ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫) 紹介

2022-11-30 | 雑読日記(古典からSFまで)
 民主主義社会において、個人への暴力は、いかなる状況の下にあっても、絶対に正当化されるものではありません。一日も早いご快癒をお祈りいたします。
 人前に出ての発言などでは、とかく挑発的な物言いが目立ったとの話もありますが(ぼくはじっさいに見聞きしたことはないので、あくまで伝聞)、著作を読めば、けして軽佻浮薄なタレント論客ではなく、学者として、真摯に社会の現状を見据えておられたことがわかります。



 とうわけで、本の紹介。『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫)です。




 2014(平成26)年に刊行された書籍の文庫版(だから扱われてる素材自体はいささか古い)。
 最先端の社会学の知見をフル活用して、サブカルから政治まで、現代日本社会の病理をミヤダイ流に分析した本。
 講演やインタビューを元にしているので、「まえがき」と「あとがき」以外は「ですます調」ながら、内容のほうはずっしりと読みごたえあり。
 「宮台真司でどれか一冊」といわれたら、ぼくならこれを選びますね。
 もちろん、書かれていることに一から十まで納得するものでもないし、このタイトルはさすがに大仰すぎると思うけど、一読の価値はあります。



広瀬章人 八段 vs. 藤井聡太 竜王 第35期竜王戦 七番勝負第5局

2022-11-27 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)
 この記事は、自分のための覚え書きなので、将棋に興味のない方は、かまわず素通りしてください。
 11月25・26日の両日にわたり、福岡県福津市の宮地嶽(みやじだけ)神社にて開催された第35期竜王戦(読売新聞社主催、特別協賛・野村ホールディングス)七番勝負の第5局は、挑戦者の広瀬章人八段(先手番)が133手で勝ち、シリーズ対戦成績を2勝3敗とした。
 藤井竜王(ほか王位・叡王・王将・棋聖と併せて現在は五冠)が、タイトル戦の七番勝負で二敗を喫するのはこれが初めて(つまりこれまでは、4―0のストレートか、悪くとも4―1で勝ってきたということ)。


 2日目が土曜だったので、ぼくは作業をしながらアベマTVの将棋チャンネルで観戦していた。
 この対局、藤井竜王は例によってほぼアベマAIの示す最善手を指し続け、形勢判断は、午後の時点で72%くらい後手有利。いわゆる「藤井曲線」というやつで、いつもなら、ここから優位を保ったまま押し切って勝つ。相撲でいうところの「寄り切り」だ。こちらとしては、その強さに痺れたい一心で、ついつい藤井将棋を観てしまうわけだが……。

   
第1図

 ところが90手目、竜王はこの局面から、AIの表示する△4八角成を指さず、△3五角と飛車のほうを取った。そこでAIの評価値が大きく揺れて、(正確な数値は覚えてないが)後手の藤井側が50%をいくらか切った。一気に逆転したわけである。
 逆転とはいえ微差なので、まだまだ勝負はこれからだったが、1日目でかなり時間を消費していて余裕がなく、かつ、このあとの攻撃に対する広瀬八段の受けが正確無比であったため、見る見る敗勢になっていき、いいところなく負けてしまった。
 ぼくはてっきり図の局面から△4八角成▲同玉に△4七金と上から押さえて勝つものだとばかり思っていたので、△3五角には思わず「えーっ。」と声が出た。いちおう投了までは見届けたものの、正直面白くなかったので、感想戦も見ずに中継を切ってしまった。
 今朝になってから、いわゆる「将棋系youtuber」諸氏の解説を聞くと、たしかに△4八角成で後手勝ちだし、いうまでもなく藤井竜王もその手順を読んではいたのだけれど、この先の寄せがあまりにも難解を極めるために、さしもの竜王も読み切れなかったらしいとのことだ。
 △4七金のあと、先手玉が左に逃げればわかりやすいが、すっと右側に躱されてみると、いかにも手駒が少なく、切れ筋にみえる。しかも▲3四角の王手から▲2五桂と角道を遮断する筋もあり(ぼくはそれをまったく思いつかなかったので、かんたんに後手勝ちと判断していた)、なるほどたしかに、攻めが続くとは思えない。双方が最善手を指し続けると、下の局面になるらしい。先手がうまく受け切っていて、一見すると、後手の攻めは完全に切れている。




