ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「宇宙よりも遠い場所」のためのメモ 03 めぐっちゃん

2018-09-30 | 宇宙よりも遠い場所




 5人目のヒロイン、めぐっちゃん。
 05話「Dear my friend」。Friendは単数形なので、これは南極行きの仲間たちではなく、「ほかならぬあなた」、すなわちキマリにとってのめぐっちゃん、そして、めぐっちゃんにとってのキマリのことだ。
 消息を絶った母に報瀬が送り続けるメールの宛名「Dear お母さん」と対になってることからも、ものすごく大切な相手だとわかる。
 幼い頃からめぐっちゃんとずっと一緒だったからこそキマリは今のキマリなわけで、だからこそ彼女は10話で「友達というのはどういうものか」を結月に伝えるさい、めぐっちゃんとのメールのやり取りを、自信をもって結月に示すことができる。
 05話前半の舘林・茂林寺でのシーンで、めぐっちゃんが「陰で流されている黒い噂」としてキマリに告げたのは、
 資金集めのための「コンビニでの万引き」と「歌舞伎町で男の人と遊びまくっていること」の2点。
 ほんとうにそのような噂が流されていたのか、めぐっちゃんが、キマリの心をかき乱すために誇張した言い方をしたのかはわからない。しかし間違いなく言えるのは、めぐっちゃん自身がそんな噂を流したわけではないということ。
 めぐっちゃんがやったのは、翌朝、旅立つキマリに絶交を告げに来たときに述べたとおり、
 ①「報瀬とキマリが新宿に行ったこと」と「報瀬が百万円を持っていること」を学校で漏らした。
 ➁「キマリの南極行きの話」をキマリの母に伝えた。
 これくらいなのだ。上記の噂がもし本当に流されてたとしたら、それは「尾ひれがついた」というやつである。
 めぐっちゃんのしたことは、もちろん良くないことではあるが、「けして許されない」ってほどではないとぼく個人は思う。
 キマリが出立する前夜、めぐっちゃんは、「南極」だの「バイトの子」だのと突き放した目で見ていた報瀬および日向とじっさいに会い、少しだけ打ち解け、さらにそのあとキマリと二人でじっくり話したことで、自分の中に渦巻いていた感情にようやく整理をつける。
 自分はキマリに依存されることによって、ほんとうは、逆にキマリに依存していたのだと。それ以外に自分は何も持っていなくて、だからキマリにも何も持たせたくなかったのだと。
 「ここじゃない所に向かわなくちゃいけないのは、私なんだよ。」と。
 その思いの激しさと、キマリに対する罪悪感の大きさを、自分からの「絶交宣言」という形で表現せざるをえないのが、めぐっちゃんのめぐっちゃんたる所以なんだろう。
 そのやり方が正しかったかどうかは正直いってわからない。ただ、その態度がきわめて真率なものであったのは確かだ。
 その真率さは、11話で出てきた、日向のかつての部活仲間のへらへら、ちゃらちゃらとは正反対のものである。
 あの部活仲間はたぶん、01話で報瀬にからんでいた上級生やなんかと同じく、「澱んだ水」のなかにいて、この先もずっと、「ここじゃない所に向かわなくちゃいけない」と思ったりはしない人たちなんだろう。
 めぐっちゃんはそうではない。
 そして、すべてを締めくくる13話のラストで鮮やかにそれを証明し、キマリとぼくたちをびっくりさせた(画像を見ながら「なんで……なんで……」とつぶやくキマリは、泣き笑いの顔だ)。
 ラストシーン、キマリの「帰ったよー」に間髪入れず返ってきた即レスは、単独で、ぽんと出てきたものじゃない。空港できっぱりと別れた4人が、それぞれの帰路につきながら、それぞれに綴るモノローグのなか、
 キマリ「旅に出て、初めて知ることがある」
 報瀬「この景色が、かけがえのないものだということ」
 結月「自分が見ていなくても、人も世界も変わっていくということ」
 日向「何もない一日なんて、存在しないということ」
 キマリ「自分の家に、匂いがあること」
 報瀬「それを知るためにも、足を動かそう。知らない景色が見えるまで、足を動かしつづけよう」
 日向「どこまで行っても、世界は広くて、新しい何かは必ず見つかるから」
 結月「ちょっぴり怖いけど、きっとできる」
 キマリ「だって……」
 ※ココに挟まれるのである。
 キマリ「同じ思いの人は、すぐ気づいてくれるから」


 だから、めぐっちゃんは、「同じ思いの人」なのだ。ほかの3人とはまた別の意味で、今でもやっぱり、キマリの親友なのである。

「宇宙よりも遠い場所」のためのメモ。02 トリビア(もちろんほんの一部)。

2018-09-29 | 宇宙よりも遠い場所

 トリビアと、忘れがたい演出。
 もちろんほんの一部です。

 01話。「青春しゃくまんえん」
 学校をサボって小旅行をするために、いつもより早起きして早めに家を出たキマリは、自転車に乗って新聞配達から戻る報瀬と、家の前ですれ違っている……という説があるが、真偽は微妙。
 


