ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

橋本治×浅田彰対談「日本美術史を読み直す」紹介

2022-07-21 | 歴史・文化
 安倍元首相の政権下で我が世の春を謳歌してきた「自称保守」の面々が、まともな教養もなければニッポンの伝統に対する真の敬意も持たず、やみくもに「日本スゲー」を叫んで周辺国を貶めることで、経済の低迷で自信をなくした日本人のプライドをあおって金儲けをしてきただけのビジネスパーソンでしかなかったことがはっきりしたところで、いったん政治の話題を離れて、教養をブラッシュアップしたいと思います。今朝たまたま見つけたサイトで、3年前(2019/令和1)にアップされたものですが、2007(平成19)年に行われた橋本治・浅田彰両氏による対談(新潮社主催)を、橋本さんの逝去を受けて追悼の意味で転載したそうです。当代屈指の「知識人」ふたりの対談だけに、美術史にとどまらず、「日本」そのものの特性を浮かび上がらせる「作品」に昇華されていると思います。ぜひどうぞ。






対談:橋本 治 × 浅田 彰「日本美術史を読み直す」
https://realkyoto.jp/article/hashimoto-osamu_asada-akira/






暫定記事・井沢元彦『逆説の日本史』

2022-05-18 | 歴史・文化
 井沢元彦『逆説の日本史』(小学館文庫)の電子書籍版がバーゲンセール中だったので、最初からきちんと読んだらべらぼうに面白かった。1992年から、「週刊ポスト」に目下のところ30年にわたって連載されているノンフィクション。以前から名前は知ってはいたが、なにしろ掲載誌が掲載誌だし、「言霊」だの「怨霊」だのを通して日本史を読み直すという趣旨の作品と聞いていたので、これまで真面目に読んだことはなかった。歴史おたくによる梅原猛日本学の亜流だろう……くらいに高を括っていた。いや、とんでもない思い上がりであった。そんなレベルの話ではない。
 いま立て込んでいるため詳しいことは書けないが、これはぼくが今まで読んできた中でもっとも明快で本質を抉った「日本通史」だ。むろん、そこに記された内容がすべて正しいとはいわない。学術的には荒っぽいところもいっぱいある(作者の井沢さん自身がそれを認めている)。しかしそれでも、一人の作者が共著者を持たず自分だけの力で「日本通史」を試みているという点で、これは他に類を見ない画期的な作品なのだ。
 ぼくはこれまで自分が中公文庫と講談社学術文庫の「日本の歴史」シリーズや、歴史関連の新書などを頼りにこつこつと作りあげてきた自己流の「日本通史」が、はるかに広く、深く、鮮烈なかたちでアップグレードされたことを認めざるを得ない。
 もっと前にこの『逆説の日本史』シリーズを読んでいたなら、当ブログの「歴史」カテゴリも、まるで違ったものになっていたろう。
 もちろん『鎌倉殿の13人』の背景もよくわかる。広常は出てこないけれども。



雑談・応仁の乱06 「SF」としての歴史書

2021-06-24 | 歴史・文化
 3月の下旬から「応仁の乱」の話をやってるんだけど、呉座勇一の『応仁の乱 ― 戦国時代を生んだ大乱』にはまだ目を通してないんですよ。5年前に中公新書から出て、この手の本としてはかなり売れてるらしいんだけど、ネットで何本かレビューを見たら、必ずしも「これ一冊読めば応仁の乱の全容がわかる!」といった類のものでもないようなんで……。一般向けの新書としてはやや詳しすぎるみたいでね。ぼくがいま求めてるのは、そういうものではないんだな。
 それにしても呉座さん、1980年生まれの気鋭の学者ですが、いま検索したら、なんか専門外のことでtwitter炎上して有名になっちゃったみたいで、おやおや、と思いましたけども……。でも高橋典幸/五味文彦編『中世史講義』(ちくま新書)に収録されてる「戦国の動乱と一揆」という小論はとても参考になりました。
 私が参考にさせて頂いてるのは、その『中世史講義』のほか、中公文庫と講談社学術文庫の「日本の歴史」シリーズ、岩波新書の「日本中世史」といった一般向けの基礎文献なんだけど、いずれにしても、たんに歴史のお勉強をしたいわけではないんでね。もともと「戦後民主主義」の話をしていて、そこから派生っていうか、まあ遡行していくようなかたちで考えが進んでいったんで……「民主主義」って読んで字のごとく「民が主体となる政体」のことだと思うんだけど、じゃあそもそも「民(民衆/大衆/庶民)」って何だ?って話でね……そこで「日本史上初めて民衆が歴史の前面に登場してきた時代」ということで、応仁の乱に興味が向いた。あえてまとめればそんな感じになります。
 まあ、手塚治虫原作のMAPPA版アニメ『どろろ』が好きってこともあるんだけども。
 そうそう、室町時代を舞台にした作品ってことで、サブカルでは『どろろ』のほかに『一休さん』を挙げたけれども、もうひとつ、宮崎駿の『もののけ姫』がありましたね。あれはなかなか難物なんで、当ブログの「ジブリ」のカテゴリでも扱ってませんが……。あれ論じるとしたら、このペースだとまた何ヶ月も掛かりそうだしなあ。
 『どろろ』はまさに応仁の乱のど真ん中だけど、『一休さん』はその60年ほど前、『もののけ姫』は乱が終わって30年くらい経った頃ですかねえ。「乱が終わった。」なんていっても、時代はいよいよ戦国乱世へと突き進んでいくんで、ぜんぜん穏やかじゃないんだけども。
 でも、前の記事を書いてから考えたんだけど、アニメ『一休さん』にみる風俗(つまり当時の衣食住とか生活様式など)の描き方ってものはやはり江戸期のイメージだったよなあ……。いかに京の都とはいえ、室町の暮らしってのはもうちょっとくすんでたっていうか、あそこまで華やかではなかったような気がするんでね……。当時のアニメのスタッフは、もっぱら江戸を舞台にした時代劇をモデルに風俗考証をしたんじゃないかと推察する次第ですけどね。でも室町を(というか戦国以前を)描いた先行作品はドラマでも映画でもほんとに乏しいんで、そこは仕方なかったと思いますけども。大河ドラマの時代考証だって、おおむねそんな具合ですもんね。江戸を描いた時代劇がベースになってる。
 『どろろ』や『もののけ姫』はそもそもダーク・ファンタジーだから、リアリズム的な意味での考証うんぬんの話がどこまで妥当するかは難しいけれど、ただ、ああやって魑魅魍魎がわらわらっと日常のすぐ傍で蠢いてる感覚は心性のレベルにおいては逆にリアルっていうか、精確なイメージだと思いますよ。おそらく中世人(ちゅうせいびと)ってものはああいう「世界観」のなかで暮らしていたと思うんだな。
 ぼくの本業(?)の小説のほうだと、永井路子の『銀の館』(文春文庫 上下)かな。永井さんだから日野富子が主役なんだけど、いっぽうで、「民衆代表」というべき逞しいひとりの女性キャラが準主役として配される。このふたりを通じて「最上層」と「最下層」との両面から当時の社会を映し出そうって趣向でね、これは映画『タイタニック』なんかでも使われてたし、ありふれた手法なんだけど、さすがに富子の内面描写が巧くて、面白く読めましたね。もちろん、良くも悪くも「通俗小説」ですけども。
 しかし何といっても司馬遼太郎御大の『箱根の坂』(講談社文庫 上中下)ですねえ。司馬さんには『妖怪』という作品もあって、これは足利義政が主役なんだけど、いかにも若書きというか、司馬さんの中でもそれほど良い作品ではない。その失敗を踏まえてってことかどうかはわからないけれど、『箱根の坂』はずっと後年になってから書かれたもので、こちらの主役は関東の北条早雲。「史上初めての戦国大名」とのちに謳われた武将ですね。つねに庶民の暮らしを慮っていたひとで、江戸期の藩でもこれほどの名君はいなかったといわれる。
 『箱根の坂』には応仁の乱が直接描かれているわけではないけれど、乱の騒擾のもたらす余波が各方面へと及んでいって、およそ「中世的秩序」なるものがぐずぐずと解体していく様子がよくわかる。そうして「下剋上」が起こり、早雲タイプの新しいリーダーが大きく台頭してくるわけね。司馬ファンの中でも愛読書に挙げるひとが少なくて、あまり取り沙汰されないんだけど、司馬さんの円熟期を代表する傑作のひとつだと思いますね。
 この数ヶ月もっぱら中世のことを書いた本ばかり読んで、どっぷり浸った気分になってるんだけど、この感じ、なんかに似てるなと思ったら、ハードSFを集中的に読み込んだ時の感覚に近いね。たとえばブルース・スターリングのような「世界を細部まで丸ごと作り込む」タイプのSFを読んだときの感覚ですね。
 つまり、「中世」という日常とは異なる別天地をアタマのなかに構築して、そこを覗き込んでる感じなんだな。或る種シミュレーションモデルというか……。だからね、歴史書を読んであれこれと思いを巡らせるのは、「時代の流れを辿っていく」こと以外に、そういう愉しみもあるわけですよ。
 系譜学的な愉しみではなくて、「生活の場とはまるっきり違う世界を思い描く」ことの愉しみですね。ほんとシミュレーションであり、思考実験ですね。今回はそういうことを強く感じました。
 「戦後民主主義」を俯瞰して考えるならば、戦時中の思想弾圧とか、まあ大正デモクラシーとか、せいぜい遡って明治の民権運動くらいまでなんだろうけど、あえて「人権なんて意識がカケラもなかった弱肉強食の時代」としての室町を考えることで、思考実験の意味合いが出てきたわけね、自分の中でね。
 ところで、昨今、「上級国民」というキーワードが定着しつつあるようだけど、いま「庶民」の対義語っていったらやっぱりそれなんですかね。マルクス主義の世界観(世界認識)だと、「庶民」はすなわちプロレタリアートで、その対義語は「資本家」ってことになるわけだけど、さすがにそれは浅薄すぎて話にならない……でもやっぱり「格差」どころか「階層」ってものは今のニホンにも厳然として存在するよね、いくら隠蔽したって隠し切れんよね……という事実がようやくいきわたってきて、こんなワードが生まれてきたんだと思いますけどね、上級国民。
 それで、まあ、この連載を始めて以来、幾度となく取り上げてきた例のあれ、「8万数千の屍で賀茂川が埋め尽くされているさなか、時の将軍・義政が花見の宴を催した。」というエピソードね、よもやコロナ禍で国民が困窮するなかで利権ピック、じゃなかった五輪ピック、でもないか、オリンピックを強行する自民党政権をそれになぞらえる気はないけれど、まるきり条件が違うから、さすがに私もそこまで比喩を拡張するつもりはありませんけども、でも「権力の中枢に近いところにいる階層」と「一般ピープル」との歴然たる差ってものはどうしても痛感しますね。
 むろん「国民」ったって一枚岩ではぜんぜんないし、「べつに利権なんて関係ないけど こんな時でも/こんな時だからこそ 東京五輪をぜひ観たい。」という方もおられるだろうから、かんたんな問題ではないんだけども。正確なところ、反対派と賛成派とはどれくらいの比率なのかなあ。
 ともあれ、この3ヶ月ばかし、「中世」についてあれこれ考えたことで、「民衆とは何か」、またその裏返しとして「権力者とは/権力とは何か」、さらには「政治とは何か」、「文化とは何か」といった大命題について自分なりにいろいろと有意義な知見を得ました。でも、自分ひとりで納得してる分にはそれで構わないんだけど、それをこうして文章に落とし込むには時間と手間が掛かるんで……。考えてることの十分の一も書けてないんで、もどかしいかぎりなんですけども。
 それにしても、中世の話のほかにも書きたいことは色々あるんで、そろそろ一区切りつけたいなあとは思ってるんですが。









