ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第4回・三島由紀夫「雨のなかの噴水」その④

2014-12-26 | 戦後短篇小説再発見

 さて。ベンチから遠望していた噴水に、ようやく間近で明男(と雅子)は向き合うのだが、優れた劇作家でもあるミシマの筆は、ここではまるで映画のキャメラのように働く。ロングショットからズームしてきてクローズ・アップ。しかし、そこで繰り広げられる緻密きわまる噴水の描写は、視覚イメージに観念と内面との動きが絡み合って、映像にはけっして表せないものだ。言葉だけが創造できる圧巻の光景をぜひともご堪能されたい。では引用スタート。





  そこで二人は傘を傾けて、お互いから視線を外(そら)していられる心安さで、中央のはひときわ巨(おお)きく、左右のは脇士のようにいくらか小体(こてい)の、三つの噴水を眺めつづけた。

(……引用者註。脇士(きょうじ)とは、仏像で、本尊の両脇に安置される像のこと。)

 噴水とその池はいつも立ち騒いでいるので、水に落ちる雨足はほとんど見分けられなかった。ここにいて時折耳に入る音は、却って遠い自動車の不規則な唸りばかりで、あたりは噴水の水音が、あんまり緻密に空気の中に織り込まれているので、それと聴耳を立てれば別だが、まるで完璧な沈黙(しじま)に閉ざされているかのようだった。

 水はまず巨大な黒御影の盤上で、点々と小さくはじけ、その分の水は、黒い縁を伝わって、絣(かすり)になって落ちつづけていた。/さらに曲線をえがいて遠くまで放射状に放たれる六本の水柱に守られて、盤の中央には大噴柱がそそり立っていた。

 よく見ると、噴柱はいつも一定の高さに達して終るのではない。風がほとんどないので、水は乱れず、灰色の雨空へ、垂直にたかだかと噴き上げられるのだが、水の達するその頂きは、いつも同じ高さとは限らない。時には思いがけない高さまで、ちぎれた水が放り上げられて、やっとそこで水滴に散って、落ちてくるのである。

 頂きに近い部分の水は、雨空を透かして影を含み、胡粉(ごふん)をまぜた鼠いろをして、水というよりは粉っぽく見え、まわりに水の粉煙りを纏(まつ)わりつかせている。そして噴水のまわりには、白い牡丹雪のような飛沫がいっぱい躍っていて、それが雨まじりの雪とも見える。






 ……ここまでは、もっぱら視覚描写である。きっと作者自身が画家のするように現地に赴いてスケッチを(言葉で)やったんだろう。もちろん滅法巧いわけだし、凡百の書き手に真似できるものではないけれど、ここまでだったらどうにかこうにか、一所懸命に観察すれば、自分にも近いものが書けるかもしれない。しかしここから先のくだりは、ミシマ流の観念遊戯の独壇場、おそらくは彼にしか創り出せない世界である。




 明男はしかし、三本の大噴柱よりも、そのまわりの、曲線をえがいて放射状に放たれる水のすがたに心を奪われた。

 殊(こと)に中央の大噴水のそれは、四方八方へ水の白い鬣(たてがみ)をふるい立たせて、黒御影の縁を高く跳びこえて、池の水面へいさぎよく身を投げつづけている。その水の四方へ向うたゆみない疾走を見ていると、心がそちらへとられそうになる。今ここに在った心が、いつのまにか水に魅入られて、その疾走に乗せられて、むこうへ放たれてしまうのである。

 それは噴柱を見ていても同じことだ。

 一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑(ちょうそ)のように、きちんと身じまいを正して、静止しているかのようである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇っていく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で順々に満たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補って、たえず同じ充実を保っている。それは結局天の高みで挫折することがわかっているのだが、こんなにたえまのない挫折を支えている力の持続は、すばらしい。






