ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

digとのギグ02。22.12.02 「私の政治的立場」

2022-12-02 | 哲学/思想/社会学
ギグ(gig)とは、ミュージシャンによる単発の演奏や小規模な演奏を指す英語のスラング。








dig  ラディカリスト。歯に衣着せないタイプ。




e-minor 当ブログ管理人eminusの関係者。ヒト科に属するエイプ。




☆☆☆☆☆☆☆




 ヘイ。digだぜ。




 どうも、e-minorです。




 予選1位通過おめでとう!




 えっ。…………ああ、サッカーの話ね。ワールドカップやってんだっけ、いま。……びっくりしたよ、ぼくがなんか予選通過したのかと思った。




 あいかわらずオメーはスポーツに関心ねえなあ。




 いや競技そのものには興味なくても、教養として或るていど知っときたいとは思ってるけど、いかんせん他のことに時間を取られちゃって……。




 将棋とか(笑)。




 うん、まあ、そう、将棋とかね。やっぱ自分に心得がないと、醍醐味がわかんないじゃん。ああいう社会的っていうか、集団でやる競技はぜったい駄目だかんね、オレ。チームプレイができないもの。見てて楽しめるのはテニスくらいかなあ。




 でもサッカーは将棋に似てるだろ?




 いやそれは、いわば個々の選手の役割分担や連携を駒の動きに見立てたらってことでしょ。なんというかこう、上から鳥瞰した視点でさ……。そういう見方をするためには、ルールはもとより、基本的な戦術やスタイルなんかを弁えとかなきゃいかんけど、からっきしだからね、そこが。……テニスだと、一対一だから、自分自身を対局者……じゃないか、プレイヤーそのものと同一視できるから、わりと入りやすいわけ。




 なんによらず、最初みっちり勉強してから観戦を始める奴なんて滅多におらんよ。ふつうは見ててしぜんに覚えんだよ。




 ……だろうね。だからやっぱり、根っから興味がわかないんだな。




 1位通過はめでたいけど、こないだの五輪でスポーツビジネスの汚さをイヤってくらいに見せつけられて、その不正の捜査がやっと緒についたばかりだし、しかもこの状況下で札幌五輪がどうのとかと言ってる連中がいるし、いやそれよりも、こういった国民的イベントの裏に隠れておっそろしい法改正が着々と進められてるし、眼前の値上げラッシュにもまったく歯止めはかからんし、それどころか、アホがまた増税だのと言い出してるし、内情を顧みれば、そりゃ、浮かれてる場合じゃねえよなあってのも確かだ。お前さんくらい超然と構えてるのが正解かもしれん。




 偏屈を気取るつもりはないけど、わからないんだから、同調はできないなあ……。ひとが喜んでるものに水を差す気はないけどね。




 だがな、サッカー、ラグビー、テニス、ゴルフ……こんにちの近代スポーツ発祥の地は産業革命期のイギリスだ。さっき教養がどうのと言ってたけど、じっさい、競技スポーツのことを知らずに「近代」ってものは把握できんよ。今度またレクチャーしてやるよ。




 お願いするよ。……で、この話題と繋がるかどうかはわからないけど、今回のサブタイトルは「私の政治的立場」だね。




 ……これ、前にやった話と繋がってんだよな。
digとのギグ01。22.11.23 「政治哲学」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/679d795e9be11568683a2d2a1245df16





 そうだね。一連の流れで……。




 事前にネットをざっと漁ったんだが、おれ自身の心情に近いものとして、橘玲(たちばな・あきら)氏によるこの文章が、いちばんうまく纏まってたな。以下、冒頭部分を引用させて頂くと……。


橘玲 公式ブログ
「リベラル」が嫌いなリベラリストへ
2016年5月25日








「最初に断っておきますが、私の政治的立場はリベラリズム(自由主義)です。


故郷に誇りと愛着と持つという意味での愛郷心はありますが、国(ネイション)を自分のアイデンティティと重ねる愛国主義(ナショナリズム)はまったく肌に合わず、国家(ステイト)は個人が幸福になるための「道具」だと考えています。


神や超越的なもの(スピリチュアル)ではなくダーウィンの進化論を信じ、統計学やゲーム理論、脳科学などの“新しい知”と科学技術によって効率的で衡平(公平)な社会をつくっていけばいいと考える世俗的な進歩主義者でもあります。


自由や平等、人権を「人類の普遍的な価値」とする近代の啓蒙思想を受け入れ、文化や伝統は尊重しますが、それが個人の自由な選択を制限するなら躊躇なく捨て去るべきだとの立場ですから、最近では「共同体主義者(コミュニタリアン)」と呼ばれるようになった保守派のひとたちとも意見は合わないでしょう。


しかしそれ以上に折り合えないのは、日本の社会で「リベラル」を名乗るひとたちです。なぜなら彼らは、リベラリズムを歪曲し、リベラル(自由主義者)を僭称しているからです。
(以下略)」
 ……と、まあ、こんな感じだな。




 ……なるほどね。




 でもこれ、記事の中で橘氏ははっきり書いてないんだが……




 リバタリアンだよね。




 リバタリアンだよな。




 だから、今のニッポンに行きわたってる「リベラル」という用語(概念)は歪められたもので、本来の「リベラリスト」ってのは「何よりも自由を大切にするひと」の意であると、そう仰ってるわけだよね。




 「平等」じゃなく、「自由」をな。




 自由のほうね。自由主義。なにしろliberalismなんだから。




 そこを強調するために、ここではあえてリバタリアンという用語を使わず、「リベラリズム(自由主義)」って書き方で通してるんだろうな。たしかに、慣用としては今やすっかり「リベラル」という用語は「平和を愛する物分かりの良い平等主義者」くらいの含意になってる。きっとアメリカを真似たんだろう。でも、だからこそ本家のアメリカでは、明確に区別するために、「リバタリアン」という用語が作られたわけで……。




 その用語は10年以上まえにサンデルさんによって日本にも紹介されたはずなんだけど、いっこうに定着しなかったね。ネット見てると、「リベラル」ってのはイコール「サヨク」で、しかもそれが同時に「反自民」であったり「反日」になったり……




 それはこの国独特だな。アメリカなら、「リベラル」は「共和党ぎらい」ではあっても、「反米主義」とは言われんよ。




 日本でも、けしてリベラルすなわち「反日」ってことはないし、そもそも「反日」という用語じたいがファッショ的で気持ちわるいんだけど、それがすっかり行きわたっちゃって……




 かつては現職の総理が使ってたくらいだからなあ。




 ……まあ、亡くなった人を直接どうこういうのは控えたいけど、ああいうところは慎みを欠いていたとは思う。




 はっきりいうと、戦後ニッポンはアメリカとの軍事同盟のもとで……といえば聞こえはいいが、講和が成立したあとも、まあ事実上の支配下にあって、自民党って政党はそのバックアップでできたわけであり、いまもってそうであるわけよ。それがほぼ一党独裁を続けてきたわけだから、じつは独立国とは言い難いところがあってだな。




 「自民党がアメリカのバックアップでできた」とまで言い切っていいかどうかは、ぼくとしては保留しておくけども、ぼくらがふつうに思ってる以上に、アメリカのコントロールがきついのは事実みたいだ。それは岸信介のお孫さんである安倍元首相が暗殺されたあと色々と調べて得心できた。ここでいう「アメリカ」のことを「国際金融資本」と呼ぶ論客も近ごろは増えてきてるようだけど……。ただ、それでも80年代後半までは政治家も官僚も財界人もそれなりに国益を考えてやっていたと思うんだけど、バブル崩壊以降からだんだん風向きが変わってきて、小泉=竹中政権を経て、今やすっかり「米国ファースト」になっちゃったんだね。こういったことはむろん教科書にも書かれてないし、新聞でもテレビでもやらないっていうか、むしろ隠蔽されてるけど、ここ10年あまりでかなり文献も出てきた。このあたりは別の機会にやりたいけど……




 政治的ポジションの話に戻すか。




 うん。とりあえずそれをやっとこう。いずれにせよ、戦後ニッポンは「平和憲法」のもと、ほぼ自民党の一党独裁が続いてきて、冷戦以降も55年体制を清算できてない……。というか、構造的にできない。digが言わんとしたのはそういうことでしょ?




 だな。




 つまり、ポスト冷戦に対応するニッポン独自のパラダイム(枠組)を創れないわけだよね。それは、「民主党」という政党が、結局は張りぼてみたいにポシャったことからもわかる。いまだに、「反自民」の受け皿となる政党がない。それでネットの議論も、いつまで経っても「ウヨ」「サヨ」の二元論から抜け出せないわけでしょう。




 せめて議論の上だけでも、「リバタリアン(自由重視)」「リベラル(平等重視)」「コンサバティズム(伝統重視≒保守)」「コミュニタリアニズム(共同体重視)」と、4象限くらいには分けたいとこだがな。




 4象限ね。これは数学の授業でやったX軸、Y軸のグラフとして描けて、一方の軸を政治的自由度、もう一方の軸を経済的自由度とすれば、わりと的確に自分のポジションを示せるんだけど、ただし、ぼくなんかけっこう流動するんだなあ……。digはさっきの橘さんと同じで、リバタリアンなんだよね。




 そうなんだけど、橘氏は金持ちでおれはビンボーだから、そう簡単でもないよ。それで前回は「生粋のリバタリアンじゃない。」と言っといたんだが。




 それは大きい(笑)。貧乏なリバタリアンって、つまりはアナーキストじゃないかと思うんだけど(笑)。




 さすがにそこまで過激ではないが。




 とにかく、そう単純に割り切れるもんでもないってことだね。




 だな。そっちはどうなんだ?




 うーん。「ダーウィンの進化論を信じ」とか「自由や平等、人権を『人類の普遍的な価値』とする近代の啓蒙思想を受け入れ」といったところには完全に同意するけれど、いくつか引っかかる箇所はあるね……。そもそも、この橘氏の文章自体が、仔細に見ていくとけっこう穴だらけだし……。




 それは一種のマニュフェストみたいに書いてあるんだから、そう哲学的にごりごり詰めていくもんでもないだろう。




 ぼくのばあい、リバタリアンに共鳴する資質を濃厚に持ちつつも、「コンサバティズム」と「コミュニタリアニズム」との融合というか、折衷みたいな位置なのかなあ。「ニッポン」という「伝統に基づく共同体(コミュニティ)」を信じる貧しくも健気な一市民ってとこかな。




 やっぱり貧しいのか。




 そこはしょうがないね。
 



 いずれにしても、いまの自民党はダメだろ?




 うん。コミュニタリアン的保守派からみても、いまの自民党はダメだ。




 リバタリアンからみてもダメだな。増税、インボイス、マイナンバーカード……。こう規制を押しつけてこられちゃ敵わない。なのに、怒ってるのがほとんど「リベラル」ばかりで、リバタリアン的な立ち位置の者から一向に抗議が聞こえてこない。そこも今のニホンのおかしなところだ。



 そこは、「金持ちケンカせず」ってことじゃない(笑)。



 ちぇっ。それでおれはアナーキスト寄りってことかよ。……まあ、貧乏なリバタリアンから見ても、コミュニタリアン的保守派からみても、いまの自民党はダメなんだけど、ただ、ここで迫り上がってくるのが「憲法九条」および「中国(の軍事大国化)」という問題だわなあ。




 結局はそこなんだね。でも、この話は大きすぎるから……




 またの機会かな。



 またの機会だね。




つづく










digとのギグ01。22.11.23 「政治哲学」

2022-11-23 | 哲学/思想/社会学
ギグ(gig)とは、ミュージシャンによる単発の演奏や小規模な演奏を指す英語のスラング。




dig  ラディカリスト。歯に衣着せないタイプ。




e-minor 当ブログ管理人eminusの関係者。ヒト科に属するエイプ。




☆☆☆☆☆☆☆




 どうもe-minorです。




 ヘイ。digだよ。




 いやいや。「gooブログではやりにくい話をnoteでしようか。」などと語らってから早や3ヶ月。いや4ヶ月近くか。そのかん、noteのほうには「日銀はなぜ金利を上げられないのか。」という半端な記事をたった一本上げたのみ。digとの放談の件も放りっぱなしという……。




 あれを有料記事にしてるってのはいい度胸だな。




 いやすぐに十本くらい上げるつもりだったんだよ。ぜんぶまとめて100円にしようと。それで、念のためにマクロ経済学の基礎を抑えておこうと勉強を始めたら、思いのほか時間を食ってそのまんまだ。




 まあそんなこったろうと思ったよ。もともと当てにしてなかったから心配すんな。




 ぼくのばあい、処理能力が低すぎるんだなあ。毎日ばたばたしているだけで、まとまった仕事がぜんぜんできない。世間には、会社経営の傍ら文明論史的な見地に立った浩瀚な経済論文を書き上げたりする人もいるってのに……。




 そういうのに限って、とうぜん投資も巧いし、プログラムも組めるし、趣味でサックス吹いたりもするんだよな。




 中に5人くらい入ってるんじゃないかと思うね。




 ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann 1903/明治36~1957/昭和32。20世紀科学史における最重要人物の一人。数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・ゲーム理論・気象学・心理学・政治学に影響を与え、原子爆弾やコンピュータの開発への関与でも知られる)なんかは極端な例だとしても、まじめな話、科学的にいって、ほんとに脳のスペックって差があるわけよ。これは先天的な要因もあるし、生まれ育った環境にも因るしな。そもそも、先天的といったって、それは両親とか祖父母ってだけでなく、累代の蓄積ってところもあるからな。




 いま知識人といわれてる人の経歴を調べると、何代か前がなになに藩の儒者だったとか、そういうのわりと多いよね。こっちなんか、父方だろうと母方だろうと、じーちゃんばーちゃんの前の前まで遡ったらどこの誰だかわからない(笑)。こういう話は敬遠されがちなんだけど、じつは「平等とは何か?」とか「自由と平等、どちらを重んじるべきか?」みたいな政治哲学にもふかく関わってくる問題なんだよね。




 ありがちなリバタリアンならば、「優秀な人間が金持ちになるのは当たり前。どうしてそれを税金というかたちで徴収して、能力の低い貧乏人に再分配しなきゃならんのだ? けしからん」っていうんだろうな。




 「いうんだろうな」っていうか、じっさいに言ってる(笑)。いや露骨に口に出しては言ってないかもしれないが、小泉=竹中政権このかた、ニッポンもずっとそのセンでやってるから……。




 いや、おれは生粋のリバタリアンではないけれど、その発想を退けるつもりはないわけよ。優秀な者が才覚を巡らせて資産を増やすのはいいよ、そりゃ。それが市場原理だし、自由主義だもの。経済成長にも繋がるわけだし。しかし日本のばあい、世襲の比重がたぶん他のどの先進国にも増してでかいだろ? だから、「優秀な人間」ってよりも、たんに「既得権益を持ってる連中」が国家の上位クラスを占めてるわけよ。しかも縁故によってがっちがちのネットワークを築いてな。それはおかしいでしょって言いたいわけだ。




 そう。でもこれを言うとサヨク扱いされちゃうんだよね(笑)。




 たしかに「平等」を重んじる左翼サイドの主張と通じるところもあるからな。じっさい、上のほうに偏りすぎた富を再分配して中間層を分厚くせよ……という点では言ってることは同じだろう。ただ、おれのほうは、その目的が「国力を高めるため」というのが違うんだ。




 左サイドは、「国家」という概念を嫌うからね……。「性別にも、年齢にも、持って生まれた能力にも捉われず、国民ひとりひとりが幸せになること。」が理想だというわけでしょう。これだって、ほんとは「国民」じゃなく「市民」と言いたいのかもしれないけれど、行政単位としての「市」にはそこまでやれる権限はないんで(笑)、いちおう「国」の「民」と言っとくしかない……。それで、このばあい、「国民」の所属する「国」というのは「福祉国家」だよね。リバタリアンの大嫌いな。




 福祉国家なら、どうしても税と社会保障費は増える。だけどそれは、本来ならば富裕層とか大企業といった「持てる層」からより多く徴収しなきゃならない。そうでなきゃ再分配にならないからな。でも今は、消費税にせよ社会保障費にせよ、一般庶民からごっそり取って、搾った残り滓を一般庶民に返す……みたいになってるわけだな。これほんとに福祉国家なのか……。結構いまの日本はリバタリアンには理想郷に近いんじゃないかと思うが、富裕層ってのはどこまでいっても儲け足りないらしくて、政治家と結託して、まだまだ負担を減らせという……。




 減らせって、そもそも税金まともに払ってんのかね(笑)。還流されてんじゃないの、むしろ。




 そこなんだよな。だいたい、結託っていうか、ほぼ政治家≒富裕層だし。




 話をもっと観念的っていうか、原理的なほうに戻すけど、ぼくは昨年の五輪の時からツイッターをよく見るようになって、引用だけで記事を作らせてもらったりしてるでしょ。で、個別のツイートはそれぞれに面白かったり、勉強になったりするんだけども、突き詰めていくと、結局はそこいら辺りでぐるぐる廻っちゃうんだよね。




 経済政策の話ってことか?




