ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

宇宙よりも遠い場所・論 28 ざまあみろ! ざまあみろ! ざまあみろ!

2018-12-31 | 宇宙よりも遠い場所

「私は行く。ぜったいに行って、無理だって言った全員に「ざまあみろ」って言ってやる。そう決めたの。」

1話より。キマリとの最初の会話のなかで。この毅然たる言葉がキマリの心を大きく動かしたのは間違いない






「私の自転車なんだけど」「そうなの? 南極号? アハハハハハハ」

「札束もってるらしいじゃん」

「すこし貸してくんない? ちょっとだけー」

1話より。校内にて、心ない上級生に絡まれる。報瀬が汗水たらして貯めた「しゃくまんえん」の重みを知ろうともしない人たちだ




「南極に行くんだ!」

「うふふ、本当に南極って言ったー」「なに考えてんだろー」

「いいの?」
「いい。どうせ行くまで何いっても信じないから。本当に着いてから言うの。ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろって」

4話より。南極行きがようやく実現に向けて動き出した頃



このプロジェクトが立ち上がってから、ずっと言われ続けているの。おカネが足りない。危険じゃないのか。もう慣れっこ。そんな報道があるたびに、メンバーといつも事務所で言ってるわ、「うるせえ、ばーか!」ってね

4話より。訓練キャンプに向かう車中。いつもにこやかな副隊長のかなえだが、この「うるせえ、ばーか!」のセリフでは、かなり激しい顔つきをする



☆☆☆☆



 ついに南極に着いた。
 かなえの(だけでなく、藤堂をはじめ、隊員みんなの総意ということだろうが)粋な計らいで、キマリたち4人に「初上陸」の栄誉が与えられる。



「ゆづ、カメラ!」「はい!」



かなえ「降りるだけよ。半径5メートルまで。」

寒風が吹き過ぎる

「これが……南極……。」


 ゆっくりとタラップを降りていく4人。
 1段目まできて……。
 キマリ「どーする?」
 日向「報瀬、先いけよ」
 キマリ「どーぞ」
 報瀬、1段目まで降り、大地を見おろして、まず、キマリの手を取る。
 目と目を見交わし、微笑む。
 そして。


せーの

あちこちで引用される名カット



 キマリ「着いた……」
 結月「着きました」
 日向「ゴール!」
 報瀬、むせび泣く。


 キマリ「報瀬ちゃん」
 日向「よかったな」
 結月「お母さんが来たところですよ」

 報瀬、しおらしく涙にくれていたかと思いきや、きっと顔を上げ、
「ざまーみろ!」

 「えっ」とたじろぐ3人をよそに、


「ざまあみろ……。ざまあみろ、ざまあみろ。ざまあみろ。あんたたちがバカにして鼻で笑っても私は信じた。ぜったいムリだって裏切られても、私は諦めなかった。その結果がこれよ! どう? 私は南極に着いた。ざまあみろ、ざまあみろ、ざまーみろー!」


 日向「そっちかよ」
 結月「ずいぶん溜まってたんですね」
 キマリ「いいじゃない、報瀬ちゃんらしくて」
 4人そろって、笑いながら「ざまーみろ!」


それを見ている隊員たち


藤堂の掛け声で



 全員で唱和する「ざまーみろ!」が南極の蒼穹に響きわたって、第9話「南極恋物語(ブリザード編)」はおわる。








宇宙よりも遠い場所・論 27 ラブ・ストーリー04

2018-12-31 | 宇宙よりも遠い場所
 この地にまで辿り着き、「扉をこじ開ける」のは、藤堂にとっては3年越しの悲願だったけれど、それはまた、自らの傷口をひらくことでもある。
 上陸を目前にして、否応なしに湧きあがってくるのは、あの時の記憶だ。



 この回想シーンは以前にも出ている。しかし、通信機ごしに遺された貴子の末期のことばが、「きれい……きれいだよ……とても」であったことが視聴者に明かされるのはここが初めてだ。
 CVを務める茅野愛衣さんの演技は、死を覚悟した諦念のなかに、押しとどめ難い無念を込めて、ふかい余韻をのこす。


貴子の眠る地を間近に望んで……


その肩が震える。このシーン、CVを務める能登麻美子さんの欷歔(ききょ。すすり泣きのこと)の声は5秒にも満たないほどなのだが、見返すたびに泣かされる


 どちらも短い芝居なのだが、脇を固めるお二方の巧さに圧倒されるシークエンスだ。


声を掛けられない


 このあと敏夫は、ヤケ酒(ビールジョッキ)をあおって愚痴をこぼす。それを慰める弓子。「その気持は大切に、自分が手を差し伸べられる相手を探しなよ」と言うと、敏夫は「弓子……おまえ」と言って立ち上がる。「ちがうから! そんなつもりないから!」と真顔で拒絶するのだが、ネットでは、「くっついちゃえばいいのに」との声がしきりだ。ぼくも同感である。弓子さん、いくら面倒見のいい性格でも、もともと嫌いな奴ならここまで世話は焼くまい。




 いずれにしても、藤堂にとって貴子が「雲のような存在」になってしまっているのであれば、そこには敏夫ならずとも、誰も立ち入れないだろう。



宇宙よりも遠い場所・論 26 行ったれぇぇぇぇぇ!