 《天の高みに達すれば挫折することを百も承知していながら、その絶え間のない挫折を支える力の持続、それは素晴らしい。》というこの感性、いやいっそ思想というべきだろうが、これはまさしくロマン主義であり、そしてまたアイロニーでもある。だからとうぜんミシマの愛好するモチーフであった。たとえば最後の大作「豊饒の海」の第一巻『春の雪』にも、より壮大かつ濃密なかたちであらわれる。清顕と本多がシャム(タイ)のふたりの王子を連れて海岸に静養に行ったさいの一節である。

「……海はすぐその目の前で終わる。/波の果てを見ていれば、それがいかに果てしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終わるのだ。/……しかし、それにしても、何となごやかな、心やさしい挫折だろう。波の最後の余波(なごり)の小さな笹縁(ささべり)は、たちまちその感情の乱れを失って、濡れた平らな砂の表面と一体化して、淡い泡沫ばかりになるころには、身はあらかた海の裡へ退いている。」




 まだまだ続くし、書き写したいのはやまやまだが、あまり引用ばかりしているとしまいに怒られそうだから自重しよう。ともあれ、本短編における噴水が、この「海」や「波」の人工サイズのバリエーションであることは見て取れるだろう。「こんなにたえまのない挫折を支えている力の持続は、すばらしい。」で終わるこの段落こそ、「雨のなかの噴水」という作品のクライマックスである。そしてこのあと、急速に少年の心は萎えていく。

 つまり、ひたぶるに噴水に注がれていた彼の視線が、さらに高みへと上げられて、雨を見つめてしまうのである。自分自身を含めた地上におけるすべてのものを、等しなみに押し包んで濡らしている雨。その雨のなかの噴水はもう、「何だかつまらない無駄事を繰り返しているようにしか」思えなくなってしまうのだ。

 一瞬の昂揚ののち、噴水をおおっていたロマンチックなベールが剥げて、ありのままの姿を寒々しくも晒けだす。そこではあくまで挫折は挫折、徒労は徒労でしかなくて、それを支える力を「すばらしい」と感じるアイロニーすら、もはや霧消してしまったのである。少年の心は空っぽになり、その空っぽな心にただ雨が降っている。

 この白々とした(あるいは、びちゃびちゃに濡れた、といってもいいかもしれないが)彼の空虚に追い討ちをかけるのが傍らの少女である。短編の落ちをばらすのは本来ルール違反なんだけど、これまで紹介してきた3篇において、ぼくはあえてネタバレをやってきた。しかしこの作品については、ラスト部分を伏せておくことにしよう。新潮文庫『真夏の死』に収録されているので、ちょっと大きな書店にいけば読めるはずだ。ただ、少年がふと顔を見ると、少女がもう泣いてはいなかったことだけを言い添えておきましょう。少年がつかのま噴水に夢中になっていたときに、彼女はもう泣きやんでいたのだ。泣きやんだ彼女の横顔のかげに、「小さく物に拘泥(こだわ)ったように」咲いている洋紅の杜鵑花(さつき)が鮮烈だ。

 しかしこうして読み込んでいくと、どうもこの短編は、三島本人がモデルにしたというリラダンの『ヴィルジニイとポオル』とは異なり、少年少女の恋愛譚にはなっていない。どこまでも少年の内面の劇の話であって、少女の存在は雨および噴水と同じく彼の体と心をぬらす執拗な《水》のモチーフの変奏としか思えない。より正確には彼女の「涙」が、というべきだろうけど。リアリズムでは考えられないその泣きっぷりからも、彼女を《水の女》として読むのがやはり文学的に正しい読解じゃないか。一篇の主題は、「こんなにたえまのない挫折を支えている力の持続は、すばらしい。」というロマンチックなアイロニーをほんの一瞬成立させる昂揚であり、それが即座にたんなるほんとうの挫折へと堕落してしまう虚しさだ。そして、それは青春期に留まらず、じつはぼくたちが日々の情況のなかで繰り返し経験していることでもある。

 


