ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

あらためて文学と向き合うための10作リスト・04  日・独・米・中、残りの4作。

2023-01-03 | あらためて文学と向き合う。
 昨年(2022/令和4)は、「あらためて文学と向き合う」というカテゴリを新設し、モダニズム以前の……すなわち19世紀以前のスタンダードな世界文学の大長編を読み込んでやろうと意気込んでいたのだけれど、年明け早々体調(およびパソコン)の不良によって思うに任せず、そうこうするうち2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、さらには7月8日の安倍元首相暗殺、などの変事が起こり、気分がブンガクどころでなくなってしまった。
 本来ならば、『戦争と平和』に描かれた19世紀初頭のナポレオンによる対ロシア(+オーストリア)戦争(アウステルリッツの戦い)と、現在のロシア=ウクライナ戦争とを比較しながら『戦争と平和』論をやれたらよかったのだけれど、それだけの力量を持ち合わせぬために大した論考を残せず、結局のところ「あらためて文学と向き合う」のカテゴリはほぼ有名無実となっている。やれやれ。
 リストアップのほうも、『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』のあとジェイン・オースティン『自負と偏見』、ジョージ・エリオット『ミドルマーチ』(以上イギリス)、スタンダール『赤と黒』、ユーゴー『レ・ミゼラブル』(以上フランス)まで発表して、あと4作が放りっぱなしだ。遅きに失した感もあるが、新しい年の始まりに臨んで、とりあえず何を選ぶかだけでもはっきりさせておきたい。
 とはいえしかし、時間がかかったのは悪いことばかりでなく、昨今の世界および日本の情勢の激動を受けて考えが熟した面もある。というのも、当初はドイツ代表としてトーマス・マン『ブッテンブローグ家のひとびと』を想定していた。北杜夫の『楡家の人びと』の原型ともなった大名作である。しかし第二次世界大戦におけるドイツと日本との関わりというものを考えたときに、ここで『ブッテンブローグ』を持ってくるのはいかにも迂遠というか、どうにも暢気すぎる気がしてきた。
 それで、モダニズム以前(19世紀以前)という縛りを取り払い、20世紀の戦後を代表する一作ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』を選ぶことに決めた。
 それに合わせて日本からは、野上弥生子の『迷路』を選んだ。グラス(Günter Grass)は1927(昭和2)年生まれ、2015(平成27)年没。野上さんは1885(明治18)年生まれ、1985(昭和60)年没。かなり年齢に開きがあるうえ、片やグロテスク&エロティックなマジック・リアリズムで片や堅実な写実主義、片や男性で片や女性、片や青年時代にナチスの武装親衛隊に加わり、片や社会主義へのシンパシーをもちつつ穏健な市民主義的良識の中に留まった……と何から何まで対照的なお二方だが、しかし『ブリキの太鼓』と『迷路』とは洋の東西でほぼ同じ時代を描いているのだ。だからこそ対比がいっそう際立ち、2作を読み比べるのは興味ぶかい作業になりそうな気がする。
 ついでアメリカだが、これも候補が多くて難渋した。すぐ思いついたのはフォークナー『響きと怒り』、ヘミングウェイ『日はまた昇る』、メルヴィル『白鯨』といったあたりだけれども、最終的にはマーク・トゥエインの『ジャンヌ・ダルク』に決めた。
 フォークナーでもヘミングウェイでもメルヴィルでもなくマーク・トゥエインなのは百歩譲って良しとして、しかしなぜ『ハックルベリー・フィンの冒険』ではなく『ジャンヌ・ダルク』なんだよそもそもそんなのトゥエイン書いてたのかよ、と言いたくなる人もいようが、知名度は低いが確かにトゥエイン氏はジャンヌ・ダルクをヒロインに据えた小説を書いている。しかも入魂の自信作であったらしい。邦訳は角川文庫の「トウェイン完訳コレクション」に入っている。
 居並ぶ候補を押しのけて、あえてこれを選んだのは、ジャンヌ・ダルクというキャラクターがナウシカを始めとする日本製アニメの「戦闘ヒロイン」の紛れもない原型だからだ。そこに今日性がある。
 トゥエインの筆はその魅力を余すところなく描き出している。ジャンヌは本家フランスのみならず各国において(さすがにイギリス製は少ないが)詩・戯曲・オペラ・小説・映画の題材にされているけれど(もちろん絵画にも)、中でも本作は白眉ではないか。
 それと、今回のリストの隠しテーマのひとつが「キリスト教」だからという理由もある。さらには、ヨーロッパとアメリカとの関係性を考えてみたいという思惑もあった。
 そして最後の一作は、
「古典中の古典から選びたい。もちろん、現代的で、いま読んでも十分に面白いものを」
ということで、当初は『ドン・キホーテ』のつもりであった。しかし日本を除けばすべて欧米というのもどうかと思い直し、現代のノーベル賞作家ということで、莫言の『白檀の刑』にした。
 これで地域別では西欧5名、ロシア2名、アメリカ1名、アジア2名、性別でいえば男性7名、女性3名。どうにかバランスは取れているのではないか。
 リストアップは以上だが、残念ながらいつ手を付けられるかはわからない。とりあえず『戦争と平和』だけでも着手できぬものかと思っているが、そう簡単にはいかないようだ。





