ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ボブ・ディランのノーベル賞。

2016-10-14 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 いぜんから候補者リストに入っていた、なんてことぜんぜん知らなかったので、ボブ・ディランのノーベル文学賞にはびっくりした。そもそもディランにそれほど馴染みがない。手元にあるアルバムは「ブロンド・オン・ブロンド」だけで、それもめったに聴くことはない。彼の詩をじっくり読みこんだこともない。いま側にあるディラン関連の「文献」といえば、『ロック・ピープル101』(新書館)に収録された佐藤良明さんの短いエッセイくらいである。
 それは簡潔ながらも中身の詰まったいい文章だけど、あくまでもロック史の文脈のなかでの解説で、彼の書く詩を文学史の系譜において論じているわけではない(「中西部の生活に密着したバイブルの言葉が、ランボーやブレヒトの言葉と渾然一体になって……」という魅力的なフレーズはあるにせよ)。
 ディランという芸名(?)はディラン・トマスから取ったという説が一般的だ(異説もあるらしい。ちなみにぼくは、ディラン・トマスの詩はけっこう読んだ)。それに「風に吹かれて」をはじめとして、彼の詩が「文学」として高く評価され、アカデミックな研究対象にまでなっているとも聞いてはいたが、しかしノーベル賞となればまた別の次元の話である。とりあえず、ほんとびっくりしました。
 ただ、こんなことは思った。もし「20世紀の詩人の中で、社会にもっとも大きな影響を与えた人は?」というアンケートを取ったら、たしかにディランは上位にくるかもしれない。存命の方にかぎれば尚更である。むろん優れた詩人はいっぱい出たが、いうまでもなくディランは(広い意味での)ポップ・シンガーなのだから、間接的なものまで含めれば、その影響ははかりしれない。早い話、村上春樹がいなくてもボブ・ディランは厳然としてボブ・ディランだけど、もしもディランの存在がなかったら、ハルキさんの書くものは今とはずいぶん変わってたろうということだ。『風の歌を聴け』というタイトルだって、どうなってたかわからない。
 個人的なことをいうならば(まあ個人的なことしかいってないけど)、ぼくはアメリカのビート詩人が大好きなので、そういう点ではうれしかった。仮にディランを文学史のなかに位置付けるならば、それはやっぱりビートニク系詩人ってことになると思うから。ケルアックやギンズバーグが生きてたら、彼らにも受賞の可能性はあったんだろうか?

「君の名は。」のためのメモ。 奥寺先輩

2016-10-04 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり

「君の名は。」のためのメモ 004  奥寺先輩



 奥寺先輩(奥寺ミキ)は、見るからに大人っぽいし、とても世慣れた風情なので、25、6歳くらいかと思っていたら(CVの長澤まさみさんは当時ほぼ29歳)、小説版によると、なんと大学生なのだった。

 初デートのとき、瀧は高2(17歳)だから、せいぜい三つか四つしか変わらない。三葉はじつは瀧より三歳年上なので、瀧を取りまくこのふたり、本当はおおむね同い年ってことになる。

 この三人は、むろん同席することはないけれど、三葉は彼女のことをよく知っており、「あこがれのお姉さんふう女友達」みたいな気分でいる。奥寺先輩も、三葉本人とは面識はないが、ある意味では三葉と親しいといえる。

 現実世界ではありえない、とても不思議な関係だが、「三葉が瀧のからだを借りている」というファンタジックな設定さえ取っ払ってしまえば、わりと青春ドラマにありがちな構図でもある。

 それというのも、じつはこの三人、「三角関係」でもあるからだ。

 三葉が(勝手に)お膳立てした初デートのさい、瀧はどぎまぎするばかりで、会話もはずまず、奥寺先輩はシラケ気味だった。

 表層だけみると、あれは年下の男がうまく相手をエスコートできず、自滅していった図に映るけれど(ぼくにも経験があります)、しかし奥寺先輩くらい聡明で、世間慣れして、コミュニケーション能力の高いひとなら、逆に年下の瀧をリードすることも容易だったはずである。

 けれど彼女は、ぜんぜんそんな気分にならなかった。なぜか。

 デートの終盤、「今日はまるで別人みたいね」と言われるので、「先輩は三葉の入った瀧に興味をもっただけで、男子としての瀧本人に惹かれていたわけではない。」という見方もできるところだが、そうではなくて、奥寺先輩は瀧本人が好きだった。

 これについては、「瀧のルックスはわれわれの想像以上によい。」という案件と、「新海作品の男子は、デフォルトでもてる。」という二つの案件が加味される。シャクにさわるが事実である。

 さらに、飛騨で旅館に泊まった際、「前から気にはなってたけど、最近はますます魅力的に思えて」というような述懐もしていた。最近とは、三葉との「入れ替わり」が始まってから、ということだろう。「入れ替わり」が始まってから、瀧も三葉も、周囲に与える印象が強烈になったのだ。小説版にもそう書かれている。

 奥寺先輩は瀧が好きだった。そう。「惹かれている」とか「興味がある」というレベルではなく、本気で好きになっていた。さもなくばあのあと、司が同行しているとはいえ、強引に旅に付いていったりしない。

