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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

25.03.28 グレイテスト・ショーマン

2025-03-29 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 ひさびさの更新ながら、体調不良につき、ごく手短に。
 金曜ロードショー。ヒュー・ジャックマン主演『グレイテスト・ショーマン』。
 魔術的なまでに濃縮された小気味よい編集。それを支える堅牢な脚本と俳優の演技。主人公が大人になるまでを華麗なテンポで見せられて、「すごいな。これで始まってから1時間くらいか。」と思って時計を見たら、まだ30分も経ってなかった……。
 とにもかくにも「映像で見せる(=魅せる)」。それに徹する。そのためには綺麗事もウソも荒唐無稽もお構いなし(それなりの歳月が経過しているはずなのに、あの2人の娘さんたちがいっこうに成長しないとか、南北戦争が一切閑却されているとか)。
 これぞ映画、これぞエンタメ、という感じ。
 「絵に画いたような」ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)映画なのだけれど、しかし「差別」というのは社会における最大のテーマの一つであり、ゆえにフィクションにとっても最大のテーマのひとつなのだから、「人種のサラダボウル」たるアメリカ産のハリウッド映画がくりかえしこれを主題にするのは当然だ。
(念のためにいうと、作中において差別されているのは「フリークス」の人たちや「有色人種」の人たちだけではない。まずバーナム自身がそうなのだ。)
 Wikiをみると、アカデミー賞ではなにひとつ賞を取れなかったばかりか、多くの批評家から酷評されたとか。その理由について調べる余裕はないのだが、察するに、やはり主題の重さのわりには結末がファンタジー並みに甘すぎる……ということか。そうなると、ぼくなどはまた、『すずめの戸締まり』のことを思い浮かべたりしてしまうのだが……。
 重い主題をフィクション(とりわけエンタメ)として料理するのは、難しい。遺漏なく扱いたければ、ドキュメンタリーを撮るしかないだろう。しかしそれではお客は入らない。結局は、だれの目にもふれない。ここに大きなジレンマがある。
 ともあれ、このところすっかりハリウッド映画に疎くなっていた(ハリウッド映画のみならず、映画全般に疎くなっているのだが)ぼくにとっては、ひさしぶりにアメリカ映画の底力を思い知らされる作品だった。父親の隣で夢中になって「日曜洋画劇場」や「ゴールデン洋画劇場」を見ていた子どもの頃を思い出した。

 

 


25.02.24 大河ドラマ『べらぼう』についてひとこと。

2025-02-24 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 本年度のNHK大河ドラマ『べらぼう』については、なにぶん遊郭が舞台ということで、「子どもと一緒に観られない。」とか、「性搾取の肯定につながりかねない。」とか、内容以前に、題材そのものについての批判の声もあるようだけど(それでもぼくの体感としては、放映当初よりはその手の声は減ってきている気がするが)、今回はその点につき、手短に私見を述べます。
 上記の批判とはまた別に、「大河ドラマは戦国と幕末だけをやっておればよい。」というおかしな意見もネットで見たが、しかし江戸270年の社会と文化の厚みを知らずして、日本のことはわからない。「日本文化がわからない。」「日本の歴史がわからない。」というばかりでなく、現在の日本のこともわからない。そして遊郭、わけても吉原のことを知らずして、江戸のことはわからない。畢竟、「吉原のことを知らずして、日本のことはわからない。」という理屈になる。悲しいことだとは思うけれども、これは事実だ。
 昨年の『光る君へ』の恰好の手引きが倉本一宏さんの『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)だったように、今年の大河の手引きとなるのは田中優子さんの『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)と『遊廓と日本人』(講談社現代新書)だ。そしてこの二冊を傍らに置いてドラマを観れば、脚本の森下佳子さんが、記録に残る史実の隙間をいかに巧みに繕って、面白くてコクのあるストーリーを織りあげているかがうかがえる。
 紫式部にせよ蔦屋重三郎にせよ、これまでの大河では閑却されていた文化人が取り上げられるのはいいことだ。『光る君へ』の脚本は拙かったけど、それでもぼくは、平安の王朝文化と、それを支えた女性たちを描いてくれたというだけで、ありがたいと思って全話みた。源氏物語はともかく、紫式部その人をヒロインに据えたドラマはこれまでほとんどなかったから、ああいうものが作られただけでも良しとしなくちゃいけない。
 あれを見た高校生か中学生、あるいは小学生が「いくらなんでもこれはない。私ならもっと違うものが書ける。」といって何十年後かにまた、その時代に見合った紫式部のドラマを書くかもしれない。高校時代に『草燃える』をみて『鎌倉殿の13人』を書いた三谷幸喜さんみたいに(『草燃える』は『光る君へ』ほどひどくはなかったけれども)。文化とはそうやって継承されていくものだ。
 日本のドラマ界がもっと豊穣で、たとえば夜の10時台に定番の時代劇枠でもあるのなら、「遊郭もの」はそちらでやれという議論も成り立つだろう。だが相応の予算や人材が確保できる企画が大河ドラマしかない現状、少なくとも題材のことで『べらぼう』を詰るわけにはいかない。吉原のことはどうしたって一度はきちんと描いておかねばならないのだ。
 なお、第5話で姿をくらませた唐丸少年については、のちの歌麿説と写楽説とがあるようだけれど、ぼくは歌麿だと思う。「おめえをいずれ謎の絵師として売り出すンだよ。」という蔦重のせりふもあったけど、あれはいわゆるマクガフィンというやつで、歌麿は売れっ子になってから蔦重を裏切るようなかたちになるから、それで改めてべつに写楽を発掘してプロデュースする……ということではないのかな。

 


25.01.06 大河ドラマ『べらぼう』の初回を見て、ごく手短に。

2025-01-06 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 ぼくはテレビを見ないのだけれど、大河ドラマだけは、「今年は面白そうだな……」と当たりが付けばとりあえず初回をおさえる。そして、期待どおりであれば見続けるし、フェイドアウトしてしまうことも当然ある。『光る君へ』は、今だからいうが、ドラマとしては大味すぎてつまらなかった。されど題材が題材だけに、やはり文学好きとしては見ておかぬわけにはいかんよあ……という気分で全話みた。
 紫式部が年長の清少納言とマブダチ……ってのはまだ良いとして、道長とは幼馴染で生涯のソウルメイトだった……しかも娘の賢子(のちの越後の弁~大弐三位)は藤原宣孝ではなく道長との一夜の契りで生まれた子……といわれたら、これはまじめな国文学者ならずとも「おいおいおいおい」と突っ込みたくなるが、つまりはそれがテレビドラマというものか。ある意味ではマンガ以上にマンガだなぁ……とも思うし、考えてみれば江戸の歌舞伎だってそういうノリで創られてたから、ニッポンの大衆文化の伝統といえばいえるのかもしれない。
 今年の大河はまさしくその江戸のお話で、蔦重こと蔦屋重三郎については、いわゆる便乗本だけでなく、学者や著述家による研究書・入門書・紹介本が犇めいている。なにしろ一大プロデューサーとしてネットワークの中枢にいた人だから、この人を描けば周りに居並ぶ浮世絵師や戯作者たちを生き生きと描き、当時の文化や世相を彩り豊かに浮かび上がらせることができるのだ。
 むろんフィクション(小説)のほうも盛況だ。そしてその先鞭をつけたのは皆川博子の『写楽』(角川文庫)のはずだ。単行本は1994(平成6)年に角川書店から書下しで刊行され、篠田正浩がメガホンをとって、フランキー堺(蔦重)と真田広之(写楽)の主演で翌95年に松竹系で映画化された(正確にいえば、もともと映画の脚本として依頼を受けて執筆したものを皆川さん自ら小説に仕立て直したのだが)。ちょうど30年前だ。
 さて。2025(令和7)年の大河ドラマ『べらぼう』第1回は、ドラマとしては面白かったし、「できれば1年間お付き合いさせていただきたい」と感じたが、引っ掛かるところもあった。
 渡辺謙演じる田沼意次は、たいへん頭が切れ、下情(かじょう)にもよく通じているが、収賄を是認し(おそらくたんに私腹を肥やすのではなく、そのカネを有意義に使うのだろうとは思うけれども)、ものごとの道理(正論)を貫くよりも「カネと人とをどんどん回すことこそ国益」と心得ている政治家だ。そのためには、底辺の弱者に皺寄せがいくのもやむなし……と見切ってもいる。だから、若き日の蔦重の切実な訴えに対しても、「困ったからといってすぐにお上に泣きつくな。まずは自分でできるかぎりの工夫をせい(意訳)」という答えで応じる。
 すなわち、じつに明快な新自由主義者なのだ。そして今後のストーリーは、その田沼様の一喝に感じ入った蔦重が自らの才覚をふるって奮闘していくプロセスを描くわけだから、つまりこのドラマは新自由主義のイデオロギーを肯定している……といっていいだろう。
 そのイデオロギーがまるっきり間違っているとはいわないが、いざ現実に立ち返ってみると、それはこの国の今の為政者たちにとってたいそう都合がいい考え方だなあ……と思ってしまうのもまた事実だ。それをNHKがドラマのかたちで喧伝するのはどんなもんだろうか。
 だがしかし、いっぽうで蔦屋重三郎は、その信念に基づく活動によって時の幕府から処罰されるような反骨精神の持ち主でもあった。そういった側面が巧みに描かれていけばいいな……と思っております。

