ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「君の名は。」 とりあえずの論考。その②

2016-09-30 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 いやいや、落ち着いていきましょう。
 前回の記事は、「君の名は。」を観てきた直後のコーフンのなかで書いた。
 まあ、熱に浮かされてたようなものだ。でもって、そのままもう、勢いにまかせて、全編にわたる詳細な「テクスト分析」までやっちまおうと思っていた。当ブログの「戦後短篇小説再発見」シリーズでやってるアレである。
 しかし、冷静になって考えてみると、それにはいろいろ支障がある。まず、ぼく自身の記憶がそこまで鮮明に残ってはいない。げんに、前回の記事でも、間の抜けた事実誤認をやらかしていた(あとで慌てて訂正しました)。
 それに、もし記憶が鮮明であっても、「詳細なテクスト分析」なんて、そりゃたいへんなネタバレではないか。絶賛上映中の映画をそこまで克明に解説しちゃっていいものか……。いや、ネットの上にはとっくにネタバレが溢れかえっていて、ぼくひとりがやろうがやるまいが大勢に影響はないと思うけれども、それにしてもだ。
 なんにせよ、一回観たっきりの映画、それもあれだけフクザツな映画を、記憶だけを頼りに論じるってのも荒っぽい話にちがいない。最低限の資料は必要だろう。
 というわけで、新海誠さん自身の手になる原作小説『君の名は。』(角川文庫)と、「ユリイカ」2016年9月号「特集・新海誠」(青土社)を入手した。
 小説のほうは、省かれているシーンもいくつかあるが、ほぼ映画どおりである(正確にいえば、映画にするさい付け加えられたシーン、というべきだろうけど)。おかげで、時系列がはっきりわかった。
 「ユリイカ」は、かつてはちょっと硬派のアート系/ブンガク系月刊誌だったが、90年代の半ばくらいからサブカルにもよく手を出している。これまでにも、折にふれて、宮崎駿、高畑勲、押井守、細田守といったアニメ作家を特集してきた。
 サブカルを扱う際でも、妙にくだけたりせず、かといって固くもなりすぎず、「ストリートっぽさ」と「アカデミック」との程よい頃合いでやってのけるのがいいところである。このたびも、執筆者は知らない名前ばかりだけれど、熱のこもった論考ぞろいで、おおいに参考になった。現時点における「新海誠論集」として必携の一冊かと思う。
 これはまあ、プロによる本格的な批評だけれど、ネットには、先述のとおり山ほどの感想、分析、考察などがあふれている。ぼくももちろんその一人だが、観たあとで、どうしてもあれこれと語りたくなる作品なのだ、「君の名は。」は。
 じつはこのほかにも、角川文庫からは別の作家による公式のスピンオフ(外伝)も出ていて、ぼくはまだ読んでないけど、「裏設定」みたいなものが色々と述べられているらしい。ネットにあふれる分析や考察には、それを元にしたものも少なくないようだ。
 それはもちろん、作品への理解をふかめるうえでいいことなのだろうと思うし、たんに「知的遊戯」としても面白いかと思うけれど、ぼく個人は、あまり裏設定には深入りしたくはない。
 「君の名は。」は、「エヴァンゲリヲン」とは違うのである。観れば誰しもが心を打たれ、感動できる作品なのだ。ややこしい「謎解き」なんて必要ない。もっともっと、できるだけ多くの方に見てもらいたいので、へんな感じにマニアックになって、敷居が高くなっては困るのだ。
 とはいえ、観たあとで、すんなりと納得できないところがあるのも確かだろう。そう思い、とりあえず、多くの方が引っかかるんじゃないかと思う2点についての見解を、「ダウンワード・パラダイス(裏)」のほうに書いた。ところがあちらは、以前にすべての記事を消してしまったため、ほとんど誰も訪れてくれず、なんだか悲しい。それで、こちらに転載させていただこうと思う。
 念のために繰り返すが、これはまったく「謎解き」なんかではない。できるだけシンプルに、常識的に考えて、「おかしいな、と感じる件も、こういうふうに考えれば、整合性が見いだせるんじゃないか。」という提言である。このようなことで、あの優れた作品が軽んじられてはもったいないからだ。それでは、どうぞ。






疑問001   なぜ町長(三葉の父)は彼女の説得に応じたのか?

