ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

スタートゥインクル☆プリキュアについて05 苦言・「あまねく」は副詞です。

2019-11-30 | プリキュア・シリーズ

 何だかんだで、歴代シリーズの系譜まで絡めて「スタプリ」全体の紹介をしてしまった。この手の話は作品をよく見ている層には面倒くさがられるだけだし、見てない層にはまったくもってどうでもいいし、書いても何の得にもならないのだが、やるからにはきちんとやらねば気のすまぬ性分だから仕方がない。日本語を解する人の中には、「誰もが知ってる手近な素材を片っ端からどんどん使って物語の成熟の過程を考察する。」というぼくの趣旨を理解してくれる方も百人くらいはいるだろう。ネットの上に置かれていれば、いつの日か、何かのきっかけでそんな人たちの目にふれて刺激を与え、ひいては日本文化の質的向上に寄与する可能性も皆無とはいえまい。そう信じて続けましょう。




 今回は余談。「スタプリ」には好感をもっているけれど、ひとつ苦言を呈するのを忘れていた。異星人初のプリキュア・キュアミルキーとなったララの名乗り、「天にあまねくミルキーウェイ! キュアミルキー!」についてだ。この「あまねく」は誤用なのである。









 じつはこの誤用には先蹤(せんしょう)があって、2016年の『魔法つかいプリキュア!』でも、3人めのプリキュアとなるキュアフェリーチェが「あまねく生命(いのち)に祝福を! キュアフェリーチェ!」との名乗りを上げていた。







 2度まで重なるからには単なるミスではなく、スタッフのあいだに勘違いが行きわたってるのであろう。「あまねく」は、「遍く・普く・洽く」と書いて、「広々と。すべてにわたって」という意味の「副詞」なのである。これをあたかも「動詞」のように使っているから誤用なのだ。
 動詞は「歩く。運ぶ。移す」のようにU音で終わる。「ひしめく」という似た意味の動詞があるせいで、「あまねく」も動詞と錯覚されやすいのだが、そうではない。たとえば「星々が夜空にあまねく。」なんて使い方はできない。副詞はそれ単独で「状態」をあらわす述語にはなりえないので、主語「星々」を受けることはできないのである。この場合だと、たとえば「星々が夜空いっぱいに広がっている。」とか「星々が夜空に満ち満ちている。」と言うべきところだ。


 「星々が夜空にあまねく。」という文章については、さほど文法に詳しくなくても多くの人が違和感をおぼえるだろうが、しかし「夜空にあまねく星々」だったら良いんじゃないの、と感じる人はいるかもしれない。「あまねく」が名詞「星々」を修飾している格好で、これは「天にあまねくミルキーウェイ」「あまねく生命に祝福を」と同じことである。




 だけどこれらも文法としては間違っている。なぜなら、副詞は名詞(ミルキーウェイや生命)を修飾できないからだ。副詞が修飾できるのは、動詞、形容詞、そして同じ副詞の3種だけである。どうしても名詞に懸けたいならば、村上春樹の『風の歌を聴け』の中の有名な一節、語り手の「僕」がミシュレの『魔女』からの引用として述べる「わたしの正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い。」のように、「あまねき」と活用しなきゃいけない。
(ちなみはこれは魔女裁判官の台詞で、「自分の正義は絶対である。」という絶大な、より正しくは傲慢な自信を示している。この信念に基づいて、かつて数多くの無実の女性が命を散らしたのだった)。


 今たまたま法華経の(漢訳からの)日本語訳を読んでいるので、そこから「あまねく」の正しい用例を引こう。
「(釈尊は)光を放って、東方にある無数の諸仏の世界をあまねく照らされました。」
「願わくは、此の功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん。」
「十方界には形(かたち)分け衆生(しゅじょう)あまねく導きて……。」

 このとおり、「照らす」「及ぼす」「導く」と、みな動詞に係っている(2番目の文は「一切に」という副詞に係ってるとも見えるが、ふつうは動詞に係るものとして取る)。

 むろん、「照らす光」「及ぼす功徳」「(衆生を)導く仏」というように、動詞はあたかも形容詞のように名詞を修飾することができる。しかし、これらは述語として文末に置かれる時と一見同じ形をしているが、文法的には「連体形」といって、活用変化をしている扱いなのだ。
 だから「あまねくミルキーウェイ」「あまねく生命」という名乗りを決めたスタッフは、やはり「あまねく」を動詞と錯覚していることになる。
 子供向けファンタジーアニメの言葉遣いに目くじらを立てるな、という意見もあろうが、子供向けだからこそ、内容はもちろん、日本語にも気を使ってもらいたいとぼく個人は思う。ただ、ネットの上ではもっともっと汚らしくて出鱈目な日本語が蔓延しているんだから、ここだけを突っついてもしょうがないなあというムナシサはある。
 それに、「あまねく」をあたかも形容動詞みたいに使って「あまねくミルキーウェイ」「あまねく生命」などとやるのは、文法的にはともかくとして、耳で聴く分にはそれほど不愉快ではない。語感はそれほど悪くない。「言葉は世につれ」というやつで、いまプリキュアを見ている世代が大人になる時分には、案外「あまねく」が形容動詞か、下手すりゃ動詞に変わってるのかもしれない。


 補足01) このあと思いついたのだが、上記のプリキュアさん2人の名乗りも、「天にあまねく(広がる)ミルキーウェイ」「(世界に)あまねく(満ちる)生命に祝福を」というように、いくつかの語句が略されてると解釈すれば筋が通らぬこともない。さりとて、苦しいことに変わりはないから、やはり「天にあまねきミルキーウェイ」「あまねき生命に祝福を」と、正しく連体形にしておくべきところだろう。


 補足02) このあとたまたまgyaoで『宇宙戦艦ヤマト2199』を観たところ(全編通して観たわけではない)、スターシャさんが「あまねく星々、その知的生命体の救済、それがイスカンダルの進む道。」てなことを言っていた。この作品がテレビ放映されたのは2013(平成25)年。なるほど。どうやらこのあたりが誤用の元凶であったか。



 さらに補足) ララはひかるのパートナーだから、多くの点で対になっている(ストッキングとか)。この名乗りにしてももちろんそうで、ひかるの「宇宙(そら)に輝くキラキラ星!」と対句を成すものとして、ララの名乗り「天にあまねくミルキーウェイ!」がある。どうしても「輝く」と韻を踏ませたかったわけだ。コメント欄でぼくは「天を綾なすミルキーウェイ!」にしたらよかったと書いたけれども、「~を綾なす」ではきれいに韻を踏まない。そうなると、コメント欄にてakiさんが提唱しておられる「天をつらぬくミルキーウェイ!」のほうがいいか……。ただ、格助詞が「~に」ではなく「~を」になってしまうのと、「天の川が天を貫く」という語感が、いまひとつぼくには馴染めない。いちばん手頃な「きらめく」は、「き~ら~めく~ ほ~し~のちからで~」と、歌詞のほうで使っちゃってるしなあ……。というわけで思いついたのが「たなびく」。夜空を雄大に流れる天の川の感じをうまく捉まえている……のではないか。「天にたなびくミルキーウェイ!」でどうでしょう。「七夕」と音が通じているのもミソである。





『スタートゥインクル☆プリキュア』について04 ピンクと相方

2019-11-29 | プリキュア・シリーズ

 プリキュア勢の派手やかな衣裳と、敵を目の前にしての颯爽たる「名乗り」が歌舞伎の伝統に連なっていることはもう10年くらいまえブログに書いた。とくに5人編成といえば、河竹黙阿弥・作『白浪五人男』(初演 文久2=1862年)がすぐさま思い浮かぶところである。もちろんこれも、いきなり江戸から一気に跳んできたはずもなく、直近の「セーラームーン」やら「ゴレンジャー」やらといったサブカル的イコンが間にいっぱい挟まってるわけだが、いずれにしてもあのスタイルを「かっこいい」と感じる心性が一貫してわれわれの中に流れてることに着目しておきたい。


 舞踏会のドレスのごときあのファッションはバトル向きとは言うべくもなく、あれで肉弾戦なんて本来ならば正気の沙汰ではない。それはUSAを代表する「戦闘美少女」たるスーパーガールの地味で簡素なコスチュームと比べるまでもなく明白だ。あの手のルックスを他の文化圏で探すとしたら、中国の京劇にみる侠女・十三妹(シイサンメイ)くらいしか思いつかぬが、それでさえずっと控えめである。やっぱりあれは、ひと頃流行った「kawaii」なんて概念だけでは収まらず、「外連(けれん)」と呼ぶのがふさわしいだろう。




これはいま放映している最新版。シリーズ開始当初は黒白(+桃。次いで赤白)のほぼ2人だけだったのが、2007年の『Yes!プリキュア5』から5人チームが基本形に。華やかさが格段に増し、代わりにアクションシーンは大人しくなっていった(最初の頃が激しすぎたのである)




 史上最年少で直木賞をとった朝井リョウ君のどの小説だったか忘れたが、「ピンクが似合うって、それだけで勝ってるって感じじゃん?」みたいな台詞があって、さすがにうまいことを言うと感心したが、プリキュアチームのセンター(必ずしもリーダーとはいえない)の子も累代ずっとピンクがイメージカラーである。ピンクは人間の脳にいちばん「かわいい」と映る色なのだ。




