ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

リベラリズムについて ②

2019-02-18 | 哲学/思想/社会学
 「あの人はリベラルだよね」という言い方を、若いころ、何度かした覚えがある。もっぱら年配のひとに対してだ。「頑迷ではなく、話のわかる人。こちらを公正に扱ってくれる人」といったくらいのつもりであった。むろん好意的な評価だ。前回の記事の末尾で、あえてそんな使い方を試してみたけど。
 しかし、じつは「リベラル」には、はるかに政治的な含意がある。さいきんの話だが、池上彰は、テレビの啓蒙番組で、「リベラルって、左翼と呼ばれるのが嫌な人たちが隠れ蓑としてそう自称してるんですよ」とまで言ったらしい。
 いくら大衆向けに噛みくだいたにせよ、これはさすがにシンプルすぎたんじゃないか。なんでもかんでもわかりやすくすりゃいいってもんじゃない。
 好感をもてる年配者を「リベラル」と評したさい、ぼくが念頭においていたのは、「オールド・リベラリスト」という言い回しだった。
 ネットをあたると、
 ①第二次世界大戦後に、戦前の自由主義者を指して呼んだ。「もう古くて現代には通用しない」というニュアンスをふくむ。
 とあって、
 武田泰淳の『風媒花』(1952=昭和27)から、「ぼくもこれでオオルドリベラリストの一人だ。」
 という用例があげられている。
 ぼくの記憶では、大藪春彦『野獣死すべし』(1958=昭和33)のなかにも、伊達邦彦が亡くなった父を回顧して「インテリで優しいオールド・リベラストだった」と評するくだりがあった。
 また、②戦前に欧米滞在の経験をもち、欧米リベラリズムの洗礼を受け、親米的・親英的な立ち位置に基づいていた人たち。もっとわかりやすく言えば、大正デモクラシーの体現者。
 という定義づけもある。より詳しいけど、限定しすぎているかもしれない。べつに大正デモクラシーの体現者みんなが欧米滞在の経験をもってたわけじゃないからだ。しかしまあ、こうやって2つの定義を並べれば、ニュアンスは十分に伝わる
 もちろん、ぼくの「若いころ」ってのはバブル時代のことで、時代が違う。「戦前の自由主義者」や「大正デモクラシーの体現者」になんて、お目にかかったことはない。あの頃の「年配者」といえば、「団塊の世代」の少し上あたりである。つまりは誤用してたわけだけど、ま、ニュアンスだからね。
 ちなみに村上龍が、この「オールド・リベラスト」というコトバをもじって『オールド・テロリスト』(文春文庫)というタイトルの小説を発表してる。龍さんらしい痛烈な皮肉だ。
 さて。池上さんが「要するに、それってぜんぶサヨクのことよ」と言ってのけた「リベラル」は、むろんこの「オールド・リベラスト」じゃない。もっとずっと新しくて、戦後の一時期どころか、まさにいま現在の政治用語である。
 ぼくは当の番組をみてないので、池上さんがどこまで説明したかはわからないのだが、いま「リベラル」と呼ばれたり、自称したりしているのは、昔なら「革新」もしくは「進歩派」と称されて(称して)いた人たちだ。
 「昔」とは、1955年から90年代初頭までだ。たいそう明確なのである。すなわち、「自民党」(与党)と「社会党」(反対野党)による「55年体制」がはじまってから、海の向こうでソ連が解体されるまでの期間だ。
 そのあいだ、日本においては「リベラル」なる語は政治用語(概念)として流通してはいなかった。
 使われてたのは、日本の「宗主国」であるアメリカにおいてだ。「保守」を掲げる共和党に対して、アメリカの民主党が、自分たちの政治的な姿勢を「リベラル」と標榜していたのである。
 しかしこれが、話をややこしくする元だった。
 アメリカ民主党のいう「リベラル」は、「社会的な公正さや多様性を重視する」姿勢だ。
 そんな言い方では生ぬるいとばかりに、副島隆彦さんは『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』(2004年。講談社+α文庫。キワモノっぽいが有益な本だ)の下巻144ページで、
「福祉優先の弱者救済主義」
とまでいっている。ただこれは、かなり極端な言い方で、ぼくには必ずしも正確と思えない。
 しかし、大企業よりは一般庶民に、強者よりは弱者に、というスタンスを取っているのは間違いない。
 しかるにそれは、西欧において確立した「リベラリズム」とは違うのだ。本来のリベラリズムとは、文字どおり「自由主義」であり、国や政府はオレたちを束縛するんじゃねえよ、という思想なのである。
 オレたちはオレたちで好きにする。だから税金なんか取るんじゃねえ。その代わり、オレたちもお上には多くを期待しない。手厚い社会保障なんぞ求めない。ただ国防だけはちゃんとやってくれ。それでいい。あとは、お互い勝手にやっていこうぜ。
 そんな考え方なのだ。
 だから「リベラリズム」に「新」をつけた「新自由主義」が、「弱肉強食の市場原理」をモットーとする「主義」になるのは当然なのだ。こちらのほうが正しい「リベラリズム」の使い方である。
 むろん「弱者」がどうなってもいい、とまで乱暴なことはいわないが、そういった福祉事業は、お上ではなく、経済的に恵まれた者たちが自主的に行うべきだ、と考える。自主的に、というところが肝要なのだ。
 そういう考えを持った人たちは、変質した「リベラル」という用語を避けて、自分たちのことを「リバタリアン」と称した。
 日本の「革新」「進歩派」が採用したのは、本来の西欧型ではない、アメリカ型の変質したリベラリズムだ。
 西欧近代にうまれた「リベラリズム」が、海を渡ったアメリカ政治の潮流の中で別の意味合いを担わされ、さらにそれを、91年のソ連解体いこう、日本の「革新」「進歩派」が取り込んで、自らの「主義」をさす呼称とした。そういうことになる。
 そもそも「革新」とは、資本主義体制を革めて社会主義体制へと刷新しようという意味で、「進歩派」とは、資本主義体制が行き詰ったあとには社会主義体制に移行するんだから、そちらに向かって進歩しようという意味だった。
 「いずれ社会主義になる」のを前提としてるんである。
 だから、「向かうべき未来」としての「社会主義」なんてものが蜃気楼のように潰えてしまえば、「革新」も「進歩」もあったもんじゃない。といって、今さら「保守」に宗旨がえもできない(した人もいたとは思うけど)。そこで、より適切な呼称をもとめて、「リベラル」を採用したわけだ。
 池上さん、そこまでちゃんと話したのかな。そりゃあまあ「右」か「左」かでいえば「左」で誤りじゃないだろうが、粗すぎる。「社会主義」が嫌いでも、たとえば婚姻にまつわる制度的自由を求める人たちはいて、そんな人たちだって、この日本では広義の「リベラル」に分類されるからである。
 もうひとつ、現代政治運動史のトピックとして付言しておくと、かつて60年代から70年代初頭に「学生運動」を担った「新左翼」の人たちは、既成の「革新」や「進歩派」の学者や文化人たちと手を結ぶどころか、強く批判し、その乗り越えを叫んでいた。一口に「左翼」ったって多様なんである。
 ただ総じて共通するのは、当たり前っちゃ当たり前だが、「反体制」という点だろう。いまの体制に、なんらかのかたちで異議申し立てをする。「そういうものをサヨクと呼ぶんだ」と池上さんがその番組の中で想定していたのなら、それはまあ、「日本のリベラル=左翼」とはいえるが。
 ただ、「反体制」は、あくまでも「ポジション」「態度」であって「思想」「理論」ではない。たんに与党が示す政策に反対ばかり貫いていても建設的な提言はできない。
 問題は、「社会主義の理論」、もっとはっきりいえば「マルクシズム」が人類史レベルで失効しちゃったあとに、「日本のリベラル」の皆さんが、政治哲学としての「リベラリズム」を、この国に即した理論体系として、きちんと整備しなかった/できなかったことだ。
 ジョン・ロールズをうみ、その『正義論』が出てから50年近くのあいだに、様々なグラデーションの政治理論を発展・精緻化させたアメリカとは、そこのところが大きく違う。
 もういちど、前回の記事で紹介した仲正さんの一文を引こう。


