坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『映画・靖国』と『あっさり』と『こってり』

2008年07月10日 | 坊主の家計簿
 7月10日

 食類  焼き鯖メシ       200円
     海鮮          100円
     菜の花         100円
     パスタ5        490円
     うどんスープ2     256円
     豆腐          138円
     麺スープ        228円
     トマトジュース       1円
     ペット水36     2520円
     アミノサプリ10    980円
 外食  アイスコーヒ&唐揚げ? 150円
 
 合計             5163円
 7月累計          40722円

 御仕事忙し。なんだが、何じゃかんじゃで昨日買った『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』を読み終える。
 
 映画『靖国』には上映中止騒動があった。詳しく知りたい人はネットで調べて下さい。経緯は諸々あったのだが、上映を中止した映画館が多数あった。第七藝術劇場以外は上映中止を決めたらしい。まあ、その後、全国の色々な所で上映しているらしいが。

 長野での聖火リレーでの自粛もあった。善光寺は自粛した。その自粛を善光寺は見事にイメージアップにつなげる事が出来たのだが、最初は圧力であった。

 少し前だが、自転車で道を走っていると見通しのいい住宅街の交差点で右手からオッさんがやはり自転車に乗ってやって来た。私はその交差点を直進する。オッさんは私が来た道の方に曲がりたかったらしい。オッさんとの距離を5メートルは残して私はその交差点を通過した。なんだが、オッさんは「何をフラフラしとるねん」と。
 私は「そうであった。。。私は世間に振り回され、その事がイヤになり今度は本当の自分を探そうとフラフラしていた。そういう常にフラフラしている『今の自分』を見出す事なく、フラフラしていた。フラフラしているのが紛れもなく『私』なのだ。他に『私』などいないのだ。師よ。御言葉をありがとうございます。」等とは言わずに瞬間にブチ切れて「お前もやろが!」とオッさんを睨みつけて怒鳴った。
 ああ、やっぱり外出は刺激的である。部屋で一人で居るとこういう刺激的な事はない。外出して『他者』がいるからこういう刺激的な事も起こりえる。

 映画『靖国』は様々な議論を起すぐらいには刺激的な映画である。まあ、靖国神社を取り上げたというテーマ自体が刺激的なんだろうが。その事によってある国会議員からの反発をくらい、ごく少数の右翼が、ほんのわずかな抗議行動をとっただけで上映が中止になった。まあ、著作権の問題もあったが、不思議な事である。

 外出は刺激的である。
 今日の帰宅途中、団地の茂みの中に猫がいた。何かを狙って居る様子である。狙って居る先を見ると鳩がいた。なんか呑気そうに居た。瞬間、邪魔しようかな?と思ったのだが、鳩が猫の晩飯になるのかもしれないのだし、辞め。

 安全な街。当然、安全な方がエエのだが、実際は安全でない場合もある。先の交差点でのオッさんなら、ほんの少し小言を云っただけである。多分、疲れていたのかなんなのか知らんが、心の中で思った事をフト言葉にしてしまっただけの話である。そしたら私から怒鳴られる。瞬間ブチ切れ状態だったのでフルマックスの声で怒鳴られる。まあ、お互い様だから別に私は悪いとは思っていないが、それでも怖かったやろうなぁ。。。ぐらいは思う。
 外出する事には多少の危険性がある事もある。無い場合が殆どだが、ある場合もある。人と人とのコミュニケーションは多様である。何か辛い出来事があって、「やってられるか!」状態の人から刺される危険性だってある。当然、ない方がイイのだが、ある場合もある。それが生きているという事だと思う。鳩は猫に狙われる事もある。

 狙われる事もある。決して安全でない場合もある。それがイヤなら死ぬしかない。あるいは部屋に閉じ篭って「誰も私を傷つけない空間」で過ごせばイイ。あるいは仲良しこよしの仲間達とだけコミュニケーションを取ればイイ。何を発言するにも、何を表現するにも、決して『仲良し』以外の人には眼の付かない所で、狭い空間で過ごせばイイ。他者不在の幻想の中で過ごせばイイ。
 喧嘩もしない。議論もしない。批判もしない。常に自分を傷つけない空間に籠ればイイ。

 結局仕事で行けなくて、結局右翼も来なかったイベントに『ショーは終わってんのお』やったかな?そんなイベントがあった。まあ、単純な話だ。京大・西部講堂で昭和天皇が死んだ時にパンク系のライブをやるだけの事。ただ、自粛ムードに反対しての事なので「右翼が来るかもしらん」と云う事で警備(?)を頼まれていた。まあ、喧嘩要員でんな。

