ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

24.01.30 「松本人志問題」を考えるための3本の記事

2024-01-30 | 政治/社会/経済/軍事


①反社会学講座ブログ
パオロ・マッツァリーノ公式ブログ
「松本人志さんの罪についての考察と提案」


https://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-451.html




 『反社会学講座』(イースト・プレス→ちくま文庫)などの著作をもつ覆面作家パオロ・マッツァリーノ氏(いかにもイタリア人っぽい筆名だが、じっさいにイタリアの人かどうかは謎)のブログ内記事。持ち前のユーモアあふれる筆致で、現時点での「松本人志問題」をめぐる状況をまとめている。


 冒頭部分を抜粋。


「ジャニー喜多川さんは、いい人でした。多くの芸能人を育て、テレビ界に貢献した功労者であり、育てられた芸能人にとっては恩人です。
 でも、ジャニーさんは犯罪者だったのです。
 24時間、つねに犯罪者でいる人などいません。犯罪者としての顔は、個人が持つ多くの顔のうちのひとつにすぎないのです。犯罪をしてるとき以外は、何食わぬ顔で暮らしてます。それはマジメな職業人の顔であったり、優しい父親・母親の顔だったり、情にあつい先輩の顔だったりします。
 でも、そういう「いい人」が、犯罪者の顔も持ってたりするんです。」
(eminus注 山下達郎氏におかれては、ここいらあたりを熟読玩味のうえ、紙に書き写してレコーディングスタジオの壁にでも貼っておいて頂きたく思う。)
「ジャニーズ問題から我々が学ばねばならないもっとも重要な教訓、それは、予断をもって犯罪告発の声を封じてはならない、ということです。」
「犯罪の告発は、明らかな虚偽が認められないかぎりはいったん信用して受理しなければなりません。その上で、双方の主張内容を比較検討し、どちらが正しいのかを考える。これが法治国家における正しい手順です。」


 ここから、


●的外れな人情論と損失論
●性犯罪に無関心なテレビ局
●週刊誌という入れ物を叩く人たち
●女性側の主張の信憑性は?
●携帯を取りあげる異常性
●もうひとつの罪・松本さんのパワハラ
●芸人のみなさんは河原者に戻りたいのですか?
●合意の有無でなく、合意の中身こそが重要
●記者会見の提案


 など、まことに尤もな意見がつづく。あらためて浮き彫りになるのは、口先だけで反省の弁を並べ立てつつ、ジャニーズ問題から何ひとつ学ぼうとせぬ(というか、端から学ぶ気とてない)テレビというメディアの異常性である。




②【独自】松本人志を切らないと「万博」「公的事業」「落札」を切られる…吉本興業のビジネスの生命線がヤバすぎるワケ
現代ビジネス編集部
https://gendai.media/articles/-/123611


 今やたんなる芸能事務所の枠を超え、「政商」と化した吉本興業が、いかに国政および地方行政に食い込んでいるか、その一端を明らかにした記事。




 一部を引用。

「吉本興業は、大阪府に横山ノック氏が知事に就任した際、国や自治体の仕事のうまみを実感しました。大阪府がお笑いの歴史的な施設とすべく開館した『ワッハ上方』には、吉本所有のビルを提供し家賃が入る。そこでは展示や劇場も手掛け、さらにカネがもらえる。」
「いまや、国や自治体の方から誘われて入札に参加するのが日常茶飯事です。金額さえ決まれば、わざわざ集金にいかなくとも確実に収入が入る。それに吉本のブランド力もアップする。一石二鳥どころか三鳥でした。」
「吉本が手がける公的事業は非常に幅広い。今年1月4日、吉本興業は外務省発注の「令和5年度開発協力工法動画の制作及びプロモーション事業」を約2400万円あまりで随意契約している。」
「昨年9月には、こども家庭庁発注の「令和5年度こどもまんなか社会機運醸成こどもの日イベント企画・運営等業務」を約590万円で落札。
吉本興業の地元、大阪府や大阪市に目を移しても、昨年9月に「大阪文化芸術祭(仮称)」の実施にかかる企画・運営等業務」を大手旅行代理店JTBとともに、19億8千万円あまりで受託。昨年6月には「大阪マラソン開催に関する企画調整・大会運営等業務」「介護職・介護業務の魅力発信事業」、昨年5月には「御堂筋オータムパーティー2023の開催に係る企画調整、警備及び運営等業務」……
数え切れないほど多くの公的なイベント、プロモーションの運営事業を吉本興業は多数受託し、いまや経営の中核となっているのだ。」


