ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ニーチェ……「現代思想」の源流。

2016-07-31 | 哲学/思想/社会学
 何とも大上段に構えたタイトルですが……。まあ昔の記事なんで、ぼくも若かったってことですね……。


ニーチェ……「現代思想」の源流。



初出 2010年07月26日


 ぼくの学生時代はいわゆる「現代思想」ブームの真っ只中で、ご多分に漏れず、ぼくもすっかりこれにかぶれていた。火をつけたのは『構造と力』の浅田彰(57~)、『チベットのモーツァルト』の中沢新一(50~)のお二人だろうが、柄谷行人(41~)の論考「マルクス その可能性の中心」が「群像」に掲載されたのは1974(昭和49)年のことだから、下地はすでにその辺りから少しずつ整えられつつあったということになる。

 厳めしい「哲学」が、「思想」、それも「現代思想」と呼びかえられることで、古色蒼然たる「教養」から、ぼくたちの暮らす時代と社会とをビビッドに解析してくれる武器へとチェンジアップした。そんな気がした。この辺りの状況に興味がおありの若い方には、仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(06年刊。NHKブックス 1020円+税)をお薦めしたい。

 奇しくもこの「ブーム」は、バブル前期、すなわち高度消費社会の到来と期を一にしていた。いや、日本における高度消費社会の到来が、「現代思想」を受け容れる空気を醸していたというべきか。しかもさらにややこしいのは、「現代思想」の異名というべき「ポスト構造主義」なる用語が、時代区分を表す社会学用語としての「ポストモダン」と二重写しになっていたことだ。ここの所に、いささかの混乱の生じる要因があったことは間違いない。

 たとえば栗本慎一郎(41~)がバタイユを援用して消費社会を賞揚するかのごとき著作を出したり、仏の社会学者ボードリヤールによる左翼批判=資本主義擁護(?)の言説が紹介されたりしたこともあり、「現代思想」とは、社会変革への志を捨て去ったばかりか、現状に対する根源的な批判精神すら持たず、自分たちを取り巻く豊かな社会をただ追認するだけの知的遊戯、であるかのような誤解が一部に生まれた。少なくとも、生まれる余地は十分にあった。

 もとより専門家や優秀な大学院生といったプロやセミプロのレベルではそんな誤解はなかったろうが、一般の真面目なマルキストは大体において良からぬ感情を抱いていたと思われる。じっさいにぼくも、そのような方の一人から、浅田氏に対する手ひどい嘲罵を聞いたことがある。それも仕方のないことだったと思うのは、その頃は、「世界認識の方法」というと、マルキシズムがやっぱり主力だったからである。むろんチェルノブイリもアフガン侵攻もあって、ソ連の威光などとっくの昔に地に落ちていたけれど、世界システムを総体として把握し、しかもそれを変革せしむる手段を説いた理論といえば、マルキシズム以外ありえなかった。

 「その頃は」と書いたけど、今だって、そんな理論はほかにない。要するに、「世界システムを総体として把握し、しかもそれを変革せしむる手段を説いた理論」は、もう少し後、91年のソ連崩壊(と、中国の市場経済導入)によるマルキシズムの失効をもって、人類史から消え去った。そしてそれが、「ポストモダン」ということの意味(のひとつ)であり、そのような、いわば「ポスト・マルクス」の時代を語ろうと(苦闘)する言葉の運動こそが、「現代思想」だということになる。

 ポストモダン社会を語ろうと(苦闘)する言葉の運動が現代思想で、「ポスト構造主義」は、現代思想を代表する最有力の思潮なのだから、両者がとかく混同されがちだったのも無理はない。じっさい、80年代の中庸から後期にかけて、この日本においては、「現代思想」と「ポスト構造主義」とはほぼ同義語の扱いだった。そうはいっても当時のぼくが、いわゆる「ポスト構造主義」の邦訳文献を懸命に読み漁っていたかというと、残念ながらそうではない。とてもじゃないがそれほど優秀ではなくて、せいぜい日本人の書き手による啓蒙書・解説本の類いを読んでいたくらいだ。