「(……前略……)少なくとも当面は、社会主義のようなオールタナティブな体制をいきなり打ち立てようとするラディカル思想が非現実的であることを認めざるを得ない以上、自由主義あるいは資本主義社会の存続を前提にしたうえで、可能な限りの改善、社会的公正の確保を求めるしかない。そこで、アメリカの「リベラリズム」系の議論が、マルクス主義ほど人を熱狂させるものではないにせよ、現実的な社会変革を目指す思想(原文ここゴチック)として、今さらのように注目されることになったのである。」

 どこまでも「アメリカの現代思想を学んでいる」段階なのだ。日本という国は、それこそ明治この方「翻訳大国」と称されているが、それは喜んでばかりはいられぬ話で、自前の理論を打ち立てる人がいないってことの裏返しなんである。理論そのものが脆弱だから、もちろん、じっさいに政治に携わる為政者のほうも、筋の通った理念を持ち合わせていない。
 2010年にサンデル教授が脚光を浴びたが、率直にいって、あれも一過性のブームだったとしか言いようがない。あれから9年、グローバリズムと格差拡大の進行のなかで、なし崩し的に新自由主義(ネオリベラリズム)政策をつづける政権与党への対立軸は、いっこうに見いだせぬままだ。
 あ。もちろんぼくは「リベラル」ではないので、「福祉」や「平等」をやみくもに重んじる立場からネオリベを嫌ってるわけではない。ネオリベ至上でやってると、今まさに自民党が行っているとおり、少子化が進み日本人が減って、大量に移民を入れざるを得なくなるからだ。あくまでも「右」のほうから申し上げてるんである。
 ぼくなんかのばあい、「日本という共同体」の維持・存続を優先する「ナショナリスティック・コミュニタリアン」とでもなるのだろうか。『正義とは何か』(中公新書)をつぶさに読んでも、ぼくみたいな立場にぴったり当てはまる分類項目はないようだ。そんなに特殊なことを言ってるかなあ。多数派じゃないかもしれないが、わりとふつうの感覚じゃないかとも思ってるのだが。
 まあ、もともと移民で成り立っているアメリカと、この日本とでは、「国のかたち」自体がまるで異なるのだが。
 だけどほんとにこのニッポンで、「自前の(使える)政治理論」なんてものを打ち立てる(とりあえずは「仮設する」でいいが)つもりなら、経済学まで含めた幅広い知識が不可欠だろうな。いずれにしてもたいへんな話であるのは間違いない。



リベラリズムについて ①

2019-02-16 | 哲学/思想/社会学


 仲正昌樹さんの『集中講義! アメリカ現代思想』(NHKブックス)は、『集中講義! 日本の現代思想』(同)とならんで、たいへんお世話になった本である。いや過去形じゃなく、いまでもたびたび読み返す。
 あ。ついでにいうと、この『集中講義! 日本の現代思想』と、佐々木敦さんの『ニッポンの思想』(講談社現代新書)の2冊を読めば、平成生まれの若い人にも、80年代バブル期からゼロ年代初頭くらいまでのニッポンの「現代思想」かいわいのことがよくわかる。
 ポストモダンだのポスト構造主義だの、その手のややこしそうなアレについても分かる。べつにそんなもん分からいでええわ、と思われるかもしれないが、けっこう今に繋がってるんで、知っといて損はないです。
 しかし本日はそっちじゃなくて、アメリカのほうの「現代思想」の話である。
 前回とりあげたロールズの『正義論』がアメリカで出版されたのは1971(昭和46)年。アポロ14号が月に着陸した年だ。いっぽう、ベトナム戦争は泥沼の様相を呈していた。理論書だから、そんなトピックをじかに扱ってるわけではないが、そういう時代背景のもとで出た本なのだ。
 日本では1979年に翻訳が出たが、さほど話題になったわけでもないし、80年代にも、とくに注目されなかった。ニッポンの80年代思想と言やあ、それこそフーコー、ドゥルーズ、デリダを筆頭とするフランス思想がもろクローズアップされてた時期だ。火付け役は浅田彰さん。しかしこのころ、それらの人たちの主著がきちんと翻訳されてたわけじゃなく、お世辞にも、まともな受容とは言いがたかった。
 「バブルに浮かれた空騒ぎ」の一つとまで言ってしまったら貶しすぎだけど、あの流行によってニッポンの知的風土が豊穣かつ緻密になったとは思えない。本当にそうなってたんなら、95年のオウム事件は起こるはずがない。
 ちなみにぼくはその頃、フランスの現代思想は「なんか肌に合わんぞ……」と思い(いやまあ、べつにきちんと理解できてたわけじゃないのだが)、ドイツの「フランクフルト学派」ってえグループのほうを向いていた。哲学だの思想だのが好きな学生の中には、そういうタイプも一定の割でいた。
 なにを申し上げたいかというと、とりあえず80年代には「現代思想」っつったらまず「ヨーロッパ」だったってことである。それもイギリスじゃない、大陸のがわだ。
 ブダペスト出身のカール・ポランニーの専門家として売り出した栗本慎一郎みたいな人もいたけれど、そのポランニーとてウィーンで生まれてブダペストで育った経済人類学者、すなわちほぼ東欧圏とはいえ「ヨーロッパ」のひとだ。
 イギリスや、ましてアメリカの「現代思想」なんて、まるで知的トレンドじゃなかった。
 がぜん風向きが変わったのは、やはり89年のベルリンの壁崩壊、つづく91年のソ連解体によってである。
 そのずっと前から、「ソ連とか東欧とか、社会主義(国)てのはとんでもねえ。どうしようもない。終わってる」なんてこと、みんなとっくに分かってたのに、その時になっていきなり慌てだしたのだ。うかつなようだが、それくらい、「冷戦構造」ってものが体に染みついちゃっていた。
 もちろん「フランス現代思想」の面々にしても、「フランクフルト学派」にしても、そりゃ「左派」ではあるけどマルクスを信奉しているわけでもないし、べつに社会主義者でもない。だから生粋のマルクス主義者ならともかく、これら「ヨーロッパ現代思想」に依拠していたニッポンの学者たちは、べつに冷戦構造がパラダイム・シフトしたからって、そんなに慌てることはなかったはずだ。本来ならばね。
 だが、「資本主義」のアンチテーゼとしての「社会主義」の可能性があからさまにぶっ潰れて、「市場原理」だけが幅を利かせるグローバル経済の真っただ中にぼーんと放り出されてみると、フーコー、ドゥルーズ、デリダにせよ、フランクフルト学派にせよ、「あれ? いやいや。よう見たら、これってあんまり役に立たんのとちゃうん?」ってことに気づいちゃったわけである。
 つまり、それらの思想ってのものは、現状の問題点を剔抉(てっけつ)する「批判理論」としてはむちゃ鋭い。しかし、「新しいパラダイムの中でどのような社会を形成していくか?」という点については弱かったのである。

