ここ3、4年の当ブログは更新頻度がめっきり落ちているけれど、それと結んで、「こんな企画をやりたいと思います。」といって新カテゴリまで設けておきながら、そのまま放りっぱなしになっている事柄がまことに多い。「あらためて文学と向き合う。」がまさしくそうだ。いや、ここ3、4年のことだけではない。9年前(もうそんなになるのか!)に今は亡きocnブログからこちらに越してきた際に、「純文学って何?」と並ぶ二本柱として建てた「戦後短篇小説再発見」のシリーズも、宮本輝「暑い道」の手前でずっと足踏みしたままである。どうにもこうにも、中途半端でいけません。こうなってくると、「宇宙よりも遠い場所」の全話解説を70回にわたってやり遂げたことが逆に立派にみえてくる。あの時は、読んでくださる方々からのコメントに背中を押してもらっていたのだろう。やはりアニメやドラマの話はアクセス数も多いし、そのぶん有益なコメントも多い。もちろん、「通りすがりの捨て台詞」みたいな変なコメントも時折つくが、そういうものは申し訳ないが淡々と削除させて頂いている。
意気込んで始めた企画が頓挫する理由は自分ではよくわかっているが、お金をもらってやっている仕事ではないし、なにもいちいち弁解することはあるまい……と思っていた。だいたい言い訳ってのは見苦しいもんだし、だいいち、弁解を書いている暇があるなら本来の記事を更新せよという話ではないか。しかし、このたび少し思うところがあって、ひとこと弁明をしておきたくなった。よかったらお暇つぶしにお付き合いのほど。
「戦後短篇小説再発見」が中断したのは、「ブログを始めた時と比べて、純文学に対する情熱が醒めた。」せいである。あの頃のぼくは、誇張ではなく、純文学なるものを宗教のように信奉していた。ここでの「宗教」とは、「心の支え。拠り所」くらいの意味だけども。だからあの頃のぼくにとっての文学世界の中心には大江健三郎がいた(この方も先頃ついに亡くなられてしまった)。大江さんの小説を中心ないし基準線として、ぼくは文学というもの全体を観ていた。あの方の政治的な立場(ひとことでいえば「戦後民主主義」ですね)に対してはわりと早くから疑念を抱いてはいたが、そのせいで大江文学への信頼が揺らぐことはなかった。作家としての大江健三郎は、けして戦後民主主義のイデオローグではなかった。それとこれとは別なのだ。大江さんの政治的・社会的発言はつねに戦後民主主義の埒内にあったが、あの人の小説はその枠を遥かに超えていた……というか、枠そのものを破壊しかねない強度があった。ある意味で、大江文学は中上健次よりも過激とさえもいえるのである。
いやいや。話が本筋から逸れている。大江さんの名前が出たので、ついアツくなってしまった。とにかく、「戦後短篇小説再発見」のカテゴリが中断したのは、純文学への情熱が醒めたせいだった。その理由ってのも、改めて書けばアホらしいような話で、又吉直樹氏「火花」の芥川賞受賞である。あれで、「あー、なんだ、けっきょくはぜんぶビジネスなんだー」とわかって、ティーンエイジャーの時分から数えて数十年(!?)にわたる思いが一挙に色褪せてしまった。おそらくはそのもっと以前から、純文学業界は出版文化のなかの「斜陽気味の零細産業」となっており、「芥川賞」の権威と知名度によって年に2回ほど活気づくだけのものだったのである。そのことが、又吉さんの受賞により、ぼくのなかで露わになった。
その失望と並行して、ぼく自身も「物語」の魅力に惹かれはじめており、言葉で作られた芸術を離れて、アニメなどもあれこれ観るようになって、果ては「プリキュア」や「まどマギ」をブログで論ずるまでにもなった。
最近は、じつはもうアニメには飽きていて、本に回帰しているのだけれど、大江さんへの敬愛は持続してはいるものの、アタマの半ばを占めているのは皆川博子さんのことである。やはり純文学より「物語」なのだ。
といった次第で、「純文学」の優れた短篇をじっくりと時間をかけて丁寧に読み解く「戦後短篇小説再発見」のカテゴリに手を付ける気にならないわけだ。