 うん、あと、やはり政治哲学の話ね。




 原理論でいえば、それはジョン・ロールズの『正義論』(紀伊國屋書店)のなかでほぼ論じ尽くされてるわけよ。原著の刊行は1971(昭和46)年。現行の邦訳版は8250円と、目を剥くような値段だが、図書館を利用するなりして、できるだけ多くの人に読んでほしい本だな。というのも、いまこの国では、「正義」という概念というか理念がひどく相対化されてるから……。




 それね。前にブログで引用したけど、どこかのマンガ家のツイートで、
「常々言ってるけど、21世紀は「人権」とか「自由」とか「平等」「正義」といった、一見人間にとって口当たりよく素晴らしいもののように思える概念との戦いの世紀になると思うんだよね。
大切にすべきは「現実」なんだよ。理念じゃない。」
 というのがあったっていうんだな。べつにそのマンガ家さんのことはどうでもよくて、このツイートが「いまどきの気分」をよく表してると思ったから引いたんだけど、「正義なんてものはない。あるのはただこの容赦ない目の前の現実だけ、力関係だけだ。」ってわけでしょう。




 「世間知を備えた大人のつもりでじつは中2でございます。」の典型だなあ。




 でもほんと、これが今のこの国の気分であり、空気なんだよね。そこそこのフォロワー集めてるアカウント覗いたら、大体どれも、手を変え品を変え、おおむねこんなニュアンスのこと言ってるよ。冷笑系とか……。ってことは、若い世代ほどこういう言説に洗脳されて、いよいよ現状肯定に染まっていくわけでしょ。




 なんであろうと基本はとにかく現状追認。寄らば大樹の陰。長いものには巻かれよ。ツイッターといやあハイテクな感じだが、結局のところ、江戸時代……ひょっとしたらそれ以前から脈々と続く、体制VSニッポン臣民の関係性ではあるわな。




 前近代のムラ社会が解体されたのち、今や、日々膨大に行きかうツイートによって、新しくも旧態依然たる「ニッポン村」のしきたりが改めて醸成されつつある……ということかね(笑)。




 だからこそ、社会を成立せしめる根本原理としての「正義」をきっちり捉えなおすために、『正義論』を読むべきなんだよ。




 まあ値段相応に分厚いし、たとえばハイデガーなんかに比べればずっと読みやすいとはいえ、やはり哲学書なんだから歯ごたえはあるし、そこそこ余裕がなければ大変かもね。せめてその簡易版っていうか、ポップ版というべきサンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』(ハヤカワ文庫)だけでも、基礎教養として共有の基盤になってりゃいいんだけども、あれもいっときの知的ゲームみたいに消費されちゃって……。




 「ハーバード白熱講義」がNHKで放映されたのが2010(平成22)年か……。どうも定着せんのよなあ、その手の、なんというか、文化的基盤っていうか、土壌みたいなもんが。




 しかしロールズの『正義論』があって、それへのカウンターとしてノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』が出て、あと経済学畑ではハイエクの『隷従への道―全体主義と自由』(「隷属への道」という邦訳も)があり、さらに竹中平蔵の信奉するミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』があって、それが今のニッポンを含んだ世界の思潮を支配しちまってるわけだから、これらを踏まえずにツイッターで政治上の議論をやったって、本当はそれは、べつだんウヨクでもサヨクでもなくて、ただ赤と白の陣営にわかれて、雪合戦やってるようなもんなんだよね。








 うん。どう見ても踏まえてないよなあ。変なお笑いウヨ芸人はもちろん、いわゆる冷笑系のIT実業(虚業?)家にせよ、自称国際政治学者にせよ、テレビタレントが本職らしき「社会学者」にせよ、古参の脳科学者にせよ、まず『正義論』は踏まえてないよ。さすがにサンデルくらいはざっと目を通してるかもしれんが。


 だよね。でもさ、じゃあもう一方の陣営がノージックなんかをきっちり読み込んでるかっていうと……。


 まあ、そこも怪しいかもな。



 だから、互いが互いの主張を叫ぶだけでしょ。それで実りある熟議ができるわきゃないって思うんだよね……。





つづく

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参考資料①。「防衛費増額のために増税を。あ、もちろん富裕層とか大企業じゃなく庶民からね!」を内閣府に「提言」したという「有識者会議」とやらのメンバーだそうです。


☆☆☆☆☆☆☆
参考資料➁

【太田光「正義は人の数だけあるから、何が正しいなんて誰にも言えないんだよ」】





加害と被害の非対称性を相対化し、価値判断を放棄して、力の強い者の横暴を事実上免責する「どっちもどっち論」の典型例。
主観的な「正義」と社会における「公正」をわざと混同する詭弁術。



「正義」なくしてどうして「信頼」が生まれようか。政治家、官僚、財界、労働界、マスコミ、学界、専門家、言論人、教育者、公務員、そして最後の砦である司法からも「信頼」が消えていく。「正義」を冷笑してきた社会の当然の帰結である。



私も同感です。「正義」という言葉を聴くと反射的に、哲学を極めたわけでもない人が、気楽に「この世に絶対の正義などない」などと冷笑的な価値相対化の極論に走って思考を停止する。
何が正しいかという確信がなければ、進む方向も定まらない。結果として強い者に従うだけ。



eminus 政治哲学をきちんとやったことのないタレントはニュース系の番組で司会をしたりコメントを述べてはいけない、という規則を作るべきではないか。


≪感情工学≫ ……マーク・フィッシャーのブログ記事(2004.08.03)の試訳

2022-11-06 | 哲学/思想/社会学
資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい。
──マーク・フィッシャー





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 マーク・フィッシャー(Mark Fisher 1968~2017)はイギリスの批評家。「k-punk」というブログで知られる。以前にも、Burialの記事で少しだけふれた。ご本人はすでに故人だが、「k-punk」はそのままずっと公開中である(バックが黒で、テキストは白抜きのタイプ文字、しかも、あちこちに妙なコラージュっぽい画像が貼ってあるので、初めて開いた時にはギョッとさせられたが)。
 本日は、その過去記事の中からスピノザについて書かれたものの一つを試訳。べつにさしたる意味はない。というか、自分でもなぜこんなことをしたくなったのかわからない(それこそスピノザ的分析が必要かもしれない)。あえていうなら、現下の日本の政治状況がどうにもバカバカしいので、ちょっと気分を変えたかった。そんなとこかな。ではどうぞ。












☆☆☆☆☆☆☆


 スピノザは哲学者の中の皇子であり、ぼくたちに必要なただひとりの哲学者だ。




 彼は、のちにマルクス思想の第一原理となる、「重要なのは、世界を解釈することではなく、世界を変えることだ。」を当然のものと見なしていた。不合理な行動の根底にある動機を体系的に解明するという彼のプロジェクトは、事実上、300年早い精神分析であった。フロイトはスピノザへの謝辞をほとんど残していないが、それでも書簡の中でスピノザの枠組にとても世話になったと認めている。ラカンはより明確に敬意を表し、彼自身の精神分析からの破門を、スピノザがアムステルダムのシナゴーグから追放されたことと比較している。ドゥルーズの思想はスピノザ抜きには考えられない。
(eminus註 シナゴーグとは、ユダヤ教の祈禱・礼拝の場所、会堂のこと。スピノザの思想はラディカルなまでに明晰すぎて無神論者扱いされ、当時のユダヤの共同体から弾き出されたのだった)




 影響はなくても、親和性をもつことはよくある。スピノザを読んだことがあるかどうかはわからないけれど、バロウズは根っからのスピノザ信者といえよう。ルークもそうだ。
(eminus註 バロウズは『裸のランチ』のあのバロウズだが、ルークというのがどこの誰なのかはわからない。元のサイトにはリンクが張ってあるけど、なんせ古いので、ちょっと踏んでみる気になれない)




 フィリップ・K・ディックは作品の中でスピノザにふれているが、ディックがサイバーパンクに遺したヴィジョンは、ドラッグ、ムード、テクノロジーによって刺激されるシミュレーション世界、つまりギブソン流の「シムスティム」の概念であり、一貫してスピノザ的だった。
(eminus註 
①ディック『逆まわりの世界』のなかに、プロティノス、プラトン、ライプニッツ、カントと並んで、スピノザについての言及がある。知覚のテーマはすべてこれら先達の扱った問題の焼き直しだというのだ。しかしそれを言ってしまったら認識論にかかわるSFが全部そうなんだけども。

②「シムスティム」はサイバーパンクの創始者ウィリアム・ギブソンの作中に出てくる造語。他人の知覚・経験・感覚入力を公開したり記録したりする技術。媒体に記録したものを再生して追体験することもできる)




 このエッセイは、土曜日にシボーンとサウスバンクを散歩していたとき、NFTの外の古本屋でアントニオ・ダマシオの“Looking For Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain”(邦訳『情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』ダイヤモンド社)を偶然に見つけたことに端を発している(偶然に本を発見するのは、もちろん、最良のやりかたである)。
(eminus註 シボーンは女性名。たぶんSiobhan Mckeownのこと。サウスバンクは、ロンドンのテムズ川南岸に位置する風光明媚な地区。NFTは「National Film Theatre」という映画館。いまは「BFI Southbank」と改称して、いわゆるシネコンになっているらしい)




 ダマシオのこの本は驚くべき達成だ。スピノザの説いた「身体と心との関係」を、人間の幸福と自由とを増大させるためのプログラムと結びつけて説明するばかりでなく、最新の科学的知識(ダマシオは神経学者だ)を駆使して、スピノザの概念的枠組が最先端の神経生物学にぴったりと当てはまることを立証してもいる。




 アカデミックな哲学教師たちは、スピノザの『エチカ(倫理学)』第5章「人間の知性の力、あるいは人間の自由について」を恥ずべきもののように扱い、ときに嘲弄を込めて「自己啓発マニュアル」などと揶揄する。当たってる。でも、それこそがスピノザの哲学を空疎な思索に終わらせない強さなのだ(スピノザの洞察をポップセラピーの本に手直しすれば大儲けできるんじゃないかとぼくはつねづね考えている)。




 哲学に縁のない読者なら、スピノザが人間の感情をあまりに冷静かつ幾何学的に扱うので胡散くさく思うかもしれない。ふつう心理学では、感情はとても神秘的なもので、一定の程度を超えた分析をするには曖昧かつ不可解すぎると見られているからだ。だがスピノザは、幸福とは「感情工学」の問題であり、学習して実践できる精密な科学だと主張する。




 スピノザは、俗流カント主義やキリスト教の残滓がぼくたちに植え付けた「善」と「悪」の代わりに、「健康」と「病気」という観点から思考するよう促す。すべての生物に適用される「定言的」義務なんて存在しない。なぜなら、何が「善」であり「悪」であるかは、それぞれの主体の利害に関連しているからだ。スピノザは、ある存在に幸福をもたらすものが、別の存在には毒となると明確に述べており、これは一般常識にも適っている。あらゆる実体の第一の、そして最も重要な原動力は、それ自身の存在に固執する意志だとスピノザは言う。スピノザによれば、ある実体が自らの最善の利益に反して行動し、自らを破壊し始めたとき……悲しむべきことに、彼の観察するとおり、人間は絶えずそうしているが……彼(ないし彼女)は外部の力に乗っ取られている。自由で幸福であるためには、これら外部からの侵入者を追い払い(祓い)、理性に従って行動しなければならない。




 身体を乗っ取るエイリアンとか、ウイルスに対するオブセッション(強迫観念)を見るにつけ、バロウズは完全なるスピノザ主義者といえる。バロウズ世界の主人公は、薬物、性欲、妄想など、なんらかへの渇望に縛り付けられた人間……つまり中毒者あるいは依存者であり、外部からの力に奴隷化されている。スピノザは、自分へのコントロールを取り戻すためには理性が不可欠ではあれ、それだけでは十分ではないことを明らかにした。理性は目標を設定できるが、感情は、より強い感情の育成によってのみ克服することができるのだ。




 ダマシオはまず、「心とは身体の観念である」というスピノザの主張を説明し、掘り下げることから始める。彼は「情動」と「感情」(ふたつを総称して「影響」と呼ぶ)とを峻別する。情動が主観に先立つ反応傾向であるのに対し、感情はこれらの反応の意識的な処理なのだ。スピノザの考えに似た区別として、食欲……ある対象への衝動……と欲望……その衝動を意識的に把握すること……がある。ダマシオは、スピノザの描くこの相関図が、驚くべきことに、神経生物学によって裏付けられるのを実証する。心の崇高さは、生物学の崇高さに見合っているというわけだ。




 ダマシオの本は読んでいるだけで楽しいが、ドゥルーズ思想と照らし合わせることで、より有益になると思う。ドゥルーズとガタリがスピノザを「器官なき身体」の偉大な予言者として扱うのに対し、有機体にこだわるダマシオは、致命的にも、たぶんスピノザの「身体」を有機体と同一視している。さらにダマシオは、至福はホメオスタシス(奇妙なことに、彼は「ホメオダイナミクス」という用語を好むと表明したのち、二度とこの用語を使わなかった!)を達成することによって得られると主張しており、プラトーを強調するドゥルーズ=ガタリとは緊張関係にあることになる。
(eminus註
①器官なき身体……
corps sans organes(仏)
 ドゥルーズ=ガタリの基本ワードのひとつ。もちろんwikiにも詳しい記述があるが、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の解説が簡潔なので転載させていただきましょう(一部を改稿)。
「現代フランスの劇作家A.アルトーが作った言葉で、G.ドゥルーズと F.ガタリがアンチ・オイディプスの中で取り上げ、一般に広まった。アルトーは、「身体は身体。器官はいらない。身体はけっして有機体ではない。有機体どもは身体の敵。人のすることは,どんな器官とも協力なしに全くひとりでに起こる」と言っているが、原義をよく伝えている。ドゥルーズらはそれを受け、個々の器官を統一する高次元の有機体、全体を支配する組織体を否定している。一般に、部分を一定の役割に閉じ込めてしまうような統一体が存在するという前提を捨てて、それぞれの部分に多様な組み合わせの可能性を開き、常に流動的で、新たな接合を求めていこうとする考えを表している。」

➁ホメオスタシス……恒常性
 ホメオダイナミクス……これも訳せば「恒常性」になると思うが、「スタシオ」は静的で、「ダイナミクス」は動的。

③プラトー……これもD/Gのキーワードのひとつだが、説明は難しい。とりあえず、日本版wiki「ミル・プラトー(千の高原)」の当該箇所を、一部を改稿・補足のうえで引用してみる。
「高原を意味するフランス語で、この書物の各章を指し、それぞれが複雑な概念で構成された高み(山ではなく、頂が平面であることが、存立平面への比喩も兼ねている)となっていることをあらわす。」
 しかし、これではフィッシャーの言っていることとの繋がりがよくわからない。次に、松岡正剛の千夜千冊 1082夜「アンチ・オイディプス」から、適切な箇所を抜き出してみる。
「プラトー(高原・高地)という言葉の思想的な意味は、かのグレゴリー・ベイトソンがバリ島を調査したときに特別の用法で使ってこのかた、ドゥルーズとガタリがこれを新たなカテゴリーとして蘇らせるまで、ほぼ死んでいた。/ドゥルーズとガタリにとってプラトーとは、とりあえずは多様な強度が連続する地帯のことなのだが、殊更に、そこでどこかの頂点へ向かおうとする目標を回避する気になるような高原地帯のことを意味している。」
 これでもまだわかりにくいが、フィッシャーとの繋がりは少しはっきりしてきた。「多様な強度が連続する地帯」。とてもダイナミックなものだという感じは伝わるだろう。
 フィッシャーによれば、ダマシオは「至福は恒常性を達成することで得られる。」と主張する。だがドゥルーズ=ガタリの「プラトー」は、「恒常性」からは程遠く、むしろ、激しく流動しているものだ。だから「緊張関係にある」という話になるわけだ。)




 スピノザの神についての説明の中で、ぼくたちは彼の「器官なき身体」のヴィジョンに遭遇する。スピノザの支持者の多くは、彼を人文主義的啓蒙主義の先駆者と位置付けたがっているようだ。あたかも彼の有名な公式「神=自然」や、「神への知的愛によってのみ最大の喜びが得られる。」という主張が、根幹にある無神論を隠すためにコード化された暗号ででもあったかのように。だが、そう考えられているのなら、それは誤りだ。スピノザは人格神を否定して、神は世界に介入することができず、賞賛も非難もせず、報酬も罰も与えないと主張した。そのために悪意に満ちた非難を受け、排斥され、命を狙われることさえあった。しかし、スピノザを隠れ無神論者と考えることは、同時代の宗教批判者たちが犯したのと同じ過ちを繰り返すことになる(そして彼らの侮辱を繰り返すことにもなる)。スピノザの神は、無関心さえをも超越した、輝かしく、寂しく、いかなる利害関係も持たない存在なのだ。神に対する知的愛とは、じっさいのところ、器官なき身体としての宇宙との同一化である。スピノザは、大いなるゼロである神に対する唯一の適切な応答は、崇拝ではなく、畏怖、驚異、恐怖であるという信念を持っていた。彼の思想は、彼が残した他の大いなる遺産と同じように、無情なる唯物論的霊性をぼくたちに提示しているのだ。






