坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

仏弟子のハードル

2008年07月26日 | 坊主の家計簿
 7月26日

 食類  充実野菜6       1068円
     MIU3          204円
     焼そば麺          28円
     モヤシ           29円
     豚生姜焼き        209円

 合計              1538円
 7月累計          106940円

 落語会終了。終わった後に門徒さん達と飲んでいたのはエエのだが、なんか体が。。。筋肉がダルい。今日も暑かったしなぁ。。。
 と云う事で、帰って来てバテる。散々バテたので少し回復。

 落語会に出てたある落語家さんの話の枕でこんな話をしてはった。何やら芸歴9年らしく、9年もやっていると後輩が出てくる。その後輩が最初に見た落語が、その落語家さんなのだが、後輩はその落語家さんの落語を聞いて落語家になろうと思ったらしい。
 「俺の落語がそんなによかったか?」と落語家さんが聞くと、後輩は「いや、あんなのでも落語家なら俺でもなれると思った」と云ったそうな。まあ、落語の『枕』だから、ホンマかどうかは知らん。

 けど、ふと思う。
 私は近年稀に見る好青年である。心優しく今月だけでも不景気なタクシー業界に1万3千円もそれ程多くない生活費の中から支払っている。「いや、ここで俺がタクシーに乗らなければタクシー運転手さんの生活が困るではないか」という事で、心優しく素晴らしい私は本当は乗りたくないタクシーに乗っている。
 当然、こんな素晴らしく心優しい私のマネ等誰も出来ない。誰もが出来る事ではない。こんなに素晴らしいのは世間を多く見渡しても私ぐらいなものである。本当に、本当に私って素晴らしい。
 で、こんな素晴らしい私のマネは当然出来ない。しかし、これはあくまでも『私個人』の素晴らしさ、心優しさであって、決して『仏教徒』としての行ではない。

 え~。。。こんなに素晴らしい私、って、もう飽きたからエエな。
 仏教徒、仏弟子。僧も俗も引っ括めての仏弟子、仏教徒。
 「あんな事は決して出来ない」「あんなに苦しい行は決して出来ない」→「だから辞めとこ」
 は面白くない。
 「あんなのでも仏弟子なら、俺にだってなれると思った」
 の方が面白い。

 ここでタイトルを『仏弟子のハードル』と決定。
 仏弟子のハードル。
 ある恩師が若かりし時に書いた宗憲(宗派の憲法)の草案で僧侶資格を消そうとした。僧侶資格を消して、単なる門徒。で、その中で専門的教育を受けた者を『教師』と。んが、今は宗憲でも『僧侶』『門徒』と規定がある。それを消してしまおうという革命思想でんな。当然、モロ影響を受けているのだが。
 『僧侶』『門徒』と規定があるから、『僧侶』が何か特異なものになる。
 「僧侶として」等と聞くが、あくまでも役割分担でしかない。生き方としてはあくまでも仏弟子でしかない。門徒でしかない。よって、真宗教団では『僧侶』も『門徒』も同じ行しか、念仏しかしていない。行の内容は全く同じでしかない。
 当然、世俗の価値観での「あの人は素晴らしい」「あの人はダメだ」とかはあるだろうが、当然、そんなものは世俗の価値観でしかない。どんなに世俗の価値観で素晴らしい念仏者でも、どんなに世俗の価値観でダメな念仏者でも、念仏しか申していない。
 素晴らしいかどうかは評価が分かれるだろうが、東條英機氏だって、同じ念仏者である。戦争に反対して死んだ(殺された)念仏者であっても、東條英機氏と同じ念仏者でしかない。
 資料的に少し危ないらしいが念仏を弾圧した後鳥羽上皇も晩年は念仏者になった限りは、後鳥羽上皇によって殺された念仏者達、流罪にあった念仏者達と同じ念仏者でしかない。
 つまり同じ仏弟子でしかない。
 親鸞は

 無戒名字の比丘なれど
 末法濁世の世となりて
 舎利弗目連にひとしくて
 供養恭敬をすすめしむ
 (親鸞)

 である。
 つまり、釈尊教団の高弟ツートップと念仏者が『ひとしくて』である。
 え~。。。無茶苦茶な話なんだが、一応そういう風になっている。
 っちゅうか、仏の弟子である事には変わらん。

 しかし、筋肉が。。。寝よ。