雑談・応仁の乱05 一休さんのこと。および、引き続き「文化」について。

2021-05-14 | 歴史・文化
 この「応仁の乱」シリーズは、私の中にしっかりとした定見があって、それを少しずつ披歴しているわけではないんですよね。書きながら考えてる、書くことで練っていってるところがあって、それでこんなに時間がかかる。「雑談」と銘打っている所以ですが……。せめて週イチくらいで更新したいと思ってるんだけど、そんなぐあいで遅々として進まない。他にやることが色々あるとか、そもそも根が怠け者だとか、そういった理由もありますが。
 だいたい室町時代って馴染みが薄いでしょ? 大河ドラマで滅多に取り上げないのは前にも述べたとおりだし、サブカルのほうでもね……。ぼくがこの時代に関心をもつきっかけとなった『どろろ』以外だと、子どもの頃にテレビでやってたアニメの『一休さん』くらいじゃないかなあ。あれは足掛け8年ばかし続いたけども、ぼくはあいにくソロバン塾に通っててあまり観られなかった。それでも好きなアニメだったんで、走って帰ってよく途中から観てた記憶があるね(若い人のために念を押しとくと、まだ家庭用のビデオはぜんぜん普及してません)。
 いま思えばあそこに出てきた「将軍様」って3代義満だったんだよね。どうりで金ピカの衣装を着ていたわけだ(笑)。当時はこっちもまるきり子どもだったんで、そんなこともよくわかってなくて、ただ、「なんか普通の時代劇とは違うなあ。」と感じてはいた。実在の一休宗純和尚は1394(明徳5)年の生まれで、アニメの一休さんは8歳くらいの設定だっていうから、史実に従えばあれはちょうど西暦1400年ごろのお話ってことになる。江戸開府に先立つこと実に2世紀ですね。そして舞台は江戸ではなくて(まだ太田道灌が江戸城を築く前だから、当時の江戸はそんなには開けていない)、京の都であったわけだ。
 それでも、幕府御用達の豪商である桔梗屋さんをはじめ、あそこに出てくる町衆たちはじゅうぶんに文化的な暮らしを営んでましたね。とはいえ初期の頃には戦災孤児とか、「いくさによって家を焼かれて行き場を失った人たち」なども描かれており、社会的な階層ってものにもきちんと目配りがなされていた。一休さんが社会の矛盾を憂いて、錫杖の先に髑髏(しゃれこうべ)を掲げ、正月に浮かれる町なかを「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と唱えながら練り歩いてみんなから石を投げつけられるショッキングな回もあったりね。
 しかし戦火はさすがに京の市内までは及ばなかったわけで……。ほぼ70年後の応仁の乱のさい、桔梗屋さん(店がちゃんと存続してればの話だけど)やほかの町衆たちはどんなことになって、どんな生活を送ったのか、かなり気になるところですが。
 最新の研究によれば、「京都一面が焼け野原になった。」「焦土と化した。」という表現は大げさで、たしかに無傷では済まなかったにせよ、わりと被害の薄い地域も多かったっていうんで、意外と無事だったのかもしれないね。もしくは、仮に屋敷や蔵が焼けても、従来からのコネクションや蓄財をつかって早々と復興したのかもしれない。スクラップ・アンド・ビルドってやつで。
 前回の話に絡めていうと、たしかに不安定要素は山ほど抱えていたけれど、15世紀ともなると社会の「システム」はもはや相当に強靭なものになっていたってことでしょうか。ちょっとやそっとじゃ揺るがない。慢性疾患みたいな中~小規模の戦闘が10年にわたってだらだらと続いてるのに、ひとびとはそのことすらも織り込みながら、逞しく、したたかに日々を送ってたってことなんですかね。そういう理解でいいのかなあ。
 歴史観ってものは人それぞれに違うんで、それこそ各々の「世界観」が如実に反映されるんだけど、わたしは元来たいへんにペシミスティック(悲観的)な性格なもんで、ついつい暗いほうへ、暗いほうへと物事を見てしまうけれども、当時のわれわれのご先祖ってものは、もちろん今よりはずっと大変だったと思うけれども、大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして、けっこう楽しくやっていたのかもしれないんだよね。ぼくなんかが想像してる以上にね。
 「大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして精いっぱい楽しくやっていく」。ああ、これはまさしく「文化」ですよね。そうなんだ。それは文化の果たす大切な役割のひとつでもある。
 文化で思い出したけど、前々回ぼくは、8代将軍義政のことを、「桃源郷としての文化に逃避した。」みたいに書いたけれども、あれはいかにも「近代的」すぎる解釈であったなと今は考えています。たしかに「民の暮らしを一切顧みない」という点においては逃避には違いないけども、それは義政という個人が己の趣味の中に引きこもって沈殿していたということではない。
 当時の上流階級にとって、「文化」というのは何よりもまず「社交」なんですよ。以前に書いた連歌はもとより、室町期に成立・発達した他の芸事、お茶も生け花もみんなそう。能だってそうですね。すべてが社交の具なわけだ。けっして個人が単独でやるもんじゃない。「文化」が純粋に個人のものになっていくのは近代いこうの話です。とくに文学、もっというなら小説ですね。そう考えるなら近代小説ってものは文化史においては「異常」なメディアなんだよね。もともと文化ってのは社交の具として豊かになってくものなんだ。
 そして、将軍とはいえあそこまで公家化しちゃった義政みたいな政治家にとっては、「社交」はほとんどそのまま「政治」でもある。幕府を支える有力大名やら重臣たちと入れ代わり立ち代わり毎日のように顔を合わせて、閑談から高級な遊戯まで、くだけた宴会から堅苦しい評定まで、べちゃべちゃと、ねちねちと、均衡を保ちながら世を治めていく(ろくに治まってないんだけどね)のが義政流の「政治」であった。今はそんなイメージをもってます。
 例の御所とか庭園にしても然りで、自分ひとりがそこに籠って書を読み耽ったり夢想したりしたいからそういうものを設えたわけではなくて、人をそこに招いて色んなことをするために、いわばサロンの会場にするために、贅を尽くしてそういうものを造ったわけね。そこのところはしっかり抑えておくべきですね。
 それが領民や町衆からの税収によって賄われたことを思えばもちろん腹は立ちますがね……。ただ、そうやって練磨されたもろもろの技芸が庶民のあいだに行きわたることでさらなる活力を与えられ、幅広く浸透していって、今へとつながる日本文化の厚みを形づくったことは認めざるをえませんね。


