ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

スタートゥインクルプリキュア第49話(最終回)「宇宙に描こう!ワタシだけのイマジネーション☆」について。おまけ。

2020-01-30 | プリキュア・シリーズ

 ファンタジーは社会性を捨象することで成り立っている。それが児童向けアニメであればなおさらだ。あえてそこに社会的な要素を持ち込み、リアルに考察したらどうなるか。野暮なこととは承知のうえで、ちょっと試みてみたい。


 最終話(49話)Bパートは今から15年後の設定らしい。2035年。その時代に日本初の「有人ロケット」計画が遂行されることの意味を考えてみたいのである。ただ、これはぼくたちの暮らすこの世界ではなく、あくまでも「スタプリ」というSFふう児童向けファンタジーアニメの「世界観」の中での話だ。それに、「宇宙開発」に関するぼく自身の知見たるや誠にお粗末なもので、それこそ『宇宙兄弟』から得たていどの知識しかない。それやこれやで、野暮どころか滑稽なことになるやもしれぬけれども、頭の体操ないしは一種の知的(?)ゲームとしてお読みください。


 「宇宙開発特別捜査局」に属する香久矢まどかがリーダーとなって推し進め、星奈ひかるがパイロット(のひとり)として搭乗する「日本初の有人ロケット」計画。このふたりが、いわば同志としてタッグを組み、片や国家機関の中枢で、片や現場の最前線で、プロジェクトの立ち上げから推進に至るまで、それぞれに尽力してきたことは想像に難くないけれど、打ち上げの中継でアメリカ合衆国大統領(女性であり非白人でもある)からのお祝いの声明を通訳している天宮えれなもまた、たんに通辞に留まらず、卓抜なコミュニケーション能力を生かして築いた人脈によって対外的にプロジェクトの地固めをしてきたのであろうとぼくは思う。宇宙開発はじつは軍事の領分でもある。技術面での協力関係もさることながら、周到な根回しもなしに、一国だけで軽々に進められるものではない。その貢献あってこその、晴れ舞台での同時通訳なのだろう。


 つまりこの3人はプリキュア活動卒業以降、それぞれの夢を着実に追いかけながら、「宇宙に行く。/(ひかるを)宇宙に行かせる。」という一事に向かって力を合わせて邁進してきたわけである。その情熱および連帯感、そこに費やされた努力(むろん彼女たちはそれを楽しんでいたには違いないけれど)に思いを致せば、あの秒読みのシーンがいっそう感慨深くなる。


 ところで、ぼくたちの暮らすこの世界においては「国際宇宙ステーション」なるものがあり、たんに「宇宙へ行く。」だけならわざわざ自前のロケットを飛ばさずともそこに滞在する資格を獲得すればよい。たぶん児童向けにわかりやすくした、ということなのであろう。しかし、そこで話を済ませずに、スタプリの世界観に即してあえて深読みするならば、もうひとつの可能性が考えられないか。どうしても日本が独自に宇宙へアプローチをかけねばならぬ理由である。


 この手の計画には莫大なコストがかかり、いかにまどかの父君・冬貴氏の総理大臣としてのバックアップがあろうと、生半可なことでは進められるはずがないのである。相応の理由がなければならない。いうまでもなく、ひかる個人の「ララたちに会いたい。」という思いのたけなど、国家レベルの思惑の前では物の数にも入らない。


 スタートゥインクル☆プリキュアの世界観(世界設定)においては、宇宙には「宇宙星空連合」なる機関がある。地球における国際連合に相当するもので、一定以上の文明をもつ惑星は基本としてこれに加入することになっている。加入資格については作中では語られずじまいであったが、いずれにしても要件を満たしておらぬようで、地球は未加入なのである。それどころか、何らかの打診すらなくて、その存在を知っているのはかつてプリキュアであったひかるとえれなとまどかだけなのだ。


 しかし、まどかと冬貴氏との信頼関係の厚さから見て、おそらくこの現職の総理は「宇宙星空連合」のことを娘から聞き、その存在を確信するに至ったと思われる。のみならず、調査員として長期滞在しているP.P.アブラハム氏(地球での職業は映画監督)と何らかの接触をもったのかもしれない。仮にそうだとするならば、表向きは他の名目を押し立てているにせよ、日本が「初の有人ロケット」を飛ばす真の理由が「いずれ星空連合に加入するためのワンステップ」だということは十分に考えられるのではないか。


 むろん現実のニッポンはつねにアメリカの顔色を窺わなければ何もできない国であり(言いすぎかな? まあいいや)、自国だけでそこまでの深慮遠謀を描けるほどの才腕と覚悟を備えたリーダーが現れるはずもないけれど(それこそ中学生女子が変身して敵と戦うくらいありえないことだ)、少なくともこのアニメの世界設定に即すかぎりは、そのような憶測は成り立ちうるとぼくは思う。


 じっさい、そうとでも考えなければひかるたちの苦労が報われない。ひかるの乗ったロケットがどこを目指していたかは不明だけれど、現在の科学技術では有人ロケットの到達範囲として想定しうるのはせいぜい火星までであり、それはスタプリの描く2035年でもさほど大差はないはずなのだ。どちらにしても、ララのサマーンやユニのレインボーには行き着けるはずもないのである。それを承知で「自分の力で宇宙に行く。」という約束にそこまで拘るならば、やはり「星空連合」という介在者を措定しないわけにはいかぬのだ。


 作中では、覚醒したフワ(結局、声だけで姿は見せないままだった)の不思議な力によって約束は果たされるのだけれど(公式ツイッターによると、「感謝祭プレミアム公演の朗読劇は、再会したひかるたち5人の15年ぶりの同窓会が舞台になります!」とのこと)、そのようなかたちで非科学的な奇跡が起こったのも、ひかるたち3人が熱い想いを失うことなく力を合わせて精進を重ね、自分たちのできるかぎりのことをやったあげくの結果なのだ。だから、「ファンタジーに逃げたな。」という感じはぜんぜんなくて、後味はひたすら爽やかだった。






参考画像。ひかるたちの地元であり、本作の主な舞台となった観星町。中央に「P.P.アブラハム」氏がいる。ルックスは、髭を蓄えていた頃のマイケル・ムーア氏にも似ているが、たぶんF.F.コッポラ氏がモデルではないか。じつはこの姿(外殻)はロボットで、本体はトカゲていどの大きさしかなく、内部で操縦している。つまり『メン・イン・ブラック』に出てきたアレである。宇宙星空連合から監視のために派遣された調査員で、数百年に渡って隠れ住んでいたが、百数十年前に地球人が生み出した映画文化に魅了され、ハリウッドで映画監督として活動を続けている














スタートゥインクル☆プリキュア第49話(最終回)「宇宙に描こう!ワタシだけのイマジネーション☆」感想②。

2020-01-26 | プリキュア・シリーズ

 CM明けのBパートにていちばんに登場するのはえれな。テレビ中継で、合衆国大統領のスピーチを同時通訳していたのは彼女だった。
「……日本の、宇宙への第一歩を、祝福したいと思います。」
 いったん休憩に入ったところに、両親ら家族が「スタードーナツ」を手土産に訪ねてくる。弟妹たちもみんな立派に成長している。





 続いて、スーツ姿で打ち上げ間近のロケットを見上げるまどか。内実の乏しい部署だった「宇宙開発特別捜査局」を立て直し、プロジェクトリーダーとして今回の計画を強力に推し進めたようだ。両親もその場に居合わせている。父の冬貴は総理大臣に(!)なっている。とうぜん、プロジェクトの実現に尽力してくれたのだろう。






 そのあとまどかは控室にひかるを訪ねる。





「やっと……ひかるの夢が叶うのですね。宇宙に、また行くという夢が。」
「うん……。」
「よく休めましたか?」
「ばっちり。久しぶりに、ララやみんなの夢を見てさ。プリキュアになって、フワもいて。いい夢だった。」





 カメラは地球の外に飛び出して、ユニの惑星レインボーへ。高台から眼下を見おろすユニとララ。荒蕪地だったレインボーは、アイワーンの技術で肥沃な土壌に生まれ変わった。
 服装から察するに、ユニはどうやらオリーフィオの後継者として次期リーダーに目されているらしい。ララは調査員として多忙な日々を送っている。あちこちの星を巡ってロケットにはガタが来ているが、みんなとの思い出の残るロケットを廃棄はできず、修理を重ねて使い続けている。パーソナルAIもその判断を是としている。
 カッパード、テンジョウ、ガルオウガほかノットレイダーたちも「星空連合」の認可のもとに新しい星に入植し、花と緑と水の溢れる美しい土地に育て上げた。そのことが、ララの口から語られる。
 アイワーンはびっくりするほど背が伸びた。金髪をすっぱりセシルカットにして、スーパーモデルさながらだ。子どもたちにも慕われて、すっかり溶け込んでいる。







ユニとアイワーンとの身長差が入れ替わったのは、かつての「バケニャーンと少女アイワーン」との対比だろうか



 調査でたくさんの星を回ったが、地球には行けない、とララがいう。フワのワープ能力がなければ、地球はあまりに遠すぎるのだ。
 会えるわ、とユニ。レインボーが石化されて死の星だった頃、ひかるはユニに「わたしも会って、話してみたい。この星の人たちと!」と力強く告げた(それがどれだけ彼女を勇気づけたことか)。ひかるなら、きっと、あの約束を果たしに来る、とユニはいう。
 流れ星が夜空をよぎる。ララが瞑目して祈りのポーズをとる。
「流れ星に願ったら、願いが叶うルン。」
 それは合理主義の貫く惑星サマーンにはなかった習慣。ララがかつて地球でひかるたちから教わったことだ。ユニも微笑み、ララに倣う。
「もういちど、会いたいルン。」



「会いたいなあ。」



「会いたいルン。」



ララ「みんなに……」





ひかる「会いたい。……みんなに……」



このBパートでは、ついにフワは姿を見せぬままだった。そのこともまた深い余韻をもたらした





ひかる&ララ「みんなに……会いたい(会いたいルン)!」



 そのとき通信機を内蔵したララのグローブに着信が入り、「スターパレスより連絡です。」というAIからの通知に続いて、「ララー、フワが、フワが……」と、プルンス氏の慌てふためく声が飛び込んでくる。



「およ?」




 アナウンサー「ニッポン初の有人ロケット、発射の準備が整ったようです。カウントダウンに入ります。」




「10!」ひかる一家。
「9!」えれな一家。
「8!」観覧席にて、まどかの両親と観客たち。
「7!」姫ノ城さん、カルノリ君ほか観星中の旧友たち及び観星町のみなさん。
「6!」カッパード、テンジョウ、ガルオウガ以下ノットレイダーのみなさん。
「5!」惑星レインボーのみなさん(含むアイワーン)。
「4!」スターパレスのプリンセスたち。
「3!」えれな。
「2!」まどか。


 そして。



「1!」




 遼じい。いつものように(まさにそう、北極星のデネブのように)天文台の前で掃除をしながら、上空の航跡を見上げて「ひかる……行っといで。」








「来たんだ。ララ……私……来たよ。……宇宙に。」




 暗黒の空間のなかを、まるで流れ星のように一条の光が横切って、はっと目を輝かせるひかる。わずかな間ののち、船の窓から差し込む眩い光が、彼女の全身を包み込む。同乗している隣席の飛行士が、「え?」と呟くことから、これがひかるの幻想ではなく、「作品の中で実際に起こっている事実」だとわかる。


そして、あの声が。
「フゥゥゥワァァァアアアーッ!」







 立花隆氏の『宇宙からの帰還』(中公文庫)などでも見るとおり、宇宙空間に出た飛行士の多くが一種の神秘体験をすることはよく知られているけれど、そんなことを彷彿とさせる荘厳なシーンではあった。
 ひかるたち同様に成長を遂げたフワに願いが届いて覚醒し、「奇跡」が起こった。きっとそういうことなんだろう。しかしその先において何があったかは、作品の中では描かれない。「リアル」を「ファンタジー」で塗り潰すことはせず、このあとの顛末は、大人たちをも含む視聴者の「イマジネーションの力」に委ねた。鮮やかなエンディングだった。




 しかしそうはいっても最後はやっぱりこのセリフである。




「キラやば……。」






 いい作品でした。シリーズ本来の「メロドラマ」としての醍醐味をたっぷり満たしつつ、「純文学」としての繊細さから、「神話」としての壮大さまで、ファンタジーのもつ魅力を余さず楽しませてくれた。個人的には、「プリキュア・シリーズ最高作」に認定することになんら躊躇はありません。