第4回・三島由紀夫「雨のなかの噴水」その③

2014-12-24 | 戦後短篇小説再発見

 噴水を望むその西洋東屋(アーバー)は、葦簀(よしず)をかけた屋根の下にベンチが置かれているだけで、完全に雨を防ぐわけではない。だから明男は傘をさしつづけたままだ。雅子は彼と並んで腰を下ろすが、彼のほうを見ようとはしないし、噴水にもとくに興味を示さない(それはふつうそうだろうね)。「雅子は泣いたまま斜めに坐って、彼の鼻尖へ白いレインコートの肩と、濡れた髪だけを見せている。」 こちらから声をかけるのを待っているのだと思うと、それが癪にさわって明男も何も言いだせない。相変わらず二人は言葉を交わさない。明男はひとりで噴水を眺める。ついで所在なく噴水の周りの情景を見やっているうちに、彼の心は乱れはじめる。「少年は坐って、じっと黙っていることで、いいしれぬ怒りにかられてきた。」

「自分が何に向って怒っているのかよくわからない。さっきは天馬空を征く思いを味わったのに、今は何とも知れぬ不如意を嘆いている。泣きつづける雅子の始末のつかぬことが、彼の不如意のすべてではない。」

「………彼は自分をとり巻くこの雨、この涙、この壁みたいな雨空に、絶対の不如意を感じた。それは十重二十重に彼を押さえつけ、彼の自由を濡れた雑巾みたいなものに変えてしまっていた。」

 「不如意」とは「意の如くにならぬ」こと、物事が思いどおりに運ばないことだ。孫悟空のあの棒は、持ち主の思うがままに長くなったり短くなったりするから「如意棒」と呼ばれる。いま明男は自分を取り巻く様々なものに強い「不如意」を感じている。これこそが本短編のテーマである。

 前々回ぼくは、「別れよう」という一句を口にするために情熱を傾けるこの少年の心情が理解できないと述べたが、彼のこの「絶対の不如意」のほうはじつによく分かる。おそらくそれは初期の大江健三郎作品において「閉塞感」と名づけられてたやつに近い。十代の少年にとってはもっともありふれた感情であって、たぶん福山雅治を除くすべてのオトコが経験ずみの筈である。なお十代の少女の心情については、ぼくは十代の少女だったことがないのでよくわからない。

 とはいえ、圧倒的多数のティーンエイジャー男子が抱く「絶対の不如意」感はたいてい《孤独》とセットになってるもんだけど、この明男の場合はどうもいまいち同情しづらいのも事実だ。まだこの恋が真剣かつ切実なものなら納得できなくもないのだが……。

 やはりミシマの作品というか、ミシマの《美学(エティック)》あるいは《論理(ロジック)》ってやつは厄介だなあと思わざるをえない。独特の屈曲に満ちて、一筋縄ではいかないのである(必ずしも誉めているわけではない)。『仮面の告白』も『金閣寺』も、そういう意味で難しい小説だった。この短編もやはりぼくには難しいところがある。

 「捨てられた女」としての雅子の涙は、明男にとって思惑どおりの成果なのである。しかし彼女がこうも延々と泣き続けながら付いてくるのは予想外であり計算外だった。今やそんな彼女に明男は腹を立てている。だとすれば彼にとっての理想の展開は、「ひどい。ひどいわっ。なぜなの、私のどこがいけなかったの、ううう」などと号泣しながら雅子が自分の元から走り去っていく感じだったのだろうか。それだったら明男は、「絶対の不如意」に見舞われることもなく、ひとりで悦に入っていられたのか。

 「残酷さと俗悪さと詩がまじった可愛らしいコント」と三島は自分で評している。もし雅子が泣きながら去って行ってお終いだったら、そんなのはいっこうに可愛くはないし、「残酷さ」および「俗悪さ」の意味するところもがらりと変わって、慎太郎の「完全なる遊戯」レベルに堕してしまう(さすがにあれほど酷くはないが)。それでは「コント」にさえもならないだろう。作者の目論見は結末のちょっとした《どんでん返し》にあるのだ。ゆえに雅子はあっさり舞台から退場することはなく、さながら六月の梅雨そのものを具現化したかのごとき鬱陶しさで、果てしなく彼に付きまとうわけである。かくしてふたりは、すっかり行き詰った体(てい)で、西洋東屋に身を置いている。

