この「相良油田」が発表されたのは1965(昭和40)年、同人誌「青銅時代」誌上となっている。発表年次と執筆時期とは必ずしも合致しないにせよ、いずれにしても戦後20年近くを経て書かれたのは確かだ。いわゆる昭和ヒトケタに属する作家が敗戦ののちに「民主憲法」のもとで自己形成を果たし、青年や壮年になってから、かつて少年だった自分たちをモデルにフィクションをつくった例としては、みんな知ってる野坂昭如の「火垂るの墓」はもちろん、「飼育」や「芽むしり 仔撃ち」をはじめとする大江健三郎の初期のショッキングな中短編がある。
ほかにも開高健、古井由吉、井上ひさしなど、枚挙に暇はないけれど、さらにいえば、およそ小説を書く人間で、その試みに手を染めなかったひとはほぼ皆無であろう。戦前および戦中の軍国教育と、敗戦後の民主教育とは180度違う。まさにコペルニクス的転換であって、うちのお父っつぁんみたいな一般ピープルならばいざ知らず、いやしくも作家と名乗るほどの者ならば、その転換に底知れぬ衝撃を受け、それを自らの問題として生涯抱え込まざるを得なかったはずだし、当然ながら創作という形でその問題と格闘せずにはいられなかったはずである。
小川国夫は昭和2年生まれで、昭和10年生まれの大江さんより大正14年生まれの三島由紀夫に近いんだけど、その文体はこの両者と違ってとにかく淡白なのである。前回の記事でもしつこく強調したとおり、憧れの君「上林先生」の彼氏が海軍士官であることは、浩にとってじつに大変なことなのだが、小川さんはいちいちそんなことを書き込まないので、今どきの若者には(今どきの若者がこの短編を読むとしての話だが)よく伝わらないんじゃないかと思う。けれど、耳目をそばだてさせるような派手さは見受けられないにせよ、やはり小川国夫は小川さんなりのやり方で、戦争という主題に向き合っているのである。
理科の時間に、彼女から、日本の石油の産地を聞かれた時、浩は、新潟県と秋田県、樺太(からふと)の東海岸、と答えることが出来た。
それから、
――御前崎にも油田があります、とつけ加えた。
上林先生は例の生まじめな表情になって、一瞬黙った。彼は、微かにだったが、疑われた感じがして、躍起になっていい張りたかった。しかし、口が銹(さ)びついたようで、言葉が出なかった。
――御前崎に……そう、先生は知らなかったけど、調べてみますね、と彼女はいった。
冒頭からの流れで、浩と上林先生との作中における最初のやり取りがこのように描かれる。冒頭の授業風景と同じ日のことかどうかは分からない。あるいは別の日かも知れぬ。つまり時間の推移があいまいで、ここでも小川マジックが発動しているわけだが、小説の進み行きとしては至ってスムースで、なんら不自然さはない。授業のあと浩は「調べてみますね」という先生のことばにこだわり、(生徒のいうことをないがしろにしない責任感とも取れるが、にわかには信じがたいとする蔑視のあらわれとも思える。先生には親しくされるのを拒むようなところがある……)などと、うじうじと思いを巡らす。
文章が簡潔なのでさらっと読んでしまいがちだけど、小川国夫の作中人物はみんな内向的で、ナイーブで、頭のなかはいつも相当ねちっこい。高校時代のぼくにとってはそこがたまらぬ魅力であった。太宰ふうの饒舌体で書けば随分な分量になるはずのその内面描写を、ひとことでバシッと決めてしまうところがカッコいいのである。青年になった浩を描いた「アポロンの島」や「青銅時代」でも、たとえば「浩は空虚なことを言ったと思った。そして、空虚なことを言うのにも慣れねばならないと思った。」とか「笑った自分が単純で滑稽な気がした。しかし、少なくとも今夜は、自分はこうより他に在り方はなかった、と思った。」とか、鮮やかなフレーズが随所に散りばめられてるのだ。