 合羽を着こんでいるため顔はわからない。ただその下に多々良西高校のジャージを着ているのは確かで、報瀬がジャージ姿で新聞配達をしていることは、EDの映像からわかる。そして、これが報瀬の自転車ではないことも、同じEDの映像からわかる。しかし販売店の自転車ならば前カゴに雨除けのカバーが付いているはずだが、それはない。いっぽう、背後の腰の辺りに通学用のカバンらしき膨らみがみえる。判断はきわめて難しい。
 こんな一瞬のカットでさえ、あれこれ議論を呼ぶくらい、ていねいに作り込まれたアニメなのである(なおぼく自身は、これはやはり報瀬だろうと思っている)。


 02話。「歌舞伎町フリーマントル」
 報瀬と別れて駅舎に入り、改札機を通るさい、日向のICカードの残高は4562円。キマリのほう(名称は「soiya」)は152円。ふたりの懐具合と、性格の違いを示唆しているのだろう。

 03話。「フォローバックが止まらない」
 結月の「軽く死ねますね。」でオープニングが始まり、ラストもまた彼女の「軽く死ねますね。」で締めくくられるが、字面はまったく同じながら、込められた感情は正反対。


 04話。「四匹のイモムシ」
 キマリがはつらつと教室を出て行ったあと、「いつもの席にひとり取り残されている」めぐっちゃんの構図が印象的(バックの二つ並んだ巾着袋が効いている)。めぐっちゃんの心情を仄めかす秀逸なカットは、04話05話において、ほかにもたくさん散見される。


 山頂の岩の上で藤堂と向き合ったキマリが、「ここではない何処か、に行きたいとずっと思ってました。でも、みんなと出会って思いました。何処か、じゃなくて、“南極”だって!」と述べたとき、一陣の風が彼女の髪を揺らして吹き抜ける演出は鳥肌モノ。

 05話。「Dear my friend」
 旅立ちの朝、思わず涙にくれるキマリの父親に母が差し出すタオルが、01話の冒頭でキマリの顔にかぶせたタオルと同じ……だったら凄いと思ったが、さすがにそうではないようだ(色が違う)。ただ、目的もなくダラダラしていたキマリと、生気あふれる今の彼女との対比において、ここで「タオル」という小道具が出るのはたぶん偶然ではない。

 06話。「ようこそドリアンショーへ」
 「ペンギン饅頭号」に乗り込むまで(つまり、まだ「こちら側」にいるあいだ)、日向には「靴(スニーカー)」にまつわるシーンが多い。もちろん陸上部員だった過去を思い起こさせるアイテムとしてだ。出立のまえに汚れたスニーカーを見つめるカット。空港でたまたま部員たちを見かけ、動く歩道でつまずくカット。「アレ」を報瀬に預けるきっかけになったのも、ほどけた靴紐だった。

 07話。「宇宙を見る船」
 冒頭の回想シーン。かなえは、藤堂の緊張をほぐすためにおかしな顔をしていただけだが、貴子は本気で笑わせようとしている。
 中盤の回想シーンで、高校時代の貴子(報瀬の母)が、藤堂吟(のちの隊長)に「南極行こう!」と誘う場所(舘林、つつじが岡公園)は、01話で報瀬がキマリに「じゃあ一緒に行く? 南極!」と誘いかける場所と同じ(02話でも出てくる)。なお、04話で隊長との関係をキマリに問われた報瀬は、「あの人は、おかあさんが高校の頃の知り合い。」と素っ気なく答えている(「友達」ではなく)。

 08話。「吠えて、狂って、絶叫して」
 リアリズムの見地からして、「他はともかくこれだけはさすがに……」と言われそうな例のアレ。夜、暴風と荒波の中で扉を開け、4人一緒に甲板に出ていくシーン。船は傾き、床を滑って手すりにぶつかる4人。頭上から「洗礼」のように降りそそぐ海水。ひとつ間違えば海中に放り出されている。この作品は「リアル・ファンタジー」なんだと弁えて観ていたぼくでさえ、思わず「ああーっ。」と声が出たが、彼女たちがこの夜に得た一体感と覚悟、そして「南極」に向けての高揚感を表現するうえで、「ここはこれしかない。」とスタッフは腹をくくったのだろう。いわば確信犯的な名演出による名シーン。
 なお、次の食堂のシーンはこの翌朝ではなく、日向の「昨日クジラも見ましたから」という発言から、何日か経過した後だとわかる。

 09話。「南極恋物語(ブリザード編)」
 サブタイトルの「恋」は、ストーリーの表面に描かれていたもの(だけ)ではなくて、やはり報瀬と藤堂吟がそれぞれの「母」と「親友」に寄せる感情のことなんだろうなあ……。固い氷を砕いて前へ前へと進む船が、キャラの心情にかぶさるあたり、「物語」ってものは、シンプルであればあるほど深い意味を帯びるってことがよくわかる。
 11話のアレといい、今話の「ざまあみろ」と言い、小淵沢報瀬、生真面目な性格なのに、荒い罵言がこんなにもサマになるキャラクターは他にないだろう。