☆☆☆☆☆☆☆



 ……このとおり、マーク・フィッシャーの書くものは、同時代のサブカルや映画、それに前回紹介したような音楽などのトピックスと、最先端の思想や古典的な哲学、それにアクチュアルな政治情況への言及などがヴィヴィッドに絡み合って、たいへん刺激に富んでいる。すごくアタマのいい人なのであろうが、あまりにも多くのものが視え、多くのものが聴こえすぎたのだろうか、50歳になるのを俟たずに自裁してしまった。ぼくが彼のブログを知ったのは2年ほど前で、以来どうにかして「ダウンワード・パラダイス」をこれに近づけたいと目論んでいるのだが、才能と知識が彼の10000の1くらいしかないため、はるかに遠く及ばない。でも、そのおかげかどうか、こうやってまだ生きている。喜ぶべきか悲しむべきか。








参考サイト
生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』
樋口恭介
2019/03/15
https://inquire.jp/2019/03/15/fisher_review_higuchi/



当ブログ内 関連記事











20.12.21 akiさんのコメントと、ぼくからのご返事「知と信。」

2020-12-21 | 哲学/思想/社会学
元の記事




20.12.21 akiさんのコメント
「一カ月ぶりの投稿です」


 こんばんは。誠にお久しぶりです。akiでございます。


 前回11月17日のコメントから早くも一月以上が経ってしまいました。折角質問にお答えくださったのにここまで遅くなったのは、述べねばならないことの余りの膨大さにひるんでしまい、筆が委縮してしまった、というのが正直なところです。で、他のことに意識が向いちゃって、有体に言えば現実逃避してましたw すみません。(汗)
 まあしかし、そんなことを言っていても仕方がありませんので、遅筆ではありますができるところからやっていきたいと思います。




 というわけで、宿題にしてました二点について述べさせていただきます。


①ハイデガー哲学によって親鸞聖人の教えを理解することの是非
②歎異抄第二章について




①ハイデガー哲学によって親鸞聖人の教えを理解することの是非


 前回は私の質問にお答えくださりありがとうございました。ただまあ・・・eminusさんも危惧なさってましたが、案の定「頭ポカーン」な状態になってしまいましたw つうか、ちょうど頭痛に悩まされていたタイミングで読んだので、より頭痛が悪化したというかw ともあれ後日改めて拝読し、大まかなところは理解したつもりですが、確かにアレでは「哲学とは頭のおかしいアレな人がやる、危険な学問」と一般人に思われても仕方がないでしょうねえ。


 とはいえ、確かにeminusさんが「似ている」と思われたのもそうだな、と思えるくらいには納得しました。表面的には、ですが。
 哲学と宗教とは根本的に異なるので、哲学的思考法によって理解できるのは、宗教の教義の骨格がどうなっているか、ということだけでしょう。中身(つまり『救い』の真髄に関わる部分)がわかるはずがありません。
 しかし人間は、当然ですが自分にわかる範囲のことしか判りませんので、表面的な部分を理解するためにハイデガー哲学を用いること自体は否定しません。「そうした方が理解しやすい」ということならそれでもいいのでは、ということです。




 これは『なぜ生きる』の共同執筆者である明橋大二さん(前にご紹介した『歎異抄をひらく』の著者、高森顕徹先生が監修されている著書です)の体験談を、以前に聞いたことですが、明橋さんも大学生のころ、ハイデガー哲学に傾倒し、ドイツ語原文を読んで(!)、「ハイデガー哲学によって親鸞聖人の『信一念』を理解しよう」とされたそうです。そこで高森先生に「先生にひとつの質問をさせていただきたい、もしお答えくださったら自分は大学を辞めてもいい」という手紙を出し、法話の後に質問の場を設けてもらい、「信一念の瞬間、世界はどのように見えますか(資料がないのでうろ覚えですが)」という質問をぶつけたそうです。その時の高森先生のお答えが心に残り、話を聞いた私も覚えています。


「信一念の瞬間の世界の見え方は、世界が破壊せられる感じです。その時世界は一心に収まる。自も他もなく、まったくの個になる。そしてそれがそのまま地獄に堕ちるのです」(これも一字一句その通りではないかもしれません)


 この答えを聞いた明橋さんは、「親鸞聖人の教えは哲学などではとても測れない深遠なものだ」と思った、とのことですが・・・。
 これは親鸞聖人の教えの一端を表す逸話だと思いますが、教えそのものではないので、あくまで参考までに。




②歎異抄第二章について
「念仏はまことに浄土に生まるる因にてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、惣じてもって存知せざるなり」


 結論から言えば、この親鸞聖人のお言葉は


「念仏が本当に浄土に生まれる種か、また地獄に堕ちる業なのか、この親鸞にもわかりません」という意味ではなく、


「念仏が浄土に生まれる種とか地獄に堕ちる業とか、今更何を言っているのか、いい加減にせよ。もう知らんわ」と突き放したお言葉なのです。




 そもそも、歎異抄第二章は仏法初心者に対して語られた言葉ではなく、関東で二十年に渡り親鸞聖人から仏法を聴聞していた篤信の人に対してのものです。そのことは冒頭の「おのおの十余か国の境を超えて、身命を省みずして尋ねきたらしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」という一文にも表れています。関東から京都まで、街道の整備されていない当時ではそれこそ命がけの覚悟での旅だったでしょう。そうやって命がけでやってきた人に対して、生半可な返答ができるはずがありません。
 親鸞聖人は40歳過ぎごろから60歳ごろまで、関東で布教に歩かれ、そのときにできた高弟たちが後世「二十四輩」と呼ばれて教団を支えました。(ちなみにこの二十四輩を始め、記録に残る親鸞聖人の弟子を合わせると七十~八十人くらいになるそうです) もちろん、弟子たち以外にも、在家の聞法者が多数いました。が、親鸞聖人が60歳過ぎごろに京都に帰った後、関東で同行衆の信仰を動乱させる二つの大事件が起こります。それが「日蓮の『念仏無間』の強調」と「善鸞による秘事法門」です。
 現在でも日蓮宗が存在しますので、その開祖を悪く言うことは差しさわりがあるかもしれませんが、日蓮が念仏を誹謗したことは事実です。そして、親鸞聖人がいない関東で、最初は「まさか」と笑っていた同行衆も、やがて「いやもしかして・・・」と疑いを持ち始めます。
 また、親鸞聖人の長子であった善鸞は、ある時「自分は父親鸞から、信心を得るための秘密の法文を授けられた」と言いだし、「そんなことは聞いたことがない」と思った同行衆にはやはり動揺が走りました。
 この二つの大事件があり、信仰が動揺した人々を静めるため、親鸞聖人から直に聞かせていただこう、と覚悟を決めた人々が、親鸞聖人の下へ参じたわけです。それは、自分にとって「後生の一大事」が身命を賭してでも解決せねばならない大事である、と教えを聞いて思っていたからですが、同時に「親鸞聖人から教えられていたことに、どこか誤りがあるのではないか、あるいは親鸞聖人には何か隠していたことがあったのでは」と疑っていたからでもあります。要するに、この二件によって信仰が動揺した人々は、親鸞聖人の教えた「他力の信心」を得ていなかったということです。のちに親鸞聖人はそのことを、


「慈信房(善鸞)が申すことによりて、人々の日ごろの信のたじろぎおうて在しまし候も、詮ずるところは人々の信心の真実ならぬことのあらわれて候、よきことにて候」


 と手紙に書かれています。「この事件を縁にして、真実の信心でなかったことが判ったことは良かった。今度こそ真剣に聞法し、真実の他力信心を頂きなさい」ということです。


 他力信心を得れば、阿弥陀仏の本願に対する疑いの心は露塵ほどもなくなります。『教行信証』を読めば、「この親鸞にも判りません」どころか、確信に満ちた「弥陀の本願まこと」が全編に渡って説かれています。なんでここまで確信を持って断言できるのか、と仏法を知らない人は不思議に思うほどでしょう。


 二三の文を挙げてみましょうか。
・総序
「難思の弘誓は難度の海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり。~故に知んぬ。円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑いを除き証を獲しむる真理なり」
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
「慶ばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。真宗の教・行・証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ」
・行巻
「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて、大般涅槃を証し、普賢之徳に遵うなり。知るべし」
・信巻
「涅槃の真因は唯信心を以ってす」
「『一念』と言うは、信心二心無きが故に『一念』と曰う。これを『一心』と名く。一心は則ち清浄報土の真因なり」
「真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
・後序
「慶ばしきかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来のコウ(矛今)哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」


 細かい仏語の説明は省きますが、全て「弥陀の本願まこと」を大前提にして、揺るぎない信念を述べた文言ばかりです。
 こういう親鸞聖人が、一方で「判りませんわ」というような無責任な発言をするはずがありません。歎異抄は親鸞聖人直筆ではなく高弟唯円の書いたものですから、その内容は直筆の『教行信証』を物差しとして理解するべきです。




 こういう教えを、関東の同行衆は親鸞聖人から直に聞いていたわけです。にもかかわらず、他者から違うことを聞いてたちまち信心に動揺を起こし訪ねてきたわけですから、親鸞聖人としては「難信の法であるとはいえ、そなたたちは二十年間、一体何を聞いていたのか」と思われたことでしょう。その思いを、遠慮することの要らぬ相手にそのままぶちまけたのが、「惣じてもって存知せざるなり」なのです。
 二章最後にある「面々の御計らいなり」も同様。「信じるも信じないもそなたたちの好きになさるがよい」と言われて、篤信の同行衆は震え上がったに違いありませんが、何を言われるよりも鮮明に、「ああ、親鸞聖人に間違いはなかった」と頼もしく思ったはず。すなわちあの状況、この相手に対してなら、親鸞聖人のこのお言葉は見事に嵌ったというべきですが、そうでない現代人が読んでも真情を理解できないのは当然です。結果、『歎異抄』はいまだに親鸞聖人に関する凄まじい誤解を世間に流布し続けている、ということになります。


 やっかいなのは、「自分が誤解した親鸞聖人の姿」を見て感動している人も多い、ということですw eminusさんが挙げられた方々はみんなそうでしょうね。そういう方に「本当はこうですよ」と言ったところで喜ばれることはないでしょう。難儀なことです。




 以上、やっぱり思いっきり非難する論調になってしまいました。そうなることが判っていたので躊躇する気持ちが強かったのですが・・・eminusさんは「気になさらずどうぞご存分に」とおっしゃってくださるでしょうが、まあこれは自分の心情の問題なので仕方ないです。
 ただまあ一応、言うべきことは今回で言えたかな、と思います。なんか忘れてる問題とかあったかもしれませんが。もしありましたらご指摘くださいませ。<(_ _)>




☆☆☆




「1月6日に注目」
こんばんは。こちらでもコメントを。


>政権が過去の伝統をばっさり断ち切って、すべての権威を否定し尽くしてしまうところが真に恐ろしい


 このお言葉は至言だと思いました。恐れるものがなければ、確かに人は傲慢になってしまう。ただ、真の意味で「恐れるものがない」状態とはあり得ないとも思います。天や神や仏を畏れる人はそれでいい。しかし、そういったものを恐れることがない人は、きっと人を恐れるようになるのでしょう。最高権力者がそのようであれば、それは無用の粛清につながる。スターリン然り、毛沢東然り。
 人の上に立つ者こそ、へりくだらなければならないのは、そうしなければ自分を保てないからで、それは単なる倫理上の問題と言うよりも切実なものである気がします。


 そう考えると、今頃はバイデンさんも習近平氏も、相当に恐れているでしょうねえ。バイデンさんは司直の追及を、習近平氏は周りの人々の離反を。有頂天に至った者はあとは下りるしかない。これは鉄則と言うべきです。
 トランプさんが全く恐れているように見えないのは、きっと彼が神を畏れているからなのでしょう・・・と、トランプ支持者ならば言いそうですw


 まあしかし、アメリカはこれからどうなるのか・・・どんな結末を迎えるにしろ、これで「アメリカの力も絶対ではない」ことは全世界に知れ渡ってしまいましたから、日本の国家の舵取りもこれからかなり難しくなりそうです。正直、中国を舐めていたな、というのが今回の事態を見ての感想ですね。






☆☆☆☆☆☆☆






20.12.21 ぼくからのご返事「知と信。」


 コメント欄はいつでも開けてあるんだから、気が向いたとき、気が乗ったときにお書きになればいいですよ。1ヶ月くらい何てことはない。
 「哲学とはアレなひとがやる……」ってのは言い過ぎですね(笑)。思考を言語化するってのはたいへんなことだから、厳密にやろうとすればああいう具合になるんです。これは哲学よりも精神分析系の人ですが、フランスにジャック・ラカンという思想家がいて、彼の著作を読んだフランス人が、「誰かフランス語に訳してくれ。」といったとか。それでも面白くて使えるから、みんな寄ってたかって読むんです。
 でもハイデガーならむしろ原語でやったほうがいいかもしれない。ドイツ語の力があればの話だけど。「現存在」という造語はいかにも厳めしいけれど、ドイツ語ではdaseinですからね。「da」は「ここに」で、ドイツ語では「いないいないばあ」遊びのことを「fort da」というらしい。
 fortは「どっか行っちゃった」みたいな感じで、前に話題に出た『劇場版 叛逆の物語』のなかで、ほむらの使い魔であり、或る種の分身といってもいい「偽街の子供達」が、「fort!」「fort!」「fort!」「fort!」「fort!」と口々に叫んでましたね。
 フロイトが、自分の孫が糸巻きを使って一人遊びしてる様子を観察して、「快感原則の彼岸」というとても重要な論考を書くんです。そのお孫さんは、糸巻きを何度も何度も放り投げては、「いない(fort)」「いる(da)」「いない(fort)」「いる(da)」を繰り返してたってんですね。そうすることでその幼児は、母親がいなくなってしまう不安と、母親が戻ってきてくれたときの安堵とを交互に再現していたのだ……というのがフロイトの解釈でした。
 念を押すまでもないと思いますが、幼児にとって、「母親がいなくなる。」というのは、たんに寂しいなんてものではなく、存在の基盤にかかわる実存的な不安です。
 虚淵玄はそのエピソードを踏まえており、だから映画のあのシーンでも糸巻きが出てくるし、さらに「因果の糸」というメタファーも絡めて、重要なキーアイテムになってきます。