 


西田敏行を悼む。

2024-11-01 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽






 4年まえ(2020/令和2)に志村けんさんの訃報を聞いたとき、「志村けんを悼む。」という記事を書いた。


https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/495dfde6ec1d8f8a140fbb73dad8dcf8



 このなかでぼくは、志村さんはコメディアンとしてはもちろん、役者としても凄い人だった、と書いた。じっさいに映画やドラマで主演を務めたことはなく、出演作そのものも極めて少なかったから、
「役者としても凄い人だったはずだ。」、あるいは「役者としても凄い人だったろう。」
 と書くべきだったのかもしれないが、いずれにせよ、言いたかったのは、志村けんは一見たわいないコントを演じていても、役者としての大きなポテンシャル(潜在能力)を感じさせるひとだった、ということだ。
 その記事を書いたとき、ぼくは、現代の日本には、なぜ上質の喜劇映画が少ないのか……ということを思ってもいた。「喜劇映画」と聞いて、すぐ思い浮かぶのは三谷幸喜作品くらいだ。ところがぼくは、残念なことに、テレビドラマ『鎌倉殿の13人』を除いて、三谷作品とあまり相性が良くない。
 「寅さん」亡きあと、日本には、なぜか、これといった喜劇映画が見当たらない。あるいはそれは、いい喜劇役者がいないからではないか……。ビートたけしは、コメディアンではなく、北野武として、荒事ばかりを描く。タモリだって、あれだけ器用で、なんでもこなす方なのに、役者としては、これといって印象に残る仕事はない。
 大泉洋さんが、どなたか志ある監督と組んで、令和版「寅さん」というべき現代テイストの人情喜劇シリーズを撮ってくれないものか……と夢想したりもするけれど、どうやらこれは、たんなる夢想で終わりそうだ。
 そんな状況だから、ぼくとしては、志村さんが亡くなったとき、「本当に惜しい人を亡くした。」と切に思った。あのひとが本気で俳優業に取り組んだら、間違いなく、当代随一の喜劇俳優/性格俳優が誕生していたはずだから。
 一流の役者は、必ず、存在の根っこに飄逸なユーモアをもっている。それは、ただの悪ふざけとか、軽薄な道化ぶりとは違う。思わず笑ってしまうけど、どこか物悲しい。世間ではそれを、「ペーソス」と呼んでみたりもするけれど、そのひとことだけで表しきれるものでもない。
 志村けんならば、そんな役者/俳優になれたはずなのに、この人を失ったら、日本にはもう、あれだけ味のあるキャラクターはいないよなあ……と、あの記事を書いた時には、ぼくは思っていた。
 4年まえのそのとき、ぼくは、西田敏行さんのことをまったく念頭に置いていなかったし、そのあとも、まるで思い出すことはなかった。それでこのたび訃報に接して、おおげさにいえば、愕然とした。
「いや……。いたじゃないか。こっちが子どもの頃からずっと。すぐ傍に。そこに」
 と思った。
 ぼくが小学生の頃から、テレビの中に、西田敏行さんはいた。『西遊記』の猪八戒より前に、『新・坊っちゃん』の山嵐役で、その風貌と名前をおぼえた。中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、成人になっても、中年になっても、テレビをつければ、いつでもそこに、西田さんはいた。存在の根っこに飄逸なユーモアをもった、一流の喜劇俳優/性格俳優が、数えきれないほどのドラマと映画のなかに、当たり前のように、いた。あんまり身近だったから、かえって意識することすらなくて、それがどれほど幸福なことなのか、あらためて省みることもなかった。





映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』良かったです。

2023-12-08 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

「いやもうオレは飽きちゃったんだよアニメには。勘弁してよ。だって『君たちはどう生きるか』も観てないんだぜー」などとぶつぶつ言いながら、知り合いに無理やり引っ張っていかれた劇場映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』がたいへん良くて、ぼろぼろ泣いてしまいました。ちょうど昨年の今ごろ夢中になっていた『すずめの戸締まり』とは「鎮魂」という主題において通底するところはありつつも、鑑賞後の爽快さに関しては真逆というべく……。「すずめ」が文字どおりの「カタルシス(浄化)」を齎してくれたのに対し、こちらは澱(おり)のようにドロリと胸の底に残る感じで……。しかし裏返していえば、こちらのほうがより深い所まで「日本」という国の本質に錘をおろしているということなのでしょう。
 感想を言語化すべく、例によってネットであれこれ探していたら、映画批評で一家をなしているラッパー宇多丸さんの口演およびその文字起こしを発見。言いたいことはほとんどここに尽くされていて、ぼくとして書くべきことはなくなりました。ひとことだけ言い添えておくと、みなが口をそろえて言う横溝正史はもちろんですが、ぼく個人は手塚治虫御大の名作『奇子(あやこ)』を思い浮かべましたね。
(本作はPG-12指定………小学生以下のお子様が視聴する際、保護者の助言・指導が必要…………です。)










口演(ラジオ放送をyoutube用に録画したもの)
宇多丸『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を評論:週刊映画時評ムービーウォッチメン【公式】2023年11月30日
https://www.youtube.com/watch?v=K8n8utzlThU









一部を抜き書き。




「………………そこで明らかになるおぞましさっていうのは、結局……権力に執着する家父長制というのが行き着いた果ての、暴力的、一方的搾取構造。結局ここに行っちゃう、っていうことなんですね。それは戦前日本の軍国主義、そして戦後日本の経済大国化とも、本質的に繋がるものでもあるよ、という話になっていく。………………」






「………………で、そこから生じた富を脈々と貪り続けているあのラスボスも、やはり極度に寓話化されてはいますけども、現実のこの国の権力のあり方というのを、象徴しているわけですよね。そしてそれは、水木漫画の根幹……特に今回、本作でも直接的に引用される、さっきも言いました『総員玉砕せよ!』で描かれた戦争観、日本観、もっと言えば「日本社会の権力」観ですね。これは正直、現実にもこういう構図はあるわけですよ。ということです。で、そのメッセージを改めて作品に落とし込んだ、という表現なわけです。なので私は、メールでリスナーの方もおっしゃっている通り、そのメッセージを今、このメジャーなコンテンツに改めて昇華してみせたその作り手の志、というところにも大変感動いたしました。………………」






「………………つまりそれはどういうことかっていうと、戦後日本が忘れてしまったもの、あるいは蓋をして見ないようにしてきたものたちを、鬼太郎というヒーローは、見つめ、鎮魂する。そういう存在だったよ、っていうことを再定義してみせる。鬼太郎を。だから鬼太郎はかっこいいし、尊く見えるし……その、なんていうのかな、単にヒーローが悪者をやっつけるんじゃない感動っていうんですかね。ヒーロー物として、すごくここでカタルシスが、この構成によって生まれるようになっていて。………………」






「………………物語内での鬼太郎の誕生、これを描く。でも、これのみならず、さっきから言っているように、水木しげるさんが戦争をはじめ様々な経験を経て産み落とした漫画作品、そしてキャラクターとしての鬼太郎の誕生、というメタ的な意味。しかもそこには、本作がずっと描いて訴えてきた、その戦前から戦後に至る日本社会の負のなにか、みたいなものに至るまでが、重ね合わさっている。物語的な意味と、水木しげる作品であることの意味と、社会的な意味と……っていうのが何重にも重なったところで、ラスト、満を持して、『鬼太郎誕生』ってドーン!と来ると、これはだから単に「上手い」を超えた、ズシーンとくる感動が残るようになっていて。………………」



『竜とそばかすの姫』を考える。03 なぜ、すずは竜を?