 奥寺先輩が初デートの途中で興ざめしたのは、彼女が自ら指摘したとおり、「まえに自分のことを好きだったはずの瀧が、今はべつの女の子を好きになっている。」ことに気づいたせいだ。

 もちろん、三葉のことである。

 瀧じしんは、このときまだ、まったくそれに気づいていない。

 念のためにいうが、これは2016年のできごとである。

 いっぽう三葉は、この日(しかし瀧の時間軸からいえば三年まえ)の朝、「ああ……今日は奥寺先輩とのデートの日だ。ほんとは私が行きたかったけど、しょうがない。瀧くん、うまくやるかなあ……」(このせりふはぼくがいま即興でつくったもので、本編にはない)などと軽い気持ちで考えながら、鏡に向かっていつものように髪を結っているとき、ふいに涙を流す。

 そのとき彼女も、初めて、自分が瀧をものすごく好きになっていたことに気づいたのだった。

 それでもう、矢も楯もたまらず、登校の途中、妹の四葉に言い置いて、制服のまま東京行きの列車に飛び乗る。そして2013年の東京に降り立ち、さんざん迷い歩いたあげく、電車のなかで、14歳、中学2年の瀧に会う。

 三葉には、「わたしたちは、会えば必ず、すぐに互いのことがわかる。」という確信がある。

 それはたしかにそうだったのかもしれないけれど、とはいえ、それは三年まえの世界だから、「入れ替わり」は起っておらず、瀧には彼女のことを知る由もない。

 「誰だ、お前?」と問い返された三葉は、ひどく傷つき、電車から降りる。しかしふたりは、その一瞬、(三葉がリボン代わりにしている)組み紐を取り交わすことだけはできた。

 瀧はその出会いすら忘れていたが、その組み紐を手放すことはしなかった。三年間、ずっと右の手首に巻き続けていた。

 傷心の三葉は糸守町に帰り、祖母の一葉に頼んでばっさり髪を切ってしまう。

 それが、奥寺先輩と瀧とのデートの日、三葉のほうの時間軸(三年まえ)で起ったことだ。

 そして、じつはこれは彗星落下の前日でもあった。

 なお、飛騨のあの辺りから東京まで、日帰りができるのか、という点については、「十分に可能」であるらしい。というか、そういう土地を選んだのだと、新海監督がインタビューで述べている。

 それまでは「はた迷惑な同居人(?)」か「ケンカ友達」くらいの気持で関わっていた瀧に対して、三葉が「思慕」を抱いていたことを自覚せしめた点において、さらに、そのまま列車に飛び乗って、「起こるはずのない三年まえの出会い」までをもを実現せしめた点において、奥寺先輩の存在はたいへん大きい。

 恋心ってのは、往々にして、「ライバル」の出現によって顕在化するものなのだ。

 この作品には、「三人」という人間関係が頻出するが、ある意味で、この「三人」がいちばん重要かもしれない。

 神社の巫女(かむなぎ)たる三葉にたいし、彼女が「寺」の一字をその姓にもっているのも、対称性を際立たせるためのネーミングだろう。さらに「ミキ」に「三樹」という字を当てるなら、対比はますます鮮明になる。

 奥寺先輩と瀧とが行動をともにするシーンで、ぼくの記憶では、画面によく「半月」のイメージがあらわれる。背景の空にぽつんと浮かんでることもあるし、瀧の着ているTシャツの柄になっていたりもする。

 これは、奥寺先輩というひとが、瀧の「片割れ」ではないということを示してるんだろう。彼女といても、瀧の「半分」は満たされないのだ。

 糸守への旅のとちゅう、奥寺先輩(と司)を旅館に置き去りにして、瀧はひとりで「ご神体」へと向かう。そうやって先輩は作品から退場してしまうのだが、ラスト近くで、あらためてその麗しい姿をみせる。

 2021年。瀧は大学四年生でまだ就活中。奥寺先輩は、当然ながらというべきか、社会人(「大手アパレルチェーン」勤務らしい)として順調にやっている様子。「仕事の都合でこっちに来たから」とのことで、ふたりは落ち合って昔のことを語らい、かつてのバイト先(高級イタリア料理店)にて夕食を共にする。

 聡明で優しい先輩には、瀧がまだ「ほんとうに大切なもの」に巡り会えておらず、意識的にか無意識にか、それをずっと探し続けて、つねに渇いているのが見て取れる。

 別れ際、彼女は手をふる。その薬指に光るシックな細い紫の指輪(もちろん婚約指輪だ)は、三葉と瀧とを結ぶ「夕陽の色の組み紐」と鮮かすぎる対照をなして、ぼくは映画館の席で震えたほどだ(テレビサイズではこの感じは伝わらない)。