補足
 言い忘れましたが、3代義満は晩年に出家して息子の義持に将軍職を譲った(ほぼ一休さんが生まれた年のことですが)から、本来ならば僧形で描かれなければならないし、そもそももう「将軍様」ではないわけです。でも、そんなこと言ったら小僧の一休さんと(いかに後小松天皇の落胤であったとしても)あんなに親しく交わることもありえないわけで、つまりは対象年齢層に向けてわかりやすく仕立てた設定だってことですね。やはりネームバリューのある義満のほうが面白いし、話もつくりやすいもんね。なお、「蜷川新右衛門」にも実在のモデルがいますが、これは一休が禅僧として名を成してから師事したひとで、もっと後年、いま話題にしている8代義政に仕えた役人であったということです。アニメ『一休さん』はこれらのさまざまな史実をうまく脚色しながら各回のエピソードを組み立てていたわけですね。






雑談・応仁の乱04 文化というもの

2021-04-29 | 歴史・文化
 最近とみに「文化」ということがわからないんですよね。応仁の乱に絡めていうと、足利義政なんて人は当代有数の文化人ですからね。建築家・作庭家としての才能はご存じのとおりだし、絵画や能にも通じてたっていわれてますね。連歌の腕前も相当だったらしい。連歌というのはざっくりいえば大勢でコトバを繋いで長編詩を作っていく遊びだけども、これは室町期の上流階級にとっては必須の素養で、なにぶん半ば公家化しちゃってるもんだから、社交の手段として絶好なんですよ。何しろ関係者各位が一堂に会するわけだから顔つなぎにはなるし、そのうえ、風雅を競う遊びだから、利害得失をともなう生臭い話をしなくていいわけだしね。
 なんにせよ、稀有の文化人なんですよ義政って人は。それでいて、すぐ傍で8万数千もの民が窮迫して命を落としてるのに、しゃあしゃあと花見の宴を催したりなんかしてるんだからね。まあ、これに参加してる他の連中もたいがいだけど、「文化人」ってのがそんなものだとしたら、「文化」って一体何だよって心持ちにもなろうってもんですよ。要らないんじゃないのと。ほんとはね。こんなものはね。
 この頃の義政の心情っていうか、内面の風景みたいなものを想像すると、やはり心が冷え冷えしますね。倦怠の果ての荒涼とでもいうか……。そんな男を治者にいただいた民衆こそいい迷惑だけども。
 それにしても、どうしてこういう人格が生まれたのか。


 実兄である先代の義勝はわずか在位8ヶ月、享年9つで亡くなってるんで、じっしつ義政の先代というべきは実父の義教ですけども、この将軍はとかく評判が悪いんですね。その治世は「万人恐怖」で「薄氷を踏むの時節」などと評された。有力大名のひとつ赤松家の所領争いに強権をふるって、不利益を被った赤松満祐・教康親子に最後は謀殺されてしまうんだけど(1441年・嘉吉の乱)、そのさいにも「自業自得」「犬死」なんぞと書かれちゃったりね。
 wikipediaの「足利義教」の項でも、かなり暴虐の所業が強調されてて、たしかにそんな面はあったんだろうが、周りからそこまで悪しざまに言われるってことは、それだけ辣腕であったともいえるわけでしょう。
 室町幕府の最盛期といえば、もちろん金閣寺(鹿苑寺)をつくった3代義満(在位・1368~1395)の時なんだけど、その次の義持って人は、自分が親父さんほどの力量がないとわかってるから、もっぱら調停役に徹したわけね。もともと足利政権ってものは、初代の尊氏のころから有力大名の連合政権……とまでいったら言い過ぎだけど、とにかく将軍の権力基盤が弱かったから、義満のほうが特別で、むしろこの義持スタイルが常態といってもいいほどなんだけど。
 この4代義持は、1395年(応永元)から1423年(応永30)まで、28年にわたって在位する。これは室町幕府将軍としての最長記録ですね。しかも、隠居ののちに将軍職を譲った嫡男の義量(よしかず)がどうにも頼りないうえに、19歳で早世しちゃったもんだから、さらにそのあと1428年に死没するまで事実上の将軍代わりだったという……。
 一見すると、波風を立てない名将軍だったとも思えるけど、これは「トップとして、談合の調停役以外ほとんど何もしていない」ことの裏返しとも取れるわけでね。じっさい、これだけ長期にわたって在任しながら、このかんに政権の権力基盤が強化されたとはいいがたい。直轄の兵力は相変わらず充実してなくて、軍事力はほぼ畠山家(と大内家)に依存していたり……。あと、鎌倉のほうでも、ずっとゴタゴタが続いてたわけでしょう。
 義教の、強引ともされる政権運営は、そんな義持スタイルへの反動という見方もできる。この人は義持の実弟ですが、わりと早いうちに将軍の後継候補から外されて得度していた。とても優秀だったんで、僧侶としてもほぼ頂点まで昇りつめてたんだけど、上述のとおり、義持の子息の義量が早世して、そのあと事実上の最高権力者だった義持が後継者指名を拒絶したまま亡くなったため、還俗して将軍職を継いだわけです。
 このとき、有力な群臣(大名や高僧など)が評議のすえ、石清水八幡宮にて籤を引くことを決め、その結果として義教に決まったってことで、義教ってひとは今に至るも「くじ引き将軍」と揶揄されるんだけど、これもなんだかおかしな話で、本来ならば「神慮」というべきところでしょう。どうも義教という人にかんしては、ことさらに貶めるようなイメージ操作が当時からずっと為されてるような気がするね。
 将軍としての義教は、奉行衆(ぶぎょうしゅう。幕府の法曹官僚)・奉公衆(ほうこうしゅう。将軍直属の武官)といった制度を整えるなどして、将軍の権力を強め、各大名・公家・寺社、さらには鎌倉公方などといった対抗勢力たちに、断固として掣肘(せいちゅう)を加えようとしたわけですね。赤松家の所領問題に手を出したのも、けして気まぐれや依怙贔屓ではなく、おそらくはその一環でしょう。そりゃあ、あっこっちから嫌われるわな。
 それで、まあ、そのあげくに謀殺されちゃうと……。時の将軍が臣下の館に招かれて弑されるなんてのも無茶苦茶な話で、つまりはそれが室町時代だっていったらそれまでだけども……。
 ともあれ、事実上の先代である親父さんがそういう非業の死を遂げて、しかもほんとの先代である兄ちゃんは9つで身まかっていて、そのあとほぼ6年近くの空位期間ののちに、ようやく後見を得て将軍職に就くわけですね、義政ってひとは。こうなると、よほど肝が太くて野心に燃えてて、しかもべらぼうに才気煥発でもないかぎり、まず、政治に精魂を傾けようとは思わないんじゃないですかね、やっぱり。
 とはいえ、wikipediaの「足利義政」の項を眺めていると、ぼくなんかがばくぜんと持っているイメージよりは、少なくとも最初のうちは、けっこう政務にいそしんでたようですね。だけど、よく見るとそれも、けっきょくは「いかに自分のフトコロを肥やすか」という私利私欲に発するものなんだよね。「民をいかに豊かにするか」という発想はない。いや、それは上で述べた父親の義教にしても畢竟同じことですが。
 民の福利厚生に努めて、社会ぜんたいの活力が増せば、統治者たる自分たちもそれだけ豊かになるわけで、そんな道理がわかってなかったはずはないんだろうけど、そういう施策を現実のものとするだけの構想も実行力も持ち合わせなかったわけね。それで文化に逃避した。逃避すべき桃源郷としての文化ですよね。だから、東山文化だ何だといって、どれだけ綺麗に取り繕っても、虚しいものだと思えますけどね、私には。






