坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『鬼畜・阿弥陀仏よや、おいおい』(西村望)

2008年07月04日 | 坊主の家計簿
 7月4日

 雑費  温泉マッサージ     1000円
 外食  回転寿司         315円
     焼肉ビール       1869円

 合計              3184円
 7月累計           16772円

 御近所温泉へ。で、ビックリ。うちの風呂場には鏡がないのだが、温泉にはある。で、ビックリ。首から上が真っ黒け。丁度、法衣で隠れてない所が日焼けバリバリでんな。今日も暑かったし。

 「経は鏡の如し」やったっけ?そんな言葉を教えて貰った事があるのだが、まあ、教えを聞いて我が身を見出す。か。

 今日は温泉マッサージだけの予定だったのだ。前の休みの時に爆睡したとはいえ、体の疲れは取れてない。ので、温泉マッサージだったのだが、焼肉ビールは血液サラサラ計画でもって辞めとこうと思っていたのだが、マッサージ機に揺られている間にこれがでんなぁ。。。温泉から出ると自然に自転車が焼き肉屋に向かっててでんなぁ。。。まあ、いつもよりは控えめだったんだが、焼肉ビールと。

 【さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし】(歎異抄 第十三条)

 この間、某バーで朝までゴチャゴチャと諸々話。なんか、話が他者理解へ。
 他者を理解する事は不可能である。あくまでも自分から見た他者でしかないし。それはどこまで行っても変わるわけがない。
 が、「その人を理解しようとする事」とは別問題。
 「あんなヤツ」等と切り捨てるのでなく、「理解しようとする」「出会おうとする」事は大事な事だと思う。
 エゴ(自我)は切り捨てる。「あんなヤツ」なのだ。敵だったり、キライな相手だったりする。そうやって、気の合う人達とだけ仲間になろうとする。で、理解不能な人、キライな人、敵の云う事は聞こうとすらしない。出来ない。
 そうやって、『出来ない自分』として自分を見出すのか、それとも常に相手のせいにするのか。この辺が変わり目だと思うのだが。
 相手のせいにする。認めない相手の云う事は聞こうとすらしない。そうやって、自分の世界を狭める。
 敵、キライな相手の話が聞けないのは当り前の事なのだ。それは鬼畜米英が証明だろう。だが、今日、鬼畜米英と同盟国の日本であったりもする。今は、鬼畜中朝か?時代は変わっても人間は変わらない。

 行動する仏教。
 自分が居座っている『座』から立ち上がり、行動する。別に社会運動だけの話ではない。当然、社会運動もそうなんだろう。真宗僧侶といっても江戸時代の身分は庶民ではない。民衆とは別身分であった。それが故に「そんなもん、勝手に行ったらエエやん」という所、人に会うのも躊躇する人も居てる。
 まあ、社会運動だけでなく、単に『認めていない人』なんだろう。すぐに社会のせいにするのは自己がなくて大キライな話なんだが、それはそういう人生を歩んで来られただけの話だけだし、まあ、しゃーない。
 『認めてなかった人』『認めたくない人』
 例えそれを『社会』のせいにしようが、前世のせいにしようが、何のせいにしようが、まあ、認めてなかった認められない人達。その壁を越える。寺社会なら寺の塀を越える。
 個人の垣根を越える。

 違う意見は聞けないし、聞こうとすら出来ない。例えそれを『社会』のせいにしようが、解放の大義名分だろうが、そんなもんを取っ払ってしまえば、単に聞けない個人しかいない。聞こうとしない個人しかいない。

 当り前の話なんだが、立場が違えば違う立場である。そこに差異はない。単に立場が違うだけの話である。
 違う立場を認める事が出来ない事を社会のせいにする。
 天皇が清浄な世の中ならば社会的に穢れとされていた人、等々。
 社会のせいにして、個人から逃れる。
 差別しているのは社会のせいでなく、個人の問題である。個人の問題でしかない。それ以外の所に、例えば『社会』のせいにするから個人が忘却される。

【阿弥陀如来が全責任を負うてくださるということは、それは、自分が全責任者であることに帰着する。】(曽我量深『異るを嘆く』より)

 この一文が好きだ。大切にしたい言葉。
 
 社会に奪われる。個人を社会に奪われる。私を社会に奪われる。
 私もやりがちなのだが、何か大きな事件があると社会的に判断したりする。「こういう社会であるから、こういう事件が起こるのだ」と。
 それは一面、事件を起こした人以外の私(達)の責任を考える為であると思うが、それなら、『社会』のせいでなく『私』のせいである。犯人の親は「私の育て方が悪かったから」と明確に『私』がある。決して『社会』ではない。
 どうなのだろうか?犯人の親が「子どもが殺人を犯したのは社会が悪いのです」と云ったらどういう印象を持つだろうか?それと同じ事をやっている。社会に生きている『私』の忘却である。社会に『私』が奪われている。
 犯罪を起した人。「どうせ負け組だから」等。それも社会意識が先にある。どんな生き方であってもそれが私の人生である、という事がない。

 『みんな』
 「みんながやってるから」という答え。「みんなが云ってるから」という答え。
 そんな答えでもってアクセク、あくせく。

 『みんなと私』
 自立と連帯。

 意見は異なる。立場も異なる。
 異なる立場の人の意見は聞けない、聞こうとしない=鬼畜中朝。

 わがまま。自我。エゴ。
 故に、違う立場には違う考え方がある。

 批判は、相手の話を徹底して聞かなければ批判は出来ない。だから議論は楽しい。違う、異なる立場の人達が、同じ場に居れるから。