ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

2021年の8月に改めて観る『風立ちぬ』

2021-08-29 | ジブリ




 久しぶりに編集画面をひらいたら、珍しく大量のアクセスを頂戴していて……8月27日に「金曜ロードSHOW!」で『風立ちぬ』をやったからだね。あれはたしかに見終わったあとで解説が欲しくなる作品ですね。
 いつも、作品分析をやる際にはビデオで何度も周回するし、大事なシーンはメモを取りつつ重点的に見返したりもするけれど、あの全7回の『風立ちぬ』論をやった時はあえてそれをしなかったんですよ。ただ記憶だけを頼りに書いた。そのせいで、いくつか思い違いもありますね。
 たとえば、軽井沢の「草軽ホテル」で10年ぶりに再会したとき、飛ばされたパラソルを捕まえてもらった時点では、菜穂子はまだ二郎のことを誰だか分かっていなかった。かなり距離があったからね。そのあと食堂で見かけて初めて、「あっ。震災の時にお世話になったあの方だ」とわかって驚いた。そんな表情をしてますね。
 もうひとつ、二郎が「ぼくたちには時間がない。」と口にするのは、婚礼の夜、上司であり恩人でもある黒川氏に対してのことで、正確なセリフは「私たちには時間がありません。覚悟しています。」だった。妹の加代に詰られたときに述べたのは「僕らは今、一日一日をとても大切に生きているんだよ。」でしたね。
 そういった思い違いはあるけれど、些細といえば些細なもので、全体を覆すほどではなく、本筋の論旨に支障はないので、とくに手を入れることはせず、このまま公開しておきましょう。
 テレビでの放映は、2015年2月、2019年4月につづいて3回め。今回、これに合わせてこんな小論もアップされました。


文春オンライン
なぜ二郎は“苦悩”しないのか 『風立ちぬ』が描いたものの行方   藤津亮太
https://bunshun.jp/articles/-/48159



 ここでは『もののけ姫』(1997/平成9)と絡めて『風立ちぬ』(2013/平成25)を論じていますね。『もののけ姫』は、ニッポンの「中世」が「近世」へとパラダイムシフトする際の矛盾や軋轢を描いたもので、『風立ちぬ』はニッポンの「近世」が「近代」へ、さらにはそれが破産して「現代」へとパラダイムシフトする際の矛盾や軋轢を描いたもの。おおむねそういった趣旨です。
 この論のなかでは、それらがいずれも「近代化」という一語で括られてますが、こうやって分けておくほうが判りやすいでしょう。
 『風立ちぬ』は「近世」が「近代」さらには「現代」へとパラダイムシフトする際の矛盾軋轢を、「このうえもなく美しく」描いたものだ……という論旨は、ぼくの2年まえの記事「ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。⑦ 近代ニッポンの象徴としての菜穂子。」とも通底します。ひょっとしたら藤津氏も、ネットでぼくの記事を見かけて、少しくらいは参考にされたんじゃないか……と想像しても、あながち邪推ではない……かもしれない(笑)。


「ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。⑦ 近代ニッポンの象徴としての菜穂子。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/1a5b8fba3d3f0581200af4b39060d594









 藤津氏はこのように書いています。




『風立ちぬ』において飛行機が「美しくも呪われた夢」と矛盾を孕んで表現されるのも、『もののけ姫』が象徴的に描いた「近代化」とその問題の果てにあるものだからだ。工業化を背景にした近代国家の成立、そしてその結果としての戦争。人はこの大きな枠組みの外に出ることはできない。




そして『風立ちぬ』は、その枠組の中で右往左往する人間を描いた作品なので、視点が非常に大きいところにある。視点があまりに大きいから、二郎の葛藤や良心の呵責を描いても、そこには大して意味がない、ということになるのだ。逆にいうと二郎の心理に寄れば寄るほど「日本の戦争」を描いた作品になり、「近代化(とその破産)」という大きな枠組みは見えなくなってしまう。




けれども――である。




 と、藤津氏はつづけます。少し編集しつつ引用させていただきますが……。




映画監督の伊丹万作は『戦争責任者の問題』の中でアジア・太平洋戦争にまつわる責任について次のように記した。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」