あらためて文学と向き合うための10作リスト・03 『憐れな人々』

2022-04-16 | あらためて文学と向き合う。
 前々回にしても、べつにウィル・スミスの話なんてどうでもいい……いやどうでもいい訳ではないけども、なにも1回分の記事にするつもりはなかったのに、ちょっとした前振りのつもりで書き始めたら思いのほか長くなってしまって、結局は本題に入れぬままだった。前回の、円安と「鎌倉殿」の話題もそうだ。あくまでも前置きで、それだけで1回分にする気はなかった。落語でいえば、延々とマクラをふって肝心の噺を演らないうちに時間がきちゃったという……。談志の高座じゃねえンだから……。
 ただ、『鎌倉殿の13人』については、1979(昭和54)年の『草燃える』……このドラマは、「権力と政治のもつ魔性」を主題とした作品としてぼくのなかでは前1978年の『黄金の日日』、翌1980年の『獅子の時代』と並んでもっとも印象に残った大河なのだが……との絡みでもう少しいろいろ語ってみたい気持ちはある。菅田将暉演じる義経のひねった造形も興味ぶかいし、また、西田敏行演じる後白河法皇の老獪さは、「日本の皇室は他の国々の王族と違って神代の昔から庶民のことだけを大切に思っている。」などと甘ったるいファンタジーに浸っている昨今の若い人たちにぜひとも見ておいて頂きたい。
 いやいや、この調子ではまたしても本題が疎かになりそうだ。ではここからいきなり、「あらためて文学と向き合うための10作リスト」の続きに行きましょう。
 トルストイとドストエフスキー、この両者はもうロシアがどうこうというより、人類全体の知的遺産と見なして敬意を払うしかない。そのお二人の代表作として、『戦争と平和』と『カラマーゾフの兄弟』。そして近代小説発祥の地・イギリス(連合王国)からジェイン・オースティン『自負と偏見』およびジョージ・エリオット『ミドルマーチ』と2大女性作家の代表作を。そしてフランスからはトルストイにも影響を与えた巨人スタンダールの『赤と黒』。これが前回までのあらすじ。
 というわけで残り5作なのだけれども、ここまではすんなり決まった反面、あとのほうは枠組みを先に作ってそこに当て嵌めていく形になった。つまり、フランスからもう1作を選び、あとはドイツ、アメリカ、そしてわがニッポンと、国別に一人ずつリストアップすることにしたわけだ。
 フランスといえば、定跡からいけばフローベールの『ボヴァリー夫人』だろう。もしくはバルザックから『ゴリオ爺さん』あたりか。しかし今回はあえてどちらも落とした。『ボヴァリー夫人』は教科書ふうの説明としては「科学的に厳密な手法で書かれた近代リアリズム小説の傑作」とされるのだけど、あの蓮實重彥がライフワークとして拘り続けていることからもわかるとおり、じつは小説技法のすべてが詰まった「現代小説の最先端」といっていいほどの凄玉(すごだま)なのである。べつにそんな難しいことを言わずとも、ふつうに鑑賞するつもりで取り上げてもいいのだが、またの機会と致しましょう。
 『ゴリオ爺さん』でもよかったが、今回はあえてユーゴーの『レ・ミゼラブル』を選んだ。ヴィクトル・ユーゴーは19世紀フランスの国民的作家で、生前の名声は他のどの作家をも凌いでいたが、今日の評価としては「通俗的」で、文学史のうえでは格下だとみられている。『レ・ミゼラブル』にしても、ミュージカルや映画だけ観て「知ってるつもり」になってる人も多いだろうが、しかし実際に読んでみるとこれがたいそう面白いのである。ストーリーは波乱万丈、当時の政治的状況や社会風俗もよくわかる。そういう意味ではたしかに通俗的なのではあろうが、まさにその通俗性ゆえに今回リストアップすることにした。





あらためて文学と向き合うための10作リスト・02 アンチ・ヒューマニズム

2022-03-26 | あらためて文学と向き合う。
 01からのつづき。


 ぼくは悲観的かつ過激な性格なので、根っこは反ヒューマニストである。人間を中心として物事を考えてはいない。早い話、いまの人類ってものはいったん滅んだほうがいいんじゃないか、とさえ腹の底では思っている。これほど文明が熟していながら、どうして軍事と縁が切れないのか。世界各国が軍事に費やしているマンパワーや経費や知的リソースをぜんぶ福利厚生に回したら、地球は明日にでも夢のような理想郷へと進化するだろう。人類のすべてとまではいかぬかも知れぬが、今と比べれば遥かに多くの人々が幸せに暮らせるはずだ。わかっていながらそれができない。今日もまた誰かが誰かの血を流し、弱者が苦難に晒されて、そのいっぽうで(ボブ・ディランが歌うところの)「戦争の親玉」どもが肥え太っている。どうにもこうにもしょうがない。
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の世界的ベストセラー『サピエンス全史』に続く第2作『ホモ・デウス』(原著は2017年刊)には、「もとより人類は多くの危難を克服できてはいないが、とりあえず深刻なパンデミック(疫病の蔓延)や大規模な戦争に見舞われることはないだろう。そのていどには聡明になってきたと思う。」というようなことが書いてある。大外れではないか。これはハラリ氏がうっかりしたというよりも、人類のほうが氏の想定よりも愚かでありすぎたのだと思う。
 『サピエンス全史』は人類の過去(歴史)を論じたもので、『ホモ・デウス』は未来を論じたものだ。そのぶんだけSFチックといえる。AIによって齎される未来がけして明るい展望だけではないと予見されている。そこは反ヒューマニズムである。SFとは近現代の文学が産み落とした鬼子みたいなジャンルで、もともと反ヒューマニズムが身上なのだ。中学時代のぼくはSFが大好きだった(文字どおりの中2だったわけだ)。根に反ヒューマニズムの資質を抱えているからSFに惹かれたのだろうし、SFを耽読するなかでいっそうそんな資質が高じたともいえる。
 そのあと高校に上がってから改めて「純文学」の魅力に気づいた。純文学というか、このたび扱っているような「主流派(メインストリーム)」の文学といったほうがいいかもしれぬが、こちらはもちろんヒューマニズムに貫かれている。『戦争と平和』なんてとりわけそうだ。トルストイはまさしく人類愛のひとである。
 だからぼくにとっての文学ってものは、自らをヒューマニズムの側に繋ぎとめておくための装置だともいえる。偉大な作品を読むたびに、そこに描き出された人生模様に思いを馳せ、そのような作品を書いた作家の才能に敬意を抱く。そのようにして、人間という存在に対する信頼感を取り戻し、「いまの人類ってほんとは滅んだほうがいいんじゃないの?」という自分の内の猛毒を中和しているわけである。
 といったわけで前回からつづく「その02」だけれども、『戦争と平和』『自負と偏見』『赤と黒』『カラマーゾフの兄弟』の4作がすんなり決まった反面、あとの選出は難航した。
 ⑤『ミドルマーチ』 ジョージ・エリオット(光文社古典新訳文庫。廣野由美子訳)。
 近代小説を確立したのは世界に先駆けて「市民社会」を築いた英国といっていいと思うが、その英国からの2作目がこれ。しかしこの国から2人の作家を選ぶとして、ひとりがジェイン・オースティンなのはいいとして、もうひとりは本来チャールズ・ディケンズを選ぶべきところだろう。英国を代表する大作家ディケンズさんを差し置いて、知名度において日本では劣るエリオット女史をリストアップしたのはひとえにぼくの好みゆえだ。廣野由美子さんによって新しく訳出された光文社古典新訳文庫版の『ミドルマーチ』がたいそう面白かったのである。
 もうひとつ、とかく男性にばかり偏りがちな(男性作家の数のほうが圧倒的に多かったのだから仕方ないが)文学史の中から、どうにかして女性作家をひとりでも多くリストに加えたかったという理由もある。
 そうはいっても『ミドルマーチ』をご存じの方はどれくらいおられるだろうか。ウィキペディア日本版「ミドルマーチ」の項を引用させて頂こう(一部を改稿)。



 ミドルマーチ(Middlemarch, A Study of Provincial Life)は、ジョージ・エリオットのペンネームをもつ英国の作家メアリー・アン・エヴァンズが執筆した小説。1871年と1872年に8回に分けて発表された。1829年から1832年までの架空のイングランド中部の商業都市ミッドランドを舞台に、それぞれ異なった生活環境の中でともに理想に燃える二人の男女の人生の経緯を描く。副題に「地方生活の一習作」とあるように、ミドルマーチの住民を描きながら、多彩な人生模様と心の動きを描いて、人生について深く考えさせる作品となっている。エリオットは1869年から1870年に小説を形成する2つの作品を書き始め、1871年に完成させた。当初の評価はまちまちであったが、後年ヴァージニア・ウルフが、この本を激賞して以来、今では彼女の最高傑作、英国における偉大な小説の1つと見なされている。


