資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい。
──マーク・フィッシャー
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マーク・フィッシャー(Mark Fisher 1968~2017)はイギリスの批評家。「k-punk」というブログで知られる。以前にも、Burialの記事で少しだけふれた。ご本人はすでに故人だが、「k-punk」はそのままずっと公開中である(バックが黒で、テキストは白抜きのタイプ文字、しかも、あちこちに妙なコラージュっぽい画像が貼ってあるので、初めて開いた時にはギョッとさせられたが)。
本日は、その過去記事の中からスピノザについて書かれたものの一つを試訳。べつにさしたる意味はない。というか、自分でもなぜこんなことをしたくなったのかわからない(それこそスピノザ的分析が必要かもしれない)。あえていうなら、現下の日本の政治状況がどうにもバカバカしいので、ちょっと気分を変えたかった。そんなとこかな。ではどうぞ。
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スピノザは哲学者の中の皇子であり、ぼくたちに必要なただひとりの哲学者だ。
彼は、のちにマルクス思想の第一原理となる、「重要なのは、世界を解釈することではなく、世界を変えることだ。」を当然のものと見なしていた。不合理な行動の根底にある動機を体系的に解明するという彼のプロジェクトは、事実上、300年早い精神分析であった。フロイトはスピノザへの謝辞をほとんど残していないが、それでも書簡の中でスピノザの枠組にとても世話になったと認めている。ラカンはより明確に敬意を表し、彼自身の精神分析からの破門を、スピノザがアムステルダムのシナゴーグから追放されたことと比較している。ドゥルーズの思想はスピノザ抜きには考えられない。
(eminus註 シナゴーグとは、ユダヤ教の祈禱・礼拝の場所、会堂のこと。スピノザの思想はラディカルなまでに明晰すぎて無神論者扱いされ、当時のユダヤの共同体から弾き出されたのだった)
影響はなくても、親和性をもつことはよくある。スピノザを読んだことがあるかどうかはわからないけれど、バロウズは根っからのスピノザ信者といえよう。ルークもそうだ。
(eminus註 バロウズは『裸のランチ』のあのバロウズだが、ルークというのがどこの誰なのかはわからない。元のサイトにはリンクが張ってあるけど、なんせ古いので、ちょっと踏んでみる気になれない)
フィリップ・K・ディックは作品の中でスピノザにふれているが、ディックがサイバーパンクに遺したヴィジョンは、ドラッグ、ムード、テクノロジーによって刺激されるシミュレーション世界、つまりギブソン流の「シムスティム」の概念であり、一貫してスピノザ的だった。
(eminus註
①ディック『逆まわりの世界』のなかに、プロティノス、プラトン、ライプニッツ、カントと並んで、スピノザについての言及がある。知覚のテーマはすべてこれら先達の扱った問題の焼き直しだというのだ。しかしそれを言ってしまったら認識論にかかわるSFが全部そうなんだけども。
②「シムスティム」はサイバーパンクの創始者ウィリアム・ギブソンの作中に出てくる造語。他人の知覚・経験・感覚入力を公開したり記録したりする技術。媒体に記録したものを再生して追体験することもできる)
このエッセイは、土曜日にシボーンとサウスバンクを散歩していたとき、NFTの外の古本屋でアントニオ・ダマシオの“Looking For Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain”(邦訳『情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』ダイヤモンド社)を偶然に見つけたことに端を発している(偶然に本を発見するのは、もちろん、最良のやりかたである)。
(eminus註 シボーンは女性名。たぶんSiobhan Mckeownのこと。サウスバンクは、ロンドンのテムズ川南岸に位置する風光明媚な地区。NFTは「National Film Theatre」という映画館。いまは「BFI Southbank」と改称して、いわゆるシネコンになっているらしい)
ダマシオのこの本は驚くべき達成だ。スピノザの説いた「身体と心との関係」を、人間の幸福と自由とを増大させるためのプログラムと結びつけて説明するばかりでなく、最新の科学的知識(ダマシオは神経学者だ)を駆使して、スピノザの概念的枠組が最先端の神経生物学にぴったりと当てはまることを立証してもいる。