 10話。「パーシャル友情」
 「ね」「ね」「ねー」は、03話で、3人が結月と初めて話した際に出ている。そう言い合う彼女たちを、結月は目を輝かせて見つめていた。ちなみに、キマリが彼女を抱きしめるのはその時いらい2度目。
 「(ゴミを)焼却するとこんなに少なくなるんだねー。」のくだりは、基地内での生活を織り込みながら、思いを「ね」に集約させる比喩ともなっている。

 11話。「ドラム缶でぶっ飛ばせ!」
 中継カメラの向こうにいる、日向のかつての部活仲間は、前髪を気にしたりして、あきらかにへらへら、ちゃらちゃらしており、報瀬はその様子をちゃんと見ている。さらに、横にいる日向に対して「ふざけんな?(っていう気持なの?)」と問いかけ、「……だな」という彼女の答を確かめたうえで、あの挙に出た。けっして暴走したわけではない。なお、途中で言葉に詰まった報瀬を、うしろから的確に援護射撃するキマリは、やはり主人公である。

 12話。「宇宙よりも遠い場所」
 凍結したパソコンの中身は、実際けっこう大丈夫らしい。ただ、昭和基地に持ち帰ったあと、隊員(たぶん敏夫)に頼んで、念入りにメンテはしたはず。
 パスワードは、最初が母(貴子)じしんの誕生日。次が報瀬の誕生日。誕生日がキーになるのは、前の10話からのつながり。それが1101で、受信トレイがちょうど1101になったとき、画面が報瀬の顔のアップに切り替わり、ついで扉の外の3人へと移る。絶妙の演出。最終的な総数は1483通で、それは13話で藤堂隊長が開いたときに視聴者にわかる。
 堰を切ったように流れ出すメールが、「決壊」のイメージと重なり、3年のあいだ鬱積していた報瀬の感情の暗喩になっていることはいうまでもない。
 間違いなくアニメ史に残る名シーン。


 13話。「きっとまた旅に出る」
 最後に送られてきた(藤堂が貴子の代わりに3年を隔てて送った)メールは、かつて貴子が内陸基地(あるいは雪上車の中か?)でつくったもの。その辺りには電波が届かないため送信はできず、そのままパソコンの中に眠っていた。貴子の遭難は、そのパソコンを取りに帰ったため。メールをつくったとき、貴子は傍らの藤堂と笑い合っており、そのときの様子を、12話の半ば、内陸基地へと向かう雪上車の中で、報瀬が幻視している。
 3年前、藤堂がレシーバー越しに聞いた貴子の最後のことば「きれい……きれいだよ……とても。」が、どの場所で発せられたものかはわからない。ブリザードのさなかにオーロラが見えるとは考えにくいので、実際に見たわけではないだろう。おそらく藤堂と一緒に見た(そして写真を撮って娘に送った)あのオーロラを幻視していたのではないか。
 なお、南極と北極で、オーロラはほぼ同時にみえる。めぐっちゃんがメールに添付していた画像のオーロラは、キマリたちが南極でみたのと同じものなのだろう。



 追記)貴子の末期のことば「きれい、きれいだよ、とても」については、2019年1月19日の記事「宇宙よりも遠い場所・論 53 宇宙よりも遠い場所 11」に対するコメントで、「ZAP」さんから貴重なご意見をいただいた。「ブリザードがやんだあとの星空」をみての言葉だったのではないかという見解である。たしかにそのほうが無理がないし、藤堂たちの「天文台建設」の悲願にもつながる。今はぼくもこちらのほうが有力だと考えている。





「宇宙よりも遠い場所」のためのメモ 01

2018-09-28 | 宇宙よりも遠い場所



 せりふの端々(はしばし)、画面の隅々、音のひとつひとつまで、考え抜かれ、ほぼ完璧に構成された、健全なる王道・青春ストーリー。
 OPとEDとを併せ、23分40秒(概算)×13話という尺を、(文字どおり)「1秒たりとも無駄にせず」使い切った神業のような作品。
 間違いなく、2018年の時点における日本アニメの到達点(の一つ)。


 ただし本作は、いわば「リアル・ファンタジー」と呼ぶべきジャンルに属するもので、厳密に照合していけば、現実ではありえない設定や描写も含まれる。たとえば、
 「昭和基地」や「しらせ」が「民間」に委譲される(払い下げられる)という事例が過去にあったことはないし、政治的および財政的な事情からも、この先もあるとは思えない。
 万が一、そういう事態が起こったとしても、そこに女子高生が同行を許されることはまず考えられない。
 ただ、そういった「リアル世界との突き合わせ」みたいな事は、そもそも当アニメのホームページがやっている。この手の不整合をあげつらうことに意味がないとは思わないけれど、とりあえずそちらは棚上げにして、ひとつの「物語」として楽しむほうがいい。繰り返しになるけど、これはドキュメンタリーじゃなくて、リアル・ファンタジーなんだから。
 「物語」として見るならば、こんな素晴らしい作品になんて、そうそう出会えるもんじゃない。


