ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第7回・中沢けい「入江を越えて」その⑥

2016-04-30 | 戦後短篇小説再発見
 以前にぼくは、いまどきの女性作家がいまどきの女子高生を主人公にして書いた小説をまとめて読んだことがある。そのことはこの連載の「その③」でも述べた。
 直接のきっかけは、どうせ下らねえだろうとバカにして放りっぱなしにしていた綿矢りさの『蹴りたい背中』をほぼ10年遅れくらいで読んでみたところ、これがたいそう面白かったからである。JK小説。そこにはこれまで自分が踏み込んだことのない豊かな領土が広がっているように思えた。まあ、女子高生の世界なんだから、踏み込んだことなくて当たり前だけど。自分が男子高生だった頃にすら、縁遠い世界だったもんなあ。
 しかし思えば、近代日本文学の聖典のひとつ樋口一葉の『たけくらべ』だって、当時のティーンエイジャーの恋愛沙汰を扱ったものだ。そう考えていくと、これは意外とブンガクの本流に属するジャンルなのかもしれない。
 そうやって出会った作品の一つに、遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』がある。書かれたのは2000年代の後半だ。その小学館文庫版9ページにこんな一節が見える。
 「わたしの通う男女共学の公立学校には、生々しい恋愛話や性と恋の思念が墓場の浮遊霊のように活発に飛び交っている。身体ばかりが大人になった男女が同じ檻の中に入れられているのだから盛(さか)るなという方が無茶なのだろうと、その集団の一員でありながらわたしは他人事のように考える。」
 オカルトっぽい発想に、そこはかとないユーモアを交えて(「霊が活発」という表現はユーモラスといっていいだろう)女子高生らしさを醸し出しながら、「教室」というおかしな空間をリアルに捉えた一節だと思うが、ここでいう「生々しい恋愛話」は、中沢けいの「入江を越えて」にはまったくない。「入江を越えて」にかぎらず、「海を感じる時」にはじまる一連の作品において、ヒロインの女の子が同性の友達と、恋愛話や、まして性の話に興じるシーンは出てこない。そんな余裕は見受けられぬし、いやそもそも、同性の親しい友人ってものが登場していたかどうか。
 それは初期中沢文学における欠落といえるものだったとも思う。そのせいか、中沢さんはこのあと「女ともだち」という作品を発表する。タイトルどおり、ヒロインと女ともだち(それも二人)との交友を綴った中編である。そこでのヒロインは、一回り成長した感じで、もうそんなに切羽詰まってはいない。
 「入江を越えて」には、田元まり子という同性のクラスメートが出てくるのだけれど、この子は上田秀雄というクラスメートと付き合っており、おそらく体の関係もある。しかし、ヒロインたる塚田苑枝は彼女のことを微かな羨望(たぶん)と僅かな嫌悪(たぶん)をもって見ているだけで、カレシの話なんぞしないのである。
 明らかにそこには一定の距離感がある。塚田苑枝は、少なくとも性的な事柄に関して、「マンゴスチンの恋人」に出てくる女子たちに比べて遥かに無口で、頑なだ。その頑なさは、中沢けいという作家個人の資質というより、やはり80年代初頭という時代の制約なのだと思う。20年という歳月は、学校という空間における女生徒どうしの関係性にも、それなりの変容をもたらしたということだろう。
 身もふたもない言いようをすれば、「入江を越えて」のヒロインは、異性と体をふれあわせるという行為、異性を抱き、異性に抱かれるという行為にばくぜんとした憧れを持っていただけで、しかもその感情は、ナルシズム(自己愛)の柔らかな延長なのだった。相手が誰でもいいわけではないが、どうしても広野稔でなければいけない、というほどでもない。言い換えると、そこにはいわゆる「愛」はなかった。
 だから、ぎこちない初体験を済ませてしまうと(それは稔にとっても初体験だったと思われる)、後には妙にしらじらとした、索漠たる時間がおとずれる。これは前回の最後に引用したくだりのあとに続くシーンである。