 付け加えておくと、この小説は近年いよいよ評価が高まり、「英国における偉大な小説の1つ」どころか、2015年にBBC(British Broadcasting Corporation英国放送協会)が英国以外の各国の批評家たちに対して行った「偉大なイギリス小説」のアンケートで堂々の1位に輝いている(ちなみに2位と3位は、やはり女性作家のヴァージニア・ウルフによる『灯台へ』と『ダロウェイ夫人』)。ディケンズの『大いなる遺産』が4位であった。






あらためて文学と向き合うための10作リスト・03につづく


あらためて文学と向き合うための10作リスト・01 外せない4作品。

2022-03-26 | あらためて文学と向き合う。

 今年に入ったら世界文学の古典的名作について論じようと思い、「あらためて文学と向き合う」というカテゴリまで作って昨年末から準備してたのに、『戦争と平和』について少し書きかけたところで、体調不良などで滞っているうち、プーチン大統領のウクライナ侵攻ですっかり気勢を殺がれてしまった。「文学に罪はない。」という言い方はできるし、「こんな時だからこそロシアの生んだ偉大な小説と向き合うことに意義がある。」という言い方もできるが、やはりこの状況下でロシアにまつわることを楽しげに語るのはどうにも気が引けるのだった。
 「あらためて文学と向き合う」のカテゴリでは、『戦争と平和』を皮切りに10本の作品を扱うつもりだった。『戦争と平和』ほどではないにせよどれも大物ばかりであり、相変わらず意気込みだけは立派である。そういえば「戦後短篇小説再発見を読む」のカテゴリも長らく中断している。ほかにも「いずれやります。」と言っておいて放りっぱなしになっていることが沢山あったと思うがどれくらいなのかは自分でもよくわからない。いいかげんな奴である。しかし「あらためて文学と向き合う」はごく最近の話なのだからこのままというのも落ち着かない。
 『戦争と平和』論は当面のあいだ憚られるので、今回は「論じる予定の作品リスト」および「それを選ぶに至った経緯」について述べたい。
 まず①、その『戦争と平和』だけれど、これは問答無用の即決だった。妥当な判断だと思う。評価の定まった古典的作品のなかでは、この長編を文学史上の最高峰に挙げる人はけして少なくないはずだ。ぼくとしては、高1の春にいきなり挫折して以来これまでの人生で何度か手を伸ばしながらも結局通読できなかった難物を克服する良い機会でもあった。望月哲夫氏の新訳が出て、これがすこぶる性に合っていて読みやすかったのだ。
 ②がジェイン・オースティン『自負と偏見』(新潮文庫。小山太一訳)。長らく親しまれた中野好夫訳に代わってのこれも新訳である。新しければいいってものでもないのだが、小山さんの日本語はいつも明晰で読みやすい。
 近代小説発祥の地ともいうべき英国からはまずジェイン・オースティンを選んだ。これもそんなに迷わなかった。1775(安永4)年生まれだからトルストイより50年ほど前のひとだ。作風はまるで対照的。さほど大きな題材は扱わず、日常の細部、感情のささやかな動きを緻密に描く。ネット上でどなたかが「トルストイが黒澤明ならばオースティンは小津安二郎」と評していた。少々荒っぽすぎる比喩かもしれぬが、ニュアンスとしてはそんなところである。
 「生きるための婚活」という普遍のテーマを扱っているゆえに、昔から根強いファンに支えられているし、小説史における女性作家の草分けということもあり(紫式部を除く)、近年になって専門家からの評価もますます高い。この人は外せないと思った。
 ③がスタンダールの『赤と黒』。大岡昇平訳。これもいくつか訳が出ているが、70年代に講談社版世界文学全集の一冊として出た大岡さんの訳である。これに関しては数種の訳を読み比べて厳選したわけでなく、家にあったものを選んだ。ぼくが20代の頃にはどの古本屋にも「文学全集」の端本が300円くらいで転がっていた。しっかりした装丁だから嵩張るのが難だが、貧乏な身にはあれはほんとに助かった。そのようにして手に入れた一冊である。
 そうはいっても大岡さんといえば戦後の日本を代表する作家であると共にスタンダリアン(スタンダールの研究家。あるいはマニア)としても高名だった。もともとスタンダールの翻訳や研究書から文業をはじめて創作へ移行していったのだ。丸谷才一流にいうなら「スタンダールの弟子」のひとりである。この訳は上下に分冊されて講談社文庫から出ていたが、今は絶版らしい。勿体ない。
 そしてまたトルストイもいうならばスタンダールの弟子なのだ。いかに彼が大才であろうとお手本もなしに『戦争と平和』は書けない。当時のロシアにはあの大作の導きになるような先行作品はなかった。スタンダールは1783(天明3)年生まれだからオースティンさんとおよそ同時代である。つまりトルストイの50年先輩。トルストイの頃のロシアはすべてにおいてフランスに範を仰いでいた。『戦争と平和』の中の「ワーテルローの戦い」の描出に当たって『パルムの僧院』の戦闘描写を参考にした……という話は有名だけれど、影響を受けたのがそこのところだけである筈はないのだ。
 村上龍のデビュウ作『限りなく透明に近いブルー』でも言及される『パルムの僧院』でもよかったのだが、より読みやすいほうということで、『赤と黒』にした。迷える青年ジュリアン・ソレルの苦難は現代ニッポンの若い世代にも共感できると思う。
 ④がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。上記3作と比べるといささか異色の小説なのだが、やっぱりこれも外せない。なにしろあの村上春樹が、『グレート・ギャツビー』『ロング・グッドバイ』と並べて「もっとも影響を受けた3冊」に選んでいる。発表されたのは1880(明治13)年ではあるが十分これは「現代小説」といっていい。少なくとも「現代小説の源流のひとつ」であるのは間違いない。
 日本では亀山郁夫氏が殊の外このドスト氏に拘って何冊も関連書籍を出しておられる。ぼくが選んだのもその亀山氏の光文社古典新訳文庫版である。今から10年前に出て、この手の古典としては異例なほどの売れ行きを示した。
 この4作は迷わなかった。ほぼ「スタンダード」といっていい。しかしそのスタンダードの中にロシアの小説が2作も入っているのはどういうことなのだろう。近代化の面でも文芸の面でも、あの国は常にヨーロッパ(西欧)に後れを取っていたはずなのだが。しかしその後進性ゆえに、同じく後発だった明治ニッポンの文学者にとってはちょうどよい規範となり、二葉亭四迷(1864/元治1~1909/明治42)を介して日本の近代小説はロシア文学の多大なる影響のもとに誕生したといっていいわけだけれども。



あらためて文学と向き合うための10作リスト・02につづく


22.03.20 ウクライナとロシアについて02

2022-03-20 | あらためて文学と向き合う。





 歴史を学ぶのも大切だけれど、何よりもまず、「なぜロシアは国際的な孤立を覚悟でこのような挙に出たのか?」という当面の疑問を抑えておかねば話が空回りしてしまう。ぼくはテレビを見ないし新聞も取っていないので、とりあえずネット頼りになるのだが、ざっと探してみたところ、このサイトが時系列をきれいにまとめて明快だった。天下の日経新聞である。