 南極。
 彼女たちが目指し、辿り着き、そこで友達および隊員たちと3ヶ月を過ごし、帰国した後もまたそこを再訪しようと約束を交わす土地。
 たぶんそこは、けしてとくべつな場所ではない。
 それは『宇宙兄弟』における「月(月面)」に似ている。ここではない何処か。本気で憧れ、胸を焦がすことのできる場所。ぜんぜん甘美ではなく、むしろ多大な困難を伴うのに、そこに惹きつけられる場所。一人では行けない場所。仲間と一緒でなければ行けない場所。いや、そこを共に目指し、共にそこまで辿り着き、そこで苦楽を共にする人たちこそが「仲間」=親友になる、そういう場所だ。
 だから本当は、すべての人が自分なりの「南極」をもっている。持っているはずだ。ふつうに暮らす生活の場が、そのまま「南極」である人がもし居れば、それはつくづく幸いだと思う。職場や学校で、信頼できる仲間・友達に囲まれ、日々そこで自己実現を果たせてる人。まるっきり皆無ってことはないだろう。だけどおそらく、さほど多くはないはずだ。


 平坦な日常は安逸の場だ。そこに浸っていることが、けして悪いとは思わない。ただ、人間ってのはたいへん弱くて、体を浸した生温い水はいつしか澱む。澱みの中で、ねっとりした倦怠が、安っぽい悪意が、増殖し、充満する。そして心は少しずつ朽ちていく。いい齢をしたぼくなんかからすれば、誠に切実な話である。
 澱んだ水。

 だから01話の冒頭、そして05話での旅立ちの朝、あの「絶交、無効」のあと、玉木マリ(通称・キマリ。CV 水瀬いのり)が空港に向かって走り出す瞬間に画面にかぶさる彼女のモノローグこそが、この作品の始発点であり、同時に到達点でもある。


 澱んだ水が溜まっている。
 それが一気に流れていくのが好きだった。
 決壊し、解放され、走り出す。澱みの中で蓄えた力が爆発して、すべてが動き出す。
 すべてが、動き出す!


 そう。『宇宙(そら)よりも遠い場所』とは、「溜まりに溜まった澱んだ水」が、「決壊し、解放され、走り出す」物語なのだ。そしてすべてが動き出す。
 すべてが、動き出す!
 すなわちこれはカタルシスだ。
 カタルシス。ギリシャ語ではκάθαρσις。英語ではcatharsis。
 鬱積したものを解き放つことによる精神の「浄化」。
 ようするにそれは、「感動」ってことだ。
 だから理屈の上からは、この物語が観る者に圧倒的な感動をもたらすことはむしろ必然なのだった。しかし、理屈の上ではそうだとしても、実際にそれを作品化するのにどれほどの才能と経験と労力が要るか。
 脚本、監督、この作品にかかわったスタッフの方々に、羨望に近い敬意を抱く。