第2図

 しかし、信頼すべき複数の将棋系youtuber氏らの意見によれば、ここで△1六歩と突き出す鬼手があり、それで後手の攻めが繋がって、どうやっても先手は振りほどくことができず、詰みを免れないという。
 その手順はたいへん複雑なので、ここには書ききれないが、「一歩千金」という格言どおりの順だった。
 ともあれ、重要なのは、第1図における藤井サイド72%の優位というのは、この「△1六歩」までをも含めて……ということなのだ。
 もし仮に、第2図の局面を目の前にすれば、藤井竜王ならばあるいは、さほど時間を要さず1六歩を発見するかもしれない。しかし十数手も前から枝葉を含むすべての変化を読み切って、ここに踏み込むのはやはり人間業では無理かと思われる。△4八角成を決行できなかったのもやむなし……という話だ。
 今回は、事前研究によって一日目から藤井竜王の持ち時間をごっそり削り、かつ、優位に立ってからは一手も緩むことのなかった広瀬八段を褒めるべきだろう。
 そのように考えて、昨日から波立っていた心持ちがようやく治まったのだった。
 


 
 
 




震災後文学

2022-11-17 | 純文学って何?
22.11.19

 追記・訂正)
 本文中に、「(ヒロインであるすずめが)福島に立ち寄ることはない。」とありますが、これは完全な事実誤認で、すずめは、東京から東北へと向かう途中、福島県を通過していました。双葉町近辺とのことです。その場所で、わりと重要な会話が交わされてもいます。ぼくはその会話のことは印象に残っていたのですが、そこが双葉町であることはまったく見落としておりました。しかも、カメラが移動すると、遠くに第一原発が映りこんでいるとか……。それはぜひ、2回目の鑑賞で確認しようと思ってますが……。いやはや……。新海誠監督の「覚悟のほど」を甘く見積もっておりました。お恥ずかしい。この見落としによって、この記事そのものの立脚点も危うくなるわけで、削除しようかと迷いましたが、それでもやはり、『すずめの戸締まり』がファンタジーであり、エンターテインメントであることは確かなので、こうやって事実誤認の訂正だけして、記事そのものは残すことにします。「うかつな観客ならば見逃すほどの慎重さで、フクシマが描かれていた。」ということでご理解ください。超弩級のスペクタクルに気を取られがちですが、さりげない日常パートの細部にも、隅々まで気が配られているわけですね……。

☆☆☆☆☆☆☆

23.02.06

 さらに追記)

 これですね。右側の遠景に注目。




☆☆☆☆☆☆☆


 『すずめの戸締まり』は本当に素晴らしかった。ファンタジーとして、エンターテインメントとして、脚本から映像美までひっくるめて、現代アニメ表現の最高の水準に達していると思う。
 しかし同時に、それはあくまでもファンタジーであり、エンターテインメントであるゆえに、とうぜんながら限界はある。どうしても越えられない一線がある。
 たとえば、本作はロードムービーなので、ヒロインのすずめは、宮崎→愛媛→神戸→東京→東北へと旅をしていくのだが(熱心なサイトでは、具体的な地名も特定されている)、福島に立ち寄ることはない。
 新海誠監督は、覚悟を決めて3・11と向き合い、アニメ作家としてぎりぎりのところまで踏み込んで本作を創ったのだと思うが、それでもフクシマの地に立つヒロインの姿を描くことはできなかった。




 それは新海監督の限界ではなく、ファンタジーの限界であり、エンターテインメントの限界というべきだろう。
 フィクションというジャンルにおいて、「ファンタジー」なり「エンターテインメント」なりの対蹠にあるのは「純文学」だ。
 このダウンワード・パラダイスはもともと「純文学ブログ」であるはずだが、ときに「サブカル上等」の物語論ブログであったり、政治ブログであったりもする。
 それでも、「本分は純文学にあり。」という信念を失ってはいない(つもりでいる)。
 純文学は、アニメに比べて遥かに小さな訴求力しか持てないが、その代わり、もろもろのタブーに縛られる割合が少ない。
 だからもちろん、フクシマのことを正面から描いた作品もある。
 新海監督は、劇場用特典の「新海誠本」に収録されたインタビューのなかで、
「(本作は)震災文学の流れの中の、数ある作品のうちの一つに過ぎません。」
 と謙虚に述べておられるのだが、ただ文学サイドでは、「震災」そのものを描くというのではなく、「震災によって変貌してしまった日常や生活」を描く小説の総称として、「震災文学」ではなく、「震災後文学」という言い方がすでに確立され、多くの作家や批評家によって採用されている。