そして、


「国や自治体と吉本が「一体」になっている象徴が、何を隠そう2025年の「大阪・関西万博」である。」




 詳細はリンク先の元記事にて。




③もうひとつ、「現代ビジネス」の記事
#MeToo運動を連想させる松本人志の性加害疑惑
笹野 大輔(ジャーナリスト)
https://gendai.media/articles/-/123338?imp=0





 いわゆる「#MeToo運動」の発端となった「ワインスタイン事件」と、このたびの「松本人志事件」との類似性について述べた記事。「#MeToo運動」および「ワインスタイン事件」のかんたんなお浚いにもなっている。






『源氏物語』について 24.01.27

2024-01-27 | 雑読日記(古典からSFまで)。

 今年の大河ドラマは、OPテーマ曲が殊の外すばらしく、それだけで、とりあえず三話まで付き合ってしまった。


◎大河ドラマ「光る君へ」| オープニング (ノンクレジットVer.) メインテーマ | NHK
https://www.youtube.com/watch?v=zjf1BNejRjc



 「ラフマニノフみたい」というコメントも見たが、それは通俗的でセンチメンタルなピアノのソロはたいていラフマニノフ調に聴こえるわけで、そこよりもやはり、特筆すべきは主旋律だろう。アート・オブ・ノイズの「ロビンソン・クルーソー」によく似ている。


Robinson Crusoe/Art Of Noise
https://www.youtube.com/watch?v=jH6lLDg2Aq0



 これはかつてFNラジオ「ジェットストリーム」のEDに使われていた曲だから、ある年齢以上の者は懐かしさを禁じえまい。作曲者は冬野ユミという方で、ぼくはこの方についてさっきウィキペディアで読んだばかりの知識しかないため、なにもわからないのだが、さほど年配ではなかろう(ウィキに年齢が書いてないのである)。とはいえしかし、「ロビンソン・クルーソー」を踏まえて作っておられるのは間違いない。この換骨奪胎はうまくいってると思う。


 それで、まあ、本編のドラマだけれども、いきなり第一話のラスト近くで主人公まひろ(のちの紫式部 演・吉高由里子)の実母(演・国仲涼子)が通り魔どうぜんの犯行によって横死を遂げる、というショッキングな展開があり、しかもその犯人は行きずりの野盗などではなくて、時の最高権力者・藤原兼家(演・段田安則)の三男(正妻の嫡子としては次男)たる道兼(この犯行時の年齢は16歳くらい 演・玉置玲央)であったという出鱈目ぶりで、「これは真面目な視聴者は怒るんじゃないか。」とぼくなんかは心配したが、のちほどツイッターをざっと見たところ、「すぐに脚本家を替えろ。」とまで激怒している方はお一人だけだった。


 「大河ドラマは現代における講談である。」と以前にぼくは書いたけれども、もっというなら歴史に材をとったメロドラマ(これは「昼メロ」みたいな軽い意味ではなく、文芸用語としての「メロドラマ」である)であって、ようするにサブカルなのだ。だから幼い子供や学生さんが鵜呑みにしたらまずいんだけど、いまどきの視聴者を惹きつけるには、これくらいのどぎつさが必要なのかな……とは思う。それでも、平安貴族が「穢れ」をいかに恐れたか、それを考えれば絶対にありえぬ……という見地からの苦言がネットの上にいくつか出ている。「いや……そこもたしかに重要だけど、道兼の名誉って点はどうなんだ。後年の所業に鑑みて、『あいつなら若気の激情に任せてこれくらいのことはやりかねん。』とでも思われてるのかな?」などと思ったりもするが、それはそれとして、ぼく個人としては妙なリアリティーを覚えたのも確かだ。


 いちおう建前のうえでは「民主主義」に基づく「法治国家」ということになっている現代ニッポンにおいてさえ、いちぶ上級国民はまったくやりたい放題で、税金はいっさい納めぬわ、公金を着服して私財を蓄えるわ、事故を起こしても有耶無耶にするわ、あたかも傍らに国民など無きが如しである。それで罪に問われるどころか、職を追われることすらない。この調子では、裏で何人ものひとを死に追いやっていてもまったく不思議ではない。まして千年前においてをや。ドラマの中では兼家の庇護下にあるまひろの父・藤原為時(演・岸谷五朗)がまひろに厳命して事件そのものを揉み消してしまう。母の死は病死にされてしまうのだ。コネとカネに裏打ちされた強大な権力の前には道理などまるで通用しない。そういったくだりに、脚本家たる大石静さんの世相に対する批評を感じた。


