ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

akiさんへのご返事04 20.04.19「軍事の話はとめどなく。03 軍事とサブカル」

2020-04-19 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 30年も前に邦訳が出て、読みたい読みたいと思いながらも高額なため手の出せなかった小説が、なぜかこの1月に唐突な感じで文庫化されて、数日前に届いたもんでご返事が遅れました。まだ半ばほどですが、期待を上回る面白さですな。
 それにしても軍事の話は日曜の朝にはふさわしくない気もしますね。じゃあ木曜の晩ならふさわしいのかといわれると、それはそれで困りますけども。とりあえず、4月12日にakiさんから頂いたコメントの末尾の部分を再掲します。




 >私は日本のアニメは本当に高い水準にあるとは思いますが、唯一、軍事的な視点については素人の拙劣さの域を脱し切れていないと思います。これは日本が平和だったことの副産物ですね。軍事的に見られるものと言えば、富野由悠季氏や宮崎駿氏など、生年が戦時中に掛かる人々の作品くらいでしょうか。彼らに影響を受けたアニメ作家たちは、彼らの表現や「カッコよさ」「ワクワク感」などは学んでも、「軍事的視点」は学ばなかった、というか学ぼうとも思わなかった、もっと言えば目にも入っていなかった、というのが正しいでしょうか。まあ戦後も戦争を続けてきたアメリカの映画作品群が「軍事的に見られるか」と言われれば、全くそんなことはないんですけどねw




 宮崎さんにはメカニックなものへのマニアックな偏愛があるので、兵器や飛行機などの描写が細密なのはわかります。ただぼく個人は、作品全体をトータルでみて軍事学的にどこまで正確なのかはわからない。富野さんのばあい、これは「ロボットアニメ」全般におよぶ初歩的かつ根本的な批判っていうか、まあツッコミなんだけど(『映像研には手を出すな!』でもやってました)、「人間が乗って操縦するタイプの巨大ロボットは物理的に不可能」という時点でじつは一種のファンタジーなんですよね。
 華麗なコスチューム姿の戦士に変身して闘う中学生女子が幼い児童(とうぜんもっぱら女の子だと思うけど)の憧憬の投影であるように、「巨大ロボットを手足のように操って闘う」思春期の男子はやはり少年期から青年期(時にはそれ以上)の年齢の男の子たちの欲望の投影でしょう。ぼくは「エヴァンゲリオン」はテレビシリーズ・劇場版とも全作視聴してますが、その源流(のひとつ)というべきガンダムはほとんど観ていない。だからほんとはロボットアニメを語る資格があるかどうか疑わしいけど、一応はそう分析しています。
 ご推奨の『SHIROBAKO』にもたしか、ロボットアニメの戦闘シーンで、絵柄もしくはアクションとしての「カッコよさ」「ワクワク感」を追い求める若いアニメーター氏が出てきましたね。ファンタジーとは換言すれば「物理法則の無視」ですけども、いったん足枷を外してしまえば、いくらでも外連(けれん)味をきかせることはできるでしょう。
 ただ「巨大ロボットを手足のように操って闘う」ことは物理的にはファンタジーだけど、プリキュアをふくむ優れたファンタジーがそうであるように、身体的なリアリティーはあるわけです。つまりこのばあい、バイクやクルマを運転する、もっといえば派手にぶっ飛ばす時の感覚。身体感覚の拡張ですね。それがあるから多くの視聴者が共鳴できる。
 ところで、「巨大なヒーローが敵と闘う」という着想の原点はアニメではなく特撮でしょう。すなわちウルトラマン。このウルトラマンという表象を、戦後サブカル批評の文脈では、「在日米軍」とみるのが定跡となっております。むろん「科学特捜隊」が「自衛隊」となるわけです。
 「科特隊」には、怪獣をも、侵略主義的異星人たちをも倒すことはできない。戦闘力が圧倒的に足らない(5人しかいないし。しかもそのうちの一人が毒蝮三太夫だったりするし)。「敵」を倒せるのはあくまでもウルトラマンだけ。
 これは2017年に講談社現代新書から『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』という本が出まして、ようやく一般に浸透しつつあるんですけども、首都圏も含め、日本は制空権をアメリカに委ねてるわけです。庵野秀明氏(いうまでもなく「エヴァ」の生みの親です)が総監督を務めた『シン・ゴジラ』では、三沢基地から出撃したF2がJDAM爆弾をゴジラに投下するものの、あっさり跳ね返されてしまう。そのご、もちろん日本政府の要請を受けての形なんだけど、グアムから飛んできた(所要時間は3時間ほど)戦略爆撃機B-2が地中貫通型爆弾を落として、ようやくダメージを与えられる。まあ、それでもゴジラを死に至らしめるどころか、活動停止すらさせられず、怒らせてビーム出されてえらいことになるわけですけど、それはともかく。
 戦後ニホンは、「平和ボケ」「お花畑」といわれて、それは紛れもなくそうに違いないんだけど、たんに「軍事について何も知らない。」というのでなく、「あえて見ない」「知ろうとしない」態度が根っこにあると思いますね。つまりシニシズムであり、ニヒリズム。そういった性情がいわば「症例」としてサブカルに反映されているようです。
 今回をもって、4月12日のコメントに対するご返事としますが、もちろん軍事の話はまだまだ尽きることはありません。










