ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

将棋の話。23.06.17 その②

2023-06-17 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)
 藤井聡太竜王(王位・叡王・棋王・王将・棋聖)が4勝1敗で渡辺明名人を下して名人位を奪取したのは、長野県高山村の老舗旅館「緑霞山宿 藤井荘」に於いてのことだった。これにより、最年少名人の記録を塗り替えると共に、羽生さん以来の「7冠制覇」を成し遂げることにもなった。
 羽生さんの時には「叡王」はなかったから、「7冠制覇」は「全冠制覇」でもあった。いま藤井さんは「王座」を保持していないため、7冠ではあっても全冠ではない。それにしてもしかし、「最年少名人」はまだしも、「最年少7冠」という語はどこかナンセンスに聞こえる。
 つまり、名人位はじめ、タイトル保持者は必ず年に一回更新されるので、「最年少」というのも意味をもつけれど、「7冠」とはそういうものではないからだ。本来ならばありえない事象なのである。
 羽生善治が25歳の時にとんでもない偉業をやり、藤井聡太が20歳の時にとんでもない偉業をやった。その5歳の差にどれほどの意味があるんだろうか……。どっちにしても、そんなのは、この二人だけのことに違いない。
 まして8冠同時制覇となると、これはもう疑いもなく「絶後」のことになるだろう。そんなことをやってのける棋士がいずれまた出るとは思えない。
 名人位は慶長年間(江戸時代の初頭)の大橋宗桂に端を発するのだけれど、長らく名誉称号であった。近代になって「実力制」として制度化されたわけだが、この時に初代名人となったのが、今もなお「角換わり」という戦型において不滅の「木村定跡」に名を留める木村義雄。1937(昭和12)のことだから、まだ「戦前」である。
 藤井聡太新名人は、ここから数えて81代めに当たる。「81」といえば将棋盤の枡目の数であり、古来、81歳のことを「盤寿」と呼び習わしている。さきの「藤井荘」といい、「81」といい、どうにもいちいち出来すぎており、練達の脚本家がかいたシナリオだって、なかなかこうは運ばないだろう。ぼくは超越的なことを一切信じない主義だが、「将棋界」という極めて限られた小世界においては、「天意」というものの存在を認めてもいいかな……という気もする。
 これは、いたずらに藤井聡太という棋士を神格化しようという話ではなくて、並外れた才幹を持って生まれたひとりの人物が、日々たゆまぬ研鑽を重ね、いかなる重圧にも屈せぬタフな精神と、頑健な体力をもって一勝ずつを積み上げた結果、「奇跡」とでも呼ぶしかないような事態をしぜんに招来している……そんな現実に対して、ぼくがシンプルに感嘆しているということである。
 じっさい、盤上での駒さばきだけでなく、インタビューや対談にみる受け答えや態度、ことばの選び方なども、端々まで行き届いており、どうすればこんな青年ができあがるのかと、不思議な感じがする。じぶんの20歳の頃なんて、生意気で、世間知らずで、なんの実績もなく、ただ口先ばかり達者で、騒々しく走り回っているだけだったが……(今でもまあ、さほど進歩したわけでもないけども)。
 もちろんぼくは、輝かしい記録の数々とか、ご本人の立ち居振る舞いの見事さだけで、かくもアツくなってるわけではない。とうぜんながら、藤井さんの生み出す棋譜が(それはもとより卓越した相手があってこそだが)美しく、華があって、面白いからだ。
 そういう意味で、優れた棋譜は「作品」と呼ぶにふさわしい。いい棋譜を並べることは、いい小説を読み、いい絵画を鑑賞し、いい音楽を聴くのとなんら変わりはない。
 むろん隈なく理解できるわけではないけれど、藤井7冠の棋譜をいささかなりとも味わえるのはありがたいことで、ぼくがこれまで多少なりとも将棋に入れあげてきたのは、このためであったろうか……と思ったりもする。
 ぼくの個人史などどうでもいいが、いちおう説明のために断っておくと、「町道場の三段」レベルである。最近は将棋ウォーズの段級位でいうのが通例になっているようだが、ネット将棋での対人戦はやったことがないので、わからない。