そういった自身の変化を受けて、より物語性の強い欧米の古典的名作の、それも短篇ではなく大長編をがんがん読んでいこうぜ!というのが新カテゴリ「あらためて文学と向き合う。」だったわけだけれども、これが当初から雑談ばかりで、何回か掛けて10冊分のリストを発表しただけで、肝心の作品をまったく論じないまま中断している。情けない。理由はふたつあるけれど、ひとつはたいそうばかばかしい。「読んでいるほうが面白くて、それについて書く気にならない。」ということである。これもまた「物語」の魅力なんだろうけど、もっぱら短編を精読することで自らの批評眼を養ってきた(というほどたいそうなものでもないが)わたくしは、長編を読むのがこんなに面白いとは思わなかったのである。ボルヘスという大作家が、「本を読むことは、本を書くことよりもずっと高尚だし面白いし愉しい。」といった意味の発言を残しているのだが、まあ確かにボルヘスは他人の書いた本を読むのに忙しくて自分は短篇小説しか書かなかったのだが、こういうセリフはボルヘスのような偉い偉いひとがいうからサマになるわけで、ぼくなどが言ったら「そりゃそうだろタコ」と言われるだけである。
もう一つの理由は、これよりもいくらか神妙である。「あらためて文学と向き合う。」を始めたのは2022(令和4)年の初頭で、この年は初めから体調およびパソコンの調子がわるく、加えて前記の「読むほうが面白い。」という理由で遅々として進んでなかったんだけど、7月になって決定的な事件が起こった。すべてが急速に移ろっていくこのネット社会では、もうずいぶんと遠い出来事のような気さえするが、いうまでもなく、安倍元首相の遭難である。この事件により、ぼく個人も強烈なショックを受けて、毎日たくさん怒涛のように流れては消えるツイートのうち、とりわけ政治的・社会的なものを熱心に読み漁るようになった(ちなみにツイッターは、社を買収したイーロン・マスク氏の意向で「X」と名を変え、今は登録しなければ新しいツイートを読めなくなっている。こんなことは今は誰でも承知しているが、何年か経つと時系列が曖昧になるのでここに明記しておく)。
当ブログは文学ブログではあるけれど、もともと「政治」のカテゴリも設けてはいた。とはいえ、以前のぼくは政治向きのことに関してはかなり疎くて、いろいろと矛盾は感じながらも、それこそ「戦後民主主義」的な枠組みの中でばくぜんと物事を考えていた(と思う)。
しかるに、安倍元首相の事件いこう、「左」たると「右」たるとを問わず、往々にして激烈なものをも含む政治的・社会的なツイート群を浴びるように読み、「ああ。皆さんほんとに色々と考えてるんだな。いちどここらでおれも戦後日本についてじっくりと考えてみなきゃあいかんなあ。」と真剣に思った。そこで文学ならざる政治的な書籍をあれこれ読んだ。それで「政治・2022年7月8日以降」というカテゴリを設けて、もっぱら、ツイートやら、本やらを読んで考えた所をつらつらと書き連ねたのだった。ある意味で、興奮状態にあったのかもしれない。異常な事件が起こったのだから、それも仕方のないことかと思うが。
しかし、ひとしきり興奮の時期が過ぎ去ってみると、「政治・2022年7月8日以降」に収めた記事はいかにも矯激すぎる気がしてきた。そのため、今のところぜんぶ非公開扱いにしている。さっき確認したら記事の数は45本あった。これをぜんぶ非公開にしているのだから、2022年度の記事の数が少ないのも当然だ。しかも、ついでに(といったらナンだけど)、もともとあった「政治/社会/経済/軍事」のカテゴリと、東京オリンピックへの違和感を綿々と述べた「反・東京五輪」のカテゴリまでも非公開にしてしまった。そこにあった記事はふたつ合わせて100本近いから、けっこうな数の記事が非公開扱いになっている。だから、現在の「ダウンワード・パラダイス」はかなり軟派で、すかすかなのだが、自分として不本意な記事を掲げておくわけにはいかないから、しょうがない。
ともあれ、そういった次第で、「あらためて文学と向き合う。」は座礁した。ひとことでいうと、2022(令和4)年のあの日以降は、政治向きのことでアタマがいっぱいになって、ブンガクのことがすっ飛んでしまったわけです。