雑談・応仁の乱03 お笑いについて私が知っている2、3の……

2021-04-13 | 歴史・文化

 落語は昔から好きなんだけど、いわゆる「お笑い」は苦手なんですよ。ダウンタウン以降っていうか、はっきりいうと、松本人志いこうの笑いのセンスに付いていけなかった。なにが面白いんだかわからない。根っから保守的なんでしょうね私は。
 中学の頃は「ビートたけしのオールナイトニッポン」に夢中でした。これは菊地成孔もそうだったって何かに書いてたし、さくらももこの「ちびまる子ちゃん」にも出てくるでしょう。あの世代はたいていそうなんだよね。たけしの本領はラジオトークなんですよ。テレビでだけしか知らない人には、なぜ全盛期のたけしが若い世代の文化英雄だったのか判然としないでしょうね。内容のほうは、今だったらとうてい放送できないと思いますが。
 あとになって気づいたんだけど、たけしの喋りは志ん生の焼き直しなんだ。古今亭志ん生。当代切っての名人上手と謳われたかの志ん朝師匠の父君で、落語史に赫奕(かくやく)と輝く名人ですけども。
 大名人には違いないけれど、圓生、文楽といった折り目正しい名人とはちがって、奔放な芸風で知られたんですね。「道場で面籠手をつけて竹刀で打ち合えば文楽(もしくは圓生)が勝つ。しかし野ッ原で木刀ひとつで打ち合ったなら志ん生が勝つ。」なんてぇことが、もっともらしく言ってあったりしますがね。
 たけしの口癖で、「弱っちゃったなあ、どうも。」とか、「しょうがねえなあ、まったく。」とか、あのへんはみんな志ん生のリズムなんだよね。リズムっていうか、それこそビートそのものがまるっきり志ん生のノリなんだ。ものすごく影響受けてますね。もちろん尊敬もしてるでしょう。だから2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でたけしが志ん生を演じたのはしごく至当なことでした。


 2007年に、サンドウィッチマンがM-1で大ブレイクするでしょう。じつはぼくはあの少し前からサンドのことを知ってたんだ。当時テレビ東京の『美の巨人たち』を欠かさず観ていて、ふだんは終わったらすぐ消すんだけど、その日はなぜか他局にチャンネルを回しちゃった。
 それで、「エンタの神様」だったのかな、若手芸人のネタ見せ番組をやってて、ふたりが「ピザの宅配」のコントをやっていた。これが滅法面白くてね、すぐにネットで検索かけて、富澤たけし・伊達みきおって名前をおぼえて、よく動画がないか探してました。
 まだ世間では無名だし、公式のチャンネルもなかったから、youtubeでもほとんど見かけなかった。それでもぽつぽつアップはされてましたね。目利きってのはどのジャンルにもいるもんで、陰ながら応援してたんでしょうね。筋からいえば違法アップロードなんだろうけど、「こんな面白いコンビが売れないのはおかしい。みんなもっとサンドのことを知ってくれ。」みたいな熱っぽい紹介文が付いていたりね。
 あと、gyaoと統合する前の「yahoo動画」にも何本かアップされてたかな。ぜんぶ併せてもほんとに数えるほどだったんで、たぶん残らず見たと思う。やっぱり面白くて、「ビートたけしのオールナイトニッポン」いらい、同時代のお笑い芸人にあんなに入れ込んだことはなかった。
 だから、ぼくのお笑い体験というのは、80年代のたけしから、ゼロ年代のサンドまで、ぽーんと飛んでるんですよ。中間がない。あとは、古典落語で埋まってるんだ。
 ちなみに、2007年のM-1グランプリはたまたま冒頭から見てたんですよ。当時の出演者の皆さんには申し訳ないけど、さっぱり面白くなくってね。クスリとも笑えない。「なんでサンドがここにいないんだ。あいつらが出りゃぶっちぎりで優勝なのに。なんでだ。あ。コントだからダメなのか。こっちは漫才専門なのか。」なんて、一人でぶつくさ言ってたんだけど、そこから敗者復活戦で、ほんとにそういう展開になって、いや、テレビを見ててあんなにコーフンしたことってないね。ちょっとキツネにつままれた気分にもなった。
 サンドウィッチマンがなかなか売れなかったのは、あまりにも正統派だったからですね。そこがプロの審査員や一般の客から「古い。」と見なされた面があったんだろう。でも、ほんとの正統派ってのはいつの時代も必ずや面白いんだし、世代を問わず、客ってものは心の奥ではつねに正統派を求めてるんですよ。あそこで大多数の視聴者の目にふれて、そのことをはっきりと証明できたのはほんとに良かったですね。それはこの国のお笑い文化のためにも良かったと思う。「お笑い文化」なんてものが実際にあればの話ですけども。
 あのふたりの芸は、画像を消して音声だけで「作業用BGM」として聴けるんですよ。そんな芸人は、少なくともぼくにとってはサンドウィッチマンのほかにはいない。ネタそのものもさることながら、構成、テンポ、間合い、すべてが完成されてて耳に心地いいんだな。ふたりとも声質いいしね。出だしからオチから、何もかもわかってるのに繰り返し聴ける。まさに落語と同じですね。
 そういう意味では、「正統派」ってものがいかに至難なのかもわかりますね。奇抜な一発芸とか、思いがけぬ奇想で人目を引くのは容易いかもしれぬが、幅広く愛され、末永く残る正当な芸は、誰にでもできそうに見えて、そうそうできるものではない。
 漫才の技術として「巧いなあ。」と唸らされるってだけなら、東のナイツ、西の中川家など何組かいるし、かまいたちなんかも鋭いなあとは思うけど、「繰り返し聴ける」かといえば、そこはまた違うんだなあ。


 ビートたけしに話を戻すと、ぼく個人は、あのひとがテレビ界の大御所になり、映画監督としても名を成し始めてから興味が薄れた。決定的だったのは、娘さんが歌手デビューしたとき全力で支援したことですね。出てきた頃の、毒気たっぷりのたけしだったら、その手の「親ばか」をさんざん嘲弄したはずだから。
 「結局そっちに行っちゃうのか。偉くなったらみんな同じか。」と思った。失望した。それで、テレビを見なくなったこともあり、たけしのことはまるっきり忘れてんだけど……。
 このあいだ、サンドウィッチマンの公式チャンネルを見てたら、右側の欄に「松村ものまね」ってリンクが出てきましてね……ぼくは松村邦洋という人については通りいっぺんの知識しか持ち合わせなかったんだけど、「ものまねの名手、ことにビートたけしに関しては達人の域」ということくらいは知ってたんでね、とりあえず開いてみた。そしたら……