 PCには「bonanza」と「技巧2」をインストールしていて、もっぱら「技巧2」を使っている。
 この将棋ソフトの発達が「将棋」というゲームの成り立ちそのものを揺るがせたことはいうまでもない。2017(平成29)年に時の名人・佐藤天彦九段がソフトに敗北したことで、「もはや人間はソフトに勝てない。」ことが明らかになった。しかもその前には竜王戦という大舞台の前段階で「ソフトの不正使用疑惑」なるものが持ち上がっており、関係各位に深い傷を与えた。谷川会長以下、複数の理事たちも責任を取って退任した。
 あのときは、いくぶん大袈裟にいうならば、プロ棋界が存在意義を問われていたのではないかと思う。ぼく自身、プロの棋譜を見ることにほとんど関心を持てなくなっていた。
 藤井さんの登場はそんな空気を一変させた。たんに新たなスターの出現というだけではない。藤井聡太という棋士は、ソフト相手に勝ち負けを争うのではなく、「ソフトの助けを借りて研究を深めることにより、人間はどこまで強くなれるのか。」を、身をもって追求していたのである。いわば、このときに人間と将棋ソフトとのあいだで、より新しく、豊かな可能性に満ちた関係性がひらかれたのだった。




将棋の話。23.06.17 その①

2023-06-17 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)
 気づけば1ヶ月あまり更新していない。OCN時代も含めれば20年ちかくブログをやっていて、合間に1年以上ほったらかしにしていたこともあるので、これくらいはぜんぜん序の口なのだが、今回のばあい、理由ははっきりしている。
 5月中は、皆川博子さんの小説を読んでいた。インプットにかまけて、アウトプットをサボってたわけだ。そして6月いこうは、将棋のことばかり考えている。将棋でアタマがいっぱいになってる。ブンガクのことも、政治の話も、今はなかなか入ってこない。
 6月1日。この日の晩に藤井聡太竜王(王位・叡王・棋王・王将・棋聖)が渡辺明名人を破り、谷川浩司九段のもつ史上最年少名人の記録を40年ぶりに塗り替えたのだった。あれにはほんとにコーフンした。その余韻がなお醒めやらぬわけだ。
 いま書いたとおり、藤井さんはすでに6つのタイトルを持っており、最初に「棋聖」位を獲得したときには屋敷伸之九段のもつ「史上最年少タイトル」の記録を塗り替えている。四段デビュー直後からの衝撃的な29連勝で、社会現象にもなったのは周知のとおりだけど、あの際には神谷広志八段のもつ「連勝」記録を塗り替えてもいた。とにかくむやみに塗り替えているのである。故・井上ひさし先生ならば、「まるで熟練のペンキ屋さんのように」とか何とか、軽妙な形容を付けそうなところだ。
 タイトル戦は賞金額によって格付けされるので、最高位は「竜王」である。すでに藤井さんはそれを取っている。あのときももちろんぼくは熱中したが、今回ほどではなかった。ぼくだけでなく、専門集団たる将棋界ぜんたいの雰囲気としても、「ついに来るべき時が来たか。」といった趣と共に、これまでの6タイトルの時とは異なる、なにかしら粛然たるものを感じる。ことほどさように、「名人」というタイトルは別格なのだ。
 むろん江戸時代より連綿とつづく伝統と格式というものがある。しかしそれだけではない。
 タイトル戦はそれぞれ挑戦者を選ぶ方式が違う。竜王位のばあい、賞金額は最高なのだが形式はいちばんオープンだ。基本的にはトーナメント方式で、きのう四段になったばかりの新鋭も参加できるし、女流棋士にも、アマチュアにも参加枠が設けられている。
 だから、並みいる強豪を薙ぎ倒してがんがん勝ち進んでいけば、少なくとも可能性としては、新四段でも、女流棋士でも、それどころかアマチュアでさえ、その年の竜王に挑戦する資格を得ることができるし、本番の七番勝負で勝ち越せば、竜王位を得ることもできる理屈だ(駱駝が針の穴を通り抜けるより難しい確率だとは思うが)。
 しかしいっぽう名人位は、挑戦権を得るまでに、まずプロの四段になって、「順位戦」というリーグを、1年かけて一つずつ昇級していかねばならない。これがC2からC1、B2、B1、Aと、5つのクラスに分かれている。下に行くほど人数が増すピラミッド構造で、よほどの実力者であっても容易には抜けられない。