日本経済新聞 図解 ウクライナ なぜロシアはウクライナに侵攻したのか
https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00000970X10C22A2000000/




 肝心なのは、
①ウクライナはロシアにとって断じて失うことのできない隣国なのに、国内が反ロシア派と親ロシア派とに分かれて鬩ぎ合っていること、
②そして現状は反ロシア派が優勢であり、EU(European Union 欧州連合)およびNATO(North Atlantic Treaty Organization 北大西洋条約機構)への一日も早い加入を求めていること、
この2点だろう。
 「ロシアがウクライナのEU加盟を拒絶している。」という情報に接した覚えはない。プーチン大統領が何としても阻止したいのはNATO加盟のほうだ。NATOはあくまでアメリカ主導の軍事同盟だから、かつての東西冷戦における東側の領袖として、それだけは許しがたいということだ。1962(昭和37)年、アメリカの喉元というべきキューバにソ連が核ミサイルを配備して、あわや第三次世界大戦の寸前までいった「キューバ危機」が引き合いに出されるのもわからぬではない。
 これはすなわちEUが、つまりヨーロッパが自前の軍事同盟をもっていないから起こってしまう事態なのだろうが、かといって今からそういう組織を創ったらどうかというと、それはよけいに話が紛糾するだけだろう。これ以上世界に軍備を増やしてどうする。
 ウクライナ国内における反ロシア派と親ロシア派との確執の中で、反ロシア派が過激化して国内の平穏を脅かし、その脅威がロシア本国にも及んでいる……というのがプーチン側の派兵の口実(のひとつ)であり、「反ロシア派が過激化して云々」については前々回の記事で紹介した漫画『紛争でしたら八田まで ウクライナ編』にも描かれていたとおりではあるが、たとえいかなる理由があろうと他国の領土に侵攻して無理やりに言うことを聞かせようというのはこの時代にけっしてあってはならないことである。
 それにしても、このあいだの米大統領選でも痛感したが、この情報の洪水の中で「事実」と思しきものを見極めるのは難しい。ウクライナ問題については、アメリカの暗部を暴く作風で知られるオリバー・ストーン監督が、2004年の「オレンジ革命」や2014年の騒乱(これらの事件については冒頭にリンクを貼った日経のサイトを参照)の背後にうごめくCIAの謀略を強調して作った『ウクライナ・オン・ファイヤー』があり、いっぽうではまるっきり反対の立場から撮られた『ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い』というドキュメンタリーもある。ほぼ対極の内容なのに紛らわしいほど題名が似通っているのは一体どういうことなのか。ともあれ、こういったものをなるべく多く見比べたうえで自分なりの判断を下すのが望ましいのだろうが、今のところ『ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い』がわりあい容易に観られるのに対し、『ウクライナ・オン・ファイヤー』のほうはなかなかアクセスしづらいようだ。
 しかしまあ、何度でもしつこく書くけれど、たとえいかなる理由があろうと他国の領土に侵攻して無理やりに言うことを聞かせようというのはこの時代にけっしてあってはならないことである。この根幹原則だけは何としても揺るがせにはできまい。


 ここでまた少しだけ歴史をお浚いすると、今日の世界につながる民族自決の機運あるいは思想……すなわち「民族主義」が勃然と沸き上がったのはヨーロッパ全土をほぼ巻き込んだナポレオン戦争(1803/享和3 ~1815/文化12)の余勢である。ヨーロッパの国民国家独立運動は、いわばナポレオンの置き土産なのだ。そしてそのナポレオンによるロシア侵攻とロシア側の祖国防衛戦を文学史上有数の規模で描き切ったのがトルストイの『戦争と平和』(刊行は1869/明治2年)にほかならない。
 その「ヨーロッパの国民国家独立運動」は玉突きのように派生しながら同時進行的に拡がっていくが、前回の記事で取り上げたクリミアが舞台となった「クリミア戦争」(1853/嘉永5・6 ~ 1856/安政2・3)にトルストイは少尉として従軍し、セヴァストポリ包囲戦を経験して、『セヴァストポリ物語』というルポルタージュをものしている(この文章が絶賛を浴びたことが、本気で作家を志す契機となった)。
 当時のクリミア半島はもとよりロシア帝国の領土であったが、ロシア人とは別に「ウクライナ民族」なるものが存在し、ウクライナもまた独立国たるべし……という機運が盛り上がってきたのもまたこの頃なのだった。
 そんなわけで、ぼくがもっと若いうちから『戦争と平和』をじっくり読み込んでおればこの事態に際して作品論と現下の情勢とを織り交ぜながら面白いブログが書けたのかもしれないが、力が及ばないのがもどかしい。









