「あの人はリベラルだよね」という言い方を、若いころ、何度かした覚えがある。もっぱら年配のひとに対してだ。「頑迷ではなく、話のわかる人。こちらを公正に扱ってくれる人」といったくらいのつもりであった。むろん好意的な評価だ。前回の記事の末尾で、あえてそんな使い方を試してみたけど。
しかし、じつは「リベラル」には、はるかに政治的な含意がある。さいきんの話だが、池上彰は、テレビの啓蒙番組で、「リベラルって、左翼と呼ばれるのが嫌な人たちが隠れ蓑としてそう自称してるんですよ」とまで言ったらしい。
いくら大衆向けに噛みくだいたにせよ、これはさすがにシンプルすぎたんじゃないか。なんでもかんでもわかりやすくすりゃいいってもんじゃない。
好感をもてる年配者を「リベラル」と評したさい、ぼくが念頭においていたのは、「オールド・リベラリスト」という言い回しだった。
ネットをあたると、
①第二次世界大戦後に、戦前の自由主義者を指して呼んだ。「もう古くて現代には通用しない」というニュアンスをふくむ。
とあって、
武田泰淳の『風媒花』(1952=昭和27)から、「ぼくもこれでオオルドリベラリストの一人だ。」
という用例があげられている。
ぼくの記憶では、大藪春彦『野獣死すべし』(1958=昭和33)のなかにも、伊達邦彦が亡くなった父を回顧して「インテリで優しいオールド・リベラストだった」と評するくだりがあった。
また、②戦前に欧米滞在の経験をもち、欧米リベラリズムの洗礼を受け、親米的・親英的な立ち位置に基づいていた人たち。もっとわかりやすく言えば、大正デモクラシーの体現者。
という定義づけもある。より詳しいけど、限定しすぎているかもしれない。べつに大正デモクラシーの体現者みんなが欧米滞在の経験をもってたわけじゃないからだ。しかしまあ、こうやって2つの定義を並べれば、ニュアンスは十分に伝わる
もちろん、ぼくの「若いころ」ってのはバブル時代のことで、時代が違う。「戦前の自由主義者」や「大正デモクラシーの体現者」になんて、お目にかかったことはない。あの頃の「年配者」といえば、「団塊の世代」の少し上あたりである。つまりは誤用してたわけだけど、ま、ニュアンスだからね。
ちなみに村上龍が、この「オールド・リベラスト」というコトバをもじって『オールド・テロリスト』(文春文庫)というタイトルの小説を発表してる。龍さんらしい痛烈な皮肉だ。
さて。池上さんが「要するに、それってぜんぶサヨクのことよ」と言ってのけた「リベラル」は、むろんこの「オールド・リベラスト」じゃない。もっとずっと新しくて、戦後の一時期どころか、まさにいま現在の政治用語である。
ぼくは当の番組をみてないので、池上さんがどこまで説明したかはわからないのだが、いま「リベラル」と呼ばれたり、自称したりしているのは、昔なら「革新」もしくは「進歩派」と称されて(称して)いた人たちだ。
「昔」とは、1955年から90年代初頭までだ。たいそう明確なのである。すなわち、「自民党」(与党)と「社会党」(反対野党)による「55年体制」がはじまってから、海の向こうでソ連が解体されるまでの期間だ。
そのあいだ、日本においては「リベラル」なる語は政治用語(概念)として流通してはいなかった。
使われてたのは、日本の「宗主国」であるアメリカにおいてだ。「保守」を掲げる共和党に対して、アメリカの民主党が、自分たちの政治的な姿勢を「リベラル」と標榜していたのである。
しかしこれが、話をややこしくする元だった。
アメリカ民主党のいう「リベラル」は、「社会的な公正さや多様性を重視する」姿勢だ。
そんな言い方では生ぬるいとばかりに、副島隆彦さんは『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』(2004年。講談社+α文庫。キワモノっぽいが有益な本だ)の下巻144ページで、
「福祉優先の弱者救済主義」
とまでいっている。ただこれは、かなり極端な言い方で、ぼくには必ずしも正確と思えない。
しかし、大企業よりは一般庶民に、強者よりは弱者に、というスタンスを取っているのは間違いない。
しかるにそれは、西欧において確立した「リベラリズム」とは違うのだ。本来のリベラリズムとは、文字どおり「自由主義」であり、国や政府はオレたちを束縛するんじゃねえよ、という思想なのである。
オレたちはオレたちで好きにする。だから税金なんか取るんじゃねえ。その代わり、オレたちもお上には多くを期待しない。手厚い社会保障なんぞ求めない。ただ国防だけはちゃんとやってくれ。それでいい。あとは、お互い勝手にやっていこうぜ。
そんな考え方なのだ。
だから「リベラリズム」に「新」をつけた「新自由主義」が、「弱肉強食の市場原理」をモットーとする「主義」になるのは当然なのだ。こちらのほうが正しい「リベラリズム」の使い方である。
むろん「弱者」がどうなってもいい、とまで乱暴なことはいわないが、そういった福祉事業は、お上ではなく、経済的に恵まれた者たちが自主的に行うべきだ、と考える。自主的に、というところが肝要なのだ。
そういう考えを持った人たちは、変質した「リベラル」という用語を避けて、自分たちのことを「リバタリアン」と称した。