akiさんへのご返事03 20.04.16「軍事の話はとめどなく。02 調略と政治。そして火器のこと。ほか」

2020-04-16 | 歴史・文化


 なるほど。「武器」ではなく「調略」とみるわけですか。これは新鮮な見方です。だとすると、日本の将棋は戦陣をかたどっているのみならず、「政治」の要素も含みもってるってことですね。うーん。奥深い。
 たしかに、味方の陣営に裏切りが出れば、それは100がゼロになるどころかマイナス100、ことによったらそれ以上の負債になりますもんね。駒を取られ自陣に打たれて「ぎゃっ。」という時の感じに似てるな。そうかそうか。
 ぼくは中3~高1の頃に司馬さんの小説を貪り読んで、いまだに多くの面で依拠してるんだけど、いちばん最初が『関ヶ原』(新潮文庫 上中下)なんですね。正月の特番で組まれた大型ドラマがきっかけでした。森繁久彌の家康、加藤剛の三成、三船敏郎の島左近、三國連太郎の本多正信というオールスターキャストで、ことに三國さん(佐藤浩市の父君)の正信に魅了されました。武将ってのはけして戦場での勇猛さがすべてじゃなく、謀臣という生き方もあると初めて知った次第です。
 豊臣家の衰亡を決めた(アタマのいい北政所はそれがわかってたのに、肝心の淀殿は愚かにも気づいてなかったわけですが)「天下分け目の関ヶ原」とは、ざっくりいえば豊臣の屋台骨を背負った三成と、反・三成派を糾合して味方につけた家康との決戦ですね。家康が秀吉の遺命を素直にきいて秀頼のもとで臣下に甘んじるつもりがないのは、ふつうに見てりゃ誰にでもわかる。だから加藤清正や福島正則ら豊臣恩顧の大名たちは、まともに考えれば家康に断固敵対するしかないのに、早いうちから東軍に与した。それは三成(を中心とした官僚たち)に対する朝鮮出兵組の武将たちの憤懣や怨嗟をうまく掬い取った家康の掌握術の成果であった。げに恐るべきは人の心ですよ。
 小早川秀秋は秀吉の正妻(のちの北政所)の血縁で、秀吉の数多い養子の一人だった。もともと英邁とは言い難いうえに、幼いうちからちやほやされて、ひどくスポイルされていた。秀吉は当初、中国地方の大大名・毛利家に押し込もうとしたんだけど、「あんなのがお世継ぎになっちゃ大変だ。」ということで、毛利家家臣の小早川家が泣く泣く引き受けて、押し頂いたわけですね。
 だから当主とはいえ、お飾りみたいなもんなんです。しかも主筋の毛利家そのものが、吉川家をはじめとする家臣団の裁量によって運営されてるところがあって、その筆頭の吉川広家が、「時の勢いは徳川にあり。」とみて、早々に東軍に内通していた。三成は自分の家格が低くて、しかも人望がないもんで、毛利輝元を西軍の総大将に担いだんだけど、その輝元は上坂してからずっと大坂城に籠って、最後まで出てこなかった。
 じっさいに戦場にいた毛利の軍勢は吉川や小早川などの家臣団だけですね。しかもその小早川家の当主サマは豊臣の血縁であるにも関わらず、ありようは腑抜け同然である。つまり政治的にも軍事的にも決定権は広家ら家老たちが握っていた。いわば三成は、毛利というでっかい饅頭を抑えたつもりでいたけれど、中にびっしり詰まった餡子はすっかり家康に食べられちゃってた。そんな感じでしょうか。
 関ヶ原での合戦当日、戦況が膠着するなかで、陣立てをした松尾山から背後をついて西軍の主力・大谷刑部軍に襲いかかった秀秋の裏切りは、三成からすればまさに「知らないうちに大駒を取られて自陣に打ち込まれた。」みたいな気分だったかもしれません。


