7月5日
外食 かき揚げ蕎麦 326円
雑費 アクロン 278円
食類 レタス 100円
ほうれん草 88円
レバニラ 149円
ハンバーグ 129円
うどん玉 28円
合計 1098円
7月累計 17870円
今日も暑かったのぉ。。。日差しが真夏気分で暴力的。
夏バテ防止にはツチノコが良い。
あれは数年前。私が酷い夏バテで食欲も失せ、体力ががた落ちして危なかった。そんな時に友人が熊野の山奥までツチノコを取りに行って呉れた。当然、ツチノコなど簡単に見つかるわけもない。海を越え、山を越え、熊野に入り、途中、野蛮人や宇宙人に襲われたりしながら友人は命がけでツチノコを取って来て呉れた。何やら、1000メートル級の崖の途中に居るのを発見したらしく、友人は1000メートルの崖を命綱も付けずにツチノコを捕まえてくれたらしい。
ああ、あの時に友人がツチノコを捕まえて来てくれなければ今頃私の命はなかったであろう。。。
と、まあ、毎度変わらず嘘バッカリ書いているわけなんだが。。。
私の命は助かった。故に、私は感謝する。私にとって友人は善である。
しかし、ツチノコにとっては友人に見つかり殺されてしまったわけだから、友人は悪である。
まあ、そんなもんやね。立場が違えば。つまり絶対的な善などない。ツチノコと私を同じ価値とするのなら善などない。
部屋のポストに宗教団体の勧誘チラシが入ってた。何やら、生前の行いが死後の世界に通じるとかなんとか。故に生きている間に善をしましょう、とかなんとか。
個人のプライバシーをネット上であっても暴露するのはイケナイ事だが、その友人もそういう宗教に入っている人だった。
その友人は天国に行けるのだろうか?善をしたとは決して云えない。何故ならツチノコにとっては大迷惑な話だから。。。え?嘘はもうエエってか?
人の命を助ける。友人にツチノコを食べさせて頂いた私は変わらず命を奪い尽くしている。なんせ人間でっせ、人間。横暴極まりない人間でっせ。殺菌なんぞ人間ぐらいしかせえへんやろ。殺菌された方はたまったもんやおまへんで。ひとつの菌と私の命が同じ価値ならば、友人の取った行為は悪である。何故なら大量殺人犯を捕まえずに放置し続けて行くわけなんだから。宇宙からやって来た怪獣を地球防衛隊の人達がせっかく仕留めかかったにも関わらず、「大丈夫?」と云って治療して元気満点になった怪獣が地球防衛隊や、世界中を破壊し尽くしているにも関わらず、「ああ、私はなんてイイ事をしたのかしら。。。」と云っているようなもんである。死んだ後に閻魔大王に「私は怪獣を助けました」と自慢しても、閻魔大王は「その事によって人類は絶滅したのだが。。。」と頭をポリポリかくだろう。
まあ、嘘話しの上の極論なんだが、善悪なんぞそんなもんでっせ。あくまでも個人的なもの。個人的な事。それが絶対的な事であるとは限れるわけがない。
さっきまで、テレビで『テレビ朝日開局50周年記念特別番組 ~地球危機2008~』っちゅうのを見てた。メシ喰ったり、筆ペン練習をしながらなのでちゃんと見てないのだが。
『地球危機』ではない。それは嘘である。困るのはあくまでも『今の生活』だけの話である。今の生活が困るだけの話である。『地球危機』とは地球が半分に割れてなくなるとかいう話なら、「おお、地球危機やのぉ。。。」に少しはなるが、今の生活をし続けていく上での地球環境が危機なだけの話である。あくまでも自己中心的な話である。最後に古館が語っていた事が端的なんだが、困るのは『家族』であったり『孫子』であったりするわけだ。人間中心、自己中心の発想でしかない。その自己中心の発想が、『環境』を破壊している。当り前である。自己中心なんだから。所詮、『自分(達)さえよければ構わない』という発想でしかないのだから。
だから、『地球危機』でなく、『自分(達)にとって都合が悪い』という事でしかなく、番組タイトルも『生活危機』の方が良かったのではないのか?