作家たちは「3.11」をどう描いてきたのか
多和田葉子、桐野夏生、天童荒太……
〜「震災後文学」最新作を一挙紹介!
文・木村朗子(津田塾大学教授)
https://gendai.media/articles/-/48063





今こそ読みたい「日本とドイツの震災後文学」
お話を聞いた人 クリスティーナ・岩田=ワイケナントさん
http://www.newsdigest.de/newsde/features/11808-katastrophenliteratur/







 とはいうものの、ぼくはこれまで、「震災後文学」をきちんと追ってきたわけでもなく、大半の作品はこれらのサイトによって教えられた。知っていたのは、


いとうせいこう『想像ラジオ』
天童荒太『ムーンナイト・ダイバー』
多和田葉子『献灯使』
和合亮一『詩の礫(つぶて)』(これは小説ではなく、詩集)
川上弘美『神様2011』
岡田利規『現在地』


 ……くらいのものだ(もし中上健次が存命ならば、間違いなくここに加わったろうな、と埒もないことを思ったりする)。
 それにしても、作家・重松清の2013年の発言として、上掲サイトの中で引用されている、
「(いわゆる「ビッグデータ」を集めるのは有意義なことだが、しかし)『ビッグ』とは『無数のスモールの集積』であるということを忘れてしまうと、その途端、解析の網の目から大切なものがこぼれ落ちてしまうだろう。(中略)『震災ビッグデータ』では、死者の記憶を追うことはできない。死者の声を記録することもできない。だが、人間はそのために想像力を持ったのではないか。(中略)ここからは文学の出番だよなあ、と痛感する。」
 という一節は、文学の本質を突いたものとして、印象ぶかいものである。
 そして、この精神は、ファンタジーといい、エンターテインメントといいながら、『すずめの戸締まり』にも共有されているはずだ。
 とはいえ、上にも書いたが、アニメを享受する層に比べて、小説を読む層はずっと少なく、ましてや純文学となると、文字どおり「数えられるほど」だというのが現状ではないか。
 若い人たちの中から(べつに若い人でなくてもいいが)『すずめの戸締まり』の鑑賞を機に、ことばで紡がれた「震災後文学」にも目を向ける人が出てくれればいいなァ……と思ってはいる。









『すずめの戸締まり』主題歌 RADWIMPS - すずめ feat.十明 [Official Lyric Video]

2022-11-15 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり





 『すずめの戸締まり』、昨日はあんなこと書いたけれども、どうしても観たかったんで、夜の部にちょいと寄ってきましたよ。
 いやあ、想像以上に良かったね。アクション、スケール、ラブロマンス、魅力的なキャラ、そして人情、どこをとっても、子供からティーンエイジャーから大人まで、全世代に向けてのエンターテインメントに仕上がってました。
 いろいろと言葉は溢れてくるけども、いま記事にすると、『君の名は。』の鑑賞後の二の舞になっちまうんで……。つまり、コーフンしてあれこれ書きまくって、あとで恥ずかしくなって削除する羽目になりそうなんで……。それに、ネタバレのこともあるので、当面は自重しましょう。
 ひとつだけ言っておきますと(結局言うんかい)、『カリオストロの城』「ナウシカ」「ラピュタ」『魔女の宅急便』『もののけ姫』「千と千尋」「ハウル」など、宮崎駿アニメの名場面を思わせるシーンやカットやイメージが随所にたくさん散りばめられていた……。これからご覧になる方は、それを探してみるのも一興でしょうね。いや、開始早々、怒涛のストーリーに巻き込まれて、それどころではないか……。
 あと、やはり細田守作品や、荒川弘『鋼の錬金術師』に繋がるところもあったなあ……。それはたんに先達たちへのオマージュってだけじゃなく、なんというか、これまで日本のアニメが育んできた想像力やフォーマット、演出や技法や技術なんかの最良の部分が、この一作に流れ込んで繚乱と咲き誇ってる感じでしたね。
 もっと言わせてもらうなら(まだなんか言うんかい)、ここに継承されているのは、たんに日本のアニメやマンガの遺産というだけじゃなく、もっとずっと根底にあるもの、たとえば能楽だとか、神道だとか、それこそ記紀神話から綿々と連なる日本文化の精華そのものでしょう。
 そういった伝統を総動員して、この厄災にまみれた(それは過去に起こったものはもちろん、現在進行形のもの、さらにはこれから起こるだろうものまでをも含めて)ニッポンの状況を悼み、どうにかして鎮めようと努めている。それくらい凄い作品=メディア=媒体であると思いましたね。
 いやいや、この調子だと、また話がどんどん大きくなっちまうなあ。とりあえず今回はここまで……。
 それでは、曲のご紹介。オープニングと、あとエンディングにて流れます。













