ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

雑談・プリキュアの系譜をたどって歌舞伎に至る。

2021-02-26 | 歴史・文化
 前回は話が逸れてふくらんじゃいましたね。いや、歌舞伎の話をしたかったんだ。といって、いちども劇場(こや)に出向いたことはないんで、本の上での知識をもとにごちゃごちゃやるだけですけども……。
 「プリキュアは歌舞伎だ!」てぇことを、このブログでも再三いってるんですよね。それぞれに名乗りを上げて見得を切る(ポーズを決める)とこだの、カラフルで豪奢なコスチュームだの、勧善懲悪のフォーマットだの、見るからにそうでしょ? 児童向けの作品だからこそ、構造てきな類似点があらわになってるわけですよ。
 大きな違いは、歌舞伎においては女性はたいてい抑圧されるもんだけど、こっちでは盛大に暴れ回るってところでしょうか。そこは時代の差としか言いようがないが、これもまあ、ベクトルをぐいっと逆方向にしただけのことではあってね。
 サブカルチャーってのは、「知識がいらない」「教養もいらない」「すぐ手の届く所にある」「感情を揺さぶる」といったあたりが身上なんだ。ひとことでいえば、「とにかくオモロイ」ってことね。江戸人はそうやって気軽に歌舞伎を愉しんだわけでしょ。その伝でいえば、劇場(こや)に行かなきゃ観られないうえに、あるていど勉強しないとよくわからないモノホンの歌舞伎よりも、ニチアサにテレビをつければ(もしくはスマホでも)かんたんに見られるプリキュアこそが現代における真の「歌舞伎」じゃないかとさえ思うんだな。
 かといって、あれをつくってるスタッフがみんな歌舞伎の愛好家だってことは(たぶん)ないよね。それはいわゆる「文化的なDNA」なんだ。こう言っちゃうといかにも安直なんで、「文化的なDNA」で片づけないで、もう少しきちんと系譜をたどってみましょうか。
 まず直近の先行者はもちろん「セーラームーン」でしょう。セーラームーンのばあい、ふだんの衣装はわりと簡素だけど、ここぞって時にはドレスアップして装飾が増えるんですよね確か。いやそんな熱心に見たわけじゃないからよく知らないんだけど、いずれにしてもあのセンスは歌舞伎よりむしろ少女歌劇かなあとは思う。歌舞伎と少女歌劇との関係ってのも一考に値するテーマだけど、ただこれは学術論文じゃなく雑談なんで、ざっくり「歌舞伎の系譜」ってことで括っておきます。
 これをさらに遡ると、「ヒロインが(王子様に庇護されるんじゃなく自分で変身して)悪をくじく」という点で「キューティーハニー」であり、いっぽう、「五人そろって口上を述べてから修羅場に臨む」という点で「ゴレンジャー」にはじまる東映戦隊シリーズになる。
 ゴレンジャーはいちおう石ノ森章太郎原作なんですよね。で、キューティーハニーの永井豪は石森プロの出身でしょう。そう思えば、石ノ森章太郎ってひとは手塚さんとはまた別の面から戦後サブカルにものすごく影響を与えてますよね。
 なんといっても、そもそもの原点は仮面ライダーですもんね。石ノ森章太郎は根っからのロマン主義者だから、原作のライダーにはメアリー・シェリー(1797 寛政9~1851 嘉永3/4)のあの名作『フランケンシュタイン』の面影が色濃いんだけど、「特撮ヒーロー」という側面からみれば、その先行者は月光仮面ってことになるでしょう。