映画としては美しくとも、映画の中で切り取られた二郎の生き方を「時代の中で精一杯生きた」とだけシンプルにまとめてしまうのはとても危うい。




「精一杯生きたからしょうがない」と「時代に流された」の間にはどのような境界線があるのか。
『風立ちぬ』では「近代化」という枠組みと、二郎の“芸術家”としての「業」を強調したことで、その境界線が見えなくなっている。現実の「未来」は、「近代化」の枠の中にあったとしても、さまざまに変えられる部分を秘めた可塑的なものだ。




現実の中で「生きようと試みる」ということは映画の中の二郎の振る舞いとは遠く、自分の中にある「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」といったものに抗っていくことだと思う。映画が公開された2013年よりも現在のほうが、その意味は重くなっている。




 引用ここまで。ちなみに伊丹万作(1900 明治33~1946 昭和21)とは戦前の日本を代表する映画監督で、故・伊丹十三氏の父君です。 この有名な警句は、ぼくも以前に当ブログにて引用させて頂きました。




 「映画が公開された2013年よりも現在のほうが、その意味は重くなっている。」というのはまことに重要な指摘で、じっさい今、『風立ちぬ』を改めて観直すのであれば、このような視点は不可欠ですね。安倍政権の7年8ヶ月(その間の官房長官はずっと菅義偉氏)を経て、ニッポンの「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」は2013年よりもはるかに深刻となり、それがコロナ禍における無為無策の果ての「棄民」にまで直結しているわけだから……。
 そう考えるならば、『風立ちぬ』における二郎の描き方ってぇものは、2013年の時点における宮崎さんの「気の緩み」をあらわしていた……という見方もできるかもしれない。じつは私、公開当時に劇場で観て、大いに不満を抱き、かなり糾弾めいた作品評をアップしたんですよ。それは今は亡きOCNブログの「旧ダウンワード・パラダイス」に発表して、こちらに移ったさいに削除しちゃったんですが……。
 あのときは不満どころか、はっきりいって「憤懣」に近い感情を抱いたんだけど、今はそこまで怒ってはいない。幕末から近代の歴史をやればやるほど、やっぱり欧米列強なんてのは悪辣で傲慢だと思うし、どう考えてもニッポンだけが加害者ってはずはないと分かってくるからね。でも、宮崎監督の大衆レベルへの影響力を鑑みるならば、近代ニッポンを描くにしても、もう少し別のやり方があったんじゃないかとは思いますね。
 だからこないだ、8月6日の記事「頭の上から爆弾が降ってくるまでは。」で、




高畑勲が『火垂るの墓』(1988)で/片渕須直が『この世界の片隅に』(2016)できちんと描き、宮崎駿が『風立ちぬ』(2013)で日和りまくって描かずに逃げたことなんだけど……たとえば食料をはじめ日々の暮らしに不可欠な物資が欠乏するとか、職場や学校がうまく回らなくなって社会の機能が損なわれるとか、そういった不便さをかるく凌駕する惨事として、「頭上から爆弾が降ってくる」ということが起こる。敗戦が目の前に迫ってくるとね……。




 という書き方をしたんだけども。
 だから気になるのは、「鋭意製作中」といわれて久しい『君たちはどう生きるか』ですね。「子供向けに書かれた戦後民主主義のお手本」ともいわれる、吉野源三郎のこの名作を、宮崎駿がこの時代にどう映像化するか。また体よくファンタジーに逃避するのか、きっちりと真正面からリアリズムで描き切るのか。注目しております。




参考資料
世に倦む日日  2017-11-25
『君たちはどう生きるか』のブーム - 若者にはこう読んでもらいたい
https://critic20.exblog.jp/28361487/




気になる日本語② 「~しかない。」「~でしかない。」

2021-08-20 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 本日は気分を変えてこの話題にしましょう。まえに『気になる日本語① 「世界観」』という記事をアップした。ついこないだのように思っていたが、確かめたところ何と5年前の2016-08-12。まことに月日の流れが早い。
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/0f44950779a0f782ad23818123b76fa8