 このあたりのことを仲正さんは、『集中講義! アメリカ現代思想』の26ページでこう述べている。

「(……前略……)少なくとも当面は、社会主義のようなオールタナティブな体制をいきなり打ち立てようとするラディカル思想が非現実的であることを認めざるを得ない以上、自由主義あるいは資本主義社会の存続を前提にしたうえで、可能な限りの改善、社会的公正の確保を求めるしかない。そこで、アメリカの「リベラリズム」系の議論が、マルクス主義ほど人を熱狂させるものではないにせよ、現実的な社会変革を目指す思想(原文ここゴチック)として、今さらのように注目されることになったのである。」


 というわけで、『集中講義! アメリカ現代思想』は、ロールズを中心に、その「アメリカのリベラリズム思想」をていねいに解説していく本だ。そこから「リバタリアニズム」と「コミュニタリアニズム」とが派生し、「三つ巴」となって絡み合う。2010年に「ハーバード白熱教室」で日本でもブームを巻き起こしたマイケル・サンデル教授は、その「コミュニタリアニズム」の旗頭だ。
 原典ともいうべき『正義論』の重要さはいや増すばかりで、2010年には、神島さんを含むお三方の共訳で新しい日本語バージョンもでた。願わくば、値段のほうももう少しリベラル(笑)にしてもらえんかったかと思うわけだが。




『どろろ』2019年アニメ版。

2019-02-09 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 アニメ版としてリメイクされ、この1月から放送中の『どろろ』、いま第五話までだが、かなりの出来栄え。人間と世間と歴史の闇を煮詰めたかのごとき、凄愴かつ重厚、しかも極めて現代的な作品に仕上がっているのだ。
 改めて思い知ったが、これはまた「物語」のもつ闇の部分を煮詰めた作品でもあった。手塚治虫はつくづく天才だ。魔物と契約した父親のため身体の48ヶ所を奪われた姿で産み落とされ(今回のアニメ版では12ヶ所に改変)、すぐに捨てられて川に流される百鬼丸は「貴種流離」の系譜を引いているわけだが、のみならず、ここには記紀神話にみる「蛭子」のイメージまで重ねられているではないか。これはむかし原作を読んだ時には気づかなかった。
 「真の父親」ともいうべき医師・寿海に拾われ、義肢を装着してもらうことで「再生」を果たすところ、さらに魔物たちを倒して奪われた部分を取り戻すべく各地を遍歴するところは、『鋼の錬金術師』をはじめ、たくさんの後継作にインスピレーションを与えている。
 いっぽうの主人公たるどろろは、まだ性的に未分化で、かのアトムとも、さらにいうならサファイア王子とも通底する手塚好みのキャラである。しかし、それが百鬼丸という強烈な個性のバディー(相棒)となることで、ほかの手塚作品にはないふくざつな効果を醸している(近いのはブラックジャックにとってのピノコか)。しかも彼女(なんだよね)は、「戦災孤児」でもあるのだ。
 野心に燃える父・醍醐景光には「マクベス」のニオイがするし、母親の情愛を除くすべてのものに恵まれた弟・多宝丸との葛藤は(アニメ版ではまだそこまで話は進んでないが)、これまたどこの神話/民話にもみられる「兄弟相克」のパターンである。この点、高橋留美子の『犬夜叉』も、「後継作」のリストに加えてよいかと思う。
 さらにアニメ版では、「六部殺し(まれびと殺し)」や、「母性的なるもののもつ二面性」、さらには「生きるための売春」など、業の深いモティーフがたっぷりと盛り込まれていた。また原作とは異なり、百鬼丸は身体の各部を取り戻すたびに「痛み」を知って「弱く」なる。あたかも嬰児からまた生をやり直すかのような按配なのである。人工知能が「心」を育てていくかのように。
 ただし、その「成長」は、穏やかな日常の中でなされるわけではない。彼とどろろは、常に周囲を夥しい外敵に取り巻かれているのだ。
 「物語」とは人間にとって不可欠なものだが、けして明るく楽しいだけではない。むしろ、「闇」の奥底から這い出るようにして生成されてしまうものなのかもしれない。そんなことまで考えさせられる、ストレスフルだが目の離せないアニメなのである。


この記事の続き。


2019年版アニメ『どろろ』再説。
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/8f9ae935a32b93dc8245d240539c50aa









新装版『限りなく透明に近いブルー』を読む。

2019-02-02 | 純文学って何?

 『限りなく透明に近いブルー』を再読する。再読というか、20代このかた限りなく読み返しているので正確には何度めか判然せぬが。ただし今回は2009年に出た新装版。解説が三浦雅士(なぜか名義は今井裕康だったが)から綿矢りさになり、「年譜」が割愛され、表紙がかわっている。



旧版の表紙。単行本とほぼ同じ。武蔵野美大中退の龍さんが自ら描いた。あとがきによると、リリーをモデルにしたものらしいが、お世辞にもうまいとは言い難い。そもそもあの「あとがき」自体がフェイクなわけだが、刊行から50年近くが過ぎた今もなお、純朴な青少年たちがころころと転がされてるようだ



