ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第5回・小川国夫「相良油田」その⑪

2016-01-29 | 戦後短篇小説再発見
 梯子を上って二階の床から頭を出した浩は、そこが「いつか見学したことのある漁船の操舵室」のようだと思い、また、そこに横たわっている「海軍士官の制服をつけた華奢な青年」を見て、その寝姿が「島のよう」だとも思う。そもそもこの小屋自体が、「大井川の川尻」にあるのだからして、海はたいそう近いのだ。小屋に近づいていった時の二人の会話からも、そのことは明らかである。
 それに加えて、こうやって海にまつわる縁語がいくつも重ねられているために、ぼくにはまるで、この「二階」の部分がそこだけぽつんと海上に浮いているような気がしてしまう。それゆえにいっそうこの場所が異界めいて感じられるのである。
 それにしても、横臥している青年の胸が「固くなっていて、瀬戸物のよう」とは、何を意味しているのだろうか。ギプスかコルセットでも嵌めているのか。口から血を流しているというと、当時のこととて、結核という病名がすぐに思い浮かぶのだけれど、やはりそれを示唆しているのだろうか。あるいは、たんに、華奢な体格の割に胸板はけっこう厚かった、というだけのことか。
 些細なことには違いないけれど、小川国夫の作品を読むということは、こういった棘みたいな細かい謎をちくちく楽しむということでもある。それに、結核うんぬんとなれば、彼の死因にもかかわってくる。
 彼はどうして死に至ったのだろう。自然死であればともかく、もしも他殺となれば大変である。もちろん、「だれが海軍士官を殺したか?」という話になってくるからだ。片々たる短篇の背後に、けっこうなミステリーが広がっていることになる。
 「エディプスの三角形」の原理に従えば、彼を殺したのはとうぜん浩自身である。まだ小学生だからそれはない、とはいえない。これはあくまで象徴空間としての夢のなかでの話なのだから……。少なくとも、彼の無意識が恋敵たる青年の「死」を切望していることは間違いない。浩がそう望んだから、青年は命を落としたのだ。
 ただ、エディプスの神話はそのまま単純にリメイクされるとは限らず、ケースに応じてさまざまに変奏されるのもまた確かで、ルーク・スカイウォーカーはダース・ベイダーを結局は倒したんだかどうだったか、スター・ウォーズにまったく関心のないぼくは知らないのだけれど、現代の日本文学を例にとって言えば、中上健次の『地の果て 至上の時』における浜村龍造は息子・秋幸に殺されることなく自殺してしまうし、田中慎弥の『共喰い』の親父は、主人公本人ではなくその母親、つまり自らの伴侶(前妻)の手で果てる。しかも自分がその女のために作ってやった義手に刺し貫かれて。
 だから、海軍士官がもし殺されたのだとしたら、犯人は浩ではなく、数少ないもう一人の登場人物、すなわち上林先生その人だという可能性もある。ゆえに梯子から下に降りようとする浩と、ちょっと異様なほどの頑なさでそれを拒む先生との会話は、ことのほか重要になってくるわけだ。

――一遍上がったら、下りて来ちゃあ駄目よ。
 浩はその声におびえた気持を聞きわけた。なぜ駄目なんだ、と思った。するとそう思ったことを見抜いたように、彼女の声は囁いた。
――なぜでもよ、駄目よ。下りて来ちゃあいや。