 月光仮面のテレビ版第1作は1958(昭和33)年に放送されてて、これは、「ほぼ日本初のフィルム収録によるテレビ映画」とされてるんですよ。「初のフィルム収録によるテレビ映画」が、日本では「特撮ヒーローもの」だったというのは、この国のサブカル史を語るうえでもっと注目されていいと思うんだけどね。なお、この原作者の川内康範というのは相当に面白い方なんで、お時間がおありならばwikiを覗いてご覧になればと思います。
(「月光仮面」が「日本で最初のテレビドラマ」というわけではない。実験的な放送は戦前の1940(昭和15)年に行われている。戦後間もなく、すなわちGHQの占領下には、「向こう三軒両隣」「鐘の鳴る丘」などがあった。連続テレビドラマとして有名なのは探偵ものの「日真名氏飛び出す」(1955 昭和30)だが、これらはいずれも生中継だった。)
 で、「月光仮面」までくれば、もう「鞍馬天狗」までほんの一歩ですね。幕末が舞台の「鞍馬天狗」を、戦後風俗をバックに焼き直したのが月光仮面だといっていい。馬の代わりにオートバイに乗るんだ。プロデューサーの西村俊一という方が川内さんに「鞍馬天狗みたいな企画はどうか」と持ち掛けて、しかし時代劇だと予算が足りないってことで現代劇になった。そのことはwikiの「月光仮面」の項にもちゃんと書かれてますね。
 「鞍馬天狗」は、『天皇の世紀』『パリ燃ゆ』……ちなみに今回芥川賞をとった「推し、燃ゆ」のタイトルはこれのパロディーですが……で知られる大佛次郎の原作だけど、小説よりも嵐寛寿郎、通称アラカンの映画版こそがやっぱり真骨頂でしょう? だけど、あまりにもアラカン天狗のキャラが立ちすぎたもんで、原作者の大佛先生と軋轢を生じちゃった。「あんなのは私の書いた天狗じゃない。」ってね…。このへんも、映画史のみならずサブカル史の面からも興味をそそられる挿話ですが。
 いずれにしても、チャンバラ映画、剣戟活劇ってことになれば、これはまさしく歌舞伎と地つづき、縁つづきですね。映画というメディアはいうまでもなく舶来モノですが、その揺籃期にあって、どうにかこうにか自前の「作品」をつくろうって際に、まず歌舞伎のドラマトゥルギーに頼ったわけ。厳密にいえば「新派」というニュージャンルの介在はあったんだけど、しかし歌舞伎が300年近くにわたって蓄積してきた演劇的伝統ってものが多大な恩恵をもたらしたことは間違いないわけですよ。
 白浪五人男って、ことさら歌舞伎を知らないひとでも耳にしたことがあると思うけど(正確な演題は「青砥稿花紅彩画」)、ずらっと勢揃いして名乗りを上げるところはもとより、正統派の主役・ちょいと斜に構えたクールな二枚目・愛嬌たっぷりの三枚目・すこし青くさい若衆・そして紅一点というように、キャラのフォーマットってものがおおむね仕上がってるわけね。
 これってそのままゴレンジャーですよね、と書きかけて、いや、その前にタツノコプロの「ガッチャマン」があったなといま思いついた。そうだなあ、ゴレンジャーが1975(昭和50)年に始まり、ガッチャマンが1972(昭和47)年だから、こっちのほうが先なのか。この頃にはもう想像力の面でアニメのほうが実写特撮の先を行ってたってことかな。なんにせよ、順序はいくぶん変わるけど、基本的なキャラのフォーマットは一緒でしょ。この点は折々の社会意識の変化を映してその後もずっと変奏されてますよね。
 ここに挙げた作品名はいずれもメルクマール的なもので、とうぜんその間には有名無名の作品が数知れず累々と横たわってるわけだけど、とりあえず、はなはだ大雑把ながら、現代サブカルが戦後になっていきなり発明されたものではなくて、歌舞伎あたりから連綿とつながってることは証明できたんじゃないでしょうか。