この表紙の版もある。これも龍さん自身が監督した映画版のワンシーンから取ったもの。ぼくが17のとき買ってずっと手元に置いてたのはこの版だ





これが新装版。べつに限りなく透明に近くはない。ただのブルーである





 龍さんの自筆になる年譜はなかなか面白かったんで、これがなくなったのは惜しいが、総じていえば、一冊の本としてはずっと良くなった。何よりも字体がいい。むかしの講談社文庫は活字がわるかった。小さいし、組み方もまずく、堅苦しい。
 べつの小説に生まれ変わったようにさえ映る。
 いい小説だ。純文学のことしかアタマになかった頃とは違い、マンガやアニメを見まくって、「物語」についてあれこれと思いめぐらせた今なればこそ、この小説の良さがわかる。ひとことでいって、面白いのである。
 1976(昭和51)年に発表され(て一世を風靡し)た『限りなく透明に近いブルー』は、中上健次の短編「灰色のコカコーラ」を先行作品としてもつ。「灰色のコカコーラ」とは、クスリ(錠剤)を溶かして変な色になったコカコーラのことだ。この短編は集英社文庫『鳩どもの家』に収録されていて、その解説を龍さんが書いてるのだが、「ブルー」が今もなお熱く読み継がれてるのに対し、『鳩どもの家』はとっくの昔に絶版である。面白くないからだ。
(とはいえ佐藤友哉さんに『灰色のダイエットコカコーラ』なるオマージュ作があり、こちらは今も新刊で売っている。)
 「灰色」と「ブルー」とを読み比べれば、村上龍という作家が、デビュー当初から「いかに書けば読み手を面白がらせることができるか」にとても気を使ってたのがわかる。
 田舎から上京してフーテンをやってる若者の生態って点では同じだけど、ブルーが横田基地周辺に材をとり、セックス&ドラッグ&ロケンロール&黒人兵(政治的に正しくいえば「アフリカ系アメリカ人兵士」)たちとの乱交パーティー。なんて美味しいネタをこってり詰め込んできてるのに対し、灰色のほうは、新宿のジャズ喫茶で政治くずれや文学かぶれがうだうだクダを巻いてるだけ。BGMもジャズである。ンなもん、面白くなるわきゃない。
 戦後生まれ初の芥川賞作家・中上健次は、6歳下の村上龍の登場により、「これではとても敵わんぞ」となって、紀州の「路地」に作品のトポス(根拠地)を移した。そんな見方もできるはずだ。
 じっさい、東京を舞台にした中上作品はろくでもなくて、『讃歌』(文春文庫版は絶版で、いまは電子書籍化されている)もほとほと詰まらない。
 ただ、ひとたび紀州をトポスに据えれば話は別だ。若き日の健次VS龍の対談集『俺たちの船は、動かぬ霧の中を、纜を解いて』(角川文庫版のタイトルは『ジャズと爆弾』)の巻末に、龍さんの「部屋」と中上さんの「神坐」、ふたつの短編がおまけみたいに付いてるのだが、ここは紀州の神事を題材とした「神坐」の圧勝である。並べてみると「部屋」のペラさが際立って、晒しものにすらみえる。
 しかし、いまの若い子が予備知識なしに読んでどっちを面白がるかっていうと、やっぱ「部屋」のほうかもなって気もする。ペラいってのは、ある面、おシャレってことでもあるのだ。
 『限りなく透明に近いブルー』も、一見すると、どろどろ、ぐちゃぐちゃ、もう腐った泥沼に喉元あたりまでどっぷりですわー、みたいな小説だが、「文学」としてみるならば、きらびやかで、おシャレである。
 「汚辱の果ての生」をくるっと「美」に転じてしまうのが、「文学」ってもののもつ力のひとつなんである(ろくでもない力であり、このために有為な若者に道を誤らせたりもするのだが)。
 そもそも頽廃とか、倦怠とか、それを具現化した「腐敗」やら「廃墟」みたいなものを「美しい」とみる感性を打ち立てたのはボードレール(1821~1867)だった。フランスの詩人、批評家。
 文政4~慶応3だから、日本でいえばまさに幕末だ。
 「近代の美意識をつくった」といってもいいくらいの人で、詩集『惡の華』は入手しやすいものだけで4種類の邦訳がある。直接の関係はないが、同タイトルの漫画(アニメ化もされた)もある。
 散文詩集『巴里の憂鬱』もすばらしい。批評家としても目利きで、美術評論、音楽評論に健筆をふるった。
 このボードレールの系譜のうえに、ロートレアモン(1846~1870)がいて、ジャン・ジュネ(1910~1986)がいて、バタイユ(1897~1962)がいる。みなフランスの物書きだけど、澁澤龍彦や栗田勇や生田耕作といった人たちの手になる良い邦訳があって、60年代から70年代前半の「政治の季節」には熱狂的に読まれた。ことさら文学青年ってわけじゃなくても、ちょっと尖った若者ならば、「読んでなきゃ恥」ってくらいのモンだった。
 『限りなく透明に近いブルー』もまた、もちろん、直近の中上健次以上に、それらフランス作家(の翻訳)の影響下にある。
 だから「ブルー」を論じるにあたり、まっさきにバタイユやジュネの名が出てこないってことがおかしい。小林秀雄のせいかどうかは知らぬが、どうも、この国の文芸批評はおかしいのである。
 講談社文庫の解説をやってる綿矢りさも書いてない。今の若い子はジュネだバタイユだっつってもピンとこんだろうから、そこは言わなきゃわからんじゃないか。そういうことを前提として確立せんから、「リリーのモデルって誰なんですかー」とか「あのカンブリア宮殿の村上とかいうおっさん、あ、ハルキじゃないほうな、あれって昔、横田基地の傍ですげえことやってたんだぜ」とか、そんな中2レベルの話が、そこらに蔓延しちゃうのだ。
 しかしまあ、それは1984年生まれの綿矢さんのせいだけじゃなく、前の版で解説をやってた1946年生まれの三浦雅士さんも書いてなかった。この小説が大騒ぎになった1976年この方、バタイユ、ジュネの係累として村上龍をきちんと論じたエッセイをぼくは読んだことがない。
 『ジャズと爆弾』のなかで、中上健次はもちろん、そのことにちゃんと言及していたが、それだけでもう、「はい。この件はOKね」みたいに済まされている。おかしい。
 「ブルー」に書かれたもろもろが、どこまで若き村上龍之助(本名)の体験で、どこからが虚構か、そこを解析するのは難しい。だけど、ひとつ間違いなくいえるのは、作家ってものは、自分の体験だけをたよりに作品を書くことなんてありえないってことだ。夏休みの絵日記じゃないんだからね。
 どんな小説にも必ず「先行作品」はある。ジュネ、バタイユ、さらにはロートレアモン、ボードレールを念頭に置かずに『限りなく透明に近いブルー』を読むことは、そりゃあまあ、「何をどう読もうが個人の好き好き」って点では好き好きには違いないけども、「もったいない話だぞ。」とはいえる。
 さて。『限りなく透明に近いブルー』、旧版と新装版との違いがもうひとつあった。文庫カバー裏の(編集者が付けた)コピーだ。

「福生の米軍基地に近い原色の街。いわゆるハウスを舞台に、日常的にくり返される麻薬とセックスの宴。陶酔を求めてうごめく若者、黒人、女たちの、もろくて哀しいきずな。スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂を醒めた感性と詩的イメージとでみごとに描く鮮烈な文学。群像新人賞、芥川賞受賞。」
 これが旧版。

「米軍基地の街・福生のハウスには、音楽に彩られながらドラッグとセックスと嬌声が満ちている。そんな退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく——。著者の原点であり、発表以来ベストセラーとして読み継がれてきた、永遠の文学の金字塔が新装版に! <群像新人賞、芥川賞受賞のデビュー作>」
 これが新装版。