日本の「革新」「進歩派」が採用したのは、本来の西欧型ではない、アメリカ型の変質したリベラリズムだ。
西欧近代にうまれた「リベラリズム」が、海を渡ったアメリカ政治の潮流の中で別の意味合いを担わされ、さらにそれを、91年のソ連解体いこう、日本の「革新」「進歩派」が取り込んで、自らの「主義」をさす呼称とした。そういうことになる。
そもそも「革新」とは、資本主義体制を革めて社会主義体制へと刷新しようという意味で、「進歩派」とは、資本主義体制が行き詰ったあとには社会主義体制に移行するんだから、そちらに向かって進歩しようという意味だった。
「いずれ社会主義になる」のを前提としてるんである。
だから、「向かうべき未来」としての「社会主義」なんてものが蜃気楼のように潰えてしまえば、「革新」も「進歩」もあったもんじゃない。といって、今さら「保守」に宗旨がえもできない(した人もいたとは思うけど)。そこで、より適切な呼称をもとめて、「リベラル」を採用したわけだ。
池上さん、そこまでちゃんと話したのかな。そりゃあまあ「右」か「左」かでいえば「左」で誤りじゃないだろうが、粗すぎる。「社会主義」が嫌いでも、たとえば婚姻にまつわる制度的自由を求める人たちはいて、そんな人たちだって、この日本では広義の「リベラル」に分類されるからである。
もうひとつ、現代政治運動史のトピックとして付言しておくと、かつて60年代から70年代初頭に「学生運動」を担った「新左翼」の人たちは、既成の「革新」や「進歩派」の学者や文化人たちと手を結ぶどころか、強く批判し、その乗り越えを叫んでいた。一口に「左翼」ったって多様なんである。
ただ総じて共通するのは、当たり前っちゃ当たり前だが、「反体制」という点だろう。いまの体制に、なんらかのかたちで異議申し立てをする。「そういうものをサヨクと呼ぶんだ」と池上さんがその番組の中で想定していたのなら、それはまあ、「日本のリベラル=左翼」とはいえるが。
ただ、「反体制」は、あくまでも「ポジション」「態度」であって「思想」「理論」ではない。たんに与党が示す政策に反対ばかり貫いていても建設的な提言はできない。
問題は、「社会主義の理論」、もっとはっきりいえば「マルクシズム」が人類史レベルで失効しちゃったあとに、「日本のリベラル」の皆さんが、政治哲学としての「リベラリズム」を、この国に即した理論体系として、きちんと整備しなかった/できなかったことだ。
ジョン・ロールズをうみ、その『正義論』が出てから50年近くのあいだに、様々なグラデーションの政治理論を発展・精緻化させたアメリカとは、そこのところが大きく違う。
もういちど、前回の記事で紹介した仲正さんの一文を引こう。
「(……前略……)少なくとも当面は、社会主義のようなオールタナティブな体制をいきなり打ち立てようとするラディカル思想が非現実的であることを認めざるを得ない以上、自由主義あるいは資本主義社会の存続を前提にしたうえで、可能な限りの改善、社会的公正の確保を求めるしかない。そこで、アメリカの「リベラリズム」系の議論が、マルクス主義ほど人を熱狂させるものではないにせよ、現実的な社会変革を目指す思想(原文ここゴチック)として、今さらのように注目されることになったのである。」
どこまでも「アメリカの現代思想を学んでいる」段階なのだ。日本という国は、それこそ明治この方「翻訳大国」と称されているが、それは喜んでばかりはいられぬ話で、自前の理論を打ち立てる人がいないってことの裏返しなんである。理論そのものが脆弱だから、もちろん、じっさいに政治に携わる為政者のほうも、筋の通った理念を持ち合わせていない。
2010年にサンデル教授が脚光を浴びたが、率直にいって、あれも一過性のブームだったとしか言いようがない。あれから9年、グローバリズムと格差拡大の進行のなかで、なし崩し的に新自由主義(ネオリベラリズム)政策をつづける政権与党への対立軸は、いっこうに見いだせぬままだ。
あ。もちろんぼくは「リベラル」ではないので、「福祉」や「平等」をやみくもに重んじる立場からネオリベを嫌ってるわけではない。ネオリベ至上でやってると、今まさに自民党が行っているとおり、少子化が進み日本人が減って、大量に移民を入れざるを得なくなるからだ。あくまでも「右」のほうから申し上げてるんである。
ぼくなんかのばあい、「日本という共同体」の維持・存続を優先する「ナショナリスティック・コミュニタリアン」とでもなるのだろうか。『正義とは何か』(中公新書)をつぶさに読んでも、ぼくみたいな立場にぴったり当てはまる分類項目はないようだ。そんなに特殊なことを言ってるかなあ。多数派じゃないかもしれないが、わりとふつうの感覚じゃないかとも思ってるのだが。
まあ、もともと移民で成り立っているアメリカと、この日本とでは、「国のかたち」自体がまるで異なるのだが。
だけどほんとにこのニッポンで、「自前の(使える)政治理論」なんてものを打ち立てる(とりあえずは「仮設する」でいいが)つもりなら、経済学まで含めた幅広い知識が不可欠だろうな。いずれにしてもたいへんな話であるのは間違いない。