https://www.youtube.com/watch?v=vUugfLhXjmA



 これは以前にNHKでやった「笑神降臨」ってバラエティーを再編集したものらしくて、ここにリンクを貼った「松村ものまね2」は、「天正10年6月2日、すなわち世にいう本能寺の変の夜、織田信長が当の本能寺からオールナイトニッポンを生放送する。」という趣向のネタなんだけども、その信長が完全に全盛期のビートたけしの口調なんですよ。これがどうにも凄くってね……。
 なにが凄いって、もうね、よく特徴をつかんでるとか、可笑しいとかいうレベルじゃないんだ。もはやそういう話ではなくて、文字通りの「完コピ」なんですよ。デフォルメではなしに、忠実に再現してるわけ。ギャグの入れ方とか、全体の口調といった大筋のところはいうまでもなく、声の高低や張りなどといった微妙なトーンの変化から、舌がもつれて軽く言い淀むあたりとか、ときおり苦笑が混じる呼吸とか、果ては些細な息遣いまで、何から何まで再現している。端から端まで、隅から隅まで、「微に入り細を穿つ」とはこのことではないかと思うくらいに。
 むろん松村さんはビートたけしの謦咳に接したどころか、長らく身近に置いてもらってもいたわけで、世話になりつつたっぷりと観察もしたんだろうし、天性の資質に加えて、もともと地声も近いようだし、いろいろと好条件は揃ってるにせよ、しかしひとりの人間がほかのだれかをここまで真似できるってのはどうも只事ではない。
 それは松村さんがぼくなんかと同じく市井の一ファンであった頃から、たぶん放送をテープに録って繰り返し聞いて、諳んじるほど聞きこんで、さらに何度も何度も口調を真似て喋ってみて、そういった営為の蓄積のあげく、到達した境地だと思うんだな。そこに費やされた情熱と労力と時間ってものに思いを馳せると、すこし背筋が寒くなるというか……。
 「マニアック」って、本来は狂気の意味を含むんだけど、そういう点でこれはマニアの所業でしょうね……。いやそれをいうなら落語だってじつは大概なもんだと思うんですよ。ひとりでネタを繰ってるとこなんざ、傍からみればけっこうコワい……。でも落語ってのは伝統があるし、「落語家」っていう職業集団がきちんとあって、そこに属するみんなでやってることだから……。だいいち、演目ってものが決まってるしね。だけどこの芸をやるのは松村さんだけなんだもの。
 だって、30代半ばの、脂の乗りきってた頃のビートたけしのオールナイトニッポンを聴いてた層でなきゃ、どうしたって伝わらない芸だからねこれは。それを百も承知でやってるわけだ。そういうマイナーな芸を磨き上げるのにどれだけの情熱と労力と時間を……いや、これはさっきも言ったか。
 この「松村ものまね」は1から3まであって、3つともまるで受けなかったという設定で、それぞれの末尾に野村克也を真似ての「3連敗のぼやきインタビュー」的なものが付いているんだけども、その野村監督の真似がまた至芸でね。「天才」という言葉は軽々しく使っちゃいけないんだけど、この方が異常な才能に恵まれてるのは確かでしょうね。


 小三治師匠じゃあるまいし、まくらがむやみに長くなって、いや応仁の乱はどうなったんだ、応仁の乱はどこ行ったんだと、そういう話なんだけども、松村邦洋は日本史に造詣が深くて、NHKラジオで専門の番組をもってたり、youtubeで大河ドラマの解説を(とうぜん物真似入りで)やっていたりもするようだけど、べつにそういう流れで繋げていこうってつもりもなくて、卒塔婆が8万数千並んだとか、そんな話題ばかりだと陰に籠って暗くなるから、アタマに明るい話題をふろうと、そのていどの心持ちで始めたんだけど、いかにも長くなりすぎました。それにしても、べつにお笑いの話題だから明るい話ってわけでもないね。やってみて気がつきましたけど。
 そうだなあ……。将軍の継嗣問題だの、畠山家の家督争いだの、山名と細川との確執だの、応仁の乱の細目を知るには、ほかに優れたサイトがいくつもあるんで、私がここで詳述する気はないんですよ。ようするに、当時の支配層にとっての唯一無二の関心事ってのは相続問題です。あとは所領の権利関係にまつわる係争。つまりは自身の既得権益をどれだけ拡張できるかってこと。ほんとにもう、それだけなんですね。
 「庶民」ってものがまるで視界に入っていない。念頭にない。
 応仁の乱と聞いてぼくがまっさきに思い浮かべるのは、賀茂川に死骸があふれ、水の流れが堰き止められるほどだったとき、義政が花見の宴を催したとか、御所や庭園の造営に多大な金銭を費やしたとか、おおむねそういうことですね。厳密にいえばこれらの事象はいくらか時期が前後しますが、義政のころの室町幕府の姿勢ってものは大体においてそんなイメージでとらえて間違いはないです。ろくなものではないわけです。
 それにしても、こういう姿勢というものは、冷酷だとか横暴だとかいう以前に、政治システムとして、あるいは経済システムとして、よく成立していたなあと思いますね。それを可能ならしめていたのが主に地方における荘園からの税収ですね。でも、中央がこれほど乱れてて、将軍が無能を極めているのに、いつまでも地方に睨みが利くはずがない。下剋上がすすみ、「守護大名」が「戦国大名」に取って代わられるのは、必然というべきことでした。







雑談・応仁の乱02 fukushima50

2021-04-02 | 歴史・文化


 「戦後民主主義」について考えてるうちに「応仁の乱」まで至るってのも、われながら気の長い話だと思うけれども……ふつうは「大正デモクラシー」とか、「明治前期の自由民権運動」くらいのとこでしょうね。行ったとしても、せいぜい安藤昌益とか……。応仁の乱なあ……。内藤湖南先生の説に従えば、ここが現代につながる日本史上の画期なんで、とりあえず当面はこれ以上遡らないと思いますが。


 『Fukushima50』が早くも地上波初放送ってことで、「金曜ロードSHOW!」でやったのをビデオに録って観てるんだけど、凄いねどうも。臨場感というか、事故当時の再現性が真に迫ってる。9・11以降を生きる日本人なら最低1度は見とかなきゃいけない。見とかなきゃいけないんだけども、ただ佐野史郎演じるあの「内閣総理大臣」の描き方ってものはないね。全編ただもうヒステリックに喚き散らしてるだけという……。「これは実話にもとづく物語です。」ってことで、この人だけが固有名ではなく「内閣総理大臣」って肩書でぼかされてるんだけど、それにしてもねえ……。当時は民主党政権で、首相は菅直人だったわけで、ぼくはもとよりあの政党(今は無くなっちゃったんだっけ? どうだっけ?)にも菅さんにも何ひとつ思い入れはないし、どっちかっていえば嫌いだったけども、それでも映画としてあの描き方はないね。そりゃ対応は間違ったのかもしれないけど、あの人にはあの人なりの考えや苦悩があったわけでしょう。あんな人物描写をしたせいで、肝心の作品そのものも薄っぺらくなっちゃいましたね。
 でもあの作品では、東電の本社(作中では「本店」と呼ばれる)と原子力発電所の作業員の皆さんとの齟齬ってものがまざまざと描かれていて、そこは身につまされました。あれは「司令部」と「現場」との格差ってやつで、いわば人間のつくるすべての組織の病弊ですね。太平洋戦争だってもちろんそう。インパール作戦なんてね、とんでもない話だ。そんな大きな例を出さなくっても、だれだって現場に立つ人だったら日々経験してることでしょう。「民主主義」の問題ってものも、結局はそこに尽きるんだよね。政治家とか官僚っていう「司令部」と、われわれ庶民っていう「現場」との格差。ぼくが言おうとしてるのも、つまりはそういう話なんだけど……。


 応仁の乱の話でしたね。
 これが「日本史における画期」とされるのは、このあたりから「民衆」ってものが歴史の前面にあらわれてくるからでしょう。それまではなんだかよくわからない。平安朝なんてね、やれ勅撰和歌集だ、やれ源氏物語だっていうけども、それってみんな宮中の話ですからね。殿上人のお話なんだから。ぼくたちの先祖なんてのは……まあ、少なくともぼくの先祖なんてものは、そんな雅(みやび)事とはいっさい何のかかわりもなく、地べたを這いずるように生きてたんじゃないかと思うわけでね……まあ、「地べたを這いずるように」ってイメージもひとつの紋切り型で、じつは案外楽しんでたかもしれないけども、とりあえず、今日まで残るような「平安文化」とは関わりなく暮らしていたのは確かですよね。
 平安の末期はいわゆる院政期で、このへんから公家に代わって武士が台頭してくる。そして平氏滅亡のあと、いよいよ「武家の世」がきて、いわば鎌倉と京との二重政権みたいになって、社会がさらに武張ってくる。やがて北条氏が倒れ後醍醐帝も敗れて、尊氏が京に幕府をひらく。これが武家の本拠たる鎌倉じゃなく京だったってのがミソですね。そこから全盛期の義満をはさんで、応仁の乱までほぼ130年。
 むかし歴史の本を読んでて不思議だったのは、応仁の乱で京の都が焼け野原になって、そこに折からの飢饉も重なり、8万とも9万ともいわれる数の人が亡くなったっていうんでね、「それでどうして都が廃墟にならなかったんだろう。」と不思議でならなかったんですよ。ちなみに、統計もないのになぜ数がわかったのかっていうと、卒塔婆を立てたんで、その数だっていうんだけども、いずれにせよ、当時の人口がどれくらいあったのか知らないが、8万だ9万だって数は明らかに尋常じゃない。そんな状況なんだから、流亡を余儀なくされた人たちや、都から逃げ落ちる人たちもとうぜん沢山いたでしょうしね。