 えらいことになったもんである。ここまで小娘のようにはしゃいで浩を「油田」へと引っ張ってきた先生、ここにきて、まるでもう分からず屋の駄々っ子のようになってしまう。浩くん、屍体といっしょに二階の部屋に押し込めである。
 それにしても、先生の声の「おびえた気持」が気になる。二階へ上がる浩を見送った彼女は、笑顔など見せて、けっこう余裕綽々だった。それがここでは、いきなり取り乱したふうになっている。浩もそうとう困ったろうが、読んでいるこちらも、正直なところ何が何だかわからない。キャラが二転三転している、というか、ひどく揺れうごいている。
 二階と一階に分かれての、お互いを視認せぬままの緊迫したやりとりはしばらく続くが、これが何とも、さながら「こんにゃく問答」といった趣で、どうにもこうにも要領を得ない。まあ、女性と話をしていると、こんな具合になってしまうことはままあるが(もちろん、ある種の男性と話していても、こうなってしまうことはあります)。
 とにもかくにも、下に降りてきてはいけない、と先生はいう。その代わりに自分が二階に行くと。浩はもちろん、来てはいけないと答える。なぜか、と先生は訊く。浩はその理由をいえない。それならば行かない、ただし、あなたが下に来てもいけない、と彼女はいう。この押し問答が一ページちょっとにわたって続くのだ。
 浩が先生に「二階に来ては行けない」と述べる理由は読者にも明瞭なのだけれども、先生のほうがさっぱりである。この取り乱しようから見て、二階の浩が海軍士官(の屍体)と対峙しているあいだに、下の先生にも何かが起ったのだろうと察せられるけれど、それが何であったのかが定かでない。
 いやそもそも、この人は、二階に恋人の死骸があることを知っていたのだろうか? 浩を見送った際の態度からすると、知っていたようにも思えるけれど、仮に知っていたならば、かなり高い確率で彼女自身が「犯人」だということになってしまう。しかし浩に向かって「そこに何があるの? 教えて、教えて」と切羽詰まって問いつめるその口ぶりからは、とてもそうとは思えない。これらがすべて芝居だとしたら、さすがに悪女すぎる。
 あるいは、やはり青年を死に至らしめたのは浩(の欲望)であって、殺害はまさにこの時、読者にも、浩自身にさえも意識されぬまま、この場所で行われたのか……。リアリズムの見地からすると、荒唐無稽な申しようになるが、夢の話なのだから、さほどおかしいわけでもない。むしろ、夢のもつリアリティーに適っているようにも思う。
 この一年近く、この連載を断続的に書きながら折にふれて考えてきたけれど、結局のところ、そう考えるのがいちばん本筋ではないか、という気がしてきた。それでもいくつか軋みは残るが、そう解釈すれば軋みはもっとも少なくなるようだ。
 上林先生があらかじめ何かを知っていたのは確かだと思うが、今の解釈に基づくならば、「そこに恋人の死骸があること」ではなく、「そこで殺害が行われること」を知っていたのだ、という話になる。知っていたというより、「うすうす勘づいていた」くらいの感じかもしれぬが。
 さて、その上林先生は、浩が二階で海軍士官(の屍体)と対峙しているあいだに、下でいったい何をやっていたのだろう。なにをそんなに取り乱しているのか。

――あなた二階で悪いことしたの。
――悪いことなんかしません。
――じゃあいい、もう聞かないわ。先生、二階へも行かないわ。だから先生のいうことも聞いて、下へ来ちゃあいやよ。機械のところへ来ちゃあ、いけないわよ。
――機械のそばへ行かなきゃあいいんですか。
――ううん、駄目。下りて来ちゃいけないの。わたし見られたくないのよ。

 「機械」とは、この連載の前々回、その⑨で述べた、「あんなに濡れているじゃあないの。そばへ近寄ってごらん。」「随分濡れてますね。」のあの機械のことである。いかに禁欲的な方でも、このくだりに性的な暗喩を見出さぬことは難しいであろう。そのような場所に身を置く自分を、「見られたくない」から来るな、と上林先生は強い口調で主張する。おかげで浩は下に降りられない。
 それにしても、「機械のところ」で先生が何かしら性的なふるまいに及んでいたとするならば、その相手はとうぜん、恋人たる海軍士官でなくてはならない。しかるに彼は、浩の手にかかったんだか何だかよくわからないけれど、とにかく二階で死体となり果てていた。リアリズムの見地からすれば、これもまた辻褄の合わない話ではあるが、夢のなかではこういった「同一人物の偏在」は珍しくない。少なくともぼくの夢では珍しくない。だからその点にはとくに違和感を覚えない。
 浩にとっての恋敵たる彼と、先生にとっての性愛の相手たる彼と、二通りの海軍士官が分裂し、夢の世界に偏在しているのであろう。この奇妙な会話の背景を、ぼくはそのように解釈した。