「怒った少年は、ただむしょうに意地悪になった。どうしても雅子を雨に濡れさせ、雅子の目を噴水の眺めで充たしてしまわぬことには気が済まなかった。」

 「ただむしょうに意地悪になった。」と今さらのようにミシマ先生はおっしゃるが、「別れよう」と宣告をしてショックを与えたい一心で付き合ってきたってぇんだから、そもそもの初めからむちゃくちゃ意地悪じゃねえか、とおれなんか思うけどね。それに、もともと雅子を噴水に対峙させるためにここまで足を運んできたわけだから、西洋東屋なんぞに一旦停止してないで、さっさと噴水の前まで行けばよかったのにとも思う。でもここは、西洋東屋でひとまず停滞することで《溜め》をつくって、「いいしれぬ怒り」から「絶対の不如意」へと繋げていく作者の手際に感心しておくべきなんだろう。

「彼は急に立上がると、あとをも見ずに駆け出して、噴水のまわりの遊歩路よりも数段高い、外周の砂利道をどんどん駆けて行って、三つの噴水が真横から眺められる位置まで来て、立止まった。/少女は雨のなかを駆けてきた。立止まった少年の体にぶつかるようにやっと止って、彼のかかげている傘の柄をしっかりと握った。涙と雨に濡れた顔が、まっ白に見えた。彼女は息をはずませてこう言った。/『どこへ行くの?』」

 ここで初めて少女がことばを発する。それにしても、明男を追いかけてくる彼女の様子は、なにやら戯れに鬼ごっこでもしているようで、とうてい「捨てられた女」のものではない。このことはラストシーンの伏線になってもいる。明男は返事をしないつもりだったのに、まるで彼女からの問いを待ちかねていたように、すらすらと喋ってしまう。こういうところが「可愛い」んだよね。

「『噴水を見てるんだ。見てみろ。いくら泣いたって、こいつには敵わないから』」

 こうして少年と少女とは、ようやく噴水に対峙するのである。

 その④につづく。


第4回・三島由紀夫「雨のなかの噴水」その②

2014-12-20 | 戦後短篇小説再発見

 ウィキペディアによれば、この短編はすべて現実の場所をモデルにしているらしい。明男が雅子に別れ話(?)を持ち出したのは丸ビルの中の喫茶店。念願かなってうっとりしていたのもつかのま、すぐに明男は、周囲の大人たちからの好奇の視線に耐えられなくなって、泣き続ける彼女を連れて外へ飛び出す。しかし「連れて」という言葉が正確かどうか。明男はべつに「行こう」と声をかけたわけでもなく、雅子のほうが勝手に付き従っている格好ではある。されども明男は彼女を振り払うどころか、傘を広げて親切に入れてやっているのである。「相合傘だって、ただの世間体のためだ」などと自分に言い訳しながら……。おいおい兄ちゃん、いま別れようっつったんじゃないのかい? しかし、この優柔不断ぶりこそが、つまりは「戦後」ってものなのかもしれない。という気もする。

 雨のなか、明男は(つまり二人は)「広い歩道を宮城のほうへ向って歩く」。宮城とは皇居のことである。やはり《天皇》にまつわる言葉がミシマ作品に出てくるとドキッとさせられる。そういえばヒロインの名前さえ、完全なる偶然なのだが(なにしろ1963年の作品なのだ)妙に予見的だったりもする。なぜ自分が宮城のほうへ向かっているのか、初め明男は自分でもよくわかってないのだが、公園の噴水が目当てなのだとそのうちに気づく。「雨のなかの噴水。あれと雅子の涙とを対比させてやろう。いくら雅子だって、あれには負けちゃう筈だ。……(中略)……こいつもきっと諦めて泣き止むだろう。このお荷物も何とかなるだろう。……」この皇居前の公園というのが、和田倉噴水公園のことだ。