 その反面、「室町期は現代の生活につながる様々な趣味や様式や文化が生まれた時代だ。」ということもよく聞いた。お茶とかお花とかお庭とか、その他もろもろですけども、しかし一方に8万だ9万だって数の卒塔婆が立っててだよ、それで趣味も様式も文化もへちまもあったもんじゃないと思うんだなあ。そのあたりの兼ね合いがよくわかんなくて、どうも室町期ってのは、うまく像を結びにくかったですね。それで何冊か本も読んだりしたけども、やっぱり長らく釈然としなかった。
 それでも少しずつわかってきたのは、「乱世とは多大なる犠牲者を出す悲惨な時期ではあるが、いっぽう、逞しく・荒々しくなければ生きていけないという点で、人々の底力を引き出す活気あふれる時代でもある。」ってことでしょうか。
 つまり、弱い層は否応なく滅びざるを得ず、そこはまことに苛烈なんだけど、しかし少しでも気概なり才覚なり腕っぷしを持っている者は、ありとあらゆる手段を弄して生き延びていく、のみならず、悪辣な手を使ってでも、社会の階梯をのし上がっていく、ということですね。
 それのスケールの大きいやつが「下剋上」で、それが蔓延するきっかけをつくったのが応仁の乱なんですね。



雑談・応仁の乱01 うっせえわ

2021-03-23 | 歴史・文化
 「うっせぇわ」って曲が流行ってるってんでyoutubeで聴いてみたけど、なんというかね……。パンクスの精神を煎じ詰めれば「うっせぇわ」の一語に帰着するわけだから、「それはそうだろうね」としか言いようがないですね。この「~としか言いようがない。」とか、さらに進めて「~でしかない。」といった言い回しも、いかにも近年の流行りですけども。
 べつにことさら楽曲にして言挙げされずとも、いまの中学生なんて全身で「うっせぇわ」を表現してますからね。「わざわざ歌ってくれんでも見てればわかるよ。」という……。基本、じぶんのスマホにしか興味ねえよって感じで、周りの人間を空気ほどにも思ってないでしょ。もちろん、礼儀正しくて感じのいい子もいるんだろうけど、私の体感としては、かなり荒廃している印象ですね。
 人付き合いってのはたいそう煩わしいもので、「誰かと一緒にいて楽しい」という事例のほうがむしろ幸福な例外なんだしさあ……。「大人世代に対する反抗ではなく、コミュニケーションの断念そのものを歌った歌」という批評もみたけど、共同体っていうか、ニホン的なムラ社会がどんどんどんどん解体していって、表層だけのリベラリズムが蔓延すれば、そりゃあそういう按配にもなろうってもんで。
 ひととひととがわかりあえるはずなんか根本的にありえないわけで、だから当面、とりあえず歩み寄りの手立てとして「コトバ」ってものがあるわけでね。コトバってのはぼくたちひとりひとりのものではある。だから、世界とか世間とか他者に対する憤懣だの呪詛だの絶望だのをひとわたり絶叫してみる、といった使い方は当然あっていい。というか、それは「文学」や「芸術」への初期衝動ですらあったりする。
 だけど、その前にじつはコトバっては「社会」のもの(共有物)であり、さらには「歴史」のもの(産物)でもあるわけだ。早い話、いまのニホン社会に訴えたいからこそニホン語で歌ってるわけでしょ(「うっせぇわ!」のパートを「you say,wrong」に置き換えた秀逸な英訳版もyoutubeで視聴させて頂きましたが)。
 つまり、「うっせぇわ!」が今の気分を映した楽曲として流行るのはべつにいいんだけども、その次のステージっていうか、コミュニケーションの復権、もしくは再生を目指すコトバってものが出てこなかったらちょっとヤだなって感じはありますね。でもそうなるととたんに「感動をありがとう。」みたいなベチャッとした感傷にいっちゃうんだよなあ……。そういうのではダメなんだよな。


 ずいぶん間があいたんで、なにをいってたのか忘れちゃったんですけども、「江戸期より脈々と連なるサブカルの系譜」みたいな話をしてたんですよね。サブカルのこともいいんだけども、ぼくが強調したいのは「歴史ってのは繋がってるんだ」ってことです。
 近ごろはいわゆる「貧農史観」が見直されてきて、「江戸時代はそれほど悪くなかった」から、果ては「あの時代こそ理想郷だ」みたいな説を唱える人までいるようだけど、ぼくはそこまで礼賛する気にはなれないですね。厳然たる身分制だったのは確かだし、因習の絡んだ停滞感とか閉塞感とか重苦しさは当然あったと思うから。でも、江戸期270年の蓄積がニホンの「近代」を準備したのは間違いない。
 その泰平の礎を築いたのは徳川家康で、その偉大なる先駆者が織田信長。「織田が搗(つ)き羽柴が捏(こ)ねし天下餅 ただ楽々と食うは徳川」なんて狂歌があったけど、羽柴こと豊臣秀吉は信長の家来で、家康は信長の若年からの同盟者だから、格からいえば秀吉より上位。べつに横からいきなり出てきて簒奪したわけではない。
 ひとつ確かにいえるのは、もし信長なかりせば、秀吉はもとより家康でさえけっして「天下統一」なんて偉業を成しえなかったってこと。それくらい信長の存在は大きい。このあたりは大河ドラマが戦後えんえんとやってきたから平成世代にも馴染み深い史実でしょう。
 それで、じゃあその信長がでてくる前はなんでそんなに世の中が乱れてたのかっていうと、これがいわゆる戦国時代で、まあ時代区分の名称に「戦」って字が入ってるんだから乱れてたに決まってるんだけど、ではその前の「室町時代」がすんなり治まってたのかっていうと、これがぜんぜん治まってないわけですね。
 「応仁の乱」というものがあった。始まったのは応仁だけど、元号が変わって「文明」となり、結局は文明9年までほぼ11年にわたってだらだらだらだら続いたもんで、「応仁・文明の乱」とも呼ばれますけども。西暦でいえば1467年から1477年。ちなみに信長が桶狭間で今川義元を……これは戦国を代表する名家の大大名ですが……を破って表舞台に華々しく登場するのが1560年だから、ほぼ100年前ってことになりますね。
 Googleで「応仁の乱」と検索をかけると「応仁の乱 グダグダ」「応仁の乱 わかりやすく」といった候補が出る。じっさい、あの頃ってのはグダグダしててわかりにくくて、大河でも滅多に取り上げない。三田佳子が日野富子を演った1994(平成6)年の『花の乱』がほぼ唯一の例なんだけど、これは2012年に『平清盛』によって更新されるまで歴代のワースト視聴率記録を保持してたというね……。
 たしかに内容も画像もむやみに暗くて陰気な印象でしたがね……でもキャストは豪華だし、人物相関図さえアタマに入ってればそれなりに面白いドラマではあった。ただ、これはほかの大河にもいえることだけど、「庶民」の生活が描かれないんだよね。どうしても殿上人(てんじょうびと)っていうか、偉い人たちだけの話になっちゃうんでね。宮廷ドラマになっちゃうわけ。
 当時の庶民が何を食ってて、どんなとこに住んで、どんな着物を身につけて、どんな会話をして、どんな生業を営んでたかってあたりが描かれない……まあ描かれないわけでもないんだろうけど、それがいかにも時代劇ふうの紋切り型っていうか、「ちょっと安直だよな。」って感じで。先述のとおり、応仁の乱から信長の登場までは100年の径庭があるわけで、庶民の暮らしぶりも相応に変わってるはずなんだけど、なんか一緒くたなんだな。
 馴染みがないから視聴率が取れない、視聴率が取れないから取り上げない、大河で取り上げないから馴染みがない……の悪循環で、「現代における講談」としての大河ドラマも、相変わらず「戦国→幕末(明治初期)→戦国→幕末(明治初期)」の繰り返しで……2022年の三谷幸喜脚本『鎌倉殿の13人』が久々の新機軸なんで、それはいいことだなあと思いますけども。やはり歴史ってものは多角的に見たいですよね。
 いや、応仁の乱の話だった。
 ぼくが応仁の乱に興味をもったのは、それが「どろろ」の時代背景になってたからなんだよね。正確にいうと、応仁の乱のあと、秩序の紊乱がいよいよ甚だしくなってきたころ、つまり戦国時代の濫觴っていうか、すなわち下剋上の時代ですね。
 ここはすこぶるはっきりしていて、前に当ブログにも書いたけど、百鬼丸の父・醍醐景光が仕えているのが富樫正親で、これは実在の人物なんだ。このひとは加賀の「守護大名」で、史上名高い「加賀一向一揆」によって1488年に城を攻められて落命してるわけ。そこから加賀の国は、ほぼ90年にわたり、大名の統治をうけない「百姓の持ちたる国」となるわけね。手塚治虫はいちおうそれを念頭に置いて描いた。残念ながら昔の少年マンガは荒っぽかったから、原作は「意余って力足らず」という感じですが。でも2019年のMAPPA版アニメは本来の意図をかなり忠実に汲み上げてて、「民衆蜂起」による落城と、それに伴う醍醐景光の失脚をちゃんとラストに持ってきていた。
 そういったことが起こるのも、応仁の乱の影響なくしてはありえない話で、応仁の乱は日本史上における画期なんですよ。内藤湖南(1866 慶応2~1934 昭和9。専門は東洋史)という大変な碩学がいらして、「応仁の乱に就て」という講演でそういっている。これは有名な説で、支持者も多く、青空文庫にもなってます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html