 旧版のだってべつに悪くはないと思うが、「黒人」だの「女たち」だのといった表記が今日の人権感覚では耳ざわりなのか。しかし「もろくて哀しいきずな」とか「スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂を醒めた感性と詩的イメージとで……」といったあたりは的確だった。
 新装版のほう、「ロック」と書きゃあいいのになんで「音楽」なんだ?と思ったが、いちおうジャズも出てくるからかな。妙に律儀である。そんなことより注目すべきは、「退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく」だろう。
 希望。これは旧版のほうにはなかった一語だ。ラストパート、リュウが「夜明けの空気に染ま」ったガラスの欠片に見る「限りなく透明に近いブルー」に「希望」の兆しを読み取っているわけだ。このくだりを導いたのは綿矢りさの「解説」だろう。綿矢さんは「救い」と書いてるけど、このばあいはほぼ同じとみていい。
 綿矢りさの文章は「自分語り」をからめて生々しくてリアルで、じかに身体に響いてくる。旧版解説の今井裕康(三浦雅士)さんが「村上龍が、まさにその文体その方法において、現代というこの奇怪な生き物の核心に迫ったことは明らかだろう。」なんて高みから述べているのと対照的だ。作家と評論家との違いといえる。
 ラス前のパート、リュウは重度のパニック障害みたいな按配となり、さしもの寛大なリリーにまで逃げ出されてしまうのだが、綿矢さんはその理由を、「彼もまた傷ついている。すべてを見尽くしたあと、彼は狂ったように苦しむ。」と書く。
 さらにそれを敷衍して、「ひどい私刑が起こっても、女友達が暴力を振るわれてもリュウは見てるだけ、助けもしない。でも彼は実際は赤ん坊ではなく目の前で起こっていることを理解しているから、無言のうちに目の前の光景を身体のなかに通し、その度に傷ついている。電子レンジの光を浴びているみたいに、表面的にはなんの変化が無くても中から熱くなり破裂する。」と続ける。
 臨界点を超えた、という感じであろうか。
 そのあげくに例の「大きな黒い鳥」を視てしまうわけである。
 この解釈は、ぼくがこの小説を初めて読んだ17の頃からずっと思い込んでたのよりも深くて、さすがだと思った。
 ぼくはたんに、「仲間たちとの蜜月が終わって寂しかったせいだろう」と思っていたのだ。それも間違いではないが、リュウが「見る」という行為にあそこまで拘っているのを鑑みれば、そりゃあ綿矢さんの読みのほうが深い。
 136ページ、ケイとヨシヤマ、レイ子とオキナワ、モコ、カズオ(この2人だけはカップルではない)たちが、「みんな帰っていっ」て、リュウは独りになる。
 ちなみに、この中で、それぞれの母親と父親について繰り返し言及されるのはケイとヨシヤマだけである。2人は作中に現れた時からもうギクシャクしているが、そのきっかけとなったのもヨシヤマの母の葬儀(にケイが参列させて貰えなかったこと)だった。
 レイ子とオキナワは、当時まだアメリカ領だった沖縄県の出身で、それにまつわる挿話もいくつか出てくる。
 ケイとレイ子は日本人の母とアメリカ人の父をもつが、モコはちがう。のみならず、どうやら中産家庭の子女のようだ。リュウ自身およびモコ、カズオの3人は、そんなに逼迫した出自にはみえない。
(リュウがどうやって生計を立てているのかは、じつはよくわからない。巧妙にぼかされている。リリーに養って貰っているわけでもなさそうなので、たぶん親からの仕送りに頼っているのだろう。そう考えると少し笑ってしまう。)
 そういった各々のキャラが、むろん事細かにではないが、ちゃんと描き分けられている。
 内容のどぎつさや、全編を彩る詩的イメージや、基地問題(日米関係)といった要素に紛れてなおざりにされてきたけれど、『限りなく透明に近いブルー』はきっちりそういった人物造形をやってる小説であり、のちの「純文学系・物語作家(エンターテイナー)」村上龍は、デビュー当初からその片鱗をみせていたのである。
 ともあれ、あそこまで無軌道な暮らしが何年も続くわきゃないので、破綻するのは時間の問題だったんだけど、ケイとの大喧嘩(というか一方的なDV)のあと、ヨシヤマは自殺を図り、入院し、一命は取り留めて戻ってきたものの、ここで7人の関係は修復不能の域に達したといえる。
 でたらめなりに一定の親密さを保っていた空気は、どうしようもなく冷めていき、険悪さすら帯びる。
 そして「みんな帰っていっ」て、独りになったリュウはリリーの部屋を訪れる。優しいリリーはいつものように迎え入れてくれるが、リュウがあまりにも異常な態度をとるもんで、怖くなって逃げ出してしまう。
 「血を縁に残した(リュウ自身の血である)」ガラスの破片に、「夜明けの空気に染ま」った「限りなく透明に近いブルー」をリュウが見るのは、リリーを失い、ふらふらと外に彷徨い出て、「病院の庭」の草のうえまで辿り着いたあとだ。
 それを「救いの色」と綿矢りさはいい、文庫裏のコピーもその意を汲んで「希望がきらめく」とうたった。2009年の新装版・解説において綿矢さんがそう書き記すまで、「限りなく透明に近いブルー」が「救いの色」「きらめく希望」だと明言した批評はなかった。これも奇妙な話である。奇妙な話である、と私は思う。
 かつて中上健次は、つねに路上に屯する「フーテン」こそが、家の中やクルマの中に居てはわからぬ「微細な色調の変化」を感じ取ることができるんだよな、とこのくだりを評したものだ。
 しかしもちろん、「救い」といい「希望」とはいっても、それは一瞬のできごとにすぎない。まるで錯覚か、一時の気の迷いとしか思えぬほどに。
 「空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしま」うのである。
 とはいえ、「僕は地面にしゃがみ、鳥を待った。」と書かれる「鳥」はもう、あの「大きな黒い鳥」ではない。いずれ暖かい日の下で、「長く伸びた僕の影」に(腐れたパイナップルの切れ端もろとも)包まれるていどの、「灰色の」鳥なのだ。
 青春の一局面の終わりと共に、リュウは、襲来してくる得体のしれない巨大な不安を、ひとまずは「対象化」できたのだった。


☆☆☆☆☆☆☆
参考資料

サイト「芥川賞のすべて・のようなもの」より、当時の芥川龍之介賞選考委員の選評を引用。

吉行淳之介(当時52歳)
「この数年のこの賞の候補作の中で、その資質は群を抜いており、一方作品が中途半端な評価しかできないので、困った。」「どこを切っても同じ味がする上にやたら長く、半ばごろの「自分の中の都市」という理窟のような部分に行き当って、一たん読むのをやめた。」「作品の退屈さには目をつむって、抜群の資質に票を投じた。この人の今後のマスコミとのかかわり合いを考えると不安になって、「因果なことに才能がある」とおもうが、そこをなんとか切り抜けてもらいたい。」

丹羽文雄(当時71歳)
「芥川賞の銓衡委員をつとめるようになって三十七回目になるが、これほどとらまえどころのない小説にめぐりあったことはなかった。それでいてこの小説の魅力を強烈に感じた。」「若々しくて、さばさばとしていて、やさしくて、いくらかもろい感じのするのも、この作者生得の抒情性のせいであろう。」「二十代の若さでなければ書けない小説である。」

中村光夫(当時65歳)
「他の六篇とはっきり異質の作品」「技巧的な出来栄えから見れば、他の候補作の大部分に劣るといってもよいのですが、その底に、本人にも手に負えぬ才能の汎濫が感じられ、この卑陋な素材の小説に、ほとんど爽かな読後感をあたえます。」「無意識の独創は新人の魅力であり、それに脱帽するのが選者の礼儀でしょう。」

井上靖(当時69歳)
「私は(引用者中略)推した。芥川賞の銓衡に於て、作者の資質というものを感じさせられる久々の作品だったと思う。」「所々に顔を出す幼さも、古さも、甘さも、この作品ではよく働いていて、全篇をうっすらと哀しみのようなものが流れているのもいい。」「題材が題材だけに、当然肯定もあり、否定もあると思う。肯定と否定とを計りにかけ、その上でどちらかに決めさせられるような作品である。そういう点も、この作品の持つよさとすべきであろう。」

永井龍男(当時72歳)
「これを迎えるジャーナリズムの過熱状態が果してこの新人の成長にプラスするか否か、(引用者中略)群像新人賞というふさわしい賞をすでに得ている、次作を待って賞をおくっても決して遅くはないと思った。まさに老婆心というところであろう。」

瀧井孝作(当時82歳)
「アメリカ軍の基地に近い酒場の女たち、麻薬常習の仲間たちのたわいのない、水の泡のような日常を描いたもの、と私はみた。この若い人の野放図の奔放な才気は一応認めるが……。」「私はこの人の尚洗練された第二作第三作をまちたかった。」