2022-10-16 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 『竜とそばかすの姫』の話が宙ぶらりんになっている。当ブログでは「手を付けたものの中断してそのまま」の案件がまことに多い。「あらためて文学と向き合う」のカテゴリなんて、本来なら今年度のメインとなる筈だったのに完全に忘れ去られている。『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『自負と偏見』『ミドルマーチ』『赤と黒』『レ・ミゼラブル』ときて、あとの4作は何やねんという話である。もちろん自分の中では決まっていて、ドイツ、アメリカ、そして本邦から1作ずつ選び、ラストに近代以前の古典のなかから凄いのを1本、という心づもりでいるのだが、こんな調子ではおそらく生きてるうちに終わるまい……というよりそもそも始まるかどうかもわからない。まあ、じっくりと腰を据えた評論はあきらめて、ダイジェストふうに凝縮した批評だったらできるかもしれないが……。でも簡にして要を得た批評ってものは往々にして長文よりも難しいのだ。
 とにかく、安倍元首相が暗殺された7月8日いこう、落ち着いて「文学」やら「物語」に耽っていられないのは確かなのだった。
 それでも直近の「竜そば」の話くらいは片づけたい(それにしても「竜そば」という語感はなかなかのものだ。豪華な具材がたっぷり入った中華麺を連想してしまう)のだが、テレビでの初放送から3週間が過ぎても、ビデオを見返す気分になれない。『君の名は。』の初放送を録画した際は、劇場で観ていたにも関わらず、立て続けに2度も見返したもんだけど……。
 だから本格的な考察はできないので、これも覚え書きていどのものである。
 なんにせよ、『君の名は。』にはぐいぐいと引き込まれたが、『竜とそばかすの姫』にはまるで感情移入できないのだ。
 『君の名は。』の中盤、瀧が三葉を探し求める心情は痛いくらいにわかる。「オレだってこの状況なら必死になって捜すよ」と思う。いっぽう、すずが自分の大事なライブを妨害した竜の正体を追究する心情はわかりにくい。
 むろん、「すずが竜の中に自分とそっくりの哀しみと孤独を見出したから」だと細田監督は言いたいんだろう。しかし、それがこちらに伝わってこないのが駄目なのである。理屈じゃなく、有無をいわさず響いてこなきゃ嘘なのだ。
 舞台となる仮想空間の名称は「U」である。竜のシルエットを特徴づける2本の角はUの形をしている。そして、ベルの容貌を特徴づけるそばかす(というよりほとんど隈取に見えるが)も、左右でそれぞれUの字を描いている。たぶん、細田監督はそういった趣向で(図像学的に? 記号論的に?)2人が「似た者同士」ってことを示唆してるつもりなんだろうけど、そんなマニアックでマニエリスティックなやり方ではなく、話の流れでしぜんに観客を納得させなきゃしょうがない。
 だからやっぱり脚本が下手なので、なんで今作に限ってこう下手なのかといえば、これまで何度もいってきたとおり、「地味な女の子が隠れた才能を開花させる話(≒シンデレラ)」と、「ちょっと風変わりな女の子が、恐るべき怪物……とみえて実は純真な王子様と心を通わせる話(≒美女と野獣)」とを無理やり一緒くたにしてしまったせいだ。
 とにかく、序盤早々、「なぜ、すずが竜の正体をけんめいに探し求めるのか?」が腑に落ちぬままにストーリーだけがどしどし進んでいくので、面白くなるわけがないのである。
 「SEEK & FIND」というエンタメの王道技を繰り出していながら、それが空を切ってるんだから勿体ない。
 すず=ベルの歌があれほどのパワーを持っていたのは(中の人がmillennium parade ×中村佳穂だということを度外視して、作品のロジックだけに即していえば)、彼女の悲しみと孤独がそれだけ深かったせいだろう。そして、恵くん=竜があそこまで強かった理由もまた、彼の抱えた悲しみと孤独がそれだけ深かったせいだ。つまり、ベルの力は「他者との共鳴を促す」ほうに特化しており、竜の力は「他者を攻撃する」ほうに特化していた。両者はいわば表裏一体なのであり、だからこそベルは竜に惹かれた。
 こういうのは物語の定跡なので、細田監督がそれを目論んでいるのは理屈としてはわかるんだけど、あくまでも理屈としてはわかるってだけで、話の流れの中でしぜんに響いてはこない。
 2つの物語要素を強引に結合させたのが失敗とはいえ、それでも、脚本と演出を練りさえすればもう少し良いものになったはずなので、今回、細田監督は何かほかのこと(たとえばディズニーから招聘したアニメーターとの擦り合わせとか)に気を取られていたとしか思えない。
 他にもまだ言いたいことはあるのだが、この作品を語ることにこれ以上の熱意を保てないので、わが『竜とそばかすの姫』評はいちおうここまでと致します。たとえば『鎌倉殿の13人』に絡めての実朝の話とか、いろいろとブログでやりたいことはあるのだが、政府が底知れぬほど無能(なのかあるいは本気で壊日を画策している)せいで生活が苦しく、やらねばならぬことが山ほどあってままならない。困ったもんだ。



『竜とそばかすの姫』を考える。02 父の役目

2022-09-28 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
時をかける少女        (2006年)  脚本-奥寺佐渡子
サマーウォーズ        (2009年)  脚本-奥寺佐渡子
おおかみこどもの雨と雪    (2012年)  脚本-奥寺佐渡子・細田守
バケモノの子         (2015年)  脚本-細田守
未来のミライ         (2018年)  脚本-細田守
竜とそばかすの姫       (2021年)  脚本-細田守












 前回の記事では、
「そもそも『シンデレラ』と『美女と野獣』を両方やろうとしたのがおかしい。“地味な女子高生が、周りの友達や大人たちの助力を得て、仮想空間で歌姫として成功する(そして実生活でも自信を得て生まれ変わる)青春感動もの” に徹すべきだった。」
 と述べた。「幼い頃に母を亡くしたトラウマ」さえも、本当は要らないと思う。ワンクール13話のテレビアニメならばともかく、2時間足らずのエンタメとしては明らかに詰め込みすぎなのだ。
 もちろんそれだとまったく別の作品になってしまうわけだが、これがぼくとしての偽らざる感想である。しかしこれでは事実上の全否定であり、あまりに身も蓋もない。もうすこし本作に即して考えてみよう。
 よく耳にするのは、「細田監督は作画は凄いが脚本がまずい。奥寺佐渡子さんを呼び戻してほしい」という声だ。しかし、前回の記事にも書いたとおり、ぼくは細田氏の単独脚本のものもこれまでは十分楽しめたのである。けれども、今回の『竜とそばかすの姫』を観たら「ブレーンというか、助言者のような立場の人を置いたほうがいい」と切に思った。
 「細田氏が作家としてやりたいこと」と、「観客が求めていること」とを、双方ともに弁えて、両者のあいだに折り合いをつける立場の人が必要だろうと思ったわけである。「観客が求めていること」とは、下世話な意味だけではなく、社会通念であるとか、一般常識であるとか、そういったものも含めてのことだ。
 大詰めのシーン、すずが単身で虐待家庭に駆けつけるのは、「物語」の文法としては正しい。あれは彼女にとって母の死を乗り越えるための「喪の仕事」でもあるわけで、「喪の仕事」はあくまでも本人がひとりで為すべき儀礼であり、他の人は手助けはできても、その本質に関わることはできない。
(そのあたりの機微を全13話かけて懇切丁寧に描いた秀作が、マッドハウス制作のテレビアニメ『宇宙(そら)よりも遠い場所』である。)
 だから物語としては正しいというか、ああ描かざるを得ないのだが、いっぽう、公開直後からさんざネットで叩かれているとおり、ひとたびリアリズムの見地に立ってみると、あれくらい危険で、かつ不自然なシーンもない。
 すずの真情あふれる行動によって、恵くんは「苦難に立ち向かう勇気」を得たのかもしれないが、具体的にどう状況が好転したのかは描かれない。そのことも併せて、DVの当事者や関係者のなかには、「誤ったメッセージを発信している。」と腹を立てる人もいるだろう。
 一般の観客の多くも、腹は立てぬまでも、どうにも釈然としない気分が残る。ぼくだってそうだ。
 つまり「物語」と「リアリズム」とが齟齬をきたしているわけだ。そこで、ぼく自身すこし頭をひねってみたのだが、すずが単身、虐待おやじに立ち向かう件(くだり)は他に描きようがないとしても、そのあとの展開については、もうちょっと観客をすっきりさせる手立てがあったのではないか。
 つまり、こここそが、“熊徹”こと名優・役所広司演じる父親の出番ではないかと思った次第である。
 恵くんの父親はもちろん加害者ではあるが、彼をただ「悪」として排除したり、切り捨てるだけでは、真の解決にはならない。あの男にはあの男なりの苦悩があるはずで、そこにまで思いを致さなければ、「ベルの歌が全人類の胸に火を灯した」かに見える、あのクライマックスシーンの甲斐がない。
 恵くんだけでなく、あの加害父までもが変わらねば、真の解決は訪れないのだ。しかし、それはさすがに現実世界の17歳の女子高生の手に余る。ならば、それは彼女の父親の役回りだと思うわけである。
 すずが恵くんの閉ざされた心を開いて希望を芽生えさせたのならば、そのあとで、恵くんの父親の歪んだ心に寄り添ってやれる存在は、すずの父親しかいないではないか。
 むろん、これは容易いことではない。いかなる事情があれ、よその家庭にコミットするというのは大変なことである。ものすごく労力を奪われるだろうし、自らの生活が壊れるかもしれない。しかし、すずはそれだけの覚悟をもってあの場所へ駆けつけたわけであり、それを認めた父親もまた、できる限りは責任を負わねばならないだろう。「父娘の和解」なるものは、そこまでやって初めて成立するものではないか。
 もともと、すずの家庭と恵くんの家庭はけっこう境遇が似てもいるのである。だから、尺をもう少しこちらに回して、後日談のかたちでもいいから、「父親があの家族のために一肌脱いだ」旨のエピソードを添えておけば、物語としてもリアリズムとしても、ずっと収まりが良くなったんじゃないか。
 いきなりエンディングの話になったが、この『竜とそばかすの姫』、まさにアタマから尻尾まで、「なんでそう書くかなあ」「なんでこう書かんのかなあ」の連続で、ぼくなどは首を傾げっぱなしであった。
 繰り返しいうが、これまで細田守作品でそんな思いを抱いたことは殆どなく(『おおかみこどもの雨と雪』のラストであの長男が野生化して山に入った後、母親は周囲やら行政にどう説明したのだろう……と心配にはなったが、それで作品への好意が帳消しになることはなかった)、むしろ演出の巧さに唸らされてきたので、今作がどうしてこんなことになっちまったのか、ほんとうに戸惑っているのである。
 前回も書いたが、ぼくは「金曜ロードショー」の本放送のさいツイッターで「♯竜とそばかすの姫」のTLを横目で見ながら観た。それだけだとさすがに失礼なので、日曜日、録画したものをじっくり通して鑑賞した。こうやってブログで論評するときは、きちんとメモを取りながら、最低でもあと1~2回くらいは見るのが常なのだけども、どうしてもそんな気分になれない。
 だからここでは記憶を頼りに思いつくまま書き出していくが、まず、
① すずが歌えなくなった理由は、大好きな母親の記憶が「音楽≒歌」と結び付いているから。
② すずの母はかつてコーラス隊に所属しており、そのコーラス隊の面々は、すずが幼い頃から彼女をよく知っていた。
 この極めて重要な2点が、なぜか、えらく分かりづらいように描かれているのだ。
 いや、まだ①のほうは、母親との回想シーンで一緒に楽しくキーボードを弾いたりしているショットが挿入されるから推察できるけれども、②のほうは、全員で撮った写真がちらりと映されるくらいで、うっかりしていると見逃しかねない。
 すずはとうぜん、子供のころ母に連れられて合唱の練習などに立ち会ったこともあるはずだから、回想シーンの中に、そのときの情景を挿入すればいいだけのことなのである。なんなら、母の傍らで満面の笑みを湛えて歌う幼いすずのアップを添えてもいい。そうすれば現在の彼女と過去の彼女との対比が際立ち、印象がずっと鮮明になった。前作までの細田氏であれば、普通にそうしたはずだと思うのだが、ワタクシはなにか勘違いをしているのだろうか。
 もともと細田監督は、有名な本棚の描写などにも見られるように、ワンシーン、ワンショットによく膨大な情報を託すのだけれど、本作においては、情報の出し方がバランスを欠いているようだ。そのことがストーリーへの没入を阻む一因となっている。少なくともぼくにとってはそうだった。