 
「兎に角應仁の亂といふものは、日本の歴史に取つてよほど大切な時代であるといふことだけは間違のない事であります。而もそれは單に京都に居る人が最も關係があるといふだけでなく、即ち京都の町を燒かれ、寺々神社を燒かれたといふばかりではありませぬ。それらは寧ろ應仁の亂の關係としては極めて小さな事であります、應仁の亂の日本の歴史に最も大きな關係のあることはもつと外にあるのであります。」


「大體歴史といふものは、或る一面から申しますると、いつでも下級人民がだんだん向上發展して行く記録であると言つていいのでありまして、日本の歴史も大部分此の下級人民がだんだん向上發展して行つた記録であります。其中で應仁の亂といふものは、今申しました意味において最も大きな記録であると言つてよからうと思ひます。一言にして蔽へば、應仁の亂といふものの日本歴史における最も大事な關係といふものはそこにあるのであります。」


「さういふ風で兎に角是は非常に大事な時代であります。大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、……」


 旧字体だから読みづらいところもあるにせよ、もとが講演だから、論旨はきわめて明快ですね。「現代の日本を知るためには古代の歴史を研究する必要はない。応仁の乱いこうの歴史を勉強してればそれで沢山だ。」ってわけ。さすがにこれは極論だろうと思いますけども、それくらい、応仁の乱ってものは日本史にとっての画期だったってことですね。













雑談・「神話論」からチャンバラ映画へ。

2021-03-05 | 歴史・文化

 2年前(2019年)くらいからだったと思うけど、当ブログでは、しきりに「神話」ということを言ってまして……。「物語の愉楽」なんてカテゴリをつくって、やれ「プリキュアは神話だ。」「どろろも神話だ。」てな具合にやってたんだけども。
 そりゃすべての物語(説話)ってものは神話的構造をもってるんだから、あからさまにサブカル(商品)として創作されるジャンルにおいて、それぞれの作品が神話に通底してるのは当然なんだ。だから間違ったことは言ってない。間違ったことは言ってないんだけど、しかし、いつまでもそればかり主張してても仕方ないぞってところはありますね。
 手持ちの資料が乏しいもんで、アカデミックとはいかないけれども、もうすこし詰められぬものか。「物語の愉楽」のカテゴリでは、「メロドラマ」「竜退治」といったキーワードを使っていろいろと考えたりもして、それなりに手ごたえはあったが、あらためて思いなおすと、ニッポンのサブカルについて考察するのに、なんで西欧由来のコンセプトばかり持ってくるんだって気もする。自前の伝統のなかにそういうものはなかったんかいと。
 いや、ありました。この国には江戸270年の泰平ってものがあったんだから、メインもサブもひっくるめて、相応にカルチャーは爛熟してたんだよね。どうしてもぼくらは、1945年の敗戦でブツッと切れ、1867(もしくは68)年の明治維新でブツッと切れ、ってぐあいに、日本史を切断でとらえちゃうもんで(受験教育の弊害です)、つい見逃しちゃうけども、たしかに切断っていうか、根こそぎ変わってしまった面もあるにせよ、連なってる面だってもちろんあるわけだ。そっちのほうをもっとしっかり見るべきではないか。
 「プリキュアは歌舞伎だ!」ってのは、キャッチコピーとして見るならば、「ああなるほど似てるよね。」くらいの話かもしれぬが、前回試みたとおり、ざっくりとでも系譜を辿っていくことはできるわけですよ。つまり、たんに類比的な相似性ってだけではなく、系譜学的にも立証可能というわけね。
 ここではあえて「実写」と「アニメ」をサブカルとして一緒くたに括っちゃってますが……いや「日本アニメ論」をまじめにやるなら、たぶん浮世絵の話か、下手すると中世の絵巻物からってことになるんで、それはまたの機会にして、このまま先へ進めます。
 「プリキュア」や「どろろ」に代表されるアクション系の現代アニメは(ほかにもっと適切な作品があるのかもしれぬが、ぼくはアニメに詳しくないんで、自分がよく知ってるものを挙げてます)、歌舞伎に淵源をもっている。
 歌舞伎。これは江戸期を代表するサブカルチャーですね。
 そのあいだをつなぐのが、いわゆる特撮ヒーローもの/およびヒーローものアニメ。仮面ライダーが昭和後期の、月光仮面が「戦後」のそれぞれ代表といえる。
 さらにそれらをつなぐのが、明治後期~大正~昭和初期(戦前)にかけての剣戟活劇、いわゆるチャンバラ映画ね。大雑把にいってそんな流れをわたしは想定しています。
 「チャンバラ映画なんて古臭い。」と思ったら大間違いで、早い話、『鬼滅の刃』はチャンバラアニメじゃないか。あそこまでヒットするのには様々な理由があるんだろうけど、あれがチャンバラだってことはかなり大きな要因を占めていると思いますよ。なんのこたぁない、われわれは今でもチャンバラが大好きなんですね。忍者ものまで含めるならば、明らかにそう言えるでしょう。われわれは今でもチャンバラが好き。今風の味付けさえ施してやれば、いくらでも需要はあるわけね。
 といって、モノホンの時代劇となるとね……阪東妻三郎、市川右太衛門(旗本退屈男)、片岡千恵蔵、大河内傅次郎(丹下左膳)、嵐寛寿郎(鞍馬天狗)、林長二郎(のちの芸名は長谷川一夫)……といった名前が平成生まれに馴染みがないのはたしかだろうけど……バンヅマが田村正和ほか三兄弟の父君で、右太衛門が北大路欣也の父君だってことくらいは、なんとなく聞いたことあるかもしれませんけども。
 しかし、これらのスタアは戦前から活躍してたには違いないが、じつは戦後になってもその多くがまだ第一線にいたんだよね。右太衛門の『旗本退屈男』なんて、映画版の第一作は1930(昭和5)年だけど、ラストの第30作は1963(昭和38)年に封切られてるんだから。さすがにこれは大記録ですが、でも1950年代には、バンヅマ版の丹下左膳も封切られたし、それと対抗するように、本家・大河内傅次郎の丹下左膳も公開されてる。だいたい1963年といえば、市川雷蔵というニュースタアが出て、「眠狂四郎」シリーズが始まった年だし。
(なお、敗戦後5年のあいだチャンバラが撮られなかったのは……「時代劇」は細々とながら制作されていたが……GHQ(占領軍)が俗称「チャンバラ禁止令」を発令していたため。それがなくなった1950年代にチャンバラを含む時代劇がどっと作られ、質量ともに黄金期を迎える。)
 「月光仮面」は前回も述べたとおり1958(昭和33)年に放送がはじまったから、戦後の1960年代くらいまでは、いわばチャンバラ・ヒーローと特撮ヒーローとが並走していたことになる。これは娯楽の主流が劇場からテレビに移っていったってことでもあり、つまりメディア論にも関わってきますが、いずれにせよ、「系譜をたどる」といっても、数直線みたいにそれぞれが律儀に並んでるわけじゃなく、絡み合ったり、縺れ合ったりしてるんですけどね。文化史っていうか、歴史ってのはそういうものですからね。