雑談・江戸のメインカルチャー

2021-02-25 | 歴史・文化
 ペリー来航による開国は強引すぎたんだよね。それでニッポンは調子が狂って、いろいろと奮闘したんだけども、結局はあの大敗北まで行っちゃった、というところはあるね。もちろん、個別に細かくみていけば反省点は山ほどあるんですけどね。あっちこっちに多大なる迷惑をかけたのも確かだし。
 でも戦争の話ばっかしてると止めどなく暗くなるからね。すこし話頭を転換しましょうか。といっても、ただでさえ春先は調子がわるいんで、引き続き雑談ですけども……。
 いまの日本の原型はやっぱり江戸でしょうね。それで、ぼくは本が好きなんで、江戸のことを思い浮かべるさいも、西鶴とか、馬琴とか、黄表紙とか、「当時の庶民は何を読んでたのかな」という切り口で当時を偲んでたんだけど、考えてみると、当時も今も庶民(町人)にとっての最大の娯楽っていえばきっと書物じゃないですね。
 むろん娯楽そのものが少ないから、木版印刷による出版業も寛政あたり(蔦屋重三郎の頃ね)にはずいぶん盛んになってたようだけど、みんながほんとに夢中になったのは、そういうのよりビジュアルであり、イベントであり、ライブだったと思うんだな。
 ビジュアル&イベント&ライブ。それらをぜんぶ兼ね備えてるのは何か。歌舞伎ですよね。
 正しくいえば、「兼ね備えてる」ってより、「未分化だった」というべきでしょうけどね。いまの目からみればね。記録媒体もなきゃ、上映や放送の設備も存在しないから、その場に足を運ばなければ観られない。現代では、それがかえって贅沢なことになってますけども。
 歌舞伎と、あと人形浄瑠璃かな。これらが江戸期におけるサブカルの雄であったに違いない。
 いまサブカルといったけど、江戸においてはメインカルチャーとサブカルチャーとの差異ってものが厳然と在ったわけですよ。これは現代よりも厳然としていたと思う。それは「身分」ってものがあったからだよね。
 武士は儒学をやる。これは必須の教養ですね。藩によっても違うだろうし、江戸期といっても270年の長きにわたるから、時期によっても違うだろうけど、いやしくも職分をもつ武家ならば、四書五経からはじまって、そうとうに漢籍を読み込んでたのは間違いない。
 武士だけとは限らない。これはもう幕末近くになるけども、大河ドラマの渋沢栄一も、幼時に「三字経」の素読と暗唱をやらされてましたね。渋沢の生家は豪農というか経営者で、だから彼は今でいえば社長の御曹司だけど、べつだんそんな大家でなくとも、そこそこの富農や町人ならば「三字経」や「千字文」くらいの素養はふつうにもってたようですね。だから、「教養」ということでいうならば、下手すればわれわれよりも江戸人のほうが上回ってるわけですよ。それは「メインカルチャー」ってものが社会規範として在ったから。
 そのメインカルチャーを支えるのが「武士」階級だったわけだけど、でも儒学というのはあくまで公(おおやけ)のものだから、個人的な詠嘆とか、心情なんてのを託すわけにはいかない。
 いや、江戸期に「個人」なんてものが存在したのか?って件はいったん脇に置いての話ね。桜の花がはらはらと散るのが切ないとか、そういうレベルの延長にある話です。そんなていどの詠嘆とか心情の表白ならば、万葉の時代からあったわけだから。
 ともあれ、江戸期の武士は、個人的な詠嘆や心情、もっというなら鬱懐や憤懣みたいなものが生まれたら(そんなのは社会人ならば誰にだって必ず生まれるもんですが)それを「漢詩」に託したわけね。とかく江戸の文芸といったら、上にも述べた黄表紙や洒落本、滑稽本みたいな町人文化に目が向くけども、漢詩をはじめとする武士の文芸ってのもあって、こっちがメインカルチャーなんですね、じつは。
 それで、なんで町人サイドの文化にばかり目が行くのかっていうと、「江戸期における町人のエネルギー」ってものを強調したいという歴史家の意図もあるんだろうけど、それ以上にやっぱり、そっちのほうが面白いせいでしょうね。今も昔も、メインカルチャーよりサブカルチャーのほうが面白いに決まってるんだよ。げんに、現代ニホンではほぼ「メインカルチャー」に相当するものは見当たらなくなっちゃったもの。ほとんどぜんぶがサブカルチャー、ないしサブカルですね。それは「格差」はあっても「身分」は(幸いにして、まだ)無いからですね。








戦後民主主義について。21.02.18 雑談・この国の近現代のこと

2021-02-18 | 戦後民主主義/新自由主義

 山本昭宏氏(1984年生)の著書『戦後民主主義』(中公新書)の書評……というか、この本をサカナに思うところを綴っていくかたちでやらせてもらってるわけだけど、「平等」にまつわる話をやって、あと、いわゆる「政治の季節」の学生ってのは今と比べてあきらかに内省的かつ思索的であり、大江健三郎だの高橋和巳だのといった重っ苦しい「純文学」なんぞをまじめに読んでた、そういった空気が一掃されたのもまた70年代末から80年代後半にかけてのプレ~ポスト・バブル期のことで、かくて時代は「軽薄短小」からオウムと阪神淡路大震災、さらに9・11テロやリーマンやフクシマなどのショックを含む「失われた20年」を経て、ついに、カネだけ今だけ自分だけ、ハイテク市場原理万能主義のグローバリズムへとなだれ込んでいった……というぐあいに進めていこうと思ってたわけね。それで1、2回分くらいの記事になるかなと。