スタートゥインクル☆プリキュア第49話(最終回)「宇宙に描こう!ワタシだけのイマジネーション☆」感想①。

2020-01-26 | プリキュア・シリーズ
 歴代タイトルにおいて「別れ」という主題を初めて前面に打ち出したのは2015年の『Go!プリンセスプリキュア』で、やはりあれは画期であったと思う。10周年記念の翌年で、スタッフにも期するところがあったのだろう。プリキュアさんたちの成長後の姿が描かれたのもあの時が嚆矢だったが、「成長後の姿」とはいってもメンバーのうち3人までは後ろ姿だけの止めカットで、桃キュアの春野はるかでさえ口元までに留まっていた。
 大人になって遠く離れてそれぞれの道を歩んではいても、全員の心はいつも繋がっている。そう示唆されてもいたけれど、とはいえ「再会」のもようが綴られることはなかった。とても潔く、いっそ清々しい終幕だったが、それでも寂寥感は否めなかった。
 ぼくとしては、「ロス」という感覚を初めて味わって、おかげで翌2016年の『魔法つかいプリキュア!』にはどうも乗れないままだった。ほかに私的な事情もあって、結局「まほプリ」は全編の半分ほども見られなかったのだけれど、あとで調べたところによると、ラスト間際でじっくりと時間をかけて、メインキャラ3人の、「別れ」にまつわる悲哀と、「再会」の歓びとがすこぶる丁寧に扱われていたようだ。やはり「Goプリ」のラストについて、「いくら何でもあっさりしすぎてたんじゃないか。」との反省があったのではないか。
 「まほプリ」では、ダブルヒロイン・朝比奈みらいとリコ(人間界での名は十六夜リコ)の成長後の姿がしっかり描かれた。そこも大きな前進だったと思うが、ただし、みらいはまだ女子大生、リコは「魔法学校の教師」ということで、いずれも「社会人」とは言い難い。
 2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』も、じつはぼくは半分ほどしか見られなかったが、最終話だけは気になったので視聴した。ヒロインの宇佐美いちかはスイーツが大好きで、それが作品のモチーフでもあった。彼女の母・さとみは(NPОに属しているかどうかは明言されぬが)医師であり、「世界中の小さな村を診療のために飛び回っている」設定。いちかはずっと母の不在を淋しく思っていたけれど、いっぽうでは心から慕ってもいた。その最終話では、成長したいちかが、どうやら紛争地域と思しき異国の疲弊した小村で「みんなを笑顔にするため」店を開いてスイーツをふるまっている様子が描かれた。
 現実の生々しさをファンタジーの糖衣でコーティングするこのような手法についてはあるいは意見が分かれるかもしれない。ぼく個人は、平和なニホンで作られる「児童向けファンタジーアニメ」にこういった形で社会との接点を導入するのは有意義だと思う。ともあれここで、成長を遂げ、社会人として活躍するプリキュアが初めて登場した。これもまた大きな前進であろう。
 前作2018年の『HUGっと!プリキュア』は、前半の24話までは熱心に、後半のほうは違和感を覚えながらではあったが、ぼくは全話通して視聴した。ここでは主人公・野乃はなと「はぐたん」、愛崎えみるとルールー・アムール、それぞれ二組の「別れ」が叙された。どちらの別れも悲痛なのだが、ことにまだ小学生で、祖父からの束縛に悩むえみるのほうは深刻で、41話では失語症にまで陥ってしまう。むろん、回復して一回りタフにはなるけれど、それで完全に辛さが払拭されるはずもない。じつにていねいに、周到に、「愛別離苦」が扱われていたと思う。
 その最終49話Aパートで、汽車の形のタイムマシンに乗って、はぐたんやルールーたちは未来へと帰る。こらえきれずに追いすがっても、もちろん追いつくことはできない。いかに心の準備をしていても、悲しいものはやっぱり悲しい。映画史のなかで繰り返し用いられてきたスタイルを使って、存分に別れの悲哀が綴られた。
 Bパートでは、一挙に2030年まで時間が跳ぶ。はなはスーツを着て、町のランドマークとなるほどの立派なビルで社長を務めている(職種は不明)。立ち居振る舞いはあくまでも明るく、社員とともに仲間感覚で邁進しているのが見て取れる。臨月にも関わらず、周囲の忠告を聞かずに出勤していた彼女は、ふいに産気づいて病院に担ぎ込まれる。
 そこにはかつてのプリキュア仲間・女優への道を思い切って産婦人科医を選んだ薬師寺さあやがいる。飛行機を降りたって駆けつけたもうひとりの朋友(とも)・一度は諦めかけたフィギアスケーターへの道を進んで金メダルを得た輝木ほまれと3人で、はなは女の子を産み、「はぐみ」と名付ける(児童向けファンタジーどころか、テレビアニメであそこまで真に迫った出産シーンが描かれること自体珍しいと思う)。そしてそれは、11年前に未来に帰った「はぐたん」との再会でもあった。
 社会人として活躍し、そのうえで、信頼できる朋友や仲間に支えられて「母」となる。これもまたポリティカルには意見の分かれるところかもしれないが、「成長」のモデルとしてはひとつの完成形といえるのではないか。
 いっぽう、おそらくそれと同じ頃、成長してロッカーとして成功している(と思しき)愛崎えみるもまた、幼児の姿で新しく生まれたアンドロイドのルールーと再会を果たす。かつて2人で愛唱した歌を、蘇ったルールーはなぜか覚えていた。本来ならば覚えているはずのない記憶。みんなで過ごした楽しい日々。意識の表面からは抜け落ちても、身体の奥に刻まれたもの、ほんとうに大切なものは、忘れることなどできない。そういうことなんだろう。
 別れ。成長。そして再会。それはあるいは児童向けファンタジーにとってもっとも難しい課題かもしれない。いつまでもファンタジーの中に留まっているわけにはいかない。といって、ファンタジーをすっかり忘れてしまってもいけない。ひとはファンタジーだけでは生きられないが、ファンタジーなしでも生きられない。
 というわけで、『スタートゥインクル☆プリキュア』、平成末から令和にかけての1年間を締めくくる最終話である。


☆☆☆☆☆



 OP前の導入部、いわゆるアヴァンにて、①スターパレスではしゃぎ回るフワと、ふり回されて手を焼くプルンス氏らの様子が描かれ、それに続いて、②ユニの故郷(ほし)レインボーがアイワーンの発明で元に戻ったこと、③ララの故郷サマーンがAIへの過剰な依存を脱し、より人間味の豊かな社会に移行しつつあるエピソードが綴られる。それともうひとつ、プリンセスたちの会話として、④フワの能力がそう容易くは戻らない、ひょっとしたらずっとこのままかもしれない、ということも。
 これらは作中における「事実」で、前48話のラストを受けての後日談だ。
 OPが明けて、自宅の居間で、ひかるの祖父母がテレビを見ている。テレビからは、アメリカの大統領(女性であり非白人でもある)が「日本で初の有人宇宙旅行」を歓迎するニュースが(同時通訳付きで)流れている。「ほんと長生きするもんだわ。」と祖母がいう。「ひかるはどうした。」と祖父。ひかるの母・輝美が「ああ、ひかるなら……。」と言いながら画面左側からフレームイン。ここではまだ、三人とも顔は映らない。
 このくだりもまた、作中における「事実」で、じっさいに起こっていることだ。
 問題はこのあとである。
 シーンが変わって、あの懐かしい水辺で、ひかる、えれな、まどかが「みんな……元気かなあ……。」としんみりしていると、「フゥゥゥワァァァアアアーッ!」と、あの懐かしい声が響き渡って、とつぜんララのロケットが空から現れ、フワ、ララ、ユニとの再会が呆気なく果たされてしまう。そのご次作の主役キュアグレースさんの顔見世があり、ついで5人揃っての変身~バトル。
 このくだりは、いわばカーテンコール、ないしはエキシビションだ。
 あとでわかるが、このパートはすべて、「日本初の有人ロケット」に乗り込む直前に睡眠をとっているひかるの見ている夢なのだ。ひかるが「スターパンチ」を右手で打つのはそのせいだろうし、ほかにもいろいろ変なところがある。ただし、その夢のなかで語られた、「まどかは留学せず、えれなは父の祖国(メキシコ)に留学をした。」という件だけは事実と思われる。


 近未来っぽい電話の呼び出し音が鳴り響き、作中における「現実」がはじまる。薄暗い部屋のベッドで寝ているひかるのようすがちらっと映り(この時点では視聴者にはまだよくわからないのだが)、画面はふたたび、ひかるの実家の居間へと戻る。
 さきほどのシーンの繰り返し。テレビの中で、アメリカの大統領が、
「日本で初めての有人ロケットの打ち上げを、われわれも喜ばしく思います。」
 それを見ながら、「ほんと長生きするもんだわ。」と祖母。「ひかるはどうした。」と祖父。あらためて輝美が「ああ、ひかるなら、」と言い、「今頃、発射の準備でしょ。」とすぐに後の台詞がつづく。そこでアップになった輝美の顔が、短からぬ歳月の経過を示している。「まったく……連絡すると言ったのに。うーん……。」と祖父。
 居間にはもう一人、父の陽一もいる。ひかるにコールしていたのはこの人だった。
「もしもしぃ……」
「やっと出た。」(CVを務める大塚明夫さんのまろやかな美声がいい。ほんの僅かなやり取りなのに、この一風変わった父親の娘に寄せる思いが伝わってくる)
「ごめん、寝てて。」
「寝てたって……(笑)。もうすぐ宇宙へ行くっていうのに。ひかるらしいなあ。」
「あ……はは……」





「よーし!」



 成長を遂げ、「日本初の有人ロケットの飛行士」となったひかるのアップで、Aパート終了。



後藤明『世界神話学入門』(講談社現代新書)をめぐって。

2020-01-23 | 物語(ロマン)の愉楽
 本書の表紙画像を貼り付けようと思ったが、その絵というのが例のあのモローの描いたオルフェウス(の首)であり、「ショッキング。」と感じる方もおられるやも知れぬのでやめることにした。あの仮借なき残酷さもまた、神話のもつ重要な機能のひとつではあるのだが……。




☆☆☆☆☆




 前回の記事の冒頭ではあんなことを述べたけれども、引用なり確認のために書籍の一節を参照しようとして、「あれ? どの本で見たんだっけ?」と探し回ることのほうがじっさいには多い。だいたいぼくの読書というのは、なにかを読んでいる途中で他の本に移り、さらにまたそこから他の本に、といった具合にどんどん逸脱していくので、つねに数冊あるいは十数冊くらいが同時に起動している。だから初めのほうで読んでたやつが紛れてしまったり、そもそも何を読んでいたかすら失念するのもしょっちゅうだ。
 それでも昔なら「あの本のあそこら辺に載ってたぞ。」と目星をつけてページを繰ったらたいていは当たっていた。ところが最近はめっきり鈍くなってしまった。探しても見つからぬことのほうが多い。むろん不便だし、記憶があやふやなのはそれだけで気持がわるい。喉元まで出かかってるコトバがどうしても出てこない、あの感じである。困ったもんだ。
 一冊をちゃんと読み上げて内容をきっちり頭に入れてから次の本に移り、それを読み上げて頭に入れてからまた次に……という読み方が正しいのだろう。しかし逸脱型、あるいは遊弋型の読み方であっても頭脳さえ明晰であれば本当はそんなに混沌とはしないはずである。情報をきちんと仕分けして然るべき場所に関連付けて置いていき、古くなったもの、おかしなものはさっさと捨て、常に全体をきれいに整理していれば、それで問題はないはずなのだ。そういうことができぬのは、もともとのアタマの性能がわるいので、情けないけどしょうがない。
 神話のことを考えていると、どうしても、人類の発生について意識が向く。ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』(上下・河出書房新社)は未読なので、当面の参考書は出口治明さんの『全世界史』(上・新潮文庫)と『人類5000年史Ⅰ』(ちくま新書)だ。出口さんは元ビジネスマンだが、驚くべき知的好奇心の持ち主で、もっぱら歴史にまつわる膨大な文献を(いわゆる一次資料ではなく、専門書を含む一般書だけど)読破して、その精髄(エッセンス)をわかりやすく叙しておられる。
 「恐るべきアマチュアとしての知識人」とでもいうべき方だけれども、この方の叙述は①西洋史・東洋史といった愚かしき区分に囚われず、人類全体の物語として歴史を把握すること。②事象相互の因果関係がきわめて明晰で、「かくかくの理由によってこうなった。」という流れがよくわかり、無味乾燥な事例の羅列に堕さないこと。が特徴である。ようするに、面白いのだ。
 だいたい歴史なんてのは面白くて当たり前であり、それをあそこまで詰まらなくする学校の勉強が異常なのだが、おそらくあれは庶民に正しい歴史感覚や歴史意識を身につけさせまいとするお上の差配であろうと思う。そうとでも思わなければ説明がつかない。ともかく、出口さんの著す人類の歴史はそういったものとはぜんぜん違って生き生きしている。