 自粛。自粛なんぞせずに喧嘩を買うつもりで居ればエエのに。売られた喧嘩は買えばイイ。暴力がイヤなら議論すればイイ。映画『靖国』でも右翼が集まって議論したらしいし、右翼を『同じ人間』として見ないから自粛なんぞするのかも知れないし。抗議するのは意見があるからだろう。意見があるのなら議論すればイイ。

 『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』では、宮台真司と鈴木邦男の対談が面白かった。そこで宮台が紹介していたのは『ラディカル・デモクラシー』という概念。なにやら面白そうである。

【民主主義という市民社会的観点からも、治安維持という統治行為的観点からも「多少迷惑でも包摂しよう」と言い合えるのが重要です。包摂した上で「あんたは間違っている」と言えばいい。「あんたは間違っているが、あんたを抹殺しようとする者がいたら命がけであんたを守る」のが大切です。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』72ページより)

【ラディカルデモクラシーは二つの意味で「敵の抹消」に抗います。一つは「みんな仲良し」とか「対立がないのが良い社会」といった意味での「敵の抹消」。そんな社会じゃ誰も政治に参加しなくなります。もう一つは「民主制を認めない奴は抹殺する」という意味での「敵の抹消」。民主制を認めない奴でも、当座は暴力を振るわないというのなら存分に喋らせよ、それが民主主義だというのです。民主制は統治の問題ですが、民主主義は市民の覚悟の問題です。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』82ページより)

【「敵だから排除しろ」だと、いずれ自分が排除されます。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』84ページより)

 以上は宮台氏の発言だが、それ等を受けての鈴木氏の発言

【味方だと思ってた人の中にもひどい人が多かった。一方、敵と思っていた左翼の人たちの中にも、遠藤誠さんや、竹中労さんなど素晴らしい人がいることがわかったんですね。純粋培養された人は、幻影だけが大きくなって、敵にもいい人がいるということが分からない。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』85ページより)

【同じ意見の人が集まって、「異議なし」ってやってるほうが気持ちいいんですよ。それは僕も体験しているから分かる。それは左翼も右翼もそう。そういう人たちがどんどんいなくなって、右翼も左翼もほとんどないにも関わらず、悪い遺産だけが一般社会に拡がっているんです。】(『映画靖国・上映中止をめぐる大議論』91ページより)

 敵。昔なら鬼畜米英であり、今なら鬼畜中朝だったり、あるいは、まあ、やっぱり『敵』か。
 『他者』。他者は他者である。違う人間であるが故に他者である。全く同じ意見などあり得ない。あり得ないのだが、違いを見出すのでなく、同じになろうとする。つまり『違う部分』を隠す。「それは違う」と表現出来ない。
 嫌われる事の怖さ。孤独に陥ってしまうかもしれない怖さ。身内でワイワイと「みんな仲良し」の社会。閉鎖的な社会。
 
 傷つく事を怖れる。傷つける事を怖れる。怖れるが故に、幻想として、経験としての無難な事しか表現しない。まゆの中に包まれた閉鎖的な居心地のイイ空間。外出する事を避ける。他者と出会おうとする事を避ける。自分を覆い隠して、違い、他者と出会おうとしない。
 
 大義名分が流行る。大義名分があれば大義名分で押し切る事が出来る。大義名分が『答え』であるのなら、その答えをいえば『正しい』。大義名分の答えと違う意見は『間違っている』から。
 「貴様はそれでも日本国民か!」である。違いを認めない社会である。『正しい人』と『間違っている人』が分けられている社会である。
 当然、『正しい人』には居場所が与えられ、『間違った人』には居場所が与えられない。
 だが、『ラディカル・デモクラシー』では
【包摂した上で「あんたは間違っている」と言えばいい。「あんたは間違っているが、あんたを抹殺しようとする者がいたら命がけであんたを守る」】
 である。
 常に自分の考え方なんぞは『正しい』と思っている。故に違う考え方の人は『間違っている』に決まっている。そこで排除するのでなく、議論する場があればイイ。平等に議論出来る場があればイイ。
 議論し、「私の考え方はこうである」と言い合える、つまり「仲良しこよし」のナアナアでなく、血塗れの徹底批判が出来合えればイイ。
 映画『靖国』に関しては様々な見方が当然ある。恐らく監督の意志を離れて「私はこう受けとった」というのがあってもイイ。そこで監督が「私はそういう意図で作りませんでした」というのが『答え』でなく、平等に議論しあえればイイ。
 議論をするのは、自分の意見を表明しなければならない。
 「私はこういう風に考える」と。
 それは何かの『答え』ではない。生きている中での『絶対的な答え』などないのだ。
 「私は答えにはほど遠い」では、自分を粗末にし過ぎている。