 まだまだ書きたいことはあるけれど、今日はもう時間がない。続きは次回。



つづき

『竜とそばかすの姫』を考える。03 なぜ、すずは竜を?
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/ad365fc67c704b637492170213221712






参考サイト
細田守『バケモノの子』に登場する本を解析してみた








 



ネットの意見を参照しつつ、『竜とそばかすの姫』を考える。

2022-09-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




TLで見かけたツイートより
◎「竜とそばかすの姫」の評価は100点!その内訳は中村佳穂さんの歌が200点、映像表現が30点、カミシン10点、ストーリーがマイナス140点です!


☆☆☆☆☆☆☆


 2022(令和4)年9月23日、金曜ロードショーにて『竜とそばかすの姫』を観た。地上波初放送、本編ノーカット版。millennium parade×中村佳穂による「U」は、ぼくにとっても「ここ10年のJポップの中で五指に入るくらい好き」な楽曲なので、このツイート主さんの気持はわかる。冒頭、ベルがいきなり歌い始めるシーンで胸が高鳴り、「これからどんな作品を見せてもらえるのか」という期待がいやがうえにも膨らむ。しかし本編が進むにつれて気分はしだいに下降線をたどり、ヒロインのすずをはじめ、登場人物たちに感情移入できぬままストーリーだけが転がっていき、次々と違和感が湧いてきて、とうとう作品の中に没入できないうちに、強引なエンディングを押し付けられた……というのが正直な感想だ。
 はっきりいって、「冒頭シーンがいちばんよかった」のである。どうしてこういうことになっちゃったんだろう。自分なりにそこを解明するために、こんなものを書き始めた次第だ。
 なお、昨年の公開直後から、「保護者格の大人たちが5人も付いていながら、すずを単身で虐待家庭の救援に送り出すとはどういうことか。」という非難がネットに出ていた。このたび視聴してみてわかったが、これはけっして難癖ではなく、現実にいま各所で起きている筈の同種の事案を鑑みた上での切実な声である。あれは未成年者だけで対処していいことではない。作中においてあの兄弟が実際にはまったく救われていないことをも含め、作り手の側はこの非難にはきちんと向き合うべきであろう。
 さてさて。とはいうものの、いざ視聴するまでぼくは、この作品の瑕疵はそこのところだけなのであろうと思っていた。着地点を誤ったというか、少し説明が行き届かなかっただけで、作品自体はいつものように一級のエンターテインメントに仕上がっているんだろうと思っていたのだ。それくらい細田監督を信用していたのである。
 細田守作品のうち、これまで劇場で観たのは『サマーウォーズ』(2009/平成21)だけだ。上質のエンターテインメントだと思った。とても面白くて、愉快な気分で帰路に就いたのを覚えている。
 それ以外はぜんぶテレビで見たが、退屈だとか、不出来だと思ったことはない。むろん作品ごとに好き嫌いはあるが、どれも観ているあいだは楽しめた。今作だけが突出して駄目だったので、自分でも戸惑っているわけだ。
 『サマーウォーズ』の仮想空間「OZ」には参加してもいいかなと思えたが、『竜とそばかすの姫』の「U」はどうも現実とさほど変わらぬ競争原理の格差社会で、悪意に満ち、ぎすぎすして、お世辞にも楽しそうには見えなかった。これはこの12年の間に(本作の公開は2021年)SNSがわれわれの日常に浸透し、その快適さや便利さよりも、むしろ暗部のほうが目に付くようになってきたことの反映であろうか。
 そう思い、まず開始から30分くらいで気が滅入った。だがもちろん、気が滅入ったから駄目だというわけではない。むしろそこは「現実をリアルに捉えている」と評価すべきだろう。作品としての欠陥は、とりあえず、主な舞台となるその仮想空間「U」の裏設定というか、作りこみが甘い点なのである。
 「U」はすでに50億のアカウントをもち、さらに日々拡大しているという。だとすればこれはもはや一共同体どころか「国家」に近い。にも関わらず明確な法規も警察機構もなく、自前の「正義」を振りかざす自警団が幅を利かせている。しかもその自警団のリーダーは、任意のアバター(作中ではAsと称される)を自らの判断のみで裁判もなしに「アンベイルする」(強制的に正体を晒させる。つまり「身バレ」させる)権限をもっている……。
 これもまた、現実のSNSがもつ一側面を誇張した設定ではあろう。しかし、ふつうに考えてこれでは運営側がいくらなんでも怠慢、もしくは無責任に過ぎる。このたびぼくは、テレビ放映を見ながら「♯竜とそばかすの姫」のタイムラインを追っていたのだが、自警団のリーダーたるジャスティン氏が勝手な持論を述べ立てるあたりで「誰がやるか、こんなクソSNS」というツイートが流れてきて、ちょっと笑った。
 この「U」のありようについては他にも不審な点、不明な点が山ほどあって、しかもそれらが、作品のテーマやキャラクター造形、ストーリー展開とも密接にかかわっているゆえに、いわゆる「つっこみどころ満載」のありさまで、どこから手を付けていいかわからない。どうしようもないほど散らかった部屋を掃除しろと言われたようなものだ。
 いったん初手に立ち返り、『竜とそばかすの姫』の根幹をなすシノプシス/梗概(こうがい)を確認してみよう。


「幼い頃に事故で母を亡くした少女が17歳になり、かつての母と同じく、自らの身を挺して、窮地に陥った年少の存在を救い出すことで、母の死を乗り越え、ひと回り成長を遂げる話」


 これだけである。作品の要諦というのはおおむね一行ていどで纏められるもので、これに肉付けを施していくことでプロット(あらすじ)となり、さらに脚本(シナリオ)ができる。もちろん、じっさいに順を追って構築していくとは限らず、アタマの中で仕上げることが多いけれど。
 『竜とそばかすの姫』は、誰しもが一目で見て取れるとおり『美女と野獣』をモティーフにしているのだが、『美女と野獣』のシノプシスは、


「みんなが恐れる怪物の城に囚われた娘が、彼の純粋な心根を知ることで理解を深め、やがてその思いが愛情に育って相思相愛となり、彼の呪いを解いて結ばれる話」


 である。洋の東西を問わず、古来より物語の基本パターンとして知られる「異類婚姻譚」のもっともロマンティックな亜種であり、純然たるラブロマンスだ。それがディズニー版であれば尚更だけど(意地の悪いぼくは、あれは一種の「ストックホルム症候群」じゃないか……という疑念が拭えないのだが)、あくまでもラブロマンスだから、ヒロインの成長と直接の関係はない。そりゃあもとより初心な娘が特定の異性と親交を深めてその内面を理解し、愛情を育むまでに至るのだから、成長したのは間違いあるまいが、それが主題ってわけではないのだ。
 『美女と野獣』のベルもまた、母親を亡くしているけれど、それがトラウマになっている描写はないし(そもそも作中において母に関する言及は皆無)、ゆえにとうぜん、野獣改め王子様との恋愛成就によって、「母の死を乗り越える」わけでもない。
 つまり、『竜とそばかすの姫』の根幹を成すシノプシスと、『美女と野獣』のそれとはまるで無関係なのだ。そしてまた、細田版ベルと竜との関係性と、オリジナルのベルと野獣との関係性も、それぞれ大きく異なっている。何よりも、2人の共有する時間の長さが両作で違いすぎる。
 細田監督はかねてより『美女と野獣』に一方ならぬ思い入れを抱いており、本作の制作にあたって本家のディズニーからキャラクターデザイナーを招聘したと聞いた。なるほどたしかに作画の面では目論見どおり『美女と野獣』への意欲的なオマージュが見られ、それは圧巻の映像美を誇る。しかし、「ベル」と「竜」との関係性が、本家たる「ベル」と「野獣」との関係性とあまりに乖離しているために、絵柄としては美しくとも、残念ながら、たんに上っ面だけをなぞったものになってしまっているのだ。