2018-12-31 | 宇宙よりも遠い場所
 アニメを見ていると、よく、クライマックスで「行っけぇぇぇぇぇ!」と叫ぶ場面をみる……ような気がする。あれはいつ頃はじまったんだろう。
 ぱっと思いつくのは、アニメ版『時をかける少女』(2006年)だけど、これが嚆矢(こうし)とは思えない。それ以前にネタ元があるはずだ。
 調べてみたが、「これだ」というのは見つからない。いずれにせよ、「行っけぇぇぇぇぇ!」がうまく決まれば、それは必ずや熱い名シーンになるし、作品そのものが名作になる率も高いと思われる。




 定着氷への衝突を確認した藤堂は、隊長の顔に戻って船橋へ駆け込む。報瀬もそのまま付いてくる。いっぽう、デッキのキマリ・日向・結月たちのほうにはかなえが付いている。ここからは、ラミング(砕氷)に従事する乗組員の動きと、砕氷艦「ペンギン饅頭号」の外観のショットを挟み込みながら、「報瀬×藤堂」組と、「キマリ・日向・結月×かなえ」組との会話を交互にうつすクロスカッティングがつづく。
 しかもそこに、子供時代の報瀬と藤堂との交流の記憶がフラッシュバックで挿入される離れ業だ。そうすることで、南極上陸がどれほどの難事かを示し、かつ、日本の南極観測の歴史も織り込み、同時にまた、「けっして諦めない」不屈の精神が、すなわち「吟ちゃんの魂」が、報瀬に注入されていることをも視聴者に示すのだ。まったく、この第9話に対しては、「編集賞」を進呈したい気分である。




氷の上に乗り上げて、いちど大きくバックして、全力で氷に突っ込んで、船の自重で、氷を壊す。割れなかったら、繰り返す。割れるまで、何度も、何度でも


ことに、この辺りは接岸が困難な場所なのである。なぜか?

「南極観測のルールが本格化したのは、第二次世界大戦後で、……あ……わかる?」
「わかります……」

「敗戦国である日本の発言権は弱く、割り当てられたのは、接岸不可能とまでいわれた東オングルのこの場所」
キマリ「意地悪されたんですか?」
「そういう意図はあったかもね。ま、来れるならどうぞ、来れるならね、みたいな?」
結月「むかつきますね」
「でも、それを聞いてみんな燃えたわけよ」

「日本中から募金でおカネを集めて、造船業者の職人が一生懸命工夫して船つくって。何度も何度も何度も、諦めてかけては踏ん張って進んだの。……氷を砕くように」



かなえ「一歩一歩」

報瀬「何度も何度も」


行け

行け

……

行け




 そして、この人も。

行ったれぇぇぇぇぇ!


着くまで続けるの。毎年毎年。何度も、何度も


何度でも、何度でも





 蛇足を承知で言い添えるなら、このカットはこの9話の冒頭につながる。注入された「吟ちゃんの魂」。けっして諦めぬ不屈の心。すなわちこれが、報瀬があれほど縄跳びのうまい理由だったのだ。





宇宙よりも遠い場所・論 25 ラブ・ストーリー03

2018-12-30 | 宇宙よりも遠い場所
 現実のぼくたちは、移り気だし忘れっぽいので、いかに親しい相手であれ、亡くなったひとのことをそこまで強く思い続けるのは難しい。「去る者は日々に疎し」という諺(ことわざ)のとおりだ。
 「喪の仕事」を控えた報瀬はまだわかる。しかし、利益を生むかどうかも定かならざる天文台のために、「10年かかろうが20年かかろうが構わない」ほどの覚悟でこれだけのプロジェクトを組む藤堂の精神力は桁外れといえる。まさに一生を捧げるということではないか。
 現実世界はおろか、「純文学」においても、かくも情の厚い、確たる意志をもったキャラなんてのは滅多にいない。純文学の登場人物は、現実のぼくたちと同じくたいていは卑小かつ軟弱である。
 『日本の同時代小説』(岩波新書)の斎藤美奈子は、「そんなだから純文はダメなんだ」というが、明治このかた、純文学ってのはそういうふうに成立したんだからしょうがない。だからこそ、一方で「物語」(エンタメ)が発展し、こんなにも隆盛を極めてるのだ。
 藤堂吟というひとは、やはり「物語」の中のキャラなんだと思う。しかし、だからこそ、生半可な純文学の登場人物よりも、遥かに魅力的である。

 かなえの計らいでもうけたインタビューの席に、報瀬はこなかった。「やはり私のことを許せないんだろう」と藤堂は思うが、自分からアクションは起こせない。そんな彼女の背中を次に押すのはこの人だ。


「それは問題ですね。隊長として、きちんと話しておかないと……」



 船を預かる「大人のひと」からこう言われたら、さすがに疎かにはできぬというもの。
 藤堂はデッキに向かう。ありがちな演出ならば、ひとりで海を見つめる報瀬に「ちょっといい?」などと言いながら近づいていく藤堂……といった絵柄が想定されるところだが、そんな月並なことはこの作品はやらない。


「ペンギン……」


 「上陸の時が近づいている」ことを視聴者に知らせつつ、過去の情景(前の記事参照)とオーバーラップさせる心憎い演出だ。
 ここでカメラはいったん、「雲のような人とは何ぞや」について相棒の氷見(CV 福島潤)の意見をきく敏夫へと移り(氷見は「なんとなくわかる」が、それ以上は「言葉にならない」というので、敏夫はいよいよ途方にくれる)、前半(Aパート)は終了。


 後半(Bパート)は、報瀬と藤堂とが、貴子の死について真正面から会話をかわす重要なパートだ。第7話での、望遠鏡をかたわらに置いての会話よりもさらに踏み込んだもので、報瀬は初めてここで藤堂におのれの感情をさらし、内面を吐露する。
 しかもここに、子供の頃の報瀬と藤堂との交流がフラッシュバックでかぶせられることで、話がより重層的になる。こうやって分析すると改めてわかるが、つくづく凝った構成だ(分析するのも一苦労である)。



