ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

雑談・応仁の乱06 「SF」としての歴史書

2021-06-24 | 歴史・文化
 3月の下旬から「応仁の乱」の話をやってるんだけど、呉座勇一の『応仁の乱 ― 戦国時代を生んだ大乱』にはまだ目を通してないんですよ。5年前に中公新書から出て、この手の本としてはかなり売れてるらしいんだけど、ネットで何本かレビューを見たら、必ずしも「これ一冊読めば応仁の乱の全容がわかる!」といった類のものでもないようなんで……。一般向けの新書としてはやや詳しすぎるみたいでね。ぼくがいま求めてるのは、そういうものではないんだな。
 それにしても呉座さん、1980年生まれの気鋭の学者ですが、いま検索したら、なんか専門外のことでtwitter炎上して有名になっちゃったみたいで、おやおや、と思いましたけども……。でも高橋典幸/五味文彦編『中世史講義』(ちくま新書)に収録されてる「戦国の動乱と一揆」という小論はとても参考になりました。
 私が参考にさせて頂いてるのは、その『中世史講義』のほか、中公文庫と講談社学術文庫の「日本の歴史」シリーズ、岩波新書の「日本中世史」といった一般向けの基礎文献なんだけど、いずれにしても、たんに歴史のお勉強をしたいわけではないんでね。もともと「戦後民主主義」の話をしていて、そこから派生っていうか、まあ遡行していくようなかたちで考えが進んでいったんで……「民主主義」って読んで字のごとく「民が主体となる政体」のことだと思うんだけど、じゃあそもそも「民(民衆/大衆/庶民)」って何だ?って話でね……そこで「日本史上初めて民衆が歴史の前面に登場してきた時代」ということで、応仁の乱に興味が向いた。あえてまとめればそんな感じになります。
 まあ、手塚治虫原作のMAPPA版アニメ『どろろ』が好きってこともあるんだけども。
 そうそう、室町時代を舞台にした作品ってことで、サブカルでは『どろろ』のほかに『一休さん』を挙げたけれども、もうひとつ、宮崎駿の『もののけ姫』がありましたね。あれはなかなか難物なんで、当ブログの「ジブリ」のカテゴリでも扱ってませんが……。あれ論じるとしたら、このペースだとまた何ヶ月も掛かりそうだしなあ。
 『どろろ』はまさに応仁の乱のど真ん中だけど、『一休さん』はその60年ほど前、『もののけ姫』は乱が終わって30年くらい経った頃ですかねえ。「乱が終わった。」なんていっても、時代はいよいよ戦国乱世へと突き進んでいくんで、ぜんぜん穏やかじゃないんだけども。
 でも、前の記事を書いてから考えたんだけど、アニメ『一休さん』にみる風俗(つまり当時の衣食住とか生活様式など)の描き方ってものはやはり江戸期のイメージだったよなあ……。いかに京の都とはいえ、室町の暮らしってのはもうちょっとくすんでたっていうか、あそこまで華やかではなかったような気がするんでね……。当時のアニメのスタッフは、もっぱら江戸を舞台にした時代劇をモデルに風俗考証をしたんじゃないかと推察する次第ですけどね。でも室町を(というか戦国以前を)描いた先行作品はドラマでも映画でもほんとに乏しいんで、そこは仕方なかったと思いますけども。大河ドラマの時代考証だって、おおむねそんな具合ですもんね。江戸を描いた時代劇がベースになってる。
 『どろろ』や『もののけ姫』はそもそもダーク・ファンタジーだから、リアリズム的な意味での考証うんぬんの話がどこまで妥当するかは難しいけれど、ただ、ああやって魑魅魍魎がわらわらっと日常のすぐ傍で蠢いてる感覚は心性のレベルにおいては逆にリアルっていうか、精確なイメージだと思いますよ。おそらく中世人(ちゅうせいびと)ってものはああいう「世界観」のなかで暮らしていたと思うんだな。
 ぼくの本業(?)の小説のほうだと、永井路子の『銀の館』(文春文庫 上下)かな。永井さんだから日野富子が主役なんだけど、いっぽうで、「民衆代表」というべき逞しいひとりの女性キャラが準主役として配される。このふたりを通じて「最上層」と「最下層」との両面から当時の社会を映し出そうって趣向でね、これは映画『タイタニック』なんかでも使われてたし、ありふれた手法なんだけど、さすがに富子の内面描写が巧くて、面白く読めましたね。もちろん、良くも悪くも「通俗小説」ですけども。