 かなり時代が遡るけど、しかも大陸の話になるけど、司馬さんつながりでいうと、『項羽と劉邦』での陳平による「反間の計」が思い浮かびます。項羽軍の圧倒的な強さが、項羽その人の軍事的才能と勇猛さだけでなく、謀臣・范増の知略に負うところ大だと見抜いた陳平が、ありとあらゆる手立てを使って項羽と范増との信頼関係を断ち切る算段をする。
 面白いのは、劉邦にとって最大の謀臣である張良が、この策を自分では図らず、「陳平は鬼謀の人です。あの者にお任せを。」といって、陳平に委ねたこと。張良くらい聡明ならば、同じことができたと思うんだけど、そのやり方があまりにも「ゲスの極み」だったんで、ご遠慮いたしますってことだったんじゃないかな。それくらい張良は身の処し方が上手い。
 こちらの例はまぎれもなく「調略」でしょう。しかしそれからおよそ1800年後の日本で起こった家康のケースは、むしろ「政治」でしょうね。秀吉の没後、すなわち関ヶ原前夜の情況ってのはかなり特異で、有力な大名が大坂や京の屋敷に集まってて、距離がむやみに近かった。家康・正信コンビは、そのなかで、「豊太閤亡き後は、徳川殿が天下の仕置をなされる。」という空気を巧妙に醸成していったわけですね。吉川家による内通も、もっというなら加藤・福島ら秀吉子飼いの大名たちによる豊臣家への「背信」も、その空気あってこそのものであったにちがいない。




 さて。
 >火薬の登場は武器を強力にし、戦争時の死者を増大させましたけど、実は弓矢が鉄砲に、投石機が大砲に置き換わっただけで、戦術ドクトリンは変化しつつも古代から20世紀初頭まで一直線につながっています。


 というくだり、一読して「おおっ。」と思い、しばし考えたんですが、今のところぼくは、
 チャリオット(二輪戦車)→騎馬軍団→鉄砲/大砲→機関銃/戦車(タンク)→航空機
 の流れで「軍事革命」が進んだ、とする従来の定跡(たぶんそうだと思うんだけど)を踏襲したいと思います。
 「戦場の姿を一変させ、それまでの常識がひっくり返るほどの革命的な変化をもたらした」ってところがポイントになってくるとは思うけれども、どうだろう、たしかに「機関銃」の登場はそれまでの常識を変えて、鉄条網と塹壕を主とする「長期消耗戦」をもたらしたと思いますが(その端緒が日露戦争であり、はっきりとあらわになったのが第一次世界大戦ですよね)、それに先立つ鉄砲/大砲の登場もまた、たんに量的ではなく質的な変化をもたらしたとは言えないでしょうか。
 このあたりはもう少し考えてみたく思います。
 「航空機」は頭上からの攻撃を可能にしたばかりでなく、敵国の都市(とうぜん非戦闘員を含む)への直接攻撃を可能にしました。空母と組み合わせれば海外の都市も射程に入ります(ニッポンもえらい目にあいました)。これを引き継いだのが核弾頭を付けたミサイルですね。大陸間もらくらくと横断する。そして、「人の目には見えない電子空間」での戦闘は、今この瞬間も行われています。もはや「平時」なんてものはなくなっている、「平時」がそのまま「戦時」なのだというべきなのかもしれません。
 「戦後ニッポンと軍事」「サブカルと軍事」という大テーマについては、また今回もふれられませんでした。軍事の話は尽きません。ぼちぼちいこうと思います。