「あんた、わざと私とあの子二人っきりにしようとしてるでしょ」
「してるよー。だってあの子には、吟ちゃんの魂が必要だからー」


「できないの?(かなりぶっきらぼうに)」
「(少しためらって)はい……」



 吟ちゃんの魂。

 報瀬の父親については、どのような形であれ、作中では一切語られない。あいだに報瀬を挟んでの、貴子と藤堂との関係性は、やや大げさにいうならば、「母系の共同体」のようにもみえる。その最小単位の共同体のなかで、貴子は藤堂に、娘のかりそめの「父」たる役を期待しているようだ。
 庭で縄跳びの練習をする幼い報瀬。なかなかうまく跳べない。藤堂は報瀬に近寄り、ぶっきらぼうに「できないの?」と訊く。やや躊躇ったのち、「はい」と答える報瀬。そこでカメラは「現在」に戻る。



3人はここにいる。もちろん、ただの興味本位ではない。3人にとって、この会話は(出航まえの夜のあの会話と同じく)けして他人事ではない。この場所でこうして立ち会うことは、むしろ「責務」みたいなものだ



「何ですか?」
「どう思ってるか訊いておこうと思って。私のこと」
「憎んでるって言ってほしいんですか? 憎んでません。お母さんが民間の観測船に乗ることになったとき、何度も聞きました。南極観測には危険もあるって。南極がそういうところだということは、理解しているつもりです」
「でも私が隊長だった」
「落ち度があったんですか? あなたの判断ミスで、お母さんは南極に取り残されたんですか?」
「ああするしかなかった」
「じゃあそれでいいじゃないですか」
「わかった。ひとつだけ聞かせて。それは本心? ほんとうにそう思ってるのね」
「(ここからは泣き声)わかりません。だから話すのが嫌だったんです。どう思ってるのかなんてぜんぜんわからない。ただ……ただお母さんは帰ってこない。私の毎日は変わらないのに。………………帰ってくるのを待っていた毎日とずっと一緒で、何も変わらない。毎日毎日思うんです。まるで帰ってくるのを待っているみたいだって。変えるには行くしかないんです。お母さんがいる、宇宙(うちゅう)よりも遠い場所に」

この表白のあいだ、カメラはまたフラッシュバックして、「何も変わらない」毎日を無表情で送る報瀬の映像をうつす





 その瞬間、船が衝撃を受け、大きく揺れる。定着氷にぶつかったのだ。ついに「南極」に到達したのである。








宇宙よりも遠い場所・論 24 ラブ・ストーリー02

2018-12-29 | 宇宙よりも遠い場所
 この第9話の構成は、全13話のなかでいちばん手が込んでいる。前回述べたクロスカッティングとフラッシュバック、さらにはカットバックが多用され、過去と現在、そして複数の場面が交錯する。しかしもちろん、それが混乱を招いたり、うるさく感じられることはない。結局は、全てがひとつに収斂(しゅうれん)し、南極到達~ラミング(砕氷)~上陸へと至る怒涛のクライマックスへと一直線になだれ込む。ただ舌を巻くしかない鮮やかさである。


 報瀬が子供のころ、貴子はしょっちゅう藤堂を家に招いていたらしい。しかも、そのたびに口実をもうけては席を外し、藤堂と報瀬を2人きりにしていたようだ。
 どちらも口下手なので、間が持たない。じっと並んでテレビを見て……。


「あ。ペンギン」


 そんな思い出話をきいて「何だそりゃ」と、かなえ。しかしすぐ真顔になって、「彼女、お母さんが待ってる、って言ってるのよ。貴子のこと、ちゃんと話しておかなくていいの?」という。
 藤堂の脳裏をよぎるのは、中学生になった報瀬と、最後に会ったときのシーンだ。


「捜索は打ち切ったの。私の判断で」


 こういう湿っぽいムードになると、すぐ陽性に転じるのがこのアニメのよいところである。「突撃インタビュー」に押しかけてくる3人。かなえの一存で、許可を出していたのだ。ただ、それは報瀬と藤堂との距離を近づけるための計らいだったのだが、かんじんの報瀬はこなかった。かなえは少しがっかりするが、すぐに気持を切り替える。でもって、あとはわちゃわちゃ。


好きな男性のタイプは!?



 シーンがかわって甲板。「目、もうちょっと大きくしたほうがいいかな」と、アプリで藤堂の写真をいじるキマリ(爆笑必至のギャグ画像)。海面に浮かぶ氷塊が、だんだん大きさを増している。「南極圏に入るっていってましたからね」と結月。キマリは太陽を眺めて「沈まなくなるんだよね……」という。




 その上部に、日向、報瀬、それに敏夫と弓子がいる。いちおう藤堂から「好きな男性のタイプ」を聞けたので、それを敏夫に伝えているのだ。「雲みたいな人」というのがその答なのだが、敏夫にはまるで解せない。

太陽のカットから、日向たちのほうにカメラが切り替わって、「雲」の話になる。こういう繋ぎがほんとうに上手い。すべての台詞、すべてのシーンが有機的に絡み合っている



 報瀬が、「たぶん……」といって、子供の頃の記憶をたどる。貴子と3人、草原で寝っ転がって空を見上げているときに、藤堂がこんなことをいった。


「雲ってすごいよね……掴めないのに、上見るといつもそこにある」
 報瀬のTシャツの英字は、3行目が映らないが、「touch your heart」だろうか、「dream」だろうか



 女性3人は「なんとなくわかるね……」と遠い目になるが、気の毒な敏夫にはさっぱりだ。「え……どういうことどういうこと?」




 この「雲」についての挿話は印象ぶかい。「見上げるといつもそこにいる。でも、手を伸ばしても届かない」。……藤堂のことばを、そう言い換えてもいいだろう。そのときの彼女は、もちろん理想の男性について述べていた。しかし、今となってはそれは、ほかならぬ貴子のことを指しているようにみえないだろうか。
 見上げるといつもそこにいる。でも、手を伸ばしてもけして届かない。
 敏夫のラブストーリーも切ないが、藤堂のラブストーリーも、哀しい。