TLで見かけたツイートより
◎竜とそばかすの姫ライブシーンとかは最高なんだけど、ディズニー版の美女と野獣の「ベルと野獣が心を通わせた」大切なシーンをまだ分かり合えてない二人のなんだか良いシーンみたいな扱いで焼き増ししたところがすごく嫌で映画館出た後怒りでいっぱいだった





 このツイート主さんが言っておられるのは(「焼き増し」はたぶん「焼き直し」のほうが正確だと思うが)、おそらくベルが竜の居城を突き止め、中に入って押し問答があったあと、歌で彼の心を開かせてダンスを踊るあたりの一連のシークエンスなんだろうけど、たしかに、2人が共にする時間が短すぎ、関係が熟していないため、どうにも説得力が乏しいのである。「いやいや、まだそこまで盛り上がる段階には達してないだろ?」と感じてしまう。ぼくはことさら『美女と野獣』に思い入れはないから、「怒りでいっぱい」にはならないけれども、「勿体ないなあ。」とは思った。
 だいたい自警団のリーダー・ジャスティンにしても、『美女と野獣』のヴィラン(悪役)たるガスコンを基に造られたキャラクターであり、ぼくが上で指摘した彼の荒っぽい設定も(そこから生じる「U」の設定の不自然さも)、本作を『美女と野獣』に準えるために、否応なしにそうなってしまった感がある。ひとことでいえば「無理がある」のだ。



TLで見かけたツイートより
◎竜とそばかすの姫、冴えない女の子が歌姫になるのと、竜がバトルするとめちゃ強い要素と、子供が虐待されてるのを特定する要素、一つ一つは面白くなりそうなのに、全部混ぜると上手く噛み合って無くて、「スイカと天ぷらは美味しいが、一緒に食べると食い合わせが悪くてお腹を壊すぞ!」て感じの映画だ





 これにもぼくは同感で、理系秀才でネットにも強い親友のヒロちゃんが、才能はあるけど引っ込み思案なすずの真価を見い出して、全面的にプロデュースし、その秘められた魅力を「U」の世界で余すところなく開花させる……というストーリーに徹して、その過程をじっくり丁寧に描き込めばよかったんじゃないか。それならば、しのぶくん、ルカちゃん、カミシンといった脇の面々も別のかたちでもっと生かせるし、すっきりした極上の青春ものになったと思う。
 おとぎ話でいうならば、それは「シンデレラ」もしくは「みにくいアヒルの子」である。たかだか2時間足らずのエンタメ作品で扱える主題など、せいぜい一つだけなのだ。そこに「美女と野獣」のモティーフまでをも無理やりに接合したものだから、焦点が定まらず、混乱をきたしてしまった……ということではないか。
 だから、「すずは結局、しのぶくんとくっ付くの? それとも恵くんのほうなの?」といった書き込みも出てくる。ラブロマンスの文法としては、ヒロインはラストで「王子様」と結ばれる……仮にロコツには結ばれずとも、示唆くらいはされなくてはいけないので、これはけっしてただのミーハー的な問いかけではない。
 『竜とそばかすの姫』の世界像においては、しのぶくんはずっと「守り人」としてのポジションで来て、このたびようやく、すずが母の死を乗り越えたことで「新しい関係性」へと進む決意を得たわけだから、そりゃあこちらが真の「王子様」であろう。しかし、恵くんとて、たんに「すずを成長させるための役回り」に留まらず、ベル=すずと深いところで心を通わせたわけであり、こちらも十分に候補たりうるのである。「シンデレラ」と「美女と野獣」とを接合したばっかりに、「王子様」が2人になってしまっている。
 これだけ書いて、だいぶ頭がクリアになってきた。本作について言いたいことはまだ10分の1にも満たないが、ほかにも色々やることがあるので、本日はここまでと致します。




ツイートを引用させて頂いた方々に感謝を申し述べます


つづき
『竜とそばかすの姫』を考える。02 父の役目
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/db62e8cf856dd63f112b1644f3666002

『竜とそばかすの姫』を考える。03 なぜ、すずは竜を?
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/ad365fc67c704b637492170213221712






『鎌倉殿の13人』における上総広常の描き方について その②

2022-04-21 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 誤解のなきよう申し上げておくが、ぼくは第15話『足固めの儀式』にいたく感動したのである。上総広常の誅殺シーンは、大河ドラマ史に残る名場面になったと思う。梶原景時(中村獅童)に斬りつけられてから絶命に至るまでの数分間は、ただ息を呑んで見守るばかりだった。何が起こったのか咄嗟にはわからぬままの驚愕のあと、懐刀を掏り取られていたことに気づいての焦燥、ぶざまに逃げ惑う時の恐慌から、頼朝の来室をみての一瞬の安堵、そして、事の起こりから裏切られて罠に嵌められていたことに気づいての衝撃、さらに義時の涙を眺めやっての微笑まで、佐藤浩市の動きと表情はあたかも眼前に惨劇を見せられるかの如くであった。ほんとうに真に迫っていた。そりゃあ子供も泣き出す道理である。
 「三國連太郎を彷彿とさせた。」といったら、すでにベテランの域に達している佐藤さんには失礼に当たるだろうが、長らくのあいだ、ぼくにとっての三國さんは「日本でいちばん演技のうまい人」だったので、これは自分として最上級の褒め言葉である。三國さんもまた、人間の弱いところ、醜いところを演じた時に異様な迫真力をみせる役者だった。
 涙を流す義時を眺めやっての最後の微笑は、「お前は俺みたいになるなよ。」という広常からのメッセージであろう……との解釈が佐藤さん自身のインタビューとしてNHKの公式に載っていた。このあとの流れから逆算するとそういうことにもなるのだろうが、とりあえずあの場面では、「義時はどうやら事前に今日のことを知ってはいたようだが、企みの最初から加担していたわけではない。」とわかったゆえの微笑ではないかとぼくは思う。「ブルータス、お前もか。」ではなかったということである。
 この無惨なシーンのあとが義時の第一子(のちの泰時)誕生の目出度いシーンとなり、その泣き声が「ぶぇい、ぶぇい」と聞こえる演出に続いて、サブタイトル「足固めの儀式」がテロップに出て、そのダブルミーニングが明かされる。怪僧・文覚(市川猿之助)の出まかせを指していた筈の「足固めの儀」が、じつは鎌倉新政権の「足固め」のためのスケープゴートの葬送……「広常粛清という儀式」を意味していたという、戦慄の謎解きである。
 正直ぼくは、これまで三谷幸喜氏のことを、「ニール・サイモンの日本版」くらいに思っていた。「日本版」とはつまり、(失礼を顧みずいえば)「劣化版」ってことである。しかしこの『鎌倉殿の13人』、なかんずく今回の『足固めの儀式』を観て、おおいに認識を改めた。小劇場のご出身だから、組織の中で煮詰まった人間関係の美点と暗部をたっぷりと味わってこられたのだろうか。とにかく「政治」を描ける人である。「政治」の本質を(それこそ小学生にもわかるくらいの)面白いドラマに仕立て上げられる脚本家だ。
 多くの作品が、お花畑のファンタジーでなければ、愚にもつかないコメディーか、悪意だけをむやみに誇張したサイコホラーばかりに偏りがちな令和ニッポンで、この才能は貴重である。
 とはいえぼくも、ひどく怠惰ながらも10数年にわたってブログをやってる身である。そしてこのブログのテーマは「物語論」だ。初めのうちは純文学を扱っていたが、又吉直樹の『火花』騒動によって、純文学の社会に及ぼす訴求力がどうしようもなく衰えていることを逆説的に思い知らされてからは、むしろサブカルチャーに目を向けるようになった。
 「物語論」は、作品そのものの分析が主だが、近頃では「人気を博した物語が社会にどう影響を与えるか?」についても興味がある。いっときアニメに深入りしてたのもそのせいだ。大江健三郎はいうまでもなく、おそらく村上春樹でさえも、大衆的な影響力ではたとえば庵野秀明に及ぶまい。そういった兆候は80年代後期のバブル時代(まだスタジオジブリが発足する前だ)に出てきていたが、ゼロ年代いこう決定的となった。
 すぐれた物語は読む者、観る者の心を動かす。心を動かされた人が多いほど、その物語は幅広く社会を共鳴させる。しかしぼくは、宇野常寛さんみたいな批評家ではないので、当ブログでは「自分が感動した作品」についてしか論じていない。『君の名は。』『宇宙よりも遠い場所』から、「まどマギ」やプリキュアまでをも扱いながら、「エヴァ」を取り上げてないのはそのせいである。エヴァンゲリオンはぼくの琴線に触れてこない(その理由についても分析できるがさすがに脱線が過ぎるので割愛する)。
 だから、冒頭で述べたとおり、ぼくはこの『足固めの儀式』に心を動かされたのだけれど、こんなブログをやってる以上、ただ「感動したッ」「泣けた」「神回」「広常かわいそう」「頼朝許せん」だけで済ませるわけにはいかない。「なぜ自分は感動したのか?」をきちんと分析し、そこから作品の批評へと至らなければならないのである。