「HUGっと!プリキュア」について 08 「いじめ」という題材。

2018-09-26 | プリキュア・シリーズ
 エドガール・モランというフランスの社会学者が、こんな意味のことをいっているそうだ。
「中間的な大きな文化の流れのなかでは、もっとも創造的な動きは窒息するが、もっとも俗悪で標準的なものが洗練される。」
「中間的な大きな文化の流れ」とは、つまりは高度消費社会における大衆文化ってことで、まさにぼくたちの社会が生み出す文化そのもののことなんだけど、そこでは「もっとも創造的な動きは窒息するが、もっとも俗悪で標準的なものが洗練される」と、モランさんはおっしゃるのである。
 俗悪、というとコトバが悪いが、「ポップ」と言い換えれば耳ざわりが良くなる。今や海外に向けてニッポンを代表する文化=産業となった「マンガ」や「アニメ」こそがこれだろう。いっぽう、「もっとも創造的な動き」であるはずの純文学は、なるほどたしかに窒息している。
 プリキュアシリーズなんて、身も蓋もないことをいってしまえば、玩具メーカー(その他)のための販促アニメなのである。中身(コンテンツ)があってスポンサーが付いてるわけじゃなく、その逆で、まずスポンサーありきなのだ。
 だから彼女たちの用いる「アイテム」はつねに最新のCGで映像化されて強調されるし、「追加戦士」が「新アイテム」(=新商品)を携えて登場すれば、向こう一ヶ月くらい大いに優遇されることになる。登場シーンも見せ場も増える。脚本も演出も、そのために力を尽くすわけだ。
 すべては、露骨なまでの市場原理の内にある。あきらかにそれは作り手の側にとっての「制約」だ。その制約の中で、どこまで質の高い作品を残せるか。視聴者(大人も含めて)の心を、どこまで揺さぶることができるか。
 本年で15作目となるこのシリーズは、そんな試みの歴史でもある。その試みの積み重ねにおいて、「ポップ」が洗練されていく。いわばひとつの実験場といっていい。
 「HUGっと!プリキュア」は、シリーズで初めて「いじめ」を取り上げた。主人公の野乃はなは、前の学校で、いじめられている友達をかばったために自分が仲間外れにされ、クラスで孤立してしまった。何しろニチアサの児童向けアニメであるからして、ねちっこく描写されるわけではないから詳細は不明だけれど、どうも登校拒否に近いところまでいったようだ。母のすみれは、「大丈夫。はなのしたことは間違ってない。」と強く肯定したうえで、「転校」という選択肢をとった。はっきりと描かれることはなかったが、もちろん父の森太郎も、その決断を受け容れたわけだ。
 なお、さまざまな描写から推察するに、野乃家は一家ぐるみ引っ越しをしたわけではなく、はなが中学を移っただけのようである。
 クラスや学校で仲間外れにされるのを、近ごろの用語で「ハブられる」というらしい。「省かれる」の転訛かなと思ったら、どうも「村八分」から来ているそうだ。封建時代以前の用語がこのハイテク時代の学生たちにそのまま引き継がれてるってのも、よく考えるとブキミな話である。われわれの近代は、ひいてはあの大戦を経ての「戦後」ってものは、果たして何だったんだろう。結局われわれの心根なんて、ちっとも進歩しちゃいないのか。
 たぶんそういうことだろう。もう一ついえば、いまの学校というものが、かつての「村落共同体」に似たシステムになってしまってるってことだとも思う。それも、負の面をより強調した村落共同体だ。
 これは本来、社会学者がけっこう真剣に取り組まなけりゃいけないテーマだ。そして、本来ならば社会学者が真剣に取り組まなけりゃいけないテーマを、リアルタイムで俎板(まないた)に乗せて調理してみせるのが、「ポップ」の仕事なのである。
 統計を取ったわけではないけれど、日本のアニメは、深夜ものを含めておおよそ7割強が「学生」ないしその年齢の若者を主人公に据えていると思われる。いきおい舞台も、「学園」が多くなる。「学園」というハイテク化された村落共同体(ムラ社会)での生き方、より精確にいうなら「人づきあい」の難しさ。それが煮詰まった形で出たのが「ハブ」であり「いじめ」であって、正面きって取り上げるか、何らかの形で言及するか、いずれにしても、今やこの要素を完全に捨象して作品をつくることはできない。
(近年の劇場アニメとして、「正面きって取り上げ」た代表作は『聲の形』だけれど、これに比べれば遥かに「絵空事」寄りの『君の名は。』でさえも、三葉がクラスメートからチクチクと嫌がらせされる描写はあったのである。)
 「HUGプリ」が「いじめ」を作品世界に導入したのは、シリーズ構成・坪田文さんの判断だったろうが(そこまで深くは考えなかった……という気もするが)、思い切った一歩だといえる。ただ、次回作以降に引き継がれるかどうかはわからない。
 はなが「ハブられていた」過去がぼくたち視聴者に明かされたのは、7月8日に放映された23話だった。ほかにも気の滅入る事態がてんこ盛りで、児童アニメとしては異例の陰鬱な回となっていたのだが、これ自体とにかく大きな案件だから、いつ、どのようにして回収するのかぼくもたいへん気になった。はなを「ハブった」相手は複数なので、全員と和解するってことは考えにくい。現実世界ならむろん、なんのフォローとてなく、有耶無耶になってしまう事例がほとんどだろうが、これは「物語」なんだから、何らかのカタルシスは絶対に必要なのである。
 あるいはラスト間際まで引っ張るか……とも思っていたが、蓋をあけてみると、わりと早くて、9月9日の31話で、大きな進展があった。
 はながハブられる原因を(結果的に)つくった「エリ」が、はなを訪ねてくる。エリはチアリーディング部で、演技の「センター」に選ばれたために嫉妬され、ほかの部員から責め立てられた。はなは彼女と親友だったが、自らが部員というわけではなかったようだ。しかしその状況を見かねて、いじめの現場に割って入り、「やめようよ。みんな、カッコ悪いよ」とエリを庇った。それが反感を買ったわけである。

 

 「カッコ悪い」(その対義語は「イケてる」)というのは、浅薄な言い回しだけれど、ボキャブラリーが豊かとはいえないはなにとっての、大切な評価基準である。そもそも彼女は、01話において、巨大な敵を前にして、「ここで逃げたら、カッコ悪い」と思ったからこそプリキュアに成った(もし成れてなかったらマジで潰されてた。そう考えるとこのアニメけっこうコワい)。
 どれくらいの規模の中学なのか知らないが、「チアリーディング部」と「学級」のメンバーがまるっきり一緒ってことはないはずなので、チア部の反感を買ったからってクラス中からハブられるってのも飛躍があるけれど、そこは突っ込めば突っ込むほど暗くなるから、ぼかされている。