「相良油田」に戻ろう。(あの時僕に親しげなものいいをされたように、彼女は感じたのか、僕はそんな気はなかったのに……)などと、浩の屈託はさらに続く。どうでもいいが、教師を「彼女」などという代名詞で呼ぶこと自体が小学生として(それも戦時中のだぜ)相当ませてるんじゃないかと思う。さらに浩は、そもそも本当に御前崎に油田があるのかどうか、そこが不安になってくる。「(……)たしかに聞いた気がした。しかし、だれに、いつ、どこで聞いたかもおぼえていないことだった。」
「彼は、父親の経営している事務所へ行き、年配の従業員に、そのことを尋ねて見た。四、五人に尋ねたが、だれも知らないと答えた。彼には、たしかだと思っていたことが、段々曖昧になり、やがて事実無根になっていく気がした。物陰になにかがいたような気がしたので、それを請け合ったが、調べて見たら、なにもいなかった、というのに似ていた。彼の耳に、調べて見ますね、という彼女の言葉が聞えていた。」
テレビもインターネットもない時代だし、戦時下のこととて文献なども乏しいのだろう。それより何より、やはり戦争中はとかく世相が騒然として、いろいろなことが混沌としていたんだろうと思う。小川さんには「人隠し」という短編があって、講談社文庫『海からの光』に収録されている。ここでは中学生になった浩が、顔なじみの女学生を探して回るが、だれに訊いても要領を得ず、結局は死んでいたと知らされる。怪しい先輩は軍事教練中の事故死と言い張るのだが、なんとなく、その男が手にかけたのではないかと疑われる節もある。しかし実際のところは分からない。カフカ的、と呼びたいような不気味な話である。そこまで怖くはないものの、「相良油田」にも薄気味のわるいところはあるのだ。小説はここから、長々と夢の話を繰り広げるのだが、その夢が、ちょっと「ねじ式」ふうの気味悪さなのである。
その⑤につづく。
そもそも政令指定都市という、望んでも簡単には得られぬ恩恵をこうむっていながら、自らの手でそれを廃止しようとする住民がこの地球上に存在するってことが何よりも私には興味ぶかかった。やはり大阪は愉快な街だ。筒井康隆や中島らもや町田康を生んだだけのことはある。いっそのこと、次はチャイナの共産党様にお願いして特別自治区に繰り入れてもらうってのはどうであろうか。
下らない冗談は置いて、もう少し真面目に話をしよう。そもそも明治維新ってのはそんなにも賞賛すべきもんなのかい? ということを近頃よく考える。今やっている大河もそうだろうけど、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を頂点とする幕末志士のヒーロー視がこの国にはすっかり定着している。あの偏屈おやじの「世に倦む日日」ですら、「明治維新」への心酔ぶりでは人後に落ちない。それどころか、その話題となると、いつも以上にコーフンして熱い礼賛を書きまくる。でもほんとにそれは正しいんですかと。
あれはフランス革命的な意味での「市民革命」からは程遠く、ありていに言って「地方における有力諸藩の下級武士=不満分子によるクーデター」であろう。本当ならば、当初の計画どおり、「幕府(徳川家)および薩長など有力諸藩の藩主たちによる合議制」へとなだらかに移行するのがベストだったのだ。もちろんトップだけでは細かい作業はできないから、幕閣に加えて、各藩の優秀なブレーンたちがそれを補佐するわけである。たぶん竜馬が思い描いていたのもそんな体制であったと思う。
ところが実際には、あんなぐあいに武力によってむりやり倒幕してしまった。だからたくさん血も流れた。それ以上に問題だったのは、幕府サイドからの反動や他からの叛乱を抑えるべく、「天皇」に絶対の権威を付与しなければならなかったことだ。その絶対権力(統帥権)が、昭和に入ると軍部によって一人歩きを始めてしまう。そのあげくが約60年後のあの大戦(足かけ十五年にわたる戦争)であり、国の内外における無慮数百万の死者なのである。