宇宙よりも遠い場所・論 23 ラブ・ストーリー01

2018-12-28 | 宇宙よりも遠い場所
 「宇宙(そら)よりも遠い場所」とは、ほんとうにいいタイトルだ。詩的で、静謐(せいひつ)で、ふかい余韻を湛えている。ぼくは今年(2018年)の9月にこのアニメを知り、とりあえずプライムビデオで11話だけを観たのだが、もしもタイトルが別のものだったら、そこまで興味をそそられたかどうか判らない。
 メインタイトルのみならず、各話に附されたサブタイトルもそれぞれに面白い。ことに9話の「南極恋物語(ブリザード編)」は意味深だ。いったい誰の、誰に対する恋なのか。
 表向きはもちろん、藤堂隊長に向けての敏夫の恋心なんだけど、ほんとうにそれだけなのかって話である。
 ところで、本作は女子高生4人をメインに据えてはいるけれど、彼女たちの異性との恋愛は一切扱っていない。これについては興味ぶかい画像がある。

01話より

02話より

04話より


 めぐっちゃんのことは置いといて、画面左にご注目。本筋とはまったく無関係な男女の生徒が、黒板前で恋愛もようを演じている。01ではⅰPodに入れた曲がきっかけで仲良くなり、02でさらに打ち解け、04ではちょっとした愁嘆場になっちゃってるようだ。
 これはたんなるギャグではなく、作り手からのメッセージと見るべきだろう。このお話は男女の恋を描くものではないですよ、そっちのほうは、メイン・ストーリーの枠の外で起こることですよ、と言ってるわけだ。
 それでは、『宇宙よりも遠い場所』は、「恋」とはまるっきり無縁の作品なのか。
 答はもちろん「否」である。もしも、「ある人を強く強く思い続ける気持」を恋と呼ぶならば。
 3年前に消息を絶った母のために、バイトに明け暮れ、多くのことを犠牲にして、ひたすら南極を目指し続けた娘。
 3年前に亡くした親友のために、資金を集め、準備を重ねて、ついに2度めのプロジェクトを実現した女。
 この2人が貴子に向ける強烈な思慕は、それを「恋」と名づけても、けしておかしくはないはずだ。


 とはいえそれは裏に隠された意味。ストーリーの表面で進行するのは、例によってギャグ調のお話だ。
 冒頭シーン。晴天の下、甲板にて体力づくりに励む4人。どうやら「グループ縄跳び大会」みたいなイベントがあって、彼女たちは最下位だったらしい。結月がすこし足を引っ張ったようだ。ここで日向が、軍隊の教官ふうの口調でなんか言うのが可笑しい。日向にはそんな茶目っ気があって、初登場の時から一貫している。
 報瀬が縄を拾って跳び始める。ボクサーみたいに上手い。意外がる3人に「変?」と報瀬がきき、「だって、見かけによらないところが多いから」と3人が口をそろえる。
「見かけによらず」運動音痴かと思いきや、めちゃくちゃ上手い



 そんな4人の視線の先を、花を捧げもった藤堂が通りかかる。日向が「誕生日?」とつぶやき、結月が「え?」と反応するのは、次の第10話への仕込みだ。


もちろん貴子への献花。「白い薔薇」には「約束を守る」など、恋愛にまつわる様々な花言葉がある


 と、そこにいきなり敏夫があらわれ、思いつめた顔で、報瀬に向かって「好きなんです!」という。「ひっ」とのけぞる報瀬(そりゃそうだ)。ここまでがアヴァン。

 OPが明けると、弓子立会いのもと、女子高生部屋で敏夫が真意を述べている。前々から藤堂隊長のことが好きで、なんとかきっかけを掴みたい。4人の中に隊長と昔からの知り合いがいると聞いたので、話を聞かせてほしいという。
 弓子は「だぁかぁらぁ、(あんたには隊長は)ムリだって言ってるでしょ」とケンカ腰だし、4人のほうも、ほぼ呆れて声が出ない。ことに結月は、致死的な毒舌を炸裂させる。藤堂の峻厳たる佇まいと、敏夫の軽さを見比べるなら、そう言いたくなるのもわかる。
 ネットの評判でも、「敏夫、何考えてんだ、しょーがねえなあ」といった愛を込めての罵倒がもっぱらだけれど、物語論からいえば、ここでの敏夫の役割は明快すぎるほど明快だ。
 トリックスターである。これは古今東西、あらゆる「魅力的な物語」にあらわれるキャラ類型なので、いちいち例は挙げないけれど、そのもっとも大きな仕事は、「持ち前の軽いフットワークで、異なった二つの領域を仲介する」ことだ。
 この第9話は、「貴子という一人の女性を介して結ばれていながら、その貴子の死によって今は大きく隔てられている報瀬と藤堂吟との距離が縮まる話」である。
 敏夫のこのトンチキな行動は、そのための露払いなのだ。だから、ひとまずは退場しなければならない。日向が「これだ!」と叫び、このところ再生回数が落ちた「南極レポート」のテコ入れとして、隊員の恋愛もようを取り入れよう、と提案する。
 まじめな報瀬は「下品じゃない?」と消極的だが、芸能人の結月は、「みんなそういうの好きですよ!」と飛びつく。「あとはこっちでやっときますんで」と日向に言われ、「ジャマだってさ」と弓子に引っ張られていく敏夫。キマリだけがその様子を見て目をうるうるさせている。ほんとに優しい娘さんである。
 食堂での作戦会議にて、「やっぱここは突撃インタビューしかないな」という話になり、「だれが行くか」で、第2話の「歌舞伎町鬼ごっこ」の際のわちゃわちゃが再演されて……。