 今作『スタートゥインクル☆プリキュア』の栄えあるピンクは星奈ひかる。このポジションの子は、一部の例外を除いて「学業が苦手」なキャラ付けとなっており、あまりの成績不振に他メンバーから「しばらくプリキュア活動を休んで勉強に専念したら?」と心配された人すらいたが、今作のひかる嬢は「ずば抜けて優秀」との描写もない代わり、天体観測やUMA(未確認生物)といった関心領域については一方ならぬ知識を有し、自分なりの知性と認識で世界と向き合っていることが伺える。
 すなわち東映アニメーションプロデューサー柳川あかり氏のコメントのとおり、
「『未知の世界』『自分と違う存在』に対して誰しもが抱く不安や恐れ」を乗り越え、「持ち前の好奇心で『分からない』状態から一歩踏み出し、価値観の違い、文化の壁、種族の垣根さえも想像力の翼で飛び越えて」いく力をもってるわけである。
 そして、
「豊かなイマジネーションで物事に向き合い、自分の目で確かめ、自分の頭で考え、自分で判断して、広い世界には多種多様な価値観があることを知り、違いを楽しみながら、自らも星のように輝く」ことにもなる。
 1話でも、冒頭にてノートから飛び出してきた(!)今作の「愛らしい妖精」枠のフワをあっさり受け容れ、さらには不時着した宇宙船から降り立った異星人ララ、青クラゲ様の宇宙生物プルンスをも、その溢れる好奇心と人懐っこさで初対面から受け容れる。そしてそのまま勝手に宇宙船に乗り込み、敵の襲撃を受けて宇宙空間に放り出されるや(むろん現実であれば命はないところだ)、勢いを駆って一気にプリキュアに変身してしまう。むちゃくちゃといえばむちゃくちゃなんだけど、じつに爽快で、テンポの良い第1話だった。
 ガール・ミーツ・ガールの瞬間からピンクの子が相方に夢中になるのは2016年の『魔法つかいプリキュア!』を想起させたが(ぼくは諸般の事情でこの年は最初の十数話しか見てないんだけど)、ひかるのばあいはララ個人を好きになったっていうより「なんかもうわけのわからんもんがいっぱい空から降ってきて面白くて面白くてしょうがないからテンション上がってがんがん行っちゃった」みたいな感じで、そのぶんスケールがでかかった。
 それでも、ふつうの女の子と異界からきた女の子とがコンビを組むプロットは「まほプリ」が1年かけて練り上げたものだし、もっというなら、「墨と雪ほどにも個性の違う2人が互いの個性を活かしあって成長していく」ところは原点『ふたりはプリキュア』の初心に立ち返ることでもあった。ここでもやはり、16年かけて積み上げたものが生かされてるなと感じる。








星奈ひかる。口癖は「キラやば~」で、この台詞を発するときは御覧のとおり瞳にピンクのキラキラ星が入る。CVの成瀬瑛美さんは本職の声優ではなく、初めのうち「キラやば~」が「平山~」に聞こえたりもしたが、柳川プロデューサーが「ずば抜けてキャラと合っていた。」と太鼓判を押したとおり、余人をもって代えがたい絶妙のキャスティングである。ストーリーが押し詰まるにつれて複雑な感情表現も要求されてきているが、まったく違和感はない




 いっぽうのララ、地球名・羽衣ララは(この姓はひかるが提唱した)、人間が思考の大半をAIに委ねた「惑星サマーン」の出身である。惑星サマーンについては、ウィキ先輩の記述を借りよう(一部を編集)。




 すべてがAIによって管理されており、住居は集合住宅に画一化、食事もAIの分析によって生成されたグミで済ませ、常時ホバーボードに乗って移動する。娯楽も居住区域に設けられたレクリエーションホールのホログラム映像で楽しむのみとなっている。
 サマーン星人の容姿は、左右の頭飾りから細いコードが伸び先端に球状のセンサーがつけられている他、瞳に星のハイライトが入り、色白の肌で耳が尖っている等の特徴がある。センサーは触角のように自由に動かせるほか微弱な電流が流れており、これを使って機械の操作などができるし、タッチで挨拶になる。 
 AIによって教育や知識面のサポートが行われるため、学校という概念がない。就業に関してはマザーAIがその人物の適正を調べてそれに見合った職を割り当てており、その仕事に就いたのちもずっとパーソナルAIが同伴者となる。
 地球人換算で13歳になれば成人として扱われ、就労する。




 SFでは昔からわりと見慣れた設定なのだが、改めて見ると「これ、ディストピアと紙一重だな。」とも思う。ことに「就業に関してはマザーAIがその人物の適正を調べてそれに見合った職を割り当て」がコワい。げんにララも、最下位クラスとなるクラス8の調査員としてスペースデブリ(宇宙ゴミ)の調査に従事していた。そこで突発的な非常事態が生じたために本来の業務を外れてフワとプルンスに遭遇し、地球まで飛ばされてひかると出会い、プリキュアとなって人生が一変するのだが、そんなイレギュラーな出来事がなければおそらく生涯「クラス8」に留まっていたろう。
 つまり、フワやプルンス、さらにひかるとの出会いがなければララの内に秘められていた潜在能力が日の目を見ることはけしてなかった。サマーン星の人々は、家族も含めてAIをひたすら妄信しており、自分や他人のうちに潜む可能性になどまったく思いを致さないからだ。今作のテーマに即していえば、想像力を完全に欠落させてるわけである。そのあたりのコワさはララがひかるたちを伴って(渋々ながら)里帰りをする夏休みのエピソードによって十全に描かれていた。
 「まほプリ」のリコも、みらいと出会った頃は劣等感に苛まれていたが、彼女のばあいは実技が苦手だっただけで学業はトップクラスであり、何よりもまだ学生で、春秋に富む身であった。彼女の故郷・「ハリポタ」の世界観を換骨奪胎した「魔法界」にしても、「惑星サマーン」のごとき管理社会ではなかった。13歳ですでに大人として不遇な(といっていいと思うのだが)職に従事していたララは、たぶん歴代のプリキュアの中でも有数の苦労人ではないかと思う。「一番の」と言わないのは、今作のユニもそうだけど、中ほどからプリキュアに加わる「追加戦士」たちはかなりの苦労人揃いだからである。






ララ(CV・小原好美)。とにかくまじめで責任感が強い。これは序盤のころ。この頃はひかるたちの通う学校のことを「非効率的ルン」と言っていたが、のちに自ら望んで通学するようになり、「羽衣ララ」を名乗る。クラスメートとも打ち解け、効率だけでは測れない「人と人とのふれあい」を学ぶ。それによって彼女の「パーソナルAI」までもがいくばくかの「人間味」を帯びるほどである。この手のパターンはファンタジー系SFでさんざ見てきたが、何度語りなおされても良いものだ



 40話『バレちゃった!? 2年3組の宇宙人☆』では、まどかの父・「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」たる冬貴の不用意な行動によって「2年3組」の級友たちがララを疑い、猜疑心に満ちた暗いムードが流れる。そこに敵が襲来し、ララ、そしてひかる、えれな、まどか、ついでにユニも(彼女に関しては級友たちは「あの子だれ?」状態だったと思うが)プリキュアたる身元がバレるのを顧みず変身してみんなを守るべく闘う。もちろんラストは、「ララちゃんは異星人なんかじゃない。私たちのクラスメートです!」という全員の大合唱でハッピーエンド。結果として絆はいっそう深まることに。






 桃キュアひかるが持ち前の好奇心で自らの世界をぐんぐんと広げていくのと共に、相方のララもまた、初めは彼女に引きずられるように、そのあとは自らの意思で、世界を広げ、周りとの関わりを深めていく。












『スタートゥインクル☆プリキュア』について03 『スマイルプリキュア!』との比較

2019-11-28 | プリキュア・シリーズ

 メンバー構成にかんしていえば、『スタートゥインクル☆プリキュア』は、2012年『スマイルプリキュア!』のヴァージョンアップ版という側面がある。
 『スマイルプリキュア!』も、「スタプリ」と同じく5人編成だったが、赤をイメージカラーにもつ日野あかねと、緑をイメージカラーにもつ緑川なお、この2人のキャラが少々かぶっていたのだ。


 日野あかねはお好み焼き屋の娘で、歴代プリキュア中ゆいいつの大阪弁キャラ。緑川なおは竹を割ったような気性で、7人きょうだいの長女(42話にてさらに妹が誕生)という生粋の「お姉さんキャラ」であった。




日野あかね(CV・田野アサミ)。よく家業のお好み焼き屋を手伝っている。この画像はいささか可愛らしすぎるかな。もっと男の子っぽい印象だった。それにしても、妖精、アンドロイド、異星人と、この後さまざまなプリキュアが誕生したが、方言をつかうプリキュアはいまだにこの人だけである



緑川なお(CV・井上麻里奈)。イメージカラーといい髪型といい背の高さといい、どうしてもセーラーチームのあの人を連想させる。そこもまた「キャラ立ち」という点では不利だったように思う



 しかし両者ともにスポーツが得意な熱血タイプであり(あかねはバレーボール、なおはサッカー)、しかもあかねのほうにも一人とはいえ弟がいて、「お姉さん」という、なおの希少な属性を脅かしていた次第である。
 この2人がライバル心を燃やしたり、バトルの際に合体技を編み出したり、といった工夫もされてはいたのだが、5人全員が同じ学校のクラスメートってこともあり、概していえば単調の感は拭いがたかった。
 今作「スタプリ」における「スポーツ万能」枠、メキシコ人の父と日本人の母、そして5人の弟妹をもち、褐色の肌と笑顔が眩しい天宮えれなは、この2人をひとつに併せて、より厚みと深みをもたせたキャラだともいえる。





天宮えれな(CV・安野希世乃)。つねに笑顔を絶やさない、コミュニケーション能力ばつぐんの人気者。語学も堪能で気配りこまやか。多忙な両親に代わってお花屋さんも手伝い、弟妹5人の面倒もみる。彼女に好感を抱かない視聴者は少ないだろう。しかし反面、どこかで無理もしているはずで、そこのところが次回の展開に大きく関わっていくと思われる



 そして浮いた残りの1枠を、「悪の手によって故郷の仲間を星ごと石に変えられ」「そこから盗み出された宝物を取り返すために怪盗として心ならずも犯罪に手を染め」「その傍らでアイドル歌手として人気を集め」「しかもスパイとして敵の組織に潜入し」などと、およそ歴代プリキュアの中でも類を見ないほど多彩で重い属性を背負ったユニに委ねた。
 これで話が面白くならぬはずがないではないか(この人、どうやって時間をやり繰りしてたんだろう、と疑問には思うが)。




ユニ(CV・上坂すみれ)。名前の由来は「単一」を意味する接頭語「uni」、および「唯一無二」からとのこと。英語で「宇宙」「全世界」を意味する「universe」とも掛けてあるとか。スタッフの思い入れが伺える。多羅尾伴内なみに(古すぎるか)いくつもの顔を持ち、この顔も真の姿ではない