 突然身体を突き離され、苑枝は何が起ったのか解らぬまま、自分の不格好な肢体にあわてふためいて、身を起した。稔はといえば裸体のままかしこまって、両手を膝の間に入れている。ちらりと腰のあたりがのぞいたが、稔は故意にか偶然か両腕でかくしてしまった。ふたりが離れたままではうすみっともなく感じられて、苑枝はそっと稔に近づくと、彼は小声でだいじょうぶだったかなと聞く。苑枝には何を意味してそう聞くのか解らなかった。けれども、うんうんとうなずいた。羽をむしり取られた鳥に似た稔の姿を見ていたくなかったし、自分自身の丸裸も晒したくなかった。


 あの目くるめく陶酔の描写と読み比べていただきたい。バタイユ的とも呼びたい高揚の瞬間を象徴的にとらえたあの一節に比べて、「現実」に立ち返ったあとのこの寒々しさはどうだろう。このあと苑枝はとりつくろうように鼻先を稔のわきに押しつけ、瞼を閉じ、手さぐりで稔の瞼も閉じさせて、添い寝の姿勢でしずかに眠りにつくのだけれど、それでもこの寒々しさが払拭できたわけではない。ふたりの心が交わることはなかったのである。
 それにしても、稔くんのほうは性交に際してけっこう気を使っていると思うのだが、「だいじょうぶだったかな」と訊かれて「何を意味してそう聞くのか解らなかった」という彼女の無知には呆れてしまう。初心(うぶ)というより幼いのだ。彼女の頑なさ、硬さ、言葉数の少なさに加えて、幼さもまた、この作品を成り立たせる要素のひとつである。
 前回も書いたが、みんなの手前、朝早いうちに苑枝はいったん最寄り駅まで戻らなければならない。稔がオートバイで送ってくれる。その道中、「足を出すな、ばか、しっかり掴まれ」という彼のえらそうな口調に反発をおぼえ、県道へ出たところで、ここから先はバスで行くと言って、彼女はバイクから降りてしまう。「一度くらい寝たからって、“オレの女”みたいな顔しないでよね」というような台詞をドラマかなにかで何回か聞いた気がするが、まあ、そんな感じなんだろうか。
 そのあとは、「合宿の間じゅう苑枝はなるべく稔をさけていた。稔の方もしいて苑枝に近づくことはなかった。」という按配で、どうにも気まずい。そして作品のラストまで、二人はずっとそのままである。
 三日間の合宿が終わったあと(ところでこれってなんの合宿だったんだろう。図書部の合宿って……いまひとつ必然性がわからない)、帰りの電車の車窓から、あの入江をひとり眺める苑枝。その目に映る情景は、行きの車窓から眺めたそれとコントラストをなしてこれまた見事なものである。


 同じ一本の線路をひとりで反対方向にたどった時から三日しか過ぎていないのに、海の色は鈍り始めている。気温が冷えるより先に、海水は夏の活力を失い鈍い色になる。水を温める力のなくなった光が、おだやかな海面を滑っていた。


 「夏の活力を失い鈍い色にな」っているのが、いまの苑枝自身のこころであり、また、苑枝と稔との関係性でもあることはいうまでもない。


第7回・中沢けい「入江を越えて」その⑤

2016-04-11 | 戦後短篇小説再発見
 借りたヘルメットをかぶって後部シートに腰を据え、運転する稔の背中にしがみつくという、ありがちなスタイルで苑枝はキャンプ場へと走る。稔のほうは、一つっきりのメットを彼女に貸したため何もかぶっていない。まことに危ないことである。そもそも二人乗り自体がたいへん危険な行為だから避けたほうがよろしい。しかし苑枝は、すこし伸びた稔の髪に鼻先をくすぐられ、「身体の表面にまといつくことなく乾いて行く汗はやっぱり樹木のにおいに似ているのだ……」などと、なかなか上機嫌である。なにやってんだ高校生が。しょうがねえなあまったく。家に帰って勉強しろ勉強。
 そんな私のヤジなどお構いなしに、バイクは街路を抜けて林道へと入る。