(つづく)






akiさんからのコメント 20.04.15「上兵は謀を伐つ」

2020-04-15 | 歴史・文化


 akiさんからさっそくご返事をいただきました。ありがとうございます。しかし今日これに返事を書きますと、1日に3回の更新で、当ブログ始まって以来の記録となり、往年の「しょこたんブログ」みたいになっちゃうんで、ご返事は明日以降といたします。なお4月13日の記事「akiさんへのご返事01 20.04.13 文字のこと。ほか」にもコメントをいただき、返事をしたためました。そちらも併せてよろしくです。






☆☆☆☆☆☆☆


 忙しいはずなのにどうも貴ブログを覗いてしまう自分がおりますw まあ後悔は後でするとして。


 「取った敵駒を盤上に打てる将棋の軍事への応用」については、(それを応用と言えるかどうかは判りませんが)「敵を調略して寝返らせる」ことが当たると思います。特に戦国時代では、この調略が常識になっていて、例えば関ヶ原の戦いでも小早川秀秋の裏切りが有名です(実は裏切りではなく最初から東軍だった、という見方が現在は一般的のようですが)し、石田三成も東軍についた加藤清正や福島正則などに「こちらに付くべし」との書簡を送っています。敵を攻めるまえにまず敵陣営の切り崩しから始める、というのは日本の戦国期に特有のものかもしれません。・・・・さてこれが将棋と関わるのかどうか、私には判断できませんが。
 ちなみに、三国志の曹操は「敵陣営からの裏切り」によって呂布・袁紹に勝ち、また張繍の降伏によって荊州への足がかりを得ました。これらの成功体験があったために、赤壁の戦いで黄蓋の偽降を見抜けず、結局天下統一の機を逃すことになりました。これらは皆「向こうから降伏してきた」例であって、こちらから働きかけたわけではありませんが、つくづく裏切りに縁のある人ではあります。


 陳慶之という将軍は武芸はからっきしダメで、「馬に乗れば落っこちるし矢を射ても当たらない」と史書に書かれる体たらくなのに、なぜか騎兵を指揮させると天下一品で、わずか三百騎の「白馬白甲」の騎兵を率いて大戦果を挙げるという、実に不思議な将軍です。おっしゃる通り、常人には見えない「敵陣のほころび」を見ることができる天才、という感じに田中芳樹氏は表現していますね。それでいて、「無理をしない」慎重さを持つ人であったがゆえに、四十七戦全勝という開いた口がふさがらないような事績を残すことができたのでしょう。わずか七千の騎兵で敵国に進軍していくことが「無理じゃない」という時点で桁外れの天才としか言えませんけど。


 火薬の登場は武器を強力にし、戦争時の死者を増大させましたけど、実は弓矢が鉄砲に、投石機が大砲に置き換わっただけで、戦術ドクトリンは変化しつつも古代から20世紀初頭まで一直線につながっています。戦場の姿を一変させ、それまでの常識がひっくり返るほどの革命的な変化をもたらした兵器とは、やはり「機関銃」と「航空機」でしょうね。次に「核兵器」そして現在では「電子戦兵器」がそういった革命的兵器に当たるでしょう。今や戦場は、人の目には見えない電子空間に移っています。日本はこの方面への手当てがまだ極めて貧弱なんですよね・・・・。





akiさんへのご返事02 20.04.15「軍事の話はとめどなく。01」

2020-04-15 | 歴史・文化


 将棋ってものが極限まで抽象化された用兵術のモデルであるとするならば、ぼくも小学生の頃から「戦術に関するシミュレーションをよく行ってい」たことになるかもしれませんけども。
 将棋の起源は古代インドと言われていて、それが東西に広がって多数のバリエーションを生んだんだけど、取った敵駒を再び盤上に打つ、つまり再利用できるのはすべての類似ゲームの中で日本の将棋だけなんですよ。この「持ち駒を打つ。」というのはかなり特異なことだなあ。と昔から思ってて、なんだろう、「捕虜をうまく使う。」ということなのかなあとか、考えたことがあるんですが、しかし飛車みたいなむちゃくちゃ強力な駒をいきなり敵陣に打ち込むなんてのは明らかに尋常じゃないんで、そんなレベルのことでもない。かりに武器に例えれば、「大砲」、いやむしろ「ミサイル」くらいの感覚ですが、だとすれば、昔の武将や軍師にとっては、日本の将棋は思考モデルとしてはあまり役に立たなかったかもしれません。
 どれくらい後世の潤色が入ってるのかはわからないけど、劇画などでみる名将や名参謀はむしろ囲碁を好む傾向がある。大所高所から戦況を鳥瞰するにはそちらのほうがいいのかもしれない。しかし自ら戦陣に立って全軍を差配するイメージはやはり将棋のほうですよね。ティムールは将棋が趣味だったと伝えられてますが、これは日本の将棋より枡目も駒の種類も総数も多く、その代わり、取った駒を使うことはできない大将棋でしょう。
 ともあれ、戦力が完全に互角であっても、用兵の巧拙によって勝敗がはっきり分かれることはこの手のボードゲームを想定すれば明らかです。だから「寡兵を以て大敵を討つ。」たぐいの武将が存在するのもわかります。陳慶之なんて人は(ぼくは今回初耳でしたが)、たぶん羽生善治レベルの天才だったのでしょう。