 「スマプリ」において「優等生のお嬢様」枠を担っていたのは青木れいかで、この人も弓道にいそしんでいた。




青木れいか。凛とした佇まいと、西村ちなみさんの端麗なCV、加えて絶妙な天然っぷりで、歴代「優等生のお嬢様」枠のキャラの中でもひときわ人気が高いようである


 やはり旧家の令嬢で、留学がらみで進路に悩むエピソードはあったが、兄がいたこともあってか、家の桎梏に囚われているふうではなく、祖父や父親との葛藤をうかがわせる描写もなかった。
 この青木れいかと緑川なおとは、ほかの3人のプリキュア仲間ともどもクラスメートなのだが、もともと幼なじみでもあった。しかし、見るからに下町の庶民代表といった感じのなおと、名家の令嬢たるれいかが如何にして幼き日に知り合い、如何にして友情を育んできたか……というエピソードが明確には用意されなかったため、その設定が生かされたとは言い難い。
 つまり残念ながら、総じて『スマイルプリキュア!』における5人の関係性は、いまひとつ希薄であったといわざるをえない。




 香久矢まどかは、弓道場にて的を射るОPの映像から見ても、明らかに青木れいかを意識して造形されている。それは弟妹たちに周りを取り巻かれながら洗濯物を干している天宮えれなも同じだ。そして、この2人はべつだん幼なじみではないし、同級生ではあってもプリキュアになるまではさほど親しくなかったようだが、今はそれぞれ「観星(みほし)中の月」「観星中の太陽」として、互いに敬意を払って友情を育み、相手のことを真摯に思いやっている。またそのことで、これだけの人格を備えた2人の「お姉さん」たちを惹き付ける主人公・星奈ひかるの魅力が際立つ結果にもなっている。
 こういったていねいな造りを見るにつけ、やはりこのシリーズは年年歳歳進化していってるなあ……と思うわけである。










『スタートゥインクル☆プリキュア』について02 父との葛藤

2019-11-27 | プリキュア・シリーズ

 『スター☆トゥインクルプリキュア』は、こないだまで当ブログでやってた「メロドラマ」の項目に当てはまるところが多い。とりわけ、メインキャラ5名のうちの一人が、父親との葛藤(「確執」というほどではない)を抱えてるのが、ぼくには興味ぶかいのだ。

 イギリスの批評家ピーター・ブルックスさんによるメロドラマの定式をおさらいしよう。


「メロドラマの登場人物のパターン」

◎ヒロイン
◎その父親
◎ヒロインを苦しめる者(迫害者)
◎ヒロインを助ける者(正義漢)
◎ヒロインを補佐する者たち(侍女、子供、許嫁、農夫など)


「メロドラマのストーリー上の骨格」

(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が耽溺する(主人公は女性でなければならない)。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張した大げさな身ぶりをする。
(3)どんな読者/観客にとってもわかりやすい。けして高尚にならない。
(4)善と悪とを明快な「二元論」に集約する。つまり「中庸」を排し、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別される。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。たとえ陳腐な出来事でも、誇張法などを惜しまずに駆使して「崇高」なものに仕立てる。
(6)物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)


 これらの項目のうちのいくつかが古めかしく見えるのは、「メロドラマ」が確立されたのが、18世紀末、大革命後のフランスにおいてだからである(あくまでブルックス氏の見解だが)。ヒロインを補佐する者たちが「侍女、子供、許嫁、農夫など」ってのも大概だけど、「ヒロイン」に続いて「その父親」が主要キャラとして2番目にくるのも、いまどきの感覚とはそぐわない。
 これは当時の社会がまだまだ家父長専制的で、「父親」が「ゆるぎない権威」「もっとも身近な、世間の代表」だったことを意味する。これが今日のニッポンならば、「戦後民主主義の成れの果て」といった塩梅で、フィクションの中でも、また現実においても、父親にそこまでの威厳はあるまい。
 しかしいっぽう、女児向けファンタジーであり、かつバトルアニメという特異な性質をもつプリキュアシリーズにとっては、意外なくらい合致する部分も多い。メロドラマの水脈が現代サブカル(エンタメ)に受け継がれていることの証左でもあろう。
 ことに、
 「善と悪とを明快な「二元論」に集約する。」
 「日常生活のなかで起きるドラマを(ファンタジーとして再構成することで)美学化する。」
 「物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)。」
 といったあたりは「そのまんまじゃん」という感じである。もちろん「主人公は女性」なわけだし、彼女(たち)が「喜怒哀楽の激情に耽溺する」ってのも、これはまあ、恋愛感情のことを言ってるんだろうから厳密にいえば違うけど、感情の振幅がドラマチックに描かれるって点では、当たらずといえども遠からずだ。




 けれど、これまでのシリーズにおいて、プリキュアのメンバーが実の父親と深刻な葛藤を演じたことはじつはなかったのである。いや、皆無だったわけではない。しかしそれはいささか特殊な事例なので、すこし説明を要する。


 2011年の『スイートプリキュア♪』では(この「スイート」は「組曲」と「甘味」のダブルミーニングになっている)、王国の姫・キュアミューズこと調辺(しらべ)アコは、悪の黒幕によって洗脳された父王・メフィストと対決する。もちろん最後は洗脳が解けてめでたしめでたしとなったが。


 しかしその2年後、2013年の『ドキドキ!プリキュア』ではその構造が複雑になって、トランプ王国の王(名前は不明)は悪の黒幕によって完全に飲み込まれてしまい、ちょっとやそっとで分離できなくなっており、しかも自らの手で国そのものを滅亡の淵にまで追い込む。王女のマリー・アンジュは甲冑に身を固め、槍を取って闘うも、力及ばず一敗地にまみれ、元の姿を保てなくなって、「父に抗って王国の平和を取り戻そうとする円亜久里(まどか あぐり)」と、「他のすべてを敵に回しても、あくまで父への愛を貫くレジーナ」の2人に分裂してしまう。
 円亜久里の声は釘宮理恵さん、レジーナの声は渡辺久美子さんが演じた。マリー・アンジュは今井由香さんで、つまりこの3人は完全に別の人格として設定されていたのである。アンジュは18歳くらい、亜久里とレジーナはそれぞれ10歳くらいの外観であった。


マリー・アンジュ



円亜久里(まどか あぐり。en aguriと書けばreginaのアナグラム)。追加戦士として夏ごろに登場。当初その正体は謎に包まれていた(本人自身も記憶を失くしていて知らなかった)。変身して「キュアエース」になるとマリー・アンジュに近い成長した姿に




レジーナ。ラテン語で「女王」の意味。この人はプリキュアにはならない。主人公・相田マナへの友情に激しく心を揺さぶられつつも、最後の最後、ぎりぎりの瞬間まで父への愛を貫いて敵対する



 もちろん最後はハッピーエンドとなり、亜久里もレジーナもふつうの小学生として生活を送るが、マリー・アンジュはついに復活せず、その存在は消滅してしまった。メインキャラのひとりがそんな結末を迎えるのは、シリーズ中でも珍しいと思う。
 表立っては描かれなかったけど、父王が悪の化身によって飲み込まれた時期は、愛娘マリー・アンジュに婚約者ができた時期とほぼ同じで、ふたつの出来事には相関性があるかのようにぼくには見えた。しかも母親は一切出てこないし、言及すらされない。どうしてもこれはエレクトラ・コンプレックスを想起せざるをえず、「人格が2つに引き裂かれる」という構想と相まって、かなりインパクトが強かった。だからぼくの中では『ドキドキ!プリキュア』はいちばんの異色作である。




 このように、過去シリーズでもプリキュアのメンバーが実の父親と葛藤を演じることはあった。しかしご覧のとおりそれらは「あちらの世界」でのことだったのだ。異世界出身のメンバーの身に起こる事だと相場が決まっていた。「人間界」側のメンバーたる娘さんたちは、そりゃあみんながみんな父親とずっと良好な関係を築いてたわけではないけれど(ちょっとした齟齬を感じている子はいた)、そこまで深刻な事態には至らなかった。
 いや、「父親」という具体的な対象ではなくて、「家のしがらみ」に絡めとられて苦慮しているプリキュアさんなら居た。「優等生のお嬢様」枠に属するキャラのうちの何人かはそれだ。前作の愛崎えみる、2017年『キラキラ☆プリキュアアラモード』の立神あおい、2015年『Go!プリンセスプリキュア』の海藤みなみといった諸嬢が該当するだろう。
 とはいえ、これらの皆さんにしても、「父親」と正面切って対峙するシーンはなかったのである(どのお父さんも意外とリベラルだった。もっとも抑圧を覚えていたのはたぶん愛崎えみるだが、彼女とて、抑圧の相手は「父」ではなくて「祖父」だったのだ)。


 俗に「桃キュア」と称される主人公の父親はわりとふつうのサラリーマンないし自営業者が多いので、先に述べたとおり、家父長専制的な威厳を発することはない。しかし、「優等生のお嬢様」枠に属するメンバーのばあい、かなり現実離れした名家かつ資産家という設定だから、ブルックスのいう「メロドラマ」的な古式ゆかしき父親、すなわち社会(的規範)の代表としての父親像が成立してしまう。
 ファンタジーたるプリキュアシリーズにとって、これは好ましからざることである。ファンタジーってのは社会を捨象するからこそ成り立つものなんだから(故にいずれも大なり小なり「セカイ系」っぽくなる)。
 しかるに今作、『スタートゥインクル☆プリキュア』では、「優等生のお嬢様」枠、高貴な紫をイメージカラーにもつ香久矢まどかの父は、「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」の職にある政府高官、すなわち宇宙からの来訪者をキビしく取り締まる立場の人なのである。定員5名のプリキュア勢のうちじつに2人までを異星人が占める今作にあって、ロコツなまでに利害の対立する相手だ。ぼくは最初のうち、さほどまじめに見てなかったけど、この件に関しては「面白いな」とは思っていた。



香久矢まどか(CV・小松未可子)。41話「月よ輝け☆まどかの一歩!」にて、尊敬してやまない父からの精神的な自立を果たす。まあ、ぼくみたいな庶民の目には「遅すぎた反抗期」にも見えるけれども



父・冬貴と母・満佳(みちか)。娘が一礼して自室へと立ち去ったあと、「私が悪かったのか。まどかが誤った判断を……」と戸惑う父を、「誤りではないわ。これは成長っていうのよ」と母は優しく諭す。「満佳」は満月に通じるのだろう。「おっとりしているようで、じつはよくわかっている母親」という類型に属するキャラである