 「sein」は英語でいうbe動詞。だからdaseinは「ここにいる」ってことなんですね。それを「現存在」なんて訳さざるをえないのは、われわれの日本語っていうか、日本的な思考のありようにかかわる課題かもしれない。それこそ仏教用語のなかに該当する単語があればよかったんでしょうけど(道元に「有時(うじ)」というのがありますが、あれはまた別物だし)。
 ぼくは「ハイデガー哲学によって親鸞聖人の教えを理解することの是非」について述べたわけではなく、akiさんの文章が『存在と時間』のあのくだりに似てると言いたかっただけです(それはけっこう凄いことだと思いますけどね)。
 それはそれとして、「ハイデガーによって親鸞を読む。」あるいは「親鸞によってハイデガーを読む。」という作業は有意義だと思いますね。これは幾らでも応用がきくんですよ。げんに、森本和夫という人が、デリダによって道元を読み、道元によってデリダを読むという試みをしてます(ちくま学芸文庫『デリダから道元へ』)。この本は当のデリダ氏にも好評だったとか。
 あ。デリダってのは、フランスにおけるハイデガーの継承者みたいな人です。ハイデガーは例のナチの件で戦後しばらくドイツ本国では敬遠されてて、むしろ隣のフランスで読まれたんですね(フランスもナチにはさんざんな目にあったんだけど、それだけハイデガーの思想が魅力的だったってことかな)。デリダはそのあと、言語哲学のほうに傾いたり、いろいろと話題をまくんだけど、それはまた別の話。
 思想ってものは神棚に祭り上げてちゃしょうがないんで、どんどん使わなければ嘘なんですよ。「使う」といったらなにか冒涜みたいに思われがちだけど、ぜんぜん逆で、使えるからこそ偉大なんです。先述のラカンだって、スラヴォイ・ジジェクという人が、ヒッチコックをはじめ色んな映画を、ラカンを使って深掘りしまくったことでより多くの読者を獲得しました。「ラカンは難解だけど、ヒッチコックを使って読めばよくわかる。」とジジェクはいってます。ラカンを使ってヒッチコックを鑑賞し、ヒッチコックを使ってラカンを読むわけです。
 哲学は「知」の域内にあるものだから、どれほど難解であっても努力さえ惜しまなければ理解できるんですよ。1+1=2というルールを受けいれさえすれば、いずれはオイラーの公式も理解できるし、理屈からいえばポアンカレ予想だって理解できるのと同じです。論理を積み重ね、筋道を正しく辿っていけば必ずや到達できる。数学はそれを数式でやり、哲学はコトバでやるってだけです。
 しかし、「信」の側にあるものはそうはいかない。だから、「哲学的思考法によって理解できるのは、宗教の教義の骨格がどうなっているか、ということだけでしょう。中身(つまり『救い』の真髄に関わる部分)がわかるはずがありません。」というのは、それはそうでしょう。
 デリダによって道元を読む、ハイデガーによって親鸞を読むといっても、それで「救い」そのものが感得できるわけではない。もちろんそれはいうまでもない。
 「知」の領域と「信」の領域とのあいだには深淵がひろがっていて、軽々に渡れるはずはないんです。截然と分かたれている。でも、まるっきり無縁かというとそうではなくて、こちら側にいても、何かの拍子にちらちらと向こうの様子が見える(ような気がする)もんだから、あれこれと気にはなってるわけですね。
 それで、吉本隆明なんてひとは、およそ古今東西の文学者や思想家をあらかた読み尽くしたんだけど、そのなかで「もっとも影響を受けたのは親鸞」であると公言してた。それはどうしてなのかって話です。
 吉本さん自身は、「信」の側にいくことはなくて、終生、ありふれた生活の場にいたんですね。「戦後思想の巨人」などといわれたりもしたけど、べつにそれほど儲かってたわけでもないし。読者を名乗る人が家に押しかけてきて、金をせびったりして、そういうのにもわりとまじめに応対してたらしい。そういうのが好きだったはずはなくて、「めんどくせえなあ。」と思ってたろうけど、それなりに相手をしたそうです。
 知性というものは、磨けば磨くほど、ありふれた生活の場から乖離していくでしょう。でも、そうやって出来上がった思想にどれほどの値打ちがあるんだろうか。それこそ、理想の社会を作り上げたつもりで、結局は国民っていうか、共同体の成員を抑圧するだけの代物になっちゃうとか、そういうことはないか。
 思想史に名を刻むほどの天才と、そこいらへんのおいちゃんおばちゃん、兄ちゃん姉ちゃん、まあ凡夫凡婦ですね、そういった無名の存在が釣り合うような場はないか。そういうものを模索するうちに、親鸞さんの近くにきてたんじゃないかと、ぼくは想像するんですけどね。
 吉本さんはさておき、ぼくをも含めた一般ピープルのレベルでいえば、『歎異抄』だけ読んで『教行信証』にまで手が伸びないのがモンダイなんでしょう(笑)。でも、もし『歎異抄』がなかったら、唯円があの聞き書きを書き留めず、清沢満之が明治になってあの薄い本を紹介しなかったら、親鸞さんはこんなにも人気を博さなかったと思います。それは誤解がいきわたっているってことでもあり、だから心ある方々が「この根深い誤解を正さねば。」とて尽力されるのは尤もだと思いますけども、大衆化とはそういうものだってのも確かです。
 ぼくが思うに、あの「惣じてもて(岩波文庫版ではこう表記されてます)存知せざるなり」とは、「知」の領域ではなく「信」の領域にあることだから、それは口で言ってもわからないよなあ、という感じじゃないでしょうか。親鸞はもう「歓喜」を体験してるわけですね。それは確かでしょう。でも、心配になって問い詰めているお弟子さんたちは、その境地を体験してないからこそ心配になってるわけでしょう。それだったら、ここで私が口でいっても仕方ないよねえ、というふうにぼくには読めるんですけどね。
 そういう意味では、「もう知らんわ。」でもさほど懸け離れてはいないけど、そこまで突き放してはいないというか、「しょうがないなあ。なにしろ口で説明できることではないからね……。」と苦笑いしておられるように読めますね。
 歓喜といえば、これは宗教的な水準のものとは桁違いに劣るだろうけど、たとえばニーチェを日本語の訳で読んでいて、「これ、日本語で読み書きする人がいま世界で1億と何千万人いるのか知らんけれども、この文章を真に理解できるのはおれを含めて数千人くらいじゃないかなあ。」てなふうに思うことはありますね。そういうときには、ニーチェの文章をこれまでのすべての体験とすべての知性、すべての感性で受け止めている感覚があります。そういうのは自分にとっての歓喜ですね。そういうことが時々起こるから何とか毎日を送っていけてるってことはあるんですけど、でも、その感覚はだれかに口で説明できることではないですね。

 アメリカの大統領選については、前にe-minorだかdig君だかが、「中国は常に危機を喧伝されているけれど、けして侮ってはいけない。」と力説してたかと思います。いくつかの州で独自の選挙人をえらんだとの情報も見ましたが、それでも、この状況のまま1月6日を迎えて、連邦議会上下両院の合同会議で各州からの選挙人投票結果の正式な集計と確認をやって、そこでトラさん一発逆転ウルトラCなんて事態はぼくには想像できません。仮に状況が好転するならそれまでに何かが起きるでしょうし、なにも起きねば十中八九このままでしょう。「無理が通れば道理引っ込む」ですね。




メメント・モリ

2020-11-25 | 哲学/思想/社会学

 このところのakiさんとのやり取りは誠に刺激的で面白いのだけれど、gooブログとしてはいささか重いかなとは思う。ではnoteのほうでやれば良いのかというと、コメント欄の字数制限のことを別にしても、それもまた違う気がする。されど、ぼくのほうとしては「話がややこしい所に来てしまった。」などと困惑しているなんてことはなく、とても本質的な話ができてすこぶる満足なのである。とはいえしかし、重いのはじっさい重いわけで、本質的な話ってのは大切なものではあるけれど、そればかりやっているのも不味いので、暮らしのことや、ブンガクのことや、アニメのことなんぞをあれこれ喋っているなかに、ふとしたはずみで紛れ込んでくるくらいがいいのではないか。そうも思ってるわけである。まあ、ぼくはこのブログで日々の暮らしについてほとんど述べないわけなのだが(食べるのも料理するのも好きなので、「今日の晩飯」なんてカテゴリを設けたら今よりぜったいアクセスが増えるに違いないんだけども)。


 さてさて。哲学の言説をわかりやすく「超訳」したりなんかすると、たいていは「名言辞典」の類にまとめて押し込められるような安っぽい警句になっちまう。それを承知で泣く泣く要約するならば、ハイデガーって人は「《自分の死》に真剣に向き合うことが哲学の始まりである。」と言ってると思う。ただこんな発想はもちろんデガさんの独創ってわけではなく、「限界状況」てなことをいったヤスパースもいるし、その前駆としてキェルケゴール(キルケゴール)もいる。もともとキリスト教神学と格闘しながらアイデンティティーを確立してきた西洋の近代哲学は、「死後」や「神」について語ることを頑として禁欲しつつも(「死後」や「神」について語れば「神学」と同じになってしまうから、これは当然の態度なのだが)、「死」には拘り続けたのである。これは東洋思想とりわけ儒教との対比において際立った特色をなすといってよい。そうはいってもキェルケゴール~ヤスパース~ハイデガー……往々にして、キルとヤスとのあいだにニーチェが入れられたりもするが……の流れは少々異色だぞってことも確かなのだが。


 で、「死」への拘りというならば、じつはこれもまたキリスト教が濫觴ってわけでもなくて、遡って古代ローマにはすでに「メメント・モリ memento mori」なる警句があった。「死を忘れるな。」である。この文句は有名で、サブカルでもよく援用されるけれど、ここではクリストファー・ノーランの映画のタイトル『メメント』を挙げておこうか。それくらい有名ってことですね。ウィキペディアによれば、古代ローマにおいてはこれは「どうせ明日は死ぬ(かもしれん)身なんだから、せいぜい今は楽しくやろうぜ。」などと、じつに享楽的かつ刹那的な意味で使われていたそうな。それがキリスト教の普及にともない、「この現世での快楽や財産や地位なんぞ、所詮は空虚でむなしいものなのじゃ。わしらの永遠の至福は来世にこそあるんじゃよ。」という含みになった……というのだが、どうも双方ともに極端で、あまり健全とは思えない。いずれにせよ、この「メメント・モリ」は絵画における「ヴァニタス vanitas」の寓意とも相まって、西洋文化の重要なテーマであり続けた。








 そして、この「メメント・モリ」や「ヴァニタス」と対をなすものとして、「カルペ・ディエム Carpe diem その日を摘(つ)め。」があり、ふたつ併せて「バロック精神の鍵となる言葉」とウィキペディアはいっている。バロック精神のキーワードとは、つまり西洋文化のキーコンセプトってことで、とうぜんその命脈は近代~現代にも受け継がれている。教科書的な括りでは「実存主義」などと一緒くたにされちゃう前述のキェルケゴールやヤスパース、さらには俗流に解釈されたばあいのニーチェおよびハイデガー、もひとつおまけにサルトルもまた、「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」との鬩ぎ合いの中にいる……といっていいだろう。「人生は空しい。だからこそ、今日という日を大切にしよう。」という含みである。刹那的な享楽主義にも、荒っぽい現世放棄にも与せぬ、中庸な考えだと思う。主体性をもち、自己の責任で今日という日を掴み取る。じつに現代的でもある。とはいえこれも、まかりまちがえば、「どうせ限りある命なんだから、すべてのものに感謝して、今日という日を力いっぱい、精いっぱい生きていきましょう!」なんて、いかにも昔の青春ドラマか自己啓発本並みの安っぽいノリになりかねぬから、安直に受け取るのは禁物なのだが。


 ともあれ、本当の意味で「死」を見つめる/観照する、なんてことは、本格的な修行を積んだ高僧にしかできぬほどのことで、そういえば、「太陽と死は直視できない。」というラ・ロシュフーコーの箴言もあったけれども、そういうことを業務として成し得るからこそ僧侶という階級は世俗を離れて高邁なる精神世界に居ますことを社会的にも経済的にも許されているわけで、ぼくみたいな凡俗は、どこまでも哲学、あるいはせいぜい文学を通じて「自分の死」をおそるおそる垣間見るしかないわけである。








 



20.11.17  akiさんのコメントと、ぼくからのご返事「ハイデガーのほうへ。」

2020-11-17 | 哲学/思想/社会学


akiさんからのコメント
2020.11.17
「質問です。」




 こんばんは。いやそろそろおはようございますかw akiでございます。


 早速のご返事、ありがとうございます。何度か読み返させていただきましたが、eminusさんからのご質問もあったのですが、そのご質問の意味するところが分かりませんで・・・質問に対し質問で返す非礼をお許しください。




>人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣(つか)えない。
死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。




 このハイデガーの言葉を提示されて、「それでなにか足りないところはありますか?」とお尋ねなのですが、ハイデガーがナチスに加担したことで非難を浴び、それでもなお20世紀最大の哲学者と呼ばれていることは知っていますが、この言葉の意味はよく判りません。




>人は死から目を背けているうちは、


 この部分については理解できます。しかし次の、


>自己の存在に気を遣(つか)えない。


 とはどういうことでしょう? 「自己」とは普通に我々が自覚している「この自分」のことでいいのでしょうか? そして、「気を遣う」とは、どんな気を、どのように遣うということでしょうか?


>死というものを自覚できるかどうかが、


 この部分は「死を自覚することが」と言い換えても構いませんか?


>自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。


 ここで言う「可能性」とはどのような可能性のことでしょう? そして、「可能性を実現して」と言わずに「見つめて」と言ったことに、何か意味はあるのでしょうか?




 ・・・我ながらメチャメチャ煩雑な訊き方ですね。(爆) そんな細かく考えんと、もっとざくっとおおまかに捉えたらええんやで、ということでしたら、おおまかにお答えいただいても全然構いませんので、よろしくお願いします。




 それとこれは質問に対する質問というわけではありませんが、


>正直ここは何度か読み返しても意味がすっきり届いてきませんでした。


 ここで言われているのは、「何を言っているかは理解できたが、心には全く響かなかった」ということか、「言っていることそのものが理解できなかった」ということか、どちらでしょう? なんとなく前者の意味かな、と思ってますが、もし後者であれば新たな説明が必要になるでしょうし・・・その場合、具体的に「この部分の説明が理解できなかった」とのお答えを頂ければ、重ねて説明できるかもしれません。(まあ能力には限界があります。その時はすみません)




 てなわけで。お手数をお掛けしますが、お答えよろしくお願いします。






☆☆☆☆☆☆☆



ぼくからのご返事
2020.11.17
「ハイデガーのほうへ。」




 そっちを攻めてきましたか(笑)。いや、たしかに大事なとこですね。いえいえ、ぜんぜん煩雑とは思いませんよ。もしこの質問を煩雑だというなら、ぼくのこのブログは成立しないんじゃないでしょうか(笑)。


>人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣(つか)えない。
死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。


 この一節はハイデガーを「20世紀最大の哲学者」たらしめた主著『存在と時間』のキモにかかわるものですが、これがそのまま『存在と時間』のなかに記されているわけではないです。ハイデガーって人はこんな素直な言葉づかいをしない(笑)。どなたが編集されたのかは知りませんが、いかにも『名言辞典』みたいなものに収めやすいよう枝葉を刈り込んでありますね。でも本質を抑えてます。


 ここからハイデガーの話に入りますが、その前に、ひとつお含みおきください。哲学ってのは「死後」については語りませんし語れません。「死後」について語るのは宗教と、あとはまあ文学ですね。でも文学のほうは、どうせ絵空事っていうか、比喩みたいなもんだとみんな思って読むから、そんな切羽詰まった感じにはなりませんけども。
 哲学は、「死後」については語りませんし語れませんが、「死」について語ることはできます。とくに『存在と時間』という書物はそうで、ほぼ「死」という問題をめぐって繰り広げられるといっていいようなもんです。
 前回いただいたコメントのなかで、いま俎上にあげているくだりは、いわゆる宗教的な要素を捨象してしまえば、ほとんどハイデガーじゃないかとわたしには思えたですよ。
 akiさんがほんとにハイデガーを読んでらっしゃらないのなら、もともと哲学的な資質があるのか、親鸞さんと向き合うなかでそういう思考が育まれたのか、いやそもそもそういう資質をお持ちだから《信》の領域に惹きつけられたとも考えられるし、まあハイデガー本人を読んでおらずとも、その影響を受けた哲学書を読まれたのかもしれないし、そのへんはむろんわからないんですが、あのくだりを読んで「いやこれハイデガーじゃん」と思ったですね。そんな感じをあの時の気分で表現したら、あんな言い回しになってしまいました。少々ぞんざいでしたね。ここで補足いたしましょう。むちゃくちゃ長い補足になりそうですが。


 その前に書誌的な話をしておくと、『存在と時間』の邦訳は数種類出てます。中でも新しいのが光文社古典新訳文庫の中山元訳全8巻。これに次ぐのが岩波文庫の熊野純彦訳全4巻。あと、これらよりかなり古くなりますが、ちくま学芸文庫の細谷貞雄訳全2巻もスタンダードとして今も売れてます。でもぼくの手元にあるのはもっと古い中央公論社・世界の名著シリーズの原祐訳のみ。こういうのはたいてい新しいほうが読みやすくて面白いんですよね。しかしワタシも、そうあれもこれもと買い求めるわけにはいかぬので……。まあ原祐さんの訳だって、「中公クラシックス」版に姿を変えて今もなお流通してるから、ダメってわけではないんだけども、訳語や文体がいかにも哲学くさくて生硬です。むろんハイデガーのもともとの独逸語がそうだってことはあるにせよ。


 ぼくが「よく似てるなあ。」と思ったのは、たとえば以下のところです。ほんと哲学くさくて生硬なんだけど(原祐先生ごめんなさい)、そのまま書き写してみます。独特の用語が頻出するんで読みづらいとは思うけど、とりあえず雰囲気を味わってください。迫力は伝わると思います。中央公論社・世界の名著シリーズ版の410から411ページに掛けてですが……。




 死は、そのつど現存在自身が引き受けなければならない一つの存在可能性なのである。死とともに現存在自身は、おのれの最も固有な存在しうることにおいて、おのれに切迫している。この可能性において現存在には、世界内存在そのものへのとかかわりゆくことが問題なのである。現存在の死は、もはや現存在しえないという可能性なのである。現存在がおのれ自身の可能性としておのれに切迫しているときには、現存在は、おのれの最も固有な存在しうることへと完全に指示されている。このようにおのれに切迫しているときには、現存在においては他の現存在とのすべての交渉は絶たれている。この最も固有な没交渉的な可能性は同時に最も極端な可能性でもある。存在しうることとして現存在は、死の可能性を追い越すことはできない。死は、現存在であることの絶対的な不可能性という可能性なのである。このようにして死は、最も固有な、没交渉的な、追い越しえない可能性として露呈する。このようなものとして死は一つの際立った切迫なのである。こうした切迫が実存論的に可能である根拠は、現存在がおのれ自身に本質上開示されているということ、しかも、おのれに先んじてという在り方において開示されているということ、このことのうちにある。おのれに先んじてという気遣いのこの構造契機は、死へとかかわる存在のうちにその最も根源的な具体化をもっている。終りへとかかわる存在は、現存在の以上のように性格づけられた際立った可能性へとかかわる存在として、現象的にいっそう判然としたものになるのである。
 しかし、この最も固有な、没交渉的な、追い越しえない可能性を現存在は、あとから、またときおり、おのれの存在の遍歴のうちで取得するのではない。そうではなく、現存在が実存するときには、現存在はいちはやくこの可能性のうちへと被投されているのである。現存在はおのれの死に委ねられているのであり、だからこの死は世界内存在に属しているのだということ、このことについて現存在は、さしあたってたいていは、いかなる表立った知識をも、ましてや理論的な知識をももってはいない。死のうちへの被投性が現存在に、いっそう根源的に、またいっそう切実に露呈するのは、不安という情状性においてなのである。死に対する不安は、最も固有な、没交渉的な、追い越しえない存在しうることに「直面する」ときの不安にほかならない。こうして不安の対象は、世界内存在自身なのである。こうした不安の理由は、現存在の存在しうることそのものなのである。死に対する不安は、落命に対する恐怖と混同されてはならない。死に対する不安は、個々人にあらわれる気ままな偶然的な「弱々しい」気分ではなく、それは現存在の根本的情状性なのだから、現存在がおのれの終りへとかかわる被投的な存在であることが、判然となる。純然たる消滅に対して、さらにはたんなる終焉に対して、最後には落命の「体験」に対して、死がいっそう鋭く限界づけられたわけである。
 終りへとかかわる存在は、ときおり浮かびあがってくる気持によって、またそのような気持として、はじめて生ずるものではなく、現存在の被投性に本質上属しているのであって、この被投性が情状性(気分)のうちでこれこれしかじかに露呈するのである。終りへとかかわる最も固有な存在に関する現事実的な「知」もしくは「無知」は、そのつど現存在において支配しているのだが、そうした「知」もしくは「無知」は、この存在のうちでさまざまな在り方でおのれを保つことができるという実存的な可能性の表現にすぎない。現事実的には、多くの人々がさしあたってたいていは死に関して知らずにいるということは、死へとかかわる存在が「普遍的には」現存在に属していないということの証拠だと称されてはならないのであって、それはただ、現存在がさしあたってたいていは死へとかかわる最も固有な存在を、そうした存在に直面してそこから逃避しつつ、隠蔽しているということの証拠にすぎないのである。(後略…………)