 はながスケープゴートになったことで、エリはいじめの標的から外れた。のみならず、ふたたび自分がそちらの立場になることを恐れ、孤立するはなに手を差し伸べることもしなかった。こういうのもまあ、よく聞く話だ。それでチア部も続けてたんだけど、はなが転校してしまい、ずっと気にかかっていた。それでたまたま、「キュアスタ」(作品内用語。インスタグラムのことである)にアップされたはなの写真を見て、矢も楯もたまらなくなって、会いに来たのだった。
 しかし、いざ本人を前にすると、うまく言葉が出てこない。エリは逃げ出す。はなもまた、激しく気持ちを揺さぶられ、ちょっと挙動不審になる。
 かくて朋友(とも)らが動き出す。
 さあやとほまれは、エリを喫茶店に誘い、そこで初めて一部始終を知る。たんに「はなが過去にハブられていた」という事実を知ったってだけじゃなく、これまでのことを考え合わせて、それぞれに思うところがあったのだろう。それでこういうことになる。


 当ブログ7月17日の記事「朋友(とも)は光のなかに。」で述べたシーンが、より深化され、三たび反復されるわけだ。
 しかし今度の件は重いので、ただ抱擁しておしまいってわけにはいかない。はなは二人に、これまで自分の過去を黙っていたことを詫び、「やっぱ、カッコ悪いと思ったから……」という。それを受けての二人のせりふ。
 ほまれ「カッコ悪くなんてない。はなのしたこと、ぜったい間違ってない。すごく、イケてることだよ」
 さあや「カッコ悪いのは、誰かの心を傷つける人たち!」
 義侠の女・ほまれより、さあやのほうが激しい言葉を吐くところが印象に残るが、薬師寺さあやというひとは、淑やかなルックスの割にせりふはたいてい「体言止め」だし(「よ」とか「なの」とか「だわ」といった女性っぽい接尾辞をつけない)、じつのところ、ほまれ以上に気が強いんじゃないかとぼく個人は思う。
 はなは二人に、自分はエリに怒っているのではなくて、それどころか、「余計なお節介を焼いて、彼女に迷惑をかけたんじゃないか」と気に病んでいたと告げる。このあたり、正直ぼくにはよくわからなくて、理不尽には本気で腹を立てる彼女の性格にそぐわないと思うが、まあ、根がとことん善良でナイーブな娘さんなのか。
 あるいは、これまでのエピソードを思い返してみると、はなが「本気で怒る」のは他人が傷つけられた時だけで、自分のことでは怒ってなかった……気もする。だとしたら坪田文というのは大した作家さんだが、ここは改めて確かめなくては明言できない。
 ともあれ、この31話の脚本の方針として、「怒り」の感情を表に一切出さないのである。そこが少なからぬ視聴者に違和感を覚えさせた面はあると思う(ぼくも覚えた)。さあやのいうとおり、悪いのは「誰かの心を傷つける人たち」であって、はなもエリも被害者じゃないか。「いじめ」の当事者たちはどうなってんだ。
 しかし、脚本の主旨はその糾弾にはない。サブタイトルは「時よ、すすめ!メモリアルキュアクロック誕生!」である。あくまでも、はな(およびエリ)の「止まった時間が動き出す」ことが今回のテーマなのだ。
 さあやがいう。
「勇気を出してもういちどエリちゃんの心にふれたとしても、うまくいくかどうかはわからない。けど、はなには、私たちがいる」
 ほまれがつづける。
「うん。だって私たち、はなのこと……大好きだからさ」
 そこに現れたえみるとルールーは、彼女たちの特性どおり、音楽で、はなにエールを送る。その歌に唱和するさあやとほまれ。「あふれる愛がはなを包みこむ」と、紋切り型の形容をしたくなるほどの、ただただ甘やかなシーンである。
 ずっと心の傷を抱えたまま、31話までエピソードを積み重ねてきて、ここでようやく、はなも朋友たちに胸襟を開くことができたのかもしれない。
 そうして彼女は、5人そろって、チアリーディングの発表会に臨むエリのもとを訪ねていく。もちろんそこには、かつて彼女をハブって転校にまで追い込んだ部員の面々もいるわけである。
 新天地に根を下ろし、4人の朋友をえた彼女はもう、これまでの野乃はなではない。
 部員たち「え野乃さん? なんで居るの? てか、その前髪どうしたの?」