 
 まどかと父との関係性が大きく変容する41話「月よ輝け☆まどかの一歩!」は、期待に違わず、とても面白い話数となった。しかしその内容は、ぼくが事前に思い描いてたのとは、いくぶん異なるものだった。














『スタートゥインクル☆プリキュア』について01

2019-11-27 | プリキュア・シリーズ

 プリキュアシリーズを好きなのは、明るくて、華やかで、カラフルで、かわいらしいからだ。味気ない日々にそういうものを求めるのは、殺風景な部屋に花を飾るのと一緒である。しかも長年にわたって毎週やってる。これが大きい。とはいえ、まじめに観るようになったのは2015年の『Go!プリンセスプリキュア』からだけど。
 もうひとつ、児童向けファンタジーゆえに、構造がきわめてシンプル、という理由もある。河合隼雄さんは、ご自身がファンタジーに注目する理由として、「純文学は夾雑物が(よい意味で)多すぎるが、ファンタジーは物語そのものが露出しているため、登場人物の感情の動きが生々しい。だから有益なのだ。」という意味のことを言っていらした。ぼくがプリキュアシリーズに注目するのも同じことだ。ただしぼくはカウンセラーではないので、「感情の動き」ってよりも「物語」そのものに関心があるわけだが。


 なにしろ16年にもわたって続いているのだ。1年たったら1作が終わって新作がはじまる。むろんその内容は、こう言っちゃなんだが似たり寄ったり、難しいコトバでいえば同工異曲である。ふつうの中学生(時に高校生も混じる)女子が、ふしぎな妖精との出会いを契機に「伝説のヒーロー・プリキュア」となって、変身して敵を迎え撃つ。最初にプリキュアとなる子は必ずしもリーダータイプではないが、独特の求心力で仲間を惹き寄せる魅力がある。イメージカラーはピンク。そこにもうひとり仲良しの子がコンビとなって共闘し、すぐに3人目、4人目が加わる。しばらくはその編成でいって、中だるみが懸念される夏場あたりに5人目が参入。2009年の『フレッシュプリキュア!』以降、その「追加戦士」は敵側からの「改心」組というのが基本のフォーマットとなった。


 もとより多少の異同はあるが、ほぼこれがパターンである。それが年を追うごとに微妙な進化を重ねながら変奏されていく。そこにはとうぜん社会意識の変遷なんてものも投影されるだろうし、関連商品の売り上げ、劇場版の動員数、競合コンテンツとの兼ね合いといった要素を合わせて見ていけば、この少子化市場における一つの成功したビジネスモデルとして、他分野にも応用可能な戦略を読み取ることもできるかもしれない。あるいは、「商業主義」と「作家性」との鬩ぎ合いのなか、スタッフの皆さんが、いつか社会に出ていく児童たちに向けて、いかに押しつけがましくなく、うまくファンタジーの糖衣にくるんでメッセージを届けるべく鋭意しているか、そのあたりを汲むのも有意義な鑑賞方法かと思う。


 ぼく自身は、冒頭から述べているとおり「物語」に関心があるので、スタッフの固有名には興味がない。さすがにシリーズ構成とメインプロデューサーくらいはチェックするけれど、なるべくそちら方面には深入りせぬよう心掛けている。だから、(今さら改まっていうのも妙な具合だが)このブログではよくアニメを取り上げるけども、けしてアニメ批評ブログじゃない。あくまで「物語」を考える絶好の素材として使わせてもらってるだけなのだ。


 さて。そんなこと言ったそばから「何だよ」って感じなんだけど、すでにラストスパートを迎えつつある本年の『スタートゥインクル☆プリキュア』の主題につき、製作サイドのコメントを引用させて頂く。ソースはウィキペディア。ただし文章は、ぼくの裁量で一部を編集させてもらった。



 ABCアニメーションプロデューサー田中昂氏
「今作のモチーフとして選んだのは『宇宙・星座』です。私たちは『宇宙』という言葉を、広大な世界へのワクワクドキドキ、キラッと輝く星々への憧れ、自分とは違うものとの出会いなど、今ある環境から一歩踏み出した世界と捉えています」
「こどもたちが成長とともに自分の世界を広げていくように、主人公たちが成長していく場所として、『宇宙』を今作の舞台として設定しました」


 東映アニメーションプロデューサー柳川あかり氏
「時に私たちは『未知の世界』『自分と違う存在』に対して不安や恐れを抱きます。しかし、ひかる(本作の主人公)は持ち前の好奇心で『分からない』状態から一歩踏み出し、価値観の違い、文化の壁、種族の垣根さえも想像力の翼で飛び越えていきます」
「豊かなイマジネーションで物事に向き合い、自分の目で確かめ、自分の頭で考え、自分で判断することの大切さ。そして、広い世界には多種多様な価値観があることを知り、違いを楽しみながら、自らも星のように輝くプリキュアたちの姿を描いていきます」




 とはいえ女児向けアニメで宇宙を題材にした作品は少なく、懸念の声もあった。そのため、女児にも受け入れやすいよう、地球の外にはただの茫漠たる宇宙空間ではなく、「星空界」というカラフルでポップでファンシーな世界が広がっている……という設定にした。
 キャラクターデザイン、プリキュアのコスチューム、背景美術などは「80‘S(1980年代)」を意識している(具体的には、『魔法の天使クリィミーマミ』『うる星やつら』、さらに『聖闘士星矢』『美少女戦士セーラームーン』など)。エンディングテーマも昭和のアイドル歌謡曲のテイストで製作されている。




 引用ここまで。


 たしかに1話のエンディングを見たとき、『うる星やつら』は真っ先に浮かんだ。シリーズにおいて異星人初のプリキュアとなったララは頭部に触覚状の二対のセンサーを付けており、そこから電気を発する設定だ。また、その母親役の声優はあのラムちゃんこと平野文さんである。


マンガ/アニメの文脈ではもはや「古典的」ともいうべき電気ショックの表現。『うる星やつら』でもよく見た



 ちなみに「星空界」とはこんな感じ。児童向けファンタジーの面目躍如たるデザインといえよう。




 この「星空界」に見て取れるように、「スタプリ」は当初かなり子供っぽい印象だった。児童向けファンタジーなんだから子供っぽいのは当たり前だが、なにぶん前作の『HUGっと!プリキュア』が変な昼メロを思わせるくらいアダルトなムードを一部漂わせていたために、対比が際立ったのである。で、ついこのあいだまでは、本など読みつつ片手間に見ていたのだが、35話「ひかるが生徒会長⁉キラやば選挙バトル☆」あたりからバカに面白くなってきて、ちゃんと正面から観るようになった次第である。





竜退治とロマンス

2019-11-16 | 物語(ロマン)の愉楽
 さて。話がすこし逸れたけれども、「竜退治」のパターンがエンタメにおけるストーリーづくりの王道……というより、基本中の基本であることは申すまでもないだろう。「ヒーロー(主人公)」がいて「悪役」がいて、そのワルに苦しめられている「姫」がいる。悪役は必ず主人公よりかなり強い。むろん、さもなくば話がすぐに終わってしまうからである。ヒーローが艱難辛苦を乗り越えて、努力の果てに敵を打ち倒し、「姫」を解放する。そのプロセスこそが「お話」の内容そのものなのだから。
 それで、まあ、解放された姫様が「おお。大儀であったの。あとで褒美をつかわすぞ」と言ってさっさと城に帰っちゃったらあんまりなので、姫様はそういうキャラではなくて、たいてい主人公と恋に落ちる。そこで「竜退治」に「ロマンス」が重なる(もちろん、特に最近のものでは、共に力を合わせて戦う過程で信頼や愛情が育まれてることが多い)。この「ロマンス」は、こないだまでブログでやった「メロドラマ」とはまた別物だけど、ほぼ似たようなもんである。
 「竜退治」+「ロマンス」。ハリウッド映画から日本の深夜アニメまで、エンタメ(サブカル)はことごとくそのバリエーションとして紡がれる。
 宮崎駿作品だと、いうまでもなく『天空の城 ラピュタ』。その前哨として『未来少年コナン』というテレビシリーズもあったし、「ルパン三世」のフォーマットに落とし込んだら『カリオストロの城』になる。
 きわめて興味ぶかいのは、これも日本のエンタメ消費者にとってはお馴染みながら、今や「ヒーロー(主人公)」が女性になり、男子(男性)のほうが「姫」の役を割り当てられるケースが多いことだ。ジェンダー・ロールが入れ替わっている。いちばんいい例が『風の谷のナウシカ』。きのう金曜ロードショウでやってた(2回目)『アナと雪の女王』もとうぜん入る。プリキュアしかり、まど☆マギしかり。こんな恣意的にピックアップするんじゃなしに、きちんと綿密に辿っていけば、これはこれで有益なレポートができる。
 もうひとつ注目すべきは、退治される「竜」の末裔としての「悪役」である。もとより昔から「ピカレスク・ロマン」といって、並外れた魅力をもった「ワル」を描く作品の系譜はあったけれども、大体においてプレモダン(近代以前)の作品においては勧善懲悪、すなわちワルはどうにもこうにも御しがたい根っから性根の腐りきった更生不能のクズであり、善玉のほうは生まれつき品行方正で眉目秀麗な好漢として描かれるのが常だった。
 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が典型的だが、これは儒教道徳の影響に加え、馬琴が癇性なまでに生真面目な人だったのが大きい。
 ハリウッドでは、おもに「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれた70年代半ば頃(つまりベトナム戦争以降)の作品あたりから、「悪」の形象が複雑になり、深みを帯びて描かれるのが当たり前になってきた。
 その流れのおそらく頂点に位置するものが2008年の『ダークナイト』におけるヒース・レジャーのジョーカーであり(彼は本作の公開を待たずに亡くなった。役作りにのめり込みすぎたためと言われている)、今年度の『ジョーカー』におけるホアキン・フェニックスのジョーカーなのだろう。
 附言するならば、今年の『スタートゥインクル☆プリキュア』がここにきて深みを増し、格段に面白くなってきたのは、「悪役」たちがそれぞれに過去を背負って、陰影ゆたかに描かれているからだ。ここが昨年の『HUGっと!プリキュア』との最大の違いだ。「悪」についての掘り下げをおろそかにして人の心を打つ作品はできない。






