坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

勝負の世界

2008年07月20日 | 坊主の家計簿
 7月20日

 食類  黒霧島       1580円
     発泡酒        185円
     うずら豚フライ     87円
     うな重        275円
 雑費  レンタル       105円

 合計            2232円
 7月累計         90265円

 先日出かけたショートツーリングでは九度山辺りにも行って来た。真田親子が幽閉されていた九度山である。ウロチョロしながら、ふと思ったのだが、ここに真田親子を幽閉させる、っちゅうのは、「豊臣様、どうぞこの親子を大阪城に招き入れて下さい」と云う様なものである。しかも、背後に高野山があるから情報も集まりやすい。あんな所に幽閉させた家康はさすがである。
 何が『さすが』かと云うと、真田親子等の浪人を集めてナンボでないと大阪方は徳川と戦が出来ない。いくら徳川が外圧を与えても兵を挙げる条件が整ってなければ兵は挙げれない。真田親子という『元大名』、関ヶ原で破れた大名を九度山に幽閉する、っちゅうのは、「さすがは徳川殿」っちゅう話やな。
 で、まんまと豊臣方は挙兵した。金が大量にあろうが、城がいくら頑丈だろうが、豊臣家中枢がダメなら無駄である。

 と、なんでこんな事を書いているのかというと、さっきまで『茶々』(http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11900/)というDVDを今日もお疲れモードだったので観ていたのだが、余りにも下らん。制作費が10億だったらしく、また、主演を除けば、結構エエ役者も出ている。なんだが、主演の『元宝塚』のネエちゃんの圧倒的な芝居の下手さ、っちゅうか、宝塚時代はよく知らんが、映画の中では観るに絶えない芝居の下手さであり、「これならまだ土屋アンナの方がマシではないのか?」と思うぐらいだった。で、映画自体としてもダメダメ。豪華な俳優人、豪華な衣装、結構な制作費であっても、映画を作る側がダメなら映画はダメやな、やっぱり。
 戦国ものにはかなり評価が甘いのだが、これはダメ。全くダメ。
 映画がダメなのと、末期豊臣家がダメだった事が、みょうにマッチして面白い話ではあるのだが。。。

 仕事が終わって「阪神、阪神」と、テレビチャンネルを。なんや、ナイターやったのね。
 チャンネルをあっちコッチにしていると、「おお!本田神父やんけ!」と、本田神父の顔がテレビに。本田神父がテレビに出ているのに感動してしばし観る。っちゅうか、10分もなかったのだが。
 検索してみると、NHK総合での『こころの時代』で14時からやっていたらしい。え~。。。どっかでビデオ借りてちゃんとみたいのぉ。。。
 本田神父は日本のスーパーエリート神父さん。多分、日本で有数の聖書学者でもある。
 でも、今は釜ヶ崎にいる。単純な話だ、日本での聖フランシスコ会のトップやった時に釜ヶ崎に巡回でやって来て、そこで『力』を頂いたかららしい。まあ、『力』を頂いたから、しゃーないわな、そりゃ。
 最後の少ししか観ていないのだが、変わらず『小さくされた者』についての話。そこからの視点でもって、自分を見つめる。見つめ直す。本田神父なら聖書も釜ヶ崎で出会った人達との経験でもって聖書を読む。学者なので聖書を訳す。本田神父自身は地位を捨てたが、今日の話では「地位は捨てなくてもイイ」と。「地位を捨てる事なく、自分のいる現場で、『小さくされた者』との出会いの中で経験した、得た視点でもって行動すればイイ」と。

 釜ヶ崎。まあ、色々な人も居るし、本田神父の様な人も居るし、運動家も潜り込んでいるし、一概には云えない。云えないが、まあ、器用でない人が多いわな。器用に生きれたら釜ヶ崎で生活しなくてもイイ場合の方が多い。当然、いわゆる『釜のおっちゃん』等という人格はない。居るのは一人一人の人間でしかない。一人一人の人間でしかないのだが、まあ、生き方が不器用で、まあ、世間からは『ダメ』とか、『負け組』とか呼ばれる人も多いのだろう。

 『ダメ』とか『負け組』とレッテルを貼られても一人一人の人間でしかない。そんな人間にレッテルを貼って「あなたもちゃんと勉強しないと大きくなるとあんな風になるのよ」とか無茶苦茶な言葉でもって差別されるのだ。
 なんだが、別にその差別を受け入れる必要はない。
 『ダメ』『負け組』とは、レッテルを貼る側の問題であり、レッテルを貼られた側がそれに従う義務はない。あり得るわけがない。