 部員たちには、はなを転校に追い込んだという自責の念などさらさらない。いやそもそも、彼女をいじめてた自覚があるかすら疑わしい。ぼくにいわせれば、こういう人たちは「クライアス社」よりも何十倍も怖しいけれど、こんなのにはもう、怒ったところで仕方がない。はなの態度が大人なのだろう。ただ、それが本当の意味で正しいのかどうかは、簡単には答が出せないところだ。
 いっぽう、はなとエリとの関係性は、むろん遥かに人間的である。
 エリ「ののたん……ごめん」
 はな「わたし、謝って欲しいなんて……思ってないよ。許すとか、許さないとか、そういうのじゃない。ただ、わたしエリちゃんのこと、やっぱ好きだからさ、また、友達になりにきたんだ」
 過去のことはもういい。許すとか許さないとかじゃない。いちど友達の縁が途切れて、それを残念に思うなら、また新しく友達になればいい。
 どこまでも前向きなのである。これこそが「HUGっと!プリキュア」のメインテーマでもある。ただ、それでは「誰かの心を傷つける人たち」の「罪」が曖昧になってしまうのもまた確かだ。
 「HUGっと!プリキュア」の31話は、ひとつの麗しいエピソードだった。しかしこれが、「いじめ」という巨大かつ根源的な主題に対する正しい回答かといえば、とうていそうは思えない。課題は山ほど積み残されている。それはもう、おそらくプリキュアシリーズの手には負えない。より対象年齢層の高い他の作品に委ねられるべきことだろう。