聖ゲオルギウスとバットマンとを繋ぐもの

2019-11-16 | 物語(ロマン)の愉楽
 前回の末尾でジョーカーおよびバットマンの話を持ち出したが、英雄にして殉教者たる聖ゲオルギウスから、いきなりこのお二人に跳んじまうのもまた乱暴な展開である。ゼミのレポートであれば指導教授から苦笑まじりに窘められるところであろう。ただし論旨の運びは確かに粗いがけっして牽強付会ではなくて、繋がってるのは事実なのである。それもただ類比的に「同一の構造が認められる」というレベルじゃなく、ほんとうに系譜として繋がっているのだ。
 そこをヨーロッパ文化史の文脈を辿ってていねいに跡付けてやればそれこそ浩瀚な論文ができる。きっと面白いものになるだろう。それは現代アメリカの病理の一端を浮き彫りにすることにもなるので、たんに面白いだけでなく社会学的にも意義がある。しかしぼくにはそんな余裕はない。
 だからここではメモの代わりに最低限の手がかりだけを書き付けておこう。いきなり近代から歴史を始めて、固有の確たる神話をもたないUSAは自身のために「キッチュな神話」をつくった。むろん特定の個人なり企業なり組織なりがつくったというのではなく、大衆の欲望と情念を吸い上げながら巨大な説話論的/イメージ論的体系が自ずと形成されていったわけだ。
 それこそがハリウッド映画にほかならない。
 ハリウッド映画の影響力は、州知事どころか大統領までをも生んだことからもわかる。
 たぶんこういう話題については町山智浩さんなんかが詳しいんだろうけど、ぼくが目にしたかぎりでは、あの人の関心は60年代以降に集中していて、創成期~大戦直後あたりまでのハリウッド映画についてのまとまった論考はないようだ。ほかに目ぼしい資料も手元にない。
 資料はないが、ハリウッド映画の歴史において、「聖ゲオルギウスとバットマンとを繋ぐもの」といえば、そりゃ常識で考えて「西部劇」だろう。いまはテレビで目にするのも稀だが、ぼくが子供の頃にはしょっちゅうやっていた。当時は「日曜洋画劇場」「月曜ロードショー」「水曜ロードショー」「金曜ロードショー」などと、まさに連日テレビで洋画を放映してたのだ。ネット配信やDVDはおろか、ビデオすら普及してなかった頃には、テレビの洋画枠は貴重で、西部劇もそんな洋画枠のコンテンツのひとつだった。
 ぼくは西部劇に興味がない。ゆえに巨匠ジョン・フォードの作品もほとんど観てない。蓮實重彦いこう、ジョン・フォードを知らずして映画を語ることは許されなくなった。だからそもそも西部劇を……というか、ハリウッド映画、いや現代映画を不用意に語ってはいかんのだけども、そんな事を気にしてちゃブログなぞやってられんのである。だから西部劇についてもどんどん語る。
 どんどん、といってもここでいうべきことはあまりない。西部劇には必ず保安官が登場する。銃を携えた荒くれ共に伍して、街の正義と治安を守るヒーローだ。代表する役者はジョン・ウェイン。
 この「保安官」こそが、聖ゲオルギオスとバットマンとを繋ぐ直近のキャラ類型に違いない……というわけで、本日はばたばたしていて時間がないのでここまで。





この記事の続き。









聖ゲオルギオスの竜退治

2019-11-13 | 物語(ロマン)の愉楽
 「メロドラマ」については、akiさんからのコメントのおかげで自分でも思っていなかったほど深いところまで行けた。まだまだ道は遠いけど、今はもう「メロドラマの話はこれ以上絞っても出ないよ。」といった塩梅なので、ほかのネタに移りましょう。
 「物語」といえば「竜(ドラゴン)退治」。これは前々からアタマのどこかに引っかかってたのに、なぜかブログの記事に仕立てたことがなかった。あまりにも自明な事柄はかえって前景化しにくいという、「灯台下暗し」的心理のなせるわざだろうか。あるいは、下らぬようだがわりと重要な理由として、ぼくがあの手の怪物っぽいのが苦手だってこともある。「シン・ゴジラ」の第5形態くらいヒト型に近けりゃまだいいんだけどね。
 ドラゴンのイメージにも文化圏によっていくつか種類がある。ざっくり分ければ東洋ではいわゆる「龍」の姿で(すなわちドラゴンボールの神龍タイプ)、西洋では大きなトカゲに蝙蝠ふうの翼の生えたバハムート型としてヴィジュアライズされることが多い(これをさらに図案化して紋章にするとワイバーン型となり、ショーン・コネリーがドラゴンのCVを担当したハリウッド映画『ドラゴンハート』などはこれだった)。この2タイプからさらにまた細分化される。
 聖ゲオルギオスはキリスト教の聖人のひとりで、古代ギリシア語とラテン語ではこの読みになるが、イタリア語ではジョルジョ、スペイン語ではホルヘ、フランス語ではジョルジュ、ドイツ語ではゲオルク、英語ではジョージ。ありふれた名前だ。というか、キリスト教圏では聖人にあやかった名をつけることが多いので、結果としてそうなるわけだが。絵画では、もっぱら甲冑をつけた騎士の姿で描かれる。
 このゲオルギオスさんがドラゴンを倒す。wiki先輩のお話によると、詳細はこんな感じである。


『伝説の成立は11世紀から12世紀頃といわれる。


カッパドキアのセルビオス(Selbios)王の首府ラシア(Lasia)付近に、毒気は振りまく、人には咬み付く、という巨大な悪竜がいた。人々は、毎日2匹ずつの羊を生け贄にすることで、何とかその災厄から免れていたが、それが通用するのはそんなに長い時間のことではなかった。羊を全て捧げてしまった人々は、とうとう人間を生け贄として差し出すこととなった。そのくじに当たったのは、偶然にも王の娘であった。王は城中の宝石を差し出すことで逃れようとしたが、そんなものでごまかせるはずもない。ただ、8日間だけ猶予を得た。




そこにゲオルギオスが通りかかった。彼は毒竜の話を聞き「よし、私が助けてあげましょう。」と出掛けていった。




ゲオルギオスは生贄の行列の先にたち、竜に対峙した。竜は毒の息を吐いてゲオルギオスを殺そうとしたが開いた口に槍を刺されて倒れた。ゲオルギオスは姫の帯を借り、それを竜の首に付けて犬か馬のように村まで連れてきてしまった。大騒ぎになったところで、ゲオルギオスは言い放った。




「キリスト教徒になると約束しなさい。そうしたら、この竜を殺してあげましょう」




こうして、異教の村はキリスト教の教えを受け入れた。』




 なにしろ聖人であらせられるので、たんに竜を退治してめでたしめでたしとか、王女様をお嫁にもらって幸せに暮らしましたとか、そういう話ではなくて、布教をなさるわけである。ただの人助けではなく、異教徒を改宗させるために竜退治を請け負ったわけだ。そのせいもあり、このエピソードにしても、本来ならばいちばん面白くなるはずのバトルシーンが拍子抜けするほどあっさりしている。
 そしてこの人、この後どのような遍歴をされたのかはわからぬが、最後にはけっこう酷いことになる。ひきつづきwiki先輩のお話。




『殉教
ゲオルギオスはキリスト教を嫌う異教徒の王に捕らえられ、鞭打ち・刃のついた車輪での磔、煮えたぎった鉛での釜茹でなどの拷問を受けるが、神の加護によって無事であった。


王は異教の神殿でゲオルギオスに棄教を迫るが、ゲオルギオスの祈りによって神殿は倒壊する。しかも、王妃までもがゲオルギオスの信念に打たれてキリスト教に改宗しようとしたため、自尊心を傷つけられた王は怒りに駆られた。


王妃は夫たる王の命令によりゲオルギオスの目の前で見せしめとして惨殺されるが、死の間際「私は洗礼を受けておりません」と訴えた。ゲオルギオスが王妃の信仰の厚さを祝福し「妹よ、貴方が今流すその血が洗礼となるのです」と答えると、天国を約束された王妃は満足げに息を引き取った。


ゲオルギオス本人も斬首され、殉教者となった。』




 なんとも気の毒な羽目になったものである。そんなに神のご加護があらたかならば、どこかで助けが入らぬものかと思ったりもするが、もちろんこれはキリストの受難をなぞってるわけだろう。だから聖人伝ってのはみなこんな按配で、聖人も聖女も迫害を受けて酷い目にあって殉教する。そのような人たちの列伝を集めたもの(のうちでもっとも有名なの)が『黄金伝説』という書物だ。平凡社ライブラリーから4分冊で出ているが、どの巻もたいそう分厚い。
 竜退治といえばまずこのゲオルギウスの名が浮かぶが、伝説によれば、ほかにもやった人はいるらしい。引き続きwiki先輩のお話。




『聖ゲオルギウスの竜退治の話は、ヤコブス・デ・ウォラギネ撰述の聖人伝説集『黄金伝説』(13世紀)を通じてヨーロッパに広まった。『黄金伝説』にはアンティオキアのマルガリタ(聖マルゲリータ)、聖マルタ、ローマ教皇シルウェステル1世の竜退治伝説も収められている。


 イギリスでは『ハンプトンのベヴィス卿(英語版)』(14世紀)、聖ジョージをはじめとする七人の勇者が登場する『七守護聖人』(リチャード・ジョンソン(英語版)作、1596年)といった文学作品も、竜退治物語の大衆的普及に寄与した。イギリスの民衆劇ママーズ・プレイ(英語版)でも聖ジョージが登場するが、ドラゴンは台詞のなかで言及されるだけで、舞台に登場することは稀であった。』




 ふむふむ。


『15~16世紀にはイギリス各地で火を吐くドラゴンの見せ物があったことが記録に残っており、17世紀には花火で火を吹きながら空を飛ぶ仕掛の張子のドラゴンも考案された。ドラゴンは町の祝祭のアトラクションにも使われた。記録上は15世紀初頭にまで遡る「ノリッジのスナップ」 (Snap of Norwich) は、中に人が入って動かす模造ドラゴンで、人を追いかけたりして祭を盛り上げた。ノリッジ近辺ではこれを模倣したものが20世紀初頭まで使われていた。フランスのタラスコンでは、聖霊降臨祭の月曜日と聖マルタの日にタラスクという木製のドラゴンのパレードが行われた(この行事は一時廃れたが、現在は復活している)。』