 林道に入った稔は街路を入る時とはうって変って、強引ときには乱暴とも苑枝には思えるような走り方をした。苑枝は何も見なかった。ただ稔の身体にしがみついていた。


 このへんの描写に深入りすれば昔懐かしい片岡義男の世界に移行していくところだが、もちろんそんなことにはならない。
 原文ではここで段落がおわり、一行あけて次の段落へと映る。


 瞼を開いた時、苑枝は稔の少しあぶらが浮いた鼻先を見た。稔もまた瞼を開く。目覚めたばかりの稔の瞳をもう少し眺めていたかったのに、彼は意味のない微笑を浮かべると、すぐに寝返りを打ち、背中を向けた。ランニングシャツから出た肌に、床板のすき間のあとがみみず腫れのように赤く印されていた。(…………)



 というわけで、いきなりである。いきなりもう、「事後」になっている。下には何も敷かなかったようだし、さぞ事態は慌ただしく進んだのだろうと推察される。これまでの中沢さんの作品では、「初体験」の舞台は高校の部室だったり理科室だったり、なんともトホホな場所が多かったので、じつはこれでもずいぶん向上したほうなのだった。
 前回の記事で、ぼくは「夜になるのも待たずに」と書いてしまったが、それは思い違いで、いちおう日が落ちるまではお互いに自制していたようだ。事が行われたのは夜である。このあと稔を残してひとりでバンガローの外に出た苑枝が、東の空を見て「6時半くらい」と見当をつけるシーンがある。
 着いたのが夕方だとしても、そこに至るまでにはいろいろと会話なんかもあったはずだが、ぜんぶ省かれているのでよくわからない。そんなことに拘るのも、行為のあとでふたりは甘く睦み合うどころか、何やらかえってよそよそしくなり、妙にぎくしゃくしてしまって、その齟齬は作品の後半になっても延々とつづき、ついにはそのままラストを迎えてしまうからだ。行為のまえに、どれくらい感情の交流があったものか。
 「からだの関係を持ったあとで、男のほうが冷淡になり、ヒロインが男を追いかける」というのが処女作いらいの初期中沢文学のパターンだったんだけど、この短篇では互いが互いの気持を持て余している感じで、しかもむしろ男のほうが彼女を追いかけ、彼女のほうがなんとなく微かな嫌悪を覚えて彼を避ける、といった構図になっている。これは文学としての深まりという点でよかったと思う。
 ふたりの関係はもちろん誰にも内緒なので、合宿のメンバーが集まる前に苑枝は駅へと引き返し、何食わぬ顔でそこでみんなと合流しなければならない。「駅まで送るよ」と稔は言い、待ち合わせの11時まで何をして過ごせばいいのか、と苑枝はおもう。
 そこでまた一行あけて、次の段落は、かなり詩的に粉飾された昨夜の回想シーンとなる。このパラグラフは麗しい。本編のなかでもっとも麗しい。先ほどのくだりで抜け落ちていたこと、書かれるべくしてあえて書かれなかったことが、べつのかたちで描かれているからだ。