「明治維新」について。

2018-09-09 | 歴史・文化
 今年の大河は『西郷(せご)どん』だけど、見ていないので何もいえない。それとは別に、このところ明治維新の本をよく読んでいる。
 歴史の本は、同じ題材を扱ってても、書き手の数だけアプローチがちがう。そこがかえって面白い。読み比べる楽しみがあるわけだ。小説だと、作家ごとに題材はもとより文体から手法から構成から、何から何まで違うので、「読み比べる」という按配にはならない。一冊ごとが異なる世界像、というかまるで異なる世界なのである。
 たとえば、
「村上春樹の『1Q84』と宮尾登美子の『一弦の琴』と井上ひさしの『吉里吉里人』と高橋和巳の『邪宗門』と筒井康隆の『馬の首風雲録』と吉行淳之介の『暗室』を読み比べてみたんだけどさ……」
 などといった言い方は、成立しないわけではないが、やはり少しムリがある。
 素人が手に取りやすいものとして、いま5冊が手元にあるが、松本健一の『開国・維新』(日本の近代①。中公文庫)は、開巻ただちに1853(嘉永6)年のペリー来航から始まる。
 半藤一利の『幕末史』(新潮文庫)も、「じぶんは薩長よりも徳川びいきだ」という短い前説のあと、やはり黒船来航である。
 井上勝生の『幕末・維新』(シリーズ日本近現代史①。岩波新書)は、ペリーのアメリカ出航から始めているが、ほぼ同じことだ。
 この中でいちばん古い小西四郎『開国と攘夷』(日本の歴史⑲。中公文庫)は、まず「東アジアに警鐘は鳴る」という前置きで、当時の西欧列強がアジアに貪婪な食指を伸ばしていたことを強調し、それからペリー来航にうつる。
 井上勝生は、『開国と幕末変革』(日本の歴史⑱。講談社学術文庫)も出しているのだが、こちらは少し工夫を凝らして、江戸時代の蝦夷(北海道)から筆を起こし、天保の改革などを経て、ペリーが来るのは全巻の半ばに近い170ページ目である。
 ペリー来航をもって「幕末」ひいては「維新」の濫觴(らんしょう)とするのは定跡だけど、もっと広くスパンを取って、天保の改革だとする学統もあるようだ。おおむね1841年から1843年のあいだで、つまりはこの辺りからもう幕藩体制が揺らぎだしていた、というわけで、この本における井上さんの手法はそれに近い。
 井上さんは「民衆史」に重きをおく学風らしく、農民や町民の記述に厚みがある。いっぽう、岩波新書の『幕末・維新』には、吉田松陰の名が出てこない。講談社学術文庫のほうでも、わずかに2ヶ所、ごく簡単にふれられているだけだ。
 また、佐久間象山の名が、どちらの本にも出てこない。佐久間象山や吉田松陰をここまで等閑視して、「開国・幕末」が語れるものかと驚く。そこがこの方の独創なのかもしれぬが、この史観がスタンダードだとは思えない。
 といって、この2冊がよくない、といいたいわけではなく、この本からしか得られぬ知見もむろんある。
 小西さんの『開国と攘夷』、松本さんの『開国・維新』は、象山・松陰にたっぷり紙幅を取っている。ほっとする。半藤さんの『幕末史』は、講義録を起こしたものなので、さほど詳しくはないが、やはり熱心に象山と松陰を語る。それが本筋だろう。
 ともあれ、このように、同じ「開国・幕末」を扱いながら、ひとによってこれだけ切り口がちがう。読み比べれば読み比べるほど、おもしろい。
 ぼくが昔からギモンだったのは、「明治維新ってのは、ほんとうに必要だったのか?」ということだ。ぼんやりとそう思いつつ、そのままになっていたのだが、このところ、とみに気になりだした。
 幕府(徳川家)がとにかく頑迷固陋で、「ぜったいに国は開かぬ。何が何でも鎖国を守る」と言い張って、「いやそれでは結局、国そのものが滅びてしまう。早々に開国をして近代化に努めねば駄目だ」と正論を述べる「志士たち」を徹底的に弾圧した……という話ならばまだわかるのである。
 たしかにまあ、天保10年(1839年)の「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」はそんな感じだった。しかしそれは、黒船来航より14年も前の事件だ。
 そのあとでついに実際やってきたペリー一行と折衝し、それなりの外交交渉をして、不平等ながら和親条約を結んだのはほかならぬ幕府なのである。
 薩長はむしろ、その時点では攘夷側だった。つまり、「夷狄をこの神国に引き入れるとはけしからん。断固として排除すべし」と、文句を垂れてたわけだ。
 むろん、「幕府に対して物申す」ということ自体、それまででは考えられぬ僭上沙汰で、げんにそのあと、幕府側からきつい反撃もくる(安政の大獄)わけだけど、いずれにしても、「渋々ながら」とは言いながら、当初は薩長ら諸藩より幕府のほうがはるかに現実的で、ちゃんと実務もやっていた。
 行政機構としての幕府は、上層部(老中たち)にせよ現場(役人たち)にせよ、けして因循でもなければ無能でもなかった。250年にわたって培われた組織が、それほどチャチであったはずがない。
 はっきりいうと、諸藩はことさらワーワー騒ぎ立てずに、幕府に成り行きを委ねていても、それほどむちゃくちゃな状況にはならなかったと思う。
(ここでいう「むちゃくちゃな」とは、阿片戦争を仕掛けられた清国みたいな、というくらいの意味だが。)
 ただ、「朝廷」という独特の機構がここに濃密に絡んできて、それで話が紛糾するわけだが、しかしこれも、ことさらワーワー騒ぎ立てずに、穏便に事態を処していきさえすれば、「公武合体」ということで、「徳川」「朝廷」「薩摩」「長州」「土佐」「越前」それに「会津」あたりの「雄藩」による合議制の連合体が成立してたんじゃないのかなあ……と思うわけである。
 トップはそういう合議制の連合体。そして、じっさいの政務や現場の実務は、引き続き、もっぱら優秀な幕臣がおこなう。
 ここがいちばん肝心なところで、というのも、いかに衰えたりとはいえ、当時の幕府には、上のほう(今でいえば内閣?)はともかく奉行(今でいう官僚。事務次官~局長クラス?)あたりにまだまだ逸材がいたからだ。
 ぼくがまっさきに思い浮かべるのが小栗上野介忠順(ただまさ)で、そもそもこの小栗のことが好きだから、いま書いてることを思いついたようなもんである。
 小栗については、2003年に岸谷五朗主演で単発ドラマが放送されたり(NHK)、直木賞作家・佐藤雅美による『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』(角川文庫)がけっこう売れてたり、ひところに比べたらかなり知られるようになったけど、西郷さんや龍馬はもちろん、同じ幕臣の勝海舟に比べても、ぜんぜん知名度は低い。
 やはり「官軍」サイドに属した人士にばかりスポットライトが当たる仕組みになってるのである。偏ってるな、と正直思う。
 しかし歴史の記述とはそういうもので、げんに、上にあげた5冊の中でも、小栗の名はちらりとしか出ない(半藤さんも言及してるが、中では小西さんの『開国と攘夷』がいちばん詳しい)。
 小栗のばあい、勝海舟や、のちに新政府に入って海軍中将にまでなった榎本武揚とちがい、いわば滅ぶ幕府に殉じるようにして非業の死を遂げたのだが、ぼくが小栗を好きなのは、そんなロマン主義的感傷ではなく、このひとが本当に優れていたからだ。
 さすがに司馬遼太郎は、この人にきちんと注目しており、『「明治」という国家』(NHK出版)のなかで、「明治国家のファーザーズの一人」といっている。
 「いわゆる薩長は、かれらファーザーズの基礎工事の上に乗っかっただけ」とまで述べている。
 だから、「司馬史観」というのをあたかも「官軍史観」みたいにシンプルに捉えてる人もいるようだけど、そんな甘いもんじゃない。シバリョウをなめてはいけないのである。
 小栗忠順は並外れて有能だったから名前を残しているわけだが、ほかにも、今となっては無名のままに終わったけれど、身分制という桎梏さえうまく取り払えていれば、幕府が「公武合体」という形でゆるやかに解体されたあと、新体制の中で存分に才を発揮できる人材は下級の幕臣の中にもたくさんいたはずだ。
 たぶんそれがいちばんよかった。
 「錦の御旗」を担いで「内戦」を起こしたのは、ようするに軍事クーデターということで、それがどれほどその後の日本を歪ませたか知れない。「維新」はほんとうに必要不可欠だったのだろうか。それは「日本国」というよりむしろ「薩摩藩」のためだったのではないか。そんなギモンを抱えつつ、あれこれ読んでいるけれど、なにしろ大きな話だから、とうぶん結論は出そうにない。