 時代設定が地味、出演陣もいまひとつ地味……ということで、放送前から視聴率が危ぶまれていたが、はたして、あまり振るわないらしい。ただ、その数字は昔ながらの「リアルタイム視聴」だけで、録画なども含めた総合的な数字を見れば「まずまずの健闘……」だという記事もネットで見た。いずれにしても、大河ドラマは一年という長尺であり、一大イベントには違いない。例年、出版業界でも関連本……もっとロコツにいうなら便乗本……があれこれ出るのが常だけれども、さっきアマゾンを見ていたら、ちょっと目についただけでこれくらい出ていた。


『紫式部と男たち』木村朗子 文春新書
『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』服藤早苗 NHK出版新書
『藤原道長と紫式部』関幸彦 朝日新書
『源氏物語の作者を知っていますか』高木和子 大和書房
『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』山本淳子 朝日選書
『「源氏物語」のリアル』繁田信一 PHP新書
『嫉妬と階級の「源氏物語」』大塚ひかり 新潮選書
『謎の平安前期——桓武天皇から「源氏物語」誕生までの200年』榎村寛之 中公新書
『紫式部 女房たちの宮廷生活』福家俊幸 平凡社新書
『やばい源氏物語』大塚ひかり ポプラ社
『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』倉本一宏 NHK出版新書
『紫式部と藤原道長』倉本一宏 講談社現代新書
(なおこの倉本一宏氏は、ドラマの時代考証を担当している。)



 どれも面白そうなので、もし手元にあれば目を通すが、買うとなったら大変である。本はほんとに高くなった。さほど厚からぬ新書ですら千円がふつうだ。仮にぜんぶ買ったら軽く一万円を超えてしまう。書籍費はせめて軽減税率の対象にしなけりゃおかしい。先進国はみなそうしている。これではとりわけ若い世代が書物から遠ざかるばかりだ。あげくにお笑い芸人やらIT長者やら自称なんとかかんとかの得体の知れぬ新自由主義系ウヨクらがカリスマ的なオピニオンリーダーになってしまう。言論は腐り、文化の根幹が痩せ細る。これはニッポンの将来にとっての痛恨事である。


 それはそうと、ぼくは源氏物語を全巻とおして読んではいない。原文はおろか、現代語訳でもだ。源氏の訳といえば谷崎潤一郎のものがたぶん長らくもっとも権威あるものとされてきたはずだ。與謝野晶子訳も有名だけどいかにも古い。ぼくが学生の頃には円地文子訳が「生彩に富んでいる。」と評されていたが、さっき見たら新潮文庫版は絶版で、電子書籍化もされていない。いっぽう、中公文庫の谷崎訳、角川文庫の與謝野訳は装丁をかえて読み継がれているらしい。このあたり、読み比べたことがないからわからぬが、どういう機微があるのだろうか。田辺聖子訳は抄訳だから、いまもっともポピュラーな全訳は講談社文庫の瀬戸内寂聴訳だろう……と思っていたが、よく調べると、『八日目の蝉』で知られる角田光代さんの訳が河出文庫から出ている。電子書籍版をネットで立ち読みしてみたが、きびきびした、読みやすい訳文である。読売文学賞を取っているとのこと。若い人にはこれが最適かもしれない。ほかに、さきほどの目録の中にも名のあった大塚ひかり訳もあるが、こちらはちくま文庫版が品切れ状態。


 ぼくの手元にあるのは1990年代の後半に講談社からでた瀬戸内訳の全十巻で、文庫ではなく単行本のほうだ。リアルタイムで購ったわけではない。ずいぶん後になって古書店で見つけ、そのときにはもう文庫が出ていたが、そちらをまとめて買うより安かったので思い切って買った。これを折にふれてちょいちょい拾い読みしてきた。あとは、ご存じ大和和紀さんの名作『あさきゆめみし』(講談社)。こちらはもちろん全巻、一気呵成に読んだ。それと角川文庫の『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 源氏物語』と、ほかにも入門書の類いはけっこう読んできた。そうそう。丸谷才一さんの『輝く日の宮』(講談社文庫)も忘れちゃいけない。そして、おそらく何より役に立ったのが浜島書店の『常用国語便覧』。高校教科書の副読本で、手元にあるのは2004年に出た版だが、これがまことにありがたい。図版も美麗だし、物語の梗概を詳細な年表にしてくれているのである。


