ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

藤井聡太四段29連勝目の対局について。

2017-06-29 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)
 図は藤井聡太四段が29連勝を達成した26日の竜王戦の対局。44手目、後手の増田康宏四段が△3八金と飛に当てて打ち込んだところだ。
 飛車はもう助からないが、これは3六に垂れた歩を払って△2七角と飛金両取りを掛けられ、▲3八飛△4九角成▲同飛と進んだあげくのことだから、もちろん藤井四段の読み筋である。だから正しくは、両取りを「掛けられ」たのではなく「掛けさせ」たというべきだろう。
 ただ、この局面そのものは、けして先手よしとは見えない。深浦康市九段が「6対4で後手(増田四段)がいい。」と解説し、森下卓九段が「あのままふつうに勝つと思った。」と述べていたのは、たぶんこの局面を指してのことであったと思う(増田四段は森下さんの弟子なのだ)。
 開戦は、21手目に藤井四段が▲3五歩と仕掛けて始まっている。藤井四段のことだから、その時点でとうぜん、この局面を変化のひとつとして想定していたのは間違いない。しかしこれを「やや苦しいがやむを得ない。」と見て踏み込んだのか、「十分に勝算あり。」と見て進んで誘導したのかは、興味ぶかい問題だ。
 なぜか。
 専門的になるが、藤井四段の得意戦法は「角換わり」である。非公式戦ながら、あの羽生三冠をもこれで負かした。棋譜だけを見れば、圧勝といっていい勝ち方だった。その同じ非公式戦のシリーズ初戦で、増田四段ともすでに一回対戦しており、やはりこの「角換わり」を駆使して勝っている。
 角換わりは、序盤早々、角という大駒をお互いが手持ちとするスピーディーで激しい戦法である。だから中盤を飛ばして一気に終盤へとなだれ込むことも珍しくない。詰将棋の達人で、寄せの速さに圧倒的な自信をもつ藤井さんには、だからたいへん適しているわけだ。
 このたび、増田四段は10手目に△4四歩と角道を止めた。これは角換わりを拒んだ手で、陣形はおのずと「雁木」になった。アマならともかく、プロ間では実戦例の少ないかたちである。だが、上述のとおりの事情により、今後は「藤井対策」としてこの戦型が増えてくることも予想され、だからこの局面も、課題図のひとつとして研究テーマになって不思議はないのである。
 プロ二人の見解は上に書いた。いま調べると、うちのソフト(技巧2)もやはり「後手有利。」と評価している。どうでもいいが、ぼくもあの時、「後手がいい。先手からの攻め筋が見えない。連勝は一位タイで途切れるか。」と思っていた。ところが、そこでたまたま7時のニュースを付けたら、スタジオに呼ばれた永瀬拓矢六段が「はっきりとはわからないけれど、藤井君が勝ちそうな気がします。」とコメントしたので驚いた。永瀬さんは、非公式戦ながら、藤井四段がプロになってから負けた三人の棋士のうちの一人である。「次代を背負う俊英には、やはり何か違う世界が見えているのか……」と感じたものだ。
(ちなみに、藤井君を破ったあとのふたりは豊島将之八段と羽生三冠。豊島さんとは将棋まつりの席上にて、30秒早指しのお好み対局。羽生さんとはインターネットテレビの企画ものにて一勝一敗。)
 さて。当の局面。
 飛車をただで取られるわけにはいかぬから、いちどは▲5九飛。そこで後手はとうぜん△4八金と追う。次の△5九金が王手になるので、先手が勝つには、ここから鋭い手を連発して、後手に△5九金の余裕を与えず、後手玉にぐいぐい迫っていかねばならない。しかし、そんな手がほんとにあるんだろうか。
 目につくのは、▲3三歩、▲7七桂、▲2二歩だろう。桂が攻めに参加すれば心強いので、▲7七桂はやりたい手だが(じっさい後で実現する)、へたに飛車に働きかけて、あげく二枚飛車で攻め立てられる形になったら、いかな藤井四段でも防ぎようがない。
 藤井四段の選択は▲2二歩だった。▲3三歩は、たんに△同桂と取られて意外と後が続かない。だから結局はこれが最善手だったようなのだが、2一の桂を叩いても敵玉への響きは薄そうなので、あとの変化を読み抜いてなければ指せない手でもある。
 後手はいったん△同金。この味付けをしておいて、ここで▲7七桂。これが絶妙な継続手だった。△4五飛と回っても、▲8三角と打って飛車を成らせては貰えないので、△8二飛と引くしかない。
 そこからぽんと▲6五桂と跳ねる。飛車に当てて先手を取りつつ、攻め駒をあっさり最前線に進出させたのだ。あざやかな手順であった。