 そして、約七〇〇万年前、アフリカでチンパンジーとの共通祖先からヒトが分かれます。ヒトが誕生したのです。(……中略……)その後のヒト亜族の栄枯盛衰の中で、直立二足歩行を始めて道具を使うようになり、火が発見されて、最終的には、現生人類(ホモ・サピエンス)だけが生き残ったのです(……後略……)。
 約二〇万年前(二五万年前という説もあります)、私たち現生人類が、東アフリカの大地溝帯(グレートリフトバレー)の辺りで誕生しました。そして、約一〇万年前から六万年前にかけて海路アフリカを出発、そこから全世界に、すなわちユーラシア大陸を横断して、ベーリング海峡を渡り、南アメリカの南端にまで拡がっていったと考えられています。




 と、『人類5000年史Ⅰ』には書かれている。本編ではこのあと話は「言語の誕生」から宗教や社会的慣習の成り立ちへと進む。『全世界史』のほうはもっと簡略な記述だが、東アフリカの大地溝帯(グレートリフトバレー)とは今のタンザニア地方であること、当時の人口は五〇〇〇人くらいだったこと、その中の一部がアフリカを出たあとアラビア半島沿いにユーラシアに入り、しばらくそこに留まった後、七万年ほど前にまた旅立ち、その時の人口は五〇万人ていどと推定されている……ことなどが述べられている。




 こういった学説は考古学のみならずDNAの解析技術などの進歩によっても更新されるので、いずれ変わってくるのかもしれないが、当面はこれを目安としておいて間違いはない。
 神話に特化したものとして、2017年に出た後藤明氏の『世界神話学入門』(講談社現代新書)があり、そこでも「人類の起源は七〇〇万年前、ホモ・サピエンスの時代はどれほど遡っても二〇万年前」と書かれているからだ。ぼくの方針として、信頼に足る二人の著者が同じことを述べている際は、その言説は差し当たり「事実」と見なすことにしている。
 この『世界神話学入門』は、「世界各地の神話にかんする学問の入門」ではなく、『「世界神話学」の入門』の含意だ。「世界神話学」という学問ができているのだ。それは従来の「比較神話学」を総合してさらに体系化したもので、まだまだ若いジャンルだが、かなり有望そうである。
 後藤さんの専門は、「海洋人類学および物質文化や言語文化の人類学的研究」となっている。ぼくたちの祖先がアフリカを出て海を渡るにあたり、どのような船を造ったか……といったことにかんする記述が詳しい。文学部のご卒業だがむしろ理系の趣である。ユング派流の元型分類や構造主義的な物語論から「神話」に近づいたぼくには当初いささか違和感があったが、このような実証研究も当然すごく大事なものだとすぐにわかった。
 じっさいこの本、たんに考古学に関心のある人が読んでも面白いだろう。しかしもちろん神話に興味をもっていればよりいっそう面白い。「世界の神話はローラシア型とゴンドワナ型とに大別できる」というのがこの本の主眼である。大林太良さんほかの編纂になる『世界神話事典』(角川選書)をぼくは愛読していて、そこでも各民族の神話はテーマ別に分類されているのだが、たしかに「ローラシア型とゴンドワナ型」なる二通りの仕分けは有効であると思われる。




☆☆☆☆☆




 ぼくはかれこれ10年以上ブログをやってて、このgooブログには5年まえに越してきたのだが、「純文学とは何か?」、換言すれば、「純文学とそれ以外の小説との違いは何か?」というのが一貫してひとつのテーマであった。アニメやゲームと連動した「ライトノベル」の隆盛や、いわゆる「なろう系」の爆発的な流行によって、そのギモンはいよいよ切実なものとなっていたけれど、ここにきて少しずつ自分なりの答に近づきつつあるようだ。
 純文学とは近代小説であり、ライトノベルは神話的な構造をもったファンタジー。そしてその中間のいずれかに(もとより、かなり近代小説寄りの位置に)直木賞系の「大衆小説」がある。当面のあいだはそう見なしておいてよさそうだ。
 純文学は「近代」の産物であり、近代の内実を整えるうえで大きな役割を果たした。現在は市場原理の面では気息奄々というべき状況が続いているが、芥川賞が発表されればニュースで取り上げられるていどのオーラを保ってはいる。のみならず、今後とも果たすべき役割はまだ残っている。
 ただ、それはどれほど射程を長く取ったところでせいぜい280年ほどの歴史しか持たない(紫式部とシェイクスピアとセルバンテスとを除く)。いっぽう「神話」はなにしろ人類の発生とともに古いし、そこに「映像」と「音声」、もっといえば「キャラ」が付与されることで圧倒的な訴求力を発する。商業的に太刀打ちできぬのも宜なる哉だ。

 最後に、半ばは自分のための覚書として、『世界神話学入門』の中から、神話の発生にまつわる人類学的考察を抜き書きさせて頂きましょう。






 このようにアフリカで新たに発生したホモ・サピエンスには認知構造、論理的思考、イメージ化能力、記憶および季節サイクルなどの予測能力など、文化面での急速な進歩が見られた。考古学者のP・メヤーズはその特徴を列挙しているが、筆者(注・後藤氏のこと)の補足を加えて紹介しよう。


 (一)石器製作の変化、とくに剝片石器から、より定型的な石刃製作への移行。一つの石塊から作り出す石器の刃の長さの総計が指数関数的に増加し、効率の良い石材利用ができるようになった。また規格化した石器は作業の規範化、また破損した場合の交換可能性という具合に、作業の効率を増大させた。
 (二)石器の種類の増大、たとえば鑿(のみ)、錐(きり)など現在の大工道具の原型はこの時代に出現したと言われる。作業の各工程に適した道具を選び、使い分けることによって、作業の効率やスピード、そして正確さが増大した。
 (三)骨角器の出現。骨角器の出現は、銛(もり)や釣り針など石器では作るのがむずかしい形態を実現させただけでなく、石器に比べてより細かい彫刻ができるので、立体芸術の発達にもつながっていった。またそのことが、人類のイメージ形成力を増大させた。
 (四)変化の速度の増大や地域差の増大。技術進化が加速度的に増大することはよく知られている。さまざまな分野の技術革新が統合されるからである。また地域差が増大することは、「自分」と「他人」という意識の明確化を意味している。本来の意味における「文化」が出現したと言えるだろう。
 (五)ビーズ、ペンダントなど個人的装飾品の出現。これは自意識の出現と関係しているだろう。自意識は萌芽的な哲学的思考につながるので、それが思考の原型となって神話が生まれたのではないかと考えられる。
 (六)経済および社会構成両面における重大な変化。人類の行動が本質的に社会行動になっていく。一人で語っていても神話は伝達されないのだから、社会的脈絡の中で神話や伝承が語られていく状況が生じたことを意味するだろう。
 (七)表現主義的あるいは自然主義的な芸術的の誕生。それは骨角器の彫刻や洞窟芸術において見られる。このような表現は頭の中にある象徴の外化、そしてモノによる象徴的表現による概念や記憶の保存、という連関的意味を持つ。

 引用ここまで。



 すなわち、ヒトがヒトたりうるためには、「神話」を語り始めることが不可欠だった、ということであろう。



追記)この記事を書いて2年ほどの後、ハラリ氏の『サピエンス全史』を読んだら、やはりそのようなことが書いてあった。人類の文明には、よかれあしかれ「物語」が不可欠であるらしい。







『スタートゥインクル☆プリキュア』第48話「想いを重ねて!闇を照らす希望の星☆」②さよならは言わない。

2020-01-21 | プリキュア・シリーズ



 キャンベルさんの『神話の力』、手元にあるのは文庫版じゃなく単行本なんだけど、読んでいて、妙にシンクロするんだなァ。ちょうどジョン・レノンに言及しているくだりへ差しかかった時に付けっぱなしのラジオからビートルズの曲が流れてきたりね。今回だって、年明けからのスタプリの展開のことを考えながらページを繰ってると、「12に1を足して13になると世界が動き出す。」だの「古い女神はよく蛇を伴った姿で描かれる。」だの、そんな文章がぱっと目に飛び込んできて……。本を読んでりゃ、そういうことはよくあるし、さほどフシギとも思わないけれど、こうやってエッセイを書くうえでは、重宝は重宝ですね。


 この本は単著じゃなくて、すでに大家となったキャンベルさんにジャーナリストのビル・モイヤース氏がインタビューしたものなんだよね。で、前回の記事をアップしてから、「じゃあ続きを。」ってんで本を手に取ると、モイヤース氏が、
「おとぎ話は、われわれを現実に適応できない人間にするんじゃないでしょうか?」
 なんて訊いている。キャンベル先生答えていわく、
「おとぎ話は楽しみのための話です。社会と自然の秩序という点から見ての人生の重大事を語る神話と、たとえ神話と同じモチーフを持っているとしても、娯楽のためのおとぎ話とは区別しなくはいけません。」
 だそうな。
 さらに、「おとぎ話は子供のためのものです。おとぎ話には、おとなの女性になりたくない女の子の話が大変多いですね。」とも仰っていて、どうも先生、おとぎ話にキビしいぞ……なんて考えてると、次のページで、
「おとぎ話は子供の神話です。人生の節目節目にふさわしい神話がある。年をとるにつれ、より強固な神話が必要になってきます。」と、くわしく敷衍している。やっぱり、おとぎ話をアタマから否定してるわけじゃないんだな。そこには大事なものがたくさん詰まっている。ただ、聴き手の年齢に応じて、お話のほうも、それなりに深まっていかなきゃいけない。そういうことでしょう。インタビューだから、相手の質問に合わせつつ、少しずつ核心に迫っていくわけね。




☆☆☆☆☆


 プリキュア・シリーズも、16年間の積み重ねの中で、ちょっとずつ「より強固」なものにバージョンアップしていってると思う。ことにここ数年は、各タイトルの締めくくりに際して、「別れ」と「成長」をいかに描くか。に心を砕いてるようだ。


 「ひとつの望みを叶えるためには、それだけの対価を払わねばならない。」
 ってのは、いちばん幼い子どもに向けたおとぎ話(ファンタジー)においてさえ外してはならないルールだろう。それに縛り付けるのもどうかとは思うけど、ここだけは押さえとかないと、やりたい放題になっちゃうもんね。


 フワを復活させるには、プリキュアの力を対価にせねばならなかった。もう変身することはできない。それに、フワが蘇ったとしても、ワープの能力も失っているし、記憶もなくしているだろう、とプリンセスが告げる。


 ひかる「それって……(手にしたトゥインクル・ブックを見つめながら)もう……宇宙には……」
 ララ「それでも……(トゥインクル・ブックの上に、そっと手を置いて)フワに会いたい。ひかるなら、そういうルン。」
 ひかる「ララ。でも……。」
 えれな「(その手に自分の手を重ね)プリキュアになれなくても、大丈夫。」
 まどか「(そこに自分の手を重ね)ええ。この宇宙には、キラやば~なイマジネーションがありますから。」
 ユニ「(さらに自分の手を重ね)私も……」
 ひかる「ユニ?」
 ユニ「故郷(ほし)のことなら大丈夫ニャン。アイワーンが、元に戻す方法を研究したいって。」
 ひかる「みんな……うん(最後に手を重ねる)。」




 「宇宙に行けなくなる。」のは、冒険好きのひかるにとっては辛いこと。それより何より、ユニ、そしてララ、異星からきたふたりの朋友(とも)との別れを意味する。
 ことに相方のララ。
 歴代タイトルにおいて「別れ」という主題を初めて前面に打ち出したのは2015年の『Go!プリンセスプリキュア』で、やはりあれは画期であったと思う。翌2016年の『魔法つかいプリキュア!』は、「別れ」にまつわる悲哀と、「再会」の歓びを、とても丁寧に扱っていた。
 2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』の宇佐美いちかは、母の崇高な志と自らの「大好き」とを「まぜまぜ」して、稀にみる職業を選び取った。成長を遂げ、社会人として活躍する後日談がここで初めて描かれた。
 そのうえで、2018年の『HUGっと!プリキュア』は、「別れ」の後に「成長」を経て「ふたたび邂逅する。」までを見事に描いてみせた。シリーズとしては、ひとつの達成を果たした……といえるかもしれない。
 前半に肩入れしすぎて、後半の展開が不満だったせいで、ぼくは「HUGプリ」にとかく辛辣な意見を述べてきたけれど、ここにきて、「別れ」と「成長」の観点から、再評価すべきかなあ……と思い直してます。
 「HUGプリ」でも、最終話、幼児の姿で蘇ったルールーが、えみると過ごした楽しい日々の記憶を保っていた(それもまた「歌(デュエット)」で表現されていたけれど)。本来ならば覚えているはずのない記憶。いや、本当にそうなのか。意識の表面からは抜け落ちたとしても、身体の奥に刻まれたもの、ほんとうに大切なものは、忘れることなどできぬのではないか。


