坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

真宗仏教の御布施

2008年07月03日 | 坊主の家計簿
 7月3日

 食類  野菜ジュース      198円
     タマネギ        125円
     とんかつ        138円
     牛バラ         292円
     牛バラ         240円
 雑費  散髪         2000円

 合計             2993円
 7月累計          13588円

 朝、昨日は一日中寝てたし、目覚めもスッキリ。なんだが、眼鏡っ娘(?)の私は寝る時は眼鏡を外している。多分、裸眼で0.03ぐらい。何やら黒いものが。。。近寄る。クモやんけ。。。微妙にデカイクモやんけ。。。うちは4階やぞ、ようここまでやって来た。と、資料入れに使おうとストックしている大きな使用済み封筒でクモをすくって窓からポイ!っと。まあ、クモやし、軽いから死ねへんやろ。部屋に置いとくのはイヤやから追い出すけど、殺すのはイヤやし。
 ああ、朝からなんて私は素晴らしい事をしたのでしょうか。これで私は地獄に堕ちても大丈夫なのです。地獄に堕ちた時に、今日助けたクモが「兄ちゃん、あの時はありがとうな」と、私を地獄からクモの糸で助けて呉れる事、間違いなしなのです。。。
 と、アホな慢心気分で仕事スタート。クモ一匹助けたからいうて、毎日どれだけ見えへん命を殺しとるねん。自覚出来ひんもんはもの凄く殺しとるぞ。

 仕事が終わって、意味なくカレー作り。なんとなく食べたくなったのだ。まあ、大量に作って冷凍室に放り込んどけば便利やし。
 カレーを作り終わって、早めの晩飯を食べたら睡魔が来る。夕寝の始まり始まり。
 起きたら阪神ピンチ。1対1である。今日、勝てば完全に中日を突き放す事が出来るのだ。優勝が半分は決まるのだ。しかも今日は朝からクモを助けた。あのクモがきっと阪神を勝たせてくれるはずである、やった矢野!バット折りながらよう打った!
よっしゃ、これで大丈夫や。後は藤川やから負ける事はない。
 
 ふと視線を変えると携帯電話がピコピコと光ってる。何やら寝てる間に電話があったらしい。
 電話する。ある人から御布施の相談。「明日法要やねんけど、御布施ってどれだけ包んだらエエねん」知らん、っちゅうねん。。。しかし、世話になった人なので「知らん、っちゅうねん」とは云えず、「いやぁ~、よう知りませんわ」と。内容は変わっていないが、とりあえず言葉使いだけは若干丁寧にやなぁ。。。
 んが、まあ、向こうが世話になる寺は私がよく知っている寺だし、場所柄なんぞも考えて、一応の目安みたいなもんは伝えたのだが、当然、「知りまへんで」と付け加える。知らんもんは知らん。

 御布施。一度ちゃんと書いてみたかったのだが、今日は阪神が優勝半分決まった日なので、半分だけ書こ。つまり『丁寧に』ではなく、適当に、と云う事で。
 御布施。検索したらすぐに見つかると思うが御布施は行である。修行である。布施を渡す方(檀家)も、受けとる側(僧侶)も共に布施に執着してはいけない。まあ、具体的には金になるのだが、「金額が多いの、金額が少ないの」という執着に対する修行である。
 よって、「当寺の御布施は、法事はナンボから、葬儀はナンボからとなっております」というメニューみたいなもんはない。ある寺もあるのかも知らんが、今の所は知らん。一応、「なんとなく」である。なんとなくであるから、今日私に電話して来た人も、その寺の住職とも直接の知り合いであるにも関わらず、「何度も聞くのはイヤやしなぁ。。。」と私に電話してきたりする。「だいたい、どれぐらいやねん」と。
 一応の建前が御布施だし。渡すのが『御布施』である以上、やっぱり執着に対する修行だし。

 真宗仏教での修行は『ただ念仏』だけである。他の修行はない。なんだが、不思議な事に布施行だけはある。
 私が知ってる範囲では親鸞は布施ではなく『こころざし』ではなかったか。関東の門弟(?)から金をもらった時も「こころざし」である。

 例えば
【護念坊のたよりに、教念御坊より、銭二百文、御こころざしのもの、たまわりてそうろう。】(大谷派の真宗聖典569ページより)
【さては、御こころざしの銭五貫文、十一月九日にたまわりてそうろう。】(大谷派の真宗聖典575ページより)
 等々である。

 なので、大谷派の本山でも、本山でする読経については『読経志』として「ナンボ以上」と金額が明記されている。これはいわゆる『相場』というやつとは呼べない。金額が見事に明記されている。よって『御布施』等とは呼べない。金額が明記されている以上、金銭に執着しているわけだし。