第5回・小川国夫「相良油田」その⑩

2016-01-17 | 戦後短篇小説再発見
――浩さん、帰りましょう。……今日は有難う。先生、油田を見たの始めてなのよ。

 と、上林先生は早くもここでまとめに入る。煩悶を続けてきた浩にすれば、ああ嘘がばれなかった、よかったよかった、と胸を撫で下ろし、さっさとこの場を離れるべきところだ。しかしなぜかこの少年、
 ――二階にはなにがあるんでしょうか。
 などとおかしな探求心を発揮して、自分からわざわざ深みへ嵌り込んでいくのである。空気を読まぬこと山の如しだが、それは例えば、E・A・ポーがあのおっそろしい「黒猫」なんかで描いたような、心に疚しいところがある人間に特有の「あまのじゃく」な心情として読める。
 ここで帰路に着いてしまうのは、三島の「雨のなかの噴水」でいえば、ふたりして公園までは来たものの、肝心の噴水の前まで行かずに帰ってしまうようなものだ。それでは文字どおり「お話にならない」。
 物語の構造、ないしは物語の文法がそれを許さない。純文学とはいえど、「物語」の桎梏から完全に逃れることはできない。明男はどうしたって噴水の前まで行ってあの壮大な観念遊戯に耽らなければならないし、浩もまた、奥の奥のまで踏み込んで、自らが向き合うべきものと対峙しなければならないのである。
 だから浩にこういう言動をとらせるのは、もはや作者の筆というより、物語のもつ力そのものというべきであろう。
 二階にはなにが、と言って浩は先生を見るのだが、ここでの彼女の所作がなかなかに意味深だ。「彼女は建物の影の外にいて、右手の人差し指になにかを引っかけ、くるくる廻していた。紐のついた鍵のようだった。」
 文字どおり、カギを握っているのである。このあたりから、先生の存在がいちだんと謎めいた感じになってくる。
 ――二階なんか、見なくていいわよ。
 と彼女は言うが、むろんこれは本心ではあるまい。現に浩は、
 ――折角来たんだから、登ってみます。
 と梯子の所まで行く。見るなと言われりゃ見たくなる。古今東西、あらゆる神話や民話に頻出する、「見るなの禁止」というやつだ。これまでずっと浩を先導してきた上林先生だが、ここではもはや、物語の力に従って、彼を意のままに操っている感さえある。
 ――怖い人がいるわよ。
 梯子を登っていく浩を見上げて、眩しい笑顔とともに彼女は言う。いや先生あなたもけっこう怖いです。
 「地下への下降」というテーマは、たとえば村上春樹の「井戸」みたいに変奏されて現代文学でも多用されるが、「二階へ登る」というのはあまり多くはないだろう。これは現代における住環境の変化にも因ると思うが、昔の家屋には屋根裏部屋というものがあって、梯子を掛けてそこに登るのは珍しい光景ではなかった。ぼくが尊敬してやまない「小説の女王」こと皆川博子の近作『蝶』『少女外道』(ともに文春文庫)は、戦前の旧家を舞台にした短篇が大半を占め、しかも「二階」をモチーフにしたものが少なくない。そこではほぼ、「二階」はそのまま「異界」である。地下室とはまた趣を異にしているけれど、それも一種の異空間には違いないのだ。
 いま浩が梯子を伝って登りつつあるこの「採石の小屋」の二階も、まさしくそんな感じである。軽々しく踏み込んではならない、踏み込んだらただでは済まない異空間。じつはぼく個人としては、初めて読んだ時からずっと、つげ義春の「ねじ式」に出てくる奇怪な建物のイメージでビジュアライズされているのだが……。
 浩は二階の床の上に顔を出す。そこで彼が目の当たりにする光景こそが、この短編のクライマックスである。これはぜひ「戦後短篇小説再発見」の第一巻をご購入のうえお読みください、と講談社のために宣伝をして終わりにしたいところだが、ここまで一年近く延々と書いてきて、さすがにそれでは収まらない。もし版権者から苦情が出たらただちに削除することにして、この鮮烈なシーンを書き写させていただこう。

 ……そこは下で想像したのとは違って、掃除の行きとどいた清潔な場所だった。河口に向けて広い窓があって、彼がいつか見学したことのある漁船の操舵室を思わせた。床に、海軍士官の制服をつけた華奢な青年が寝ていた。その向うにすりガラスの嵌った下窓があったので、浩のとこからは、島のようにその人の真横の姿が見えた。帽子が、いがぐり頭から蓋がとれた格好で、上を向いて落ちていた。浩がそっと首を引っこめようとした時、その人の唇から赤い紐のような血が流れるのが見えた。

 さらにその口から垂れた血は、「蔓草の成長ほどに」、わずかずつ、わずかずつ、小止みなく伸びていくのである。もしも映像に仕立てるならば、周りを全部モノクロームにして、その一筋の血の流れだけに彩色をして表現すべきところだろう。想像するだにインパクトに満ちたシーンだ。