 横山光輝といえば、ぼくも小学生のころ夢中になりました。こちらはたまたま『水滸伝』でしたが。長じてのちは王欣太の『蒼天航路』で、これはまさしく三国志です。ただし、かなり大胆な翻案で、曹操が主役ですけども。そういえば、『映像研には手を出すな!』の後番組は、『キングダム』の新章ですね。
 ところで、『キングダム』『蒼天航路』『水滸伝』と並べて、いうまでもなくこれら3作はひとくちに「中国を舞台にした戦記物」といっても大きく時代が隔たっているわけですが、少なくともぼくなんかが劇画でみるかぎり、戦争の形態がそんなに激変してると思えないんですよね。つまり歩兵がいて騎兵がいて、武器は主に刀槍、飛び道具は弓、といったような編成ですね。カタパルト(投石機)なども見えますが、これもあくまで人力ですし。つまりは、持ち駒を使えない将棋っていうか。
 軍事史における「革命」というべきはやはり火薬の導入でしょう。これは釈迦に説法ですが、火薬といえば製紙技術、羅針盤とならぶ中国の三大発明。しかし火薬が「てつほう(鉄砲)」として本格的に戦闘に利用されるようになったのは元代、すなわちモンゴル帝国の時代からといわれていますね。そこから西欧に伝わっていった。
 それやこれやを考え合わせると、今までのやり取りにもあったとおり、「軍事」ってものはその国(共同体)の最先端の科学技術を如実に反映するものだし、それを裏打ちするのは産業構造や経済力や政治力や教育水準であったりするわけで、「軍事的な観点から歴史的事象を見る」というのは卓抜な感覚であると思いますよ。ひょっとしたらそれは、いちばんリアリスティックな観点なのかもしれません。


 やや取り止めなくなってきましたが、「書きながら思考をまとめている」ところもあるのでご容赦のほど。とにかく軍事の話は尽きません。サブカルとの絡みについては、また次回といたします。ご返事はまだ続きますが、このまま見守って頂いてもよいし、この時点でまたツッコミを入れていただくのも一興です。そういうわけでよろしく。



akiさんへのご返事01 20.04.13「文字のこと。ほか」

2020-04-13 | 歴史・文化

 とりたてて専門分野をもたないことはわたくしも同断です。お返事を書くさいは必死になってあれこれ調べまわってますし。むしろブログ本編を書くときのほうがずっといいかげんですね(それでよくツッコミを頂戴するわけですな)。各領域にわたる幅広い知識を蓄えて、マクロ的な広がりをもちつつミクロ的な細部もおろそかにしない自分なりの「世界像」を育みたいと若年の頃に発心してより早や幾年、いたずらに齢ばかりかさねて「日暮れて道遠し」を実感する日々です。とりあえず当面は、アマチュアながら筋金入りの知識人というべき出口治明氏を目標にさせて頂いてます。まあ出口さんはサブカルには関心がないと思いますが。


 雪舟等楊のお話をうかがって、司馬さんの『空海の風景』(中公文庫)の中の逸話を思い浮かべました。こちらはさらに660年くらい前になりますけど。渡航して命からがら海岸にたどり着いたのに、海賊扱いされてそのまま50日ほども留め置かれ、業を煮やした空海が福州の長官へ嘆願書を出す。その書体と文章があまりに見事だったため、あわてて長安入りを許されたという。いま見たらウィキペディアにも載ってますね。
 歴史小説つながりでいうならば、井上靖の『敦煌』は、北宋の若き知識人が西夏の文化の高さに魅せられるところからストーリーが始まります。莫高窟の謎を作家の想像力で解き明かした長編で(今ではこの説は否定的にみられてるようですが)、佐藤浩市・西田敏行で映画化もされましたねえ。いま思いつくのはこんなところです。中国の歴史に明るかったら、もっといろいろ浮かぶんでしょうが。また機会があったら軍人以外でも好きな傑物を教えてください。ぼくは王安石が気になってますが。