02話より

日向「なんかこの展開前にもあったな……」
結月「そうなんですか?」




 この第9話では、映画の編集技術でいう「クロスカッティング」が駆使される。このシーンはその先触れで、報瀬サイドと藤堂サイド、それぞれの様子がかわるがわるに映されて、ストーリーラインが同時進行していく。
キ「まえに甲板で話してたじゃん」
報「えっ、見てたの」
日「見てないと思ったのか」
報「あれは……偶然で」
キ「なんでそんなにイヤなの? 仲悪いの?」

「いや……悪いっていうか……」


「距離がある」


 こちらは船長室。かなえと向き合っている藤堂。「まえ甲板で話してたでしょ」「えっ、見てたの?」というやり取りが、こちらでも反復される。そこから貴子の話になり、フラッシュバック(回想)で、子供のころの報瀬と、藤堂との交流が綴られていく。



宇宙よりも遠い場所・論 22 波濤(はとう)を越え、「境界」を越えて

2018-12-26 | 宇宙よりも遠い場所
 なぜこのアニメにかくも惹きつけられるのか、と自問してみると、ふたつのことに思い至る。
 ①自分が遠い昔に失ってしまった「青春」のきらめきが、数知れぬ結晶となって散りばめられている。
 恥ずかしながら……という感じだが、これは大きい。とにかくすべての描写がまぶしい。だから、逆にもし今ぼくが10代だったら、ここまで熱中しなかったかもしれぬし、悪くすると、もっと冷笑的な目で見たかもしれない。10代のワタシはかなり斜に構えてましたしねえ。
 もうひとつ理由がある。これもまた、この齢になったからこそわかることではある。
 ②「物語」のほとんどの要素が、この一作のなかに詰め込まれている。
 当ブログはもともと「純文学」と「物語」について考えるブログであって、だからこの②こそが、ここで『宇宙よりも遠い場所』を大まじめに論じている所以なのだった。


 ストーリーを転がしていく大切な要素のひとつに「境界を越える」というものがある。慣れ親しんだ日常から旅立った主人公(たち)が、「ここではない何処か」(異界)へと辿り着くまえに、そのふたつの世界を隔てる「境」を越えるのだ。
 もっとも見やすい例は、『千と千尋の神隠し』におけるトンネル。その源泉のひとつである『不思議の国のアリス』のウサギ穴。水平か垂直かの違いだけで、これだってトンネルだろう。ファンタジーとは限らない。純文学でも、川端康成の『雪国』では、やはりトンネルがふたつの世界の「境」となる。
 ついでにいうと、川端康成ってひとは、抒情詩のような文体ゆえにあまりそう思われてはいないようだが、じつは鏡花や谷崎に劣らぬくらい物語性の強い作家だ。
 『宇宙よりも遠い場所』第8話「吠えて、狂って、絶叫して」もまた、キマリたち4人が、「南極」という「異界」に辿り着くために、「境界」を越える話である。


 さて。Bパート(後半)はとにかく船酔い、船酔いだ。画面自体が揺れているので、見ているこちらもかるく酩酊を味わえる。くだくだしくは書かない。画像を貼らせて頂くので、お察しください。



 かなえが様子を見に来て「つらくとも、食事だけは摂ってね」というので、食堂に行って無理やり押し込むが、結局ダメ。「体力つけなきゃ」と甲板に出て「艦上体育」を試みるも、体がうごかない。



出航まえのあの穏やかな日向ぼっこの構図が反復されるのが切ない



 だが、ここまではふつうの遠洋航海でも起こりうることだ。彼女たちが赴くのは「南極」なのである。
 「クジラが見える」というのでキマリは信恵に望遠鏡を借りて覗くが、この体調で一点を見つめるものだから、とうぜん自爆。
 そこに保奈美が4人を呼びに来て、室内の荷物をもっとしっかり固定するようアドバイスする。


 今回の穏やかならざるサブタイトルは、南下して緯度が増すほどに波が荒くなっていくことから、「吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度」と呼ばれていることに由来する。これ、ウィキペディアにもちゃんと載っていた。
 地球の自転によって生まれる風や海流は、大陸によって遮られ、弱められる。しかし南極への航路にはその大陸がない。船はそこを強引に突っ切っていく。ゆえに荒波が船を直撃するわけだ。
 とうぜん、揺れる。「ジェットコースターみたいよー」と、保奈美。
 報瀬だけは母から聞いて知っていたようだが、ここまで口にしなかったのは、やはり自分で経験しないと実感がわかなかったせいか。

 夜。いよいよ波が荒くなってくる。
 歴戦の強者(つわもの)たるこの人は「嫌いじゃないですね。戦ってる気がして」と勇ましいが……。


 こっちはこうなる。
かるく死んでますかね……




 しっかりしているようでも、やはり年下ということだろう。結月が、「こんなんで私たち、南極行って、何かできるんでしょうか」と弱音を吐く。「私たちも、あんなふうに強くなれるんでしょうか……」
 報瀬が、やや激した口調で、「がんばるしかないでしょう。ほかに選択肢はないんだから」と言い返したそのとき。


 「コンパサー」が発動する。


 「そうじゃないよ!」


「選択肢はずっとあったよ。でも選んだんだよ、ここを。」


「選んだんだよ、自分で!」


 「人生は選択の連続。その選択には責任が伴う。そして人は、その絶えざる積み重ねによって自己を形成していく」とは実存主義の極意だ。キマリはサルトルなんて知らぬだろうけど、立派な実存主義者である。さすがは「表の主人公」。
 日向が「よく言った!」といって飛び起き、サントラのDisc 2、6番目に入っている「最後まで諦めない」という勇壮な曲が掛かる。そのまま廊下に出ていこうとする日向に、結月が「どこ行くんです?」と訊き、日向が口を抑えて「トイレ……」と答え、曲が途中でストップする、というギャグを挟んで……。