 「忘れるはずがありません。」と、ララのAIがまるで人間みたいな情感のこもった声音でいう。それに呼応するかのように、「ひ……か……る……?」とフワがつぶやく。ワープの能力は失っていても、ひかるたちの記憶は、フワのなかにちゃんと残っていた。




 いっぽうで、ペンダントの光が薄らいでいく。夢の時間は間もなく終わる。別れの時が迫っている。




 まずユニが。

「みんな……今まで、ありがとうニャン。……みんなと一緒にいられて、とっても、キラやば、だったニャン。」
まどかさんに続き、ここにきてユニも「キラやば」に陥落(あるいは彼女のことだから、別れに臨んだらこの言葉をいおうと前もって決めていたのかも知れない)


 そして……。




「私も、サマーンに帰るルン。私、地球で学んだことを、サマーンのみんなに伝えたいルン。」
ここではまだ気丈にふるまっているが……




「私、また、きっと行くよ。自分の力で……宇宙に。」




「ひかる……。」



 「また、きっと行くよ。……宇宙に。」を脳内にて直ちに「ララに会いに。」と正しく変換して滂沱の涙をながすララ。しかしペンダントの力が薄らいだため、もう言葉による滑らかなコミュニケーションはできない。
 それでも、この2人には、真情を伝え合う手立てがある。




「ひ……か……る……。ア・リ・ガ・ト」





「うん……ありがとう。」







 へびつかい座の残した力を(ガルオウガ経由で)使って穿たれたワームホール(的なもの)を抜けて地球へと帰還し……。







「またね……。」




 だれひとりとして「さようなら。」とは言わなかった。言ったのは、「ありがとう。」と「またね。」だけだ。まだ一回、最終話が残っている。スタプリは、どのような「再会」と「成長」を描いてみせるのだろう。











『スタートゥインクル☆プリキュア』第48話「想いを重ねて!闇を照らす希望の星☆」①最終バトル

2020-01-19 | プリキュア・シリーズ

 このところのスタプリがむやみに面白いんで、手元にあるジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』(ハヤカワ文庫)を久方ぶりに読み返してるんだけど、いかに自分が、当ブログにおいて「神話」という用語(概念)を軽率に濫用していたか……をあらためて思い知って粛然たる気分になりましたね。やはり何だかんだいっても「近代文学」が沁みついた人間だから、「神話」をどっかで侮ってる面があったんだろうね。あきまへんなあ。


 「神話とはけっして絵空事でも、たんなる古いお話でもなく、ひとが成長するために不可欠な、いわば内面の儀式のようなもの。だから現代人にとっても……いや現代人にとってこそ重要なのだ。」とキャンベルさんは強調する。若い頃は「そりゃ神話学者なんだからそれくらい言うわな。」くらいの感じで読み流してたけど、今はつくづく「あーほんとにそうだなー。」と思いますね。


 あと、「神話」と「民話」とは違うんだよ、ということもキャンベルさんは言っている。「民話」は娯楽のために語られるが、「神話」はじっさいに精神的な教化を目的としている。裏返していうと、それが語られること/それを聞くことによってぼくたちが深いところで教化されるほどのものでなければ、「神話」と呼ぶに値しないわけ。いま世間にはファンタジーが溢れかえってて、映画もアニメも「むしろファンタジーしかない。」といいたいほどの状況だけど、そのなかで、たんに娯楽ではない真の意味での「神話」と呼べるレベルに達してるのがどれくらいあるのかはギモンですよね。


 そういう意味では、『スタートゥインクル☆プリキュア』だって、「神話」と呼べるまでの水準に届いてるかどうかは難しい。とはいえそれが、「神話的なファンタジー」なのは確かだし、とても優れた作品であることも間違いないでしょう。


 『神話の力』の中でも、「12という数字は調和がとれているが、そこに1が加わって13になることで世界が再創造へと動き出す。」とか、「女神はよく蛇を伴った姿で描かれる。」とか、示唆に富むフレーズがいくつもあってね。本作のシリーズ構成・メイン脚本の村山功さんがこの本に目を通してるかどうかは知らないし、読んでてもちっともフシギじゃないけど、もし読んでおられなかったとしても、それはそれで驚きませんね。そこがすなわち「物語の力」ってもんなんだ。そもそも「星座」をモチーフにした時点で、否も応もなくユング的なイメージは全編に瀰漫してるわけでさ。




☆☆☆☆☆




 へびつかい姫の闇の力が解放され、全宇宙が暗黒に呑まれて、四囲に何もない虚無のただなかに5人で放り出されたあと、「プリンセスたちから貸し与えられたものではない」自分たちのイマジネーションの力で再変身を果たすのは予想どおりだったけど、そこでひかるが歌いだし、ララ、ついでえれな、まどか、ユニが唱和してハーモニーを奏でるっていう演出までは読めませんでした。シリーズで初めて変身シーンに歌を導入したのはこの時のためだったのかな、と思えるくらいの名シーンになりましたね。




トゥインクル・ブック。思えばすべては、(幼い日に遼じいから貰った)この一冊のノートに詰まったひかるの「イマジネーションの力」から始まったのだ


フワはちゃんとここにいる






 「歌」は大事だよね。たんに演出ってだけで済ませちゃいけないのかな。歌はメロディーとリズムとを伴っていて、ここではさらにハーモニーも重なる。それは世界を震わせるもので、「生命」そのものの胎動にかかわっているのかもしれない。


☆☆☆☆☆


 さて。プリキュアシリーズはバトルアクションであると同時に対話劇でもある。つまり物理バトルの裏では観念論争が繰り広げられてる。とぼくは以前に書いたけど、とうぜん今話もプリキュア勢は、ラスボスたるへびつかい姫と(物理で激しくやりあいながら)対話を交わします。ここでは5人の思いがひとつになってるんで、ひとつの台詞を5人がそれぞれの言葉で繋いでいくわけだけど……。


 アクションは文字に起こしきれぬので、台詞だけを抜き出しましょう。


へび「ふん。おまえたちのイマジネーションは、所詮プリンセスたちの借り物。……そんなものでは!我には勝てぬ。」
ひかる「違うよーっ!」
へび「なにが違う。」
ララ「もとは、プリンセスの力かもしれないルン。」
えれな「でも今は、あたしたちのイマジネーションなんだ!」
へび「たわけ!」
まどか「わたくしたちは、自分たちで考え、思いを巡らせ、」
ユニ「イマジネーションを、育てていったニャン!」
ひかる「だから、私たちのイマジネーションなんだ! (とびっきりのスターパンチを打つ)」
へび(さらに禍々しき形相に。もはや蛇遣いというより自身が蛇神と化した格好だ)「すべてのイマジネーションは、我の闇に消したはずなのに。…………私だけの、イマジネーション……だと? その独りよがりが、ノットレイダーを生んだのだ。不完全なイマジネーションなど、我の宇宙にはいらぬ。そんなものが蔓延るから、宇宙は歪むのだ。我の宇宙こそが美しい。我の宇宙こそが、完全なのだ!」
ひかる「……そんなの、つまんないじゃん!」
ララ「そうルン。みんな、違うイマジネーションを持ってる。だから、だから宇宙は……楽しいルン!」
ユニ「それがあるから、苦しむこともあるニャン!」
えれな「でも、だから、わかりあえた時の笑顔が輝く!」
まどか「イマジネーションがあるから、わたくしたちは未来を創造できるんです!」

  5人の力を合わせた総攻撃に、さすがの蛇姫も押されていく。

ひかる「私は知りたい、あなたの……イマジネーションも……。」
へび「なにを……戯れ言を……消え失せろーっ。」
ひかる「イマジネーションはさ、消すよりも、星みたく、たっくさん輝いていたほうが、……キラやば~、だよ。」
へび「(息を飲み)……なんだ……この……光は。」
 暗黒に呑まれたはずの宇宙に、これまで作中に出てきた人々の数多の輝きが「あまねく」満ちる。演劇用語でいうところの「コロス」(コーラスの語源)である。
コロス「プリキュア、プリキュア」
フワ(みんなの想い、重ねるフワ。)
ひかる「はっ。 フワ……うん!」
フワ(イマジネーションの輝き。)
5人「想いを重ねて。プリキュア、スタートゥインクル・イマジネーション!」


 いや迫力たっぷりのバトルシーンだったけど、へびつかいさん、やはり「唯一神」になる気でいたみたいですね。「多様性の尊重」の対極として措定されてるわけだ。わかりやすい。ただ、「蛇神」本来のありようから見ると、ずいぶん単純化・矮小化されちゃいましたね。そこは致し方ないか。


(中略)




 戦い済んで、宇宙全域に流星が降り注ぎ……。




へびつかい姫「なぜだ……なぜ、大いなる闇だけを消し、我を消さなかった?」
ひかる「(笑って)消すわけないじゃん。」
おうし座のプリンセス「彼女たちのイマジネーションは、われわれの想像をはるかに超えて育ちました。へびつかい座のプリンセス、私たちと共に、彼女たちを見守りませんか?」
へびつかい姫「今さら戻れぬ。プリキュア。では見せてみろ。キラやば、な世界とやらを。」
ひかる「うん。」
へびつかい姫「もしその世界が誤っていれば、我は再び現れよう。」


 創造主相手でもタメ口を通し、ついには「キラやば~」思想に染めてしまったひかるはほとほと立派だけども、ここで「もしその世界が誤っていれば、我は再び現れよう。」と宣言して去っていく蛇姫が好きだなあ。2015年の『Go! プリンセスプリキュア』でも、絶望の権化たるラスボスのクローズと、希望を体現するキュアフローラ・春野はるかとが、1年にわたる闘争および問答の果てに「希望と絶望とは表裏一体。すなわち自分たちは互いが互いの影。」であることに気づいて再会を約して別れた。あれがいまだにぼくは忘れられないんだけど、それを継ぐようなシーンとなりましたね。









集英社 「戦争×文学」全20巻・別巻1 リスト

2020-01-17 | 純文学って何?




 こういう企画があるってことはぼんやりと知っていたものの、あらためてラインナップを見たら凄い顔ぶれが揃ってたんで、資料としてリストアップしておきましょう。集英社のホームページに載ってるんだけど、巻数ではなく刊行順に並んでいて見づらかったので並べ直しました。
 集英社は立派な出版社ですね。「あんな会社、ジャンプ出してりゃ食ってけるンだろ。」みたいな暴言を吐いてた元記者の「経営コンサルタント」がいたけども、物知らずにも程があるなあ。社会を「ビジネス」だけで見てたら肝心なことが視えないって証拠だね。世間がそんな輩ばかりになって、「文学」が廃れていくと、それに比例して世の中がどんどん悪くなり、結局は国そのものが衰えていくわけさ。
 まあいいや。それでは、ボリュームたっぷりの全20巻プラス1、どうぞ。これぞ文学、って布陣だけど、それだけに、タイトルを見ていくだけでけっこう重い。食事を済ませたあとで見たほうがいいかもしれない。




「戦後の戦争」を題材に! 新しい文学を収録


【現代編】
01 (2012-06)


『朝鮮戦争』


敗戦からわずか五年、隣国で勃発した戦争に日本人作家は何を見、在日作家は、民族の悲劇をいかに描いたか。


解説=川村 湊・成田龍一


金石範   『鴉の死』
張赫宙   『眼』
北 杜夫  『浮漂』
日野啓三  『無人地帯』
中野重治  『司書の死』
松本清張  『黒地の絵』
金達寿   『孫令監』
下村千秋  『痛恨街道』
田中小実昌 『上陸』
佐多稲子  『車輪の音』
小林 勝  『架橋』
野呂邦暢  『壁の絵』
佐木隆三  『奇蹟の市』
◎詩歌 近藤芳美(短歌) 吉田 漱(短歌) 谷川 雁『丸太の天国』 江島 寛『突堤のうた』 鈴木しづ子(俳句)


【現代編】
02 (2012-04)


『ベトナム戦争』


ペンとカメラを携え、戦場に駆けつけた作家やカメラマン。銃弾が飛びかうなか、彼らが伝えた戦争の現実。


解説=奥泉 光


開高 健  『岸辺の祭り』『姿なき狙撃者! ジャングル戦』
日野啓三  『向う側』
南木佳士  『重い陽光』
辺見 庸  『迷い旅』
吉岡 忍  『綿の木の嘘』
岡村昭彦  『南ヴェトナム前線へ』
石川文洋  『南ベトナム海兵大隊』
沢田教一  『17度線の激戦地を行く』
松本清張  『ハノイからの報告』
一ノ瀬泰造 『カンボジア報告』
又吉栄喜  『ジョージが射殺した猪』
中上健次  『日本語について』
堀田善衞  『名を削る青年』
村上 龍  『地獄の黙示録』
小田 実  『戦争』


【現代編】
03 (2012-10)


『冷戦の時代』


米ソの対立、核戦争の恐怖。大国の論理に翻弄される人間模様。そして「平和日本」に誕生した自衛隊とは?