 「草原の民はなぜ漢籍に比肩しうるほどの文献を自らの手で残せなかったのか。」を考えるばあい、たしかに、文字という要因はものすごく大きいですよね。「残虐な破壊者」というモンゴル族のイメージが近年になって急速に書き換えられていったのも、ペルシャ語やトルコ語の文献が大量に発見されたことに端を発しているそうだし(明朝サイドはとうぜんボロカス書いてますもんね)。
 前段で述べた西夏にも「西夏文字」があったし、コメントで書かれていたとおり、ウイグル文字、パスパ文字というのもあったんだけど、結局は歴史の中に埋もれてしまった。たとえば教育制度とか科挙とか、他にもさまざまな条件が重なってのことでしょうが、やはり「漢字」の力がむちゃくちゃ絶大だったってことですかねえ。
 世界には、「口承文化」ってものがけっこう多いんですよね。むしろきちんと文字化される文化のほうが少ないんじゃないかな。それが紙媒体などの形で留められ、さらに風化や火災や戦乱や水禍などをくぐりぬけて後世まで遺るってことは、じつは奇跡みたいなものかもしれません。その点まことに支那文明は素晴らしいもので、そこはもちろん大前提なんですけどね。
 ともあれ、このたびのコメントで書かれていたような「文献学」的なお話も、つっこめばつっこむほど面白そうです。
 冒頓単于のような人物については、それこそ小説家が想像力をふるって創作したら面白いんじゃないか……と書こうとして、ネットを逍遥していたら、「小説家になろう」で発表してる方がおられましたね。ざっと見たかぎり、文体も内容もなかなか本格的です。ただし未完のようだけど。


 日本語は世界でいちばん美しい言語だとぼくは思っています。これは昔よくブログを訪問して下さっていた方にコメント欄でたしなめられたんだけど、そこだけは譲りませんでした(笑)。「漢字」という直線的で詰屈した、厳めしい字面の中に「ひらかな」といふ、みるからにたおやかでやわらかな文字が立ち交わって共存している様は世界中どこを探してもほかの言語にみられないものです。わたしはひょっとしたら「日本」という国そのものよりも「日本語」が好きなのかもしれません。そのなかでも最高峰に近いのは泉鏡花でしょうか。鏡花の文章に淫していると幾らでも時間が過ぎ去って、じぶんの小説が書けません。ろくでもないです。




 チンギス・ハーンとティムールとの内面のちがいを云々できるほどには私はこの2人に馴染んでいないんですが……鉄木真(テムジン)こと成吉思汗(チンギスカン)にかんしては井上靖さんの『蒼き狼』(新潮文庫)がありますし、新しいところでは「義経=ジンギスカン説」を臆面もなくマンガ化してみせた瀬下猛さんの『ハーン―草と鉄と羊』(モーニングコミックス)なんてのもあるようですが、ティムールを正面から描いた創作は意外なくらい目ぼしいものが少ないですね。学術書では、先に名をあげた出口治明さんが川口琢司氏の『ティムール帝国』(講談社選書メチエ)を高く評価してました。このあたりもぜひ読みたいんだけど、「読みたい本リスト」が積み上がるばかりで、やはり「日暮れて道遠し。」ですねえ。


(つづく)



akiさんからのコメント。20.04.12 「文化と軍事」

2020-04-12 | 歴史・文化




 さっきログインしてみたら、akiさんからのコメントが届いてまして、これがたいそう面白く、一刻も早くご紹介したくなったので、わたくしの返事を附さずに先にアップいたします。いやこれにまじめにご返事をつけるとなったら大変で、2、3日かかりそうですからね。そういうわけでakiさん、返信のほうはしばしお待ちください。
 なおカテゴリは、これまでの「政治/社会/経済/軍事」でなく「歴史」にしておきます。
 それでは本編どうぞ。




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 こんにちは。お返事遅れました。(^^)




>有段者と将棋を指しているような快い緊張感


 eminusさんからお褒め頂くのは光栄の極みですが、私の知識などは専門家の諸先生方に比べれば深みも厚みもないので、お返事を書くに当たっても色々調べながら、失言を犯さないように注意を払って(それでもしばしば失言してしまいますけどw)どうにかこうにか、というところです。
 でもおかげさまで勉強させていただいてます。モンゴルについての印象も今回の対話で少し変わったかな?