 そのあといよいよ、「平和主義」について……戦後民主主義の眼目といったら何てったってこれだからね……じっくり書きましょう、ってことで、そう目算を立ててたわけです。で、予習としてペリー来航~明治維新~日清・日露~15年戦争~太平洋戦争の敗北に至る本邦の近代史をおさらいしてたら、いや、もういけません。完全に気持ちが滅入っちまって、「もうどーでもいいよブログなんかよー。」という気分になって、それでうかうか半月くらい過ぎちゃった。だいたいそんなところであります。


 先の大戦について考えを巡らすと落ち込むんだよね。2015(平成27)年の8月にも「なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。」なんて記事をアップしたんだけども、その後しばらく暗澹としてましたからね。


 だから今回の記事はいつにもまして雑談です。まとまった意見が立てられないんで、雑談ないし漫談ですね。そのつもりでお読み頂ければと思います。


 「なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。」の時は、中公文庫『日本の歴史』の幕末いこうの巻と、小学館文庫の『昭和の歴史』全10巻、これも小学館文庫から出ている田原総一朗『日本の戦争』などを参照させて頂いたんだけど、今回はさらに加藤陽子『それでも、日本人は戦争を選んだ』(新潮文庫)とか、岩波新書の「日本近現代史」のシリーズ、あと中公文庫のロングセラー『失敗の本質』、司馬遼太郎の『昭和という国家』(NHK出版)なども併せてざっと読み返した。


 ことに『昭和という国家』はキツいですね。ご存じのとおり、司馬さんは従軍経験があるので、15年戦争についてはつくづく腹の底に怒りを抱えておられたわけね。いずれ小説を執筆するつもりで膨大な資料・史料を集めながらも、ついに日露戦争のあとの日本を書けなかったのは有名な話。エッセイの端々でふれられるていどなんだけど、断片的ながら、地の裂け目から溶岩が覗いているほどに激越な心情が見受けられますからね。


 『昭和という国家』にしても、これはNHKで1980年代半ばに放映された番組の原稿を再編集したものなんだけど、生前は刊行に難色を示しておられたらしい。それくらい昭和の前期にかんしては屈折した感情を抱いておられた。ひとことでいえば「なぜあのような愚行を?」ということですけどね。


 シベリア出兵も無茶ならば、決着のビジョンも持たないままに対中戦争の泥沼に嵌まり込んでいったのも無茶。それで南方に戦線を延ばすだけ延ばして、あげくがアメリカとの開戦でしょう。こんなの、初めから負けるとわかってるんだもの。これを愚行と呼ばずしてなんと呼ぶ。しかも個別の戦闘においても、戦術レベルで下手ばかり打ってるというね。


 そのあたりを詳述したのが「日本軍の組織論的研究」の副題をもつ『失敗の本質』のほうで、このたび読み返した本の中では、この2冊がやっぱり強烈でしたね。もちろん何度も読んでるんだけど、再読するたびに切実さが増すというか、身に迫ってくるんですよ。書物のうえでの知識だったものが、より身体化されてくる感じでね。あれで無慮310万人の日本人が命を落としたっていうんだから……なんともはや……。


 今回は雑談ないし漫談なんで、きちんとしたことはいえないんだけど、書きとめておきたいことが2つあります。ひとつ。黒船来航~開国から明治~大正~昭和初期に至る「近代化」はやはり相当ムリだったってこと。無理に無理を重ねてのことだったわけだ。それで日露戦争まではどうにかこうにか欧米列強に追随していったんだけど、なまじロシアに勝った(じつはぎりぎりの辛勝……というか引き分けだったわけですが)ために、四海からすっかり警戒されちゃった。それでだんだん孤立していったと。まあ、ものすごく大雑把にいってるんですけども。


 ふたつめ。あれだけの戦争をやっておいて、結局は自分たちの手でそれについての「批判的な検討」を行わなかったこの国の「戦後」の杜撰さですね。いや「反省」はおおいにやったと思うんですよ。「一億総ざんげ」とかいってね。でも「反省」と「批判的な検討」とは違うんですよね。それでいまだに、学校でまともに近代史を教えないっていうね。「軍隊」とか「大日本帝国」についても教えないし、基本的な教養として行きわたってませんよね。それはとても杜撰なことだと思うし、かつての学生運動には、そういった「戦後」のありように対する抗議の意味合いも含まれてたとは思いますけどね。