 歴史の本にも、広常が誅殺された寿永2年(1183)の終わり頃から鎌倉での御家人たちの結束が固まったことは定説として書かれてある。確かに、そうでなければ京に向けて大軍を発することなどできない。考えてみれば当たり前だが、出兵のたびに豪族たちにいちいち相談して了承を取り付けていては埒が明かない。頼朝が木曽(源)義仲の討伐を命ずるためには、その時までに軍事権を完全に掌握していなければおかしいのである。
 「平家に対抗する旗頭として坂東の豪族たちに担ぎ上げられていた」だけだった頼朝が、名実ともに「坂東武者の棟梁」となったのが何時だったかについては諸説あるが、「イイクニ創ろう鎌倉幕府」の1192年(征夷大将軍に任じられた年)よりも早かったのは間違いない。「名実ともに坂東武者の棟梁になる。」とは、司法・行政上の統治技術としてはさまざまな制度設計があるけれど、その根幹においては「軍事権を完全に掌握する。」ということだ。暗記中心の教科書式のお勉強ではここのところがぼやけてしまう。
 権力の源泉は軍事力である。古今東西、この原則は絶対に不変だ。いまのロシアのウクライナ侵攻を見ても僚かだし、そもそも戦後の我が国がずっとアメリカに服しているのも、戦争に負けて占領され、国内の要所に基地を置かれ(「置いて貰っている」という見方もできるが)、冷戦が始まってからは核の傘に入れて頂いているからである。そんな現実がよく視えないのは、「軍事にまつわることは徹底して忌避する」という戦後ニホンの風潮のせいだ。まあこれについては「現実がそんなふうだから軍事から顔を背けている」というほうが実情に即しているのだろうが、いずれにせよ、現実が視えなくては歴史も視えない。「歴史の授業がつまらない」といわれる理由の一端はこのあたりにもある。
 寿永2年(1183)といえば、義仲が京に兵を進めて平家を都落ちさせた年でもある。このときの「治天の君」は、すなわち京の朝廷の頂点にいたのは、後白河法皇だ。法皇は平家に拉せられるのを恐れて身を隠していたが、「義仲軍迫る」との情報を得て戻ってくる。義仲の入京は7月で、法皇はただちに朝議を開いて勲功を与えるが、その第一位は頼朝、じっさいに兵を率いて平家を追い落とした義仲は第二位だった。
 これは遠く離れた鎌倉からの頼朝の朝廷工作が功を奏した結果で、ざっくりいえば「義仲が軍事をしているあいだに、頼朝は政治をしていた。」ということだ。第14回「都の義仲」でそのあたりが巧みにドラマ化されていた。
 さらに義仲軍は、朝廷が期待した京の治安維持に貢献するどころか、かえって乱暴狼藉をはたらいて法皇の不興を買い、ほかにもあれこれ政治上の衝突があって、関係はどんどん悪化する。ドラマでは「義仲は都の礼儀作法に慣れていないからしくじった。」との面が強調されていたが、それ以上に「都の政治に慣れていなかった」というべきだろう。長引く飢饉で兵糧が手に入らず、兵站が機能しない不運もあった。
 朝廷は軍事力をもたないに等しい。だから清盛と仲違いして平家と敵対したのちの法皇は圧迫されて長らく不遇をかこつ羽目になったし、清盛の没後、義仲が上洛してきた際には歓迎したが、義仲が意のままにならず、結局はまたこちらとも対立するようになると、抵抗(小規模の戦闘)もむなしく幽閉されてしまう。
 しかし朝廷には、古代からの伝統によって培われた「権威」がある。この「権威」が、時の「権力」にお墨付き(認可)を与えて、ここで初めて正当性を付与されるのが日本政治史の特徴なのだ。
 義仲が法皇を幽閉するほど腹を立てた理由の一つは、義仲が平氏追討のため京を離れている隙に、法皇が頼朝に宣旨(せんじ)を与えたからである。これは「寿永二年十月宣旨」としてwikiにも独立の項目が立てられているが、ひとことでいえば頼朝に東国支配の権限を認めたものである。その重要度については専門家のあいだでも意見が分かれているようだが、「鎌倉幕府」の成立へ向けてこの宣旨が大きく与ったことは確かだろう。
 地方の「革命軍事政権」が、中央から認められて、「自治政府」への道を歩みはじめたといってもいいか。
 これが寿永2年10月のこと。ドラマでも、この宣旨を授かっていこう、頼朝を取り巻く体制が変質していったのがわかる。それまでの、いわばアットホームでざっくばらんな雰囲気から、頼朝をトップに頂いて、役員たちをブレーンとして経営戦力を練り、組織全体を動かしていく、一個の「意志決定機関」へと変わっていくわけだ。その変質ぶりを身を以て表しているのが、大泉洋という役者の幅広い演技力である。
 宣旨が下ったのが寿永2年の10月。そして広常誅殺はその2ヶ月後の12月だ。この2つの件が無関係なはずはない。
 その側近グループの中心にいるのが大江広元(栗原英雄)だけど、じつはこのドラマの広元は少し史実とは違う。しかしそれを言い出すとキリがないので先へ進もう。とにかくこの広元がもっとも頼りになる謀臣であり、頼朝の知恵袋だ。義時はそのグループの末席に連なってはいるが、まだまだ使い走りである。
 この広元は京から下ってきた下級公家だが、第12回のラストで初登場したさい「鎌倉は安泰です。ただ、一つだけ気になることが……」と述べていた。ここでの引きがひどく思わせぶりだったため、ネットでも憶測を呼んでいたようだが、その「気がかり」こそが上総広常の存在だったと、視聴者は15話のあとで思い知らされるわけである。
 おそらく頼朝と広元は、広常の危険性についてじっくりと検討し、彼を粛清することのメリットを計算して謀殺を決め、その方法についても綿密に計画を練りあげたのだろう。そのことは義時はもちちん、ほかの御家人たちにも一切知らされていない。側近グループに近い位置にいた比企能員(佐藤二朗)や梶原景時でさえ知らなかったことは15話で明示されていた。ましてや、このたびのクーデター(謀反)に加わった御家人たちが知る由もない。
 14話と15話では、表向きのストーリーの裏側で、そんな陰謀が進行していた。知らないのは彼らだけではない。視聴者もまた同じである。いわば義時たちとわれわれ視聴者とはまったく同じ「蚊帳の外」に置かれていた。だからこそ、15話の後半での「あれよあれよ」の展開があれほどショッキングだったし、その不条理なまでの理不尽さによって、われわれは心を激しく揺さぶられたのだ。
 ……しかし、だ。たしかにあの作劇は、ドラマの運びとしては誠に巧いのだけれども、「軍事力」というキーコンセプトに即して考えたばあい、どうしても無理がある。
 前回の末尾で、
「これはドラマとしては大成功といえる。しかし、ロジックからすると相当に無理がある。反則すれすれ、といってもいいかもしれない。」
 と述べたのはそのことだ。