さて。そしていま、「物語(ロマン)の愉楽」のカテゴリの中で始めた “「これは面白い。」と思った小説100and more パート2” が中座しているのだけれど、これについては、昨年からうちつづく体調不良のほかに、もうひとつ理由があります。それについて書くつもりで始めたんだけど、ここまでで長くなってしまったからまた次回。……てなこといって、これでまた長期中断したらシャレにならんな。
意気込んで始めた企画が頓挫する理由は自分ではよくわかっているが、お金をもらってやっている仕事ではないし、なにもいちいち弁解することはあるまい……と思っていた。だいたい言い訳ってのは見苦しいもんだし、だいいち、弁解を書いている暇があるなら本来の記事を更新せよという話ではないか。しかし、このたび少し思うところがあって、ひとこと弁明をしておきたくなった。よかったらお暇つぶしにお付き合いのほど。
「戦後短篇小説再発見」が中断したのは、「ブログを始めた時と比べて、純文学に対する情熱が醒めた。」せいである。あの頃のぼくは、誇張ではなく、純文学なるものを宗教のように信奉していた。ここでの「宗教」とは、「心の支え。拠り所」くらいの意味だけども。だからあの頃のぼくにとっての文学世界の中心には大江健三郎がいた(この方も先頃ついに亡くなられてしまった)。大江さんの小説を中心ないし基準線として、ぼくは文学というもの全体を観ていた。あの方の政治的な立場(ひとことでいえば「戦後民主主義」ですね)に対してはわりと早くから疑念を抱いてはいたが、そのせいで大江文学への信頼が揺らぐことはなかった。作家としての大江健三郎は、けして戦後民主主義のイデオローグではなかった。それとこれとは別なのだ。大江さんの政治的・社会的発言はつねに戦後民主主義の埒内にあったが、あの人の小説はその枠を遥かに超えていた……というか、枠そのものを破壊しかねない強度があった。ある意味で、大江文学は中上健次よりも過激とさえもいえるのである。
いやいや。話が本筋から逸れている。大江さんの名前が出たので、ついアツくなってしまった。とにかく、「戦後短篇小説再発見」のカテゴリが中断したのは、純文学への情熱が醒めたせいだった。その理由ってのも、改めて書けばアホらしいような話で、又吉直樹氏「火花」の芥川賞受賞である。あれで、「あー、なんだ、けっきょくはぜんぶビジネスなんだー」とわかって、ティーンエイジャーの時分から数えて数十年(!?)にわたる思いが一挙に色褪せてしまった。おそらくはそのもっと以前から、純文学業界は出版文化のなかの「斜陽気味の零細産業」となっており、「芥川賞」の権威と知名度によって年に2回ほど活気づくだけのものだったのである。そのことが、又吉さんの受賞により、ぼくのなかで露わになった。
その失望と並行して、ぼく自身も「物語」の魅力に惹かれはじめており、言葉で作られた芸術を離れて、アニメなどもあれこれ観るようになって、果ては「プリキュア」や「まどマギ」をブログで論ずるまでにもなった。
最近は、じつはもうアニメには飽きていて、本に回帰しているのだけれど、大江さんへの敬愛は持続してはいるものの、アタマの半ばを占めているのは皆川博子さんのことである。やはり純文学より「物語」なのだ。
といった次第で、「純文学」の優れた短篇をじっくりと時間をかけて丁寧に読み解く「戦後短篇小説再発見」のカテゴリに手を付ける気にならないわけだ。