 『勝ち組』『負け組』とは資本主義の言葉である。ついでに資本主義バリバリのテレビでよく使われる言葉である。テレビという大マスメディアを通じて『勝ち組』『負け組』等と。
 勝ち負けなら、当然、勝ちたい。欲を満たす生き方を勝ち組と云うのだろうし、欲を満たせない生き方を負け組と云うのだろう。欲は欲であり、やはり自分の思い通りに生きたい。欲に支配され、欲に従事て居るから勝ち組はイキイキと出来る。自分を自分とする事を、自分の思いに従う事で実現する。
 欲に従う事が出来ない、自分の思い通りに生きる事が出来ないのが負け組なら、病人も負け組である。
 当然、病人の中にも高額な最先端医療を受ける事が出来る勝ち組と、受けれない負け組がいる。
 
 だが、死ぬ。
 死んだ後に、立派な葬儀が出来る勝ち組と、行政からの金を着服されて葬儀もせずに焼き場に直送される負け組がいる。これはこれなりに問題なのだが、所詮勝ち組、負け組といってもそんなもんだったりもする。
 共に迷いの人達。
 
 搾取する。勝ち組は負け組から搾取する。金銭的にも、生きる価値観ですら。
 金銭的に搾取するのも問題である。株主に高配当を渡しながら使い捨て労働者に対しては低賃金。の搾取。
 
 価値観の搾取。
 何故『負け組』とレッテルを貼られないとイケナイのか?単に欲望に従う事が出来るか出来ないかという、つまり『迷い』をより一層深めるか、深めないかだけの問題で『負け組』等と。

 人生に負けた。
 その『人生』とは一体なんなのか?一体、誰が、どんな権限でもって、人生に対して『負け組』等とレッテルを貼るの事が出来るのか?
 欲に従う事が出来るのが、つまり、自分の思い通りに障り無く生きれる事が『勝ち組』であり、自分の思い通りに生きる事が多く、障りが多いのが『負け組』なら、まるで『穢れ』の多い少ないで人を差別していた事と何ら違うのか?

 【天子天台 公家真言 公方浄土 禅大名 乞食日蓮 門徒それ以下】という言葉があるが、門徒は『それ以下』である。その言葉を『勝ち組』からの序列にするならば、門徒は『負け組』の筆頭であった。
 なんだが、真宗門徒は決して『負け組』なんぞとは思ってないはずである。

 現在のインドでは新しい仏教がある。インドはインド教でのカーストがある。最下層の人達、つまりアウトカーストの人達が仏教徒になったりもしている。単純な話だ。インド教の中での宗教観での差別であるから。仏教徒に改宗すれば自分自身での被差別意識はなくなる。単に世間が、カーストを強制する方が強制してくるだけの話である。

 人の能力は様々である。故に、勝ち組と負け組が出来る。
 問題なのは『負け組』でなく、搾取ではないのか?
 自分の思い通りに生きたいが為に、犠牲を考えない。いや、考えても『対等でない』と。
 対等であるのなら、犠牲や、殺や、搾取が課題になるのだろうが、「私はこれだけの事をやっているのだから当り前だ」等と。
 別にこれは経済だけの話でもない。慈善での勝ち組と負け組の中で、勝ち組は「これだけやっているのだから当り前だ」等と。
 慢心である。慢心であるが故に、搾取する側が『罪』を感じない『思い』を立てる。
 霊長類でもエエだろう。進化論でもエエだろう。人間が自然界から搾取する事を当然とする『思い』。当然、迷いでしかない。

 『勝ち組』と『負け組』。
 勝ち負け、欲に従い生きたい、思い通りに生きたい。そういう生き方自体が、『勝ち組』『負け組』を作り出している。
 なら、そういう『勝ち組』『負け組』の勝敗レースを辞めればイイ。当然、辞めれない。辞めれないが、「間違っている」と。勝ち組に憧れる必要はなく、自分が負け組だからといって自暴自棄になる必要も全くない。むしろ、自分も含めた『勝負の世界』を告発すればイイ。自分を苦しめる価値観を告発する側に立つ事によって、変わらず『勝ち組』『負け組』等と云い搾取をする世界を解放しようとすればイイ。平和を目指せばイイ。
 決して「私って負け組」等と自暴自棄にならずに、また、「勝ち組の仲間に入ろうとする事は勝ち負けの連鎖を自分が作り出す事になる」と、その事は愚かであると。
 「私は負け組ではない。みんなと同じ人間でしかない!」と。

【吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
 は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】(宣言より)