ファンタジーと現実~新海誠の新作『すずめの戸締まり』に寄せて。

2022-11-14 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 新海誠監督の新作『すずめの戸締まり』が11月11日に公開されて、もうネット上にはネタバレをふくむ感想がちらほら出始めている。ぼくはまだ観ていないが(映画館まで足を運ぶかどうか思案中)、わりと信頼しているアニメ感想サイトでは、ほぼ絶賛に近い評価である。この方は前作『天気の子』に対しては微妙な感想を述べてらしたから、『天気の子』を凌ぐ出来栄えであることは間違いなさそうだ。
 ぼくは6年前に『君の名は。』を映画館で見て年甲斐もなくコーフンし、向こう1ヶ月ばかり『君の名は。』で頭が一杯になって、ブログの記事も何本か上げた。「『君の名は。』/『天気の子』」というカテゴリをつくってそこに入れてあるけれど、しかし最初の2本はあとで読み返したら気恥ずかしくなったので非公開にしてある。高揚しすぎて記事の体をなしていない。それくらい夢中になっていたということだ。
 『天気の子』の公開は2019(令和元)年7月19日で、中国の武漢市において新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の第1例目の感染者が報告される5ヶ月前だった(それからわずか数ヶ月ほどで年を超えて世界規模のパンデミックとなり、今もなお収束していないのは周知のとおり)。
 ぼくはこちらのほうは映画館には行かず、2021年1月3日の地上波初放送の際に観たのだが、コロナ禍をふまえ、エンディングの後に新海さん自らが編集したという「特別エンディング」が付されていた。あれはメッセージと呼ぶべきものであったろう。
 『君の名は。』が『シン・ゴジラ』と並んでポスト3・11の作品であること、つまり東日本大震災の衝撃から生まれた作品だったことは誰の目にも見紛いようがないが、『天気の子』もまた、このニッポンを覆った格差社会の現状と共に、毎年決まって台風の季節に列島を襲う台風の被害を想起せずして観ることのできない作品であった。しかも、ハッピーエンドだった『君の名は。』とは異なり、『天気の子』では遂に雨が止むことはない(災厄が収まらない)。それはぼくには作家としての新海監督にとっての前進であると思えたし、コロナ禍のことを考え合わせても、とても予見的な結末だったと思う。
 新海誠は、アニメ監督=モダンファンタジー作家として、宮崎駿よりも細田守よりも意識的に、それはもう比較にならぬほど意識的に、「ニッポンを見舞う災厄」を作品化することに力を注いできた。しかしいっぽう、これまでぼくの知るかぎりでは、現実に起こった出来事と、自らの作品世界との関わりについて、新海さんがはっきりとしたコメントを出したことはない。できるだけ曖昧に濁してきたはずだ。
 「現実は現実」「フィクションはフィクション」ということで、ずっと一線を画してきたのである。だからぼくも、昨年の1月、テレビで初めて観た後にブログで記事を書いたさい、あえてそういったことには触れず、「ロマン主義の極北」としてのみ、『天気の子』を論じたのだった。いわば社会性を完全に脱色するかたちで感想を述べた。
 『君の名は。』について、元歴史学者で今は批評家というべきポジションにいる與那覇潤がこう書いている。






 映画館の誰もが震災を思い出す小彗星の墜落事故を描きながら、『君の名は。』では、当初はうなだれてばかりだった男の子(瀧)がタイムワープして犠牲者の女の子(三葉)に危機を予告し、彼女が仲間たちと変電所の爆発による停電を起こして、地元を救います。わずか5年前の近い過去を、「遠い場所で起こった」「恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶」へと加工し、経済成長や原発行政の当否といった社会的な側面をすべてオミットすることで、神話上の一モチーフとして無害化する。その意味で『君の名は。』の大ブームとともに甦ったセカイ系の想像力は、往時の戦後映画の文法をなぞると同時に、前年の安倍談話と並んで、歴史なき社会への地ならしも完遂していたのです。