 しかし何といっても司馬遼太郎御大の『箱根の坂』(講談社文庫 上中下)ですねえ。司馬さんには『妖怪』という作品もあって、これは足利義政が主役なんだけど、いかにも若書きというか、司馬さんの中でもそれほど良い作品ではない。その失敗を踏まえてってことかどうかはわからないけれど、『箱根の坂』はずっと後年になってから書かれたもので、こちらの主役は関東の北条早雲。「史上初めての戦国大名」とのちに謳われた武将ですね。つねに庶民の暮らしを慮っていたひとで、江戸期の藩でもこれほどの名君はいなかったといわれる。
 『箱根の坂』には応仁の乱が直接描かれているわけではないけれど、乱の騒擾のもたらす余波が各方面へと及んでいって、およそ「中世的秩序」なるものがぐずぐずと解体していく様子がよくわかる。そうして「下剋上」が起こり、早雲タイプの新しいリーダーが大きく台頭してくるわけね。司馬ファンの中でも愛読書に挙げるひとが少なくて、あまり取り沙汰されないんだけど、司馬さんの円熟期を代表する傑作のひとつだと思いますね。
 この数ヶ月もっぱら中世のことを書いた本ばかり読んで、どっぷり浸った気分になってるんだけど、この感じ、なんかに似てるなと思ったら、ハードSFを集中的に読み込んだ時の感覚に近いね。たとえばブルース・スターリングのような「世界を細部まで丸ごと作り込む」タイプのSFを読んだときの感覚ですね。
 つまり、「中世」という日常とは異なる別天地をアタマのなかに構築して、そこを覗き込んでる感じなんだな。或る種シミュレーションモデルというか……。だからね、歴史書を読んであれこれと思いを巡らせるのは、「時代の流れを辿っていく」こと以外に、そういう愉しみもあるわけですよ。
 系譜学的な愉しみではなくて、「生活の場とはまるっきり違う世界を思い描く」ことの愉しみですね。ほんとシミュレーションであり、思考実験ですね。今回はそういうことを強く感じました。
 「戦後民主主義」を俯瞰して考えるならば、戦時中の思想弾圧とか、まあ大正デモクラシーとか、せいぜい遡って明治の民権運動くらいまでなんだろうけど、あえて「人権なんて意識がカケラもなかった弱肉強食の時代」としての室町を考えることで、思考実験の意味合いが出てきたわけね、自分の中でね。
 ところで、昨今、「上級国民」というキーワードが定着しつつあるようだけど、いま「庶民」の対義語っていったらやっぱりそれなんですかね。マルクス主義の世界観(世界認識)だと、「庶民」はすなわちプロレタリアートで、その対義語は「資本家」ってことになるわけだけど、さすがにそれは浅薄すぎて話にならない……でもやっぱり「格差」どころか「階層」ってものは今のニホンにも厳然として存在するよね、いくら隠蔽したって隠し切れんよね……という事実がようやくいきわたってきて、こんなワードが生まれてきたんだと思いますけどね、上級国民。
 それで、まあ、この連載を始めて以来、幾度となく取り上げてきた例のあれ、「8万数千の屍で賀茂川が埋め尽くされているさなか、時の将軍・義政が花見の宴を催した。」というエピソードね、よもやコロナ禍で国民が困窮するなかで利権ピック、じゃなかった五輪ピック、でもないか、オリンピックを強行する自民党政権をそれになぞらえる気はないけれど、まるきり条件が違うから、さすがに私もそこまで比喩を拡張するつもりはありませんけども、でも「権力の中枢に近いところにいる階層」と「一般ピープル」との歴然たる差ってものはどうしても痛感しますね。
 むろん「国民」ったって一枚岩ではぜんぜんないし、「べつに利権なんて関係ないけど こんな時でも/こんな時だからこそ 東京五輪をぜひ観たい。」という方もおられるだろうから、かんたんな問題ではないんだけども。正確なところ、反対派と賛成派とはどれくらいの比率なのかなあ。
 ともあれ、この3ヶ月ばかし、「中世」についてあれこれ考えたことで、「民衆とは何か」、またその裏返しとして「権力者とは/権力とは何か」、さらには「政治とは何か」、「文化とは何か」といった大命題について自分なりにいろいろと有意義な知見を得ました。でも、自分ひとりで納得してる分にはそれで構わないんだけど、それをこうして文章に落とし込むには時間と手間が掛かるんで……。考えてることの十分の一も書けてないんで、もどかしいかぎりなんですけども。
 それにしても、中世の話のほかにも書きたいことは色々あるんで、そろそろ一区切りつけたいなあとは思ってるんですが。