 この記事はネタバレを含む、というよりほとんど全部がネタバレなので、映画をごらんになっておられない方は、くれぐれもご注意ください。


 何よりもまず、圧倒的な映像美。たんに美麗というのではなく、現代日本画につうじる繊細さと奥深さ(じっさいに、現役の日本画家の方が美術スタッフのなかにおられるとか)。
 息をのむほど美しい、としか言いようのないあの光の使い方。そして完璧とも思える画面構成。
 それに加えて、アニメ映画の粋を極めたカメラワークと、編集。
 ほんとうに見事な作品だ。何度でもくりかえし鑑賞したくなる。ただ、その映像のもつ訴求力・説得力のため、観ているあいだはひたすら没入してしまうのだけど、後からつらつら鑑みると、「どうにもわからぬ」ところもある。
 たとえば「エヴァンゲリオン」や「ハウルの動く城」、あるいは浦沢直樹の「20世紀少年」が「難解」である、という意味では、「君の名は。」はけっして難解ではない。とてもストレートで、力強い作品だ。パズルを組み立てるためのピースは、すべて、ぼくたちに与えられている。ただ、「複雑」な作品には違いない。それは、時間の流れが込み入っているからだ。
 たんに「三年まえ」と「現在」とが入り混じっているためだけでなく、編集によって、時系列が入れ替えられたり、省略されたりしている。しかもそこに、「意識の入れ替わり」が絡まるのだから、ややこしくならないはずがない。
 また、町長(三葉の父)が最後の最後になぜとつぜん態度をひるがえし、町民の強制避難を敢行したか、といった、登場人物の「心理」にかかわる疑問もいくつか残る。そういった雑念がさまたげになって、この素晴らしい作品への評価が曇らされては残念なので、まことに大きなお世話ではあるが、この場を借りて、自分なりの「辻褄あわせ」をしてみたい。
 それでは、順序は大幅に前後するが、初めにそこを考えてみよう。
 なぜ町長(三葉の父)は、とつぜん態度をひるがえし、町民の強制避難を敢行したか。
(まあ、このもようは同時進行では描かれず、後からの「ニュース記事」みたいなかたちで手短に示されるのみだが。)
 これは、「時空を超えた瀧(たき)の声によって励まされた三葉が、揺るぎない意志をもって、父を説き伏せた」からだ。
 父である町長の側からいえば、「傷だらけになってもまるで動じることなく、信念に満ちて語る娘のことばを信じたから」ということになる。
 意識が互いのからだに戻るまえ、三葉のからだで、住民避難のために(テッシーと共に)奔走していた「瀧」は、いちど町長の説得に失敗し、「俺じゃだめだ……三葉でなきゃだめなんだ」という意味のことをつぶやく。
 ひとびとを救うのは、あくまでも、三葉でなければならない。瀧は、その手助けをするだけである。だから三葉が、自分のことばで、実の父親を説得したのである。
 まことにシンプルな解釈ではあるが、結局のところ、これが作品のテーマにもっとも即している。
 ただし、この点につき、あるブログで、たいへん深い解釈をみつけた。
 祖母の一葉は、「自分にも、少女の頃に≪入れ替わり≫の夢をみた覚えがある」と言い、それを聞いた瀧(からだは三葉)は、「それは宮水家の巫女に伝わる資質ではないか、今日のこの災厄を回避するために、それが代々受け継がれてきたのではないか」と考える。
 それはつまり、三葉の母(二葉)も、その力をもっていたということだ。
 では、二葉の≪入れ替わり≫の相手は誰だったのだろう。それはやっぱり、ほかならぬ町長のあの父ではないのか。
 ここからさらに進めて、その方は、このような推理を繰り広げておられた。
 そもそも父は、妻(三葉の母、すなわち二葉)の死後、なぜ政治家に転身したのか。
 それは、若き日に二葉との≪入れ替わり≫を経験するなかで、この夜の災厄を知り、そのことが、記憶の底にうっすらと残っていたせいであろう。それで、無意識のうちに町長を目指した。来るべき災厄の日に、町民を強制避難させられるのは町長だけなのだから。
 瀧が三葉のからだで乗り込んできたとき、父は「お前は誰だ?」といっている。そのあと、ほんとうの三葉が彼女じしんのからだで乗り込んだときに、父は≪入れ替わり≫に気づいた。
 正確にいうと、≪入れ替わり≫のことを思い出した。そして、自分が何のために町長の職を志したのかも思い出した。だから、ただちに説得に応じたのだ。
 ……繰り返しになるが、たいへん深い解釈である。
 とはいえ、ぼくは、これは「深読み」が過ぎると考える。「君の名は。」は、あくまでも、「三葉」と「瀧」とのお話なのだ。これだとなんだか、三葉の父母の話のほうが、ドラマチックになってしまう。
 父は、瀧が三葉のからだで最初に乗り込んできたときに、「妄言の家系か」と吐き捨てている。たしかに、二葉がこのひとに対して何かしら超自然的なことを話したことはあったのだろう。しかしそれは、彼にとっては「妄言」でしかなかった。
 むしろ、そういう迷信だの因習だのが、愛する妻の死を早めた、と思って憎んでいた節さえある。いくら「忘れてしまう」とはいっても、このひとが≪入れ替わり≫の相手とは思えないのだ。
 いや、それより何より、万が一、父が二葉の≪入れ替わり≫の相手であったとしても、彼はべつに「未来」のひとではないわけだから、そもそも災厄を知ることなどできようはずもないのである。