22.03.17 ウクライナとロシアについて01

2022-03-17 | あらためて文学と向き合う。





 「文学に罪はない。」という考え方はできる。あるいは、もっと積極的に、「こんな時だからこそロシアの生んだ偉大な小説を読むことに意義がある。」という考え方もできる。とはいえこの状況下で、『戦争と平和』について楽しげに語ることにはやはり抵抗を禁じ得ない。間が悪すぎる。それもこれも、昨年末に準備を始めていながら一向に更新しなかった自分がよろしくないわけだが(体調とパソコンの調子とがともども優れないから仕方ないんだけども)、それにしても、何とも収まりのつかぬ気分だ。そういえば、日本を代表するロシア文学者で、『カラマーゾフの兄弟』の新訳で知られる亀山郁夫氏も、目下の状況を前にひとこと「絶望」と言っておられたが……。
 事態は時々刻々と動いており、ウクライナにとってもロシアにとっても世界にとっても悪い方向に進んでいる(としか思えない)のだけども、ぼくの癖として、こういう折には、より過去のほう、「起源」に近いほうへとアタマが向かう。とりあえず、前回の記事で紹介した黒川祐次氏の『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)に目を通してみた。「ヨーロッパの歴史」といえば教科書でも一般書籍でもとかく「西欧」が中心となり、東欧~ビザンツ帝国~スラブ方面の記述は甚だ薄かったから、ページを繰るごとに知識が増えていくようで面白かった。といってもこの本の初版は2002年だから、2014年のロシアによる(事実上の)クリミア併合についての言及はない。243ページに、「(ソビエト連邦の崩壊に伴うウクライナの独立によって)ロシア人はあれほど愛したヤルタの保養地も、ロシア軍の歴史とともにあったセヴァストーポリも失うことになるのである。」との記述がみられる。
 この記述から12年後、その「ヤルタの保養地」や「軍の歴史とともにあったセヴァストーポリ」を含むクリミア半島(の一部)を、プーチン大統領は、事実上奪還するのだ。
 ロシアとウクライナとの確執は、このクリミアひとつ取って見ても極めて入り組んでいる。
 「ヤルタ会談」で有名なヤルタも、軍港として名高いセヴァストーポリも、もとはウクライナの領土内だった。ただし、それは1954年以降の話で、かつてはロシア帝国の土地であり、革命後は「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」の領土だったのである。
 ソ連という名称につき、平成生まれの若い世代には補足が要るかもしれない。「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」とは、プーチン率いる今のあの「ロシア連邦(正式名称)」のほぼ前身である。その「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」を巨大な中心として、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ウズベク、カザフ、グルジア、アゼルバイジャン、リトアニア、モルダビア、ラトビア、キルギス、タジク、アルメニア、トルクメン、エストニアの15の国で構成されていたのがいわゆる「ソ連」であった。「米ソ対立の冷戦構造」という際の「ソ」とは、この「ソビエト連邦」のことだ。
 15国の顔ぶれをみてもわかるとおり、スラブ系のみならず、中央アジアの民も含んで人種は多岐にわたっている。かつての大日本帝国の「五族協和」ではないけれど、ソ連は多民族の協調を建前として謳っていたから、これらの国々の民族的な独立を認めたうえで、連邦に編入させていたのだ。民族主義を無理やりに抑えつけることはなかった。ただしもちろん、「社会主義」という絶対的なイデオロギーを奉じ、かつ、けっしてロシア及びロシア共産党に楯突くことがない、という条件の下で……であったことは言うまでもないが。
 1954年、時のソ連の最高権力者フルシチョフ……この人はウクライナ出身ではなかったが、終生ウクライナに好意的だった……が、「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」としてクリミアをウクライナ共和国に移管する。裏には様々な思惑があったが、いずれにせよ、「当時はウクライナが将来独立することなど毛頭考えられていなかったので、行政上の措置程度の軽い気持ちでなされた決定であっただろう。」(『物語 ウクライナの歴史』)。しかし、1991年のソビエト連邦崩壊により、ウクライナは独立し、クリミアもまたロシアの手から離れることとなる。返還交渉をしていれば……と同書を読みながらぼくはふと思ったが、考えてみれば当時の新生「ロシア連邦」はクーデター騒ぎなどもあって、とうていそんな余裕はなかった。
 「かつての強大なソ連の威信を取り戻す」ことを目標とするプーチン氏にとっては、クリミアの(事実上の)奪還は一つの所定のステップだったのかもしれない。世界はあのときもっと危機感を抱くべきだったのかもしれないが、今回みたいな正規軍を動かしての軍事侵攻ではなかったから、つい甘く受け止めてしまったのだろうか。
 それにしても、さらに時代を遡っていくと、この地域……というより所謂「西欧」からロシアに及ぶ(さらには北欧やらオスマン帝国やらイスラム圏やら中央アジアの草原までをも含めて)……に暮らす諸民族と諸国家が入り乱れての存亡を賭けた大曼荼羅には目が眩むようである。四方を海で隔絶された島国の住人にとっては、よほど想像を逞しくせねば届かないものだ。英国も島国ではあるが、アイルランドを抱えているし、何よりも大陸との緊張の中でアイデンティティーを形成してきた国であるから歴史が違う。
 ぼくたちに親しい作家のなかで、ロシアについてもっともふかく考察したのは司馬遼太郎だと思う。近代日本の形成を振り返るうえで避けては通れぬ「日露戦争」を描いた『坂の上の雲』は有名だけど、そのあとに書かれた『菜の花の沖』はそれほどの知名度はない。しかし、両作はいわば不可分であり、近代(明治)における日露関係を描いたものが「坂の上」だとすれば、それ以前、江戸期から幕末にかけての日露の関わりを描いたものが「菜の花」なのである。『菜の花の沖』はエッセイふうの叙述が多くて物語的な興趣に乏しいと評されたりもするけれど、「近代(明治)以前の日露交渉史」の解説とみるならこれほどわかりやすくて面白い読み物もない。そういう観点から読まれるべきものだろう。
 さらに、この『菜の花の沖』でみられた司馬さん流のロシア観、ロシア論の濃密な集成として、『ロシアについて ―北方の原形』というエッセイがあり、読売文学賞をとっている。これらはいずれも文春文庫に入っていて、電子書籍化もされている。
 『物語 ウクライナの歴史』を読むまでは、ロシアにまつわるぼくの知見はもっぱらこの『ロシアについて』に負っていた。






いま読みたい世界文学の10冊 ①『戦争と平和』その02 20世紀文学

2022-02-10 | あらためて文学と向き合う。
 流行りのアレとは関係なしに、どうも昨年末から体調が優れず、すこし持ち直した際に「さあ久しぶりに更新するか」と気合を入れたら今度はパソコンのぐあいがおかしくなったりして、なかなか思うに任せないのだが、このままでは月刊ブログとなって2022年度の記事が全12本、ということにもなりかねぬので、どうにかペースを上げていきたい。しかし不調の折には自前の文章を綴るどころか本を読んでもさっぱりアタマに入ってこないほどだから、自分でもどうなることか心もとない。
 『戦争と平和』の話をしていたのだった。それで思い出したのだが、2017(平成29)年の9月にぼくはこんな記事を書いた。






 ……(前略)……その抑圧から解き放たれて、あたかも「高2の夏」以前に戻ったかのように、またエンタメ小説が好きになった。それが6、7年前だ。山田風太郎の『明治小説全集』(ちくま文庫)、そしてケン・フォレットの『大聖堂』(ソフトバンク文庫)がきっかけであった。ことにケン・フォレットには感銘を受けた。純文学の感覚からすると文章は粗い。キャラもけっして深くはない。まさに通俗。しかしそれがなんだというのだ。むしろこれこそ文学の本道じゃないか。
 今年の7月、ケン・フォレットが20世紀のヨーロッパ史を描いた「巨人たちの落日/凍れる世界/永遠の始まり」の「100年三部作」を読んだことにより、「これが文学の本道じゃないか」という思いはより強くなった。それまでは大江健三郎であった自分のなかの「文学の基準線」が、ケン・フォレットに取って代わるくらいの勢いだった。個人的には、コペルニクス的転換といっていい。
 これに伴い、自分の中での純文学と「物語」、すなわち「大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説」との関係も、自ずと転換を迫られた。それでこのところずっと、物語のことを考えている。前回やった「大きな物語」ではなくて、シンプルな、「お話」としての物語である。
(一部を抜粋)

「お話」としての物語について。①
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/be4cedb197327182bc6d5f1d7388c0f6



 これは、長らく純文学一辺倒であった自分が、英国のベストセラー作家ケン・フォレットをきっかけに、少年期いらい久々に「物語の愉楽」を再発見したという趣旨の記事なのだが、いま読み返すと、すこし修正したくなる。
 ここでは「大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説」と「純文学」とを対比して扱っており、むろん間違いではないが、「19世紀(的)文学」と「20世紀文学」という対比もできる。今の自分ならそちらを強調したいのだ。
 トルストイの『戦争と平和』はもちろん19世紀文学である。ケン・フォレットの小説は、20世紀後半に書かれてはいるが、「19世紀的」な文学といえる。それらと対比されるものとして、「20世紀文学」というものがある。
 絵画を例にとってみたい。





 
 トルストイ文学の荘重さはレンブラントに例えられたりもするが、同時代かつロシアの画家ということで、ここではイリヤ・レーピンの作品を掲載させて頂いた。これは「休息」というタイトルで、画家本人の奥さんを描いたものらしい。綺麗な方である。綺麗な方だとわかるのは、これが19世紀に描かれた、19世紀的絵画であるからだ。