 べつに小説を読みなれてない人でも、この短編がしつこいくらい「水」のイメージに浸されてることは否応なしに感じるだろう。まったくもってびちゃびちゃである。まず雨が降っている。女の子は、人間とは思えぬ勢い+持続力で泣き続けている。彼女の泣きっぷりってぇものは、ほとんどシュールリアリスティックといっていいほどだ。そのなかを、明男(と雅子)は噴水のほうへと向かっていく。本物の噴水に対峙させることで彼女の目からの「噴水」を止める! 《水を以て水を制す。》とでもいうべき独特な明男の発想であるが、物語論的な見地からいえば、ようするに彼は一篇を律する《水》のイメージに捉えられ、《水》がより大量に、勢いよく湧き出るほうへとひたすら誘引されているわけである。

 いったいに、《水》のみならず《火》や《風》や《土》、さらには《光》など、古代ギリシアの賢人たちが万物の根源とみなした原型的なイメージに留意することは、小説を味読するうえでの要諦のひとつといっていい。原型的なイメージとはそれくらい重要なものなのだ。ミシマ本人は新潮文庫版『真夏の死』巻末の自作解説において、「リラダンの『ヴィルジニイとポオル』のような、残酷さと俗悪さと詩がまじった可愛らしいコントを試みた」という意味のことを述べており、世間の読解もこの解説に従うものが多いが、それはそれとして、どこまでも《水》に翻弄される少年のお話、として「雨のなかの噴水」を読んでみるのも一興であろう。つまり「雅子」という少女は漱石の『草枕』にでてくるあの那美さんと同じ《水の女》の系譜に属する娘、その庶民バージョンってわけだ。

 だから物語論的な見地からは、明男と雅子との勝負の帰趨は最初から決まっているといっていい。《水の女》に勝てる男などこの世にいないのである。雅子は白いレインコートと白いブーツに身を固めている。いっぽうの明男は軽装で、靴下などはもう濡れた若布みたいなありさまである。降りしきる雨と雅子の涙とに全身を絡め取られているのだ。

「オフィスの退けどきにはまだ間があるので、歩道は閑散だった。二人は横断歩道を渡って、和田倉橋のほうへ歩いた。古風な木の欄干と擬宝珠(ぎぼし)を持った橋の袂(たもと)に立つと、左方には雨のお濠(ほり)に浮ぶ白鳥が見え、右方にはお濠を隔てて、Pホテルの食堂の白い卓布や赤い椅子の列が、雨に曇ったガラスごしにおぼろに見えた。橋をわたる。高い石垣の間をとおって左折すると、噴水公園へ出るのである。」

 べつにわざわざ書き写すほどの箇所でもないが、ぼくは志ん生の「黄金餅」が大好きで、延々と情景を綴って主人公が移動していくくだりにシビれる質(たち)なもんで、つい引用しちまった。「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、………………」というやつだ。こうして二人は公園へ向う。雅子はもちろん、そのかんもずっと泣きつづけている。ひとことも言葉を発することなしに。「別れよう」という一句を明男が(はなはだ不明瞭に)口にして以降、ここまで二人はまったく言葉を交わしていない。

 公園を入ったところに大きな西洋東屋(アーバー)があって、二人はいったんそこに落ち着く。雅子は相かわらず目を見開いたまま、人事不省に陥ったかのように涙を噴き出し続けている。彼方では噴水が盛んに水を吹き上げているが、一向にそちらを見ようともしない。だから視点はあくまで明男からのものだ。「ここからは大小三つの噴水が縦に重なってみえ、水音は雨に消されて遠くすがれているが、八方へ別れる水の線は、飛沫のぼかしが遠目に映らぬために、却って硝子の管の曲線のように明瞭に見えている。」

 この短編の陰の主役というべき「噴水」が、かくしていよいよ作品のなかに姿をあらわす。ほかに人影はまったくない。雨のなか、舞台の上には明男と雅子とのふたりきりである。