 だからやっぱり、最初に述べたシンプルな理由が正解なのだ。
 しかし、こんな解釈があながち牽強付会(こじつけ)とは言い切れぬくらい、「君の名は。」が豊かな作品であることは間違いがない。




疑問002  なぜふたりは、入れ替わっているあいだ、3年という時間のずれに気がつかなかったのか。

 ひきつづき、この記事はすべてがネタバレですので、映画をごらんになっておられない方は、くれぐれもご注意ください。



 それでは、多くの方が真っ先に抱くと思われる疑問、
「なぜふたりは、入れ替わっているあいだ、3年という時間のずれに気がつかなかったのか。」
 について考えたい。
 これについては、またまたシンプルすぎる回答ながら、
「入れ替わった先の生活に夢中で、それどころではなかった。」
 ということでいいのではないか。
 この作品ではスマホが大きな役割をもつが、どのスマホの画面にも、デフォルトで年度(西暦)は表示されてはいなかった。
 ぼくはまだ一回観たきりだけど、ディスクを買って穴のあくくらい見返しても、たぶん発見できないと思う。
 さらに、カレンダーや新聞など、年度(西暦)を明示するメディアも、注意ぶかく画面の中から排除されていた(追記・じつは1ヶ所だけありました)。
 テレビはあったが、それは三葉のほうの世界(3年まえ)で、「ティアマト彗星接近」のニュースを告げていただけである。
(ちなみにティアマトとは、メソポタミア神話の女神で、破壊と再生とを司るという。)
 それでもお互い、家族も友人もいるわけだし、日々の会話のなかで気づくのではないか、とも思うが、しかしなにしろ、「入れ替わり」自体がおそろしく異常な事態だし、それに伴う「まったく別の生活への適応」のほうに忙しくて、年度(西暦)に対する違和感などは、取り紛れてしまったとしてもおかしくない。
 むしろぼくなどは、そのことよりも、「せっかく日記アプリや、ふつうのノートなんかを使って情報交換できるんだから、どうしてもっと、お互いのことをきちんと伝達しておかないのか。」と、そちらのほうにもどかしさを覚えた。
 しかしこれも、ふたりの気持ちに思いを致せば納得がいく。つまりふたりは、入れ替わった先での暮らしを心から満喫していたのである。
 「東京のイケメン男子」としての生活にあこがれていた三葉はもちろん、瀧のほうも、三葉の住む地の豊かな自然に魅了され、「組み紐」のような伝統や、お祖母ちゃんの話にもつよく心を動かされていた。
 そのことは、新海誠さん自身の手になる小説版のほうを読めばはっきりとわかる。
 だからふたりは、どちらも「入れ替わり」を楽しんでいた。そして、入れ替わっている自分の行動によって、相手を取り巻く人間関係が好転していくことを、とてもうれしく感じてもいた。はっきりとそう自覚してはいなかったけれど。
 三葉のほうは、瀧が奥寺先輩と親密になっていくのを喜んでいたし、瀧にしても、どことなく萎縮して「胸を張る」ことができていなかった三葉が、周囲から見直され、一目おかれるようになっていくのを心地よく感じていた。
 だから、入れ替わり先での自分の(相手の体を借りての)行動を、けんめいに日記アプリに残したのだ。自分の情報を相手に伝えることよりも、そのほうがずっと大事だったから。
 奥底ではもう惹かれ合っていたのに、そのことにはまるで気づいていなかった。
 そもそも、ふたりが「週に2、3度」という頻度で入れ替わっていたのは、どれくらいの期間なのだろう。
 先にも述べたとおり、この作品からは「歳月」を明示するものが意図的に省かれている。だから日々の推移もはかりがたい。
 ただひとつ、明確な手掛かりとなるのが「季節」である。この映画では、すべての物や事象が異様なまでの美しさで描かれるけれど、ことに天空のもようと、日本独自の「季節のうつろい」の描写は比類がない。
 小説版を読むと、「入れ替わり」の第一日目には、三葉のほうではひぐらしが鳴いている。夏の終わりだ。そして、あの彗星落下は「秋祭り」の夜である。
 「三葉」の世界と「瀧」の世界とが「きっかり3年」ではなく「2年と数ヶ月」くらいのズレである可能性もあるが、ここではそれは黙殺しよう。「三葉」の世界と「瀧」の世界とのズレは「きっかり3年」で、時間の経過も即応していると見なす。
 だとすれば、ふたりのからだが入れ替わっていたのは、せいぜい2ヶ月弱か、下手すると1ヶ月そこそこかもしれない。
 「週に2、3度」ならば、多くて15、6回、ひょっとしたら、たかだか10回くらいのものではないか。
 しかもふたりは、最初のうちはたんなる「夢」だと思ってたわけだし、なんといってもまだふつうの高校生だし、ふたつの暮らしを行ったり来たり、何だかバタバタやってるうちに、あっという間にタイムリミットが来てしまった、というのが実際のところなのではなかろうか。




右か左か、左か右か。

2016-09-10 | 戦後民主主義/新自由主義
 前回の記事「戦後民主主義。」およびその「補足」で書いたことを踏まえ、さてそれでは、ぼく自身の「立場」はどうなのか?というと、つらつら考えるに、驚くべきことに(でもないか)、どうも、「左」よりむしろ「右」に近いようなのである。
 しかし、この話を進める前に、その「左」とか「右」とかってそもそも何よ、という件をはっきりさせておかねばなるまい。