 そういったていどのごくごく浅いお付き合いである。自分が源氏をろくに読めない理由は明瞭で、ひとことでいえば不愉快だからだ。好色、乱倫、傲慢、この男、あけすけにいえば色情狂だと思う。紫の上の件を思えば、あきらかに犯罪者ですらある。何をやっても許される。まさに究極の上級国民。ちなみに源氏が若紫を誘拐したのは、『光る君へ』において道兼がまひろの母堂を刺殺したのとおおむね同じ年頃だけども、甘やかされた世襲のガキの横暴ぶりという点でまさに軌を一にしている。もとより偶然ではあるけれども……。漫画『あさきゆめみし』の中でも、若紫の寝所に源氏が押し入ってくる場面はたいそう痛々しく、全編でいちばん印象が強烈であった。


 もちろん、千年も昔の物語、しかも明らかに虚構の世界とわかっている話の登場人物を今日の倫理の物差しで測るのはおかしい。それは百も二百も承知してはいるのだけれど、理屈は抜きにして読んでるだけで腹の底から怒りが込み上げてくるんだからしょうがない。とりわけ、源氏が目星をつけた女性に対してねちねちうだうだ言い寄るあたりがもう虫酸が走るくらいに厭だ。ほんとにまったく気色がわるい。「お前ちょっと額に汗して働いてみろ。お前の毎日食ってるお米は誰が作ってると思ってんだ。」と言ってやりたくなる。おまえがしょうもない色恋沙汰にうつつをぬかしてる時にどれだけの民百姓が飢えや病気に苦しんでいるか。ほんの少しでも想像力を働かせてみろ、と言ってやりたくなるのである。


 これではまるっきりプロレタリア文学批評であり、そんなことを言ってたら百人一首も鑑賞できなくなっちまうわけだが、「源氏物語」のばあい、地の文において作者の人がむやみやたらと源氏のことを手を変え品を変え褒め上げるもんで、ついついこちらも反撥しちまう次第である。あげく、作中の描写が雅になればなるほど、読んでるこちらは柄が悪くなっていく寸法で、どうにも困ったものである。


 物語論の見地からすれば、光源氏ってのはギリシャ神話でいう「英雄」、すなわち、人でありつつ半ば「神」たる存在であり、だからこそこういう書き方が行われているわけだ。そこもまた、じゅうじゅう弁えてはいるのだけども、やはり不愉快なものは不愉快だ。ところが、そういった反撥なり抵抗なりを一蹴する読み方がひとつある。河合隼雄さんによる『源氏物語と日本人 紫マンダラ』(講談社α文庫/岩波現代文庫)が提示しているもので、ここで河合氏は、たんなる物語論を超えて、ユング学徒の立場から、『「女性的なるもの」のあらゆる諸相を紫式部が自身のうちから抽出し、源氏を取り巻く女性たちに仮託して余すところなく描き切った。』という意味のことを述べておられる。


 「源氏は主人公のようでじつは主人公ではなく、狂言回しというべき存在。本当の主役は彼にかかわる女性たち」という指摘は生前の瀬戸内さんがよく仰っていたが、瀬戸内さんとも親交があった河合さんの説は、さらにそれを推し進めて、「つまり光源氏とは空虚な中心なのだ。」といっておられるわけである。「空虚なる中心」としての光源氏。それを前提として読むならば、少なくとも腹は立たないが、たとえば皆川博子さんの小説を読むような具合に、「貪り読む」という体にはなかなかならない。こちらとしてももっと修業が必要なようだ。





年初のご挨拶・文豪短歌

2024-01-18 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 令和6年は、「おめでとう」という言葉で迎えられない年明けになってしまいました。被災者の皆様には心よりお見舞いを申し上げます。また、救助・捜索・医療および復旧活動にあたられている関係者の方々に感謝を申し上げます。