 この記事でも冒頭でオリンピックの話をふっている。なるほど。本来ならば2020年にやるはずだったのを1年遅らせたのだから、5年前の8月12日といえばまさにオリンピック真っ只中だったのだなあ。あの頃はもちろん、こんなことになるとは悪夢にも思ってなかったが。
 それにしても、読み返してみたらこの記事、言ってる内容は正しいのだがどうも論の運びが回りくどい。今ならばもう少し簡潔に書けると思う。つまりは、「いま多用されている『世界観』という表現は、ほんらい『世界像』と称するべきだ。」と述べているのだが。
 これを書いたときは、同様に「気になる日本語」を10項目くらいピックアップしていて、順次取り上げていくつもりだったが、折しも8月だったので、戦争の話に移ったためにそのままになってしまった。ぼくはブログを計画的にはやっていない。即興演奏に近いと思っているほどだ。気分しだいで二ヶ月くらいすっぽかしたりするし。
 その10項目のメモはまだ残っているが、この5年のあいだに、それらぜんぶが霞むくらいに猛威を振るっているのが「~しかない。」や「~でしかない。」だろう。
 ラジオを聴いてると、「リスナーからのメールやお便り」でこの言い回しを耳にしない日はない。「たくさんの感動を届けてくれて、アスリートの皆さんには感謝しかありません。」といった類いだ。内容も紋切り型なら表現そのものも紋切り型……なのだが、しかしもともと内容と表現とは不可分のものだから、つまりこのメールだかお便りだかを送った方は、紋切り型の思考にどっぷりと浸ってしまってるってことだろう。
 むろん、この一文だけを以てその方の全人格を推し量るのは僭越なので、とりあえず「オリンピックに関しては」紋切り型の思考にどっぷりと浸ってるんだろうな、という話ではあるが、ただ、こういった「お上が推進し、全国民に強い同調圧力をかけてくる事案」に対してぼくたちがことのほか「紋切り型」に陥りやすいのは確かで、そこにひときわ注意喚起を促したいのである。
 5年前の記事でも、
「重箱の隅を突ついているのではなく、コトバの乱れ、ひいては言語感覚の乱れは思考の鈍化に直結し、それがまた、全体としては文化の衰退に繋がっていくので、自分としては書かずにいられない。」
 と述べているが、この問題意識は今も変わっていない。コトバは社会の写し絵だ。言葉について考えることは、社会について考えることでもある。
 「~しかない。」「~でしかない。」という表現は、使い手の趣旨としては「強意」だろう。「感謝しかありません。」とは、「とても感謝しています。」の意だ。
 また「とても感謝しています。」は、「感謝でいっぱいです。」と言い換えられる。これは昔からある表現で、ぼくも好きだ。「感謝」というのは明るくて肯定的な言葉だから、洒落た編み籠に花束が詰まってるようなイメージがある。気持ちが弾む。
 「~しかない。」は否定形なので、どうも弾まない。ぼくは五輪に大反対だし、「アスリートの皆さん」にも感謝どころか悪印象しか持っていないが(あ。いまオレも使ったな)、どうせなら「感謝でいっぱいです。」となぜ言わないんだろう、という疑問は残る。
 まあ、「感謝でいっぱいです。」だと、すでに使い古されて陳腐化してると感じるからだろうね。でもぼくなんかは、今ならばかえって「感謝でいっぱいです。」のほうが新鮮に響くけどね。
 この手の言い回しが流行るのは、出だしのころ、ちょっと目新しくて気が利いてる……ように映るから若い世代が濫用し、そのうちに、なんだかそちらのほうが当たり前みたいになって置換されてしまう……というパターンを踏んでのことが多いと思うが、「~でいっぱいです。」が「~しかない。」に置き換えられた理由というのは、社会心理学の面からみても、いまひとつよくわからない。