 ははははは。中世末から近世には、お祭りの出し物や、見世物の興行にドラゴンの張り子が使われたのかあ。まあ記録に残ってないだけでもっと早くから使われていたのかもしれぬけれども。たしかにこれはアトラクションと呼ぶべきですね。やはり人間ってのはなぜか「怪物」が大好きなんだよな。この心性はおそらくそれこそシンゴジラとか、ポケモンとか、ドラクエとか、恐竜博といったものにまで繋がってくるんだろう。




 さらに遡ればもちろん、ギリシア神話のペルセウスによる海竜退治に行き着く。ペルセウスはほかにもたくさん怪物を退治してるのだが、このエピソードにおいてはアンドロメダという美女を救った点が大きくて、「英雄が竜を倒して美女を救う」パターンの原型として、アンドロメダ型、あるいはペルセウス・アンドロメダ型神話と呼ばれる。この分類法に関して、wiki先輩は[要出典]などと厳めしいことを仰るが、かりに学術的に認知されておらずとも、ここまで普遍化した類型に何らかの呼称をつけておくのは自然だろう。
 むろん日本であればスサノオによるヤマタノオロチ退治となる。アンドロメダ姫に当たるのはクシナダ姫だ。ただしヤマタノオロチはドラゴンではなく形態からいえばヒュドラ……わかりやすくいえばキングギドラ型だが。
 日本神話でペルセウス型の竜退治が語られているのは興味ぶかい。というのも、中国においては古来より竜は聖獣であり、退治するなどもってのほかだからだ。ヤマタノオロチの原型がどこで生まれてどこをどう伝わって日本に来たのか、まじめに調べたら面白いかもしれない。だれかやった人はいるんだろうか。
 もっというなら、じつは聖人伝説より前に聖書そのものにも竜や怪物は出てくるし(それも結構いっぱい出てくる)、さらにそれ以前、シュメール神話では『君の名は。』でおなじみティアマトという巨竜が語られている。たぶん竜や怪物のイメージは人類の発生と共に古いのであろう。
 いやしかしドラゴン談義はこれくらいにしましょう。今回話したかったのはむしろ聖ゲオルギウスのほうだった。




 スサノオやペルセウスと違うのは、聖ゲオルギウスさんが偉業を成し遂げたのち、迫害を受けて殉教したことだ。つまりこの方は英雄というより受難者として描かれているわけで、これは先述のとおり主キリストの事績を踏襲しているわけだが、結果として、聖ゲオルギウスまたの名を聖ジョージさんは現代を生きるぼくたちにまでストレートに通じるヒロイズムを帯びる。陰を背負ってるわけである。
 いま『ジョーカー』が話題をまいているけれど、そもそも本編の主人公たるバットマン本人がそうとうに屈折したヒーローであり、資産家ではあっても両親を子供の頃に失ってるわけだし、街の治安を守るべく満身創痍となって粉骨しても、いぜんとして悪は蔓延り続け、自身の奮闘も報われず、愛を確かめあう伴侶とてなく、どうにもこうにも痛々しい。そこに今日のアメリカってもののナルシスティックな自己投影を見て取ることもできるだろう。そのようなイメージなり心性なりの原型として、聖ゲオルギウスの存在は物語論的にきわめて大きい。




この記事の続き。
「聖ゲオルギウスとバットマンとを繋ぐもの」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/7e258ab360339d4166fcb1f7cb411e9e





『スター☆トゥインクルプリキュア』第38話「輝け!ユニのトゥインクルイマジネーション☆」と『宇宙よりも遠い場所』

2019-11-10 | プリキュア・シリーズ
 もりのさとさんから頂いたコメント。


2019/11/09


こんにちは。


よりもい論をすべて読ませていただきました。すばらしい作品論です。特に、めぐっちゃん周りの論考には深くうなずかされましたし、第8話の外に出る場面の解釈にはなるほどなあと思いました。
また、個人的結月の二大名場面(第7話の膨れるところと、第12話の「いい友だちですって!」)が両方拾われている点に非常に好感を持ちました(笑)


よりもい第11話と、HUGっと!プリキュア第31話を比較して考えたのは、わたしだけではなかったんですね。
HUGプリは楽しく視聴したのですが、eminusさんと同じく、あの話には納得いきませんでした。先週のプリキュアでも似た展開があって、ふたたび釈然としない気持ちになり、ふたたびよりもいのことを思い出してしまいましたが……。


少しだけ、訊いてみたいことがあります。
eminusさんは、第11話で、日向の悪い噂を流したのは同級生の3人だと解釈されていますが、わたしはこれ、先輩が単独でやったことだと思っていたんです。
というのも、退学に追い込むほどの悪い噂を流しておきながら(しかもそれをやったことを本人に知られていながら)、本人の前に姿を現すのは、いくらなんでも人としてありえないと考えたからです。
言われてみれば、同級生たちも関わっていたと考える方が自然とは思うのですが……このあたり、どうお考えでしょうか。


もうひとつ、最終話の、報瀬が母のノートパソコンを開く場面について「残酷」と評されているのを、少し意外に感じました。わたしがこの場面で覚えたのは、悲しみプラス安堵感、のようなものだったのです。
メールが母に届いていなかったことで、報瀬が母の死を思い知らされるというのは、たしかな、悲しいことで、一方で報瀬の送っていたものが、形として残って、母の遺品に溜まり続けていたということを、よかった、と思ったのでした。これは読み間違いなのかもしれませんが。


☆☆☆☆





ぼくからのご返事


 ふくれる結月は可愛いですよね……。スタートゥインクルプリキュアで、ララが変身するとき一瞬あんな感じになるけど、あれはスタッフぜったい狙ってますね(笑)。
 「先週のプリキュアで、よりもい11話およびHUGプリ31話と似た展開……」とは、10月27日放送分の38話で、ユニがアイワーンに「許す!」と真っ向から宣言したやつですよね。
 あの38話を見て、「スタプリ」に対するぼくの評価は跳ね上がりました。歴代シリーズでも屈指の話数ではないか、と思いました。まあ、歴代ぜんぶ見てきたわけじゃないですけど。
 当該シーンを画像付きで文字に起こしてみます(なお画像は一部順番を入れ替えてます)。






















 アイワーンの操縦する「ロボ23号」の猛威にプリキュア勢は大苦戦。キュアコスモも追い込まれる。
 そこに、ハッケニャーン師が立ちはだかる。バケニャーン(CVは同じ上田燿司さん)そっくりの容貌に、アイワーンがひるむ。
ハッケニャーン「遠い星を、見上げているばかりでは気づかぬものだ。足元の花の美しさに」
「あ」と顔を上げるキュアコスモ(以下はユニと表記)。


(ユニの脳裏の回想シーン。第20話より。
ユニ「あなたには関係ない……何も知らない他人でしょ!?」
ひかる「知らないからだよ……。だってさ……キラやば~っ!だよ。だから私は、(あなたとあなたの星を)守りたい!」)


アイワーン「なに……わけのわかんないこと言ってるっつーの……どいつもこいつも、知らないっつーの!」
 アイワーン、ビームを撃つ。ユニ、間一髪で発射口を蹴り上げ、軌道を逸らす。
アイワーン「(泣きながら)許せない……許せないっつーの。あたいの居場所を無くしたお前だけは……ぜったい、許さないっつーの!」
 もういちどビームを撃つ。


(回想シーン。ユニ「(怒りに燃えて)許せないニャン。みんなを……石にした……あいつ……だけは」)


ユニ「同じだ……。アイワーンと……わたし」
 ユニの全身をふしぎな光が包み、ビームを受け止める。
アイワーン「なんだっつーの!?」
ユニ「わたし…… (孤児だった頃の、泣きじゃくるアイワーンの映像が挿入される)あなたのこと……傷つけてた。…………………………ごめんニャン」
 驚くプリキュア勢。傍らで、ふかく頷くハッケニャーン師。
アイワーン「なに……謝ってるんだっつーの……?」
ユニ「今ならわかる……あなたの気持ち……」
アイワーン「何がわかるんだっつーの!」
ユニ「苦しかったんでしょ、アイワーン!」
アイワーン「あ……」
ユニ「わたし……わたし、決めたニャン。あなたを……許す!」
アイワーン「なんで……なんでそんなこと言うんだっつーの!」
 言いながら、さらにビームの威力を強める。ユニは平然と受け止める。
ユニ「過去だけを見るんじゃなくて、前に進んでいきたい。(一歩踏み出し)あなたと一緒に。……自分だけじゃなくて、わたしは……みんなと一緒に、未来に行きたい!」
 ユニの体から発した光がビームを跳ね返し、そのままアイワーンの心へと届く。ユニがオリーフィオと過ごした楽しい日々の思い出と、それを失った時の悲しみが真っすぐにアイワーンに伝わる。
アイワーン「ええっ……」


 といった感じでした。朝っぱらからえらく泣かされちゃいましたけども。

 ユニはアイワーンを欺き、結果として彼女の信頼を弄ぶ形にはなったけど、その前にアイワーンはユニの星を丸ごと石化したわけで、バランスシートは比較にならない。いかにユニが、ひかるたちとの交友を通して寛容さを育んでいたにせよ、ユニから先に謝るのは違和感がありますね。それはたぶんアイワーン自身もわかってて、「なに……謝ってるんだっつーの……?」「なんで……なんでそんなこと言うんだっつーの!」などと、かなり混乱しています。
 いわゆる「憎しみの連鎖」を断ち切るには、明らかに相手に非があっても、こちらから折れねばならない……。それは確かにそうなのでしょうが、いかに児童向けアニメといえど、あからさまな「綺麗事」だけでは納得がいきません。
 そこで、ハッケニャーン師というメンター(導き手)が作品のなかに召喚される。あのハッケニャーン師というキャラクターはむちゃくちゃ魅力的で、ぼくが見てきたうちでは、プリキュアシリーズに出てきた脇役の中での白眉ですね。