解説=奥泉 光


五木寛之  『蒼ざめた馬を見よ』
長谷川四郎 『反共主義』
辻 邦生  『叢林の果て』
筒井康隆  『台所にいたスパイ』
開高 健  『エスキモー』
武田泰淳  『「ゴジラ」の来る夜』
三島由紀夫 『F104』
野呂邦暢  『草のつるぎ』
浅田次郎  『若鷲の歌』
宮本 輝  『紫頭巾』
堀田善衞  『広場の孤独』
◎詩歌 黒田喜夫『ハンガリヤの笑い』 塚本邦雄(短歌) 飯島耕一『アメリカ交響楽』


【現代編】
04 (2011-08)


『9・11 変容する戦争』


9・11以降、イラク、アフガンと今も戦争はつづく。冷戦後、変わりつつある戦争の姿をとらえた新しい文学。


解説=高橋敏夫


リービ英雄 『千々にくだけて』
日野啓三  『新たなマンハッタン風景を』
小林紀晴  『トムヤムクン』
宮内勝典  『ポスト9・11』
池澤夏樹  『イラクの小さな橋を渡って』
米原万里  『バグダッドの靴磨き』
岡田利規  『三月の5日間』
小田 実  『武器よ、さらば』
楠見朋彦  『零歳の詩人』
平野啓一郎 『義足』
重松 清  『ナイフ』
辺見 庸  『ゆで卵』
島田雅彦  『燃えつきたユリシーズ』
笙野頼子  『姫と戦争と「庭の雀」』
シリン・ネザマフィ  『サラム』
◎詩歌 谷川俊太郎『おしっこ』 三枝昂之(短歌) 藤井貞和『アメリカ政府は核兵器を使用する』  中村 純『静かな朝に目覚めて』 岡野弘彦(短歌) ◎川柳


【現代編】
05 (2011-09)


『イマジネーションの戦争』


空想された時空や寓話のなかの戦争。戦争の本当の姿をとらえるために、作家たちが描く「もうひとつの戦争」。


解説=奥泉 光


芥川龍之介 『桃太郎』
安部公房  『鉄砲屋』
筒井康隆  『通いの軍隊』
伊藤計劃  『The Indifference Engine』
モブ・ノリオ『既知との遭遇』
宮沢賢治  『烏の北斗七星』
小松左京  『春の軍隊』
秋山瑞人  『おれはミサイル』
三崎亜記  『鼓笛隊の襲来』
青来有一  『スズメバチの戦闘機』
星野智幸  『煉獄ロック』
星 新一  『白い服の男』
山本 弘  『リトルガールふたたび』
田中慎弥  『犬と鴉』
稲垣足穂  『薄い街』
内田百閒  『旅順入城式』
高橋新吉  『うちわ』
赤川次郎  『悪夢の果て』
小島信夫  『城壁』






【近代編】
06 (2011-10)


日清日露の戦争から敗戦まで! 戦争文学の中核
『日清日露の戦争』


近代国家の成立とともに大陸へと侵攻をはじめた「帝国日本」。ここから長い「戦争の時代」の幕が開く。


解説=川村 湊


萩原朔太郎 『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』
山城正忠  『九年母』
泉 鏡花  『凱旋祭』
岩井志麻子 『依って件の如し』
田山花袋  『一兵卒』
宇野千代  『日露の戦聞書』
新田次郎  『長崎のハナノフ』
森 鴎外  『鼠坂』
新美南吉  『張紅倫』
稲垣足穂  『人工戦争』
津原泰水  『土の枕』
矢野一也  『誰殺了』
木村 毅  『兎と妓生と』
松岡静雄  『南国の思出』
長与善郎  『誰でも知っている』
黒島伝治  『橇』
久世光彦  『尼港の桃』
陳舜臣   『その人にあらず』
獅子文六  『出る幕』
もりたなるお『物相飯とトンカツ』
石川 淳  『マルスの歌』
◎詩歌 与謝野晶子『君死にたまふこと勿れ』 中里介山『乱調激韵』 阪井久良岐(川柳) 井上剣花坊(川柳)


【近代編】
07(2011-12)


『日中戦争』


一九三七年七月、盧溝橋からはじまった日中戦争。次第に泥沼化する戦争のなかに生きる兵士と住民たちの悲劇。


解説=浅田次郎


胡桃沢耕史 『東干』
日比野士朗 『呉淞クリーク』
武田麟太郎 『手記』
石川達三  『五人の補充将校』
火野葦平  『煙草と兵隊』
田中英光  『鈴の音』
伊藤桂一  『黄土の記憶』
小林秀雄  『戦争について』
和辻哲郎  『文化的創造に携わる者の立場』
田村泰次郎 『蝗』
駒田信二  『脱出』
檀 一雄  『照る陽の庭』
田中小実昌 『岩塩の袋』
藤枝静男  『犬の血』
五味川純平 『不帰の暦』
棟田 博  『軍犬一等兵』
富士正晴  『崔長英』
阿川弘之  『蝙蝠』


【近代編】
08 (2011-06)



『アジア太平洋戦争』


開戦の高揚から一年を経ずして、戦いは、転戦、玉砕、特攻へと急転。凄惨な戦場があばく「聖戦」の末路。


解説= 浅田次郎


太宰 治  『待つ』
上林 暁  『歴史の日』
高村光太郎 『十二月八日の記』
豊田 穣  『真珠湾・その生と死』
野間 宏  『バターン白昼の戦』
下畑 卓  『軍曹の手紙』
北原武夫  『嘔気』
庄野英二  『船幽霊』
火野葦平  『異民族』
中山義秀  『テニヤンの末日』
三浦朱門  『礁湖』
梅崎春生  『ルネタの市民兵』
江崎誠致  『渓流』
大城立裕  『亀甲墓』
吉田 満  『戦艦大和ノ最期』(初出形)
島尾敏雄  『出発は遂に訪れず』
川端康成  『生命の樹』
三島由紀夫 『英霊の声』
吉村 昭  『手首の記憶』
蓮見圭一  『夜光虫』


【近代編】
09 (2012-07)



『さまざまな8・15』


日本人は敗戦の日をどう迎えたか。困難を極めた抑留・引揚げ。捕虜そして復員。混乱のなかの「新生日本」。


解説=成田龍一


中野重治  『四人の志願兵』
河野多恵子 『遠い夏』
島尾敏雄  『その夏の今は』『(復員)国破れて』
島尾ミホ  『御跡慕いて』
長堂英吉  『我羅馬テント村』
太田良博  『黒ダイヤ』
牛島春子  『ある旅』
梶山季之  『性欲のある風景』
岡松和夫  『異邦人』
古処誠二  『ワンテムシンシン』
藤原てい  『三十八度線の夜』
庄司 肇  『熱のある手』
木山捷平  『耳学問』
新田次郎  『豆満江』
林芙美子  『雨』
太宰 治  『未帰還の友に』
井伏鱒二  『復員者の噂』
霜多正次  『波紋』
石原吉郎  『望郷と海』
加賀乙彦  『雪の宿』
◎詩歌 茨木のり子『わたしが一番きれいだったとき』 中村草田男(俳句) 中桐雅夫『戦争』 上林猷夫『戦争が終った時』 ◎川柳


【近代編】
10 (2012-08)



『オキュパイド ジャパン』


焼け跡のなかに闇市が生まれ、街には進駐軍のジープが走る。激変する「占領下日本」で逞しく生きる人々の姿。


解説=成田龍一


志賀直哉  『灰色の月』
石川 淳  『焼跡のイエス』
椎名麟三  『深夜の酒宴』
山田風太郎 『黒衣の聖母』
田宮虎彦  『異端の子』
吉行淳之介 『廃墟の眺め』
野坂昭如  『あゝ日本大疥癬』
田中小実昌 『ミミのこと』
中野重治  『おどる男』
安岡章太郎 『ガラスの靴』
西野辰吉  『C町でのノート』
内田百閒  『爆撃調査団』
豊川善一  『サーチライト』
大江健三郎 『人間の羊』
大原富枝  『こだまとの対話』
木下順二  『神と人とのあいだ』
遠藤周作  『松葉杖の男』
城山三郎  『爆音』
阿部 昭  『大いなる日』
李恢成   『証人のいない光景』
◎詩歌 齋藤茂吉(短歌) 吉本隆明『一九四九年冬』 ◎川柳


【テーマ編】
11 (2012-11)


戦争の非人間性をあばく! 銃後の生活と軍隊の諸相

 『軍隊と人間』


徴兵を忌避する若者、兵営内で吹き荒れる私刑、軍隊への死を賭した反抗。兵士たちの深い嘆きと隠された肉声。


解説=浅田次郎


細田民樹  『日露のおじさん』
梅崎春生  『崖』
渡辺 清  『海の城』
村上兵衛  『連隊旗手』
菊村 到  『しかばね衛兵』
古処誠二  『糊塗』
結城昌治  『従軍免脱』
野間 宏  『第三十六号』
吉田絃二郎 『清作の妻』
浜田矯太郎 『にせきちがい』
中村きい子 『間引子』
吉行淳之介 『藺草の匂い』
柴田錬三郎 『仮病記』
松本清張  『厭戦』
田村泰次郎 『地雷原』
洲之内 徹 『棗の木の下』


【テーマ編】
12 (2013-01)


『戦争の深淵』


住民虐殺、毒ガス、捕虜の生体実験。人間はいかなる状況のもとで獣と化すのか。戦争の非人間性の極みを直視。


解説=高橋敏夫


大岡昇平  『捉まるまで』
富士正晴  『童貞』
有馬頼義  『分身』
古山高麗雄 『白い田圃』
田村泰次郎 『裸女のいる隊列』
遠藤周作  『海と毒薬』
平林たい子 『盲中国兵』
田口ランディ 『死の池』
武田泰淳  『ひかりごけ』
浅田次郎  『雪鰻』
梁石日   『さかしま』
宮原昭夫  『炎の子守唄』
吉村 昭  『遠い幻影』
金石範   『乳房のない女』
◎詩歌 秋山 清『象のはなし』 栗林一石路(俳句) 鈴木六林男(俳句) 渡辺白泉(俳句) 長田 弘『吊るされたひとに』 井上光晴『屍体の実験』 岡井 隆(短歌) 馬場あき子(短歌) ◎川柳 鶴彬 他


【テーマ編】
13 (2011-11)



『死者たちの語り』


戦いで無念のうちに死んだ者たちが、生者たちに訴える癒されぬ魂の叫び。戦争が生み出した幻想文学の精髄。


解説=高橋敏夫


小川未明  『野ばら』
夏目漱石  『趣味の遺伝』
江戸川乱歩 『芋虫』
小島信夫  『小銃』
安部公房  『変形の記録』
三橋一夫  『夢』
真杉静枝  『深い靄』
吉屋信子  『生死』
江崎誠致  『帰郷』
船越義彰  『カボチャと山鳩』
井上ひさし 『父と暮せば』
石田耕治  『流れと叫び』
中井正文  『名前のない男』
色川武大  『蒼』
三枝和子  『夾竹桃同窓会』
小川国夫  『聖女の出発』
奥泉 光  『石の来歴』
浅田次郎  『遠別離』
目取真 俊 『水滴』
◎詩歌 鮎川信夫『死んだ男』 石原吉郎『葬式列車』 加藤楸邨(俳句) 秋元不死男(俳句)  草野心平『マンモスの牙』 木俣 修(短歌) 山中智恵子(短歌) ◎川柳


【テーマ編】
14 (2012-01)