 (…………)目をつぶるまいとしながらも、いざ稔の腕が苑枝の身体を抱えると、瞼は仕かけでもあったように降りてきた。瞼の裏にあらわれたのは、行きの電車の中から見た入江だった。
 山と田の間を走っていた電車が千倉駅を出たあたりから、段々とつらなる田と畑のはてに海が見えかくれする。かたわらに山が近づいてきたかと思うと、電車はいきなり海の真っただ中へ出た。海が線路よりも深く、陸地へと入り込んでいるのだった。くだけ散る波が、白っぽい砂を灰色に染めてはひくあたりに建った支柱の上を、電車は猛スピードで駆け抜ける。海面に反射する光で、車内は驚くほど明るくなり、波の飛沫が明け放された窓から飛び入る。東京湾を抱え込んだ内房では見られない、高く、白く、跳躍する波が、飽くことなく騒いでいた。
 額と額を合わせ、手足を絡めていると、あの波の飛沫のひとつひとつが、鴨川駅にむかえに出ていた稔のズボンのポケットからころがり落ちた小指の頭ほどの緑の実に変る。緑の実が、曲線を描く水平線のかなたまで、飛んでは跳ね、跳ねては転げる。



 あまり見事なもんでついつい長く引用しちまった。ここではセックスのさなかの陶酔(の記憶)と、行きの電車の車窓から見た光景(の記憶)とが複雑に混じり合い、しかもそれがセックスそのものの鮮やかな暗喩にもなっていることがおかわりいただけるだろう。まさに名人芸であり、超絶技巧といってもいいかと思う。こういった技法はたぶんフランスの現代小説あたりに類例があるんだろうし、執筆当時24歳の中沢さんもそれを参考にしたのだと思うけれども、そうはいっても溢れる才気は見紛うべくもない。
 このあたりのことばのつらなりは、ありきたりのポルノグラフィーよりもはるかにエロティックで、そしてもちろん、瑞々しい。



第7回・中沢けい「入江を越えて」その④

2016-04-10 | 戦後短篇小説再発見
 『海を感じる時』から『野ぶどうを摘む』をへて『ひとりでいるよ一羽の鳥が』へと続く初期の3冊の短篇集において、作者の分身とおぼしき10代後半の娘(たち)は、前回の記事で引用した川村二郎の解説のとおりの体験を、かたちを変えて繰り返す。共通するのは、
①父を早くに亡くしている、
②初体験の相手が学校の先輩、
③そいつがなんだか優柔不断で煮え切らない、
➃その男との関係をきっかけにして母との確執がひどくなる、
といった事どもである。これらの短篇は連作ではない。変奏曲集とでもいおうか、同じ題材をいろいろな角度から描き直している按配だ。そのなかには、「妊娠」という、女性にとっての一大事にまで踏み込んだものもある。
 しかし第3作品集の掉尾を飾るこの「入江を越えて」では、いったん時計の針を巻き戻すかのように、事後のごたごたは打ち捨てて、その「初体験」の当日のことがていねいに描かれるのである。その結果、この3冊に収められた短篇の中でもっとも鮮やかな「青春小説」となった。作品のできばえは、けして素材そのもののインパクトによって左右されるものじゃないのだ。もともと中沢けいの美質は、剥き出しの果実を思わせるほどに危うい感性をもった少女が、豊かな自然のただなかに身を置いて、そこから受け取った刺激を「ことば」に変えて迸らせるところにあったのだ。まさしくそれは「海を感じる」という表現にふさわしい。処女作にすべてがあるとはよくいった。
 高校三年の塚田苑枝は、夏休み、二泊の合宿を三泊と母に偽って、一日早くキャンプ場に行き、そこで同級生の広野稔と落ち合う。広野はキャンプ場に家が近く、二輪の免許も持っているので、先にひとりで現地に入って食料などを調達することになっていたのだ。つまりその日は他の部員たちは来ず、苑枝と稔のふたりきりで、高3の男女がそのような場所でふたりきりになってどのような展開が生じるのかということは、もとより苑枝も稔もよくわかっている。というか内心おおいに期待している。
 しかしこのふたりはべつだん恋人ではない。それどころか、そもそもこの約束そのものがなんだかひどく曖昧で、電車に乗って現地に向かう最中でさえ、苑枝は「着いても誰もいないかもしれない」などと疑っている。稔がすっぽかすというよりも、約束なんて最初から成立してなかったんじゃないかと疑ってるのである。「私も行くわ」と軽い調子で言ってしまったものの、くわしい打ち合わせもせず、念押しの電話もしなかった。このあたりの初々しさ、ぎこちなさがこの作品の身上である。今だったら、メールを入れて一丁あがりだろうけど、作品の舞台となっている1980年頃にはまだケータイもスマホもない。パソコンも普及してないし、もっというなら家庭用ビデオデッキを備えてる家すらそう多くはなかったはずだ。
 結論からいうと、稔はバスターミナルでちゃんと待っててくれたし、そこからふたりは彼のバイクでキャンプ場に着き、夜になるのも待たずに早々とそのような仕儀へと相成るわけだが、はっきりいってそんな顛末はどうでもよくて、肝心なのはそういったストーリーの流れのなかで随所に挿入される自然描写なのである。