盲目の占い師・ハッケニャーン。いわゆる「老賢者」ふうの風貌だが……。


コミカルな一面も。でもたぶん、ひかるたちの緊張を和らげるためにやってるんだと思う


 じつは、ユニがかつて一人でハッケニャーン師を訪ねたとき、師はユニに星読みをさせて、「皆を戻す方法はある。……星読みは嘘をつかない」と明言したうえで、「広い宇宙に出て良き仲間を見つけなさい。その仲間たちと共に未来へ歩むことが、お前の故郷の星を元に戻すことにも繋がるのだ。」と示唆してるんです。まあ、こんな明瞭な言い方じゃなく、もっともっと漠然とした、抽象的な表現で、まるで押しつけがましくなかったですけど。でも、それこそが真の助言のありかたですよね。そして占いの代価だといって、「私の代わりに外の世界を見てきてくれ。」と、ユニを宇宙に送り出す。それがユニをひかるたちに出会わせることにつながる。
 「故郷のみんなを元に戻せる」という希望がなければ、さすがにユニもアイワーンを「許す」ことはできなかったろうとぼくは考えています。つまりハッケニャーン師の存在がなければ、こちらとしても、泣けもしなかったろうし、得心もいかぬままだったでしょうね。




 それで、よりもいの第11話ですが。
 日向の退部~退学にいたる経緯は日向じしんの口から語られるだけなので、解釈が難しいですね。彼女は自分を擁護するために嘘をついたりはしないだろうけど、なんか誤解してるってことはありうるだろうし。
 でもぼくは、これは「物語」なんだから、日向の語った内容はすべて「事実」だとして考えました。
 悪い噂を流したのが誰かというのは、日向の部屋に全員が集まった際の、
 報瀬「どうでもよくない。だって、悪いのは完全に向こうじゃない!」
 日向「人間って怖いんだよねー。それがわかってるから、なんとか私が悪いってことにしようと、部活やめたあともあれこれ噂流してさ」
 といったあたりのやりとりから、先輩ではなくあの3人でしょう。先輩はたぶん、日向が退部した後は彼女のことなどまるで気にも掛けてなかったんじゃないでしょうか。6話で、シンガポール行きの飛行機に乗る前、日向はぐうぜん空港でチームメイト一行を見かけますが、あの時の先輩(後ろ姿だけど、特徴的な髪形でわかります)のあっけらかんとした態度を見ると、そう思わざるをえませんね。
 でもって、3人が悪い噂を流しておきながら、いけしゃあしゃあとあの場に顔を出せたのは(まあ、テレビには顔を出せませんでしたけど)、そのことを日向がまるで知らないと思ってたからでしょう。そもそも彼女たちは、自分たちが保身のために先輩に対して日向を陥れたこと自体、日向には知られていないと思ってますから(あれは日向が部室の外でたまたま立ち聞きしたからわかったことです)。
 いや……改めてこう考えると、報瀬があの場であれほどの怒りを見せたのも当然だなあと思えてきますね。あそこはやっぱり、日向に安易に「許す」と言わせないでよかったです。
 「許し(赦し)」というのは物語としても、じっさいの人生においても社会においても、つくづく難しいテーマです。




 もうひとつは、12話で、報瀬が「喪の仕事」を果たす場面ですね。
 悲しみプラス安堵感……そうですね……。「報瀬の送っていたものが、形として残って、母の遺品に溜まり続けていたこと」については、「よかった」とぼくも思います。でも、それをああいうかたちで目の当たりにした際の報瀬の心情は、それまで自分のなかで生死の定まらなかった母が、ほんとうに眼前で息を引き取ってしまったほどのショックだったのではないでしょうか。
 それがどれくらい続くものかはわからないけれど、少なくともしばしのあいだは、心が悲しみだけで塗り潰されるような情態だったのではないか……とぼくは想像いたします。でも、それはあらかじめ心のどこかですでに覚悟していたことでもあるので、傍にキマリたちだっていてくれることだし、「生」に向けての回復までには、それほどの時間はかからなかったとも思います。
 あのなだれ落ちるメールは(本編でも述べたとおり)「3年にわたって止まっていた時間」が動き出すことの暗喩にもなっているので、けして後ろ向きなものではない。それは確かなことですね。
 でも、あれだけ心を込めて送り続けたにもかかわらず、それは決して貴子には届かなかった。このこともまた確かです。
 「安堵」とは違いますが、パソコンの中に残されたものが「生の歓び」に結びつくということならば、日本に帰る船の上で報瀬が受け取る、貴子の遺した(そして藤堂が貴子に代わって送信した)「本物はこの一万倍綺麗だよ」というオーロラの画像付きのメールこそが、それに当たるのでしょう。
 やっぱり、キマリたちがあのパソコンを見つけたのは、本当に大事なことでした。貴子からのメッセージが、ちゃんと報瀬に「届いた」のだから。









メロドラマ。その④ akiさんへのご返事02

2019-11-08 | 物語(ロマン)の愉楽

akiさんからのコメント

セカイ系!そうやん(爆)

 早速のご返信ありがとうございます。(^^)
 ただ、eminusさんの考えておられた段取りをいきなり崩してしまったようで。 その点については恐縮しております。


 ピーター・ブルックス氏の論説については、私はまるで的外れでしたね。やはり素人が知ったかぶりをするものではありません。
 「メロドラマ」のブルックス氏による定義についても、私の今の知識量と理解力では全貌どころか、その片鱗すらをも読み取ることは難しそうです。キリスト教的道徳律、ヨーロッパ文学の系譜についての知識があまりにも不足しています。
 まあ素人にわかる範囲で、今回のeminusさんのコメントを読解すると、


「キリスト教的価値観が崩壊したので、それに代わる道徳律を文学に求める意識が『メロドラマ』を生み出した」


 ・・・ということになるんでしょうか? 間違っていればまたご指摘いただければ幸いです。
 うーむ・・・フランス革命以降のヨーロッパ社会の雰囲気についての知識も、やはり自分には不足していますね。この論が正しいのか間違っているのかを判断する根拠がない。


 というわけで、今回のeminusさんのご返信で、私に理解できたのは「セカイ系」との論点で、このお言葉には「これだ!」とはたと膝を打つ思いがいたしました。
 いわれてみれば、2000年代に入った後、アニメにおける名作にはセカイ系の話が多い。ちょっと時代は遡るけど「エヴァンゲリオン」しかり、「ハルヒ」しかり、「エウレカセブン」や「シュタインズ・ゲート」「まどマギ」、「君の名は」と「天気の子」もそうでしょうし、最近のテレビアニメでは「SSSS.グリッドマン」が思いつきます。見てないけど今上映中の「ハロー・ワールド」もそうかもしれない。(例によってアニメばっかでスミマセンw)
 「セカイ系」との括りで見れば、「世界改変」という壮大な背景を持ちつつ「5人だけの物語」ひいては「ほむまどの二人だけの物語」に集約するのも自然ですし、お話の構造もぴったりとパターンに当てはまります。


 と、いうことで、私としては納得だったのですが、eminusさんは「セカイ系」という言葉だけでこの作品を括ることに違和感を覚えられているのですね。その違和感の寄って立つところが、「ほむらに対する感動」にあることも伝わってきました。
 ほむらの「愛」とは、ブルックス氏言うところの「聖なるもの」「道徳的神秘」と呼んでよいものなのではないか、と・・・・。なるほど~。


 この視点は、私にとってはなかなかに新鮮です。おそらく、私が今一つこの物語にのめり込むことができず、「ほむまど」より「あんさや」に惹かれた理由が、正にその点にあるのだろうと感じました。


 これは、現時点で感想を決定するのは早計ですね。これからもこの物語について書いていかれるとのこと。どんな論を展開なさるのか、楽しみに拝見したいと思います。(^^)

☆☆☆☆




ぼくからのご返事

 ぼくのばあい、ダンドリなんて、有って無いようなもんだから、その点はぜんぜん構わないです。いやむしろいつでもコメント大歓迎です。ブログってのは即興演奏みたいもんだから、読み手からのレスポンスによってどんどん変わっていくのが当然というか……。じっさい、今回のコメントがなかったら、少なくともメロドラマ云々の流れにおいては「セカイ系」の話には至らなかったでしょう。こちらとしても、アタマのなかでもやもやっと蟠ってたことが、おかげさまで一挙にクリアになった塩梅ですね。
 ブルックスの『メロドラマ的想像力』の翻訳、残念ながら読めてないんですよ。5年くらいまえ、書店で手に取ってさんざ迷ったんだけど、4000円という価格に二の足を踏んでたら、品切となって古書でどえらい高値を付けてます。産業図書というマイナーな版元からの刊行で、たぶん初版数千部しか刷ってなくて、重版も掛からなかったんですね。ちくま学芸文庫か平凡社ライブラリーあたりで復刊してくれんもんかなあ。
 だから、ネットで見つけた鈴村智久さんという方の優れたレビューだけを頼りにやってるんだけど、そこにこんな一節があります。前回の記事の中でも引用させて頂きましたが……。




 メロドラマとは、かつてキリスト教的道徳律として中心原理を担っていた「聖なるもの(ヌミナス)」を、文学作品に描かれた「日常の人間関係の中」で「本質的道徳」(倫理)として取り戻そうとする文学形式である。換言すれば、メロドラマが求める聖杯は「道徳的神秘」である。




 キーワードが3つ出てますね。①聖なるもの(ヌミナス)、②本質的道徳(倫理)、③道徳的神秘。このうち②はいいとして、①と③とはなんかちょっと謎めいてます。
 でも「換言すれば」なんだから、とりあえず本質的道徳(倫理)≒道徳的神秘ですよね。聖杯がどうのと難しいこと言うからややっこしいけど、要するに「メロドラマが求めてるのは本質的道徳(倫理)だよ。」でいいのでしょう。
 読み返してみると、前回の記事では、ぼくもこの3つの用語を巡ってちょっと混乱してますね。こんなこと書いてました。


「ただ、「道徳的神秘の探究」ってレベルにまで達してるといえるかとなると、さすがにね……。この話は後でまた蒸し返すことになりそうですが。」


 ここの「道徳的神秘の探究」は、「聖なるもの(ヌミナス)」としておくべきでした。そうじゃないと論旨が濁ってくる。前回の記事では、ぼくは「悪魔になることを選び取ったほむらに『聖なるもの(ヌミナス)』を垣間見た。」と言いたかっただけで、「道徳的神秘」については、そんなにきちんと考えてなかったです。