『女性たちの戦争』


銃後に生きる女性や子どもたちは戦争とどう向き合ったのか。戦争を支えつつも、踏みにじられていく悲しい姿。


解説=川村 湊・成田龍一


大原富枝  『祝出征』
長谷川時雨 『時代の娘』
中本たか子 『帰った人』
上田芳江  『焔の女』
瀬戸内晴美(寂聴)『女子大生・曲愛玲』
吉野せい  『鉛の旅』
藤原てい  『襁褓』
田辺聖子  『文明開化』
河野多恵子 『鉄の魚』
大庭みな子 『むかし女がいた』
石牟礼道子 『木霊』
壺井 栄  『おばあさんの誕生日』
高橋揆一郎 『ぽぷらと軍神』
竹西寛子  『兵隊宿』
司 修   『銀杏』
一ノ瀬 綾 『黄の花』
冬 敏之  『その年の夏』
寺山修司  『誰でせう』『玉音放送』
三木 卓  『鶸』
小沢信男  『わたしの赤マント』
向田邦子  『字のない葉書』『ごはん』
阿部牧郎  『見よ落下傘』
鄭承博   『裸の捕虜』
◎詩歌 五島美代子(短歌) 中村汀女(俳句) 石垣りん『家族旅行』 吉原幸子『空襲』


【テーマ編】
15 (2012-03)



『戦時下の青春』


内地に残る若き兵士、動員される学徒、疎開する家族、空襲に逃げまどう人々。戦争末期の生活の諸相を描破。


解説=浅田次郎


中井英夫  『見知らぬ旗』
小林 勝  『軍用露語教程』
吉行淳之介 『焔の中』
三浦哲郎  『乳房』
江戸川乱歩 『防空壕』
井上光晴  『ガダルカナル戦詩集』
高橋和巳  『あの花この花』
上田 広  『指導物語』
永井荷風  『勲章』
川崎長太郎 『徴用行』
石川 淳  『明月珠』
太宰 治  『薄明』『たずねびと』
井伏鱒二  『疎開記』『疎開日記』
池波正太郎 『キリンと蟇』
坂口安吾  『アンゴウ』
結城信一  『鶴の書』
内田百閒  『その一夜』
古井由吉  『赤牛』
高井有一  『櫟の家』
前田純敬  『夏草』
野坂昭如  『火垂るの墓』
井上 靖  『三ノ宮炎上』


【地域編】
16 (2012-02)


都市、島、植民地、新国家! それぞれの場所に刻まれた戦争の傷痕

 『満洲の光と影』


五族協和を謳い「建国」された満洲国。内地から押しよせた人々はいかにして夢を追い、その崩壊を体験したか。


解説=川村 湊


伊藤永之介 『万宝山』
徳永 直  『先遣隊』
牛島春子  『福寿草』
今村栄治  『同行者』
野川 隆  『狗宝』
竹内正一  『流離』
八木義徳  『劉広福』
水上 勉  『小孩』
三木 卓  『われらアジアの子』
長谷川四郎 『張徳義』
里見 弴  『みごとな醜聞』
清岡卓行  『サハロフ幻想』
村上春樹  『動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)』
坪田譲治  『包頭の少女』
森川 譲  『ホロゴン』
宮尾登美子 『満州往来について』
◎詩歌 逸見猶吉『歴史』


【地域編】
17 (2012-09)



『帝国日本と朝鮮・樺太』


皇民化を強いられ、戦争に巻きこまれていく朝鮮の人々、朝鮮を故郷とする日本の子ら。日本支配の深い傷を見る。


解説=川村 湊


中島 敦  『巡査の居る風景』
張赫宙   『岩本志願兵』
鄭人沢   『かえりみはせじ』
金史良   『草深し』
田中英光  『碧空見えぬ』
梶山季之  『族譜』
湯浅克衛  『カンナニ』
小林 勝  『フォード・一九二七年』
李淳木   『冬の橋』
森崎和江  『土塀』
後藤明生  『一通の長い母親の手紙』
冬木 憑  『和人』
譲原昌子  『朝鮮ヤキ』
吉田知子  『豊原』
渡辺 毅  『ぼくたちの〈日露〉戦争』
李恢成   『砧をうつ女』


【地域編】
18(2012-12)


『帝国日本と台湾・南方』


反乱を起こす「蕃社」の人々、志願兵となる台湾の若者たち。南方や南洋の島々に残された支配と戦争の傷痕。


解説=川村 湊


佐藤春夫  『奇談』
伊藤永之介 『総督府模範竹林』
真杉静枝  『南方の言葉』
周金波   『志願兵』
龍瑛宗   『若い海』
楊 逵   『増産の蔭に』
日影丈吉  『虹』
邱永漢   『密入国者の手記』
池宮城積宝 『蕃界巡査の死』
大鹿 卓  『野蛮人』
中村地平  『霧の蕃社』
坂口 れい子 『蕃婦ロポウの話』
高見 順  『諸民族』
森 三千代 『国違い』
海音寺潮五郎 『コーランポーの記』
阿部知二  『あらまんだ』
戸石泰一  『待ちつづける「兵補」』
窪田 精  『春島物語』
池澤夏樹  『ホセさんの尋ね人』
辻原 登  『枯葉の中の青い炎』
◎詩歌 金子光晴『馬拉加』『Memo』 春日井 建(短歌)  金子兜太(俳句)


【地域編】
19 (2011-06)


『ヒロシマ・ナガサキ』


原爆投下の言語を絶する惨状。さらには水爆、原発へと拡大する現在の核状況を直視した被爆国日本のメッセージ。


解説=成田龍一


原 民喜  『夏の花』
大田洋子  『屍の街』
林 京子  『祭りの場』
川上宗薫  『残存者』
中山士朗  『死の影』
井上ひさし 『少年口伝隊一九四五』
井上光晴  『夏の客』
美輪明宏  『戦』
後藤みな子 『炭塵のふる町』
金在南   『暗やみの夕顔』
青来有一  『鳥』
橋爪 健  『死の灰は天を覆う』
大江健三郎 『アトミック・エイジの守護神』
水上勉   『金槌の話』
小田 実  『「三千軍兵」の墓』
田口ランディ『似島めぐり』
◎詩歌 栗原貞子『生ましめんかな』 峠 三吉『八月六日』 山田かん『浦上へ』 正田篠枝(短歌) 竹山 広(短歌) 三橋敏雄(俳句) 松尾あつゆき(俳句) ◎川柳


【地域編】
20 (2012-05)


『オキナワ 終わらぬ戦争』


住民に多大な犠牲を強いた沖縄戦、戦後は基地の島として苦難を生きる。沖縄の「戦争」は今もつづいている。


解説=高橋敏夫


長堂英吉  『海鳴り』
知念正真  『人類館』
霜多正次  『虜囚の哭』
大城立裕  『カクテル・パーティー』
又吉栄喜  『ギンネム屋敷』
吉田スエ子 『嘉間良心中』
目取真 俊 『平和通りと名付けられた街を歩いて』
田宮虎彦  『夜』
岡部伊都子 『ふたたび「沖縄の道」』
灰谷健次郎 『手』
桐山 襲  『聖なる夜 聖なる穴』
◎詩歌 山之口 貘『沖縄よどこへ行く』 高良 勉『アカシア島』 ◎川柳




【資料編】
別巻(2013‐09)


[Ⅰ]〈戦争と文学〉の一五〇年


[Ⅱ]〈戦争と文学〉長編作品紹介


[Ⅲ]〈戦争と文学〉年表 1893~1989


日清・日露戦争の時代     宗像和重
第一次世界大戦の時代     中山弘明
日中戦争の時代     中谷いずみ
太平洋戦争前後の時代     紅野謙介
朝鮮戦争・ベトナム戦争の時代     坪井秀人
冷戦の終結と新たな戦争の時代     陣野俊史
エンターテインメント小説と戦争     杉江松恋
SF小説と戦争     大森望


とりあげられる作品
徳冨蘆花『不如帰』
武者小路実篤『或る青年の夢』
火野葦平『兵隊三部作』
菊池寛『満鉄外史』
野間宏『真空地帯』
五味川純平『人間の條件』
丸谷才一『笹まくら』
司馬遼太郎『坂の上の雲』
開高健『夏の闇』
宮部みゆき『蒲生邸事件』
森博嗣『スカイ・クロラ』
赤坂真理『東京プリズン』
 ほか


その他、コレクション戦争×文学 収録作品索引など






☆☆☆☆☆


 さらにここから精選された「セレクション 戦争と文学」シリーズが去年から集英社文庫で刊行されており、2020年1月17日、つまり本日、第7巻が発売される。阪神淡路大震災を偲ぶ日でもあるこの日を刊行日にしたのは偶然じゃないと思うなあ。表紙は手塚治虫先生。文庫といっても分厚くて、けっこう値段も張るけどね。


集英社文庫


セレクション戦争と文学 1  ヒロシマ・ナガサキ
原 民喜 他


広島と長崎に原爆が落ちた日、世界は一変した――。


言語を絶する被爆地の惨状を書きとどめた、原民喜の名作「夏の花」。広島と長崎での被爆体験をそれぞれ綴った、大田洋子「屍の街」と林京子「祭りの場」。


その他、井上ひさし「少年口伝隊一九四五」、大江健三郎「アトミック・エイジの守護神」、田口ランディ「似島めぐり」など、現代作家の視点も交え、原水爆の惨禍を描き出した作品を収録。


2019年7月19日発売





セレクション戦争と文学 2  アジア太平洋戦争
太宰 治 他


海も空も人間も、戦争に染まった――。
極限下で発せられる人間の偽りのない思い、戦争の実態とは。
名だたる作家たちが遺したアジア太平洋戦争の傑作群、その生きた言葉を現代の視点で読みなおす。


太宰治「待つ」、川端康成「生命の樹」、三島由紀夫「英霊の声」、島尾敏雄「出発は遂に訪れず」、野間宏「バターン白昼の戦」、吉村昭「手首の記憶」、吉田満「戦艦大和ノ最期」、大城立裕「亀甲墓」他。


2019年8月21日発売





セレクション戦争と文学 3  9・11 変容する戦争
リービ 英雄 他


2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロは、戦争の形態を一変させた。
9・11事件に象徴される新しい戦争の姿を、現代の作家たちが描き出す。


リービ英雄「千々にくだけて」、宮内勝典「ポスト9・11」、池澤夏樹「イラクの小さな橋を渡って」、米原万里「バグダッドの靴磨き」、岡田利規の戯曲「三月の5日間」、平野啓一郎「義足」、重松清「ナイフ」、シリン・ネザマフィ「サラム」他


2019年9月20日発売





セレクション戦争と文学 4  女性たちの戦争
大原 富枝 他


どの家にも学校にも職場にも駅にも田畑にも戦争の空気が漂っていた時代。
女性、子供、捕虜の視点で描かれる、それぞれの戦争の日常。


大原富枝「祝出征」、田辺聖子「文明開化」、河野多恵子「鉄の魚」、瀬戸内寂聴「女子大生・曲愛玲」、竹西寛子「兵隊宿」、大庭みな子「むかし女がいた」、向田邦子「字のない葉書/ごはん」、石牟礼道子「木霊」、寺山修司「誰でせう/玉音放送」、三木卓「鶸」他。


2019年10月18日発売





セレクション戦争と文学 5  日中戦争
胡桃沢 耕史 他


満洲国建国以降も版図を拡大しようとする日本軍部。ついに昭和12年7月、盧溝橋で日中両軍が衝突、全面戦争へと展開する。
本巻では、日中戦争の進展に添うかたちで作品を配列し、日中戦争の足跡を名作で辿ることを目的とした。
満洲国成立後の西域対策をテーマとしたユニークな胡桃沢耕史の「東干」、戦争への文学者の態度を表明した小林秀雄のエッセイをはじめとして、伊藤桂一、田村泰次郎らの名作を配し、兵士と住民の生きた戦争の姿を伝える。
語り継がれずに消えてゆく記憶を保存するという使命を、戦争文学は担っている。


(収録の作家)胡桃沢耕史、和辻哲郎、小林秀雄、日比野士朗、石川達三、武田麟太郎、火野葦平、田中英光、伊藤桂一、藤枝静男、壇一雄、駒田信二、田村泰次郎、田中小実昌、富士正晴、棟田博、五味川純平、阿川弘之
(解説)浅田次郎
(付録インタビュー)伊藤桂一×浅田次郎対談


2019年11月20日発売





セレクション戦争と文学 6  イマジネーションの戦争
芥川 龍之介 他


人類にとって戦争とはなんなのかを考えるために、僕はSFを書きはじめたんです(小松左京・付録インタビュー)。虚構の戦争が照射する、人間のリアルとは――。


伊藤計劃「The Indifference Engine」、秋山瑞人「おれはミサイル」、田中慎弥「犬と鴉」、赤川次郎「悪夢の果て」、筒井康隆「通いの軍隊」、小松左京「春の軍隊」、安部公房「鉄砲屋」、小島信夫「城壁」、宮沢賢治「鳥の北斗七星」他。