與那覇 潤『平成史―昨日の世界のすべて』(文藝春秋)より






 瀧が「当初はうなだれてばかりだった」というのも何だかピンとこないし(三葉の消息を追って糸守消滅の事実を知った際には打ちひしがれていたが、当初はずっと元気であった)、「タイムワープ」というのも少し違うし(「意識だけがリープして時間を超える」というのも一応は「タイムトラベルもの」に分類はされるけど)、「仲間たちと変電所の爆発による停電を起こ」すことで「地元を救」ったわけでもないし(あれは結局無駄だった。町民を避難させたのは町長である三葉の父親)、作品そのものに対する愛情はあまり感じられない文章だけど、「「遠い場所で起こった」「恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶」へと加工し、経済成長や原発行政の当否といった社会的な側面をすべてオミットすることで、神話上の一モチーフとして無害化する。」というフレーズは、初読の際にぼくの心にぐさりと刺さった。
 ようするにこれは、身も蓋もない言い方をすれば、「現実の過酷さをファンタジーの糖衣に包んで口当たりよく商品化した」ということだろう。しかも、「神話上の一モチーフとして無害化」したというからには、たとえば三葉が由緒正しい神社の巫女であることや、随所に引用される和歌の含意なども、すべてが「作品を飾るための意匠にすぎない」という話になる。
 『君の名は。』一作だけのことならば、たしかに、そう言われても仕方がないところはあるなあと、今もなおこの作品のファンであるぼくも思うのだけれど、ただ新海監督は、上記のとおりそのあと『天気の子』でさらに一歩を踏み出したわけで、そしてまた、ネットでの評判を見るかぎり、この『すずめの戸締まり』において、いよいよきちんと覚悟を決めて、さらに一歩、ファンタジーから「現実」のほうへと踏み込んだように見受けられるのである。
 すでに公式のツイッターなどで、「本作には、地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンがございます。警報音は実際のものとは異なりますが、ご鑑賞にあたりましては、予めご了承いただきます様、お願い申し上げます」との注意喚起がなされているし、ネットでの感想を見ていても、「トラウマを抱えてる人は気を付けたほうがいいかも」といった書き込みが目立つ。どうやら、メジャーデビュー3作目において、ついに新海監督は、正面切って「3・11」を描いたということらしい。
 同時に、『君の名は。』に見られた(そして『天気の子』にも引き継がれていた)「日本神話的なモチーフ」の数々も、たんに上辺を飾って勿体をつけるだけの意匠ではなく、日本という国柄の伝統に見合った民俗学的な重さを備えて、より深いところで捉え直されているようだ(盟友RADWIMPS野田洋次郎の『HINOMARU』の件なども合わせ、そこに一抹の危うさを感じ取る向きもあるやもしれぬが)。
 「日本各地の廃墟を舞台に、災いのもとになる“扉”を閉めていく」というテーマは、新海監督が愛読者であることを隠さない村上春樹の短篇「かえるくん、東京を救う」(新潮文庫『『神の子どもたちはみな踊る』所収)を思わせるし、いやそれよりも、何のことはない、時代を超えて愛され続け、リメイクされ続ける『ゲゲゲの鬼太郎』とも通底している。ようするに、すずめは「守り(護り)人」「鎮め人」の役を担うわけだろう。だから、じつはとっくの昔からすでにもうぼくたちに馴染み深い主題なのではあるのだが、3・11や例年の風水害、頻発する地震、さらにおそらくコロナ禍をも踏まえて、ここにきて新海監督は、映像・脚本ともに最高レベルのクオリティーで、当該テーマの最新版を創り上げたということだろう。
 それが見事な作品に仕上がっているのは想像に難くないけれど、しかし、6年前とは大きく違い、今のぼくはファンタジーそのものに深い疑念を抱いてしまっている。映像が美しければ美しいほど、内容が素晴らしければ素晴らしいほど、作品に感動すれば感動するほど、「おれは現実と向き合うことから逃げてるんじゃないか。」という焦燥に駆り立てられるだろう。そんな気がしている。それが安倍元首相の暗殺された7月8日以降のぼくの偽らざる心情なのである。冒頭で「映画館まで足を運ぶかどうか思案中」と書いたのはそのことなのだった。

 この記事を書いた翌日、やはりどうしても観たくなって夜の部の映画館に立ち寄り、『すずめの戸締まり』を鑑賞してきた。とても良かった。
 それで、とりあえずネタバレに配慮しながら書いたのがこちら。

 『すずめの戸締まり』主題歌 RADWIMPS - すずめ feat.十明 [Official Lyric Video]
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/2009b0e165d269292b4ec3f52f0cff6f