 後手は△6二銀として5三の地点を受けるが、すかさず▲7五角。なおも5三に照準を合わせて兵力を足しつつ、先の▲2二歩△同金の効果で、▲3一角成を狙った一着になっている。先手、先手と攻め立てて、増田四段に余裕を与えない。「そんな手」はほんとにあったんである。
 なお、初級者の方は、「どうして後手はさっさと飛車を取らないんだろう。王手なのに。」と思われるやもしれぬが、これはむしろ、王手だから、いつでも入る一手だからこそ指さないわけだ。△5九金▲同銀のかたちは「詰めろ」(次に先手玉がすぐ詰む形)ではない。極端にいうと、ここで金を渡したばかりに、後手の玉が先に詰んでしまうかもしれない。こんなばあいは、すぐにその手に飛びつくのではなく、何手か進めて最良のタイミングで取るのが吉としたものだ。
 △3二金と寄って▲3一角成を阻むも、再び▲2二歩。もう同金とは取れないから、△3三桂と逃げるが、そこでずばり▲同銀と食いちぎる。とうぜんの△同金に▲1五角。この1五角も厳しいが、さすがにずっと付き合うわけにもいかず、ここでようやく△5九金▲同銀が入る。
 しかし▲同銀のあと、まだ後手には3三の金を守るべき一手が残されている。うちのソフトによれば、どうやらここで△2四銀と強く角に当てて打つ手が、いちばんよかったようなのだ。
 後手に飛車を持たれているから、ゆっくりしてはいられない。いきおい先手は▲同角と切ってしまうよりないが、△同金と、とりあえずこちらの角を消す。それがもっとも粘れる手だと、うちの「技巧2」先輩は言っている。
 しかし、そのあと直ちに▲5三銀と、いま取ったばかりの銀を頭上にびしりと打ち込まれ、後手玉もなかなか容易ならず、というのが当面のぼくの結論である。技巧2×技巧2で何局か対戦させてみたところ、先手が勝ったり後手が勝ったり、なにしろ難しかった。ただ、あえていうなら、いくぶん後手が勝ちやすいようではあった。
 さて本譜。増田四段は△3二銀と引いて金を守った。この手自体が悪手ってわけではないのだが、いかんせん、1五の角が生きていて、しかも、3三の金が質駒(いつでも取られる駒)になっている。これがよろしくないのである。
 藤井四段は▲5三桂と打った。このためにさっき銀と刺し違えたわけだ。そしてこれが、▲3三角成、△同銀、▲4一金までの「詰めろ」になっている。これで後手はいっぺんに慌てさせられることとなった。
 もとよりこれで決まりというわけではなく、△3八飛など、後手から有望な手もあるのだが、しかしそれも、▲3七金と飛車を弾かれたあと、しだいにジリ貧になりそうだ。
 ましてこのとき、増田四段の残り時間は逼迫していた。これが人間同士の対戦の妙味ってものだ。かてて加えて、これはけっして健全なこととは思えないのだけれど、周囲に身を潜めて「新記録達成」の歴史的瞬間を今か今かと待ち構えている膨大な数の「報道陣」たちからの無言のプレッシャーもある。おそらくはこの▲5三桂打を以て、このたびの勝負の帰趨は決したといえるのではなかろうか。
 このあとは、金をかわして玉の逃げ道をつくり、おそるべき二枚角の照射と、頭上の桂馬とを追い払うべくけんめいに力を尽くしてみたが、どうにも包囲をふりほどけず、せっかく取った虎の子の飛車を打ち下ろす隙さえ与えられぬまま、詰みへと追い込まれてしまった、というのが後手の感じではなかったかと思う。△8七飛成と待望の飛車を成りこんだ直後、▲6一銀と「必至」に近い詰めろを掛けられ、ようやく2八に打ち下ろした飛車は、あの1五の角を、すっと4八へ引いて軽く受けられてしまう。
 △4八飛成▲同玉△2八角のあと、最後に▲3八飛と打った手は角金の両取りである。角が逃げると▲3四飛△同金▲5三金まで。よって後手には指す手がない。91手まで、投了。
 結論として繰り返すならば、1五角のあと、62手目の△3二銀が△2四銀ならばまだまだ勝負は続いただろう。コンピュータならぬ人間には、限られた持ち時間の中でのとっさの判断は難しい。しかし、もし藤井四段が後手ならば、たぶん△2四銀と打った気がする。プロ棋士たちが口をそろえて「彼の指し手は精確無比。」というのはそこのところだ。
 それだけではない。最初に問題提起をしたとおり、21手目、すでに▲3五歩の仕掛けのところで藤井四段が漠然とでもここまでの局面を想定し、「十分に勝算あり。」と読み切っていたなら、その構想力はとてつもない。将棋のことを何も知らないコメンテーターやらアホ芸人やらが、下らぬことをさんざん述べているけれど、20勝目の澤田真吾六段戦や、22勝目の坂口悟五段戦など、相手のミスに助けられた譜も確かにいくつかあったにせよ、デビュー以来公式戦無敗の29連勝は、けっして伊達ではないのである。