 センテンスはまだ続くけど、ここらで止めておきましょう。なんか嫌がらせみたいになっちゃってますが、書き写してるこっちも疲れたというか、マジで気分わるくなってきました。原文と照らし合わせたわけではないから大きなことは言えないけど、いくらなんでも日本語としてももう少し整理できそうに思うんですがね……。言っちゃなんだけど、そりゃ新訳もいっぱい出てくるよなあという感じです。
 「現存在」「気遣い」「世界内存在」「被投(性)」などといった独自のキーワード(キーコンセプト)が駆使されます。これらは互いに絡み合ってるんで、ひとつひとつを説明すると堂々巡りになりそうです。一挙にわっとやっちゃいましょう。
 「現存在」とはほぼ「人間」のことです。この「現存在」は「世界」の内に「存在」しますが、それは石ころが箱の中にころんと置かれてるって仕方でそこに在るわけじゃなくて、「世界」に絶えず働きかけてるわけです。というか、「現存在」が働きかけることによって、はじめて「世界」が構成されると。そのような「世界」に「存在」するものであるから、たんに人間と呼ばずに、わざわざ「現存在」なんて呼び方をするわけです。このあたり、どうしても堂々巡りになります。この「現存在」は(石ころじゃないんで)「可能性」をもってます。それで、この「現存在」がじぶんの「可能性」に思いを致すことが「気遣い」です。
 ただ、人間ってものは熟慮の末にこの世に生まれてくるわけではなく、気が付いた時(俗にいう「ものごころ付いたとき」)にはもう存在しちゃってるわけですね。そのようなありかたが「被投性」です。「ぽんと投げ込まれちゃってる」みたいな感じですね。いっぽう、そのように被投された現存在が、世界を構築すべく働きかけるその働きが「企投」です。「企投」ってのは上で引用したくだりには出てなかったけど、ハイデガー哲学の重要なキーワードです。「世界―内―存在」というのは、その「被投性」と「企投」とが存在の根源のところで縺れ合ってる在り方をいいます。
 ただ、このような「現存在」は、ふだんは日常の中に安穏と埋没してて、切実に「世界」と向き合ってはいない。そのようなありようが「頽落」です。なんか悪口のようですが、ハイデガーは、「別に価値判断をするわけではなく、たんに、そういうものだというだけだ」みたいなことを言ってます。ただ、それが「現存在」にとって本質的かつ根源的な在り方でないのは確かです。そして、そのような「現存在」が全体性と本来性とを与えられるのは、自らの「死」との関わりの中においてである、というのが『存在と時間』のなかでハイデガーが述べていること(のひとつ)です。
 こうやってまとめてみても、やはり、こないだのコメントのなかでakiさんが書いてらしたことによく似ていると思いますね。それはつまり、「宗教」のことばに拠らずとも、akiさんのお考えはかなりなていど「哲学」の域内で語りうることではないかと私には思えたということですね。「ここまでは哲学の範疇で語れるけれど、これ以上はどうしても宗教のことばに拠らなければ無理」という区分けがもう少し厳密にできるのではないかと感じたということです。こんなところでご返事になっていますでしょうか。



この記事の続き。
20.12.21 akiさんのコメントと、ぼくからのご返事「知と信。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/a04012a57c7c78cc4ace1d62fa815925
















20.11.16 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事「司馬さんとミシマの威を借りて」

2020-11-16 | 哲学/思想/社会学


akiさんからのコメント
20.11.16
「仏教と死について」


 こんばんは。一週間お待たせしてしまいました。akiでございます。
 実は先月から、(ぽつぽつとではありますが)構想してました小説を書き始めてます。『三国志』に題材を採った歴史小説で、親鸞聖人とも仏教とも関係はないんですが、中国文化は一方の私のルーツでもありますので、生きているうちに形にしておきたいと思いまして。空いた時間はそちらの方を優先していました。(つっても相変わらずのまったり遅筆ですw)


 そんなわけで遅くなりすみません。お返事でございます。




>もし《信徒》と《それ以外の者たち》とのあいだに垣根を立てて、前者のほうにだけ語りかけるというのであれば、


 さて。このお言葉が何を想定されているのか分かりかねる部分もあるのですが、少なくとも親鸞聖人の教えにそういった垣根は存在しないと思います。ていうか、垣根が存在したら阿弥陀仏の本願にある「十方衆生」が嘘であることになってしまいます。
 ただし、親鸞聖人が「信」と「不信」を峻別されたことは確かです。「不信のままでいいんだよ」という教えではない。「地獄一定」の我が身が「信」を得ることが叶わなければ、そのまま救われないことになってしまいますから、「他力の信心を得よ」と口を酸っぱくして言われることは当然のことでしょう。


 これは親鸞聖人ではなく蓮如上人の言葉ですが、『御一代記聞書』の中に、こういう一節があります。


「陽気・陰気とてあり。されば陽気をうくる花は早く開くなり。陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり。遅く開くる人もあり。兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなりと云々」


 最後の一節が大切で、現在不信の者であっても、陽気を受ける場所、すなわち聞法の場に出て、「仏法を心に入れて聴聞」すれば、やがて信の花を咲かせることができるわけです。その意味で、親鸞聖人の教えは(すなわち仏法は、あるいは阿弥陀仏の本願は)全人類に向かって開かれています。




 もし、「不信のままでいいんだよ」という教えをお望みなのだとすれば、失礼ながらそれは宗教と呼ばれるものではなく、「自己啓発セミナー」等と呼ばれる類のものでしょう。上から目線ですみませんが、そんなものに全人類を救う力があるとは、私には到底思えません。




>「全人類にとって最終的な大問題」というものがもし在るとするならば、それは「死」ではなくて「生」ではないでしょうか。「いかに生きるか。」ということです。


 これは恐らく、「死によって今の「私」は分解して大きな縁起の流れの中に還っていく(意訳ですみません)」すなわち、「自分である自分は死によって終わる」と考えておられるeminusさんにとっては、そのように感じられるのだと思います。ただし、上のお言葉に共感する人はかなり多いでしょう。実際問題として、厳しく不安な生をいかに生きるか、という問題は、生きている人が日々直面する大問題です。
 ですが、この生は必ず終わる時が来ます。それももしかしたら今日のことなのかもしれない。突然の事故で、あるいは思いもよらぬ急病で、今この時、いきなり人生は終わりを迎えるかもしれない。そういう不安は、生きている限り拭うことはできません。
 仏教では「生死一如」とそれを言われますね。生と死は表裏一体のものであって切り離すことができない。また「出息入息不待命終(出る息は入る息を待たず命終わる)」とも言われ、我々は一息一息の中に死と隣り合わせに生きている、とも説かれます。にもかかわらず、我々はこの生と死を切り離して考えます。「死ぬのは避けられないことだし、死んだら死んだ時だ。今考えても仕方がない。それまでは、どう生きるかが先決だ」という感じで。
 ですがこれは、仏説に従えばまるで逆なのです。生が大切であるならば、なお一層死について問題になってくるはずなのです。ところがそうはならないのはなぜなのか。そう考えると、結局のところ、「我々は自分が死ぬとは考えていない」というところに行き着きます。
 「そんなばかな」と思われるでしょうが、そういう人も、「今すぐに自分が死ぬ」とは思っていないでしょう。eminusさん、「一分以内に自分が死ぬ」と思っておられますか? おそらくそんなことは全く感じていらっしゃらないはず。そして、「いや、そういう可能性があることは知ってるよ」と言っている人も、まさかそれが現実のものになるとは全く予想だにしていないでしょう。
 そして、その思いは、一分後にはまた「この一分のうちに自分が死ぬとは思わない」心になるのです。そうやって一分後、一分後、・・・と未来へとすすめていけば、それはすなわち「自分は永遠に死なない」と思っている心と等価なのです。
「いや、重病とか、戦争とか、死ぬような縁があれば『自分は死ぬ』といくら何でもわかるだろう」と、実際そういう縁に遭っていない間は思うでしょうが、人間は環境に必ず慣れます。たとえ死の病に冒されたとしても、もっと言えば今から自殺しようとする人でさえ、死の寸前まで、人は自分が死ぬとは思っていない。仏教で言われる「迷い」ですね。
 だからこそ、「死は大問題」と言われても、「まあ理屈ではそうかもしれんけど、とりあえず今の自分は関係ないわ」と思っておれるわけです。
 ですが、そういう思いがもし正しいのだとしたら、この世に死ぬ人は一人もいなくなります。もちろん現実は、死なない人は一人もいない。だからこそ「迷い」と言われるわけで、人はその迷いを抱えたまま、厳然とした現実の死を迎えます。そこに慈悲は存在しません。


 死を前にすれば、すべての理屈は吹っ飛びます。それはそうです。理屈も信念も、すべて今の私が様々な経験や学識や知恵で練り上げたものであり、それは死と共に必ず崩れ去るものだからです。そして死を前にすれば、当然ながら「いかに生きるか」は意味を為さなくなります。その時問題になるのは、「死んだらどうなるのか」の一点のみです。
 親鸞聖人の教えは、その「死んだらどうなるのか」の大問題に、明らかな解決をもたらすものだということです。




>一切皆空について


 順番が入れ替わりになりますが、上の話と関連があると思いますので、歎異抄第二章の前にこちらについて述べたいと思います。


>「原子」「素粒子」まで行っても結局実体はなく、すべて「概念」でしかない。それを仏教では「一切皆空」と教えるわけです。


 11月5日のコメントで私はこのように書いたわけですが、それに対し、eminusさんから


>ぼくの理解では、仏教でいう「一切皆空」とは、「すべてが概念だ。」といってるんじゃなく、「すべては縁起だ。」って意味です。「概念」と「縁起」とはぜんぜん違う。


 とご指摘を頂きました。これに関しては、私の書き方がまずかっただろうと思います。
 冗長になってしまうのでここに長々と引用することは控えますが、11月5日のコメントの要点は「我々は概念で物を見るが、その概念とは森羅万象の真の姿を映したものではない」ということで、「一切皆空」は「物の真の姿」を映した仏語ですね。従って、上のコメントで「それを仏教では『一切皆空』と教えるわけです」と述べた「それ」とは「結局実体はなく」の部分のみを指して言ったつもりだったのです。仏語を使えば、「概念」は「迷い」と言うべきでしょう。


 仏教に従えば、「森羅万象、一切のものには実体はなく、成住壊空を繰り返す」ということになりますが、eminusさんが言われた「すべては縁起だ」というのは、この「成住壊空を繰り返す」の部分をそのように表現されたのだと拝察します。その意味では、eminusさんのご説明におかしな点は感じませんでした。ただ、私の「空」についての理解をもう少し詳しく述べてみると、「実体はなくとらえられないが、無ではなく確かに存在しているもの」を「空」と説かれたのだと理解しています。「『ある』と言った瞬間、人は概念(=迷い)でそれを捉えてしまうので、『ある』とは言えないが、『ない』とも言えない、万物の真の在り方」を指す仏語だと思います。・・・まあこの辺が私の限界ですがw




 ところで、eminusさんが感じておられる「齟齬」とは結局のところ、「私は死後どうなるのか」という問題に行き着くと思うのですが、eminusさんは「仏説では、死ねば私たちの意識(これは阿頼耶識、と言うべきですね)は霧散して自我が保てなくなる、と教えている」とお考えですか? それとも、「仏教では死後も自分が残ると教えているが、自分はそう思っていない」ということでしょうか?


 とりあえず仏教では、明確に「死後、自分は残る」と教えていますね。そうでなければ、六道輪廻も往生浄土も地獄化生もすべて比喩ということになって意味を為さなくなります。
 親鸞聖人の『正信偈』に、インドの龍樹菩薩(ナーガルジュナ)について述べられた部分があって、そこでは


「悉能摧破有無見(ことごとくよく有無の見を摧破し・・・有の見、無の見をすべて打ち破られた)」


と説かれています。
 ここでいう「有の見」「無の見」とは、「常見外道」「断見外道」ともいい、「死後がある」「死後がない」どちらも外道の教えだということで龍樹菩薩はことごとく打ち破られたということです。どっちやねん、て感じですが、これに関しては、阿含経に、極めて簡潔に答えられた仏語があります。


「因果応報なるがゆえに来世なきに非ず、無我なるがゆえに常有に非ず」


 一切衆生は因果の道理に従って善果悪果を受け続けるものだから、死ねばなくなるわけではない。ただし諸法無我が真理であるから、今の自分が続くわけでもない、すなわち「今の自分はこの世だけの仮の姿であるが、善果悪果(すなわち幸不幸)を受ける自分は死後も残り続ける」と教えるのが仏教である、ということです。
 ここの部分は全ての仏教に通ずる教えですので、ご存知かもしれません。ただ解釈が違うのでしょうか?




>ぼくなんかとも話を続けてくださってるんだと思います。それはたいへんありがたいことです。


 もっと長く引用すべきですが、冗長にならないように失礼ながら省略。
 ご温言痛み入ります。ただまあこれは、本当にお恥ずかしい限りなんですが、おっしゃる通りそのおかげでeminusさんともお話しできたわけで、悪いことばかりでもないのかな、と自分でも思います。
 まったり進行だとは思いますが、これからもよろしくお願いします。<(_ _)>






☆☆☆☆☆☆☆




ぼくからのご返事
20.11.16
「司馬さんとミシマの威を借りて」






 その小説ってのは例えばnoteなんかに発表されるおつもりでしょうか。だったらぜひ読みたいですね。
 しかし小説を書くなんてのはそれこそ煩悩の為せる業だと思うし、たしか寂聴尼もそんな意味のことを仰ってたはずですが、されど日本文学には今も昔も「僧侶にして作家を兼ねる」という方々が少なからずいらっしゃるわけで、たぶん執筆の動機はそれぞれに異なるだろうから一概には言えないでしょうけど、キリスト教圏における「信仰と文学とのかかわり」という巨大なテーマ(西洋の作家はほぼ全員が大なり小なりこのテーマを抱えて小説を書いているといってよい)と考え合わせても、興味ぶかい問題であります。


 わたくしは《非―信》のサイドにポジショニングをしているので、親鸞という方を絶対視せず、たとえば「日本思想史」といった広いフィールドのなかで語らせていただきます。まずはそのことをご了承ください。
 とりあえず一般論として、「不信のままでいいんだよ。」と言ってのける宗教者ってものはそりゃいないでしょうね。akiさんの言われるとおり、それは宗教ではない別の何かでしょう。ところで司馬遼太郎さんは、新潮文庫の『司馬遼太郎が考えたこと 6』所収のエッセイでこう書いてます。


 本願寺は周知のとおり親鸞のひらいた浄土真宗を法義としている。日本の宗教者のなかで親鸞ほど自分の思想に厳格さをもった人間はまれで、かろうじて道元くらいなものだったかもしれない。親鸞は念仏往生を説きながら、念仏すれば浄土に往けるとは断定しなかった。親鸞自身死んでそれを試したわけではなかったからである。「往けるかもしれない」といった。さらにかれの厳格さは念仏のほかの自力雑行をいっさい捨てたことで、神頼みも呪(まじな)いも坐禅も祈祷もいっさいいけないという立場をとり、ひたすらに念仏をとなえ、その唱える念仏すら浄土へ往けるための呪文ではないとした。
 このため親鸞一代は教団というほどの勢力をなさず、裏店の説教所程度のものだった。その子孫は代々貧窮した。本願寺がにわかに日本最大の宗旨になったのは第八代蓮如からであり、蓮如は戦国乱世のあらゆる時代的要素を利用して津々浦々の農村に講をつくり、講の組織者として僧を送り、講を武力から防衛するために一見砦のような真宗式の寺をつくり、その寺々のうえには大寺をつくって分国ごとの管理をさせた。
 蓮如は宗教者というよりも、その時代のたれよりも政治家だったし、アジテーターでもあった。かれは大膨張のために多少とも親鸞の教義を曲げざるをえなかった。しかしそれでも呪(まじな)いをすすめるということはなく、むしろ俗信や呪術に対し一向念仏の一向をたかくかかげて積極的にたたかった(後略……)。