 こちらはご存じピカソの「アヴィニョンの娘たち」で、これが20世紀絵画である。レーピンは19世紀といっても後期のひとだから、上掲の絵とは25年ほどしか離れていないのだが、同じように女性をモデルにしていながら、画然たる違いは一目瞭然であろう。
 ピカソはもとより巫山戯けているわけでも奇を衒っているわけでもなく(いくらか奇を衒っているきらいはあったかもしれぬが)、写真みたいな従来式のリアリズムでは捉えきれぬかたちで世界を捉え、その認識を画面の上で再構築することによって絵画というジャンルを新しい境位へと押し上げたわけだ。これはレーピンとピカソという2人の画家の個性を超えて、やはり19世紀と20世紀との相違といっていいと思う。

 似たことは他のジャンルでも起こっていて、文学もむろん例外ではなかった。燦然たるビッグネームだけを挙げれば、アイルランドのジェイムズ・ジョイス(英語で創作。1882/明治15~1941/昭和16)、フランスのマルセル・プルースト(フランス語で創作。1871/明治4~1922/大正11)、チェコのフランツ・カフカ(ドイツ語で創作。1883/明治16~1924/大正13)といった人たちがそれぞれの仕方でそれまでとは異なる20世紀文学をつくりあげていた。
 これら巨匠たちの業績をひとことで纏めることはできないが、ひとつには、文学というジャンルにおいて、このあたりから、それまでは自明のものだった「主体(私)」なり「語り手」といったものがぐらぐらと揺らぎはじめ、果ては解体されていった。
 さらにまた、文学というのは徹頭徹尾コトバによって創られるものであるからして、そういった「主体(私)」なり「語り手」なりを成り立たせている「言葉」や「言語」もまた激しく揺動し、存立の根拠を問い直される……という仕儀にもなった。それが20世紀の文学なのだ。
 しかし、そうなるととうぜん、「文学」はどんどん難解となっていき、ふつうの読者には手の届きにくいものになる。そこで、また別の市場で「大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説」が栄える。そちらにも「20世紀文学」の余波は及ぶのだが、エンタメとしての節度(もしくは限界)があるから、けして振り切れることはない。「主体(私)」や「語り手」を徹底的に解体したりはしないし、「言葉」や「言語」の存立の根拠を問い直したりもしない。基本的にはリアリズムであり、きっちりとストーリーは保たれており、キャラクター設定は明確である。すなわち、19世紀(的)小説なのだ。
 ぼくが高1のとき新潮文庫版『戦争と平和』の第一巻を読み始めて早々に挫折したことは前回述べたが、それは文体がもたもたしていて性に合わなかったとか、登場人物が多すぎる上に馴染みのないロシア名ばかりで辟易したとか、時代背景に無知だったために作品の中に入れなかったとか、そういった情けない理由のほかに、『戦争と平和』があまりにも典型的な19世紀文学であったせいだと思う。
 その頃のぼくは、まだ前記の巨匠たちのことなどまるで知らなかったけれども(カフカの「変身」くらいは読んでいた気もするが)、それでも20世紀文学の成果はさまざまなかたちで体に浸透していた。ポップスで育った耳でクラシックを聴いたら「立派だけども古くさいなァ。」と感じる。それと似ている。
 それで思春期の柔らかい時期に『戦争と平和』と出会い損なってしまい、しかもそのあと、日本の戦後~同時代文学を介してポストモダニズムに目覚めてしまった。いわば19世紀文学をすっ飛ばして20世紀文学に耽溺してしまった。それが拙かったとは思わぬが、ちょっとばかり惜しいことをしたとは思う。もしも最初にきちんと『戦争と平和』をじっくり読み込んでいたら(高1の時点でそれくらいアタマが成熟していたら)、それ以降の文学観もずいぶんと変わっていたろうし、5年前にケン・フォレットで騒ぐこともなかった。自分のなかで「純文学」と「物語」とがもっと滑らかに溶け合っていたはずだ。









いま読みたい世界文学の10冊 ①『戦争と平和』その01(20.01.19 加筆)

2022-01-15 | あらためて文学と向き合う。
 昨年の12月19日に「ここらでひとつ、あらためてまじめに文学と向き合ってみたい。」などと大見得を切ってから、年を跨いでひと月近くが過ぎてしまい、もはや「あけましておめでとうございます。」という頃合いでもなくなってしまったのだけれど、ブログを更新できなかったのは、年末年始忙しかったとか、すこし体調を崩したといった事情を除けば、ほんとうにマジメに文学と向き合っていたせいである。つまり、インプットにかまけていて、アウトプットに手が回らなかった。
 とりあえず、「いま読みたい世界文学の10冊」を選んで、それらをせっせと読んでいた。再読・再々読のものもあれば、恥ずかしながらこれが初読というのも多い。正直なところ、「これまでさんざん大きな口を叩いておいて、ちょっと自分はブンガクを甘く見てたんじゃないか」との反省もあり、新年早々いささか忸怩たる思いなのだった。
 その筆頭がこれ。


☆☆☆☆☆☆☆☆


① 戦争と平和 トルストイ 望月哲男・訳 光文社古典新訳文庫 1~6


 「世界文学でどれか一作」といったら、たいていのひとがこれを挙げるのではないか。質量ともに圧巻の一語。ぼくは高校に入ってすぐ、学校の最寄りの商店街の本屋で第1巻を買い、「夏休みまでに読破しよう。」と目標を立てたものの、結局は冒頭のパーティーの章から先に進めずじまいで、そのままになってしまった。じつに40年以上も前の話であり、しかもそれ以後、とくに再チャレンジを試みることもなかったのだから、やはり「忸怩たる思い」というよりない。身も蓋もないことをいってしまえば、どうも翻訳ものが駄目なのである。
 それは新潮文庫の工藤精一郎の訳で、今なお版を重ねているが、ほかに岩波文庫から米川正夫の訳も出ており、のちに藤沼貴の新訳にかわった。だから現在は新潮文庫の工藤訳、岩波文庫の藤沼訳、そしてこの光文社古典新訳文庫の望月訳があって、ぜんぶ電子書籍化されている。
 このたび『戦争と平和』に取り組むに当たって望月訳を選んだのは、電子版でサンプルをダウンロードして3種の訳を読み比べてみて、いちばん読み易かったからだ。この訳がいちばん新しい。新しければいいってもんではないはずだけど、光文社古典新訳文庫は総じてどれも読みやすい。この『戦争と平和』もしかり。日本語がこなれていて、訳注が親切で、解説が行き届いている。実用本位の文章ならばいざ知らず、小説というのは文体が命だから、原著者のみならず訳者との相性が大切であり(だからぼくは苦手なのだが)、自分の体質にあう日本語になっておらねばどうしようもない。