安岡章太郎(当時56歳)
「印象にのこった。」「候補に上る以前から、それこそ「はしゃぎ過ぎ」の感があるほど話題になった作品であるが、内容に較べて二百枚という長さは退屈である。」「何が言いたいのかサッパリわからない。ただ、この作品には繊細で延びのある感受性があり、それが風景描写などに生きている。」「私はこの作品に賞は出さない方がいいと思ったが、積極的に反対するだけの情熱もなかった。」

 「純文学」と「サブカルチャー」との境界があいまいになっていく時代の予感に各選考委員が戸惑っている様子がうかがえて、貴重な資料である(女性が一人もいないことと、委員の皆さんの年齢にもご注目)。ほぼ40年後の又吉直樹『火花』の受賞へのお膳立てはこの時に始まっていた。といってもいいのではないか。


☆☆☆☆☆☆☆




 なお、「昭和を代表する文芸批評家のひとり」である江藤淳は、まともにこの作品を評することはなかった。ただし週刊誌「サンデー毎日」(1976年7月25日号)に以下の一文が「談話」として発表され、のちのちまで物議をかもした。


「社会学の述語に”サブ・カルチャー”という言葉がある。”下位文化”と訳されているようだ。国語としてあまり熟していると思われないが、村上龍の作品は、結局一つの”サブ・カルチャー”の反映にすぎず、その”表現”にはなっていない、というのが、私の感想である。」


 残念ながらいまひとつ意味のわからぬ文章である。この人もまた、「純文学」と「サブカルチャー」との境界があいまいになっていく時代の予感に戸惑っていたのだ。
 なお江藤氏は村上春樹についても終生まともな論評を残さなかったが、1980年に「文藝」の新人賞に投稿された田中康夫『なんとなく、クリスタル』には激賞に近い評価を与えた。
 この評価の落差は、江藤氏じしんの「アメリカ」に対する屈折した思いに依るものだといわれているが、氏がかつて石原慎太郎が大好きであったのを考え合わせると、「一橋大卒で若くして寵児になって中年以降は政治家に転身するタイプの作家」に惹かれる資質があったのではないかとも思われる(どんな資質だ)。
 いずれにせよ、この時期、第一線で活躍する作家も批評家も、「サブカルチャー」について何もわかってなかったわけである。「サブカルなんぞ知るものか。」で作家が務まり、批評家が務まる。むしろ知ってるほうが恥ずかしい。1970年代とは、まだそんな時代であった。















バベルの図書館 旧版 / ボルヘスについて

2019-02-02 | 物語(ロマン)の愉楽
バベルの図書館 国書刊行会 旧版 目次



01 『アポロンの眼』 The Eye of Apollo G・K・チェスタートン(G. K. Chesterton)

 「三人の黙示録の騎士」「奇妙な足音」「イズレイル・ガウの名誉」「アポロンの 目」「イルシュ博士の決闘」。5編中4編がブラウン神父もの。

02 『無口になったアン夫人』 The Reticence of Lady Anne サキ(Saki)

 セールスマンのアンリ・デプリは、遠縁の遺産で大家ピンチーニ一世一代の傑作を刺青してもらったばかりに出国を拒否される。美術品の国外搬出は禁止されているのだ。そればかりか彼は……(『名画の額ぶち』)。ミスター・アピンの調教により人間の言葉を話せるようになった猫のトーバモリーは、居ならぶ人びとの醜聞を次々とあばきたて、パーティはパニックに……(『トーバモリー』)。ユーモアと残酷と無垢とグロテスクの世界を描くサキの短篇、改訳決定版。ほかに「お話の上手な男」「納戸部屋」「ゲイブリエル-アーネスト」「非安静療法」「やすらぎの里モースル・バートン」「ウズラの餌」「開けたままの窓」「スレドニ・ヴァシュター」「邪魔立てするもの」。

03 『人面の大岩』 The Great Stone Face ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)

 突然理由もなく妻のもとから失踪し、ロンドンの大都会のなかで「宇宙の孤児」と化した1人の男の物語「ウェイクフィールド」に「人面の大岩」「地球の大燔祭」「ヒギンボタム氏の災難」「牧師の黒いベール」の全5篇。

04 『禿鷹』 Der Geier フランツ・カフカ(Franz Kafka)

 アフリカの黄金海岸で捕獲された1匹の猿が、さまざまな訓練・授業によってヨーロッパ人の平均的教養を身につけ、自らの半生をアカデミーに報告する(「ある学会報告」)。悪夢の世界を現出する短篇11篇。

05 『死の同心円』 The Minions of Midas ジャック・ロンドン(Jack London)

 まったく逆の発想から透明人間になる方法をあみ出した2人の科学者が、透明状態のまま宿命的な闘争をおこすSF的物語「影と光」ほか「マプヒの家」「生命の掟」「恥っかき」「死の同心円」全5篇を収録。

06 『アーサー・サヴィル卿の犯罪』 Lord Arthur Savile's Crime オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)
 
 一羽のつばめに託して、みずからのサファイヤの眼や体をおおう金箔を貧しい人びとにわかちあたえる王子の像、自分の生命とひきかえに心臓の血で赤い薔薇の花を染めあげるナイチンゲール……いまなお世界中で読まれつづけているワイルドの童話に、手相師に殺人を犯すことを予言された貴公子の奇妙な運命譚『アーサー・サヴィル卿の犯罪』、売家に住みつく幽霊を逆にふるえあがらせてしまう愉快なアメリカ人一家の話『カンタヴィルの幽霊』の2短篇を併録。

07 『ミクロメガス』 Micromegas ヴォルテール(Voltaire)

 シリウス星の超特大巨人と土星の超巨人が地球を訪問する「ミクロメガス」ほか、「メムノン」「慰められた二人」「スカルマンタドの旅行譚」「白と黒」「バビロンの王女」ゴーロワ的エスプリあふれる作品集。

08 『白壁の緑の扉』 The Door in the Wall H・G・ウェルズ(H. G. Wells)

 夢と現実のはざまで破壊する1人の男を描いた名篇「白壁の緑の扉」。不思議な光をはなつ水晶球の物語「水晶の卵」ほか、「プラットナー先生綺譚」「亡きエルヴシャム氏のこと」「魔法屋」全5篇を収録。

09 『代書人バートルビー』 Bartleby the Scrivener ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)

 法律事務所を経営する「私」の前にあらわれた、癒しがたいまでに孤独な姿をしたバートルビー。生の徒労感を知り究めたかのごとき一代書人、世界からの疎外者バートルビーを通して描かれる人間悲劇の書。

10 『聊斎志異』 editor:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)中野美代子訳

氏神試験
老僧再生
孝子入冥
幻術道士
魔術街道
暗黒地獄
金貨迅流
狐仙女房
虎妖宴遊
猛虎贖罪
狼虎夢占
人虎報仇
人皮女装
生首交換
夢のなかのドッペルゲンゲル
鏡のなかの雲雨


11 『盗まれた手紙』 The Purloined Letter エドガー・アラン・ポオ(Edgar Allan Poe)

 臨終の人間に催眠術をかけて、死の侵入をどこまで阻止できるかをはかる奇怪な実験の物語『ヴァルドマル氏の病症の真相』。大都会の雑踏を意味もなくさまよう一人の男を描き、近代人の心理を透徹した眼でえぐった『群衆の人』。四千トンにもおよぶ巨大な幽霊船に乗って地球の極へ流される船員の驚異の告白『壜のなかの手記』。スペイン異端審問所の恐怖と残酷の拷問『落し穴と振子』。分析的知性の名探偵デュパンものの最高作『盗まれた手紙』全5篇を収録。