 引用ここまで。




 司馬さんらしい省略や誇張もあるので色々とツッコミたいかもしれませんが、本筋において正当な要約であると思います(この記事を読むほかの方々のために補足しておくと、親鸞と蓮如とのあいだにはほぼ250年のひらきがあります)。
 ぼく自身はまだ「13世紀の民衆社会における鎌倉仏教のありかた。およびその中で親鸞の果たした役割」といった主題についてさほど明瞭な像が描けてはいないので、ふにゃふにゃした言い回しになってしまいますけども、親鸞ってひとは救いを求めてやってくる人たちには全霊を尽くして平安を与えるべく努めたけれども、自分から一大勢力を成そうと獅子奮迅されたタイプとは思えないですね。
 前回ぼくの述べたことは、とりあえずそういった意味に取っていただければと思います。
 ただそれでも、「救いを求めて彼のもとにやってくる人たち」は少なからぬ数に上ったであろうとは思っています。それは、当時の民衆にとって「死」というものが今日のわれわれからは想像もできないくらい切実なものだったから。飢饉もあれば戦乱もあれば悪疫もある。暴力や抑圧やら理不尽やらも、日常として在ったでしょう。「死」が身近なればこそ、「宗教」ってものが身近になる。というか、みんなそれを「宗教」とすら感じてなかったでしょうねたぶん。
 やっぱりぼくは、「現代人(21世紀人)」と「中世人(13世紀人)」とを「同じ人間じゃないか!」みたいなノリで一緒くたに論じることに抵抗をおぼえるんですね。それなりに安定した社会で安定した生活をおくる今日のぼくたちと、「末法」とすら呼ばれた世の中で救いを求めて親鸞のもとに集まった信徒(なかにはファンっていうか、信徒未満のひともけっこういたと思いますが)の皆さんとはやはり全然別物だろうと思います。そこは分けとくべきではないか。
 そんなふうに思ってるせいか、このたび頂戴したコメントのなかで、ぼくの

>「全人類にとって最終的な大問題」というものがもし在るとするならば、それは「死」ではなくて「生」ではないでしょうか。「いかに生きるか。」ということです。

 というフレーズに答えて下さったくだりは、全文のなかでもっとも長いパラグラフなんですけども、正直ここは何度か読み返しても意味がすっきり届いてきませんでした。akiさんからのコメントでこれまでそんなことはなかったので、それはそれで逆に興味ぶかかったんですけども。
 このパラグラフで述べられていることは、前のご返事でぼくがハイデガー(1889 明治22~ 1976 昭和51。ナチスに加担したとして戦後ドイツでは一時忌避されたが、それでもおそらく20世紀最大の哲学者で、今もなお世界の哲学者たちに影響を与え続けている)のことばとして引用した、




人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣(つか)えない。
死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。




 っていう簡潔な一節に収斂できると思うんですが、それでなにか足りないところはありますか? ちなみにぼくは、「死」というものを「安寧」「静寂」「慰安」といったイメージで捉えているので、前にも書いたと思いますが、恐れや不安はほんとにないんですよねえ……。ただ、ハイデガーさんの提言にならって、「自分の可能性を見つめ」るために、ふだんから「自身の死」については自分なりに考えてるつもりですけどね。「そんなんじゃだめだ。生温い。」と言われるのなら、それはそうかもしれないけれど、とりあえず不都合は感じていないので、当面は、現状のまま行くしかありません。


 それで、「一切皆空」および「仏教における死の観念」についてなんですが、このたびのコメントに書かれていることを踏まえたうえで、またしても文豪の威を借りるわけですけども(笑)、大好きな三島由紀夫の『豊饒の海 第三部 暁の寺』より、新潮文庫版29頁から30頁にいたる文章を引用いたします。




 (……前略)
 学者の説くところによれば、印度の宗教哲学は、次のような六期に分(わか)たれる。
 第一期は梨倶吠陀(リグヴェーダ)の時代である。
 第二期は祭壇哲学の時代である。
 第三期はウパニシャッド(奥義書哲学)の時代で、西暦紀元前八世紀から五世紀に及び、梵と我(アートマン)の一体を理想とする自我哲学の時代であるが、輪廻(サムサーラ)の思想はこの時期にはじめて明瞭にあらわれ、これが業(カルマ)の思想と結びついて因果律を与えられ、我(アートマン)の思想と結びついて体系化されたのである。
 第四期は諸学派分立時代である。
 第五期は、紀元前三世紀から紀元一世紀にいたる小乗仏教完成時代である。
 第六期はその後五百年に亘る大乗仏教興隆時代である。
 問題はその第五期であって、本多(eminus注・この小説の主人公。もと判事で今は弁護士)がむかし親しんで、輪廻転生を法の条文にまでとり入れていることにおどろいたマヌの法典は、正にこの時期に集大成されたのであるが、同じ業思想でも、仏教以後の業思想は、ウパニシャッドのそれとは劃然(かくぜん)とちがっている。どこがちがっているかというと、我(アートマン)が否定されたのである。仏教の本質は正にここにあると謂ってよい。
 仏教を異教と分つ三特色の一つに、諸法無我印というのがある。仏教は無我を称えて、生命の中心主体と考えられた我(アートマン)を否定し、否定の赴くところ、我(アートマン)の来世への存続であるところの「霊魂」をも否定した。仏教は霊魂というものを認めない。生命に霊魂という中心の実体がなければ、無生物にもそれがない。いや、万有のどこにも固有の実体がないことは、あたかも骨のない水母(くらげ)のようである。
 しかし、ここに困ったことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、悪業によって悪趣に落ち、善業によって善趣に昇るのは、一体何者なのであるか? 我がないとすれば、輪廻転生の主体はそもそも何なのであろうか?
 仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、こういう矛盾撞着に苦しんで、各派に分れて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかったのが、小乗仏教の三百年間だと考えられるのである。
 この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが、小乗の経量部にいたって、あたかも香水の香りが衣服に薫じつくように、善悪業の余習が意志に残って意志を性格づけ、その性格づけられた力が引果(eminus注・「因果」ではなく、三島はこう書いてます)の原因になるという、「種子薫習(しゅうじくんじゅう)」の概念が定立せられて、これがのちの唯識への先蹤をなすのだった。
(後略……)




 引用ここまで。




 さすがに東大の法学部を首席で出た大秀才だけあって、的確な要約ですね。『豊饒の海』4部作は輪廻転生(というか生まれ変わり)をモチーフにしていて、ミシマってひとは神にも仏にもまったく救いを求めるタイプじゃないんだけれど、そのためにだけ仏教思想を猛勉強したわけですね。文壇の先輩であり盟友でもあった武田泰淳……この方も滅法アタマのいい人で、浄土宗の僧侶でもあり、中国文学者でもありましたが……から話を聞いたり、参考文献を教えて貰ったりと、いろいろ教示を受けたと聞いていますが。
 『豊饒の海』の第三部である「暁の寺」は1968年から1970年にかけて雑誌「新潮」に掲載されたので、この文章も50年ほど前のものってことになるわけですが、今でも十分通用するでしょう。仏教思想にかんするぼくの認識もおおむねこんなところです。
 そこでakiさんからの


>(前略……)eminusさんは「仏説では、死ねば私たちの意識(これは阿頼耶識、と言うべきですね)は霧散して自我が保てなくなる、と教えている」とお考えですか? それとも、「仏教では死後も自分が残ると教えているが、自分はそう思っていない」ということでしょうか?


 というご質問にお答えさせていただくならば、この二択でいえば後者ですね。仏教ではこのように教えていますが、これについてはまったく納得できないです。「なぜ納得できないか。」については、長くなりすぎるので別の機会に譲りたいと思いますが……。
 そうは言いつつ、①思想のありかたとして興味はあるし、②《信》とか「超越」とか「聖なるもの」の放つ眩い光彩のようなものにはずっと心を惹かれ続けているので、《非―信》のサイドに留まりながらも、仏教にもキリスト教にもイスラームにも、またそのほかの宗教についても、ひきつづき関心をもって勉強をしていきたいと思っています。まったり、ゆっくり進行でぜんぜん構いませんので、よろしくお願いいたします。


この記事の続き。
20.11.17  akiさんのコメントと、ぼくからのご返事「ハイデガーのほうへ。」




20.11.10 akiさんのコメントと、ぼくからのご返事。「親しみ。」

2020-11-10 | 哲学/思想/社会学

akiさんのコメント
2020.11.08
「お返事」


 こんばんは。akiでございます。


 改めて見てみたら、11月5日にはほぼ一日で(と言っても日はまたいでますが)3本もコメントを投稿させていただいてましたね。さすがにこれはやりすぎだぞ、返事が空いたと思ったら立て続けに投稿したり、ちと極端すぎるぞと反省いたしました。まあ1日1本、ないしは2~3日に1本くらいが、ご負担を掛けることも少なく、じっくり考えを練ることもできていいかなと思いますので、その辺りで行きたいと思います。(^^)


 ・・・で、前回のコメントでは、かなり(というか完全に)批判的な内容になってしまいましたので、ご気分を害することがなかったかと心配しておりましたが・・・おそらくこらえて下さっているのだろうとは思いますが、その中でもご返事をくださりありがとうございます。


 それで、今回のご返事の中では、


>吉本さんは、《非―信》の側にいるんです。ぼくももちろんそうです。でも、《信》の側に心惹かれてもいるわけです。


 この表現に、「なるほど」と得心するところが多くありました。この文脈で見るならば、猫町さんの


「極端にいえば、不-〈信〉と〈信〉の境界がなくなるということです」という文言も、


「親鸞の教えは、非信・不信の者をも惹きつける魅力を持っている」


 と換言すれば、得心できるものでもあります。(まあこれは断章主義による曲解でしょうけど)




 eminusさんは非信の人の立場として、同じく非信の立場から「親鸞の教え」に惹かれた吉本隆明さんの見解に、惹かれるものを感じられた、ということですね。了解いたしました。
 そのこと自体は良いことだと(上から目線でスミマセン。いい言い方が浮かばない・・・)私も思います。




 ただ、そこで止まってしまっては、実にもったいない。親鸞聖人の教えは、全人類にとって最終的な大問題である「死の問題」に完全解決をもたらす力を持っているのです。折角親鸞聖人とよい縁を持たれたのですから、ぜひ、その教えの真の姿を知ってもらいたい。そう私は感じます。


 まああんまりこっちからがっつきすぎるのも異様ですので、この辺で収めておきます。




 ただ、今回テキストとして提出いたしました『歎異抄をひらく』の著者、高森顕徹先生については、私自身の立場を明らかにするうえでも少しご説明いたしたいと思います。




 調べられた結果でもお分かりかと思いますが、高森先生は若い頃は本願寺教団の中から真宗を変革しようとされていましたが、それを断念して「浄土真宗親鸞会」という新たな団体を立ち上げられました。本願寺とは、親鸞聖人の教義について様々な論争を行ったため、本願寺の人の中には忌み嫌う人もいますが、また逆に「高森さんは正しいよ」と共感する人もいます。(まあこの辺りの毀誉褒貶は、目立つ人にはありがちなことだと思います)


 私自身は学生の頃に高森先生の説法に出会い、以降ずっと聞法をしてきています。ただし、私は聞法者としては雑念が多すぎて落第者だと思っています。教義については、聞法を重ねてきた結果多少知ってはいますが、親鸞聖人の教えられた他力信心をまだ得てはいません。蓮如上人が言われた「不信心の輩」あるいは「未信の徒」です。
 従って、「私の話を聞け」と言うつもりはさらさらありません。私にできるのはせいぜい「紹介すること」だけです。




 歎異抄第9章については先のコメントで述べましたので、後述べなければならないのは「歎異抄第2章」についてと「一切皆空」についての二点ですね。
 「歎異抄第2章」については、猫町さんの解釈にはやはり致命的な間違いがあります。その説明をするためにはそれ相応の字数が必要ですので、これは次回のコメントで述べさせていただきます。
 「一切皆空」については、私も正しく理解しているかどうかは怪しいです(笑) ただ、先のコメントの書き方では誤解を生じる部分もあったと思いますので、そこを丁寧に説明し、「判らんところは判らん」で丸投げする感じですかねw




 で、最後にこれが本題かもしれません(笑)


 私の拙い言葉を読まれるより、実際に『歎異抄をひらく』を手に取られて読まれることをお奨めします。高森先生の著書で市販されているものには他に『なぜ生きる』などのシリーズもありますので、それらを通読されれば、ある程度の「教えの姿かたち」が見えてくるのではなかろうかと。




 はい、以上です。今回はつらつらと所感をまとまりなく書き連ねた感じですね。次回からが本論ですか。また、よろしくお願いします。<(_ _)>




☆☆☆☆☆☆☆




ぼくからのご返事
2020.11.10
「親しみ。」




 2~3日に1本くらいのペースというのは手ごろですね。
 akiさんからのコメントで気分を害するってことはほんとにないです。いつも心待ちにしてるし、よい刺激を受けてます。ちょうど講談社……じゃないな、高段者と将棋を指してる時の感じですね。これはべつだん勝ち負けを競ってるって含みではありません。おわかり頂けてるとは思いますが、あくまで「ほどよい緊張感があって楽しい。」ってことです。
 ただ、前にも述べたとおりコピペさせて頂いた文章の責はわたくしことeminusにあります。猫町さんにしても、ご自分のレビューが与り知らぬ所で云々されるのはけして面白くないでしょうから、たとえば今回いただいたコメントの文中において、


 「歎異抄第2章」については、猫町さんの解釈にはやはり致命的な間違いがあります。その説明をするためにはそれ相応の字数が必要ですので、これは次回のコメントで述べさせていただきます。


 とあるのは、ご遠慮なく、


 「歎異抄第2章」については、eminusさんの解釈にはやはり致命的な間違いがあります。その説明をするためにはそれ相応の字数が必要ですので……(後略)


 と書いていただいて構いませんし、次回以降もその塩梅でやって頂ければと思います。また、この記事を読まれる他の皆様についても、そのつもりでお読み頂ければ幸いです。
 ところで、「気分を害する」というならば、むしろこちらのほうがその懸念をもっていますね。これは信仰ではないですが、ぼくは若い頃からニーチェについてわりと真面目に向き合ってきました。そういう人間からすると、白取春彦さんの『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)はとても不愉快です。ましてや適菜収さんの『キリスト教は邪教です!現代語訳『アンチクリスト』』(講談社+α新書)に至っては、「なめとんのかコラ。」という感じですね。
 つまり、人類史レベルの巨大な思想家をダシにして、専門の研究者でもない人っていうか、当の思想家と全身全霊を賭けて取り組んだこともないような人たちが、チャラい自己啓発本だの、粗悪な入門書(?)を書いて、ふだん本を読まない一般ピープルをころころと転がして小銭を(でもないかな。大金ですね)稼ぐっていう安いビジネスモデルですね。これは正直アタマにくるぜって話です。
 元の思想家の考えが捻じ曲がって広まるという点からいえば、それこそ禁書扱いにしたいくらいの気分ですけども、けど、それでもまあ、そうやってニーチェにふれた読者の中には、「じゃあきちんとニーチェを読んでみよう。」ってんで、ちくま学芸文庫版の全集に手を伸ばす人が数%はいるかも知れぬし、そういった機縁になるのなら、これはこれでアリなのかなあ、と自分を宥めてみたりもするんですが。
 つまらぬ例を出してしまいましたけれども、ニーチェですらそうなんだから、「信仰」の対象である親鸞さんと真摯に向き合っている方々からすれば、《非―信》の側から親鸞について聞いたふうなことをいうこと自体がもう僭越じゃないかとは恐れてます。むろん吉本さんとか、三木清とか、そういった人たちとぼくなんかとではレベルがぜんぜん違うわけだけど、それでも、《非―信》の側にいるってことは確かですから。
 ただ、そういった凡夫凡婦をも峻拒せず、やわらかく包摂してくれるのが親鸞さんじゃないのかなって親しみは前々から持っていて、その感じは、ぼくが読んだかぎりでは、古今東西の宗教者のなかでたしかに親鸞さんだけですね。だから、これはほんとに「気分を害する」ことになるのではないかと恐れるんですが、もし《信徒》と《それ以外の者たち》とのあいだに垣根を立てて、前者のほうにだけ語りかけるというのであれば、少なくともぼくにとっては、親鸞さんはむろん偉大な宗教者だけれど、それでも、ほかの偉大な宗教者の方々と同じということになります。あくまで垣根のこちら側、つまり《非―信》のサイドから、畏敬の念をもって仰ぎ見るだけ……ということになってしまうわけです。


 ところで、親鸞さんのこととはまた別に、ひとつ切り離して取り上げさせて頂きたいのですが、このたびのコメントのなかの「全人類にとって最終的な大問題である「死の問題」」というフレーズについて、ぼくはすこし引っ掛かりました。これはあるいはバナナフィッシュの話の時からずっと底に流れつづけているテーマじゃないかと思うんですけども、「全人類にとって最終的な大問題」というものがもし在るとするならば、それは「死」ではなくて「生」ではないでしょうか。「いかに生きるか。」ということです。むろんこれは、akiさんには言わずもがなのことであろうし、だからこそ信頼できる先達を介して親鸞と向き合っておられるのだとも思うのですが、すこし「死」が前面に出ているように感じたんですよね……。
 もちろん、