雑談・プリキュアの系譜をたどって歌舞伎に至る。

2021-02-26 | 歴史・文化
 前回は話が逸れてふくらんじゃいましたね。いや、歌舞伎の話をしたかったんだ。といって、いちども劇場(こや)に出向いたことはないんで、本の上での知識をもとにごちゃごちゃやるだけですけども……。
 「プリキュアは歌舞伎だ!」てぇことを、このブログでも再三いってるんですよね。それぞれに名乗りを上げて見得を切る(ポーズを決める)とこだの、カラフルで豪奢なコスチュームだの、勧善懲悪のフォーマットだの、見るからにそうでしょ? 児童向けの作品だからこそ、構造てきな類似点があらわになってるわけですよ。
 大きな違いは、歌舞伎においては女性はたいてい抑圧されるもんだけど、こっちでは盛大に暴れ回るってところでしょうか。そこは時代の差としか言いようがないが、これもまあ、ベクトルをぐいっと逆方向にしただけのことではあってね。
 サブカルチャーってのは、「知識がいらない」「教養もいらない」「すぐ手の届く所にある」「感情を揺さぶる」といったあたりが身上なんだ。ひとことでいえば、「とにかくオモロイ」ってことね。江戸人はそうやって気軽に歌舞伎を愉しんだわけでしょ。その伝でいえば、劇場(こや)に行かなきゃ観られないうえに、あるていど勉強しないとよくわからないモノホンの歌舞伎よりも、ニチアサにテレビをつければ(もしくはスマホでも)かんたんに見られるプリキュアこそが現代における真の「歌舞伎」じゃないかとさえ思うんだな。
 かといって、あれをつくってるスタッフがみんな歌舞伎の愛好家だってことは(たぶん)ないよね。それはいわゆる「文化的なDNA」なんだ。こう言っちゃうといかにも安直なんで、「文化的なDNA」で片づけないで、もう少しきちんと系譜をたどってみましょうか。
 まず直近の先行者はもちろん「セーラームーン」でしょう。セーラームーンのばあい、ふだんの衣装はわりと簡素だけど、ここぞって時にはドレスアップして装飾が増えるんですよね確か。いやそんな熱心に見たわけじゃないからよく知らないんだけど、いずれにしてもあのセンスは歌舞伎よりむしろ少女歌劇かなあとは思う。歌舞伎と少女歌劇との関係ってのも一考に値するテーマだけど、ただこれは学術論文じゃなく雑談なんで、ざっくり「歌舞伎の系譜」ってことで括っておきます。
 これをさらに遡ると、「ヒロインが(王子様に庇護されるんじゃなく自分で変身して)悪をくじく」という点で「キューティーハニー」であり、いっぽう、「五人そろって口上を述べてから修羅場に臨む」という点で「ゴレンジャー」にはじまる東映戦隊シリーズになる。
 ゴレンジャーはいちおう石ノ森章太郎原作なんですよね。で、キューティーハニーの永井豪は石森プロの出身でしょう。そう思えば、石ノ森章太郎ってひとは手塚さんとはまた別の面から戦後サブカルにものすごく影響を与えてますよね。
 なんといっても、そもそもの原点は仮面ライダーですもんね。石ノ森章太郎は根っからのロマン主義者だから、原作のライダーにはメアリー・シェリー(1797 寛政9~1851 嘉永3/4)のあの名作『フランケンシュタイン』の面影が色濃いんだけど、「特撮ヒーロー」という側面からみれば、その先行者は月光仮面ってことになるでしょう。
 月光仮面のテレビ版第1作は1958(昭和33)年に放送されてて、これは、「ほぼ日本初のフィルム収録によるテレビ映画」とされてるんですよ。「初のフィルム収録によるテレビ映画」が、日本では「特撮ヒーローもの」だったというのは、この国のサブカル史を語るうえでもっと注目されていいと思うんだけどね。なお、この原作者の川内康範というのは相当に面白い方なんで、お時間がおありならばwikiを覗いてご覧になればと思います。
(「月光仮面」が「日本で最初のテレビドラマ」というわけではない。実験的な放送は戦前の1940(昭和15)年に行われている。戦後間もなく、すなわちGHQの占領下には、「向こう三軒両隣」「鐘の鳴る丘」などがあった。連続テレビドラマとして有名なのは探偵ものの「日真名氏飛び出す」(1955 昭和30)だが、これらはいずれも生中継だった。)
 で、「月光仮面」までくれば、もう「鞍馬天狗」までほんの一歩ですね。幕末が舞台の「鞍馬天狗」を、戦後風俗をバックに焼き直したのが月光仮面だといっていい。馬の代わりにオートバイに乗るんだ。プロデューサーの西村俊一という方が川内さんに「鞍馬天狗みたいな企画はどうか」と持ち掛けて、しかし時代劇だと予算が足りないってことで現代劇になった。そのことはwikiの「月光仮面」の項にもちゃんと書かれてますね。
 「鞍馬天狗」は、『天皇の世紀』『パリ燃ゆ』……ちなみに今回芥川賞をとった「推し、燃ゆ」のタイトルはこれのパロディーですが……で知られる大佛次郎の原作だけど、小説よりも嵐寛寿郎、通称アラカンの映画版こそがやっぱり真骨頂でしょう? だけど、あまりにもアラカン天狗のキャラが立ちすぎたもんで、原作者の大佛先生と軋轢を生じちゃった。「あんなのは私の書いた天狗じゃない。」ってね…。このへんも、映画史のみならずサブカル史の面からも興味をそそられる挿話ですが。
 いずれにしても、チャンバラ映画、剣戟活劇ってことになれば、これはまさしく歌舞伎と地つづき、縁つづきですね。映画というメディアはいうまでもなく舶来モノですが、その揺籃期にあって、どうにかこうにか自前の「作品」をつくろうって際に、まず歌舞伎のドラマトゥルギーに頼ったわけ。厳密にいえば「新派」というニュージャンルの介在はあったんだけど、しかし歌舞伎が300年近くにわたって蓄積してきた演劇的伝統ってものが多大な恩恵をもたらしたことは間違いないわけですよ。
 白浪五人男って、ことさら歌舞伎を知らないひとでも耳にしたことがあると思うけど(正確な演題は「青砥稿花紅彩画」)、ずらっと勢揃いして名乗りを上げるところはもとより、正統派の主役・ちょいと斜に構えたクールな二枚目・愛嬌たっぷりの三枚目・すこし青くさい若衆・そして紅一点というように、キャラのフォーマットってものがおおむね仕上がってるわけね。
 これってそのままゴレンジャーですよね、と書きかけて、いや、その前にタツノコプロの「ガッチャマン」があったなといま思いついた。そうだなあ、ゴレンジャーが1975(昭和50)年に始まり、ガッチャマンが1972(昭和47)年だから、こっちのほうが先なのか。この頃にはもう想像力の面でアニメのほうが実写特撮の先を行ってたってことかな。なんにせよ、順序はいくぶん変わるけど、基本的なキャラのフォーマットは一緒でしょ。この点は折々の社会意識の変化を映してその後もずっと変奏されてますよね。
 ここに挙げた作品名はいずれもメルクマール的なもので、とうぜんその間には有名無名の作品が数知れず累々と横たわってるわけだけど、とりあえず、はなはだ大雑把ながら、現代サブカルが戦後になっていきなり発明されたものではなくて、歌舞伎あたりから連綿とつながってることは証明できたんじゃないでしょうか。