 前回は、「このニッポンにおいて、《左翼》とは厳密には(本来は)マルクス主義者のことだ。」という言い方をした。
 このように定義しておくのが、いちばん紛れがない。ただ、1991年のソビエト連邦解体によって、真正のマルクス主義者は世界規模で激減したはずであり、それはこの日本でも例外ではない。
 この時代、よもや「革命」だの「プロレタリアート独裁」だのといった教条を大真面目に信じてる人はほとんどいまい。絶滅危惧種、といったところではなかろうか。
 もし居たら、ほんとにかなりびっくりなのだが、「世に倦む日日」は、記事を読んでるかぎりは何だかそんな感じがするので、いやこの人、本気でこれを言ってるんだろうか……と、いつもちょっぴり心配になる。もはや「信仰」みたいなものなんだろうか……。
 そういえば、RADWIMPSの最新ヒット「前前前世」には、
「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ その騒がしい声と涙を目がけ やってきたんだよ /
そんな革命前夜の僕らを誰が止めるというんだろう もう迷わない 君のハートに旗を立てるよ」
という一節がある。「旗を立てる」ってのは、世界史の図録なんかに必ず載ってる「民衆を導く自由の女神」のイメージだろう。フランス革命である。
 かつて60年代ごろには、この国でもまだ魔性の響きを帯びていた「革命」という単語は、今やこうして、ポップスの味付けとして消費されるのだ。
(RADWIMPSはいいバンドで、べつに彼らの悪口を言ってるわけではないので誤解なきよう。)
 かくてマルクス主義の権威は地に落ちた。だが……、
 「マルクス主義を原理とする国家は必ず独裁に陥り、国民を不幸にする。それは20世紀後半の歴史によって証明された。しかし、マルクスの考え自体は間違ってはいないし、この21世紀においても、いや、むしろこの21世紀においてこそ、改めて検証されなくてはならない。」
 という意見は根強く残っている。佐藤優さんはことあるごとにこれを述べるし、かく申すぼく自身も、じつはそう考えている。
 マルクスの思想から、「革命」だの「プロレタリアート独裁」だのといった「イデオロギー」を取り除き、あくまでもひとつの経済理論として、すなわち、この「資本主義社会」の原理ないし構造を解明するためのツールとして、使おうという発想である。
 これはしごく真っ当であるどころか、今ものすごく重要なことだと思う。
 いま世界および日本の経済の基調となっているのは「新自由主義」の潮流だけれど、これがほんとうに正しいのか、ほんとうに人々を幸せにするのかどうか、きっちり検証するためには、マルクスの理論がもっとも有効だからだ。
 しかしもちろん、このようなことを考えているからといって、ぼくはマルクス主義者ではない。もともとの「マルクス主義者」という概念からは、もはやすっかり遠くなっている。だいいち、マルクスがどうこう以前に、これはもう「主義」ではない。たんにツールとして使おうというだけなのだから。
 佐藤優さんもそうではない……と思うが、あのひとにとってのマルクスの思想は、どうやらキリスト教の「千年王国」の近代/現代版として捉えられてるようなので、じつのところはよくわからない。キリスト教は深すぎて、ぼくにはなかなかわからない。
 いずれにせよ、ソ連邦解体による「マルクス主義者」の激減によって、「左翼」の定義もずいぶんと変質したわけだけれど、それでももちろん、「左」とか「サヨク」とかいった言葉は残っていて、ネットの上で目にしない日はない(まあ、なにも毎日ネットを見てるわけではないが)。
 いまいちど冒頭の設問にもどろう。「左」とか「右」って、そもそも何なのか。
 これについては、浅羽通明『右翼と左翼』という新書が幻冬舎から出ており、初版から十年たった今でも版を重ねている。けだし、このシンプルで初歩的な疑問につき、多くの人が頭をひねっている証であろう。
 俗に、「左」は進歩的、「右」は保守的、と言われる。しかし、とくにこの戦後ニッポンにあっては、この定義にはいささか難がある。「左」の代表のはずの共産党が「護憲」をとなえ、「右」の代表である自由民主党が「改憲」をもくろむ。
 現状をかえるのが「進歩」で、現状を維持するのが「保守」であるなら、この事態はあきらかに転倒である。ぼくなども、中学生くらいまで、このことが不思議でならなかった。
 それは日本の戦後の「ねじれ」そのものを表しているのだけれど、どちらにしても、「進歩」の行きつく果てにあったはずの「理想の社会」が幻想と潰えた現在、もう「進歩」「保守」という区分では、うまく説明できないのは事実であろう。
 前述の浅羽さんの本などを参照しつつ、ぼく自身が下した定義はこうである。
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を強め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を減らすのが「右」で、
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を弱め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を増やすのが「左」。
 そういうことだ。これがいちばん明快で、射程が広い。