 ただ、このたびの自分のことを省みて、それも仕方なかったのかなあとも思う。とにかく消耗するんですよ、15年戦争のころのニホンに対して真摯に向き合うとね。だから、「反省」はしつつも「批判的な検討」は棚上げにして、あたかも8月15日を境に歴史が切断されたかのような態度で、GHQによる占領統治が終わったあとも軍事のことをアメリカに委ねて商業および技術革新に専念してエコノミック・アニマルを貫いたのは、正しかったとは思えないけれど、仕方のないことだったのかなあとは思いますね。とりあえず今日はそのへんで。










戦後民主主義について。21.02.03 もう少し、「平等主義」のこと。

2021-02-03 | 戦後民主主義/新自由主義


 世の中には生来高い能力に恵まれていて、なおかつ日々の研鑽も怠らず、激務をものともしない人がたくさんいる。そのような人たちが働きに見合った待遇を受けるのは当然であり、そういう意味では市場原理も競争原理も正しいに決まっているのだが、それはあくまで社会ぜんたいの健全な成長を前提にしての話だ。労働(に伴う価値創造)によって社会ぜんたいの健全な成長に寄与するからこそ、その個人なりその企業なりは立派なのであり、だからこそ高い報酬を得る。
 ここで「社会」といっているものを、「日本という共同体」と言い換えてもいい。
 高度成長期には、そのようなエートスがほとんどの人や企業に共有されていた(エートスの語義については前回の記事を参照されたい)。
 それもまた「戦後民主主義」の美点であり、かつ、山本昭宏さんの本で指摘されていない点である。
 こういったエートスが解体されはじめたのもまたバブル期であり、投機的なマネーゲームで目先の利益を追求することが是とされた。メガバンクのほとんどがその風潮に加担し、結果として多大な損失をこうむり、公的資金の投入というかたちで社会に迷惑をかけた。
 資金の循環は資本主義経済にとって不可欠なわけで、投機が活発になること自体は多とすべきだが、それが自己目的化して過熱しすぎれば、歪みや汚濁が生じるのは自明だ。
 あらためて繰り返せば、「日本という共同体」の健全な成長に寄与するからこそ、その個人なりその企業なりの労働は立派なのであり、だからこそ高い報酬を得る。
 その逆ではない。
 高い報酬を得ているから、カネを稼いでいるからその個人なりその企業なりが立派……なわけではぜんぜんまったくないのである。ただたんに理財の才に長けているからといって、それだけで偉いわけではない(できればお友達にはなりたいと思うが)。
 バブル期を境に、この倒錯がまかりとおるようになった。
 そのあげくが、今日における「カネだけ今だけ自分だけ」主義の蔓延である。
 この「カネだけ今だけ自分だけ」主義こそが、戦後民主主義てきな「平等主義」の対極に位置するものだとぼくは考えている。
 「カネだけ今だけ自分だけ」主義が、ネオリベラリズム(新自由主義)およびグローバリズムと親和性が高いのもまた見やすいことだろう。
 ぼくが「平等」にこだわるのは、あまり経済に詳しくない左派のひとたちがよく言うような、社会保障とか再分配といった社会主義てきな思想に根差すものではないのである。
 先進国中、一貫して文化・教育予算が最低レベルに留まっていることからもわかるとおり、カネや公的サービスの使い方にかんして、この国の行政には明らかに偏りがある。
 もっと適切な運用方法があるはずだ。ずっとそう思っている。
 「日本という共同体」をより豊かにし、国際社会の中でより責任ある地位を占めうるような運用方法が別にある。しかも現状からはかなり離れた場所にある。そのような不満がずっとある。
 最適解はまだまだ別のところにあるはずだ。それを求めての模索は続けられるべきだろう。
 そして、それを模索するうえで根幹に置かれるべきものこそ、「日本という共同体」の全域を愛情をこめて隈なく眼差しの先にとらえる姿勢、すなわち「カネだけ今だけ自分だけ」主義の対極としての「平等主義」の姿だと思うわけである。