>立場の違い


 これはおっしゃる通りだと思います。民族的な使命感や学者としての矜持等々にかられた結果、多少筆が滑ってしまうことは往々にしてあるでしょう。私も今回結構モンゴルをバカにするような書き方してしまってるし。(爆)
 傲岸不遜となりがちな中華主義、とのお言葉からは、水墨画の雪舟等楊の逸話を思い出しました。彼が明へ水墨画研究のために渡ったとき、なんと彼の描いた絵が中国の作家のものとして出回っており、彼が「この絵は自分の描いたものだ」と言っても「東方の蛮人ごときにこれほどの絵が描けるはずがない」と取り合ってもらえず、作者を示す落款を提示して驚かれた、という話。(※今ネットで調べてみましたが、この逸話を見つけることができませんでした。子どもの頃に読んだ「マンガ日本の歴史」に載っていた逸話だったと思います)
 時代が下るに従って周辺民族の文化や経済・社会も成熟していきましたが、中国はあいも変わらぬ中華主義に胡坐をかき、「俺たちこそが世界の中心」とふんぞり返っていた、という部分は大いにあります。それでも自国と他国の状況を正確に把握していた優れた人物も各時代に少数ながらいたわけで、結局のところ、「真にすぐれた人物」というのはいつの時代、どこの国においても少数派なんでしょうね。それは日本とて例外ではありません。




>もし仮に「草原サイド」の知識人たちが自分たちの所業を思想や文学や史書のかたちで書物化できていたならば、それだけでぼくたちの知っている「歴史」は大きく書き換えられていたでしょう。


 誠に仰る通りで、モンゴルはユーラシアにまたがる大帝国を建設し、経済的にも繁栄しており、その気があれば「モンゴル語による自分たちの修史、あるいは神話体系の整理や保存」ができる状況であったにも関わらず、それができなかった、またはやろうとしたが失敗したわけです。そこにこそ、私が「モンゴルは中国文明に劣る」と言う理由があります。
 「モンゴルの文字と言えばパスパ文字があったなあ」と思ってちょっと調べてみたのですが、チンギス・ハーンが諸国を制圧し始めたころ、「文字の効用」を捕虜となった知識人に説かれて、ウイグル文字を使用するようになったそうです。その後しばらくは「ウイグル文字によるモンゴル語表記」が続き、フビライに至って、表音文字としてチベット文字から作らせた「パスパ文字」が現れます。
 ただこのパスパ文字も「速記ができない」という弱点があって広く一般には普及せず、元の北退と共に使用されなくなりました。結局モンゴルの実態を知るための資料は、モンゴル語ではなく他国語で著されることとなったわけです。
 モンゴルの歴史を知るための重要資料とされる『元史』は中国語、『集史』『世界征服者の歴史』はペルシャ語で書かれたものです。モンゴル語によって残されたものとしては、口承文学である『元朝秘史』があり、原典はウイグル文字で筆写されたものと考えられていますが、現存しているものは漢訳本とのこと。
 このように、モンゴルは自国の歴史を編纂することすら自国語で行うことができませんでした。(わずかに『元朝秘史』があるだけで、これすらもモンゴル語原本は保存できませんでした) そうなると、自国の歴史を自分たちの言葉で高らかに謳うことができず、「他民族からの評価」にゆだねてしまうことになります。(『集史』に関しては、イルハン朝の君主ガザン・ハンの思想が色濃く反映されているようですが) 「文化」を持たぬ民族は、自らの姿を自らの意に沿って後世に残すことができなくなるのです。
 実はモンゴルは「世界を征服した民族」であるがゆえにまだはるかにマシなほうで、時代をさかのぼって匈奴の冒頓単于などは、漢文資料以外に残っている資料がなく、前漢の劉邦を破るほどの傑物だったにもかかわらず、その事績は断片的にしか残っていません。おしなべて遊牧民族の歴史は曖昧模糊としてしまうのは、正に「文字を持たぬから」という一点に尽きます。