 意見、意志を表明する。当然、異論もある。中には強烈な抗議行動を取る人もいる。それでも「私はこういう風に考える」と。
 それは個人である。当然、孤独に陥る事もある。死罪、流罪になる事もある。それでも「私は私である」と云う事は間違いない。その間違いない事を、大義名分や答えなどの人間が勝手に作り上げた幻想でもって粗末にするのは自分自身に対する冒涜である。
 同時に『違い』がなくなる。個々の違いがなくなる。仲良しグループで引き蘢るのは鬼畜米英と『作られた日本人』の閉鎖性と同じである。独り独りが違うのであれば『仲間』等居ない。それはイコール『敵』等居ない。単にどんなに気の合う人と同じく『他者』でしかない。

 エゴ。エゴとは全く「他人の事等どうでもイイ」という事である。
 だからエゴを捨ててよゐこになろうとする。「みんな仲良し。ファシズム同盟」である。それが故に云う。「あの人ってワガママよね」。
 ワガママなのは『エゴ』があるが故であって、エゴは誰でも兼ね備えている。無くなったのならそれは仏である。仏である事は人間ではない。つまり対等ではない。対等でないからエゴを無くしてしまったかのような勘違いでもって、つまりエゴでもって排除する。神仏という大義名分等を持ち出して排除する。答えでもって排除する。
 エゴを包み隠したつもりの勘違いは『仲良しこよし』の引き蘢り。引き蘢りが故に排除する。
 『他者』を受け入れる事が出来ないのはエゴを持っているから。そしてエゴは誰しもが持っている事。ならば、互いにエゴを持ったワガママ極まりない人間として出会っていくしかないのではないのか。
 自分のエゴを見るのもイヤだし、他人のエゴとも出会うのがイヤ。というのは不可能である。何故ならそれ自体がエゴである。煩悩である。欲である。

 エゴとは逆にいうと『自分の事しか考えてくれない』と云う事である。
 今日、車に乗って移動している時に、交差点で赤ちゃんを抱いた母親に出くわした。私は信号を待ち、交差点でもその親子が通り過ぎる事を待っていたのだが、それでも母親にメンチを切られた。あ、『メンチ』とは大阪言葉か。まあ、睨まれた。母親は、自分の子どもを守る事だけに精一杯なんだと思う。
 エゴとはそういうもんであって、常に自分の事しか『考えてくれない』。自分の事しか『想ってくれない』。常に考え続け、想い続けてくれる。そういう働き。
 なら、変な話なんだが、安心して外出出来ないか?互いにエゴを持ったもの同士でしかない。互いに煩悩を抱えた者同士でしかない。似た者同士である。誰が正しい、という事もない。それぞれがそれぞれのエゴで、意見でもって出会っていけばイイだけの話だ。
 
 エゴを包み隠す、正解、よゐこ。
 『同じ意見の人が集まって、「異議なし」ってやってるほうが気持ちいいんですよ。』(鈴木邦男)

 『鵺のようなファシズム』確か辺見庸の言葉だったと思うが。
 自分の意見をいわない。自分の意見を包み隠す。自分の意見は『他者』に解らない所、「みんな仲良し」の場面でしかいわない。それが鵺。
 辺見庸氏が表現したかった事とは違うと思うが、個人が『鵺』になっているからファシズムになる。
 意見が違うのは当り前なのだ。他人は他人であり、私は私でしかない。それを引き受けようとしないから排除する。ファシズムになる。
 それが故に【あなたはあなたになればいい。あなたはあなたであればいい】である。
 どんな人生でも天下一品である。
 そして、天下一品はやっぱり美味い。
 天下一品は『こってり』である。あっさりラーメンの方は私は食べない。天下一品はこってりなのだ。あの煮まくってなにが何やら解らんが、とりあえずドロドロのこってりラーメンが天下一品なのだ。
 私は常日頃、天下一品のラーメンを食べながら、「このドロドロ感、このこってり感こそが人間関係ではないのか?最近の人間関係はあっさりし過ぎているのではないのか?」と感じている。。。え~。。。当然、嘘です。

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