 このあいだから持ち越している「戦争」を例にとっていうならば、
 「戦時」において、兵隊(つまり徴集された国民)は、牛馬はおろか、弾薬にも等しい、あるいはそれ以下の「消耗品」として扱われる。先の大戦でも、二等兵が上官から「貴様らなどより、砲弾一発のほうが遥かに大事なのだッ。」とよく叱責されたという。
 また、「銃後」をまもる国民(一般市民=非戦闘員)ですら、焼夷弾やミサイルによって、木っ端のように焼き殺された。
 このような扱いを受け、「命を奪われる」のは、「自由度」という尺度をあえて使うなら、「自由度ゼロ」もしくは「マイナス」であろう。
 だから、国家が行う戦争において、共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」は、極限まで減少する、といえる。そう。戦争は、まさしく究極の「右」の所業だ。
 しかし、これはさすがに例として極端かもしれない。それに、日本人に向かって焼夷弾やミサイルを投下したのは、日本という国家ではなく、いうまでもなくアメリカである。だから、ていねいに考えていくと、話がいささか錯綜する。
 もう少し日常に即した案件で考えてみよう。「税金」はどうであろうか。
 税金が上がると、われわれの可処分所得は減り、「自由度」は減る。だから増税は本来、「右」の政策であるはずだ。
 ただ、昨今では、「左」を標榜する論客でも、「消費税アップ」をうたう人が多い。なんだかよくわからぬのだけれど、どうも、増税分を「福祉」に回して、国民の福利厚生に資するのだから、消費税を上げよ、という論法らしい。
 このように、ほかのファクターを加えるだけで、いくらでも結論は操作される(文字どおり、「左右される」というべきか……)。「理屈と公約、いや膏薬はどこにでも付く。」というやつである。
 「人権」はどうであろうか。
 「人権派」は、それこそ「左」のひとの代名詞みたいなものだろう。もともと、「人権」とは「個人(国民)」が「国家」に対して主張すべき概念である。少なくとも、ほとんどの法曹家の理念においてはそうであるはずだ。
 個人の「権利」がたくさん認められるほど、その分だけ確かに、国家からの「自由度」は増す。ゆえに「左」のひとの多くは「人権派」となる。
 しかし、「個人」と「個人」との利害が行き違ったばあい、一方の「人権」を声高に主張することは、もう一方の人権を制限することになってしまう。この際には、とりあえず「国家」は、じかに特定の「個人」と対立するものではなく、「裁定者」の位置づけにすぎない。
 「国家」と「個人」との関係が、いわば棚上げにされたところで、「人権」の概念だけが空回りしている、ともとれる。
 たとえば犯罪被害者の遺族にとり、容疑者の側に過剰に肩入れする「人権派」の弁護士が「敵」のような立場になってしまうのは、このようなメカニズムによるものだ。こうなると、遺族の方には、「左」ってものがさぞ腹立たしく映ることだろう。
 どうにも難しいことである。
 はてさて。
 冒頭において、ぼく自身の「立場」は、「左」よりむしろ「右」に近い、と述べた。
 それはじっさいそうなのだけれど、ただ、これにはひとつ注釈をつけておかねばならない。
 先の定義を再掲しよう。
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を強め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を減らすのが「右」で、
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を弱め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を増やすのが「左」。
 ポイントは、この「≪日本≫という共同体(すなわち国家)」というところである。
 この島国の一角に住み、国籍をもち、日本語を話し、日本国憲法その他の法律に守られ(たぶん間接的には自衛隊にも護られ)、YENによって経済活動を営む、という点において、たしかに「≪日本≫という共同体」は「すなわち国家」に違いないのだが、けれど、仔細に見ていけば、やっぱり異なるところもある。
 ≪日本≫という共同体、イコール国家、とは、軽々しく言いきれぬところがあるのだ。
 「国家」と「郷土」とは違う、という言い方はよく聞く。「愛国心」といわれるとつい警戒してしまうけれど、「郷土愛」ならば、さほどの抵抗はない。
 「国家」とは、政治機構であり、統治のための権力の総体である。
 えらくカタい言い方になったが、こればっかりは、カタい言い方でないと表現できないから仕方がない。
 ともあれ、そういうものであるからして、往々にして、時の「政府」が「国家」と同一視されてしまう。建前からいけば、政府なんてのは、国民から一時的に「権力」を付与されているにすぎないはずだが……。
 いっぽう、「郷土」というと、懐かしの山河と、そこで静かに日々の暮らしを営むひとびと、というイメージがある。
 「この国の風土が育んできた豊かな伝統」というイメージもある。
 うるさくいえば、これともまた少し違うんだけど、ぼくが自分のことを「右」だと見なすのは、おおむねそういう点においてである。