 その③につづく。


第4回・三島由紀夫「雨のなかの噴水」その①

2014-12-15 | 戦後短篇小説再発見

「少年は重たい砂袋のような、この泣きやまない少女を引きずって、雨のなかを歩くのにくたびれた。」

 出だしがいきなりこれである。これである、と言っても、え、なんも騒ぐことないじゃん、べつにふつうの出だしじゃん、とおっしゃるやもしれぬが、比喩なのである。いきなり「重たい砂袋のような」なのだ。さらにいうと、「引きずって」という動詞も気づかれにくいがやはり「砂袋」と連動した比喩だ。じっさいに女の子をずるずる地面に引きずっているわけではない。彼女は自分の意志で歩いている。紐で繋がれてるわけでもない。ただ、少年の隣をずっと離れず随行している。読み進めるとわかるが、ふたりは相合傘に入っているのだ。差しているのはもちろん少年のほう。なぜか少女は、ずっと泣き続けているらしい。まあ、ちょっとめんどくさそうなシチュエーションではある。

 絢爛たる美文と称されるミシマの文体は、ことばそのものが音楽のように流れて読むものを陶然とさせるのだが(それは危険と裏腹でもある)、またその比喩の鮮やかさによっても知られる。冒頭からの見開き2ページの中で、この「砂袋」に始まって、「王様のお布令(ふれ)のように」「金の卵を生もうと思いつめた鵞鳥(がちょう)」といった譬えが立て続けに出てくる。どちらも大げさで、どこか童話的な響きをもった文句だ。二十歳を過ぎたカップルではなくて、もう少し幼い、まさに「少年」と「少女」との恋愛譚にふさわしい(とはいえ二人はいちおう一度は「一緒に寝て」はいるのだが)。それだけではない。そんな片々たるものに留まらず、ほとんどギャグと見まがうくらいの、荘重にして空疎な長々しい比喩が、2ページ目の初めにあらわれる。

「その一言を言っただけで、自分の力で、青空も罅割れてしまうだろう言葉。とてもそんなことは現実に起こりえないと半ば諦めながら、それでも「いつかは」という夢を熱烈に繋いで来た言葉。弓から放たれた矢のように一直線に的をめがけて天翔ける、世界中でもっとも英雄的な、もっとも光り輝く言葉。人間のなかの人間、男のなかの男にだけ、口にすることをゆるされている秘符のような言葉。」

 何のことだと思われるのではないか。ぼくも最初読んだとき思った。ここまででいったん切って、「さて、その言葉とはいったい何でしょう?」という設問形式にしてみたら、回答者のセンスが問われると思う。この小説の中でミシマの用意した答は、「別れよう!」である。少年はこの言葉ひとつを言いたいがために、「少女を愛し、あるいは愛したふりをし、そのためにだけ懸命に口説き、そのためにだけしゃにむに一緒に寝る機会をつかまえ、そのためにだけ一緒に寝て、」ついに本日、満を持して喫茶店に呼び出し、「別れよう!」と宣言したのだった。

 とくに男性諸君におききしたいが、こういう心情ってわかります? 十代の時分にそんなこと考えたことありました? わしにはさっぱり分かりませんな。そもそも、「おれと付き合ってくれ」というセリフがどうしても言えずに往生していたものである。まあ、自分はむしろ晩生(おくて)すぎるほうだったから、これはこれであまり参考にならぬが……。ともあれ、「別れよう!」という一句を口にするために、かくも情熱を傾ける少年ってものが、ぼくには納得できなくて、この短編になかなか感情移入できなかった。

 しかしこのたび『春の雪』(豊饒の海・第一部)を卒読して、まだ物語が序盤のころ、松枝清顕が聡子にとっていた屈折した態度にぼくはこの「少年」に通じるものを見た。ようするに、相手より常に上位に立っていなければ我慢できない、相手に主導権を委ねてしまうのが許されない、ということらしい。その頑なさは最後に清顕自身に死をもたらす。そう絵解きをすれば分からないでもないけれど、しかしやっぱり、そこまでムキにならなきゃいけないことかなあとは思う。ましてや命まで懸けるとなると……。こういうキャラをつくるのは、やはり作者本人に通低するところがあるからだろうが、その心情にはどこまでの普遍性があるのか……。戦前生まれ、ということはそんなに関係ないだろう。たとえば三島より5歳年長の安岡章太郎(の小説にでてくるオトコたち)には、異性への態度にここまでの硬直性は見られない。