 すでにあちこちで指摘されているが、14話・15話で描かれたあのクーデター未遂騒動は完全なるフィクションである。じつは吾妻鏡には広常誅殺のことがまったく記されていないらしいが、そもそも、あれほど大切なことが目白押しだった寿永2年に、鎌倉政権の中でどのような事態が起こっていたのか、はなはだ記述が薄いらしいのだ。
 これについてはぼく自身、吾妻鏡の原テキストに当たったことがないので、「らしい」「らしい」と伝聞調にならざるをえないわけだが、北条氏の強い影響下に編まれた幕府の「正史」たる吾妻鏡に寿永2年の記述が薄いのは、「よほど表沙汰にしにくいことが多かったのではないか。」とする専門家もおり、ぼくもその説に同調する。
 いずれにせよ、ドラマでのクーデター騒ぎが三谷オリジナルの創作なのは間違いない。たとえば中公文庫や講談社学術文庫の『日本の歴史』にも、その他の概説書にも、そんな事件は記されていなし、さらには誰かの歴史小説でも、もしくは過去の大河などでも、描かれたことはない。
 御家人たちが糾合して頼朝を追放し、義仲の子息・義高をかついでの反乱を画策するなんて、いかにも無理がありすぎる。ただ、京に攻め上った義仲の勢力が一時は大いに盛んだったために、御家人たちにかなりの動揺が走っていたこと、また、朝廷との距離の取り方をめぐって(つまり東国経営だけに専念するのか、中央の政局に本格的にかかわるのか)頼朝と御家人たちとの間に路線対立が生じていたということはあり、そのあたりを三谷氏はああいうかたちでエピソード化したわけだ。
 けれど、よく考えてみれば、それまで頼朝を支えてきた有力御家人の大半が敵に回ったあの状態で、頼朝があんなに強い態度に出られるわけがないではないか。ようするに、あのとき軍事権は誰にあったのか、ということだ。京の義仲に向けて(じつは史実では、このころ頼朝は他にも派兵をしているのだが)義経を先発させているのだから、頼朝の命によって動かせる軍勢があったのは間違いない。しかしそのいっぽう、御家人たちもまだ手勢をもっていたはずである。そうでなければクーデター計画自体が成り立たない。ここに齟齬が生じている。
 もちろんぼくは、あのエピソードが史実から離れたオリジナルの創作であることを問題にしているのではない。そこは一向に構わないのだけれど、ひとつのフィクションとして見ても、内的なロジックそのものが破綻しているということだ。
 具体的にいうなら、頼朝は、彼らのあいだに根回しをして、相応の見返りを提示し、幾人かの御家人たちをあらかじめ手なずけておかねばおかしい。そんな下準備もなしに、それまで御家人たちを抑えてくれていた広常をあのようなかたちで誅殺したら、かえって危険だし、いっそうの反撥を喰らって政権基盤が根底から揺らぎかねないではないか。
 ここは専門家の間でも定説がないようだからぼくの推測としていうが、じっさいの広常誅殺は、かなり周到な根回しと裏工作のもとに行われたはずだ。ドラマでの頼朝は、「上総介の領地は一同に分け与える。」と言い放っていたが、所領ってのはおいそれと分割できるものではない。史実では、亡き広常(彼には嫡男がいたが、こちらも自害させられた)の領地は房総半島のライバル千葉常胤(ドラマでの配役は岡本信人)の千葉氏と、あと三浦氏との両家によって継承されている。少なくともこれらの両家は、広常暗殺を事前に知らされ、黙認していたはずだとぼくは考える。
 そしてもちろん、じっさいの広常は、あんな愛すべき好漢ではなく、頼朝のマブダチになりうるような良い奴でもなくて、坂東武者を代表して、正面から頼朝とぶつかるのも辞さぬ硬骨の武将だったのであろう。
 とはいえ当然、こういったこともぜんぶ三谷氏は承知のうえだろう。多少の齟齬には目をつぶっても、ドラマとしての鮮烈さと、人間なるものの深淵とを追い求めるのが優れた作家というものだ。反則すれすれとはいいながら、ロジックを弾き飛ばしてでもあのシナリオを仕上げたことで、あんな「神回」が生まれたわけだし、佐藤浩市の凄い名演を観ることができた。だから本当はなにも難じるつもりはないのだけれど、それでもやっぱりこのようなものを書いてしまわずにいられないのは、ぼくがどこまでも「物語」と、物語が社会に及ぼす影響とにこだわっているせいである。






『鎌倉殿の13人』における上総広常の描き方について その①

2022-04-19 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽





 佐藤浩市演じる「上総広常」は、群を抜いて魅力的だったので、第15話『足固めの儀式』での謀殺シーンは多くの視聴者にショックを与えたようだ。放映直後のタイムラインを見ていたら、「小学生の子供が泣き止まないんですけど。」といったツイートがあって、そういえば自分も幼いころ、両親の脇でドラマを観ていて、筋立てはよくわからぬし、役名も俳優じしんの名前もあやふやながら、何となく好感を抱いていたキャラが悲惨な最期を迎える場面で、いたく混乱した記憶があるな……と、微かな痛みと共に思い返した。
 むろん深甚なショックを受けたのは子供ばかりではなく、「明日からまた仕事だってのに、なんて気分にさせてくれるんだ。」とか「よし、5月になったら上総広常の墓参りに行く!」とか「それにつけても頼朝はありえん。許すまじ。」「広常ロス。」といったツイートもみられ、かなり騒然となっていた。これほどに視聴者の心を揺さぶるとは、脚本の三谷幸喜、スタッフの皆さん、そしてもちろん佐藤さんをはじめ、主演の小栗旬も、頼朝役の大泉洋も、「冥利に尽きる。」というやつだろう。いかにもSNS時代の大河ではある。
 ぼくは父君の三國連太郎の大ファンだったが、佐藤浩市はこれまで好きでも嫌いでもなかった。記憶に残っているのは、映画では、デビュウ間もない頃の『道頓堀川』(1982/昭和57)……これは映画館で観た……と、あとは『亡国のイージス』『のぼうの城』『KT』『清須会議』『Fukushima 50』『あなたへ』、あとは父の三國と本格的に初共演した『美味しんぼ』……この7本はテレビ放映で観た……くらいか。
 テレビドラマではなんといっても同じ三谷脚本での大河『新選組!』(2004/平成16)の芹沢鴨だけど、これもドラマが序盤から中盤に差し掛かるところで組織全体の「足固め」のために暗殺される役どころで、今作のキャスティング発表の時から話題になっていた。むろん、たんに組織の地盤固めだけでなく、新選組のばあいは沖田総司(藤原竜也)、今回の「鎌倉殿」では小四郎こと北条義時と、「その殺害に加担することによって後進の少年が大人へと脱皮する契機を作る」という役回りを担っている点が物語論的には重要なのである。
 総司のほうは実際に自らが刀を振るって事に及んだのに対し、今回の小四郎は頼朝とその謀臣・大江広元(栗原英雄)によって巧く操られただけだが、事後的に計画を知らされてから容認したわけだから、「謀殺に加担した」には違いない。
 前回の記事でふれた『草燃える』(1979/昭和54)は、永井路子の一連の「鎌倉もの」が原作で、岩下志麻演じる政子を中心に、鎌倉幕府の草創期から、承久の乱の少し後までを扱っていた。『鎌倉殿の13人』は……大胆な言い方をするならば……その放送当時18歳だった三谷さんによる、『草燃える』の才気あふれるリメイクといえる。
 『草燃える』で義時を演じていたのはこのたび平清盛役をやっていた松平健で、義時を中心にみるならば、あのドラマは、
「事情がよく分からないまま周囲に巻き込まれて『革命』に加わった坂東の純朴な若者が、稀代の政治家・源頼朝(石坂浩二)に側近として仕えて『政治の何たるか』を身を以て知り、自らも政争をくぐり抜けていくうちに、だんだんと人格が変わっていき、やがて老練・冷酷な独裁者となって次々と政敵を粛清していく話」
 であった(その「政敵」には実父の時政も含まれる。さすがに命までは取らないが)。
 いっぽうの政子は、政治向きには疎く、ひたむきに身内を愛する女性として描かれていた。そんな政子が、長女・長男・次男(・次女)ら全てに非業のかたちで先立たれるから悲劇性が際立つわけだ。
 ぼくが前回「政治と権力の魔性」という言い方をしたのはこの義時のことで、その人格の変貌ぶりが鮮烈だった。なお前作の『黄金の日日』でその人格変貌を見事に演じたのは秀吉役の緒形拳だ。権力はひとを怪物へと変える。それが独裁であればなおさらだ。だから絶対にいかんのである(これはプーチン大統領のことを念頭において言っているのだが、むろんそれだけではない)。70年代後期の大河はその真理をしっかりドラマ化していた。
 義時は、当年40になろうかという小栗さんが演っているから紛らわしいが、頼朝の「旗挙げ」(じっさいには目代の屋形を夜討ちしただけだが)のさい17、8歳。今でいえば高2か高3くらい。今話のラスト、長男の泰時が誕生した時点でもたかだか21くらいだ。三谷×小栗は、果たしてどんな義時像をつくりあげていくのか。このご時世、あまりSNS界隈を「ドン引き」させるのも得策ではなかろうから、「最愛の妻と子供たちを守るために、感情を殺して表向きはひたすら冷徹にふるまう。」くらいの線であろうか。それならば史実を曲げてまで新垣結衣さんを嫡男・泰時の母にキャスティングしたのも頷ける(正妻役の女優さんは別におられるようだけど)。
 いずれにせよ、盟友・三浦義村(山本耕史。なお義時は最後までこの義村だけとは良い関係を保っていた)が指摘したとおり、義時が「頼朝に似てきている」、すなわち政治権力の恐ろしさを理解し始めているのならば、そして、頼朝の性格を目の当たりにして、この先どんなことをしてでも北条の家を守り抜く決意を抱き始めたとすれば、それはこのたびの広常誅殺~第一子誕生こそがその契機であったのは間違いなく、それゆえの佐藤浩市のキャスティングであったと納得できるわけである。