 結局は4人でトイレのために廊下に出る。ほとんど「坂」と化した床の上でこんなことになったりして、わちゃわちゃしたあげく……。



 キマリが、「この旅が終ったときには、ぜったいこれも、すっごく楽しいって思ってる!」と笑顔で言い切って、ほかの3人も微笑を浮かべ、全員で、目と目を見かわす。「ONE STEP」という挿入歌がかかる。「ハルカトオク」「宇宙を見上げて」の2曲はこれまでクライマックスシーンで必ずどちらかが使われたが、「ONE STEP」はこの時が初めてだ。
 ここからの展開は、初見のさい、ぼくにはまったく予想できなかった。自分が保守的なつまらぬ人間だなあとつくづく思う。結月が「ちょっと、外行ってみたいですね」と言い出すのである。3話で、ハシゴをかけて上ってくるキマリたちに「何やってるんです、怒られますよ!」と声をかけた結月が(夢のなかの出来事だったけど)これをいうのは誠に意義深いのだが、それにしても、だ。

 扉を開けて……。



 初見の際には、思わず「あああああーっ」と声が出たものだ。
 これについては、『20 「暗喩」の豊かさ、あるいは、「現実」と「物語」とのあいだ』のコメント欄に詳しい考察を頂いたので、ぜひ参考にされたい。『宇宙よりも遠い場所』に対する批判的な意見のなかには、このシーンを取り上げるものも多いので、リアリズムの見地に立ったこのような擁護は貴重なものである。
 この考察によれば、ようするに「このシーン、見た目ほどは危なくない」らしい。そうなのかもしれない。ただ、いずれにしても、スタッフがここの場面を「見るからに危ない」ものとして見せているのは確かだ。「物語論」の立場からは、その点こそが重要になる。
 「境界を越える」というのは、並大抵の行いではないのである。命がけなのだ。「アリス」にしても、わりとあっさり越えちゃってるけど、ほんとはそこで命を落としてもフシギじゃないくらいのことなのである。「千と千尋」のばあい、トンネルを越えた時よりも、ちょっと後になって大変な事態を招いたが、いずれにしても只では済まない行為なのだ。
 このアニメはそこをきっちりやっている。しかも「4人だからこそ乗り越えられる」という点をユーモアまじりに強調しており、「物語」として間然する所がない。
 キマリたちは頭から水しぶきを浴びる。舐めてみると、しょっぱい。海水なのだ。これも、「海上にいることを身をもって知る」というリアリスティックな意味のほかに、「洗礼を受ける」という象徴的な意味がある。「境界越え」に付随する儀礼だ。
 だからこのシーンの後は、彼女たちはもう、別の場所に立つことになる。相変わらず船の上にはいるのだが、そこはもう、これまでと同じ場所ではないのだ。
 次のシーン、爽やかな顔で食堂の弓子の前に立つ4人。やっと、船に「乗れる」ようになったみたいね、と弓子。「自転車に乗る」のと同じで、たんに船に乗っかってるんじゃなくて、船を自分の身体が乗りこなしている、という感じであろうか。
 日向が、「はい。昨日クジラも見ましたから」と答える。この返事からも、これが先ほどのシーンの翌日ではなく、何日かが経過した後だとわかる。

そして、

ついに南極圏が目の前に

 
 キマリのナレーションで。
「雲もなく、鳥の姿もなく、視界すべてが、一面の青。
 どんなに目を凝らしても、見渡すかぎりの水平線。
 たしかに船の音は 聞こえているはずなのに、
 その圧倒的な景色が、音を消していた。
 そこにあるのは、宇宙を思わせる、無音の世界。」
(立派な文章である。ああみえて、キマリにはけっこう文才がある……と思う。)




 出航直後の4人のあの表情が反復されて、




 第8話「吠えて、狂って、絶叫して」はおわる。



宇宙よりも遠い場所・論 21 そして船は出る。

2018-12-25 | 宇宙よりも遠い場所
 一夜が明け、ついに出航の朝がくる。
 OPまえのアヴァンは、「満喫しといてね。あったかい地面には当分さわれないんだから」というかなえの勧めで、大地に横たわる4人のカットからだ。


「南極でも、これ、やろうね」とキマリ。それは13話で実現する(もちろんそれまでにもやっていたかも知れないが、本編で映像として確認できるのは13話だけだ。OPでは思いっきりやってますけど)

 このあとすぐ、
①係の人たちが港の側からアンカーを外すカット、
②隊員たちが船上でアンカーを手繰り上げるカット、
③船橋で、迎船長が「じゃあ、行きますか」、かなえが「いよいよね」といい、藤堂が「違う、やっと」と答えるカット、
④キマリたちが甲板から紙テープを投げ、乗り出し過ぎたキマリと日向が危うく落ちかかるカット(日向は結月に無難に助けられるが、キマリのほうは、慌てた報瀬にヘッドロックを掛けられて絞め上げられる←爆笑)、
⑤海上を滑るように航行する船を陸の側から捉えたカット、
⑥小旗を振って見送る人たちのカット、
⑦手を振ってそれに応える隊員たちのカット……
 などがテンポよく点綴されていく。
 なぜくだくだこんな羅列をしたかというと、これがキマリにとっての2度めの「出発」だからだ。この2度めの出発が、しごく丁寧に、堅実なリアリズムで描かれているのを強調したかった。
 1度目の出発、すなわち例の「絶交、無効」の際は、キマリは後ろも見ずに走り去り、そのまま一気に空港まで突っ走っていった。画面の上ではそう見えた。まるで空港が駅前あたりにあるかのような勢いだった。もちろん実際には、途中で切符も買えば電車にも乗れば歩いたりもしてるわけである。「青春の旅立ち」の疾走感を出すために、いしづか監督は余計なものを切り捨て、あの映像をつくった。
 キマリの1度目の出発は、そんな大胆な省略法で描かれた。対してこの2度めは、じつに手堅いリアリズムで描かれる。
 旅はもうキマリたち4人だけのものではない。たくさんの人たちの協力のうえで成り立っている。そう感じさせるのだ。
 陸地がどんどん遠ざかっていく。行く手にはもう、海しか見えない。