 ついでだが、本山でタダで出来る法事もある。なに、単純な事だ。本山では毎日読経をしているし、一緒に勤行(読経)出来るようにもなっている。正信偈は一緒に勤行出来る。多分、誰でも参加出来る。当然、タダである。何度も行ったが金を請求された事はない。法話もタダで聞ける。私も法事に行く事があるが、私なんぞよりも遥かに法話が上手な人の法話がタダで聞ける。
 「○○さんの為」という事ではないが、参加する側の意識までは縛る事は出来ない。一緒に勤行して、法話を聞いて、帰りに家族なんぞで一緒にメシを喰えばイイ。メシ代だけで済む。向かいに王将もあるし、餃子2人前とビールで1000円くらいか?まあ、どうでもエエねんけど。
 まあ、本山でもわざわざ読経して貰えば『読経志』がかかるが、まあ、タダでも法事が出来るわけでんな。一応、参考までに。行くのなら、日曜日の高倉会館が狙い目でっせ。

 ん?話が。。。
 『読経志』は布施ではない。布施行ではない。よって、本山では見事に金額が『ナンボ以上』という形ではあるが明記されている。これは布施行とは呼べない。
 っちゅうか、最初から真宗では布施行などないのだから。あったらおかしい。ある方がおかしい。

 坊さん同士の御布施の話もよく聞く。
 その逆の話もよく聞く。
 当然、『真宗』に限定した話である。真宗に限定した話なんだが、真宗仏教では僧侶も門徒も共に『真宗門徒』であり、基本的にはいわゆる『僧』と『檀家』の関係ではない。共に同じ念仏という修行しかしない。故に、真宗僧侶は全く貴くない。門徒と同じ立場でしかない。後は役割の問題でしかない。
 また、修行方法も念仏だけである。故に、御布施についての愚痴(?)不平(?)は、真宗坊主、門徒側からもよく聞く。執着バリバリである。当り前である。執着から離れる事など出来るわけがないし、御布施が修行である事なんぞも、まあ、知らない人の方が多いのではないのか?

 先日、違う教団なのだが、同じ真宗仏教教団で葬儀をした人と偶然にあった。話を聞いてみると法名(いわゆる戒名)を付けるのに最初「20万円必要」と云われたそうな。当然、『院号』という特別料金がかかるものではない。院号なしの単なる法名である。結局値段は下がったらしいのだが、え~。。。この辺が『御布施』の怖い所。
 真宗教団以外ではかなり高額な話を聞いたりもする。まあ、それはそれなりの『御布施』としての意味があるのだろうが、真宗仏教に御布施ってなぁ。。。かなりそぐわんと思うのだが。。。

 布施に関しては思い出がある。恩師から「布施は法施に対するものです。法施がなければ泥棒です」と。
 それは名前を『読経志』に変えても同じであろう。
 
 ただ、『御布施』という名称は修行方法であり、(現在では)金銭に対する執着心に対する修行方法である。だから、おかしな事が多々起ってくる。

 一休禅師の歌で
 【人はみな 欲を捨てよと いいつつも あとで拾うは 寺のしょうにん】
 とかなんとかいう歌があったと思うが、調べても出て来んし、本棚を調べるのも面倒なので「あったと思う」なんだが、「そのまんまやんけ」っちゅう部分が多くないか?

 執着を離れる為の行とかいうのでなくやな、「ナンボ以上」と明記しつつも、「御相談にのります」でエエのではないのか?なけりゃ、なけりゃでエエやん。
 持っているなら「ナンボ以上」の金を払えばエエのだし、なければ「すいません、これしか出せないのですが。。。」でエエやん。

 ちなみに大谷派の東京辺りでの支部(東京教区)では『仏事代行』っちゅうのをやっている。
 なにやら、首都圏に出て来た門徒さん家族が亡くなった時に、葬儀屋に頼むのでなく、東京にあるらしい真宗会館に電話してくれとの事。で、そこから坊さんを派遣してくれるらしい。
 最初に知った時から「おお、素晴らしい制度やのぉ。。。」と注目をしているのだが、いかんせん私は大阪であり、しかも東京は小笠原を取った巨人の本拠地である。小笠原には阪神が似合うではないか。小笠原が居れば阪神のサードは小笠原で決定であって、もっと早くに優勝が決まっていたではないか。
 1番 鳥谷
 2番 赤星
 3番 新井
 4番 金本
 5番 小笠原
 6番 林
 7番 矢野
 8番 関本(藤本)
 で見事な打線ではないのか?

 ん?そや、よって東京は巨人の本拠地なのでいかんせん好きではない。関ヶ原の怨みもまだ忘れん。
 なので、ちゃんと調べていないのだが、この『仏事代行』の葬儀にかかる金、葬儀をする時に真宗会館(僧侶)に払う金は『読経志』なのだろうか、それとも『御布施』なのだろうか?
 また、金額が提示されているのだろうか?
 首都圏は葬儀の相場が高いと聞いているが、相場と比べてどうなんだろうか?ある意味、首都圏の葬儀相場の目安になると思うのだが。
 気が向いたら、調べよ。

 寺の経済の話はタブーなのかも知れない。
 けど、恐らく江戸期に『一休禅師作』として作られた歌が
【人はみな、欲を捨てよと いいつつも あとで拾うは 寺のしょうにん】
 である。
 今も変わらぬ状況がある。
 真宗僧侶が清貧である必要もないが、「御布施が高いから」というだけの理由で仏事が出来ないのは悲し過ぎる。そういう状況が都市部では多くある。

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