人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣(つか)えない。
死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。


 というハイデガー(1889 明治22~ 1976 昭和51。ナチスに加担したとして戦後ドイツでは一時忌避されたが、それでもおそらく20世紀最大の哲学者で、今もなお世界の哲学者たちに影響を与え続けている)のことばもありますし、そのつもりで言っておられるのだとは思うんですけども。



 それにしても、「私は聞法者としては雑念が多すぎて落第者だと思っています。教義については、聞法を重ねてきた結果多少知ってはいますが、親鸞聖人の教えられた他力信心をまだ得てはいません。蓮如上人が言われた「不信心の輩」あるいは「未信の徒」です。」というくだりについては、何ていうか、ほっとしましたよ。だって、そうでなければ、ぼくみたいな凡俗とはたぶん対話が成立しないと思うので。「雑念が多すぎる」からこそアニメもご覧になるんだろうし(ここにいらしたきっかけは『宇宙よりも遠い場所』でしたよね)、ぼくなんかとも話を続けてくださってるんだと思います。それはたいへんありがたいことです。



 それで、「歎異抄第2章」と、「一切皆空」についてですが、上ではあのように述べましたけども、《信》ということはひとまず措いて、文献学的といいますか、解釈学的といいますか、記された文言をあくまでも「テクスト」と見て、それを解釈するってことにかけては私も多少の経験がありますので、あくまで《非―信》の立場からですが、ひきつづきご意見をうかがって、それについてのご返事を述べさせて頂きたく思います。こちらこそよろしくお願いします。それから、米大統領選はもちろん、「指し掛け」になっている「中国」の話や「軍事」の話など、このたびの件が一段落したら、また色々とこのような形でお話が続けられたら幸いです。それでは。




この記事の続き。
20.11.16 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事「司馬さんとミシマの威を借りて」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/0422f9a8d7c631d86cef4b3b0a7d1e74










20.11.07 akiさんとの対話「吉本隆明と親鸞さん。」

2020-11-07 | 哲学/思想/社会学


akiさんのコメント
20.11.06
「歎異抄第9章」




 こんばんは。akiでございます。


 仏教について真剣に問われたからには、私も覚悟を決めて述べるしかございますまい。浅学菲才ながらよろしくお願いします。<(_ _)>
 ただし、やたらと長文になってしまっても論点がぼけてしまいますし、精神的にも大きく疲労するでしょうから(笑)、一つずつ参りましょう。




 まずは、猫町さんが解釈された『歎異抄第9章』について。
 結論から申しますと、猫町さんの解釈は親鸞聖人の真意からは大きく外れます。思いっきり、剃刀で致命傷を負っておられますね。だからこそ、蓮如上人は「仏縁なき者に見せるな」とおっしゃったわけで、やはり蓮如上人は正しかったことになってしまいます。残念ながら。




 ではこの9章は、どのように解釈するのが親鸞聖人の真意に適うのか。こちらもテキストを提示して、その文面をお借りしようと思います。eminusさんのことですから、すでにご存じかもしれませんが。




『歎異抄をひらく』高森顕徹著 1万年堂出版
 243~251ページ


以下引用


「親鸞さまでさえ、喜ぶ心がないと仰っている。喜べなくて当然だ」と広言し、‘喜ぶのはおかしい‘という者さえいる始末。『歎異抄』の危ぶさのひとつである。
 親鸞聖人と唯円房の対話を記すこの章は、共鳴しやすいだけに曲解が多い。
「私たちが喜べないのは当たり前」と共感し、懺悔も歓喜もない自己の信仰を正当化するのに都合のいい、言い回しのところだからだ。
「この唯円、念仏を称えましても、天に踊り地に踊るような歓喜の心が起きません。早く浄土へ往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」
 率直な披瀝に聖人の返答も、これまた虚心坦懐である。
「親鸞も同じ不審を懐いていた。そなたも同じ心であったのか」


 この聖人の告白は、弥陀に救い摂られた人の懺悔であって、懺悔も歓喜もなく、喜ばぬのを手柄のように思っている、偽装信仰者の不満とは全く違うのだ。
「永劫の迷いの絆を断ち切られ、広大な世界に救われても喜ばぬ、どこどこまでも助かる縁なき不実者じゃのう。そうであろう唯円房、こんな者が弥陀の独り子だとは、なんと頼もしい限りではないか」


 肉体の難病が救われても嬉しいのに、未来永劫、助かる縁なき者が、不可称・不可説・不可思議の功徳が満ち溢れ、かの弥勒菩薩と同格になり、諸仏に等しい身になるのである。天に踊り地に踊るほど喜んで当然なのだ。
 なのに喜ばぬのは、この世の欲望や執着に迷う煩悩のしわざ。煩悩に狂い、三年の恩を三日で忘れる猫よりも恩知らずの悪性に、懺悔のほかはないのである。
 同様な告白は、聖人の主著『教行信証』にも載っている。


 悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし(教行信証)
 情けない親鸞だなあ。愛欲の広海に沈み切り、名誉欲と利益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になったことを少しも喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいていながらちょっとも愉しまない。なんと恥ずかしいことか、痛ましいことよ。


 あまりに自虐主義との批判もあるが、これが聖人の真情だったに違いない。


 懺悔の裏には、歓喜がある。
「しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり」(『歎異抄』第9章)
(とうの昔に弥陀は、そんな煩悩の巨魁が私だと、よくよくご存じで本願を建てて下さったのだ。感泣せずにおれないではないか)
も、そのひとつ。
「後序」にも、聖人の歓声が轟く。


 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ(歎異抄)
 弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、助けんと奮い立って下された本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか。


 このような歓喜があればこそ、しぶとい呆れる根性を知らされて、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
 の懺悔があるのである。
 仏法の入り口にも立たない者が、針の穴から天を覗いて、「喜べないのが当然」と開き直っているのとは、全然次元が異なるのだ。弥陀の救いに値わない者には、懺悔もなければ歓喜もない。当然だろう。
 また、急いで浄土へ往く気もなく、少し体調を崩すと「死ぬのではなかろうか」と、心細く思えてくるのも煩悩のしわざである。
 果てしない過去から流転してきた、苦悩の絶えぬこの世ではあるけれど、なぜか故郷の如く懐かしく、安楽な浄土を恋い慕わず、急ぐ心のないのが私たちの実態だ。
 暴風駛雨のような煩悩を見るにつけ、いよいよ弥陀の本願は、私一人を助けんがためであったと頼もしく、‘浄土往生間違いなし‘と、ますます明らかに知らされるのである。
「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え」(『歎異抄』第9章後半)が、その告白だろう。
 喜ぶべきことを喜ばぬ、麻痺しきった自性が見えるほど、救われた不思議を喜ばずにおれぬのだ。それをこんな喩えで、聖人は解説される。


 罪障功徳の体となる
 氷と水のごとくにて
 氷多きに水多し
 障り多きに徳多し  (高僧和讃)
 弥陀に救い摂られると、助けようのない煩悩(罪障)の氷が、幸せよろこぶ菩提(功徳)の水となる。大きい氷ほど、解けた水が多いように、極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者である。


 九章で言えば、こうなろう。
「喜ぶべきことを喜ばぬ心(煩悩)」が「氷」であり、「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候えの喜び(菩提)」が「水」に当たろう。
 無尽の煩悩が照らし出され、無限の懺悔と歓喜に転じる不思議さを、
「煩悩即菩提」(煩悩が、そのまま菩提となる)
とか
「転悪成善」(悪が、そのまま善となる)
と簡明に説かれる。
 喜ばぬ心が見えるほど喜ばずにおれない、心も言葉も絶えた大信海に、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)なり」(教行信証)
 ただ聖人は、讃仰されるばかりである。




 以上、引用終わり


 ・・・最早私の拙い言葉を足す必要などないと思いますが、「喜ぶ心がない」との告白は、「信楽開発の時尅の極促」である「信一念」を通り、自力を捨てて他力に帰した人の、他力信心の強い光に照らされて徹見せられた「真実の自己」の姿に対する懺悔の言葉であって、猫町さんのおっしゃるような「不-〈信〉こそが人間の煩悩のせい」というようなものとは全く次元が違います。
 猫町さんは「極端にいえば、不-〈信〉と〈信〉の境界がなくなるということです」とも仰っていますが、これは「捨自帰他」の破壊であって、最早浄土真宗でも親鸞聖人の教えでもありません。甚だ失礼を承知で敢えて申し上げますが、これこそは『歎異抄』において歎ぜられるところの「邪義・異安心」です。
「弥陀を信じられない心」を親鸞聖人は「疑情」と言われましたが、この「疑情」は信一念において完全に消滅するものです。すなわち、他力信心の人にとって、弥陀の存在、弥陀の本願の存在、そして煩悩具足の自身の姿に対する疑いの心は一点の露塵ほども存在しません。『歎異抄第9章』の文に戻れば、唯円と親鸞聖人は「喜ぶ心がない」「早く浄土に往きたい心もない」と告白されてはいても、「弥陀を信じられない」とはどこにも仰ってはいないのです。教えを知らない人が見れば同じように思えるかもしれませんが、この両者は全く違う、と教えるのが親鸞聖人です。




>ぼく自身、この考えにはとても惹かれるのですが、


 「そのままでいいんだよ」と言われれば、誰でも安心できますよね。そのお気持ちは判る気がしますが、それはやはり、親鸞聖人が教えられた「そのまま」の弥陀の救いとは、天地雲泥の差があると思います。






☆☆☆☆☆☆☆






ぼくからのご返事
20.11.07
「吉本隆明と親鸞さん」






 前回コピペさせて貰った文章は、むろん別人28号なので多少の異議はありますけれども、ほぼ私ことeminusのものと見なしていただいてよいです。あれほど的確にまとめられぬからこそ引用させて頂いたわけで、そう考えると面映ゆいんですが、ともあれ文責はすべて引用者たるわたくしにあります。だからあの方が歎異抄を誤読しておられるとしたら、それは私が誤読しているわけですし、『最後の親鸞』という書物の主旨はあの方が要約しておられる通りだから、吉本隆明もまた歎異抄を誤読してたってことになります。


 それで、あの文章の肝(きも)は……ということはすなわち、「ぼく(eminus)がいちばん言いたかったことは」と換言しても構わないんですが……「《信》と《非―信》あるいは《不―信》とのあいだに横たわる懸隔」というところにあります。それは断崖絶壁にも比すべき懸隔ですね。深淵といってもいいかもしれない。


 『歎異抄をひらく』(1万年堂出版)については、これが初耳だったので、調べてみました。2008年の刊行ですね。12年経ってるわけですが、最大手の通販サイトでは「歎異抄」のカテゴリで「ベストセラー1位」となっています。吉本さんのより売れてるわけですね。あたりまえか(笑)。ほか、電子版も出ているし、アニメの原作にもなっているではないですか。親鸞聖人のCVは石坂浩二さん、唯円が増田俊樹さん、キャストには、細谷佳正、三木眞一郎さんら実力派の名も見えますね。


 著者の高森顕徹さんは、ウィキペディアによれば、ご自身の会派を立ち上げて、のちに浄土真宗本願寺派の僧籍を離脱した……とあります。あくまでもぼくの感想ですが、ともすれば通俗的な解釈に流されがちな親鸞さんの教えを、できるかぎり純化して世に伝える……ことに精力を傾けておられるようにお見受けしました。いずれにせよ、《信》と《非―信》あるいは《不―信》との対比でいえば、《信》の側におられることは間違いありません。


 吉本さんは、《非―信》の側にいるんです。ぼくももちろんそうです。でも、《信》の側に心惹かれてもいるわけです。というのも、それを或いはカントに倣って「超越」と呼んでもいいし、バタイユに倣って「聖なるもの」と呼んでもいいし、たんにあっさり「宗教」と呼んでもいいんだけれど、とにかく人間の精神の活動にまつわるさまざまなもの……哲学にせよ思想にせよ、文学にせよ芸術にせよ、さらには倫理にせよ法にせよ、もっというなら政治や経済に至るまで……それらすべてが根源のところで「そちら側」から来てるんだぜってことをひしひしと感じてるからですね。


 吉本さんはつまり、「親鸞さんは大衆のためにぎりぎりまで宗教を解体した。」といった内容のことを述べてるわけだから、それはもう、まっとうな信徒の方からは叱られて当然なんですけども、ぼくみたく、「けっして自ら断崖絶壁ないしは深淵を跳び超えて《信》のサイドへ行くことはできないけれど、どうしてもそちらの側に心を惹かれて、聖書を読んだりクルアーン(コーラン、というよりこちらのほうが正確らしいです)を読んだり法華経を読んだり神道の本を読んだり歎異抄を読んだりしている俗物」としては、自分と親鸞さんとを結びつけるうえで、吉本さんのことばがものすごくしっくり来るぞってところはあるわけです。


 何本か前の記事で名前を出した哲学者の三木清はほんとにアタマのいい人で、これほどの人材を意味なく獄死させたってだけでも戦中の官憲は言語道断なんですが、結果として遺稿になってしまった「親鸞」というエッセイで、的確なことをいろいろ言っております。「親鸞が仏教を人間味あふれるものにしたのは確かだが、だからといって親鸞を文芸的なり美的に捉えてわかったつもりになってはいけない。」とか、「親鸞の文章には到るところ懺悔がある。同時にそこには到るところ讃歌がある。懺悔と讃歌と、讃歌と懺悔と、つねに相応じている。」とか、「破戒と無戒とは違う。」とか、肯綮に当たることをきっちりと書き残していますね。


 ぼくだって、親鸞が比叡山で修行と勉学を積んだ偉い人だってことは承知してるんですよね。凡夫にまがう煩悩を言行録に留めてはいても、われわれの及びもつかぬ人格者だってことも承知してます。ぼくでさえわかってるんだから、吉本さんも重々わかってるでしょう。そのうえで、「親鸞さんは大衆のためにぎりぎりまで宗教を解体した。」といった内容のことを述べているわけです。そしてそれは、《非―信》あるいは《不―信》のサイドにいるぼくたちが、どのように《信》のサイドにかかわることができるのか。という巨大なテーマについての瑞々しいヒントを提示してくれてるように思うんですよ。



この記事の続き。
20.11.10 akiさんのコメントと、ぼくからのご返事。「親しみ。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/f9d9ecd574d09d0c794dc2e5a97bb582









20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事02「かなり真面目に仏教の話。」

2020-11-05 | 哲学/思想/社会学


akiさんからのコメント
20.11.05
「アメリカは騒然としてますねえ」






こんにちは。今回は早いお返事(笑)




>米大統領選


 あっちはあっちで凄いことになってますねえ。法廷闘争まで持ち込まれたら解決に一体いつまでかかるのか。
 不正投票の証拠をトランプ側がどこまで抑えているかにもよるでしょうが、今ネットで流布している不正情報が本当のことだとすれば、それも民主党側が支配する裁判所なら公平な裁定が下されるはずもありませんから、これは揉めるでしょうねえ・・・。
 なんか民主主義の本家とも目されるアメリカで民主主義の危機が起こっているとしたら、なんとも暗澹とした気持ちになります。




>「私」というのは、ほかの森羅万象と同じく「現象」であると考えています。


 ああ、はい。eminusさんはおそらくそのようにお考えなのだろうな、と思ってましたが、今回のご返事でよりはっきりしました。
 恐らく現代日本人はそう考える人が多いでしょうし、それがわかりやすい見方であることも確かでしょうが、これは私と言うより仏教、そしてほとんどすべての宗教とは相容れない考え方でしょう。まあだから現代日本人は無宗教と言われるわけですが。


 「台風」にしろ「こころ」にしろ、あるいは「森羅万象」にしろ、そういう実体というものは確かに存在しません。「台風」で言えば、それは要するに気圧の変化による現象に過ぎず、そもそも「気圧」「現象」「変化」といったものも人間の概念であって実体ではありません。そうやって細かく見ていけば、「原子」「素粒子」まで行っても結局実体はなく、すべて「概念」でしかない。それを仏教では「一切皆空」と教えるわけです。
 では、その「概念」を与えている「私」とは一体なんなのでしょうか。
 もしその「私」もまた「現象に過ぎない」ということであれば、「概念を与えている私」もまた「概念に過ぎない」ことになり、「私の存在」自体が無に帰します。要するに、「死後の私はない」と言っている人は、「私など最初から存在しない」と言っていることと同義です。
 これは大いなる論理矛盾である、と私には思えます。
 人間の心は現象である、という言い方は正しい。確かにその通りですし、現象なら人間にもわかるのです。しかし、「現象でしかない」ということは、そう言う人自身が存在しないということであって、「現象でしかない」と言うことそのものが無意味であり存在しないことと同義なのです。


 まあ以上が「私の死後は存在する」と私が思う論理的な根拠ですね。重ねて言いますが、これはあくまで私自身の考えであって仏教ではないです。




>親鸞さんの教えはそんな「甘え」を許すように聞こえます。


 ああなるほど。そういう意味でしたか。何となくですが理解できたように思います。
 ただまあ、これは親鸞聖人に責任を求めるのはお門違いだろうと思いますね。具体的に吉本隆明さんが親鸞聖人の教えのどこに甘えたのかがわからないのではっきりしたことは言えませんが、いずれにしろ親鸞聖人の教えを正しく受け取った結果というよりは、吉本さんの我流で理解した結果のことであって、吉本さんに全責任を帰すべき話だと私は思います。
 親鸞聖人が教えたのはあくまで「捨自帰他」です。自力を捨て、他力に帰せよ、という教えは、一切の我流を排除します。その教えに「甘える」ということは、すなわち「誤解する」ということとイコールです。
 具体的に、親鸞聖人の教えのどの部分をどのように解釈したかがわかれば、もう少し具体的に答えられそうな気もしますが・・・いかがでしょう?






