと同じ価値しか本来ないはずなのだから。同じ価値しかなくとも、それよりも『重い』とか『軽い』とかの話は妄想でしかない。あくまでも価値観でしかない。

 常日頃から、様々な『価値観』に左右されて、自分を自分として引き受けれない事は、その価値観が『御国の為に』なり『世界平和の為に』なり、『アジア民衆の解放の為に』なり等の価値観に振り回される危険性がある。実際、今、何かの価値観に振り回されているのだから。
 【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】
 というのは、常に過激な平和メッセージである。
 戦争中は国家から期待されるような国民に成らざる得なかった。今でも何かの価値観から期待されるような生き方をしようとしている。何かの価値観に縛られている。
 それが故に【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】である。
 どんな人生でも天下一品である。
 そして、天下一品はやっぱり美味い。
 通販でも買えるみたいなので、食べた事のない人は是非是非。
 http://www.tenkaippin.co.jp/pcindex.html
 ちなみに今買うと「天下一品オリジナル・天下一品ロゴ入り扇子(限定品)」というのが貰えるらしい。