そういった自身の変化を受けて、より物語性の強い欧米の古典的名作の、それも短篇ではなく大長編をがんがん読んでいこうぜ!というのが新カテゴリ「あらためて文学と向き合う。」だったわけだけれども、これが当初から雑談ばかりで、何回か掛けて10冊分のリストを発表しただけで、肝心の作品をまったく論じないまま中断している。情けない。理由はふたつあるけれど、ひとつはたいそうばかばかしい。「読んでいるほうが面白くて、それについて書く気にならない。」ということである。これもまた「物語」の魅力なんだろうけど、もっぱら短編を精読することで自らの批評眼を養ってきた(というほどたいそうなものでもないが)わたくしは、長編を読むのがこんなに面白いとは思わなかったのである。ボルヘスという大作家が、「本を読むことは、本を書くことよりもずっと高尚だし面白いし愉しい。」といった意味の発言を残しているのだが、まあ確かにボルヘスは他人の書いた本を読むのに忙しくて自分は短篇小説しか書かなかったのだが、こういうセリフはボルヘスのような偉い偉いひとがいうからサマになるわけで、ぼくなどが言ったら「そりゃそうだろタコ」と言われるだけである。
もう一つの理由は、これよりもいくらか神妙である。「あらためて文学と向き合う。」を始めたのは2022(令和4)年の初頭で、この年は初めから体調およびパソコンの調子がわるく、加えて前記の「読むほうが面白い。」という理由で遅々として進んでなかったんだけど、7月になって決定的な事件が起こった。すべてが急速に移ろっていくこのネット社会では、もうずいぶんと遠い出来事のような気さえするが、いうまでもなく、安倍元首相の遭難である。この事件により、ぼく個人も強烈なショックを受けて、毎日たくさん怒涛のように流れては消えるツイートのうち、とりわけ政治的・社会的なものを熱心に読み漁るようになった(ちなみにツイッターは、社を買収したイーロン・マスク氏の意向で「X」と名を変え、今は登録しなければ新しいツイートを読めなくなっている。こんなことは今は誰でも承知しているが、何年か経つと時系列が曖昧になるのでここに明記しておく)。
当ブログは文学ブログではあるけれど、もともと「政治」のカテゴリも設けてはいた。とはいえ、以前のぼくは政治向きのことに関してはかなり疎くて、いろいろと矛盾は感じながらも、それこそ「戦後民主主義」的な枠組みの中でばくぜんと物事を考えていた(と思う)。
しかるに、安倍元首相の事件いこう、「左」たると「右」たるとを問わず、往々にして激烈なものをも含む政治的・社会的なツイート群を浴びるように読み、「ああ。皆さんほんとに色々と考えてるんだな。いちどここらでおれも戦後日本についてじっくりと考えてみなきゃあいかんなあ。」と真剣に思った。そこで文学ならざる政治的な書籍をあれこれ読んだ。それで「政治・2022年7月8日以降」というカテゴリを設けて、もっぱら、ツイートやら、本やらを読んで考えた所をつらつらと書き連ねたのだった。ある意味で、興奮状態にあったのかもしれない。異常な事件が起こったのだから、それも仕方のないことかと思うが。
しかし、ひとしきり興奮の時期が過ぎ去ってみると、「政治・2022年7月8日以降」に収めた記事はいかにも矯激すぎる気がしてきた。そのため、今のところぜんぶ非公開扱いにしている。さっき確認したら記事の数は45本あった。これをぜんぶ非公開にしているのだから、2022年度の記事の数が少ないのも当然だ。しかも、ついでに(といったらナンだけど)、もともとあった「政治/社会/経済/軍事」のカテゴリと、東京オリンピックへの違和感を綿々と述べた「反・東京五輪」のカテゴリまでも非公開にしてしまった。そこにあった記事はふたつ合わせて100本近いから、けっこうな数の記事が非公開扱いになっている。だから、現在の「ダウンワード・パラダイス」はかなり軟派で、すかすかなのだが、自分として不本意な記事を掲げておくわけにはいかないから、しょうがない。
ともあれ、そういった次第で、「あらためて文学と向き合う。」は座礁した。ひとことでいうと、2022(令和4)年のあの日以降は、政治向きのことでアタマがいっぱいになって、ブンガクのことがすっ飛んでしまったわけです。
さて。そしていま、「物語(ロマン)の愉楽」のカテゴリの中で始めた “「これは面白い。」と思った小説100and more パート2” が中座しているのだけれど、これについては、昨年からうちつづく体調不良のほかに、もうひとつ理由があります。それについて書くつもりで始めたんだけど、ここまでで長くなってしまったからまた次回。……てなこといって、これでまた長期中断したらシャレにならんな。