人間は死ぬ。死亡率は100%である。当然、私も死ぬ。死ぬ事は当り前の事なんだが、んなもん、絶対にイヤに決まってまんがな。執着である。別に悟り澄ました坊さんでないので、私は「死ぬのはイヤだ」と言う。あくまでも個人的な『思い』でしかない。
その『思い』で迷っている。執着し続けて居る。温暖化等々もそういう範囲でしかない。
そういう範囲である。故に問題なのだ。決して善とか悪の問題ではない。環境破壊=悪、環境保全=善という価値判断は『思い』でしかなく、絶対的なものではない。
しかし、私が友人のツチノコで助けられたように、それは『思い』では大切な事である。あくまでも『個人』として大切な事である。決して絶対的ではないが、個人の思いでは大切な事である。
だが、個人の思いである事も間違いない。
その『思い』は立場によって違う。
立場。
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう
(金子みすゞ『大漁』)
まあ、そんなもんである。
そんなもんではあるが、鰯は美味い。刺身でも、ヌカ漬けでも、焼いても美味い。ショウガと一緒に煮ても美味い。
生活=死殺である。
善。
絶対的な『善』等というのは私(達)側には決してないはずにも関わらず、『善』がある。善を持ち出す。
善をしたらエエ条件で生まれ変われる事が出来る等々。が、解りやすい。善でもって差別する。差別を固定化する道具にする。なんだって差別する為の道具に使ってしまうのだ。地球温暖化だろうが、なんだろうが。ボランティアでも、解放運動でも。なんだって。そういう在り方でしかない。そういう在り方でしかあり得ない。
何かの価値判断の上下でもって、「あいつよりは上」「あいつよりは下」等と、比べるべき存在でない『他者』との比較をしる。してしまう。
平等とは人間の側にはない論理。人間の視点での平等なら、「平等に貢献した人が上」である。平等に貢献しない人は見下す。それが人間の論理。今でも、山ほどある話やんけ。っちゅうか、それが今の流行やろ。戦前、戦中には『国家に対する貢献』やったのが、形が変わっただけで同じやんけ。
で、変わらず、そこからの声は聞かない。聞こうとしない。抵抗勢力とでもいうのだろう。保守とでもいうのだろう。
当然、『保守』と呼ばれる人達も『話を聞けない』人も多くおられるだろう。同じ人間なんだし。
同じ、対等な人間としての『業』。
条件さえ整えば大量殺人すらしてしまう人間の業。
裁く。裁き続けている。そんな権限などないにも関わらず、裁く。善とか悪とかはあくまでも個人的な問題でしかないにも関わらず裁く。
裁かれた側。差別された側はたまったものではない。何かの条件でもって裁かれた側はたまったものではない。
対等でないと、平等でないと『固定化された側』はたまったものではない。
所詮、勝手な思い込みの善悪で裁かれ、差別され続けた側はたまったものではない。
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
足が大股過ぎるぢゃないか。
頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢゃないか。
身も世もないように燃えてゐるぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な顔が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
(高村光太郎『ぼろぼろな駝鳥』)
『善』『正義』に適う事をしていると『思い込んでいる』から思考停止する。問われ続ける事の断念。悪人の堕落。悪人=凡夫でなく、仏の側へ。
尊く、善であり、正義であるが故に、保守であり、批判を聞かなくてイイ側に立つ。そんなもんなどありゃしない。仏を言い換えて『現人仏』とでも言った方が解りやすいかな?