 とはいえミシマは聡明なので(つまりシンタローの「完全な遊戯」みたいなベタな真似はしないので)、この少年をアイロニーに包んで描いている。戯画として描いているのである。そもそもさっき引用したくだりもすでに半分ギャグであったが、それほど大がかりな下準備をして、ただならぬ情熱をもって用意した「別れよう!」という宣告を、こともあろうに彼は、はなはだ無様なやりかたで口にしてしまったのだった。

「それでも明男は、それを何だか咽喉(のど)に痰のからまった喘息患者みたいな、ぐるぐるいう咽喉の音と一緒に、(ソオダ水をその前にストロオから一呑みして咽喉を湿した甲斐もなく)、ひどく不明瞭に言ってしまったことが、いつまでも心残りだった。」

 いまどきの用語でいえば、つまり《噛んじゃった》わけだね。「ああれおう」みたいな感じだったんだろうか。一青窈の「ええいああ」みたいだが。ここではじめて、少年の名が「明男」であることが読者に明かされる。冒頭からとつぜん、「明男は重たい砂袋のような、この泣きやまない少女を……」とやるよりも、このほうがはるかに効果的なのだ。しかし三島の巧さってものをこんなふうにいちいち指摘してたらキリがない……というか、かえって失礼に当たるだろう。で、ぶざまに噛みはしたものの、幸いにも、その必殺のセリフは雅子(という名前がここで読者に明かされる)の耳に届いたようなのである。

「それがきこえたという確証は、つかのまに与えられた。自動販売機からチューインガムが飛び出すように。」

 ほらまた比喩だぜ。しかも王様やら金の鵞鳥から一転して、自動販売機とチューインガムときた。メルヘンチックから、キッチュで俗悪なイメージへのすばやい移行。それにしてもこの短編が発表された当時、チューインガムが自動販売機で売られてたんですね。というか、自販機がもう出回ってたんだね。1963(昭和38)年のことですが。ま、自販機くらいはそりゃあるか。

「彼女はそのやせた引立たない顔立ちから、まるで周囲を押しのけて、押しやぶったようにみひらかれた、大きすぎる目を一そう大きくした。それは目というよりは、一つの破綻、収拾のつかない破綻だった。そこから一せいに涙が噴出したのである。」

 これもまた劇画的、否、マンガ的な描き方といえる。すすり泣きの兆しすら見せず、泣き声も立てず、「別れよう」宣言の直後に雅子はどっと泣き出した。しかしこれ、「泣く」という表現でいいのだろうか。「すばらしい水圧で、無表情に涙が噴き出した。」というのだから、それこそまさしく噴水である。しかも彼女は、明男とともに外に出てからもなお、延々とそのままの調子で目から涙を噴出し続けているのだ。人間業とは思えない。体内にタンクを仕込んだアンドロイドじゃなかろうか。ともあれ、冒頭の一行のまえには、これだけのいきさつがあったわけである。

 その②につづく。

 追記) 2019.01 このあいだ気づいたのだが、googleで「雨のなかの噴水」(この表記が正しい)もしくは「雨の中の噴水」と検索するとこの記事がけっこうな上位にくる。びっくりしたよ。それで、若い人のために書き添えておくのだけれど、新潮文庫『真夏の死』のあとがきでミシマが言及しているリラダンの「ヴィルジニーとポウル」は、いま光文社古典新訳文庫で出ているサン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』とは別物ですからね。というか、リラダンは、これのパロディーとして「ヴィルジニーとポウル」を書いたわけ。リラダンの「ヴィルジニーとポウル」が読みたいならば、澁澤龍彦が編集した『世界幻想名作集』(河出文庫)に入ってます。新刊としてはもう売ってないようだけど。