 上の定義を言い換えるなら、おおよそこんな具合になろうか。
 「≪日本≫という共同体(それは国家とかなりの部分かぶってはいるが、もう少し柔らかく、かつ包括的に、風土や生活や精神や伝統といったものを含む)の力をできうるかぎり≪強く≫したい。なぜならば、そうすることが結局のところ≪日本≫という共同体で暮らす成員(すなわち国民)ひとりひとりの幸せにつながるはずだから……。そのためには、プロセスとして、共同体で暮らす成員(すなわち国民)の「自由度」があるていど制限されるのもやむを得ない。」
 だいたいにおいてそういったところで、そのような定義に立って、ぼくは自分を「右」ではないかと思っているわけだ。
 とはいえ、やっぱり話はそれほど単純ではなくて、これほど長文を費やしても、まだ言い足りぬことはいっぱいあるが、いくらなんでも長すぎる。続きはまた、別の機会にいたしましょう。

「戦後民主主義。」の補足。

2016-09-06 | 戦後民主主義/新自由主義
 前回の記事「戦後民主主義。」を読み返してみると、なんだかどうも、戦前の「社会運動」の担い手が、あたかも共産党だけであったかのようにも取れた。もしそんなふうに受け取られたならば、ぼくの力不足である。ちょっと説明が粗すぎたようだ。すこし補足しておきたい。
 明治維新いこう、欧米から先端の思想が入ってきて、「維新」の恩恵から漏れた層を中心に、いわゆる自由民権運動が起こる。さらにそののち、より進歩的な(もっとはっきりいえば過激な)「社会主義」の思想も行きわたり、「社会主義者」の一団が生まれる。その多くはマルクスに依拠していたけれど、一部には、アナーキズム(無政府主義)などに傾倒している人もいた。
 1917(大正6)年にロシアで革命が起こり、それまではまだまだ理想主義の色合いが濃かったニッポンの社会主義思想にもいっぺんにリアリティーが加わって、社会主義の運動は力を増す。それは、世にいう「大正デモクラシー」をさらに「左」に推し進めたものともいえる。
 「共産主義者」たちの結社=党、すなわち共産党は、そんな動きを母体として生まれたわけである。
 「共産主義」は「プロレタリアート独裁」を掲げるので、基本的には議会制を認めない。じつに徹底してるのである。そのせいか、国内で「共産主義」の党が成立した後も、それが「社会主義」の信奉者たちを吞み込んでしまうということはなく、両者は併存をつづける。母体となった「社会主義」者たちは、「共産主義者」たちとは一線を画して、また別の流れを形づくり、いくつかの政党をつくった。
 社会主義者の政党は、「無産政党」と総称された。無産とは、横文字でいえば、つまるところプロレタリアートのことである。ただ、共産主義ほど徹底しているわけではないので、「独裁」を目指したわけではない。「資本家」を打ち倒そうというのではなく、「資本家」に対する「労働者」という枠組みのなかで、できるかぎりの待遇改善を図ったのだった。具体的には、組合を組織したり、ストを打ったりといったことだ。労働運動というか、当時のことばで「争議」と呼ぶのがやはり正しいか。
 こういった話に関心をお持ちの方がおられたら、岩波文庫の『寒村自伝』(上下)をお勧めしたい。著者の荒畑寒村は、大杉栄とほぼ同年の生まれにもかかわらず、戦後も長らく存命で、議員にもなり、瀬戸内寂聴さんとの交友などでも知られたが、ニッポンの社会主義者の草分けであると同時に、ずばぬけた文才の持ち主でもあって、大正文学史の一角にも名を刻んでいる。『寒村自伝』は、近代史の勉強になるという以上にとにかく読んで面白く、一個人の自伝として、これほど中身が詰まって面白い本は古今東西そうざらには見当たらない。
 さて。「日本社会党」をはじめとするそれらの無産政党は、日中戦争、さらには太平洋戦争へと向かうにつれて弾圧のために解散なり変質なりを余儀なくされ、結局のところ最後にはまとめて「大政翼賛会」へと編入される。このときに孤塁を守ったのが共産党だけだったことは確かである。しかしもちろん、これも激しく弾圧されて、ほとんど壊滅状態にいたる。
 これでもまだまだ粗っぽすぎるが、「近代日本左翼運動史」のひと筆書きとして、前回の記事の補足としたい。

戦後民主主義。

2016-09-05 | 戦後民主主義/新自由主義
 「71年めの夏。」は、あと2回ほど書くつもりだったのに、城山三郎にまつわる資料などを読んでいるうち、9月になってしまった。城山さんは昭和2年生まれで、前回紹介した三人よりもなお年少だったのに、志願して海軍に入った。
 志願とはいっても、あの時代、ものごころついた頃から軍国教育しか受けていないのだから、いわば洗脳されて、そうするように仕向けられたようなものである。そして軍人および軍隊のイヤな面を、文字どおり「イヤというほど」目の当たりにした。
 だから戦後、城山さんは腹を立てていた。温厚で紳士的な方であったが、内面ではずっと腹を立てておられたのである。その怒りが、氏の創作の原動力となった。
 ……と、いったようなことを書こうと思っていたけれど、結局、8月は続きを更新できぬままおわった。
 もちろん、とても大事な話であるから、9月になろうと10月になろうと、どんどん書くべきところだけれど、とりあえずもう、「夏」という感じではない。サブタイトルをかえて、城山さんの話は、また別の機会にいたしましょう。