2019年12月19日発売





セレクション戦争と文学 7  戦時下の青春


学徒動員、徴用工、B29の本土襲来。鬱屈した若者の青春が、戦火とともに燃え上がる。井上光晴、江戸川乱歩、野坂昭如ほか収録。


2020年1月17日発売


当ブログ内 関連記事

なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。




第162回芥川賞受賞作決定。

2020-01-15 | 純文学って何?
 しかし私も立場上、もう少し芥川賞の動向に気を配らねばいけませんなあ……。こうアニメの話ばっかしてちゃねえ……。でも正直、つまんないんだよなあ。ここ10年で「これは。」と思ったのは小野正嗣さんの「九年前の祈り」だけだもの。まあ、まだ読んでないのもあるし、いいかげんなことを言ってるんですけどね。なんかこう、いまどきの純文学のハナシになると、ふて腐れたみたいになっちゃって、よくない傾向なんだけども。
 というわけで、2019(令和1)年下半期の芥川龍之介賞は、古川真人さんの「背高泡立草」に決まりました。


 これで2010年代の受賞作はこうなりますね。


第162回(2019年下半期)- 古川真人「背高泡立草」
第161回(2019年上半期)- 今村夏子「むらさきのスカートの女」
第160回(2018年下半期)- 上田岳弘「ニムロッド」/町屋良平「1R1分34秒」
第159回(2018年上半期)- 高橋弘希「送り火」
第158回(2017年下半期)- 石井遊佳「百年泥」/若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」
第157回(2017年上半期)- 沼田真佑「影裏」
第156回(2016年下半期)- 山下澄人「しんせかい」
第155回(2016年上半期)- 村田沙耶香「コンビニ人間」
第154回(2015年下半期)- 滝口悠生「死んでいない者」/本谷有希子「異類婚姻譚」
第153回(2015年上半期)- 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」/又吉直樹「火花」
第152回(2014年下半期)- 小野正嗣「九年前の祈り」
第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」
第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」
第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」
第148回(2012年下半期)- 黒田夏子「abさんご」
第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」
第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」/田中慎弥「共喰い」
第145回(2011年上半期) - 該当作品なし
第144回(2010年下半期) - 朝吹真理子「きことわ」/西村賢太「苦役列車」
第143回(2010年上半期) - 赤染晶子「乙女の密告」




 うん、沼田さんの「影裏」からこっちはぜんぜん読んでねえわ。あははは。これでいっぱしのこと言っちゃダメだね。なるべく早く読むようにしよう。


 「芥川賞」で検索してたら、面白い記事を見つけました。西日本新聞の文化欄なんだけど。




◎芥川賞、記者が選んだ作品は? 候補作読み比べ座談会
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/575508/





 1ページめが座談形式での短評。2ページめが各候補作のあらすじ。こういう時事性の高いものは早めに削除されることが多いんで、わかりづらい箇所に少しだけ手を加えてコピペしておきましょう。




 第162回芥川賞候補作品のあらすじ


 木村友祐「幼な子の聖戦」(すばる11月号)
 東京暮らしをやめて故郷の東北で村議をする史郎は、県議に弱みを握られ、村長選に出た幼なじみの選挙妨害を命じられる。暗い充実感を覚えるが、権力と人間のエゴを前にゆらぐ。


 高尾長良「音に聞く」(文学界9月号)
 翻訳家の有智子と、その妹で作曲家を志す真名は、生き別れとなっていた音楽理論研究者の父が住むウィーンに行く。父に複雑な思いを抱く有智子はこの音楽の都で音と言葉についての思索を深め、父を知る。


 千葉雅也「デッドライン」(新潮9月号)
 主人公はフランス現代思想を学ぶゲイの大学院生。「自分は動物なのか女性なのか」と、性的少数者として哲学的に悩みながら、修士論文の締め切りに死線(デッドライン)を重ね合わせて苦闘する。


 乗代雄介「最高の任務」(群像12月号)
 大学の卒業式の日に景子は家族と小旅行に出かける。旅のなかで思い出すのは亡き叔母の面影。やがて叔母の優しい計らいの数々を知り、その思いにかなう姪になりたいと願う。


 ◎古川真人「背高泡立草」(すばる10月号)
 奈美は長崎の離島にある母の実家の空き家で草刈りをする。草刈りと並行して島と家の歴史が重層的に語られ、江戸時代の捕鯨や戦時中の満州移住などが短編連作の形で描かれる。






 今回のばあい、売れっ子哲学者の千葉雅也さんがわりと話題になってたのかな? 前回と前々回は社会学者の古市憲寿さんでしたっけ。これまで画家とかミュージシャンとかパンク歌手とか劇団関係者とか芸人とか、異業種のひとの参入は珍しくないし(むしろ業界のほうが積極的に迎え入れてる傾向アリ)、文学畑の学者だったら松浦寿輝さん(この方は詩人でもありますが)とか堀江敏幸さん(この方は早くからエッセイの名手として名を馳せてましたが)とかがいらっしゃったけど、文学プロパーじゃない学者さんってのは意外となかったんだよね。面白い流れだと思いますけども。
 いずれにせよ、いい小説だったら誰が書いたものでもいいんだけどね。署名がなくてもいいくらいでね。でもリアルタイムの純文学で、そういうのになかなか出会えないんで、「物語」に行っちゃうんだよなあ。





スタートゥインクル☆プリキュア 47話 その② フワのこと。

2020-01-14 | プリキュア・シリーズ

 前回の記事の末尾でぼくは、


 蛇遣い姫は一見すると紛うことなき「悪魔」に見えますが、じつは人間たちから「想像力≒能動性≒自由意志」を奪い、あまつさえ他の12柱を滅し、ひいては宇宙そのものを虚無に呑ませて破壊し尽し、何もかもをゼロから創り直そうとしている。つまりは、「唯一神」になろうとしているわけです。

 なんて述べたけど、改めてビデオをよく見返すと、すこし言い過ぎた気もしますね。
 彼女が、人間たちの「想像力≒能動性≒自由意志」を疎ましく思って、宇宙ごと消そうとしてるのはほんと。そこは間違いない。問題はそのあと。
 「宇宙創造と同様、宇宙の消去にも、我ら13星座の力が必要。」
 と、へびつかいさんは言っている。この方が、「宇宙の消去」を目論んでるのは事実だけど、その前に「他の12柱を滅」するわけにはいかない。消去するためにはとりあえず他の12柱の力も借りなきゃいけないから。
 だとすると、また「ゼロから創り直」すためにも、とうぜん他の12柱の力が必要って理屈になりますよね。
 「消去」と「再創造」を済ませたのち、他のプリンセスたちを手にかけるつもりなのかもしれないけど、そこまで明言はしていない。
 へびつかい姫が、他の12柱を捻じ伏せて、この作品世界のなかの「唯一神的な存在」になろうとしているのは確か。ただ、他の12柱を完全に滅して、真の唯一神になろうとしてるのかどうかまではわからない。そこはちょっと言い過ぎたかもですね。


 なぜ、そこにこんなに拘るのか。それは、へびつかいさんと、他の12柱とを冷静に見比べたとき、「悪神」と「善神」とが相克している……ようには必ずしも見えないから。つまり、この方々はひかるたちとは別の次元、遥かな高みにおられて、そこから人間たちを見下ろしている。神なんだから当然っちゃあ当然だけど、はっきり言うなら、ずいぶん傲慢であらせられるわけです。その点においては、じつはどちらも変わらない。プルンス氏がショックを受けてたのもそのあたりだと思いますね。
 その傲慢さは、クライマックスシーン直前における以下の会話に端的にあらわれています。



 ひかる「フワは器なんかじゃない!」
 へびつかい座「器だよ、正真正銘。なあ、プリンセスたちよ? 奴(フワ)はプリンセスの力を入れる儀式の場。このスターパレスの一部!」
 プリキュア勢「えええっ!」
 プルンス氏「なに言っているでプルンス? どういうことでプルンス? プリンセスーっ」
 プリンセス(のうちの誰か)「フワと、トゥインクル・イマジネーションで、儀式を行うのです」
 プリンセス(のうちの誰か)「プリキュアとフワで思いを重ね、彼女の闇を止めるのです」
 プリンセス(のうちの誰か)「止めねば、宇宙が消えます」
 ひかる「止めるって……」
 プリンセス(のうちの誰か)「止めるには、プリンセスの力が必要」
 プリンセス(のうちの誰か)「プリンセスの力の半分はフワのなか」
 プリンセス(のうちの誰か)「残りの半分は」
 プリンセス(のうちの誰か)「ひとびとに授けたイマジネーション」
 プリンセス(のうちの誰か)「その結晶こそが、トゥインクル・イマジネーション」
 へびつかい座「闇を止める、か? 奴らがお前たちを動かしていたのは、我を消すため」
 ひかる「えっ……消すっ……て……」
 プリンセス(のうちの誰か)「すべては、宇宙を守るため」
 へびつかい座「ふふっ。言っておくが、消えるのは我だけではないぞ。……その力を使えば、器はこのパレスに戻る。存在は確実に消える」
 ひかる「フワが……消える……」



 情報量が多すぎて、ひかるたちはもちろん、見てるこちらも混乱しそうなやり取りですが、へびつかい座も含めた13星座の女神たちが、フワを「器」としか見ていないこと、そして、ひかるたちプリキュアを、いささか言葉は悪いけど、「へびつかい座のプリンセスを消すための手段」、いわば宇宙の自浄装置のように見なしていることは明らかです。
 だから、プリンセスたちは「pre-cure」なんて、妙な言い方をしてました。歪んだイマジネーションを「前へと戻し、浄化する力」だと。「pre-」が「前へ。」で、「cure」が「浄化する。」ってわけですね。
 紛らわしいけど、この「前へ。」は「前方へ。」じゃないんだ。たんに元に戻すってこと。後戻りなんだよね。


 もうひとつ重要なのは、「プリンセスの力の半分はフワのなか。残りの半分は、ひとびとに授けたイマジネーション。その結晶こそが、トゥインクル・イマジネーション」というくだり。
 そしてそのトゥインクル・イマジネーションは、いまキュアスターたち5人のプリキュア勢の身の内にある。
 これはいささか寂しい話ですよね。ここまで5人でいろいろな経験を積み、それぞれに成長を遂げて身につけたはずのトゥインクル・イマジネーションは、じつは「創造主から授けられた力」の発現でしかなかったという。
 いや、やっぱ、かなりがっかりでしょこれ。



 でも、さすがは神の御言葉だけあって、そこに偽りはなかった。呆然とするキュアスターたちの隙を突き、へびつかいさんが創出した恐るべきブラックホール(的なもの)が、今まさに5人を虚無の底へと呑み込まんとする……






 ……その刹那、
 「だいじょうぶフワ」という耳慣れた声が、ひかるの心にとどく。
 そして……。




「フワが、みんなを、守るフワーっ」
これまでずっと守られて続けてきたものが、「守る」立場に回る。しかしその代償はあまりにも……




変身解除


変身解除


5人のトゥインクル・イマジネーションを結集して……




「みんな、今まで、ありがとうフワ」




「だめーっ。」
いやほんとにダメだろうこれ


「ああっ。」「だめルン!」「そんな……。」「フワーっ。」こんな時でもララの台詞はひかると対になっているのだが、そんなこと言ってる場合ではない



「フワああああーっ。」これまで身命を賭して寄り添い続けた有能かつ忠誠無比な守り人の叫び



「想いを重ねるフワーっ。  スタートゥインクル☆イマジネーション!」
「想いを重ねるフワ」は毎週の浄化シーンのお約束のせりふ、いわゆる「バンク」というやつで、正直たいがい見飽きてたけど、それがここでこんな形で使われちゃうとはね……。劇場版における(ぼくは観てないけど)ひかるの「キラやば……」と同じで、ルーティン化した決まり文句が文脈を変えて「ここ一番」で活用されると、いかに多大な効果を発揮するか。というお手本ですね








 ひかるをはじめ、まどか、ララ、ユニ、えれなの変身が解けるのは、フワがみんなのトゥインクル・イマジネーションを回収したから。つまり、プリキュアの強大な力がプリンセスたちから貸し与えられたものであること、もっと言うと、貸し与えられたものに過ぎなかったことが、ここで証明されたわけ。そしてフワは、自分の中のトゥインクル・イマジネーションと併せて(つまり半分+半分で、すべてのトゥインクル・イマジネーションを結集して)、「大いなる闇」としてのへびつかい座に正面からぶつかっていった。