 それで、その佐藤広常なのだけれども、第7回の「敵か、あるいは」で初登場したさい、父君の三國さんにあまりにもそっくりだったのでまず驚いたのだった。これまで佐藤浩市が三國連太郎に似ていると感じたことはなかった。しかし思えばぼくが初めて三國連太郎という俳優に魅了されたのは1981/昭和56年のオールスタードラマ『関ヶ原』での家康(森繁久彌)の謀臣・本多正信役であり、このとき三國さん58歳。いまの佐藤さんは61歳だから、そういうものなのかもしれない。血は争えぬということだ。
 冒頭でも述べたが、この佐藤版・上総広常はほんとうに魅力的だった。じつはいったん視聴をやめようかと思ってたのだが、この人の登場ののちは日曜の夜が楽しみになった。むろん脚本と演者の力が大きいのだが、美術スタッフなども丹精を込めて仕事をしていたように思う。渋めの衣装がじつに似合うのである。
 広常じしんがドラマの中で高言していたとおり、あの時点でキャスティングボードを握っていたのは彼だった。なにしろ頼朝は石橋山の合戦で大敗を喫して命からがら小舟で逃げ延びてきた身である。父の義朝ゆかりの豪族たちが少しずつ参集しつつあったとはいえ、房総の地で広常が本気で合戦を挑んでくればまず勝ち目はなかったろう。その大豪族の広常が敵対どころか味方になってくれたおかげで他の豪族も次々と傘下に加わり、頼朝の関東支配がやっと緒についたといえる。広常なくして後の頼朝はなかった。このことは誰よりも頼朝じしんが認めていた。
 それで、ぼくはかねがね「房総半島にあれだけの勢力を誇った広常がなぜ頼朝に加担したのか?」について疑問をもっていたのだが、ドラマ化に併せてあちこちのサイトが特集を組んでくれるおかげで、いろいろ有益な情報を拾えた。こういうところが大河の功徳だ。そのなかで、いちばん得心できたのはこれである。






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源頼朝の危機を救った「両総平氏」 千葉常胤、上総広常【鎌倉殿の13人 満喫リポート】
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上総広常とは、どういう人物なのか。


上総氏は桓武平氏の流れをくむ一族で、平安時代中期に坂東(関東)に根を下ろした坂東八平氏と呼ばれる氏族集団のひとつだ。


広常の祖父にあたる平常晴は、現在の房総半島にあった上総国の権介となった。「介」とは地方行政官である国司の二番目の役職で、「権」は「仮」の意味。つまり律令制における上総国のナンバー2ということになるが、上総国は天皇の息子である親王が国司を務める国(親王任国)だった。親王は任国に赴任はしないので、上総介は上総国の実質的な長官だった。広常の父常澄も上総介を世襲していたようで、広常は3代目の上総権介ということになる。


広常の祖父常晴の兄にあたる平常兼は、下総国の権介を名乗り、下総国千葉郷に拠点を置いた。これが千葉氏のルーツとなる。『鎌倉殿の13人』に登場する千葉常胤(演・岡本信人)は、この常兼の孫にあたる。上総を本拠とする上総氏、下総を本拠とする千葉氏をはじめとする、房総半島に拡がった一族は、両総平氏とも呼ばれた。


(……中略……)


頼朝が挙兵した治承4年(1180)当時、広常は上総氏の家督を継いで、名目的には両総平氏を率いる立場にあったようだが、実際には一族間の争いもあり、両総平氏のなかには、平家と血縁関係にある藤原親正という荘園領主の傘下に走るものもいるなど、その支配は不安定なものだった。


前年の治承3年(1179)には、平清盛が後白河法皇の院政を停止するクーデターを起こしていた(治承三年政変)。実はこの政変が、頼朝の挙兵、そして平家の滅亡に至る争乱の呼び水となった。


できるだけ簡単に説明しよう。清盛は院の影響力を削ぐため、院や院に近い人物が所有していた所領や知行国を取り上げて、のきなみ平家一門や家人たちに分け与えた。知行国主が平家関係者に変わると、坂東にも平家の家人が目代(代官)として派遣される。


平家の家人にとっては都合の良いことだが、そうではない地元の武士層にとっては、自分たちの生活や特権をおびやかす脅威に他ならない。彼らは自らの生存をかけて、平家打倒に立ち上がった。その旗頭としてふさわしい人物が、源頼朝だったのだ。


上総広常の支配する上総にも、波が押し寄せていた。治承3年には平家の有力家人の藤原忠清が上総介に任命されたのだ。藤原忠清は、平家政権に広常の非を訴え、その権限を奪おうとする。広常はすぐに息子の能常を京都に派遣して申し開きをさせたが、平家政権は納得せず、広常を京都に召喚しようとした。


広常と平氏政権は、のっぴきならない対立関係となっていった。しかも、広常の兄で、おそらく広常と家督争いをしたと思われる上総常茂が藤原忠清と連携して、広常から家督を奪い返そうとしていた。


上総広常は、追い詰められていたのだ。


平家政権によって追い詰められていたのは、上総広常だけではなかった。一族の千葉常胤も、藤原親正や平家方の目代に圧迫を受けていた。三浦半島の三浦氏も、平清盛の信頼を背景に相模国全域に支配を広げようとする大庭景親の脅威にさらされていた。


実は、頼朝の舅であり、もっとも信をおくべき相手でもあった北条時政にも、同じような「事情」があった。


かつて伊豆の知行国主は源頼政で、その嫡男仲綱が伊豆守だった。時政はこの頼政に仕える地方官僚だったとされている。ところが、頼政・仲綱親子は、以仁王の挙兵失敗によって滅亡した。彼らに代わり、清盛の義弟にあたる平時忠が伊豆の知行国主となり、時忠嫡男の時兼が伊豆守となったのだ。


そして、伊豆の目代として派遣されたのが、平家家人の山木兼隆だ。伊豆では平家家人である伊東祐親も力を伸ばしていたため、源頼政に仕えていた北条時政は、事実上、追い詰められていたのだ。


北条時政、三浦義明(その子義澄)、そして千葉常胤、上総広常は、旗揚げ期の頼朝を支えた坂東武士の主力ともいうべき面々だが、彼らはみな、平家政権の圧迫によって一族の危機を迎えていた。源氏再興のために平家を討つというのは、スローガンとしては非常に分かりやすい。しかし、その裏には極めて現実的な坂東武士の「事情」があったのだ。






引用ここまで


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 つまり、日に日にいや増す平氏の勢力がいよいよ東国にまで及び、土着の坂東武者たちは所領その他の既得権益を脅かされつつあったわけである。それくらい切羽詰まった事情がなければ、いかに貴種とはいえ、一兵ももたない流人の三十男を奉じて自分の命と家の存亡を賭けるはずはないのだ。
 そのあたりの研究は近年ずいぶん進んできているらしく、日本史好きの三谷氏もとうぜん目を通してはいると思うが、しかし、この手の込み入った事情はなかなかドラマに乗せにくい。
 佐藤広常が大泉頼朝に味方した理由は、シンプルに「彼の人柄に惚れ込んだから。」である。もともと興味をもっていたところに、小四郎のけんめいの説得(と、頼朝の天運を認めたこと)で面会する気にはなったが、そのときはまだ「この目で見て、奴が大将の器でないと判断したら討ち取ってその首を平家に差し出してやる。」くらいの気分でおり、わざと約定の刻限に遅参した。しかるに頼朝が、大軍を率いての到着を喜ぶどころか、かえって遅参を叱責したため、その心根に感服して、そこで臣従を誓った。そんな設定になっていた。
 これは当時の状況を知るうえでの基礎的な文献のひとつ『吾妻鏡』の記述なのだが、いかにも芝居がかっている。もともと近代以前の史書に厳密なリアリズムを求めるのは木に縁って魚を求めるようなものではあるが、それにしても脚色がすぎるようである。芝居がかっているということは、ドラマに仕立てやすいということで、このたびの三谷脚本もほぼそのままこのエピソードを生かしたわけだ。
 この初対面のエピソードを最大限に生かしたことで、佐藤浩市演じる上総広常は「情誼に厚い、愛すべき好漢」というキャラクターとなった。頼朝を「佐(すけ)殿」という尊称で呼ぶのが気に入らないと愚痴っているところに三浦義村から「唐では親しき仲間のことを武衛(ぶえい)と呼ぶそうです。」と嘘八百を教えられ(じっさいには武衛とは「兵衛府」のことで、やはり尊称である)、それからはずっと(まさに謀殺されるその瞬間まで)頼朝のことを「武衛、武衛」と親しみを込めて呼び続ける。しかも、一貫してタメ口である(舅の時政ですら「鎌倉殿」と呼んで丁寧語で応対するにも関わらず)。
 それもこれも、頼朝が好きだからこそなのである。従来は、「広常は武力を笠に着て横柄なふるまいが目につき、家臣団の結束を乱していた。」という解釈が専らだった。『草燃える』でも、小松方正(この人は憎々しい悪漢面が売り物の役者さんだった)演じる広常は、ある式典で頼朝を出迎えたとき、一人だけ下馬しなかったし、他のことでもいろいろと盾突いていた。それらも『吾妻鏡』にある有名なエピソードなのだが、このたびの三谷版は、そういった「頼朝に対する尊大さ」を示す逸話を一切採用せず(挑発してきた佐竹秀義や大場景親を一刀のもとに切り捨てるなど、直情ぶりを強調する演出はあったが)、ただただ「頼朝に惚れこみ、そのマブダチのつもりでいる広常」の像をつくった。
 頼朝は広常のその「友情」を利用し、そして裏切って罠に嵌め、政権の「足固め」のためのスケープゴートとして葬り去った。だからこそ、その唐突かつ理不尽な死がこれほど広範囲にショックを与えているのである。
 これはドラマとしては大成功といえる。しかし、ロジックからすると相当に無理がある。反則すれすれ、といってもいいかもしれない。




その②につづく