 「強意」といえば、「~すぎる。」というのもあって、これも「気になる日本語」の筆頭株だが、こちらも大物だから別に記事を立てたほうがよさそうだ。ただ、「~すぎる。」は「素敵すぎる。」「爽やかすぎる。」といったように名詞や形容動詞に付くと共に、「嬉しすぎる。」のように形容詞にも付く。いっぽう、「~しかない。」「~でしかない。」は名詞か形容動詞にしか付かず、形容詞に付くことはない。その相違だけは書き留めておこう。
 形容動詞といえば、2020年の5月に大阪府の吉村洋文知事が、緊急事態宣言の延長について、
「出口が見えなければ不安でしかない。出口戦略として、国が客観的な基準を示すべきだ。」
と記者会見の席で述べたのが印象に残っている。
 ついでにいうと、大阪は全国に先駆けてかなり早くから「医療崩壊」に近い状況に陥っており、その主因の一つは、維新の会が政権の座に就いていらい「行政の無駄を省け」との号令のもとに公立病院・病床・医療従事者といった「医療的リソース」を削減したせいだといわれている。
 だから吉村知事の発言は「どの口がいうか。」という感じなのだが、しかしこの人は(たぶん若くてハンサムだから)幅広い人気を博している。府民も市民もとことん甘い。この点においてもニホンの縮図となっている。事の本質を見ず、表層だけで好悪を決めるポピュリズム。
 それはさておき、コトバの話に戻ると、ここでの問題は「不安でしかない。」である。「不安で(胸が/心が/頭が)いっぱいです。」という言い回しは昔からあるので、その裏返しとして、ここは「不安しかない。」でもよかったはずだ。
 ところで、たいそうややっこしいのだが、「不安でしかない。」の「で」は、「不安でいっぱいです。」の「で」とは違うのである。「不安でいっぱいです。」の「で」は、手段・方法・道具・材料などをあらわす「格助詞」だ。
 「バケツは水で一杯だ。」の「で」である。
 いっぽう、「不安でしかない。」の「で」は、「不安だ」という形容動詞の「だ」が、「~しかない」に接続されて変化形をとったものである。前提として、「不安だ」という品詞は、名詞「不安」に終助詞の「だ」がくっ付いたものではなく、「不安だ」という形容動詞と見なすという文法上の取り決めがある。
 「不安しかない。」と「不安でしかない。」は、たんに間に「で」が入ったわけではなく、「不安」(名詞)「不安だ」(形容動詞)と、品詞自体が別物になってるってことだ。
 吉村知事のアレは、人気のある公人が公の場で発したものだから、わりと影響力があったようだ。以前ならば「不安しかない。」と言っていたであろう人が、「不安でしかない。」と言うようになった事例が増えたような気がする。あくまでも体感ではあるが。
 ただ、「不安」とか「不安だ」はネガティブで暗い言葉だから、「~しかない。」との相性は悪くない。その点はまあ、いいんだけども、名詞だけでなく形容動詞も使えるぞってことになると、これがいよいよ拡張されて、「あそこでタクシーを拾えたのはラッキーでしかない。」といった具合になってくる。これはどうにも聞き苦しい。「ラッキーとしか言いようがない。」が正規の言い方だろう。
 つまり「ラッキーでしかない。」は、見た目は同じでも、「不安でしかない。」とはまた違う出自の表現からの転用なのだ。そのことは、「ラッキーでいっぱいです。」という言い方がこのばあい成立しないことからも明らかだ。
 このように、本来ならばいろいろと多彩な出自をもつ表現が、ぜんぶ一緒くたになってしまうと、日本語の表現がさらに貧しくなってくる。残念ながら、いまどきの流行りの言い回しは、日本語を豊かにするよりも、貧しくするほうに働くことが多いようだ。