 船が陸から離れる
 この旅に何の意味があるのかなんて、わからない
 学校を休んで試験も受けず、受験にだって影響する
 でも今の私たちは、一歩踏み出せないままの高校生ではない
 何かをしようとして、何もできないままの、17歳や16歳ではない

 キマリ「海だけだ……」
 日向「あたりまえだろ」
 キマリ「世界ってほんとうに広いんだね」

 それで、じゅうぶんだ



 茫洋として果てしない海原を眺めながらのキマリのこの述懐は、シンガポールでの夜景を見ながらの感慨ともまた違う。青春の瑞々しい感受性は、行く先々で新たな経験に反応してきらめく。

 と、ここまではたいへん麗しいのだが、このあと、前半(Aパート)はおおむねわちゃわちゃ、後半(Bパート)は全員そろって船酔いである。
 キマリたちは「同行者」だが「お客さま」ではない。けっこう忙しい。まず研究員へのインタビュー。相手は安本保奈美と佐々木夢(17 宝箱を開けに。その② 参照)。インタビューアーは結月ではなく黒髪ぱっつんコメディエンヌさんだ。
 保奈美は寝坊して眉毛を描いておらず、キマリたちは外で待たされる。キ「眉毛なかったね……」日「べつに珍しくもないだろ」結「むしろふつうというか」というやり取りがあって、キマリが「ほんと?」と報瀬の眉毛を抜いてみるのは、さっきのヘッドロックのお返しか。
 ようやく始まった保奈美へのインタビューで、報瀬は例によって噛みまくり。つづく夢へのインタビューではこうである。

ある意味、キャッチーでウイットでセンセーショナル……かもしれない。少数のカルトなファンが付きそうだ。頑として位置をずらさない夢さんも夢さんだが



 結月が「マイク……近い、近い」と小声で注意するも、報瀬はピンときていない。それをよそに、キマリと日向が「あの人は眉毛あるね」「ちゃんと話きけよ」と話してるのがまた可笑しい。しかしこの手の細かいギャグを記述してたらいつまで経っても進まないので、いいかげん自重しましょう。
 それが済んだら調理室に駆け込み、弓子のもとでじゃが芋の皮むきの手伝い。4人あわせても、スピード、正確さとも弓子ひとりに及ばない。そのあとは「艦上体育許可」ということで、広大な甲板をぐるりとランニングするのだが、他の乗組員たちとの体力差を思い知らされる。隊員はもとより、一見するとデスクワーク派の研究者にしか見えない夢さんでさえ、相当なスピードで走り抜けていくのだ。
 「これではならじ」と、部屋に戻ってにわかトレーニングに励むも、とりあえず、たんに消耗しただけ……のようにしかみえない。ダンベルのやりすぎで腕が上がらなくなった結月は「何かしたら軽く死なせますよ」の警告も空しく、こういう羽目になる。こんな真似をするのはもちろん日向だ。


 場面が変わり、「バカじゃないですか⁉ バカじゃないですか⁉」と鏡に向かって額をごしごし洗っている結月の背中のカットから浴室シーン。「海水風呂なので肌に沁みる」「髪がキシキシする」といった体感トリビアが語られる。キマリの「前髪切り過ぎた系」ヘアスタイルの謎も判明。
 4人そろって湯船に浸かっている時に「配食用意」の艦内放送が入る。まことに慌ただしい……というより、ここでの時間割がまだ身についていない、というべきか。
 「そういえば洗濯機の使える時間も決まってたよね」と気がつき、食事もそこそこに(まあ完食したのだが)洗濯室へ。どうにか間に合ってほっとしたところで、立ったままうとうとする結月。またしても喜んでサインペンを取り出す日向。さすがに阻止する報瀬。「疲れたんだよね、忙しかったから」といつも優しいキマリ。
 このシーンで特筆しておくべきは、「だよな。これ明日からも続くんだろ。もつのか?」と珍しく弱音を吐いた日向に、「がんばるしかないでしょ。ほかに選択肢はないんだから」と報瀬が応じ、それにキマリが「ん?」という顔をするところだ。これがクライマックスの名場面への仕込みになる。

キマリのとなりにいるのが結月。このあと、とつぜん顔をあげる



 ふいに覚醒した結月が口元をおさえ、「気持ちが……わるい……です」と呻くように言って、Bパート突入。


HUGっと!プリキュア 第45話「みんなでHUGっと! メリークリスマス☆」

2018-12-23 | プリキュア・シリーズ







 番組を見終えた直後に感想をアップしたんだけれど、肝心のところを読めてなかったことに気が付いたので、差し替えます。
 「本物のサンタさんの代わりにプレゼントを配って回る」なんて破天荒な展開にアゼンとして、あまり真剣に見てなかったんだけど、はなたちが訪問してたのは、パップルさんご一行をも含めて、
①「本気でサンタさんを信じていて」
➁かつ、「何らかの事情で、誰からもプレゼントを貰えない」
 子(ひと)たちだったんだね。それがわかって、ようやく個々のエピソードが自分のなかで繋がりました。
 さあやは前話の流れで母から贈り物を貰い、ほまれは……わからないけど、まあ幸せには違いない。はなとえみるは、貰うよりも与える側に回って、あの2人なら、それは貰うよりも幸せなことなんだろうね。
 それでまあ、トラウム氏も善行を積んで、「愛娘」からサイコーのプレゼントを(ふたつも)貰った。みんなが誰かに何かを与え、みんなが誰かから何かを貰った。
 だからこそ、ジェロスさんがかつての部下2人からプレゼントをもらって(売れ残りのケーキだけどね。そんなの関係ねえんだ、美味しいんだから)3人並んで何処へともなく去っていく、というオチがびしっと決まるわけだ(あの2人には本職の声優さんを使うべきだった、という意見は変わりませんが)。
 クリスマスらしいハッピーなお話だったな、という気分に、私もなってきました。やはり良い作品だな、これ。