≪感情工学≫ ……マーク・フィッシャーのブログ記事(2004.08.03)の試訳

2022-11-06 | 哲学/思想/社会学
資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい。
──マーク・フィッシャー





☆☆☆☆☆☆☆

 マーク・フィッシャー(Mark Fisher 1968~2017)はイギリスの批評家。「k-punk」というブログで知られる。以前にも、Burialの記事で少しだけふれた。ご本人はすでに故人だが、「k-punk」はそのままずっと公開中である(バックが黒で、テキストは白抜きのタイプ文字、しかも、あちこちに妙なコラージュっぽい画像が貼ってあるので、初めて開いた時にはギョッとさせられたが)。
 本日は、その過去記事の中からスピノザについて書かれたものの一つを試訳。べつにさしたる意味はない。というか、自分でもなぜこんなことをしたくなったのかわからない(それこそスピノザ的分析が必要かもしれない)。あえていうなら、現下の日本の政治状況がどうにもバカバカしいので、ちょっと気分を変えたかった。そんなとこかな。ではどうぞ。












☆☆☆☆☆☆☆


 スピノザは哲学者の中の皇子であり、ぼくたちに必要なただひとりの哲学者だ。




 彼は、のちにマルクス思想の第一原理となる、「重要なのは、世界を解釈することではなく、世界を変えることだ。」を当然のものと見なしていた。不合理な行動の根底にある動機を体系的に解明するという彼のプロジェクトは、事実上、300年早い精神分析であった。フロイトはスピノザへの謝辞をほとんど残していないが、それでも書簡の中でスピノザの枠組にとても世話になったと認めている。ラカンはより明確に敬意を表し、彼自身の精神分析からの破門を、スピノザがアムステルダムのシナゴーグから追放されたことと比較している。ドゥルーズの思想はスピノザ抜きには考えられない。
(eminus註 シナゴーグとは、ユダヤ教の祈禱・礼拝の場所、会堂のこと。スピノザの思想はラディカルなまでに明晰すぎて無神論者扱いされ、当時のユダヤの共同体から弾き出されたのだった)




 影響はなくても、親和性をもつことはよくある。スピノザを読んだことがあるかどうかはわからないけれど、バロウズは根っからのスピノザ信者といえよう。ルークもそうだ。
(eminus註 バロウズは『裸のランチ』のあのバロウズだが、ルークというのがどこの誰なのかはわからない。元のサイトにはリンクが張ってあるけど、なんせ古いので、ちょっと踏んでみる気になれない)




 フィリップ・K・ディックは作品の中でスピノザにふれているが、ディックがサイバーパンクに遺したヴィジョンは、ドラッグ、ムード、テクノロジーによって刺激されるシミュレーション世界、つまりギブソン流の「シムスティム」の概念であり、一貫してスピノザ的だった。
(eminus註 
①ディック『逆まわりの世界』のなかに、プロティノス、プラトン、ライプニッツ、カントと並んで、スピノザについての言及がある。知覚のテーマはすべてこれら先達の扱った問題の焼き直しだというのだ。しかしそれを言ってしまったら認識論にかかわるSFが全部そうなんだけども。

②「シムスティム」はサイバーパンクの創始者ウィリアム・ギブソンの作中に出てくる造語。他人の知覚・経験・感覚入力を公開したり記録したりする技術。媒体に記録したものを再生して追体験することもできる)




 このエッセイは、土曜日にシボーンとサウスバンクを散歩していたとき、NFTの外の古本屋でアントニオ・ダマシオの“Looking For Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain”(邦訳『情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』ダイヤモンド社)を偶然に見つけたことに端を発している(偶然に本を発見するのは、もちろん、最良のやりかたである)。
(eminus註 シボーンは女性名。たぶんSiobhan Mckeownのこと。サウスバンクは、ロンドンのテムズ川南岸に位置する風光明媚な地区。NFTは「National Film Theatre」という映画館。いまは「BFI Southbank」と改称して、いわゆるシネコンになっているらしい)




 ダマシオのこの本は驚くべき達成だ。スピノザの説いた「身体と心との関係」を、人間の幸福と自由とを増大させるためのプログラムと結びつけて説明するばかりでなく、最新の科学的知識(ダマシオは神経学者だ)を駆使して、スピノザの概念的枠組が最先端の神経生物学にぴったりと当てはまることを立証してもいる。