 連載の当初から申し述べているとおり、ずいぶん変形されてはいるものの、これはエディプス・コンプレックスに基づく三角関係を描いた短篇である。この青年が誰なのかは、浩にも、そして読者にももうわかっているのだけれど、それでもやはり浩としては、いかに相手が屍体の姿で出てきたにせよ、いちおうは、きちんと正面から正対しなければならない。すなわち、「うわーっ」などと無様に叫んで逃げ出すわけにはいかないのだ。

 ――苦しいんですか、と浩はいって見た。予期した通り、反応はなかった。彼は床へ上がって士官を見下ろした。凛々しい顔立ちの青年だった。血の気の引き切った顔は生きているものとは思われなかった。それでも、
 ――どうしました、と浩はききながら胸を見つめていた。そして、そこが固くなっていて、瀬戸物のようだ、と思った。彼は今更のように袖章に眼をやって、
 ――海軍少尉だ、と呟いた。

 浩は戻ろうとして梯子に足を掛ける。そのとき彼は、「世の中の運行が、また従来の調子を甦らせたように感じ」るのだが、そこで階下から、先生の声が聞こえてくる。二階と一階、それぞれに分かれて、お互いを視認せぬままの緊迫したやりとりがここから始まる。この問答がまた、難しい。



第5回・小川国夫「相良油田」その⑨

2016-01-09 | 戦後短篇小説再発見
 この「相良油田」の読解に暇がかかるのは、もとより作品そのものの難しさにも因るけれど、作中に描かれている「油田」のイメージがいまひとつ掴みづらいせいもある。30年近くまえに初めて読んだ時からずっと、そこに引っかかっていたのだが、ネット時代のありがたさで、世の中にはツーリングブログってものがあって、現地にまで出かけて、詳しいレポートを写真付きでアップして下さっている方々がおられる。それらを参照することで、理解を深められた気がする。
 ただし、ここでいうのは大井川の川尻にある(と浩が嘘をつき、その嘘に引きずられて抜き差しならなくなっている)「油田」ではなくて、御前崎にある本物の「相良油田」のことである。くどいようだが、大井川の川尻には油田はないので、いくらツーリングしても、そこでは見つかりません。
 とはいえ本物の「相良油田」のほうも、すでに歴史的な役目を終えて、今は跡地が資料館として保存されているだけらしい。
 「一階に大きな鉄の調車のついた機械が据えられてある、川原の真中の洲の二階建ての採石の小屋」へと、夢のなかの上林先生と浩は向かうのだが、ネットの写真で見るかぎり、資料館として保存されている相良油田の小屋と、彼らの向かう「採石の小屋」とはけっこう似ているのである。
 「夢」とはいっても、これは作者が作品として再構成した「夢」なのだから、われわれが実際にみる夢とは違う。ほんとうの夢は、時系列のうえからも論理的展開のうえからも、もっとデタラメで、飛躍にみち、脈絡を欠いているはずだ。言葉遊びみたいな言い方をすれば、ここで語られる「夢」は、リアリティーがありすぎるがゆえにリアルではない。
 浩と先生は、「採石の小屋」の間近まで行き、浩はさらに中へ踏み込む。内部の描写はじつに細かく、想像だけで書いたものとは思われない。造形に当たって作者は、なにを参考にしたのだろうか。かつて自らがどこかで見た「採石の小屋」を元にしたのかもしれないが、あるいは、本物の相良油田にある小屋を見学して、それに基づいて描いた可能性もないではない。このあたり、そういった建物を見たことのないぼくには、じつはよくわからないのである。
 いずれにしても、それはわれわれが想像する「油田」からは程遠く、むしろ「油井」というべき風情だ。そしてその「油井」は、実際のところ「採石」の現場とさほど大差ないように思える。

 彼は彼女の顔をうかがった。意外にも彼女は、大真面目で採石の建物に油井を見ているとしか、彼には思えなかった。上気して胸を弾ませているようだった。

 これはふたりが小屋に近づいていく途中での一節だけど、作者はここで、「油田」を「油井」と初めて言い換えている。これはやっぱり、ちょっとしたミスではないかなあ……。あるいは、浩自身が(この時の彼は、むろん相良油田を見たこともないし、はっきりしたイメージさえ持ってはいない)「油田」と「油井」とをきっちり区別できてないとみるべきか……。ついさっき述べたとおり、ネット上の写真で拝見するかぎりでは、「採石の建物」と「油井」とは、大差がないように見えるのだ。だから上林先生の反応は、そんなにおかしな錯誤だと思えないのである。
 ただしもちろん、そこは浩が述べた「アメリカよりも、ボルネオよりもコーカサスよりも大きな油田地帯」などではないし(中東の地名が出てこないのは、これが戦前の話だから)、「たくさんの高い塔」だの「精錬所」といったものももちろんない。そういう意味ではたしかに、先生の態度は不審であり、浩が疑心暗鬼になるのも無理からぬところはある。
 そしてまたここで、改めてあの恋のライバル(?)、「海軍士官」が登場(?)する。むしろ重要なのはこちらのほうだ。