 『戦争と平和』とはいかなる作品か。第1巻巻末の「読書ガイド」から、ごく一部を抜粋してみる。


「『戦争と平和』が書かれたのは、今からおよそ一世紀半前の1863年から69年にかけてのこと(eminus註 だから日本でいえば幕末から明治初頭。文久3から明治2まで)。1828年(eminus註 文政11)生まれのトルストイにとって、30代の半ばから40代の入り口までをそっくり捧げた勘定で、彼の創作歴の初期から中期へ、中・短編作家から長編作家への移行を画する作品となりました。
(……中略……)
 物語のつくりからしても、ロシア人、フランス人をはじめ諸国民からなる550名以上もの実在・架空とり混ぜた人物群の活動が、ロシアとヨーロッパ中・東部の広い地域を舞台に7年以上の歳月にわたって描かれるという、近代小説としては破格の規模。人名、地名、使用言語を含め、情報の種類や質もきわめて多様で、作品の分量も当然多く、本書のサイズで六巻に及びます。
 豊富な内容と多彩な語り口の独特な組み合わせゆえに、「(人間の生の営みを完全に再現した)真の芸術の奇蹟」(ニコライ・ストラーホフ)、「現代最大の叙事詩であり、近代の『イーリアス』」(ロマン・ロラン)といった称賛から、「ぶよぶよ、ぶくぶくの巨大モンスター」(ヘンリー・ジェイムズ)という酷評まで、評価のあり方も複雑です。興味深いことに、作者自身はこの作品を「小説ではないし、ましてや叙事詩でもなく、歴史記録などではさらさらない。」と、念入りな否定形で定義しています。」


 ぼくのほうから思いつくまま付け加えるならば、礼賛のほうでは、たしか辻原登が「神が書いたとしか思えない。」と最大限の賛辞を呈し、返す刀で「これに比べればドストエフスキーなど青春文学に過ぎない。それもかなり病的な」と切り捨てていた。ドスト氏に対して辛辣すぎる評価だとも思うが、20世紀最大の作家のひとりウラジミール・ナボコフ(一般には『ロリータ』)の作者として有名)も、わりとこれに近い評価を下している。サマセット・モームも、かの『世界の十大小説』(岩波文庫)において、「あらゆる小説のなかでもっとも偉大な作品」と明言している。
 いっぽう、誹謗のほうでは、柄の悪さ・品のなさにおいて世界文学史上屈指のブコウスキーが、連作短編のなかで自分の分身と思しき男に「久しぶりに戦争と平和を読み返したが、やっぱりひでぇ代物だった」と再三にわたって罵らせている。じっさいにはもっと汚い言葉遣いだったと記憶しているが、当ブログでは品格を重んじてこれくらいの表現に留めておきましょう。しかし、本気で「ひでぇ代物」だと思っているなら繰り返し読み返すこともないはずで、これはブコウスキーが、『戦争と平和』の凄さを十分に認めたうえで「俺はアイツの対極を目指してるンだよ。」と暗に宣言していると取っていいだろう。誰であろうとおよそ小説を書く者ならば意識せずにはいられない。ヘンリー・ジェイムズだって、本音をいえばそのはずだ。それくらい、巨大な作品ってことである。
 トルストイじしんが本作を「小説でも、叙事詩でも、歴史記録でもない。」と述べたというのは有名な逸話で、ぼくもこの文章を読む前から耳にしてはいたが、これはもちろん、謙遜でも韜晦でもなくて、「小説や叙事詩や歴史記録を超越したテクスト」との自負であり、実際まさしくそうとしか言いようがない。
 ところで、「小説(novel)」という用語(概念)は厳密にやればなかなか厄介で、難しくなってくるのだが、「叙事詩(epic)」という文芸用語も、しょっちゅう使われるわりには厄介なものだ。
 Wikipediaの日本版には、
「叙事詩(じょじし、英語: epic、epic poem、epic poetry、epos、epopee)とは、物事、出来事を記述する形の韻文であり、ある程度の長さを持つものである。一般的には民族の英雄や神話、民族の歴史として語り伝える価値のある事件を出来事の物語として語り伝えるものをさす。」
 とある。
 さらにこのあと、
「大岡昇平はさらに「戦争を内容とする」ものとしている(「常識的文学論」)。
 と付け加えてある。この『常識的文学論』は、いまは講談社文芸文庫に入っているが、1960代初頭、井上靖の『蒼き狼』(新潮文庫)がベストセラーになって、いろんな評者が「現代的な叙事詩だ。」「壮大な叙事詩だ。」と持て囃すものだから、小林秀雄直伝の批評精神に富む大岡さんが、「叙事詩とはああいうものではない。いやしくも小説を評するかぎりは言葉を正しく使え。」と怒って論争を仕掛けたものである。
 これは「『蒼き狼』論争」として、戦後日本文学史の1ページを飾っている。つねづね大衆小説~サブカルと「純文学」との関係性をさぐっているぼくにはたいそう興味ぶかいのだが、ふつうのひとには、まあ、どうでもいい話かもしれない。
 覚え書きとして記しておくと、文学史上、真に「叙事詩」と認定された作品はこのあたりだ。

『ギルガメッシュ叙事詩』(メソポタミア)
『イーリアス』『オデュッセイア』(古代ギリシア)
『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』(インド)
『アエネーイス』(古代ローマ)
『ベーオウルフ』(イングランド)
『ローランの歌』(フランス)
『わがシッドの歌』(スペイン)
『カレワラ』(フィンランド)
『ニーベルンゲンの歌』(ドイツ)
『シャー・ナーメ』(イラン)
『マナス』(キルギス)
『ナルト叙事詩』(オセット)
『ユーカラ』(アイヌ)
『ウズ・ルジアダス』(ポルトガル)

 ギルガメッシュからニーベルンゲンまでは有名だし、あとユーカラも日本文学の近傍だからお馴染みだが、ほかのやつは耳慣れない。かつて筑摩世界文学大系に入っていたものは、バラしてちくま文庫などで出ていたりするが、それ以外のは手に取るのも大変そうだ。なお、「オセット」とは今のロシア文化圏らしい。
 ダンテの『神曲』、ミルトンの『楽園喪失(失楽園)』を加える論者もいるけれど、これらは形式としては叙事詩の体裁をとってはいるが、いくつか当てはまらないところもある。
 ()内に現行の国名が書かれているものが多いが、いわゆる「国民国家」が成立する前の作品群なので、「国」というより「民族」、もしくは「文化共同体」の産物といったほうがいいだろう。
 それら「文化共同体」は、強大なものが殆どだが、必ずしもそうとはいえないものもある。「日本が入っていないではないか」と思うが、これにつき、日本版wikiには、

日本文学では、古来に上代日本語を基礎とする古事記、日本書紀、万葉集が有り、その他に『平家物語』などの軍記物や、アイヌのユーカラのような英雄の冒険譚も多くあるが、それらを韻文とする学説は、定かになっていない。

 ……とあって、さらに、

「厳密な意味で、日本に叙事詩が存在しない」との説もあり、代わりに和歌を含みこんだ『歌物語』が成立したと考えられ、『源氏物語』なども和歌を含んでいることから、一級文芸として評価されたとの説がある。
小西甚一は、著作の『日本文藝史』で、「日本は、英雄叙事詩を持たない」と述べている。