12 『ナペルス枢機卿』 Der kardinal Napellus グスタフ・マイリンク(Gustav Meyrink)

 世界大戦の機械大量殺戮を背景に、主人と従僕が月遊病幻覚のなかで入れかわる多重人格綺譚(『月の四兄弟』)。人間の時間を吸う怪物〈時間-蛭〉、その呪縛を逃れて永世を可能にする呪文〈VIVO〉の秘密(『J・H・オーベライト、時間-蛭を訪ねる』〉。恐るべき毒草アコニトゥム・ナペルスの秘密をにぎるナペルス枢機卿とその秘密結社の呪い(『ナペルス枢機卿』)。オカルティズムの世界を背景に、神秘と怪奇のあやなすマイリンクの短篇3篇。

13 『薄気味わるい話』 Histoires Desobligeantes レオン・ブロワ(Léon Bloy)

煎じ薬
うちの年寄り
プルール氏の信仰
ロンジュモーの囚人たち
陳腐な思いつき
ある歯医者へのおそろしい罰
あんたの欲しいことはなんでも
最後に焼くもの
殉教者の女
白目になって
だれも完全ではない
カインのもっともすばらしい見つけもの

14 『友だちの友だち』 The Friends of the Friends ヘンリー・ジェイムズ(Henry James)

 復讐の年代記「ノースモア卿夫妻の転落」、分身物語「私的生活」他「オウエン・ウィングレイヴの悲劇」「友だちの友だち」4篇を収録。「われわれの時代の最高級の作家」とボルヘスが呼ぶジェイムズの短篇小説集。

15 『千夜一夜物語 -バートン版』 Le Mille E Una Notte

ユダヤ人の医者の物語
蛇の女王
プルキヤの物語
ヤンシャーの物語

16 『ロシア短篇集』 editor:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)

 「文学が我々に提供しうるもっとも賞賛に値する作品」とボルヘスが絶讃するトルストイの「イヴァン・イリイチの死」。他にドストエフスキー「鰐」、墓より蘇った男の物語「ラザロ」(アンドレーエフ)を収録。

17 『声たちの島』 The Isle of Voices ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)

 『宝島』の作者として名高いスティーヴンソンの絶妙な短篇4篇を収録。タヒチに伝わる超自然的な話を換骨奪胎した表題作に、死んだ魔女を侍女にした牧師の戦慄譚「ねじれ首のジャネット」、ほか「壜の小鬼」「マーカイム」。

18 『塩の像』 La estaua desal レオポルド・ルゴーネス(Leopoldo Lugones)

 ボルヘスに多大な影響を与えたアルゼンチン作家の、百科全書的知識を駆使した幻想短篇集。チンパンジーに言語を教える男の話「イスール」、聖書を題材にした「火の雨」「塩の像」他「アブデラの馬」等7篇。

19 『悪魔の恋』 Le diable amoureux ジャック・カゾット(Jacques Cazotte)

 悪魔が変身した美女ビヨンデッタと、ナポリ王親衛隊大尉ドン・アルヴァーレの間にかわされる不思議な恋の物語。オカルティズムと東方趣味のうえに織りあげた、フランス幻想小説の嚆矢と目される傑作長篇。

20 『アルゼンチン短篇集』 Racconti Argentini editor:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)

 姉を毒殺して手に入れた膨大な遺産を隠しもってブエノスアイレスに向かう馬車に乗ったカタリーナは、自分と同じマントをはおり同じ頭巾を被った一人の女性客に気づいた。朝もやの中に浮かんだその顔は、なんと死んだはずの姉ではないか。とその時、大音と共に馬車が傾き、カタリーナは外に投げ出される……(ムヒカ=ライネス『駅馬車』)。他に、コルタサル『占拠された家』、ビオイ=カサーレス『烏賊はおのれの墨を選ぶ』、シルビーナ・オカンポ『物』フェデリコ・ペルツァー『チェスの師匠』など全9篇

21 『輝く金字塔』 The Shining Pyramid アーサー・マッケン(Arthur Machen)

 英文学のなかでもっともデカダン的といわれるマッケンが、聖性と邪性の彼方に繰広げるあやかしの世界。〈サバトの酒〉と呼ばれる薬を服用したため、醜悪な姿に変身する青年の話(「白い粉薬のはなし」)他

22 『パラケルススの薔薇』 La rosa de Paracelso ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)

 本邦初訳3篇を含むボルヘスの小説「一九八三年五月二十五日」「パラケルススの薔薇」「青い虎」「疲れた男のユートピア」4篇と、インタビュー「等身大のボルヘス」で構成。巻末にボルヘス年譜・書誌を付す

23 『ヴァテック』 Vathek ウィリアム・ベックフォード(William Beckford)

 正篇のフランス語からの新訳と、本邦初訳の挿話篇「アラーシー王子とフィルーズカー王女の物語」「バルキアローフ王子の物語」を2分冊に収める。官能と知の極限を求める男の恐るべき地獄下りの物語。

24 『千夜一夜物語 -ガラン版』 La mille e una lotte

 旅の途中ババ・アブダラは謎の托鉢僧に出会った。僧が差し出す小箱に入った膏薬は、左の瞼にすりこむと世界の財宝が見えてくるが、右目にすりこむと……(「ババ・アブダラの物語」)。他「アラジン」の話を収録。

25 『科学的ロマンス集』 Scientific Romances C・H・ヒントン(Charles Howard Hilton)

 供奉を引き連れての狩りの途中、閉ざされた谷に一人迷い入ったペルシアの王は、デミウルゴスたる老翁に出会う。谷間のミクロコスモス的空間の進化をつかさどる高次の存在となった王は、快楽をもたらそうとするが……(『ペルシアの王』)。イギリス・日本・アメリカで数学教師を務めていた謎の作家ヒントンの形而上学的物語。他に、『第四の次元とは何か』『平面世界』を収録。

26 『ヤン川の舟唄』 Idle Days on the Yann ダンセイニ卿(Lord Dunsany)

 「カフカの先駆的作品」とボルヘスが推賞する「カルカッソーネ」。ほか、「不幸交換商会」「乞食の群れ」等短篇7篇と戯曲1篇。アイルランドの詩人ロード・ダンセイニの想像力がつむぎだす黄昏の世界。

27 『祈願の御堂』 The Wish House ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)

 中世のイングランドの僧院を舞台にした「アラーの目」、ブラウニング流の劇独白体をとった「サーヒブの戦争」ほかに、「祈願の御堂」「塹壕のマドンナ」「園丁」の全5篇を本邦初訳。

28 『死神の友達』 EL amigo de la muerte ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン(Pedro Antonio de Alarcon)

 「三角帽子」の作者として名高いアラルコンの中短篇2篇を収録。自殺をはかり意識が朦朧としているヒル・ヒルの前に死神が現れた。死神はしばらくの命と願望の成就を約束するが……。他に怪談「背の高い女」。

29 『最後の宴の客』 Le convive des dernieres fetes ヴィリエ・ド・リラダン(Villiers de l'Isle Adam)