 前回の更新から、年をまたいで一ヶ月以上が過ぎているので、このかんの近況を申し述べると、師走の前半はもっぱらyoutubeで宇多丸さんの映画時評を聞いていた。前回の記事で書いたとおり、劇場映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』がきっかけで宇多丸さんのレビューに初めて接し(これまで映画批評家としての令名は耳にしていたものの、レビューそのものにふれたことはなかった)、その該博な知識と見識の高さに一驚して、youtubeに上がっている口演を片端から聴いていったわけだ。そのほとんどがTBSラジオの番組内で放送されたものなのだが、公式にアップされているものとは別に、ファンの方が過去の音源を録音したものも含まれており、かなりの量になっている。ぼくは近年、まるっきり映画に疎くなってるもんで、大半が未知の作品なんだけど、聴いてるだけで面白く、おおいに勉強になった。
 なにしろ本業がラッパーだから口跡がいい。加えて内容も、そのまま書籍化できるくらいのレベル。たいした才人である。それにしても本物のシネフィル、シネフリークってのは大変なものだ。こういった方々に比べれば、「近年」どころか、これまでの全人生において、ぼくなどは映画をまるで観てないに等しい。
 批評ってものは、「基本的にはストリートに足場を置きつつ、アカデミックなところもきっちりと抑えている。」たぐいのやつがいちばん面白いのだが、宇多丸さんのはまさしくそれだ。ぼくにとっての同時代最良の映画レビューアーはこれまで菊地成孔さんだったが、2023年の12月をもってそのポジションは宇多丸氏にかわった。
 そんな塩梅で12月前期の余暇は潰れていったのだが、年末が近づく頃には映画の話にも飽きてきて(ぼくはたいそう飽きっぽいのである)、こんどは短歌に入れあげていた。この件は、「ゲゲゲ」の記事のさらに一ヶ月まえ、AIさんとやった短歌の話につながっている。
 もともとぼくは短歌好きなのだ。高校3年くらいだったと思うが、本屋で見つけた角川文庫の『寺山修司青春歌集』がきっかけで(180円だった)、ノートにちょこちょこ自作の短歌を書くようになった。そのころは小説は書いてなかったし、書けるとも思ってなかったので、課題で出された作文以外で自ら「創作」に手を染めたのは短歌が最初だったということになる。いや、だからどうってこともないんだけども、ようするに自分はかなり昔から短歌が好きだってことを言いたかった。
 あのときの記事では、ネット上で発見した「菫野」さんのことを賞賛していたが、そのあと菫野さんの発表される短歌は、ぼくの好む文語調が薄れて、口語体の作品が多くなってきた。それで、自分としてはいくぶん興味が褪せてしまった。勝手に入れあげて勝手に醒めてるんだからいい気なもんだが、ほんとにどうにも、ぼくってやつはつくづく飽きっぽいのである。
 菫野さんは、「いやしの本棚」というアカウント名でX(旧ツイッター)をやっておられる方が短歌を発表する際にお使いになる筆名である。短歌のことを別にしても、「いやしの本棚」は読書サイト、美術サイトとして愉しい。
 その中で、菫野さんが影響を受けた歌人のひとりとして、水原紫苑の名が挙がっていた。こちらはプロの歌人である。現代短歌を代表する一人だ。
 水原さんのことは、ずいぶん前からアンソロジーで知っていて、気にかかってはいたのだが、歌集をきちんと読んだことはなかった。そもそも歌集というのは高価であり、小さめの書肆から少部数で発行されるものであり(『サラダ記念日』はとてつもない例外である)、手に取る機会はなかなかない。
 ほんとうは、第一歌集の『びあんか』と第二歌集の『うたうら』を読みたかったが、入手が難しいので、「深夜叢書社」というところから出ている『水原紫苑の世界』なる書籍を、3000円を超す定価だったため相当に迷ったんだけど、とりあえず購入した。巻末に、「水原紫苑自選五百首」として、これまでの全歌集の中からご自身が選りすぐった500の歌が載っている。
 それらの歌に触発されて、ずいぶんと久しぶりに、自分でもちょっと詠んでみた。一首のうちに文豪の名前を織り込みつつ、彼らの作品に対する自分なりの批評を試みたものである。
 こんな感じだ。








 辿り来て幽冥境に至りなば泉の鏡に映る花影






 夏の夜の夢覚めやらで草枕 猫目石(キャッツアイ)にて漱(くちそそ)ぐ朝






 鷗立ち立つ海原、かのやうに森の外(と)あはれ舞姫の舞ふ






 ものかたり蒐めて昏き淵となり芥の川に龍も棲みける






 百の鬼 内に犇めく園なれば冥途の道もわづかな閒(あいだ)






 宮くぐり沢を渡りて賢しくもこの地治むる星に見(まみ)ゆる






 稲の穂の足るゝ歌垣ゆたかにて星と暮らせし一千一秒






 大宰府の治者失格を宣せられ黄泉へと流る、桜桃もなく






 綾錦 花野潤い谷ふかく崎はするどくそそり立ちける






 この川を渡ればあの世その端の隧道くぐれば雪國ならむ






 三木(さんぼく)に三鳥、三草、三嶋と、幽鬼の翁より伝授を受けぬ






 かの村の上より来たる春風にノルウェイの森の樹々らも揺れて










 こういう独り遊びをしていると、時間なんてあっという間に過ぎていく。おカネは掛からず、しかも愉しい。そんなぐあいにわたくしの2023/令和5年は暮れていったのだった(いや、これはあくまで遊び時間の話であって、ほかにいろいろやるべきことはやってますけどね勿論)。