 こうして「大いなる闇の力」はフワと共に消滅し、フワの貴い犠牲によって、全宇宙は救われました。めでたしめでたし。
 ……というわけにはもちろんいかない。そんなもん、ハッピーエンドでもなんでもない。



 そもそも、この『スタートゥインクル☆プリキュア』という作品において、フワはいかなる存在なのかって話ですよ。


フワ(CV・木野日菜)。藤子・F作品に出てきそうな愛らしさ。正式な名前は「スペガサッス・プララン・モフーピット・プリンセウィンク」。第1話の冒頭にて、自室で望遠鏡を覗いて天体観測をしているひかるのもとに吹き抜けの窓から落ちてきた……わけではなく、ノートブックから飛び出してきた……のだけれど、やはり「落ちもの」には違いあるまい。いずれにせよ、じつにストレートな導入部だった。本作のテンポの良さはあそこから始まっていたと思う。名前については、当人(?)もめんどくさかったらしく、ひかるが「フワ」と呼んだらすっかり気に入って、プルンス氏やララがいくら訂正しても、以後は自分でもそうとしか名乗らなかった





フワ。第31話にて、すべてのプリンセススターカラーペンが揃ったことでこの形態に。正式名称に「ペガサス」がちゃんと入ってたんだな……と思ったけど、よく見るとこれ、ペガサスってよりユニコーンだな。中盤にて「成長」を遂げて容姿が変わるのはシリーズ初じゃなかろうか




 思い出してみましょう。主人公の桃キュア星奈ひかる(1話でプリキュアに覚醒)はもちろん、プルンス氏とともにフワを守るべく敵から逃げ回って宇宙船で地球まで来たララ(2話で覚醒)も、もともと何ら関係のない天宮えれな(4話で覚醒)、さらには父の職務上フワの存在を看過できない立場だったはずの香久矢まどか(5話で覚醒)の両先輩までも、プリキュアになった動機は「フワを守りたい!」という一心だった。
 全員の動機が一緒なんですよ。ここまで明快なのは歴代タイトル初ですね。
 なお、追加戦士のユニだけは少し事情が違ったけど、プリキュアに覚醒(20話)するまえ、ちゃんとフワと一対一で心の交流をもってます。そのへんのシナリオにぬかりはありません。




 すなわち『スタートゥインクル☆プリキュア』とは、愛らしき宇宙妖精フワを5人のプリキュアたち(とプルンス氏)がひたすら守り抜くお話……でもあったわけですよ。




 そのフワが、消滅した。いかに宇宙が救われても、これではなんにもめでたくない。
 かつて鉄腕アトムは地球を救うべく単身ロケットに乗って太陽に突っ込んでいった(別ヴァージョンの最終回もあり)。けど、そのような自己犠牲こそ、プリキュア・シリーズがその当初から周到に、しかし頑として否定していたことなのであって。
「地球のため、みんなのため それもいいけど忘れちゃいけないこと あるんじゃないの?」
 という、第一作『ふたりはプリキュア』のEDの歌詞のとおりですよ。






 だからひかるは、ララは、えれなは、まどかは、ユニは、創造主たるプリンセスたちから付与された力ではなしに、今度は自分たちの力で、自分たちがプリキュア仲間やクラスメートや家族や先達や社会や異星の住民たちやノットレイダーとの関わりのなかで得た力……本作の趣旨に即していえば、自分たちの「イマジネーションの力」でもって、プリキュアに変身しなきゃいけない。
 それこそが、「歪んだイマジネーションを元に戻す」だけの「pre-cure」、「宇宙の秩序を回復する」だけの「pre-cure」、後戻りする「pre-cure」ではなしに、「みんなと一緒に未来へ進む」ほんとうの「プリキュア」なんだってことですね。
 そうしてフワを取り返す。そんなことはありえない? それがどうした。「ありえない」を可能にするのが、イマジネーションの力じゃないか。
 創造主たちの定めたルールがなんだ。「運命」がナンボのもんだと。
 すなわちこれは「神」からの自立の話。ニーチェ以降のモダン(近代)の生んだおとぎ話ですね。プリキュア・シリーズは、モダン(近代)というもののもつもっとも良質な部分をあつめてつくった麗しいファンタジーなのだと、あらためて今回思い知りました。















『スター☆トゥインクルプリキュア』第47話「フワを救え!消えゆく宇宙と大いなる闇!」考察。①

2020-01-12 | プリキュア・シリーズ


(ひか&ララ)×カパ


えれ×テン


ユニ×アイ


まど×ガル


プルンス氏とノットレイダーたち


 内容紹介のほうは、ひとまず上掲の尊い4(+1)枚の画像を以てこれに代えることとしまして、サブカル&神話マニアの立場から、(旧)へびつかい座のプリンセスさんの意図するところを考察します。


 蛇神というのはほぼすべての民族の神話にあらわれますが、1月6日の記事「蛇神必ずしも邪神に非ず。」で述べたとおり、もともと「禍々しきもの」といった意味合いはありません。
 総じて蛇は、「原初の根源的な宇宙の力」をあらわします。そこから「再生を司るもの」にもなる。ギリシア神話の名医アスクレピオスはその力を借りて死者をすら蘇らせてしまう。そこで冥界の王ハデスがゼウスに苦情を言い、人間同士の相互扶助を快く思わないゼウスが雷霆で彼を殺める。のちにそれを反省し、天界にあげて神々の列に加え、星座にした。それが本来の「へびつかい座」です。


 本作『スタートゥインクル☆プリキュア』は、ほかの12星座ともどもこの「へびつかい座」に「女神」の姿を与え、さらに日本古来のヒュドラ(多頭蛇)である八岐大蛇のイメージを重ね合わせて、魅力的なキャラを造形しました。これまでプリキュアたちの前に立ちはだかってきた敵がみな改心して和解を果たした今、本作における最後の「悪」(つまりはラスボスですね)の役割を担うものとして、申し分のない存在感でしょう。




 もちろん、今作のスタッフは、彼女に「ウロボロスの蛇」のイメージを重ねることも怠りません。




ウロボロスの蛇とは……

ウィキペディアより


ウロボロス (ouroboros, uroboros) は、古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。


語源は、「尾を飲み込む(蛇)」の意の「古代ギリシア語: (δρακων)ουροβóρος」(〈ドラコーン・〉ウーロボロス)。その後は、同じく「尾を飲み込む蛇」の意の「ギリシア語: ουροβόρος όφις」(ウロヴォロス・オフィス)と表現する。


◎象徴的意味
ウロボロスには、1匹が輪になって自分で自分を食むタイプと、2匹が輪になって相食むタイプがある。2匹のタイプの場合、1匹は何も無い素のままの姿だが(王冠を被っているタイプもあり)、もう1匹は1つの王冠と1対の翼と1対の肢がある。


ヘビは、脱皮して大きく成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐える強い生命力などから、「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる。そのヘビがみずからの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わった。


古代後期のアレクサンドリアなどヘレニズム文化圏では、世界創造が全であり一であるといった思想や、完全性、世界の霊などを表した。
錬金術では、相反するもの(陰陽など)の統一を象徴するものとして用いられた。
カール・グスタフ・ユングは、人間精神(プシケ)の元型を象徴するものとした。
他にも、循環性(悪循環・永劫回帰)、永続性(永遠・円運動・死と再生・破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)、無限性(不老不死)、完全性(全知全能)など、意味するものは広く、多くの文化・宗教において用いられてきた。


◎歴史
ウロボロスのイメージは、アステカ、古代中国、ネイティブ・アメリカンなどの文化にも見受けられる。


中国では、新石器時代の北方紅山(ホンシャン)文明(紀元前4700年 - 紀元前2900年)の遺構から、青色蛇紋石で作られた「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる人工遺物が発掘されている。これは、ブタのような頭とヘビの胴体を持ち、みずからの尾をくわえた姿をしている。


今日見られるウロボロスの起源となる、みずからの尾をくわえたヘビ(または竜)の図の原形は、紀元前1600年頃の古代エジプト文明にまでさかのぼる。エジプト神話で、太陽神ラー(レー)の夜の航海を守護する神、メヘンがこれに当たり、ラーの航海を妨害するアペプからラーを守るため、ウロボロスの様にラーを取り囲んでいる。これがフェニキアを経て古代ギリシアに伝わり、哲学者らによって「ウロボロス」の名を与えられた。


◎宗教とのかかわり


ヒンドゥー教での自らの尾をくわえる竜
北欧神話では、ミッドガルドを取り巻き、みずからの尾をくわえて眠る「ヨルムンガンド」が登場する。詳細は当該項目参照。
キリスト教や一部のグノーシス主義では、ウロボロスは物質世界の限界を象徴するものとされた。これは、環状の姿は内側と外側とを生み出し、そこに境界があるととらえたため。また、みずからの身を糧とすることが、世俗的であるとされた。ハンガリーやルーマニアのユニテリアン教会では、教会堂の棟飾りにウロボロスが用いられている。
ヒンドゥー教では、世界は4頭のゾウに支えられており、そのゾウは巨大なリクガメに支えられ、さらにそのリクガメを、みずからの尾をくわえた竜が取り巻いているとされている。
トルテカ文明・アステカ文明では、ケツァルコアトルがみずからの尾を噛んでいる姿で描かれているものがある。






 ぼくのほうから付け加えると、「ウロボロスの蛇」は宇宙そのものの成り立ちおよび構造を解くモデルでもあって、村山斉さんの『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書)の巻頭にも引用されてます。「宇宙という頭が、素粒子という尾を飲み込んでいる。広大な宇宙の果てを見ようと思って追いかけていくと、そこには宇宙が口を開けて待っているというわけです。」
 スタッフはぜったいこの本読んでますよね。




 さて。キリスト教の文脈では、「蛇」はイブをそそのかして知恵の実である林檎を食べさせ、「楽園追放」の原因をつくったものとして忌まれています。唯一不可侵の絶対神を奉じる宗教においては、当の神以外に「原初の根源的な宇宙の力」なんてのを認めるわけにはいかないんですね。
 それで、「蛇」が「禍々しきもの」となり、果ては「悪魔」にまでなってしまう。
 しかし、上記の引用の中にもあった(前にこのブログでも取り上げました)「グノーシス派」では、「蛇=悪魔」は、「人間に知恵を与えたもの」として、むしろ貴ばれました。ゆえにこの派閥は「異端」として厳しい迫害を受けます。




 「蛇=悪魔」は、キリスト教的神話体系において、堕天使ルシファーとも重ね合わされますが、有名な神秘主義者ルドルフ・シュタイナー(1861 文久1 ~ 1925 大正14)は、このルシファーのことを、「悪の二大原理の一つ」と裁断し、「その影響によって人間は能動性と自由意志を獲得したが、同時にそれは悪の契機となった。」と論じています。ほんとうはもっと細かい議論なんですが、ここでは簡単のためにそう要約しておきましょう。








遠目にはやはり十字に見えるようだ。黙示録的なイメージなのだろう




 でも考えてみてください。「絶対者」としての「唯一神」がいて、その下には、ただ唯々諾々とその命じるところに従うだけの「人間たち」がいる、そして他には何もない……という構図だったら、きっと世界は動かぬし、「物語」も動かないのではないでしょうか。そこに「悪魔」が介在してこそ、森羅万象に息が吹き込まれるのではないか……とぼくは思います。




 本作のメインテーマは「イマジネーションの力(=想像力)」なので、すべてがそのキーワード(キーコンセプト)に収斂されますが、言い換えればこれはシュタイナーのいう「能動性と自由意志」でもありましょう。「12星座のプリンセス」たちは宇宙創成のさいにそれを「人間たち(あらゆる知的生命体)」に与えた。しかし、へびつかい座のプリンセスは、それが「歪んだイマジネーション」の源になると、つまりは「憤り」や「悲しみ」や「妬み」、さらには「争い」の源になると言って強く反対し、スターパレスを去ったわけです(あけすけに言ってしまうと、ぼくにはこの方が「まるっきり間違っている」とは思えません)。




 ここが面白いんですね。蛇遣い姫は一見すると紛うことなき「悪魔」に見えますが、じつは人間たちから「想像力≒能動性≒自由意志」を奪い、あまつさえ他の12柱を滅し、ひいては宇宙そのものを虚無に呑ませて破壊し尽し、何もかもをゼロから創り直そうとしている。つまりは、「唯一神」になろうとしているわけです。
 本当に面白い。「現代サブカルの粋を集めて神話を語り直した」ものとして、ぼくにとっては忘れがたい作品となりました。この段階でもう「自分にとってのプリキュアシリーズ最高傑作」に認定したいほどですが、ここはいったん落ち着いて、次週の放映を待ちたいと思います。