 最愛の女ヴェラを失ったダトル伯爵は、愛の力によって亡妻の存在の幻を創り上げ、ついには彼女と天使の如き天上的な抱擁をとげる……リラダンの作中最も幻想的で、ポーの夢幻の世界に最も近接している作品とボルヘスが語る神秘的物語『ヴェラ』。死刑執行人の仕事を虎視眈々と狙う偏執狂のドイツの男爵『最後の宴の客』。拷問の精神的苦痛を描いた『希望』。残虐な王妃の復讐譚『王妃イザボー』ほか全7篇。

30 『逃げてゆく鏡』 Lo specchio che fugge ジョヴァンニ・パピーニ(Giovanni Papini)

 分裂する自我、死、自殺、鏡の反映のうちに逃げてゆく「時」。 哲学者、思想家、批評家、詩人、小説家、未来主義者、ファシスト、宗教界への罵声の限りをつくしたのちに回心したキリスト者……多彩な肩書きをもつパピーニが、ジャン・ファルコのペンネームで発表した知られざる幻想怪奇小説。表題作のほか、『完全に馬鹿げた物語』『〈病める紳士〉の最後の訪問』『もはやいまのままのわたしではいたくない』『魂を乞う者』『身代わりの自殺』等全10篇。




                        ☆

《ボルヘスについて》

 この宇宙を律する円環的な時間。

 その投影としての世界の迷宮的構造。

 個人の生が反復する祖型的運命。

 作品の伝統性と見合った作者自身の匿名性。




 夢見る者=創造主もまた夢見られしもの=被造物、という認識。


                       ★



イタロ・カルヴィーノ、ボルヘスの短篇を評して

 ボルヘスは、ほんの数ページのテクストに、おそろしいほどのゆたかさをもった詩と思想の燦きを、また語られ、あるいは示唆されるだけにすぎないできごとを、眩暈をおぼえるほどの無限への広がりを、そして際限なく湧き出すアイデアの数々を、みごとに封じ込めてみせます。


◎その一例。

 あの無限のアレフを、わたしの怯弱な精神がほとんど記憶にとどめていないアレフを、いかにして他人(ひと)に伝達することが可能であろうか?
 こういう場合神秘主義者たちは象徴をふんだんに用いる。たとえば神性を表示するために、あるペルシャ人は、見方によればあらゆる鳥であるような鳥について語り、アラヌス・デ・インスリス(1128~1202 フランスの神学者)は、その中心は随所にあるが円周はどこにもない球について語り、またエゼキエルは、同時に東西南北の四方に向くことのできる四つの顔を持った天使について語った。
 おそらく神々はわたしにもこれらと同類の比喩をお許しになるだろうが、その記述は文学や虚構によって不純なものにならざるをえないだろう。実際わたしがしようとしていることは不可能なのである。というのは無限に連なるものの一つ一つをいくら列挙したところで、所詮それは微小な一部分にすぎないのだから。

「エル・アレフ」より

宇宙よりも遠い場所・論 64 行きて帰りし。09 そして、きっとまた。

2019-02-01 | 宇宙よりも遠い場所
 行きて帰りし。あるいは、往きて還りし。
 それはファンタジーの文法。定型。いいかえればすなわち、物語の定型だ。
 慣れ親しんだ日常から離れ、「ここではない何処かへ」と旅立った主人公は、「境界」を越え、「異界」に赴き、友達の力を借りて、そしてまた、友達に力を貸して、自らの課題をはたし、友達が課題をはたすための手助けをし、もういちど日常のなかに、「何処かではないここ」へと帰ってくる。
 そのとき、慣れ親しみすぎたあまり、「澱み」ともみえていた日常が、また別の相貌をおびて目に映る。
 そのなかにおける自分のふるまいも、周りとの接しかたも、自ずからかわってくるだろう。
 旅ってものは、そのためにこそ、あるのではないか。
 いずれまた、その新しく得た日常も、どんよりと澱んでいくだろう。その時はまた、旅に出よう。
 「喪の仕事」は、ひとが近親者の死を乗り越えるための大切な課題。「過去との訣別」も、時としてその後の一生を左右しかねぬほどの大きな課題。
 「友達がほしい」だって、すこし意味合いは違ってくるけど、大きな課題に違いない。
 しかし、「ここではない何処かへ」は、それらのうちのどれにもまして、「物語」にとって、ということはたぶん「人間」という存在にとって、より本質的かつ普遍的な課題なんだろう。
 たとえ比喩的なものであれ、「ここではない何処かへ」と赴かぬかぎり、ひとは誰かとかかわることもできないし、何事かを為すこともできないのだから。
 だからこの作品の主人公は、やはり報瀬ではなくキマリなのだ。
 そしてその主人公には、忘れちゃいけない、3人とはまた別の関係性で結ばれた、もうひとりの友がいるのである。



 エンディングテーマ「ここから、ここから」が流れつづけている。



ひとりで電車を待つキマリ。

 3人とは空港で別れたのだ。それは一人だけ北海道へ帰る結月への配慮だったのかもしれないが、いかにもキマリらしい、さわやかな決断だった。

 キマリ「ねえ、ここで別れよう。」


 日向「え……。」
 報瀬「キマリ……。」
 結月「もう、一緒にいられないってことですか?」
 キマリ「逆だよ。一緒にいられなくても、一緒にいられる。だって、もう「私」たちは「私たち」だもん。」
 結月「なんですその名言? 日向さんですか?」


 日向「でも、わるくない。」


 「でしょ?」

(これは空港ではなく、駅にいる今のキマリがみている光景)


 報瀬「やらなきゃいけないこと、たくさんあるもんね。」


 キマリ「うん。それが終わったら、また旅に出よう。この4人で。」
 結月「この4人でですよ。」
 日向「まあ、報瀬は百万あるし。私も貯金してる……」
 報瀬「あれはもうない。」


 3人「えっ。」


「置いてきたの。」

「宇宙(そら)よりも遠い場所に!」
凍った手袋が台座になっている。「母が言ってた南極の宝箱をこの手で開けた」ことの証なのだろう


 3人「えええええええーっ。」




 キマリ「旅に出て、初めて知ることがある」


 報瀬「この景色が、かけがえのないものだということ」





 結月「自分が見ていなくても、人も世界も変わっていくこと」



 日向「何もない一日なんて、存在しないのだということ」






 キマリ「自分の家に、匂いがあること」




 報瀬「それを知るためにも、足を動かそう。知らない景色が見えるまで、足を動かしつづけよう」



 日向「どこまで行っても、世界は広くて、新しい何かは必ず見つかるから」



 結月「ちょっぴり怖いけど、きっとできる」

 
 キマリ「だって……」

ベッドから始まり、ベッドに帰ってきた

めぐっちゃんにラインで報告


間髪いれぬ即レス



南極と北極とでは、同じ時間にオーロラがみえる。ここでめぐっちゃんの背景に架かっている極光は、十中八九、あのときキマリたちが船上で見たのと同じものである。


「なんで……なんで……」

 「なんで?」は、あの5話の「旅立ちの朝」のさい、キマリがめぐっちゃんに繰り返し投げかけた問いだ。
 あの時の「なんで?」は、当惑と混乱にまみれた問いだった。対してこれは、それとは真逆。むろん吃驚してはいるけれど、歓びに輝いている。


 キマリ「……同じ思いの人は、すぐ気づいてくれるから」



 もちろん、めぐっちゃんが「同じ思いの人」だとわかったからこその歓びである。

「なんでーっ」





 この素晴らしい作品に携わったすべてのスタッフ、および声優の方々に心からの称賛を送ります。ありがとうございました。