 アカデミックな哲学教師たちは、スピノザの『エチカ(倫理学)』第5章「人間の知性の力、あるいは人間の自由について」を恥ずべきもののように扱い、ときに嘲弄を込めて「自己啓発マニュアル」などと揶揄する。当たってる。でも、それこそがスピノザの哲学を空疎な思索に終わらせない強さなのだ(スピノザの洞察をポップセラピーの本に手直しすれば大儲けできるんじゃないかとぼくはつねづね考えている)。




 哲学に縁のない読者なら、スピノザが人間の感情をあまりに冷静かつ幾何学的に扱うので胡散くさく思うかもしれない。ふつう心理学では、感情はとても神秘的なもので、一定の程度を超えた分析をするには曖昧かつ不可解すぎると見られているからだ。だがスピノザは、幸福とは「感情工学」の問題であり、学習して実践できる精密な科学だと主張する。




 スピノザは、俗流カント主義やキリスト教の残滓がぼくたちに植え付けた「善」と「悪」の代わりに、「健康」と「病気」という観点から思考するよう促す。すべての生物に適用される「定言的」義務なんて存在しない。なぜなら、何が「善」であり「悪」であるかは、それぞれの主体の利害に関連しているからだ。スピノザは、ある存在に幸福をもたらすものが、別の存在には毒となると明確に述べており、これは一般常識にも適っている。あらゆる実体の第一の、そして最も重要な原動力は、それ自身の存在に固執する意志だとスピノザは言う。スピノザによれば、ある実体が自らの最善の利益に反して行動し、自らを破壊し始めたとき……悲しむべきことに、彼の観察するとおり、人間は絶えずそうしているが……彼(ないし彼女)は外部の力に乗っ取られている。自由で幸福であるためには、これら外部からの侵入者を追い払い(祓い)、理性に従って行動しなければならない。




 身体を乗っ取るエイリアンとか、ウイルスに対するオブセッション(強迫観念)を見るにつけ、バロウズは完全なるスピノザ主義者といえる。バロウズ世界の主人公は、薬物、性欲、妄想など、なんらかへの渇望に縛り付けられた人間……つまり中毒者あるいは依存者であり、外部からの力に奴隷化されている。スピノザは、自分へのコントロールを取り戻すためには理性が不可欠ではあれ、それだけでは十分ではないことを明らかにした。理性は目標を設定できるが、感情は、より強い感情の育成によってのみ克服することができるのだ。




 ダマシオはまず、「心とは身体の観念である」というスピノザの主張を説明し、掘り下げることから始める。彼は「情動」と「感情」(ふたつを総称して「影響」と呼ぶ)とを峻別する。情動が主観に先立つ反応傾向であるのに対し、感情はこれらの反応の意識的な処理なのだ。スピノザの考えに似た区別として、食欲……ある対象への衝動……と欲望……その衝動を意識的に把握すること……がある。ダマシオは、スピノザの描くこの相関図が、驚くべきことに、神経生物学によって裏付けられるのを実証する。心の崇高さは、生物学の崇高さに見合っているというわけだ。




 ダマシオの本は読んでいるだけで楽しいが、ドゥルーズ思想と照らし合わせることで、より有益になると思う。ドゥルーズとガタリがスピノザを「器官なき身体」の偉大な予言者として扱うのに対し、有機体にこだわるダマシオは、致命的にも、たぶんスピノザの「身体」を有機体と同一視している。さらにダマシオは、至福はホメオスタシス(奇妙なことに、彼は「ホメオダイナミクス」という用語を好むと表明したのち、二度とこの用語を使わなかった!)を達成することによって得られると主張しており、プラトーを強調するドゥルーズ=ガタリとは緊張関係にあることになる。
(eminus註
①器官なき身体……
corps sans organes(仏)
 ドゥルーズ=ガタリの基本ワードのひとつ。もちろんwikiにも詳しい記述があるが、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の解説が簡潔なので転載させていただきましょう(一部を改稿)。
「現代フランスの劇作家A.アルトーが作った言葉で、G.ドゥルーズと F.ガタリがアンチ・オイディプスの中で取り上げ、一般に広まった。アルトーは、「身体は身体。器官はいらない。身体はけっして有機体ではない。有機体どもは身体の敵。人のすることは,どんな器官とも協力なしに全くひとりでに起こる」と言っているが、原義をよく伝えている。ドゥルーズらはそれを受け、個々の器官を統一する高次元の有機体、全体を支配する組織体を否定している。一般に、部分を一定の役割に閉じ込めてしまうような統一体が存在するという前提を捨てて、それぞれの部分に多様な組み合わせの可能性を開き、常に流動的で、新たな接合を求めていこうとする考えを表している。」