 そしてAクラス精鋭10名の総当たりで、もっとも勝ち数の多い1人が挑戦権を得る。つまり最速で駆け抜けたとしても、どうしたって5年はかかる。
 だから1983(昭和58)年に谷川浩司さんが名人になった際は大きな話題になった。あれで棋界の歴史はかわった。経験の多寡にかかわらず、才能と研究量によって頂点に(当時まだ竜王位はない)登りつめることができる……という認識が全国の将棋少年たちのあいだにいきわたった。ほぼ10歳下の羽生善治さんをはじめ、森内俊之、佐藤康光、村山聖といった「羽生世代」がのちに棋界を席巻する種はあのときに蒔かれたといっていいのではないか。だから谷川さんの功績は大きいのだ。
 そのとき谷川八段(当時)は21歳だったので、この記録を塗り替えるには、少なくとも中学生でプロ棋士になっていなければならぬ道理である。将棋の長い歴史において、中学生でプロになったのは五人しかいない。「神武以来の天才」と謳われた加藤一二三、次が谷川で、そのあとは羽生、そして渡辺明、藤井聡太。これだけだ。
 総タイトル獲得数99期を誇る羽生善治さんは、19歳で初タイトルの竜王を取ったが、初めて名人になったのは23歳のこと。渡辺明さんも、20歳で初タイトルの竜王位をとってから9連覇を果たし、いちど明け渡したのち復位して初代の「永世竜王」を獲得した大才だが、なぜか名人には縁遠く、3年前の2020(令和2)年が初めてだった。年齢でいえば36歳のことになる。そこから3連覇を果たしたところで、このたび藤井六冠に奪取されてしまったわけだ。
 藤井新名人はいま20歳と10ヶ月とのことなので、この先、もしこの記録を塗り替える棋士が現れるとしたら、史上初の「小学生プロ」の登場を俟(ま)つか、もしくは順位戦のシステムが大きく変わるか……それくらいしか考えにくい。
 名人位の就任年齢にこだわるのは、たんに記録うんぬんのせいだけではない。在位期間の問題である。在位期間の最長記録保持者は、昭和を代表する大棋士で、今もなおその偉大さが語り継がれる大山康晴15世の18期。次いで、戦後の高度成長期を代表する大棋士・中原誠16世の15期。
 このお二人の存在感はあまりに大きく、ぼくなどが小学生の頃には「将棋指し」といえばこの二人の顔がすぐに浮かんだ。ほかには、蓬髪に無精ヒゲで胸元のちょっとはだけた和服姿の升田幸三・実力制第4代名人くらいか(ちょっと昭和の「文士」の典型的なイメージに通じるものがある。五味康祐とか)。そんな按配だったから、上でも述べた谷川浩司さんの台頭がいかにも清新だったわけである。
 名人位の獲得数で中原さんの15期に次ぐのは羽生さんの9期。タイトル獲得の総数においては上述のとおり99期と、2位の大山康晴80期、3位の中原誠64期の両大家をしのぐ羽生さんだけれど、こと名人位にかんしては、「あれほどの大棋士にしては、やや物足りない。」といわれたりもする。ちなみに谷川さんは5期どまり(これは上では中原さんに阻まれ、下からは羽生世代に追い立てられたことが大きい)。
 むろん、ふつうの棋士にとっては、名人・竜王はおろか、生涯においてタイトルをひとつでも取ること……いやそれどころか、タイトルに挑戦することですら大変なわけで、これはもうほんとうに、「雲の上のそのまた遥かな上の上」の話をしているわけだが……。
 ともあれ、この歳にして「空前絶後の壮挙」といわれた羽生さんの「七冠」を達成してしまった(結果として「絶後」ではなかったわけだが)藤井さんとしては、「前人未到の八冠同時制覇」や「タイトル総獲得数100期(羽生超え)」と並んで、「名人在位18期以上(大山超え)」もまた期待されているわけだ。そのためには初戴冠が早いほど良い。だから、このたびの名人就位は意義が大きいわけである。
 当ブログ、しばらくは将棋の話が続きそうだ。関心のない方にとっては「なんのこっちゃ」という感じやもしれぬが、「好きなことを好きな時に好きなように書く。」というのが当ブログの身上なので、しょうがない。よろしければお付き合いください。