 さて。「メロドラマが求めるものは本質的道徳(倫理)である。」ってことならば、akiさんが仰るとおり、
「キリスト教的価値観が崩壊したので、それに代わる道徳律を文学に求める意識が『メロドラマ』を生み出した。」
 でいいですよね。
 より精確には、
「キリスト教的価値観が崩壊しつつあるので、それに代わる道徳律を文学(演劇をも含む)に求める社会的な意識が『メロドラマ』を欲した。」
 みたいな感じかもしれませんが。
 ここでいう「キリスト教的価値観に代わる道徳律」って、ざっくり言えば、「美徳のヒロインは悪者の手によってさんざん酷い目に合うけど、最後には必ず天罰が下って悪が滅んでハッピーエンド。」ていどのものなんですよね。「いやそれただの水戸黄門やん。」と言いたくなりますが。
 これならまあ、ほんとに「昼メロ」っていうか、ふつうにぼくたちが使うニュアンスの「メロドラマ」とさほど変わらない。
 じっさい当時の芝居小屋でやってた大衆演劇なんてのはそんなレベルだったのでしょう。往時の活況をうかがわせる記述が『メロドラマ的想像力』の中にあります。これも鈴村さんのサイトからの引用ですが、元の翻訳が固いんで、ぼくが文章に少し手を入れました。


「メロドラマを生み出した社会的背景」

 フランス革命前夜、パリには23館に及ぶ劇場があって、1791年までには好きなものを自由に上演できるようになった。様々な見世物が開花し、古典が焼き直され、いたるところから借用がなされ、ドラマ、時事問題を扱ったボードヴィル、ファンタスマゴリア、そして様々なパントマイム――対話もの、英雄もの、歴史もの、妖精もの――時にはミモドラム(台詞なしの劇)などが上演された。
 フランス革命が起こると、ディドロの提唱した道徳主義が、かなり露骨で荒っぽい形で持ち込まれる。劇場はあたかも革命のための弁論場と化し、擬似的な立法機能さえ割り当てられた。それは美徳がこの世を律していた時代へと引き戻すためのメディアであり、そこでの言葉は正しい行動の指針たるべきものと見なされ、しかるべき倫理を観客に押しつけた。いわば「教義上の正当性」が求められたわけだ。外からの、また内側からの自己検閲がそれを補強する。目まぐるしく体制が入れ替わるたびにその新体制を褒め称え、フランス軍の勝利を讃美した。
 とはいえ劇場は、恐怖政治の一時期を除けば、さほど政治的に縛られたわけでもなかった。しょせんは娯楽と見られていたのである。誇張、感傷、何よりもゴシック趣味が横溢していた。もったいぶったシラー的な/あるいは元祖バイロン的な主人公や、好色な坊さん・無理難題を強いられる修道女などが描かれた。この手の劇が一般に人気を博していたのは、1807年にナポレオンの命令が発令される頃には、パリの劇場が32館にまで増えていたという事実からもわかる。
 つまりこの時期は芝居の絶頂期で、創造性に溢れていた。劇のジャンルは急増し、ピクセレクールやデュカンジュといった作家たちが人気を博した。トータン、マルテュ、ルヴェク嬢、アデル・デュプワ、更にはボカージュ、マリー・ドルヴァル、フレドリック・ルメートルといった俳優や女優がアイドル視された。




 こういう話は歴史の本にも載ってないんで、貴重な文献なんですが、ふと思ったのは、ヨーロッパのほかの都市、ロンドンとかベルリンとかウィーンとかローマとかプラハとかではどうだったの?ということですね。イスラーム圏とか、北京なんかも気になりますね。19世紀の江戸の人口は世界の都市の中で最多だったと言われたりもするけど、江戸ではずいぶん芝居が盛んでしたから。
 ただ、フランスのばあい、やはり革命のことが大きかったと思います。旧来の秩序が壊れて人々が拠り所を求めていた。そこに「キリスト教的価値観の崩壊」も重なる。しかも、街ぜんたいが騒擾の余熱で滾ったようになってたんでしょう。犯罪も横行していたそうだし。そういったエネルギーを収監する場として劇場が機能していた。
 大衆演劇としての「メロドラマ」はそんな具合なんだけど、ブルックス先生は文学者なんで、もう数ランク深いところに議論を持ってきます。それで話が込み入ってきちゃうんですが。
 ひとびとが「本質的道徳(倫理)」を求めてやまない心情の根底には、たんに水戸黄門的な「勧善懲悪」に留まらず、やはりかつてキリスト教が担った「聖性」への希求があるはずだ……ゆえに創作者たるもの、その「近代における聖性」を探究しなければならない。ブルックスさん、どうもそう確信してらっしゃるようなんですね。なにせ本を読んでないんで断言はできませんけども。
 で、そういう高尚なことはなかなか芝居ではやれなくて、どうしても文学(小説)の管轄になる。じつはこの「小説」というのもほぼ「近代」の発明品ですが。
 そこで、
「倫理の中に新たな聖性を見出そうとする流れは、メロドラマの大成者である二人の巨匠――バルザックとヘンリー・ジェイムズによって受け継がれる。」
 って話になる。
 ちなみに、バルザックは19世紀前半のフランス、ジェイムズは19世紀後半のアメリカの作家ですが、どちらも世界文学史に名を留める巨人です。ヘンリー・ジェイムズは、日本ではそれほど巨匠扱いされてませんが、欧米ではジョイス、プルーストといった20世紀最高峰の作家の先駆者として非常に高く評価されてますね。ただ、この2名を「メロドラマの大成者」と位置付けるのはブルックス氏の独創です。
 この「倫理の中に新たな聖性を見出そうとする流れ」こそがすなわち「道徳的神秘の探究」。だから、つまりは芝居の話題と文学の(それも超一級の)話題とがブルックス先生の議論のなかでちょっとごっちゃになってるんですよ。そこさえきちっと仕分けすれば、なにもそんなに難しい話をしてるわけでもなくて、わりとすんなり呑み込めます。




 で、まあ、この流れでいくと、現代ニホンのサブカルが生んだアニメという巨大な「物語の器」は、むろん「芝居」のほうにずっと近いですよね。
 高畑勲さんみたいな根っから真摯な方も含めて、べつに現代日本のアニメ作家で「道徳的神秘の探究」なんてことを心がけてる人がいるとは思えない。そもそもキリスト教とは無縁だし。とはいえもちろん、作品にとって「倫理(モラル)」をどう扱うかはとても大切な問題なので、すべての制作者はそれぞれの仕方でこれに取り組んでるはずです。
 『叛逆の物語』のばあい、悪魔ほむらによる改変後の世界で、主客が入れ替わって、まどかのほうが転校してきた際に、
ほむら「鹿目まどか、あなたは、この世界が尊いと思う? 欲望よりも秩序を大切にしてる?」
まどか「……え? ……それは、えっと、その……。私は、尊いと思うよ。やっぱり、自分勝手にルールを破るのって、悪いことじゃないかな」
ほむら「そう、なら、いずれあなたは、私の敵になるかもね。……でも、構わない。それでも、私はあなたが幸せになれる世界を望むから……」










 というのが、たぶんもっとも直截に「倫理(モラル)」にかかわる対話であったと思います。
 転校した日に初めて会ったおかしな美少女からいきなりわけのわからん話をふられて、戸惑いつつも的確な(そしていかにも彼女らしい)答をかえすまどかはさすがですが、正直、悪魔ほむらさんが再改変しちゃったこの新世界がどういうものか、そこで「魔法少女」やら「魔獣」やらはどうなってるのか、そこがぜんぜん不明瞭なんで、見ているこっちにはいまひとつ事情が呑み込みづらい。
 でも、ほむらのやったことが何だったのかはわかりますね。彼女は、「まどかが魔法少女なんぞに成らないで、人間のまま家族や友だちと暮らす世界」こそがまどかにとっての幸せだと信じて、だからこそ何度も何度も時間遡行して同じ1ヶ月をやり直してきた。しかしテレビシリーズの最終話で、まどかが「円環の理」となってすべての因果を引き受けることを決めたので、自分もまた、その彼女の覚悟を受容した。そしてそのまどかの犠牲を無駄にしないため、ずっと戦い続けてきた。そしてついに力尽きたところでキュゥべえに囲い込まれちゃって、劇場版へと至る。
 それを、このラストで改めて覆しちゃったと。
 つまり自身がキュゥべえと契約した時の初期衝動……自らの根底にある「欲望」に従った。それが「正義」かどうかなんて知ったことではない。ただ、自分がそうしたいから、そうした。
 ネットを見てると、「ほむらはまどかを自分の傍に置きたかった。それが彼女の欲望なのだ」みたいなことを言う人もいるけど、これは誤解で、そんなシンプルな話じゃない。「まどかにとってそれがいちばん幸せであると、そのように自分が信じる世界にまどかを置く。」これがほむらの「欲望」なんですね。
 そして、そのためには自分がどうなろうと構わない。
 だから、まどかは家族に囲まれて幸せそうだし、杏さやもなんかいちゃいちゃ幸せそうだし、マミさんもなぎさと一緒で幸せそうなのに、ほむらだけ、ボロボロのキュゥべえだけしか相手がおらず、あげくのはては夜、真っ二つに断ち切られた月の下で、真っ二つに断ち切られたルミナスの丘の上(それはもちろんかつてのまどかとの思い出の場所です)から身を投げる。
 べつにあれは自裁ってわけではなく、たんに「孤独と戯れている」だけなんだろうと思いますが、それにしても悲愴感は拭えませんね。
 そこにワタクシは、たんなる近代的なモラルを超えた、ある種「崇高」なもの、これまでの文脈でいうならば、ブルックスさんのいわゆる「聖なるもの(ヌミナス)」の片鱗を見ました。
 ……といった感じなんですが、どうもまだ、言いたいことの半分も言えてないです。「セカイ系」との絡みとか「そもそも悪魔とは何ぞや」とか「いやその崇高って何だよ」とか、あれこれと渦巻いてるんだけど、いくらなんでも長すぎるんで、これくらいに致しましょう。
 続きはまた、あっちこっちに脇道・寄り道・回り道しながら、ゆるゆる行こうと思います。長々と失礼いたしました。