21.08.18 いまの日本のどこがやばいか。

2021-08-18 | 戦後民主主義/新自由主義



 

 まずは皆さんのツイートから。

猫リュックに騙された人 パラリンピッグ🀄止
@nasitaro
これ、要するに本当に必要な税金、というか実際に目的に使われた税金は1/20って事だからね。19/20は寄生虫が吸ってるだけ。そりゃあありとあらゆるものが衰退するに決まってる。










Erscheinung45
@Erscheinung35
毎日マジメにもの作ったりお客さんと向き合って酒食提供しながら額に汗して現場で働いてる人たちが軒並み苦境にあえぐ中,なんのかたちある物も作らない巨大広告屋とか人間右から左に動かして上前はねる口入れ屋みたいなもんが高収益でウッハウハとか,もう存続する値打ちねえよなこの社会体制……。




Erscheinung45
@Erscheinung35
社会になければならない活動に従事してる人間がまるで報われずに本来あったってなくたって社会は問題なく動いていくような虚業ばっかりで金が儲かる社会なんてそのうちアホらしなって誰も前者の活動なんかやんなくなるし,そんな社会が持続可能なはずないと思うんよね。




きたしゃん
@snafkin_818
@Erscheinung35さん、とても重要な指摘です。人の生業に関係しない頭脳労働の対価があたかも人の本質に関わる農業や製造業よりも価値があるかのような風潮はおかしいのですよ。貴族ばかりが肥え太って庶民が痩せ衰える、中世かよってことです。




ひゅーまんましん
@humanmachine22
おっしゃることの意味は基本同意しますが、頭脳労働という言葉のチョイスはちょっと違うのではという気がします。ツイ主さんのおっしゃるようなピンハネは頭脳労働には含まれないと思います。




Tom
@tom_iton_tom
@Erscheinung35さん、「中抜き業」、昔風に言えば「ピンハネ業」が、政府の後押しで跳梁跋扈しているって、どう考えてもおかしい。
まあ、時代劇の悪代官と同じで、そのピンハネした金は、還流しているんだろうけれど。




内田樹
@levinassien
日本社会がここまで壊れるのにだいたい25年かかりました。今が「底」だとしても統治機構や教育やメディアが先進国並みに回復するのにこれから10年はかかると思います。「底」に達しなければ、それだけ「まともな国」に戻るのが遅れる。でも、まだ堕ち足りないようにも思えます。



(追加 21.08.30)
町山智浩
@TomoMachi
自民党は1998年から今までずっと竹中平蔵を重用し続けて、すでにもう分離できないくらい一体化してしまって、何十年やっても成果が上がらないから竹中を外すという普通の判断すらできず、竹中のパソナに税金を流し込むだけの機関と化していますね。

町山智浩
@TomoMachi
1989年には世界のトップ企業10社中7社を占めていた日本企業が30年後にはゼロになった。その要因は?
竹中平蔵「世界経済が新しいパラダイムに転換する最中に政策面、経営面で適応できなかった。そのことに尽きる」