 ところで、夏の終わりというものは、なんだかひどく物悲しい。同じく季節の終わりといえど、春や秋や冬とは明らかに違う。冬の終わりなんて、むしろ復活なり再生の時期といったイメージで、気分が上向いていくのがふつうではないか。
 夏休みは長いし、郷里に帰ったり海へ行ったり、外でよく遊ぶから楽しい思い出が多い……というようなことは、とくに子供さんや学生にはいえるかも知れぬが、それだけが理由でもなかろう。やはり夏は生命の盛りの季節であり、それが静まって衰微していく印象があって、それが寂しいのだ。
 秋という季節は、それだけですでにもう物悲しい。上田敏の名訳になるヴェルレーヌの詩に見るとおりである。
 そういえば、ポップソングにも、「過ぎ行く夏」やら「夏の終わり」をうたった名曲が少なくない。
 ただ、その手の感傷も若いひとたちの特権で、ぼくなんかの齢になると、年がら年中、矢のごとく飛び去る光陰の速さにただただ面食らっている、というのが実情に近い。
 ブログをはじめて、今年ではや10年になる。
 最初はべつのタイトルで、とりとめのないことを漫然と書き綴っており、一回あたりの分量も、はるかに短かった。
 何年かして「世に倦む日日」というブログを知り、過去のものも含めて、半年くらい熱心に読んだ。
 影響をうけた、といっていいと思う。ただ、とりあえずそれは、内容がどうとか主義主張がどうとかいうより、「ブログでこれほど長文をやってもいいのか……」という驚きと、「ブログでこんなに小難しいことを書いてもいいのか……」という驚きによる影響であった。
 そのあと、「ダウンワード・パラダイス」と名をかえて、内容もずいぶん改めた。ほぼ、今のような具合になったわけである。
 OCNブログサービスの廃止に伴い、ここgooブログに越してきたわけだが、それ以降はもっぱらブンガクを中心にやっている。それまでは、「世間に物申す」ではないが、わりと社会時評めいたことも書いていた。
 ちなみに「ダウンワード・パラダイス」とは、「下り坂の楽園」といったていどの含意で、すなわちこのニッポンのことだ。
 「世に倦む日日」は、司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」をもじったタイトルなのだれども、ちょっと隠者じみたそのタイトルとは裏腹に、過激さで売ってるブログである。
 スタンスを見れば明らかに左翼、それも今どき珍しいほどの左翼っぷりなのだが、しかし今の天皇陛下と皇后陛下を強く尊敬している点において、ふつうの左翼の方とは一線を画している。とはいえそれはけっして奇をてらってのことではなくて、両陛下が、この戦後を生きるほかの誰よりも、「戦後民主主義者」であられるがゆえに、お二人を尊敬する、ということなのである。
 このあたり、法理論を厳密につきつめるならば、ものすごくアクロバティックな理屈……ということになる気もするのだが、ともあれそれが、「世に倦む日日」氏の立場だ。
 いずれにしても、「世に倦む日日」氏は戦後民主主義の信奉者であり、もとより自身も、生粋の戦後民主主義者である。
 だから、左翼は左翼でも、60年代の学生運動を担った「新左翼」ではなく、むしろその新左翼に違和を覚える「旧左翼」のほうなのである。
 スタンスからいけば、丸山真男~大江健三郎型の、いわゆる「岩波文化人」にも近い。ただ、丸山さんや大江さんは紛れもない「戦後民主主義者」ではあっても、「左翼」(マルクス主義者)ではなくリベラリストだから、「世に倦む日日」氏とはそれとも違う。
 このあたり、なかなかにややこしい話で、書いているぼく自身、「めんどうくさいな……」と思ってるくらいなのだが、今回の記事の本旨にかかわる話であるから疎かにはできない。
 あらためて、整理してみたい。
 まず、「左翼」とは、このニッポンにおいて、厳密な(本来の)意味では「マルクス主義者」のことである。
 そして、戦前・戦中、さらには戦後しばらくのニッポンにあっては、「マルクス主義者」といったら、それはほぼ「共産党員」のことであった。
 もちろん、党に所属することなく、ひそかに「資本論」などを紐解いて勉強していた人たちだっておられたと思うが、しかし徒党を組まねば「勢力」にはならない。組織化されない個人は、どこまでいっても個人でしかなく、せいぜい「世論」の一端を醸成するくらいであろう。
 ゆえに、戦前・戦中、さらには戦後しばらくのニッポンにあって、「勢力」を成しうる「左翼」は、ほぼ、イコール「共産党」だったわけである。
 じつにわかりやすい、シンプルな時代であったと思う。世の中ってものは、豊かになるほど爛熟して、妙に複雑になってくる。昭和50年代ごろでさえ、今と比べればずっとシンプルで、わかりやすかった。
 それはさておき。
 戦時下のニッポン、正確にいえば大日本帝国にあっては、「勢力」を成しうる「左翼」なんてのは最大の脅威だったわけだから、もちろん、共産党は徹底的に弾圧された。
 とはいえ、昭和16年に太平洋戦争が始まってからは、「共産党」どころか、今でいうリベラリスト、すなわち「べつにマルクスを信奉しているわけじゃないけど、かといって体制に唯々諾々と付き従うわけでもない人々」も敵視されたり、はたまた、難しい理屈はわからぬままに、ただたんに「戦争は厭だなあ……」と漠然と思ってるだけの一般人ですら、それを表に出そうものなら、「この非国民めッ」ということで一緒くたにされて、憲兵などから酷い目にあわされたわけだが……。