 ……と書かれている。
 しかしこの記述は微妙に違っていて、大著『日本文藝史』(講談社)の第1巻で、碩学・小西甚一は、「日本には英雄詩がない。」という言い方をしているのだ。「叙事詩」と「英雄詩」とは違う。ただ、「英雄詩」なる用語(概念)がそれほど熟しているとも思えない。
 古事記や日本書紀にみるスサノオやヤマトタケルの説話が「英雄詩」に当たらない……とは、ぼくにはひどく意外に思え、初めて『日本文藝史』を読んだ際には戸惑ったが、しかし小西氏は、スサノオやヤマトタケルが西欧的な意味での「英雄」の類型に当てはまらない、といっているわけではなく、ほかの箇所ではヤマトタケルをはっきり「英雄」と呼んでいる。
 されどそれを「詩」という形式で歌い上げたわけではない……というわけなのだろうが、このあたり、どうもややっこしくてすっきりしない。もうひとつの巨大な文化共同体・チャイナにおける「英雄(詩)」の不在とも併せて、いま少し考えたいところである。
 「英雄」うんぬんをひとまず置いて、「叙事詩」なる用語にスポットを当てると、「詩」とはほんらい韻を踏んで綴られるもので、つまりはそれが「韻文」という意味だ。しかるに日本では和歌も俳句も五七五の定型(律)によって綴られ、韻(rhyme)を重視しないため、ついついそれを忘れてしまう。
 明治から現代に至る「近代詩/現代詩」でも、韻(rhyme)はほぼ閑却されたままだった。例外として思いつくのは谷川俊太郎の「ことばあそびうた」くらいのもので(かっぱ かっぱらった かっぱ らっぱ かっぱらった とってちってた / やんまにがした ぐんまのとんま さんまをやいて あんまとたべた まんまとにげた ぐんまのやんま たんまもいわず あさまのかなた)、そういう意味では現代詩人たちよりも、いまどきのラッパーたちのほうが、USAのアフリカ系ミュージシャンを介して欧米の詩の伝統によほど忠実だといえる。
 『戦争と平和』は小説であり、散文で書かれているわけだから、そりゃあもちろん「叙事詩」ではない。しかしやっぱり多くのひとが「近代の叙事詩」という言い方をする。上掲の引用のとおり、ロマン・ロランもそういったし、サマセット・モームもいった(お二人とも、まあ、端的にいって通俗作家なのだが)。つまりそれは比喩であり、あくまでも「叙事詩的」ってことなのだ。だからここは大岡さんほど厳密にならず、「叙事詩と見まがうほどのスケールと格調を備えた長編小説」の含意ってことで勘弁して頂こう。
 モームは「このような規模の作品が今後書かれることはない。」とも述べた。そう言いたくなる気持はわかるのだが、モームより30年ほど後に生まれたJ・P・サルトルは「全体小説」という概念を提唱し、『自由への道』(岩波文庫)で自ら実践して見せた。その継承者の中には、たとえば本邦の野間宏がいる。そうそう。サルトルより先に、アメリカにはその名も『U.S.A.』という大作をものしたジョン・ドス・パソスがいた。むしろこちらがサルトルに影響を与えたとおぼしい。 
 「社会のすべて、世界のすべてを自らの手で描き尽くしたい。」という欲望はクリエイターならばいちどは抱くものであり、20世紀の作家たちによるそれらの試みが成功しているか否かは(読んでないので)ぼくには判断できないけれど、『戦争と平和』が(あくまでも19世紀の限界の中で、とはいえ)その目論見を達成しているのは確かなことだ。
 いやいや。内容はほぼそっちのけで、思いつくままの文章になったが、この「あらためて文学と向き合う」カテゴリにおいては、肩肘張らず、こんなぐあいに散歩みたいに筆を運んでいきたいとおもう。文学ってのは何よりもまず楽しむものなのだから。








21.12.19 来年の計は歳末にあり。

2021-12-19 | あらためて文学と向き合う。
 「一年の計は元旦にあり」というけれど、じっさいに1月1日の朝になってから「さて今年の目標は」などと頭を捻っている場合であろうか。これまでのぼくの経験から推して、「それではとうてい間に合わぬ」というのが正直なところである。遅くとも今くらいの時期に計画を立て、そのための準備を整えてから新年を迎える、といった按配でいくのが望ましい。とはいえ誰しも歳末は忙しいのが常で、とりあえず眼前の業務に追われて走り回るのがこの時期でもあり、なかなか思うに任せぬわけだが、むりやりアタマをひねって計画を拵えるというのでなしに、いわば自然な衝動として、「ここらでひとつ、あらためてまじめに文学と向き合ってみたい」という気持が熟してきたので、来年はこれをブログの方針にしたいと思う。


 いちおう「文芸ブログ」を標榜していながら、思えばこれまで体系立てて文学の話を繰り広げてきたわけでもなく、むしろ「物語」やらサブカルの話題に傾くきらいが強く、ことに今年はコロナ禍やらアホ五輪やらのせいで政治向きの記事も多かったし、晩春から初夏にかけては「民主主義の淵源としての民衆自治について考える。」と称して「応仁の乱」のことを超スローペースで書き継いだりもしていたのだけれど、そういったことどもの集大成……ってほどのもんではないにせよ、まあひとつの決算として、自分なりに、現代ふうに、文学というジャンルについて、文芸プロパーの狭い枠組に捉われず、もう少し豊かで幅広い視野から書けるんじゃないかな?という気がしてきたので、ちょっと試みてみたいのだった。


 もうひとつ、最近になってようやくユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』(柴田裕之 訳 河出書房新社 ちなみに英訳タイトルはSapiens: A Brief History of Humankind)を電子書籍できちんと読み、他愛もなく啓蒙されて随分とアタマがクリアになったので、これについても書いてみたい。むろん、文学についての話と『サピエンス全史』についての話はぜんぜん別物であるはずはなく、むしろ『サピエンス全史』の感化を受けて「人類史ぜんたいにおける文学の役割」へと連想が及んで「あらためてまじめに文学と向き合ってみよう」と考えるに至ったわけで、この二つの主題は緊密につながっている。


 なお、日本版の翻訳が出て大きな話題になったのを知っていながらこれまで『サピエンス全史』に手を出さなかったのは、たんに、高価だから文庫になるのを待っていたのと、もうひとつは、クリストファー・ロイド氏の『137億年の物語』(文藝春秋 原題はWHAT ON EARTH HAPPENED?)と混同していたせいである。ロイド氏のほうももちろん好著だけれど、こちらはつまり「よくできた人類史の要約」であり、大胆かつ説得力あふれる仮説によって一種の「思想書」と呼ぶべき『サピエンス全史』とは似て非なるものだった。これを今までごっちゃにしていたのは不明の至りだが、しかしこの5年のあいだ自分なりにあれこれと考えを巡らせていたからこそ『サピエンス全史』がこれほど響いたということもあり、たぶん邂逅すべき時期に邂逅したのだと思う。書物ってのはたいていそのようにして自分の手元に訪れるものである。


 という次第で、「あらためて文学と向き合う。」という新カテゴリを作ってみた。生来ひどく気まぐれなのでどうなるのか定かでないが、しばらくこちらに力を入れたい。