小渕政権からずっと経済政策やってたのは自分なのに。



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 いまの日本がやばいのは、今回のコロナ禍のような大きな災害が起こった時に、政治家や官僚といった国のトップの人たちが、「この問題にいかに対処し、どうやって解決するか?」という真っ当な思考に向かわずに、「この非常事態を利用して、いかに自分たち(政治家ならば所属政党および自らの身内や仲間、官僚ならば所属する省庁や関係機関)に利益をもたらすか?」ということばかりにアタマがいっちゃうってことなんだよね。
 これ、大半の人は「いくら何でもそれはないだろう。極端なことを言うんじゃないよ。」なんて思って読み飛ばすんだろうけど、ぜんぜん誇張でも歪曲でもないんでね。試しにいちど、騙されたと思って、日々のニュースをそういう視点で見てみてください。いろいろと腑に落ちるはずだから。
 大事なことだから二度いいましょう。
 いまの日本では、政治家や官僚といった国のトップの人たちは、今回のコロナ禍のような大きな災害が起こった時に、「この問題にいかに対処し、どうやって解決するか?」という真っ当な思考に向かわずに、「この非常事態を利用して、いかに自分たち(政治家ならば所属政党および自らの身内や仲間、官僚ならば所属する省庁や関係機関)に利益をもたらすか?」ということだけを考えています。
 付け加えるまでもないと思うけど、念のために言っておくと、なにしろ非常事態なんだから、すぐに対応しないとたくさん犠牲者は出るんですよ。犠牲者は出るし、いずれは社会全体も回らなくなる。それが重々わかっていながら、自分たちの周りの利益だけしか目に入らない。
 そういう思考が刷り込まれてるというか、身に付いてしまっているわけね。それはおそらく2001(平成13)年からの小泉=竹中による「構造改革」に端を発すると思うんだけど、ここまで酷くなったというか、もう「当たり前」になってしまったのはやはり2012(平成24)年9月からの第二次安倍政権による7年8ヶ月のあいだだろうね。
 どんな組織にもそれなりに良心や良識をもった人たちは一定数いるはずなんだけど、そういう人たちが出世できないというか、生き残れなくなってるんでしょうね、今や。だから「今だけカネだけ自分(たち)だけ」ってタイプしかいなくなっちゃった。
 国ぜんたいがそういう体質になってて、もちろん菅義偉政権はそれをそのまま引き継いでいる。この人はずっと安倍内閣の官房長官だったわけだし、中抜き平蔵もそのままずっとブレーンとして居座ってるしね。
 こういうのを「惨事便乗型」っていうんですけどね。ナオミ・クラインというカナダの女性ジャーナリスト/作家/活動家が、『ショック・ドクトリン』という本を書いて、そういう概念を打ち出した。岩波書店から邦訳が出てますが。
 オリンピックは災害じゃないけど(コロナ禍の下での強行開催は、じっさいにはほぼ人災ですけども)、まあ同じことですね。あの超巨大イベントを通じて、莫大な予算(血税)をいかに中抜き(ピンハネ)するか、という大テーマに政治家(国会議員と知事をふくむ)・官僚・政商(人材派遣会社・広告代理店その他)たちがひたむきに取り組んだ。その成果がアレだったわけですよ。
 まえに経済思想家・斎藤幸平氏の「祝賀資本主義」というコンセプトを紹介したけれど、これはべつに斎藤さんだけじゃなく、いろんな方がいってますね。元ネタはジュールズ・ボイコフ氏の『オリンピック秘史 120年の覇権と利権』(邦訳は早川書房)のようだけど。
 「惨事便乗」と「祝賀便乗」、このふたつ、構造としては一緒なんだよね。惨事(災害)は恐怖と不安とをもたらし、祝賀は高揚と歓喜とをもたらす。どちらも非日常って点では同じ。つまり、大衆が平常心を保ってられない状態。しかも法が整備されてないから、手続き上、穴がいっぱい空いてるのね。そこにつけこんで好き放題やり散らかすわけだ。帳簿も書類もぜんぶ隠匿、ないしは破棄しちゃってね。
 大多数の国民がそのことに対して怒らない、というよりも、その仕組みにさえまるで気づいていない、という点がほとほと恐ろしくて、ほとんど慄然とさせられるんだけど、なんだろう、やっぱり、「お上のなさることに間違いなんぞあるわけがねえ。お上に物申すなんざもってのほかだ!」という信仰に縋りつきたい人がそれだけ多いってことかねえ。民主国家じゃないんだよなあ。「欧米か!」ってギャグが昔あったけど、「江戸か!」と言ってみたい気分だね。
 まあ、オリンピックに関しては、マスコミの責任も重大だけどね。テレビしか観てない層は、そりゃ疑いなんか持ちませんよね。朝から晩まで五輪五輪ってやってんだから。
 平時ならそれでもよかったんだよ。ぼくはもともと五輪反対だけど、平時だったらここまで言わない。五輪をやったら感染拡大してえらいことになるのは小学生にだってわかる。それを無理やり強行したんだから、批判しないほうがおかしいでしょう。それをマスコミと国民が一緒んなってキャーキャーキャーキャー大騒ぎして、何やってんだって話なんですよ。
 テレビがあんなぐあいになっちゃったのは、第二次安倍政権の7年8ヶ月のあいだに抱き込まれたってこともあるけど(ちなみにそういった工作を担当したのは主に菅義偉氏だといわれています。実務能力は乏しいけれど、その手の裏工作には長けているタイプはどんな時代にもおりますが、そういう人が出世したり、あまつさえトップに立ってしまう国というのはとうぜん遠からぬうちに衰亡します)、それより何より、テレビをはじめマスメディア自体がそもそも「受益者」の側なんだよね。
 もはやテレビ業界も広告代理店も似たようなもんだけど、幹部がおおかた大物の二世三世とか縁故だったりするわけですよ。いうところの「第4の権力」までもが体制側になっちゃってる。それでどこまで公正な報道が期待できるんですかと。
 小泉=竹中政権が始まって間もない頃、橘玲(たちばな・れい)という経済や金融に詳しい作家が『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』という本を出したんだよね。で、その冒頭に、