アカデミックな哲学教師たちは、スピノザの『エチカ(倫理学)』第5章「人間の知性の力、あるいは人間の自由について」を恥ずべきもののように扱い、ときに嘲弄を込めて「自己啓発マニュアル」などと揶揄する。当たってる。でも、それこそがスピノザの哲学を空疎な思索に終わらせない強さなのだ(スピノザの洞察をポップセラピーの本に手直しすれば大儲けできるんじゃないかとぼくはつねづね考えている)。
哲学に縁のない読者なら、スピノザが人間の感情をあまりに冷静かつ幾何学的に扱うので胡散くさく思うかもしれない。ふつう心理学では、感情はとても神秘的なもので、一定の程度を超えた分析をするには曖昧かつ不可解すぎると見られているからだ。だがスピノザは、幸福とは「感情工学」の問題であり、学習して実践できる精密な科学だと主張する。
スピノザは、俗流カント主義やキリスト教の残滓がぼくたちに植え付けた「善」と「悪」の代わりに、「健康」と「病気」という観点から思考するよう促す。すべての生物に適用される「定言的」義務なんて存在しない。なぜなら、何が「善」であり「悪」であるかは、それぞれの主体の利害に関連しているからだ。スピノザは、ある存在に幸福をもたらすものが、別の存在には毒となると明確に述べており、これは一般常識にも適っている。あらゆる実体の第一の、そして最も重要な原動力は、それ自身の存在に固執する意志だとスピノザは言う。スピノザによれば、ある実体が自らの最善の利益に反して行動し、自らを破壊し始めたとき……悲しむべきことに、彼の観察するとおり、人間は絶えずそうしているが……彼(ないし彼女)は外部の力に乗っ取られている。自由で幸福であるためには、これら外部からの侵入者を追い払い(祓い)、理性に従って行動しなければならない。
身体を乗っ取るエイリアンとか、ウイルスに対するオブセッション(強迫観念)を見るにつけ、バロウズは完全なるスピノザ主義者といえる。バロウズ世界の主人公は、薬物、性欲、妄想など、なんらかへの渇望に縛り付けられた人間……つまり中毒者あるいは依存者であり、外部からの力に奴隷化されている。スピノザは、自分へのコントロールを取り戻すためには理性が不可欠ではあれ、それだけでは十分ではないことを明らかにした。理性は目標を設定できるが、感情は、より強い感情の育成によってのみ克服することができるのだ。
ダマシオはまず、「心とは身体の観念である」というスピノザの主張を説明し、掘り下げることから始める。彼は「情動」と「感情」(ふたつを総称して「影響」と呼ぶ)とを峻別する。情動が主観に先立つ反応傾向であるのに対し、感情はこれらの反応の意識的な処理なのだ。スピノザの考えに似た区別として、食欲……ある対象への衝動……と欲望……その衝動を意識的に把握すること……がある。ダマシオは、スピノザの描くこの相関図が、驚くべきことに、神経生物学によって裏付けられるのを実証する。心の崇高さは、生物学の崇高さに見合っているというわけだ。
ダマシオの本は読んでいるだけで楽しいが、ドゥルーズ思想と照らし合わせることで、より有益になると思う。ドゥルーズとガタリがスピノザを「器官なき身体」の偉大な予言者として扱うのに対し、有機体にこだわるダマシオは、致命的にも、たぶんスピノザの「身体」を有機体と同一視している。さらにダマシオは、至福はホメオスタシス(奇妙なことに、彼は「ホメオダイナミクス」という用語を好むと表明したのち、二度とこの用語を使わなかった!)を達成することによって得られると主張しており、プラトーを強調するドゥルーズ=ガタリとは緊張関係にあることになる。
(eminus註
①器官なき身体……
corps sans organes(仏)
ドゥルーズ=ガタリの基本ワードのひとつ。もちろんwikiにも詳しい記述があるが、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の解説が簡潔なので転載させていただきましょう(一部を改稿)。
「現代フランスの劇作家A.アルトーが作った言葉で、G.ドゥルーズと F.ガタリがアンチ・オイディプスの中で取り上げ、一般に広まった。アルトーは、「身体は身体。器官はいらない。身体はけっして有機体ではない。有機体どもは身体の敵。人のすることは,どんな器官とも協力なしに全くひとりでに起こる」と言っているが、原義をよく伝えている。ドゥルーズらはそれを受け、個々の器官を統一する高次元の有機体、全体を支配する組織体を否定している。一般に、部分を一定の役割に閉じ込めてしまうような統一体が存在するという前提を捨てて、それぞれの部分に多様な組み合わせの可能性を開き、常に流動的で、新たな接合を求めていこうとする考えを表している。」