現人神。そんなもんはない。単なる人間でしかない。
天皇だろうが、殺人鬼だろうが、マザーテレサだろうが、同じ人間でしかない。
「私は立派な仕事が出来ないの」
「私は善が行えないの」
「私はダメな人間なの」
って、思い込みやろ。思い込んでいるだけの話やないかい。
人権。人間だけが尊いという人権思想には真っ向から反対するし、ただ『人権』という名前自体にその危険性も兼ね備えている事は確かなんだが、それでも人権。限界はあるが、人権。
人権に条件はない。条件がある人権、多分、元々の人権には条件があるかも知れんが、んなもんは学者さんに任せておいたらエエ話であって、「どんな私であっても、どんなあなたとでも対等である」っちゅうのはエエ感じでっせ。
今日の運勢は、「やった昨日と同じや!」でっせ。
♪あしたという字は、単なる『あ』と『し』と『た』と書くのね
でっせ。
明日が『明るい日』である必要がない。
まあ、あって貰いたいが、そんなもんは単なる迷いでしかない。
土の子。
土着の子。
ドンマカ、ドンマカと大地を歩く土の子。
「あなたはあなたになればイイ。あなたはあなたであればイイ」という土の子。
外食 かき揚げ蕎麦 326円
雑費 アクロン 278円
食類 レタス 100円
ほうれん草 88円
レバニラ 149円
ハンバーグ 129円
うどん玉 28円
合計 1098円
7月累計 17870円
今日も暑かったのぉ。。。日差しが真夏気分で暴力的。
夏バテ防止にはツチノコが良い。
あれは数年前。私が酷い夏バテで食欲も失せ、体力ががた落ちして危なかった。そんな時に友人が熊野の山奥までツチノコを取りに行って呉れた。当然、ツチノコなど簡単に見つかるわけもない。海を越え、山を越え、熊野に入り、途中、野蛮人や宇宙人に襲われたりしながら友人は命がけでツチノコを取って来て呉れた。何やら、1000メートル級の崖の途中に居るのを発見したらしく、友人は1000メートルの崖を命綱も付けずにツチノコを捕まえてくれたらしい。
ああ、あの時に友人がツチノコを捕まえて来てくれなければ今頃私の命はなかったであろう。。。
と、まあ、毎度変わらず嘘バッカリ書いているわけなんだが。。。
私の命は助かった。故に、私は感謝する。私にとって友人は善である。
しかし、ツチノコにとっては友人に見つかり殺されてしまったわけだから、友人は悪である。
まあ、そんなもんやね。立場が違えば。つまり絶対的な善などない。ツチノコと私を同じ価値とするのなら善などない。
部屋のポストに宗教団体の勧誘チラシが入ってた。何やら、生前の行いが死後の世界に通じるとかなんとか。故に生きている間に善をしましょう、とかなんとか。
個人のプライバシーをネット上であっても暴露するのはイケナイ事だが、その友人もそういう宗教に入っている人だった。
その友人は天国に行けるのだろうか?善をしたとは決して云えない。何故ならツチノコにとっては大迷惑な話だから。。。え?嘘はもうエエってか?
人の命を助ける。友人にツチノコを食べさせて頂いた私は変わらず命を奪い尽くしている。なんせ人間でっせ、人間。横暴極まりない人間でっせ。殺菌なんぞ人間ぐらいしかせえへんやろ。殺菌された方はたまったもんやおまへんで。ひとつの菌と私の命が同じ価値ならば、友人の取った行為は悪である。何故なら大量殺人犯を捕まえずに放置し続けて行くわけなんだから。宇宙からやって来た怪獣を地球防衛隊の人達がせっかく仕留めかかったにも関わらず、「大丈夫?」と云って治療して元気満点になった怪獣が地球防衛隊や、世界中を破壊し尽くしているにも関わらず、「ああ、私はなんてイイ事をしたのかしら。。。」と云っているようなもんである。死んだ後に閻魔大王に「私は怪獣を助けました」と自慢しても、閻魔大王は「その事によって人類は絶滅したのだが。。。」と頭をポリポリかくだろう。
まあ、嘘話しの上の極論なんだが、善悪なんぞそんなもんでっせ。あくまでも個人的なもの。個人的な事。それが絶対的な事であるとは限れるわけがない。
さっきまで、テレビで『テレビ朝日開局50周年記念特別番組 ~地球危機2008~』っちゅうのを見てた。メシ喰ったり、筆ペン練習をしながらなのでちゃんと見てないのだが。
『地球危機』ではない。それは嘘である。困るのはあくまでも『今の生活』だけの話である。今の生活が困るだけの話である。『地球危機』とは地球が半分に割れてなくなるとかいう話なら、「おお、地球危機やのぉ。。。」に少しはなるが、今の生活をし続けていく上での地球環境が危機なだけの話である。あくまでも自己中心的な話である。最後に古館が語っていた事が端的なんだが、困るのは『家族』であったり『孫子』であったりするわけだ。人間中心、自己中心の発想でしかない。その自己中心の発想が、『環境』を破壊している。当り前である。自己中心なんだから。所詮、『自分(達)さえよければ構わない』という発想でしかないのだから。
だから、『地球危機』でなく、『自分(達)にとって都合が悪い』という事でしかなく、番組タイトルも『生活危機』の方が良かったのではないのか?