 欅(けやき)でも銀杏(いちょう)でも、幹に鼻先を近づければ、それぞれ特有のにおいがある。男子生徒が着替えた後の教室に残るにおいとはまったく別なにおいであるのに、樹木の放つそれを苑枝は異性の身体の芯に含まれているにおいのように思っていた。人の目を盗んで両腕にちょうど良いくらいの太さの樹木を抱いてみる。すると、腕と腕の間にあるうつろな空間が過不足なく埋められて、時の中に樹木と苑枝だけが佇んで動かなくなってしまったようだ。頭上で枝が騒ぐので、風が流れていると解る。葉がきらめくので光があると解る。青くささの中に混じった土のにおいと、乾いた幹のにおいに浸されて、苑枝の身体の体液も濃くなる。(…………)


 これは苑枝がまだ稔のもとに到着せず、半信半疑のまま電車にゆられている折の回想めいた一節だけど、こんな書き方は一人称ではできないから、その点たしかに三人称は便利だとは思う。思春期のすなおなエロスが自然と溶け合うこの手の描写は、随所に挿入というよりも、作品全域に瀰漫(びまん)していて、むしろそれこそが真の主役かもしれぬとぼくなんか思う。苑枝というより、彼女の感性こそが主役なんじゃないかと思えるわけだ。


 がんじょうな靴から伸びた足首とふくらはぎの素肌はかわをむいたばかりの木肌に似た色をしていた。ズボンが灰色がかった海松(みる)色だから、きっとそう思えるのだと苑枝は、規則正しく動く稔の足を眺めていた。あごにも腕にも目立たぬ毛が、すねにだけははえそろっていた。はえそろったすね毛を見ながら、苑枝はやっぱり約束はしてあったのだなと、ほんの少し前まで不確かで信じるに足りなさそうだった記憶が、急にしっかりとした手触りのあるものに変った。

 もちろんこれは、無事バスターミナルにて落ち合った直後の描写である。先ほどの引用と照らし合わせると、苑枝(彼女の名前は樹とゆかりがある)が稔(もちろんこの名前もそうだ)に樹木のイメージをかさねているのがよくわかる。それだけじゃなく、異性特有の「男くささ」を同時に見てとってもいるようだけど、「樹木」のイメージはこの後も一貫して引き継がれるのだ。現に、このパラグラフに続く描写はこうである。


 歩きながらポケットを探り、キーを取り出した稔の手許から青い実がこぼれ落ちて、がんじょうな靴の上にポロポロところがった。苑枝がひろいあげてみると、実にはうっすらと白い粉が付いていて、指先でころがすうちに濃い緑色があらわれた。どうしてこんな、草の実だか樹の実だかがポケットに入っているのかとたずねると、
「ひまだから、むしってみただけだよ」
 と黄色いバイクにキーを差し入れた。(…………)


 体から(まあ、ポケットですけどね)青い実をポロポロこぼすというんだから、「稔」くんと「樹木」との重ね合わせも、かなり念が入っている。この丁寧な細工はきっちり作品のラストまでつづく。