➁ホメオスタシス……恒常性
ホメオダイナミクス……これも訳せば「恒常性」になると思うが、「スタシオ」は静的で、「ダイナミクス」は動的。
③プラトー……これもD/Gのキーワードのひとつだが、説明は難しい。とりあえず、日本版wiki「ミル・プラトー(千の高原)」の当該箇所を、一部を改稿・補足のうえで引用してみる。
「高原を意味するフランス語で、この書物の各章を指し、それぞれが複雑な概念で構成された高み(山ではなく、頂が平面であることが、存立平面への比喩も兼ねている)となっていることをあらわす。」
しかし、これではフィッシャーの言っていることとの繋がりがよくわからない。次に、松岡正剛の千夜千冊 1082夜「アンチ・オイディプス」から、適切な箇所を抜き出してみる。
「プラトー(高原・高地)という言葉の思想的な意味は、かのグレゴリー・ベイトソンがバリ島を調査したときに特別の用法で使ってこのかた、ドゥルーズとガタリがこれを新たなカテゴリーとして蘇らせるまで、ほぼ死んでいた。/ドゥルーズとガタリにとってプラトーとは、とりあえずは多様な強度が連続する地帯のことなのだが、殊更に、そこでどこかの頂点へ向かおうとする目標を回避する気になるような高原地帯のことを意味している。」
これでもまだわかりにくいが、フィッシャーとの繋がりは少しはっきりしてきた。「多様な強度が連続する地帯」。とてもダイナミックなものだという感じは伝わるだろう。
フィッシャーによれば、ダマシオは「至福は恒常性を達成することで得られる。」と主張する。だがドゥルーズ=ガタリの「プラトー」は、「恒常性」からは程遠く、むしろ、激しく流動しているものだ。だから「緊張関係にある」という話になるわけだ。)
スピノザの神についての説明の中で、ぼくたちは彼の「器官なき身体」のヴィジョンに遭遇する。スピノザの支持者の多くは、彼を人文主義的啓蒙主義の先駆者と位置付けたがっているようだ。あたかも彼の有名な公式「神=自然」や、「神への知的愛によってのみ最大の喜びが得られる。」という主張が、根幹にある無神論を隠すためにコード化された暗号ででもあったかのように。だが、そう考えられているのなら、それは誤りだ。スピノザは人格神を否定して、神は世界に介入することができず、賞賛も非難もせず、報酬も罰も与えないと主張した。そのために悪意に満ちた非難を受け、排斥され、命を狙われることさえあった。しかし、スピノザを隠れ無神論者と考えることは、同時代の宗教批判者たちが犯したのと同じ過ちを繰り返すことになる(そして彼らの侮辱を繰り返すことにもなる)。スピノザの神は、無関心さえをも超越した、輝かしく、寂しく、いかなる利害関係も持たない存在なのだ。神に対する知的愛とは、じっさいのところ、器官なき身体としての宇宙との同一化である。スピノザは、大いなるゼロである神に対する唯一の適切な応答は、崇拝ではなく、畏怖、驚異、恐怖であるという信念を持っていた。彼の思想は、彼が残した他の大いなる遺産と同じように、無情なる唯物論的霊性をぼくたちに提示しているのだ。
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……このとおり、マーク・フィッシャーの書くものは、同時代のサブカルや映画、それに前回紹介したような音楽などのトピックスと、最先端の思想や古典的な哲学、それにアクチュアルな政治情況への言及などがヴィヴィッドに絡み合って、たいへん刺激に富んでいる。すごくアタマのいい人なのであろうが、あまりにも多くのものが視え、多くのものが聴こえすぎたのだろうか、50歳になるのを俟たずに自裁してしまった。ぼくが彼のブログを知ったのは2年ほど前で、以来どうにかして「ダウンワード・パラダイス」をこれに近づけたいと目論んでいるのだが、才能と知識が彼の10000の1くらいしかないため、はるかに遠く及ばない。でも、そのおかげかどうか、こうやってまだ生きている。喜ぶべきか悲しむべきか。
参考サイト
生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』
樋口恭介
2019/03/15
https://inquire.jp/2019/03/15/fisher_review_higuchi/
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