「日本は、黄金の羽根を撒きながら堕ちていく天使に似ている。黄金の羽根は、国家、株式市場、不動産市場など経済活動をともなうすべての場所に落ちている。」


 という印象的なフレーズがあった。
 ……だから、その「黄金の羽根」の拾い集め方を指南しますよ、という本だったんだけど、あれからほぼ20年を経て、今やもう、「すでに地上が目に入るところまで落下してきた天使に、合法的なならず者どもが寄ってたかって襲い掛かり、手当たり次第にその黄金の羽根を毟り取っている。」といった様相を呈してますね。
 橘さんが言ってた頃の「天使の墜落(日本の凋落)」とはもっぱら経済のことだったんだけど、2011(平成23)年の東北大震災およびフクシマの原発事故で、なんだか「底が抜けちゃった。」感がありますね。コロナはその追い打ちで、いまは二番底が抜けたというか、「まだ底があったのか……」という感じなんだけども……。
 これは21世紀の日本式新自由主義のなれの果てではあるけれど、いっぽう、たんに「戦前」に回帰しただけとも言えるんですよ。それは前に紹介した白井聡氏の『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)にもかかわってくる話だけれども、大雑把にいって、明治この方敗戦まで、日本の社会ってのはそんな按配でした。とにかく「カネ持ってる奴が偉い。」ってんで、民衆の人権なんて吹けば飛ぶようなもんだった。なにも戦時中だけ人の命が軽かったわけじゃないんだよ。
 私は昨年(2020)の12月に「『社会主義』はなぜ危険なのか?」という3回シリーズの記事を書いて、いやもちろん社会主義は危険極まりないんだけども、『』で括ったことからもわかるとおり、それはソ連≒中国型の暴力革命によって成立した『社会主義』のことであって、政治用語としての社会主義の理念であるとか、あるいはまた、運動としての社会主義そのものを全否定しているわけではない。ニッポンの情況がここまでおかしくなってくると、均衡を保つために、今はかえって「社会主義の理念」とか「運動としての社会主義」などの意義を強調しなくてはいけないのかなあと思っています。何事も中庸がたいせつなのであって、政治面でも経済面でも、左右いずれかに極端に振り切れるのは禁物なわけです。



21.08.16 おぼえがき 文学は実学である。

2021-08-16 | 純文学って何?
 Twitterを見ていたら面白かったので、とりあえずまとめてみました。ひさびさに「純文学って何?」カテゴリの記事ですよ。
 ぼく自身の意見はまた後日。




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もう二度と「文学の時代」は戻らない……だからこそ文章を書く人に求められること
著者は語る 『文学は実学である』(荒川洋治 著)
https://bunshun.jp/articles/-/41688





著者(荒川さん)のことばの一部を抜粋


「文学部を出た人は、歩いていても、わかります。ぼんやりしている。文学部、文科系の人は、いつも、漠然と、人間について考えつづけてきた、というところがあります。つまり、〈人間〉の研究をしているんですね。いまは、これまでの方法では、解決できない問題が多い。社会が壁にぶつかったとき、いざというとき、文科系の人は、人間性にもとづく、いい判断ができ、大切な、必要なはたらきをすることがあります。人間についての総合的な認識や感性をもつことが大切で、文学が『実学』である、というのは、その側面をとらえてのことです。この『実学』は、文学ではないものに求めることもできます。言葉を身体の中で作用させなければならないから、音楽では担えないんです。そういう意味では、哲学・思想にも頑張ってもらいたいですね。」


「いろんなメディアが発達したこともあるし、読書は、他人が書いたものを読むという行為ですよね。でも今の人は、他人に興味がない。自己愛が強くなったのか、あるいは逆に、小さくなったのかもしれない。本来の健全な自己愛の構造は、まず自分があって、そこから親の世代への興味、祖父母の世代の興味へと遡り、過去との繋がりに学んでいくんです。文学はほとんどが、過去を書くものです。でも今は、世代が断絶していて、過去に学ぶこともなくなっています。」