人間は死ぬ。死亡率は100%である。当然、私も死ぬ。死ぬ事は当り前の事なんだが、んなもん、絶対にイヤに決まってまんがな。執着である。別に悟り澄ました坊さんでないので、私は「死ぬのはイヤだ」と言う。あくまでも個人的な『思い』でしかない。
その『思い』で迷っている。執着し続けて居る。温暖化等々もそういう範囲でしかない。
そういう範囲である。故に問題なのだ。決して善とか悪の問題ではない。環境破壊=悪、環境保全=善という価値判断は『思い』でしかなく、絶対的なものではない。
しかし、私が友人のツチノコで助けられたように、それは『思い』では大切な事である。あくまでも『個人』として大切な事である。決して絶対的ではないが、個人の思いでは大切な事である。
だが、個人の思いである事も間違いない。
その『思い』は立場によって違う。
立場。
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう
(金子みすゞ『大漁』)
まあ、そんなもんである。
そんなもんではあるが、鰯は美味い。刺身でも、ヌカ漬けでも、焼いても美味い。ショウガと一緒に煮ても美味い。
生活=死殺である。
善。
絶対的な『善』等というのは私(達)側には決してないはずにも関わらず、『善』がある。善を持ち出す。
善をしたらエエ条件で生まれ変われる事が出来る等々。が、解りやすい。善でもって差別する。差別を固定化する道具にする。なんだって差別する為の道具に使ってしまうのだ。地球温暖化だろうが、なんだろうが。ボランティアでも、解放運動でも。なんだって。そういう在り方でしかない。そういう在り方でしかあり得ない。
何かの価値判断の上下でもって、「あいつよりは上」「あいつよりは下」等と、比べるべき存在でない『他者』との比較をしる。してしまう。
平等とは人間の側にはない論理。人間の視点での平等なら、「平等に貢献した人が上」である。平等に貢献しない人は見下す。それが人間の論理。今でも、山ほどある話やんけ。っちゅうか、それが今の流行やろ。戦前、戦中には『国家に対する貢献』やったのが、形が変わっただけで同じやんけ。
で、変わらず、そこからの声は聞かない。聞こうとしない。抵抗勢力とでもいうのだろう。保守とでもいうのだろう。
当然、『保守』と呼ばれる人達も『話を聞けない』人も多くおられるだろう。同じ人間なんだし。
同じ、対等な人間としての『業』。
条件さえ整えば大量殺人すらしてしまう人間の業。
裁く。裁き続けている。そんな権限などないにも関わらず、裁く。善とか悪とかはあくまでも個人的な問題でしかないにも関わらず裁く。
裁かれた側。差別された側はたまったものではない。何かの条件でもって裁かれた側はたまったものではない。
対等でないと、平等でないと『固定化された側』はたまったものではない。
所詮、勝手な思い込みの善悪で裁かれ、差別され続けた側はたまったものではない。
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
足が大股過ぎるぢゃないか。
頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢゃないか。
身も世もないように燃えてゐるぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な顔が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
(高村光太郎『ぼろぼろな駝鳥』)
『善』『正義』に適う事をしていると『思い込んでいる』から思考停止する。問われ続ける事の断念。悪人の堕落。悪人=凡夫でなく、仏の側へ。
尊く、善であり、正義であるが故に、保守であり、批判を聞かなくてイイ側に立つ。そんなもんなどありゃしない。仏を言い換えて『現人仏』とでも言った方が解りやすいかな?
現人神。そんなもんはない。単なる人間でしかない。
天皇だろうが、殺人鬼だろうが、マザーテレサだろうが、同じ人間でしかない。
「私は立派な仕事が出来ないの」
「私は善が行えないの」
「私はダメな人間なの」
って、思い込みやろ。思い込んでいるだけの話やないかい。
人権。人間だけが尊いという人権思想には真っ向から反対するし、ただ『人権』という名前自体にその危険性も兼ね備えている事は確かなんだが、それでも人権。限界はあるが、人権。
人権に条件はない。条件がある人権、多分、元々の人権には条件があるかも知れんが、んなもんは学者さんに任せておいたらエエ話であって、「どんな私であっても、どんなあなたとでも対等である」っちゅうのはエエ感じでっせ。
今日の運勢は、「やった昨日と同じや!」でっせ。
♪あしたという字は、単なる『あ』と『し』と『た』と書くのね
でっせ。
明日が『明るい日』である必要がない。
まあ、あって貰いたいが、そんなもんは単なる迷いでしかない。
土の子。
土着の子。
ドンマカ、ドンマカと大地を歩く土の子。
「あなたはあなたになればイイ。あなたはあなたであればイイ」という土の子。
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