➁ホメオスタシス……恒常性
 ホメオダイナミクス……これも訳せば「恒常性」になると思うが、「スタシオ」は静的で、「ダイナミクス」は動的。

③プラトー……これもD/Gのキーワードのひとつだが、説明は難しい。とりあえず、日本版wiki「ミル・プラトー(千の高原)」の当該箇所を、一部を改稿・補足のうえで引用してみる。
「高原を意味するフランス語で、この書物の各章を指し、それぞれが複雑な概念で構成された高み(山ではなく、頂が平面であることが、存立平面への比喩も兼ねている)となっていることをあらわす。」
 しかし、これではフィッシャーの言っていることとの繋がりがよくわからない。次に、松岡正剛の千夜千冊 1082夜「アンチ・オイディプス」から、適切な箇所を抜き出してみる。
「プラトー(高原・高地)という言葉の思想的な意味は、かのグレゴリー・ベイトソンがバリ島を調査したときに特別の用法で使ってこのかた、ドゥルーズとガタリがこれを新たなカテゴリーとして蘇らせるまで、ほぼ死んでいた。/ドゥルーズとガタリにとってプラトーとは、とりあえずは多様な強度が連続する地帯のことなのだが、殊更に、そこでどこかの頂点へ向かおうとする目標を回避する気になるような高原地帯のことを意味している。」
 これでもまだわかりにくいが、フィッシャーとの繋がりは少しはっきりしてきた。「多様な強度が連続する地帯」。とてもダイナミックなものだという感じは伝わるだろう。
 フィッシャーによれば、ダマシオは「至福は恒常性を達成することで得られる。」と主張する。だがドゥルーズ=ガタリの「プラトー」は、「恒常性」からは程遠く、むしろ、激しく流動しているものだ。だから「緊張関係にある」という話になるわけだ。)




 スピノザの神についての説明の中で、ぼくたちは彼の「器官なき身体」のヴィジョンに遭遇する。スピノザの支持者の多くは、彼を人文主義的啓蒙主義の先駆者と位置付けたがっているようだ。あたかも彼の有名な公式「神=自然」や、「神への知的愛によってのみ最大の喜びが得られる。」という主張が、根幹にある無神論を隠すためにコード化された暗号ででもあったかのように。だが、そう考えられているのなら、それは誤りだ。スピノザは人格神を否定して、神は世界に介入することができず、賞賛も非難もせず、報酬も罰も与えないと主張した。そのために悪意に満ちた非難を受け、排斥され、命を狙われることさえあった。しかし、スピノザを隠れ無神論者と考えることは、同時代の宗教批判者たちが犯したのと同じ過ちを繰り返すことになる(そして彼らの侮辱を繰り返すことにもなる)。スピノザの神は、無関心さえをも超越した、輝かしく、寂しく、いかなる利害関係も持たない存在なのだ。神に対する知的愛とは、じっさいのところ、器官なき身体としての宇宙との同一化である。スピノザは、大いなるゼロである神に対する唯一の適切な応答は、崇拝ではなく、畏怖、驚異、恐怖であるという信念を持っていた。彼の思想は、彼が残した他の大いなる遺産と同じように、無情なる唯物論的霊性をぼくたちに提示しているのだ。






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 ……このとおり、マーク・フィッシャーの書くものは、同時代のサブカルや映画、それに前回紹介したような音楽などのトピックスと、最先端の思想や古典的な哲学、それにアクチュアルな政治情況への言及などがヴィヴィッドに絡み合って、たいへん刺激に富んでいる。すごくアタマのいい人なのであろうが、あまりにも多くのものが視え、多くのものが聴こえすぎたのだろうか、50歳になるのを俟たずに自裁してしまった。ぼくが彼のブログを知ったのは2年ほど前で、以来どうにかして「ダウンワード・パラダイス」をこれに近づけたいと目論んでいるのだが、才能と知識が彼の10000の1くらいしかないため、はるかに遠く及ばない。でも、そのおかげかどうか、こうやってまだ生きている。喜ぶべきか悲しむべきか。








参考サイト
生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』
樋口恭介
2019/03/15
https://inquire.jp/2019/03/15/fisher_review_higuchi/



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