 日本が中国文明に多大な影響を受けつつも、なぜ主体性を失わなかったか。「漢字」という表意文字を使いこなし、自国の言葉を表記する媒体として洗練させ、さらに表音文字としての仮名を発明して、「漢字と仮名の混合による自国言語の表記体系」を完成させたからです。それにより、自国言語による様々な神話・歴史・文学・思想の書を膨大に生み出し、自国文化を形成していったことが、「大和民族のアイデンティティ」につながっています。
 明治維新以後、森有礼が「英語の国語化」を提唱したり、戦後のGHQが「漢字の廃止」を画策したりと、「日本語の改変」を図る話が二度ほど出ていますが、これは「愚の骨頂」と言うべきで、もしそれらが実現していれば、日本人は日本人ではいられず、別の何かに変化していたでしょう。文化を失った民族は、民族としても死滅するしかありません。




>ティムール


 彼の「虐殺癖」はもしかしなくてもチンギス・ハーンなどのモンゴル人たちを凌駕するでしょうが、なぜか彼に対しては魅力を感じるんですよねえ・・・。なんでやろ?自分でもよくわかりませんw 裸一貫から文字通り一代で大帝国を完成させた「成り上がり」ぶりが面白いからかな? それだけでもないか。何となくですが、彼の人格には常人にはうかがい知れぬような複雑な深奥のひだが感じ取れるような気がするんですよね。チンギス・ハーンは単に「スゲエやつ」というだけで、そういうひだがあまり感じ取れない。これもまた、「そういう歴史記述」が現存しているかどうかの違いなのかもしれませんが。




>軍事史


 私の歴史への興味は、小学一年の時から購読していた横山光輝著『三国志』が原点ですので、「軍事」に対する興味から出発しているんです。小学生の頃は頭の中で戦術に関するシミュレーションをよく行っていました。残念ながら話の通じる知人が周りにいなかったので、そういった興味を外に発露することはありませんでしたが。
 今でも洋の東西を問わず合戦の話は好きですし、歴史的事象を見るときにも軍事的な観点から見てしまいがちです。「それだけでは歴史の真相は見えない」とは大人になってから思いましたので、今は努めて「軍事以外の観点も採り入れる」ようにしております。
 軍事的な観点で見た場合、中国史には常識外れの軍事的天才がしばしば現れるんですよ。項羽や白起などもそうですが、後漢の光武帝・劉秀も「1万の兵で100万の敵を破った」という「いやいやウソやろ?」と言いたくなるような事績がありますし、明の永楽帝にも10倍以上の敵を敵味方入り乱れての乱戦で(!)破ったという「は?」という常識外れな事績があります。まあこの辺はどう考えても「白髪三千丈」的な誇張があるでしょうけど、物語として見れば無類に面白い。
 その意味で一番面白いのは、南朝梁の名将であった陳慶之でしょうね。彼については田中芳樹著『奔流』という小説が出ていますが、北魏の支配下にあった領域内にわずか七千の騎兵で進軍し、四十七度の激戦に悉く勝利して三十二の城を落とし、首都洛陽を陥落させるという、田中芳樹氏をして「魔術としか思えない」と書かしめる軍事的成果を挙げています。結局後詰がなかったために洛陽は放棄して、成果は水泡に帰すわけですが、これが本当に本当のことだとしたら空前絶後と言っていい。まあ常人からしたら「ええ?ありえへんやろ?」と思えるようなことをひょいっと成し遂げるところが天才の天才たる所以でしょうから、「本当のことだった」と思った方が面白いですけどね。


 私は日本のアニメは本当に高い水準にあるとは思いますが、唯一、軍事的な視点については素人の拙劣さの域を脱し切れていないと思います。これは日本が平和だったことの副産物ですね。軍事的に見られるものと言えば、富野由悠季氏や宮崎駿氏など、生年が戦時中に掛かる人々の作品くらいでしょうか。彼らに影響を受けたアニメ作家たちは、彼らの表現や「カッコよさ」「ワクワク感」などは学んでも、「軍事的視点」は学ばなかった、というか学ぼうとも思わなかった、もっと言えば目にも入っていなかった、というのが正しいでしょうか。まあ戦後も戦争を続けてきたアメリカの映画作品群が「軍事的に見られるか」と言われれば、全くそんなことはないんですけどねw