戦後民主主義について。21.02.02 平等主義の死滅

2021-02-02 | 戦後民主主義/新自由主義

 『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』(中公新書)の著者である山本昭宏氏は、巻末の略歴によれば1984(昭和59)年生まれとのことで、かなり若い。今は大学の准教授とのこと。いかに早熟であっても、知的な営為に目覚めはじめたのは90年代の半ばだろうから、内容の大半が資料や文献から得た知識のはずだが、あたかも同時代を生きた記録者のごとき書きぶりで、「講釈師、見てきたような嘘をつき」という古川柳を意地悪くも思い浮かべたりもしてしまうんだけど、とはいえ、けっこう年長のぼくなどから見ても、さほど違和感をおぼえるところはないのである。戦後政治・戦後社会史のコンパクトな要約にもなっている。
 ほんとなら、こういうものはぼくなんかの世代が書いとかなければいけない。ぼくが書いてもよかったんだけど、残念ながら大学に勤めていないので、大量の書籍や資料にアクセスできない。ほとんどそれだけが理由である。べつに能力の問題ではない。まとまった論考を構築するに足るだけの文献や資料を自由に参照できないために、どうしても断片的で浅薄な思考を書き付けることしかできないのだ。もどかしいけどしょうがない。
 好きな本を思うように買えないというのは、これはもう、家に一冊の本もない(父親がどっかで拾ってきた週刊誌くらいしかない。文藝春秋みたいな総合月刊誌すらなかった)貧乏かつ無教養な家庭に育ち、昼食費だと母親にいって貰った小銭を文庫に費やして毎日腹を空かせていた高校生の頃からずっと抱え続けている問題であって、この齢になっても解決できていないのはまったくもって遺憾なのだが、この先もとくにまとまった金を稼げるあてもなく、生活を支えていくのがやっとだから、たぶん遺憾だ遺憾だと言いながら最期の時を迎えるのであろう。遺憾だ遺憾だと言いながら中国にどんどん蚕食されていくニホンの政府みたいなもんである。
 さて。上に述べたのはざっくりいって「平等主義」にかかわることだ。生まれ落ちた家庭の生活水準や教養の多寡はかなりの高率で子どもの人生を左右する。その事実を直視して疑問を投げかけるのが平等主義の理念である。それって不公平じゃないんですか、と。
 前回述べた「3本柱」には入っていないが、戦後民主主義は暗黙のうちにこの平等主義を内包していた。そのことは山本氏も本の中に書いている。ただ、やはり時代の空気にリアルにふれていない弱みは隠せず、平等主義の話を80年代(バブル期)の「大衆消費社会」の到来だけで片付けてしまっている。
 この本はよくできているけれど、やはり著者の若さに由来するその手の杓子定規がそこここに見受けられるので、こうやって気づいたところは補足しておきたい。
 平等主義ってのはそれだけではないのだ。消費社会うんぬんの話だけで済むものではない。60年代の学生運動の季節においては、学生同士の「連帯」のなかで、「比較てき裕福な家の子弟が、貧困階層出身の学友に負い目を覚える。」というエートスがちゃんとあったのである。
 エートスとは、「社会生活において培われた心のありかた」みたいな意味で、ここでは「心性」とか「倫理的な姿勢」くらいに取っていただければよい。
 そのエートスはマルクス主義に関わるものではあるけれど、イデオロギーというほど確たるものではなく、じっさい「戦後民主主義的なるもの」というよりない。
 いわゆる学生運動そのものは、あまりにもラディカルで、観念的でありすぎたために、体制にさしたる影響を与えることはできず、空疎なものに終わってしまったけれど、ただ、「連帯の中で、比較てき裕福な家の子弟が、貧困階層出身の学友に負い目を覚える。」というエートスだけは、とても崇高なものであったとぼくは思っている。
 このようなエートスは、たんに学生間にとどまらず、ニホンという国ぜんたいに、「生活の場を同じくする共同体」という感性がいきわたっていた証でもあるからだ。
 そのようなエートスの余映(よえい)を作品のかたちで定着してみせたのが、村上春樹がブレイク前に発表した2本の秀作『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』である。「僕」と「鼠」とはそれによって結びついている。
 そんなエートスが急速に解体されていったのがバブル期で、だから80年代とはじつは、消費社会の狂乱の宴のなかで、「戦後民主主義」がもっていた草の根レベルの「平等主義の理念」が死滅していった時期でもあるのだ。
(今日では、東大生の大半が、「貧困は自己責任。」と考えているそうだ。むろん、その東大生たちはほとんどが社会的地位の高い、裕福な家庭で生まれ育ったわけである。だから社会の構造が視えないし、視ようともしていないわけだ。)
 かくて80年代バブルがはじけて「失われた10年」が過ぎ、竹中=小泉によって新自由主義(ネオリベ/グローバリズム)がもたらされ、「カネで買えないものはない。」と嘯く変なのが出てきて、「勝ち組」「負け組」なる身も蓋もない用語が定着し、隅々までネットが張り巡らされ、ごまかしようのない格差社会の確立の果てに、われわれは幸福なんだか不幸なんだかよくわからない令和の御代を生きているわけである。