 アメリカに負けてそのような時代が終わり、「大日本帝国」が「日本」となって、奇跡とも呼ばれる経済成長が始まり、戦後ニッポンはみるみるうちに豊かになった。
 そのような中で、日米安全保障条約、いわゆる「アンポ」に対する反対運動、というか反対闘争をきっかけとして、従来の「共産党」とは袂(たもと)を分かつ新しい「左翼」の集団がいくつも生れ、台頭してきた。
 それが、今につながる「新左翼」である。
 「左翼」という用語についてのぼくなりの説明はひとまずそんなところだけれど、いっぽうに、「戦後民主主義者」という用語もしくは概念がある。
 ふつうに「戦後民主主義者」というばあい、とりあえずそれは、第9条すなわち「平和主義」を堅持する立場の人、という印象をうける。
 もちろん、「国民主権」と「基本的人権」もたいそう重要に違いないけれど、この2点については、いわば、ほぼ自明の原則として、表立って論争の俎上に乗せられることが少ない。
 侃々諤々(かんかんがくがく)、とかく意見が割れてきたのが、「平和主義」である。戦後日本はずっとこの問題を引きずっている。「自衛隊」はなぜ「日本軍」と名乗らないのか。「近隣諸国の軍事力増強による、わが国を取り巻く情況の変化」(うーん……オトナの表現……)によって、このテーマは、ますます喫緊のものとなっている。
 というか、安倍内閣のもとで、事態はすでに(なし崩し的に?)動きつつあるというべきかもしれない。
 それはそれとして、では「左翼」と「戦後民主主義者」とはどのような関係にあるか、という話になると、これがまたまたややこしい。じつはぼく自身、うまく整理しきれてないところもある。
 それというのも、上で述べた「新左翼」のひとたちは、「戦後民主主義」を批判/否定し、それを「乗り越える」ことを標榜しながら台頭してきた、という経緯があるからだ。
 たとえば、当ブログでよく名前の出る吉本隆明も、その理論的支柱のひとりであった。
 ぼくは吉本さんの本もよく読んだし、それとは別に、全共闘にまつわる文献もそこそこ読んだつもりなのだが、さてしかし、恥ずかしいことに、≪「戦後民主主義」を批判/否定し、それを「乗り越える」≫というのがいかなることか、いまだに実感としてわからないのである。
 文章として見ればたいそう勇壮で、果敢でカッコいいのだけれども、具体的にいって、それってどういうことなのか。
 まあ、「よくわからないけれど、大体はこんなとこなのかな……」という、暫定意見みたいなものはある。いちおうそれを書いてみよう。
 1960年代の「新左翼」ってのは、とにかく「ラディカル」だったのである。ラディカルには、「過激」のほかに、「根底的」という意味もある。物事を根底的につきつめると、否が応でも過激になるのだ。「革命」がその最たるものだろう。
 いっぽう、「戦後民主主義」とは、文字どおり「戦後民主主義社会」の礎をなす理念である。
 いいかえれば、穏健な市民社会の基盤となる理念であるということだ。
 だから、1960年代のラディカルな「新左翼」のひとたちにとっては、これはどうしようもなく生ぬるいものと映った。当時のサヨク用語でいえば「体制順応イデオロギー」と映った。だからこそこれを、《批判/否定し、「乗り越える」》ことが課題となった。
 そんなところではないのかな、というのが、今のところのぼくの理解である。
 だがしかし、その後のニッポンってものを振り返るなら、革命なんて夢のまた夢、夢想というより妄想のレベルで、市民社会はどんどん爛熟して高度大衆消費社会となり、果てはバブルの饗宴へと至った。
 かつての学生運動の活動家たちのなかにも、バブルを享受するどころか、その担い手となったひとも少なくない。糸井重里氏もそうだし、高橋源一郎氏もそのひとりだろう。ほかならぬ吉本隆明御大も、その内に数えることができるかもしれない。
 ありていに言えば、それは「変節」という表現がもっとも近いと思うのだけれど、そこはもちろん、それぞれにそれぞれの考えなり言い分はおありだと思う。
 ただ、いずれにしても、ひとつ確実にいえることがある。
 そのような態度が≪「戦後民主主義」を批判/否定し、それを「乗り越える」≫ことであった、とは絶対に言えない、ということだ。どう考えても、それはただたんに「バブルに浮かれた」だけだろう。
 浮かれ騒いでいるうちに、「戦後民主主義」の話も、取り紛れてどっかに行っちゃった……。
 ただそれだけのことではあるまいか。
 何ちゅう「ええかげん」な話やねん……。
 思わず大阪弁で呟いてしまう。
 いうならば、「戦後民主主義」という大命題は、なにひとつ解決しておらず、この40年あまり、ただ棚上げにされていたのである。
 だから、80年代バブルが文字どおり泡とはじけて、「失われた10年」が過ぎ、中国の目ざましい勃興のなか、「景気低迷」が常態となった時代が来て、何だか知らんがミサイルもぼんぼん飛んでくるし、宗主国・アメリカの緩やかな衰退もあり、中東をはじめとする世界情勢が何やらいよいよキナ臭くなってきた今日、あらためて「戦後民主主義」が、大命題として迫(せ)り上がりつつある……。
 それが日本の現状ってものではないのかな、と考えているわけである。