「文学が偉くなくなったからこそ、〈文学とは何か〉という根本的で、本質的なことが問われる、試されている時代だと思います。だからこそ面白いし、やりがいがあります。また、時代の先行きが見えなくなると、人は自分自身に立ち戻ります。そういう点で、文学は多少持ち直している気がします。ただ、もう二度と、いわゆる文学の時代は戻ってこないでしょう。ところが、そんなことは関係なく、文学は消えずに存在しつづけるとも思います。」




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Twitterより




小説創作で学ぶ 文章の技術(文芸社 通信講座)
@writeinprose
7月2日
「この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである」(荒川洋治「文学は実学である」)




あいすカフェオレ@意識低い系読書
@cafeaulaitice
6月12日
『文学は実学である』荒川洋治
情報過多の時代、文学の力を侮ってはいけないと思いますよ。
“ 一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分の中に何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさに言えば何か「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。”




Pan Traductia
@PTraductia
7月30日
この一年ほど、政治家がかかわる問題や事件を見て思うのは、想像力の乏しい人が多いこと。たぶん、文学とは縁遠いんだろうな。文学は実学ですよ。仮定の問題にも答えられる思考力も、失言を防ぎ誤解されないようにする言語力も養える。




星野直彦@まぶしい社長
@HoshinoNaohiko
8月6日
文学は実学であるとは、まさに至言。虚言などではないし、実際には全ての学問は実学であると言っても過言ではない。
此処にあるように、想像力喚起の出来ない人間が問題解決に当たることの危険性は高いと言うこと。




Pan Traductia
@PTraductia
7月31日
若い頃に文学に接するのはごく自然なことなので考えに入れなくていい。いつまで、どこまで、という話。たとえば、イギリスの19世紀以降からだけでも、公務の傍ら詩人や劇作家として活躍した閣僚を数え上げていくと、結構な数になる。明治以降の日本ではどうか。調べると面白いことだろう。


Pan Traductia
@PTraductia
7月31日
例示しやすいので文学と書いたが、表現活動全般と考えてもらえれば。美術、映画、アニメ、音楽、演劇、漫画、いずれも入る。接しているか、好きかどうか、というだけの浅い話をしてもいない。


Pan Traductia
@PTraductia
7月31日
「文学が実学であるか」ではなく「その人が文学を実学として扱えるか」という、個々人の問題。政治家に限定せず。




Pan Traductia
@PTraductia
8月13日
前に「文学は実学」と言ったが、実学という言葉では伝わりづらいなら、基礎工事と言ってみよう。個人が個人であるための、そして、個人と個人がつながって社会を築くための。見えないからといって、捨てコンクリートやパイルで手を抜いたら、どんなに美しい外観の建物でも、倒壊します。




nakas17
@nakas171
7月5日
返信先:
@ShinHori1
さん
明治政府はあれだけ富国強兵が急がれている時期に教育の前のめりに走らなかった。アホみたいな実学優先に傾くことなく初等教育を固めることにも力を注いだし、基礎学問や哲学文学が重要なこともわかっていた。現政府の明治礼賛は驚くほど浅薄で無知にあふれている。






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佐藤優BOT
@satoumasaru_bot
7月18日
神学は虚学だと思うんです。神学から見ると理学も、工学も、法学も、文学も、経済学もすべて実学なんです。私は虚学と実学のバランスが取れてはじめて総合知が生まれると思うんです。






学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。
古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。
実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
福沢諭吉『学問のすゝめ』より






勉強たん
@Lets_study_bot
6月9日
「知識は重要だが、有用でなければならない」とはマサチューセッツ工科大学に息づく伝統のこと。ここから実学、すなわち成果の見やすい工学や医学と成果の見にくい虚学、文学や天文学との対比が見て取れるわね。実学を重視する人も多いけど、虚学という土台のもとに成立している以上、どちらも重要よ。





逢坂誠二 立憲民主党
@seiji_ohsaka
文化芸術を大切にすべきと考えるのは、目先の利益や損得だけでは得られない、それが人の心を豊かにし、他者を尊重し意思疎通を図り、創造力や感性を育むための糧となり、人間に不可欠なものだからです。ゆとり、思いやり、優しさ、慈しみなど、今だけ自分だけ金だけの世の中だからこそ必要なことです。