坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

都市伝説

2008年07月25日 | 坊主の家計簿
 7月25日

 外食  回転寿司       439円
 雑費  ジュース        35円
 
 合計             474円
 7月累計        105402円

 回転寿司に行く。お寿司2皿と茶碗蒸しを食べた段階で悩む。「これって客単価安いよなぁ。。。」。まあ、別にエエっちゅうたらエエのだが、丁度『インドマグロ中トロ』が流れて来たのでゲット。これなら1つやし。
 食べながらある噂を思い出す。何やらお金持ちの人達が行く皿が回っていない寿司屋には『大大トロ』と云うのがあるらしい。大トロよりも脂の乗った、っちゅうか『脂』だけのトロがあるらしい。超高級寿司屋でも『幻』とされる逸品らしい。一度は食べてみたいものである。

 また、これも噂で聞いたのだが、ステーキ。私は「オーストラリアの牛肉は日本国内の牛肉よりも安全である」という明確なポリシーでもってOGビーフをこよなく愛しているのだが、何やら国産牛肉、え~『サシ』とかいうんやったけな?サシの一杯入った高級牛肉の中でも超高級な『サシだけの牛肉』があるらしい。つまり『脂』だけの牛肉らしい。美味そうである。OGビーフには『サシ』等がなく、っちゅうか、あるのもあるのかも知らんが、安い牛肉しか買わない私は知らん。んが、タマに『サシ』の入った牛肉を食べるとやはり美味い。
 思い出した『霜降り』とかいうらしい。その霜降りの牛肉の『霜』だけの牛肉があるらしい。あの美味なる牛肉の脂『だけ』なのだ。つまり『美味しい所だけ』である。当然、幻の逸品であるらしい。どれだけ幻であるかというと、決してテレビのグルメ番組でも流さない。あまから手帳にも載らない。決して報道なんてされない。何故なら一部の金持ちの人達が「こんな美味しいものを庶民に教えてはイケナイ。教えると『お前等だけが美味しいものを食べやがって!』と必ず暴動が起きる」と云われているらしい。
 その『霜だけ牛肉』は当然融ける。よって、炭火でも鉄板でもなく、フライパンで調理するらしい。熱したフライパンに塩胡椒で下味をつけた『霜だけ牛肉』を入れ、焼く。焼くと融ける。その融けた『霜だけ牛肉』に、ほんの少しだけ醤油で味付けをして食べるらしい。いや、『食べる』というよりも『飲む』らしい。熱々のとろけた脂を飲むらしい。口に入れる前から融けた脂を飲むらしい。絶品らしい。口と喉が大火傷するらしいが、絶品であるらしい。ああ、死ぬまでに一度は食べたいものである。

 また、『霜だけ牛肉』の豚バージョンもあるらしい。つまり『脂だけの豚肉』らしい。これも絶品であるらしい。調理法はやはり熱したフライパンに『霜だけ豚肉』を入れ、フライパンの中で『霜だけ豚肉』を融かすらしい。そして、その融かした大量の『霜だけ豚肉』の中に、我々庶民に親しみのある『赤身だらけの豚肉』にタマゴをつけ、小麦粉をつけ、最後にパン粉をつけて、余分なパン粉をたたき落してから入れてフライにするらしい。これがまた絶品であるらしい。ダシ汁で軽く煮て仕上げに溶きタマゴをサッとかけて、ネギを少々入れて、御飯の上に乗っけて食べると、これまた絶品であるらしい。ああ、死ぬまでに一度は食べてみたいものである。

 と、『やりすぎ都市伝説』を見て思い出した都市伝説。

 そういや、昨日、二次会バーで話してたんだが、『所属寺』っちゅうのが寺業界にはある。まあ、端的にどこかの寺に全ての坊さんは属しているわけでんな。他宗は知らんが、大谷派では。
 で、寺には住職がいる。住職以外にも坊主はいる。まあ、その寺の家族であったり、私みたいなヨソから来たもんであったり。
 『住職=師』であるといったような都市伝説があるらしい。
 私にはよく解らないのだが、そういう都市伝説があるらしい。
 それなら単純な話、多くの場合は寺の子どもが寺を継ぐから、その子どもにとっての師匠は親になる。まあ、自分の親を師と思う事もあってもエエとは思うが、『師』ってそんなに単純なものか?
 例えば、私は専修学院という道場に行っていたが、そこは『信国淳』という先生が大改革をされた。この信国先生の師は池山先生という。つまり『親』ではない。
 恩師・竹中先生の師は信国先生であり、今の院長先生の師も信国先生である(はず)。つまり『親』ではない。っちゅうか、所属寺の住職ではない。
 当然、『所属寺の住職=師』であっても構わないのだが、決してそれは固定化されたものではない。固定化されたのならそれは封建時代でしかない。
 また、真宗教団の基本は『同朋』である。『平座』である。『師』あるいは『先生』を持つ事は大事だが、師であっても先生であっても、同朋でしかない。対等な仏弟子でしかない。そんな事を恩師達から教えて頂いた。
 『教え』がなく、世俗の意味合いだけでの『師』なら、自分が弟子の時は師を崇めるが、自分が『師』になると偉そうになる。自分が偉く成りたい為の道として『師』を利用している。あくまでも『教え』が中心である。教えがあるから、師と共に教えを学ぶ事が出来る。師と共に同朋になれる。