宇宙よりも遠い場所・論 20 「暗喩」の豊かさ、あるいは、「現実」と「物語」とのあいだ

2018-12-23 | 宇宙よりも遠い場所
 映像作品ってものは、ひとつのカット、一連なりのシーンが、重層的な意味をもつ。ストーリーラインを前に進めるためだけでなく、その裏側に、さらにべつの意味を隠し持ってるわけだ。それこそが作品ぜんたいの厚みとなる。優れた映像作品ほど、その「裏の内実」が分厚いのだ。
 それを100%読み取るのは、ことに初見では大変だけれど、読み取れるものなら、なるべく多いに越したことはない。
 べつに難しいことを言いたいんじゃない。ぼくたちがドラマやアニメを見るさい、それと意識することなく、ふつうにやってることである。
 第1話の冒頭、散らかり放題の自室のベッドで寝汚(いぎたな)く惰眠を貪るキマリ。その枕元(?)に本が積み上げられており、そのなかに「ROMANCE」という少女漫画雑誌がみえる。
 キマリの「ここではない何処かへ」という願望を「ロマンス」のひとことでまとめていいかどうかはわからないけれど、日常からの逸脱って点では、確かにそれはロマンスだろう。
 キマリのなかにはロマンスがある。しかしそれは、この時点ではまだ、しかるべき位置に収まってはいない。受験やら何やら、ほかの色んな事とごっちゃになってる。そういうことなのだ。


 こんなのはまさに「序の口」で、『宇宙よりも遠い場所』には至る所にそういった「暗喩」が散りばめられているのだが、この例からもわかるとおり、それはけっして難解なものではない。むしろ図式的といっていいほどで、あまりにあからさまな時は、ほとんどギャグとして機能する。1話Aパートでは、校内のポスターや標識、英語の授業のリーディングなどを存分に用いて、この手の小気味いいギャグが炸裂していた。それゆえ事件らしい事件は起きずとも、こちらもしぜんに話の中に引き込まれた。


 キマリと報瀬との「ガール・ミーツ・ガール」のあともその趣向はつづいた。駅の階段で黒髪の美少女の落とした封筒を拾ったキマリが、中を確かめる場面で、背後のポスターがこれである。


 そして翌日、それを落とし主に返すべく、けんめいに探索するキマリは、この科目の教科書でその封筒を隠し持っている。




 まだまだあるが、いずれにせよ、こういうのは作り手の「お遊び」に属することで、微笑を誘われる。ところが、そうやって楽しく眺めているうちに、メタファーが少しずつ切実なものへと変わっていくのだ。


 時系列としてはさっきの2例より前になるが、ささやかな「ロマンス」を求め、学校をサボって小旅行を試みたキマリは、怖くなって引き返す。その時のカットだ。表向きの意味は「雨が降ってますよ」だけど、これは「とほほほ……やっぱ私、できないや」というキマリの涙だろう。
 ちなみにこのカット、報瀬から「呉に行こう」と誘われた日の夜、自宅にてさんざん思い悩むキマリの回想として再利用されるが、そのとき彼女がベッドから台所に移動したのに合わせ、このカットが挿入される。



 「滴る雫」によってキマリの心情と二つの場所とが見事につながる。このていねいな作り込みを目にして、「ああ、これはきっと名作になるな。」と確信をもったものである。


 いうまでもなく全編を通しての最大・最高の「暗喩」は第12話の例のアレに決まってるけれど、これまで述べてきたところだと、第3話の「窓のストッパー」も忘れがたい。第1話・第5話の「葉っぱの舟」ももちろんだ。第2話で、いちど腹を立てた報瀬が気を鎮めてキマリの所に戻ってくる際の、赤信号が青になるカットもよかった。
 こういう技法は、ありふれた日常のシンプルな舞台だからこそ生きるので、異世界もののファンタジーだったら、舞台装置や、周りの小道具などがあらかじめ異化されてしまっているため、使いづらい。
 シンプル・イズ・ベストということでは、ぼくなどはいつも、A・タルコフスキーの『ノスタルジア』(1983年)で、たった一本の蝋燭(ろうそく)に灯した小さな火があたかも全人類の救済の象徴のように見えてくるシーンを思い出すのだが、ほかにも適切な例はあるだろう。



 こんな話を始めたのは、第8話「吠えて、狂って、絶叫して」には、「これって暗喩、もしくは象徴だよなあ……リアリズムとして見ちゃったら、ここだけはさすがに呑み込めんなあ。」というシーンがあるからだ。
 それは全編を通じてのベストテンに入れてもおかしくない名シーンなのだが、ここまでていねいに保ってきた一定のリアリティーを台無しにしかねぬような、危ういシーンでもあった。
 もちろん見返すたびに涙は出るし、4人が南極に辿り着く前にこのイベントがなかったら絶対ダメだぞと思いもするが、それでもやはり、「うーん……」という声が漏れてしまうのは如何ともしがたい。
 ぼくたちの生きる「現実」と、「物語」との関わりというか、もっというなら「相克」のようなものを、そのシーンを見るたび、考えさせられてしまうのだ。