西欧的な意味での「民主化」が敗戦によって初めてもたらされたのだとすれば、そのために払わねばならなかった代償ってものは、何というかもう、ほとんど想像を絶するくらい、あまりにも途方もなく無茶苦茶に大きすぎたといわざるをえない。それもこれも、遠因は「明治維新」の性質そのものにあったと私は思うわけである。
つまり、性急な改革なるものは当面の混乱を招くばかりか、さらに将来にわたっても取り返しのつかぬ禍根を残す、と私はここで言いたいわけだ。その点において私はまったく保守派であり、変革はゆるやかであればあるほど良いと考える人間である。日常の暮らしを大切にして、日々の業務をひとつずつ着実にこなしつつ、どうしても必要な所だけじわじわと改善していくのが望ましい。
現に、圧倒的多数のひとびとはそうやって毎日を送っているわけで、だからこそ世の中はこうして回ってるのである。絵に画いた餅という言葉もある。いかに立派に見えたとしても、遠大すぎる計画には往々にして中身が伴っていないことがある。このたびの「都構想」、より実情に即していえば、「大阪市廃止・5分割構想」に「賛成」の票を投じた人たちのうち、その真底を見極めていたひとはどれだけいらっしゃったのか、私は今も疑問に思っている。
以上、にわか勉強のうえでの無責任な私見にすぎないが、本題に入る前にどうしてもひとこと述べておきたかった。さてさて。またしてもあいだが空いてしまったが、小川国夫「相良油田」の続きである。これだけ空いたら前回どこまでやったか覚えてない方が多かろう。わしも覚えとらん。だいたいこのブログを引き続き読んで下さっている人はいるんだろうか。まあいいや、書いて置いときゃいつかは誰か読むだろう。
「相良油田」は三角関係の小説である。まあ、恋愛小説ってものは(ひいては恋愛というものは)根底に必ずや三角関係を潜めているわけで、もっというなら人間と人間との関係性そのものが元来そういうふうに成り立っている(つまり、純然に一対一ということはありえず、つねにそれ以外の存在からの影響をこうむらざるにはいられない)ものなのである。つまりはそれが「社会性」ってやつだろう。
「相良油田」に出てくる小学生の「浩」は、若くてきれいな女性教師「上林先生」に幼い思慕を抱いている。うわさのなかでの上林先生の彼氏、すなわち浩の三角関係の相手は海軍の士官である。士官ってのは将校ないし将校に相当する位だから相当偉い。このひとは作品内にじっさいには登場しないので名前も容姿も年齢もわからないけれど、それにしても、幾つなんだか知らないが、そんな偉いひとがまだ小娘みたいな一介の小学校教諭と本気で交際するもんだろうか。
ドラマや映画なんかでは、人気若手男優の演じる凛々しい士官が人気若手女優演じる幼馴染の清楚な美少女と清らかな交際をしている設定ってのはよくあって、ぼくらも見慣れているのだが、現実にそういう事例が頻繁にあったとは私にはどうも思えないのである。この「噂」は「高等科の生徒から伝わってきた」ものなので、信憑性は低くはなかろうが、しかしその海軍士官の存在自体が生徒らのあいだでの「共同幻想」という可能性もないわけではない。ただ、その詮索はさほど重要なことではない。ポイントは、浩がその「海軍士官」を(実在か非在かに関わらず)「恋のライバル」だと無意識のうちに見なしていることだ。
この短編の舞台となっている戦時中、より正確にいうなら太平洋戦争開始前夜における「海軍士官」といったら、まさにエリートの中のエリートであり、スターであり偶像であり、軍国少年や婦女子らの憧れの的であったはずである。浩にとっても本来ならば仰ぎ見るような対象であるはずだ。小川国夫は純文学作家のなかでもとりわけ言葉を惜しむというか、削ぎ落としていくタイプのひとだから、作中には明示的な形では書かれていないが、「三角関係」の相手が海軍士官というのは、浩にとっては途轍もなく大きなことである。ただの勤め人やなんかとはわけが違う。「社会性」の点でいうならば、この時代、軍人くらい莫大かつ複雑かつ錯綜した「社会性」を担っていた職業はほかにないからだ。
その④につづく。