 彼の頭をまた、海軍士官がかすめた。その人が彼女を、騙されやすい少女のようにする、と浩には思えた。

 これもまた小川さんならではの凝縮された表現で、読み手の側で補わなければいまひとつよくわからない。ようするに、先生が油田油田と小娘のようにはしゃいでここまで浩に付いてきたのは(というか、浩を引っ張ってきたのは)、そこが恋人たる海軍士官にかかわりのある場所だからだ。いや、これが夢のなかの世界だということを踏まえてもっとはっきりいうならば、“そこに行けば恋人(海軍士官)に逢える”と、彼女が知っているからなのである。さらに言えば、浩自身の無意識が、どうしてもこの場所で、彼女とともに、海軍士官と対峙したいと欲望しているからだ。
 そしてじっさいに話はそのように進む。ただしその浩と海軍士官との対峙は、じつになんともフロイト的に捩じくれた形で可視化されるのだが……。それは浩がひとりで小屋の奥まで踏み込み、さらに「二階」へと上がってからのことである。
 すこし筆を先へと進めすぎた。ふたりはまだ小屋へと向かっている途中だ(そのかんも浩はもちろん、一人うじうじ内省している)。ふと考えたのだけれど、せっかく意中の女性との道行きが叶い、あまつさえ、あちらから腕を携えてくれているにも関わらず、彼が怏々(おうおう)として一向に愉しむことができないのは、たんに自罰的でナイーブな性格だからというだけでなく、カトリック的な「原罪」意識が与っているのかもしれない。そんな気がしてきた。この連載の第6回、花村萬月との対談について書いた際にもふれたが、小川国夫はカトリックの信仰をもつ作家で、それを題材にした作品も多い。この「相良油田」ではそれが前面に出てこないから深くは考えなかったけれど、作家ってものは自らの抱える本質的なテーマからは逃れられないものである。小川さんのすべての作品に、じつは信仰の問題は浸透しているとみるべきかもしれない。
 それにしても、小屋のほうへと向かいつつ、「破れかぶれに」なっている浩と、ここにきていよいよ上機嫌な先生との会話は、妙に細かくて理屈っぽいところと、強引なところとが綯(な)い交ぜとなり、しかもそこに「海軍士官」の影がちらついてじつに面白い。引用したいところだが、やりはじめると際限がなくなり、ついには全文引用となって講談社に怒られそうである。自重しましょう。
 そうしてふたりは小屋に着く。高い位置にあるらしく、「もう頭の上へ来てしまった採石の小屋」と、小川さんは書いている。このあたりもどうも、ぼくにはうまく情景が描けないのだが……。

 ――汲み上げた原油を船の所まで、どうして持って行くんでしょうね。
 ――砂利の下にパイプが通してあるんじゃないの。その中を流れているんだと思う。
 ――でも機械は今止っていますね。
 ――動いているみたい。
 ――止っているんでしょう。だからよく解りませんね。
 ――動いているわよ。
 ――銹びついているようですよ。
 ――ううん、動いているって。機械があんなに濡れているじゃあないの。
 ――濡れてるとこもあるけど……。
 ――そばへ近寄ってごらん。
 ――そう、随分濡れてますね。

 こういう会話にエロティシズムを感じ取るのは、べつに妄想ではなくて、このばあいは正しい読み方である。ただしこの時ふたりは小屋の中までは入らず、外から窺っている按配だ。

 浩は機械のわきから二階の床を見上げた。板の合わせ目から鍾乳石のように、汚いものが垂れ下がっていた。それを見ると、二階にはなにか泥状のものがぶちまけてあるように思えた。なにがあるのか、上ってみたい気がした。その時彼女がいった。
 ――浩さん、帰りましょう。……今日は有難う。先生、油田を見たの始めてなのよ。