☆☆☆☆☆☆☆





ぼくからのご返事
20.11.05
「かなり真面目に仏教の話。」


 ちょっと今回は対立を鮮明にせねばならぬかもしれません。いや大統領選の話じゃなくて(笑)、米大統領選のことは、たいへんな話なんで、また別に記事を立てますが(あくまで予定)、akiさんとぼくとの「仏教観」に小さからぬ齟齬を感じるのです。
 ぼくの理解では、仏教でいう「一切皆空」とは、「すべてが概念だ。」といってるんじゃなく、「すべては縁起だ。」って意味です。「概念」と「縁起」とはぜんぜん違う。それで、「では縁起とは何ぞや。」ってことで、これまでに膨大な論が重ねられてきたし、今日もなお論議が続いてるはずです。
 でも、議論の細部はさておいて、「縁起」とは「関係性」の謂である、とざっくりまとめてしまっても、けして誤りではないでしょう。
 ぼくの使った「現象」というキーワード(キーコンセプト)がもし誤解を招いたのなら補正しなければなりませんが、「現象」とは「空漠として実体なきもの」って含みではなく、「流転極まりなき関係性のただなかにあるもの」、すなわち「縁起」のなかにあるもの、という含みでした。
 そういうことでは、ぼくの考え方はむしろ仏教的だと思っています。akiさんのおっしゃる「≪永遠不滅の実体としての私≫が≪死後≫もなお厳然として存続する。」という考え方は、むしろユダヤ教―キリスト教―イスラーム的な思想に近いとぼくには思えます。
 ただ、真宗の教えの説く「極楽浄土」という考えは、そちらに似ているところがありますね。だから「仏教のなかでも浄土真宗には一神教に近いものを感じる」と前回述べました。
 そして、お葬式をきちんと執り行い、お骨をお墓に安置し、折々には法事を営む「現代日本人」は、信仰の強弱は別として、やはり心情としてはそちらの発想に身を委ねてるんじゃないでしょうか。だから、今だって日本人の多くは、ぼくみたいに「私とは現象である。」なんて感じてないと思いますよ。
 「現代人の宗教意識」みたいなアンケートで、「私とは現象であると思いますか。」なんて質問があったら、ほとんどの人が「はあ?」と答えるんじゃないでしょうか(笑)。
 とはいえ、「私とは現象である。」って発想は、現代科学のそれに近接してるとは思いますね。科学の知見がようやく仏教に追い付いてきたわけで、凄いことだと思ってますけども。
 「縁起」の中に在る「私」、それをぼくは我流の用語で「結ぼれ(結び目)としての私」と呼んでおりますが、「結ぼれとしての私」がご飯を食べたり、水を飲んだりして生命を維持し、住居で暮らしたり服を着て外に出たりして社会活動を行い、本を読んだり物事を考察したりして認識を深め、総じて「人」としての生涯をまっとうすることは、「すべては流転する関係性のなかにある」こと、すなわち「現象」でしかないのだけれど、だからといってそれらのことが「無」であるとか、「無意味」であるってことはないです。それは「今ここ」において、とても白熱した切実な意味を持っています。ただし永続性はない。しかし、永続性がないってことと、「だから今ここにも存在してない。」ってこととは違うでしょう。
 「縁起」はさておき、「概念」ということでいうならば、akiさんのおっしゃる「私の概念の中に世界(宇宙)がある。」という考えは、たしかに唯識の思想にありますね。ぼくが思うに、これは西洋哲学の根幹を貫く「認識論」と「存在論」との相克っていうか葛藤っていうか絡み合いっていうか、要するにまあそっち系のアレで、精密にやるなら相当に厄介な話です。近年これに手を付けたのが前回述べた「思弁的実在論」の一派で、これもまた、21世紀も20年過ぎて、ようやく哲学が仏教の知見に追い付いてきたってことだと思ってますが、いま「思弁的実在論」はほぼ4つの派閥に分かれてて、仔細にみればどれも面白いんだけどブログでやるにはまだまだ準備が足りません。




 吉本隆明と親鸞とのかかわりは、まさに日本思想史上のテーマだとぼくは本気で考えています。
 どう書こうかと迷ったのですが、これについては、大手通販サイトの『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)に附されたレビューに素晴らしいものがありましてね……。筆者は「猫町」さんというハンドルネームの方です。長さといい内容といい、レビューっていうよりほぼエッセイですね。この手のレビューに著作権が発生するかどうかはわかりませんが、こういうのって、事情次第である日とつぜん消えてしまったりもするし、これは本当に残しておきたい文章なんで、苦情が出たら後でまた対処させて頂くこととして、ここに全文を書き写させて頂きます。
 吉本さんと親鸞さんとのかかわりについて、〈信〉と非-〈信〉あるいは不-〈信〉との問題をも含め、ここに書かれていることが、ほぼぼく自身の考えだと見なしていただいて構いません。






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レビューアー  猫町
『歎異抄』のなかの親鸞
2017年10月14日に日本でレビュー済み






 宗教を信じるということはどういうことなのか。
 信仰とは、あるいはもっと端的に〈信〉とはどういうことなのか。


 評者のような非-信者には、上の問いはつねに気になることであり、とはいえその答え、というか〈信〉がどのようなものであるのかは自身ではついに想像しえぬものです。


 では信者は、その問いに答えられるのでしょうか。
 〈信〉にすでに身を置いているもの、つまり〈信〉の自明性のなかで生きているものは、その〈信〉をすでに客観化、対象化できません、というか非-信者が理解できるようにはおそらく言語化できません。
 もしできるのであれば、上の問い、つまり〈信〉であるとはどういうことなのか、非-信者にもわかるはずですが、そんなことは不可能です。もしそんなことが可能であれば、信者と非-信者とのあいだで、〈信〉とは何かについてすくなくとも言葉の上で共有できることになりますが、やはりそんなことは不可能です。


 この比較がいいかどうかわかりませんが、それは、たとえば狂気あるいはマインドコントロールにおちいったひとが、自身の生きている世界ないし世界観を語っても、普通に日常を送っている人間には(ほとんど)通じないというのにも似ています。


 聖書のことばはそのまま神のことばであると信じ(これは一般に聖書逐語霊感説と呼ばれるものです)、その聖書に「血を食べて(飲んで)はいけない」(旧約レヴィ記その他)などとあるところから、どのようなばあいでも、たとえ医学的にそれが必要な措置で、しかもそれで命が助かるばあいであっても、輸血をいっさい拒否するキリスト教の一宗派の人たちがいます。以前、戸口訪問で来た同信者の方にこのことをたずねたところ、言下に「私は輸血を拒否します」と答えたのを覚えています。
 あるいはまた、高名な自然科学者ながらキリスト教の篤信家でもあるような人もいます。このばあい、そのひとのなかで自然科学的な世界像とキリスト教的な世界像(たとえばキリスト教の教えの根幹にある「イエスの復活」や「永遠の命(霊魂の不滅)」)がどのように関係しているのか、そのひとがどのように説明しようと(あるいはしまいと)、やはり非-信者はその〈信〉のありようというのはついに理解できません。想像もできません。


 ただ、だからといって、評者は、どちらもその〈信〉を迷妄だとして、しりぞけようという気持ちはまったくありません。


 とにかく信者自身、〈信〉、たとえば神を信じるということがどういうことか、おそらくすでに語るすべをもたない、すくなくとも非-信者に理解できることばでは語れない、というかそこで神をどのように語ろうとも、非-信者にはそのことばはまったく別次元、別世界の話のようにしか聞こえず、理解不能であることに変わりありません。


 『歎異抄』のなかの親鸞はしかし、驚くべきことに、非-〈信〉あるいは不-〈信〉がそのまま〈信〉となるような契機を語っています。あえていえば、念仏をとおしての絶対他力のかたちをとる阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)への〈信〉とはそのような〈信〉であると語っているようにみえるところがあります。


 『歎異抄』のなかでつぎのようなエピソードが語られています:


 ひたすら念仏をとなえることで、弥陀の本願により、浄土に往生できるといわれても、ほんとうに信じることができず、念仏をとなえても喜びの気持ちがわいてこない、と親鸞に訴えるものがいたとき、親鸞は、それは信心がたりないからだというどころか(凡庸な宗教家だったらそういうでしょう、そしてもっと奉仕をしろ、もっとお布施をしろといったりするでしょう)、その信じられないこと、つまり不-〈信〉こそが人間の煩悩のせいであり、その煩悩があればこそ人間を浄土にゆかせようと阿弥陀仏は結願されたのだから、むしろそのことでますます往生できると考えるべきだ、と言います。


 ここにあるのは、念仏をとなえても喜びの気持ちがわいてこないという人間のつくろわないあるがままの生理が、そのまま宗教的な救いの根拠となるという、あとで述べるキリスト教ではおそらく考えられないような、親鸞の途方もない教説です。親鸞はこれを指して「自然法爾(じねんほうに」と呼んだのでしょうか。
 もちろん、ひとが「煩悩」ということばあるいは概念を口に出すことにおいて、すでにある意味、仏教の〈信〉の世界に一歩入っているというべきなのでしょうが、このばあいしかし、「煩悩」を、〈信〉の一歩手前にあって、あるいは不-〈信〉、さらに非-〈信〉にあっても、人間だれしも思いあたる人間の生理そのもの、すなわち愚かなことをしたり悪いことをしたりする、人間のあるがままのどうしようもない生理そのものと受けとめてもいいのではないかと思われます。


 非-信者である評者のような人間には、ここに不-〈信〉あるいは〈信〉もどきが、そのまま〈信〉に着地する契機があるようにみえ、そこから〈信〉の世界がほんの少しうっすらと遠くにかいまみえるような気がします。


 と同時に、親鸞の教えのこのゆるさ、つまり不-〈信〉や〈信〉もどきが、そのまま〈信〉に着地する契機があるようにみえるところからは、不-〈信〉の人も、〈信〉もどきの人も、そしてもちろん〈信〉の人も、みんなすべてを親鸞の教えのなかに平等に吸いあげ、弥陀の慈悲のなかに摂取してしまう契機もみえてきます。
 (「悪人正機説」もこれにかかわってくるのでしょう)


 それにしても、不-〈信〉がそのまま〈信〉のありかたにかかわる、というのはしかし、同時に〈信〉の絶対的なありようそのものが逆に解体されることでもあります。極端にいえば、不-〈信〉と〈信〉の境界がなくなるということです。


 これは、もうほんとうに途方もない話です。
 宗教を解体すると同時に構成する、宗教を構成すると同時に解体してしまう、そんなとてつもない宗教、これをしも宗教と呼んでいいなら、そんな宗教です。


 親鸞はいっぽうで、念仏をとおして、そうした不-〈信〉と〈信〉の対立が解体される地平の向こう側に、つまり不-〈信〉と〈信〉の彼岸に、なにか(救い、浄土)が見えてくると主張するわけではありません。救いや浄土が実体としてあるかどうか、そんなものはもとより人間が知りえぬことだし、人間の思慮・はからいに属するものではない、すくなくともおれは知らぬ、と言うのみです。
 
 そのうえで、専修念仏をみずからの教えとしているはずの親鸞は、『歎異抄』でつぎのように言っています。念仏が自己目的化してしまうとき、念仏が「自力」に転化してしまう危険を親鸞は考えていたのでしょう、念仏さえ相対化してしまいます。さらに最後は自分の信者たちをもつきはなしてしまいます。


 「念仏はほんとうに浄土に生まれる種であるのだろうか、また地獄に堕ちるような業であるのだろうか、そういうことはあずかり知らぬことです[念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべらん、そうじて存知せざるなり]」
 「このうえは、念仏をえらびとって信じるのも、また棄ててしまうのも、ひとりひとりがめいめいに考えればいいことです[このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々のおんはからひなり]」と。
 「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさふらふ」と。


 「面々のおんはからひ」、すなわち〈信〉じるも〈信〉じないもめいめいがそれぞれに考えればいいこと――ここには、教団教派にとどまらず、みずから立てようとする宗教そのものを解体してしまいそうな契機さえあります(これを指して吉本は「最後の親鸞」と呼んでいます)。
 のちに真宗教団(本願寺教団)中興の祖である蓮如が、この書を、封印するかのような措置をとったのもむべなるかな、というところです。


 (なお、ここまで評者は、「親鸞は…」と書いてきましたが、あくまでそれは『歎異抄』のなかの(ある一面の)親鸞というべきものです)


 親鸞が説いている絶対他力は、よくいわれるように、キリスト教のカルヴィニズムの、救いは人間の「はからい」つまり「自力」でどうにかなるものではなく神の恩寵しだいという救霊予定説に似ていることは似ていますが、弥陀の本願はしかし、そこに選別はなく、衆生いっさいを救うものであるはずです。また、親鸞自身が、念仏によってほんとうに浄土へ生まれるのかどうかはわからないが、どういう修行もできぬ凡俗の身である以上もとより地獄堕ちが必定であるなら、弥陀の本願を信じ念仏に賭ける(親鸞はもちろん「賭ける」ということばを使っていませんが)ことを選ぶ、と言っているのは、キリスト教の神の存在への〈信〉をめぐるパスカルの〈賭け〉にいくらか似るところがあります。


 キリスト教の聖書であれ仏教の仏典であれ、宗教の聖典というものは、非-信者にとって(そしておそらく信者にとってさえも)けっして理解しやすいものではありません。


 新約聖書にある、たとえば「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」、「あなたの頬を打つ者があれば、もう一方の頬もさしだせ」というイエスのことばも、そのまま受けとれば、人間の生理に逆らう実行不可能な教えにしかみえませんし、ほんとうにそれを守って実践しているひとがいるとも思えません、もしいたとしても、そんな人はかえって人間らしく見えず、むしろ気味悪く思うばかりです。
 (もちろん、上のイエスのことばは、神の愛こそが「頬を打つ者があれば、もう一方の頬もさしだす」そういう愛のありかたをするものであること、そういう神の人への無際限の愛のありかたにならって人は人への無際限の愛(隣人愛)でもって生きよ、と解釈されたりするのでしょうけど。また、多くの宗教の教えというのは、こうして人間の生理とは逆立する、人間に実行不可能なことを高く掲げることで、人間の倫理を高く引き上げていこうとしているのかもしれません。あるいはべつの見方をすると、宗教というのは、まずは人間の常識的なものの見方を根本から揺さぶり、それを完全に打ち砕く衝撃的なことばでもって、人間をひれ伏せさせ、人間を圧倒的な無力の状態におく――そういうことをするのでしょうね。『歎異抄』のなかの親鸞のことばもある意味そういうところがあります。まあついでにいえば、(一部の)自己啓発セミナーとか新人社員研修とかでも、おそらくこの種の手法がつかわれているのではないかと思えます)。


 吉本隆明は、人間の生理と倫理が逆立しあうことのあるこのような宗教というものにつよい関心をもってきた批評家であり、ふつうに読んでもよくわからない宗教書の本質について深い洞察をめぐらしてきた思想家です。
 本書も、『歎異抄』が、宗教を生みだすと同時に解体してしまうような、おそるべき宗教書であること、あるいは端的に『歎異抄』のなかの親鸞のすごさ、法外さというものをほんとうによくわからせてくれます。


 なお、『歎異抄』は、唯円が親鸞の話したことばを記録した書ということになっていて、親鸞が直接自分の手で書いたものではないため、『歎異抄』のなかの親鸞の教説に、親鸞自身のものではないものも混じっていることが研究者によって指摘されています。
 親鸞自身が書いたものでない以上、ありうることです。
 しかし、唯円がつくりあげた親鸞の一面があるにせよないにせよ、評者にはまあそのようなことはどうでもよく、やはり『歎異抄』のなかの親鸞は、比類なき、他に隔絶した超⁃宗教家であることに変わりはありません。




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 引用は以上です。
 「かつてマルクス主義を教導しながら、高度成長でニホンが豊かになるや、一転して80年代バブルを享受し謳歌した吉本さんの倫理性」というぼくの拘りに即して敷衍するならば、「揺るぎない信念なんてものを解体して、禁欲からも解放され、旨いものを食い、いい服を着て、しぜんな欲望のままに生を送ることを全面的に肯定する」思想家として吉本さんは親鸞さんを解釈したということになります。そしてもちろんそれはたんなる自堕落ってことではなくて、じつはそのこと自体が救いになりうるっていうか、そのことの中にしか救いはないんだぞってことですね。そしてぼく自身、この考えにはとても惹かれるのですが、ほんとにそれでいいのかなあ、とお訊きしたかったわけです。


この記事の続き。



20.11.07 akiさんとの対話「吉本隆明と親鸞さん。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/e559595f3be9f171d589dcb601374076