 君もいつか、ちゃんと、しあわせになりなさい。

 それが奥寺先輩の(この作品における)最後の「言の葉」だ。村上春樹『ノルウェイの森』のラストで、レイコさんが「僕」に告げる最後の言葉とおおむね同じである。

 この場面でもたしか、背景の空には、半月がさりげなく掛かっていたような気がするのだが。



 追記)2018年1月3日に放映されたテレビ版で確認したところ、このシーンの最後に映る月は半月ではなく、きれいな満月だった。ただそれが、交差する電線によって真中から二つに断ち割られていた。半月じゃないのは、この世界が「三葉がぶじに生き延びたほうの世界線」であることを表しているらしい。ただし、まだ瀧と三葉は巡り会えてはいない。だから真ん中で断ち切られているわけだ。まことに細かい演出である。ところで、この「奥寺先輩とのラストデート」の直前、カフェで瀧(および高木)と同席している司の指に、奥寺先輩のものと酷似した婚約指輪がみえた。これは偶然とは思えない。先輩の婚約の相手が司だという説は以前からあって、ぼくは「いやそれはないだろう。」とずっと思っていたのだが、しかし、やっぱりそうだったのか。もともと気が合っていたようだし、旅館にふたりで残されて、ロマンスが生まれたのであろうか。それで5年付き合って、司の就職内定を待って、婚約に踏み切ったということか。やや釈然としない点も残るが、どうもそういうことらしい。





「君の名は。」のためのメモ。 名前について。

2016-10-01 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
「君の名は。」のためのメモ 003  名前について




 三葉(みつは)の名前の由来は、ミヅハノメ。
 イザナミの病および死によって生まれた神々のなかの一柱。
 以下、wikipedia「ミヅハノメ」の項より、一部を抜粋(2016年10月現在)。
 『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)。
 『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神(おかみのかみ)とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
 「ミヅハ」は、「水走」の意と解して、灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる。『古事記』には他に闇御津羽神(クラミツハ)があり、これも同じ語源と考えられる。
 「ミツハ」に「罔象」の字が宛てられているが、罔象は『准南子』などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精と説明されている。
 wikiからの引用はここまで。折口信夫(おりくちしのぶ)の論考「水の女」も、面白いので参照のこと。
折口信夫「水の女」 青空文庫


 以下はぼく個人の考察。
 彼女の姓「宮水」も、文字どおり「お宮」と「水」で、三葉と水との親和性は露骨なまでに明らかだし、さらにいえば、彼女が「水神」とも同一視されていると見なしても、けして無理ではないだろう。そして水神はまた龍神でもある。
 いっぽうの「瀧」は、さんずい(水を表す)に「龍」で、だから彼が三年の月日を隔てて三葉と結びつくことは、その名前からも暗示されている。
 同時に、この作品においては、「彗星」も、「龍」と二重写しになっている。長く尾を引いてなだれおちてくる星は、古代人の目にはあたかも龍と映ったであろう。瀧が「ご神体」を訪れたとき、かつて(1200年まえ)この地に落ちた彗星が、龍神の姿で描かれているのを目にした。
 その「ご神体」の場所自体が、さらにその前、2400年前に彗星が落ちた場所なのだ(前回、1200年前に落ちた場所はカルデラ湖……「糸守湖」になっている)。
 「ティアマト彗星」のティアマトとは、メソポタミア神話の女神で、やはり龍の姿で描かれることが多い。この女神は分裂して怪物を生み落とし、破壊をもたらすが、そのあとで再生を司るともいう。

 三葉という漢字表記にももちろん意味がある。
 「三」は古来より神話においても昔話においても重要な数で、もちろん本作でもそうだ。何よりもまず、三葉と瀧との世界を隔てる歳月が三年。
 新海誠監督は、「三部作」構成を好む。「君の名は。」も、冒頭のコミカルな「とりかえばや」騒動と、中盤の「失われた町を求めて」旅をするミステリー、そしてラストの町民避難のためのスペクタクルと、ある種の三部構成になっているという見方もできる。
 人間関係では、
 三葉と祖母(一葉)、妹(四葉)で三人。
 三葉とテッシー、サヤちんで三人。
 瀧と司、高木で三人。
 瀧と奥寺先輩、司で三人。
 時空を隔てる三葉と瀧が、ほんとうに「ふたりきり」になるのは奇跡みたいなもので、それは最後の最後まで待たねばならない。それまで二人は、幾度となく、(まさに菊田一夫の「君の名は」のごとく)「すれ違い」つづけるのである。
 「葉」は、もちろん植物のことでもあるが、ここでは「言の葉」の意味合いがより色濃いかと思う。
 「古今和歌集」の「仮名序」に、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉(ことのは)とぞなれりける。」とある、あの「言の葉」である。
 新海監督が2013年に発表した前作のタイトルが「言の葉の庭」で、この作品のヒロイン雪野 百香里(ゆきの ゆかり)が、そのまま「古文の先生」として「君の名は。」にも登場し、「かたわれ時」についての大切な話をしている。声優も同じ花澤香菜。
 この場面で「作者不詳」として板書されている和歌は、万葉集の「誰そ彼と われをな問ひそ九月(ながつき)の 露に濡れつつ君待つ我そ」。
 なお、古今和歌集に収められている小野小町の和歌「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」は、「とりかへばや物語」と並んで、この作品のモティーフのひとつだ。
 立花瀧の姓である「立花」の「花」が、「葉」と対になっていることはいうまでもない。