 ただ、柄谷行人は好きでよく読んでいた。理解できたか否かはともかくとして、文庫の形で出版されたものはぜんぶ読んだはずである。たぶん自分がいちばん影響を受けた著述家は柄谷氏だろうと思うのだが、しかし氏の論考は、おそらくはその気質ゆえか、概して抽象度の極めて高いものになりがちであり、狭い意味での「思想」や「文化」の領域を超え出ることはなく、現実の「社会」や「経済」や「政治」を批判的に考察するうえで、(少なくともぼくにとっては)さほど役に立たなかった。

 この点においては浅田、中沢といった人たちの言説も同じで、「豊かな社会のなかで戯れているだけ」という旧来からのマルキストによる非難は、誤解の産物とはいいながら、まるっきり的外れと言い切れぬところもあったのだ。

 さて、それら構造主義~ポスト構造主義を主に扱う「現代思想」の啓蒙書なり解説本を読んだとき、決まって出てくるのがニーチェの名だった。フーコーもデリダもドゥルーズも、みんなニーチェに多大な影響を受け、大なり小なり、彼の方法論に依拠する形で自身の思想を展開しているというのである。ぼくがニーチェを、全集を買ってまで読もうと思ったのはひとえにそのせいであり、けしてニーチェ自身の著作を読んで感銘を受けたからではない。

 ちばてつやの名作『おれは鉄兵』のなかに、旧制高校の学生のごとき風貌をもった「但馬」という人物が出てくる。この人、ニーチェにえらく耽溺しており、授業中、本を読みながら「む、むむむむ、むーっ」と知的興奮のあまり唸り声を上げたりもするのだが(読んでいるのはおそらく『ツァラトゥストラかく語りき』であろう)、そんな経験はぼくにはない。竹山道雄の名訳になる新潮文庫のツァラトゥストラは高一のとき買うには買ったが、高邁すぎてさっぱり入っていけなかった。いわゆる「現代思想」ブームがなければ、ぼくにはたぶんニーチェはずっと無縁のままだったと思う。言い換えるなら、あの当時の最先端の西欧思想家たち(の解説書)から、ぼくはニーチェの価値を教わった。

 ニーチェはむろんドイツ人であり、ドイツ語で著作を遺したけれど、先に名を挙げたフーコーもデリダもドゥルーズも、みなフランス系である。このあいだにはハイデガーという媒介者がいるのだが、話が錯綜するのでそこは別の機会に譲ろう。ニーチェがフーコー、デリダ、ドゥルーズといった猛者たちに圧倒的な影響を与え、マルクス、フロイト、フッサール、ソシュールと並んで「現代思想の源流」の一つと見なされているのは、彼が形而上学の、それも近代的な形而上学の、なおも言い換えるならば、「西欧的な意味における《人間》という理念」への、最初にして最大の批判者であったからだ。しかしこれでは表現を圧縮しすぎて、予備知識がなければ何のことだか分からない。

 そこでまず、その形而上学とは何かということになる。アリストテレスの『形而上学』に端を発するこの概念は、実体(=真に存在するもの)を探究する学問であり、ひいては、自然を超えたもの(見かけ=仮象の世界の背後にある真理、もしくは真なる存在)についての学問である。アリストテレスはいうまでもなくプラトンの弟子だが、このような考え方をプラトニズムと称する。たとえば花と呼ばれるものは、薔薇であっても百合であっても向日葵であってもすべて花だし、仮に名前を知らぬものであれ、一瞥すれば大抵の場合われわれはそれを花と認めうるけれど、それはわれわれの棲むこの世を超えた、何処とも知れぬ彼方の世界(それは彼岸あるいは天界かもしれない)に、「花の本質」(この「本質」のことをイデアという。アイデアの語源だ)が存在しており、それがこちらに投影されているからだというわけである。

 ……いやその発想は変だろう、花というのはただ単に素人が外観を見たり匂いを嗅いだりして決めるもんじゃなく、植物学者がいろいろ調べて定義づけるものじゃないのか。現に、一見すると花弁のようでも、じつは葉っぱの変形したものだという種類もたくさんあるではないか。そう反論したくなる人は、きっと科学的な思考が身についた近代人であろう。たしかに花だの野菜だのといった具象物ならそういう批判が出て然るべきだが、それではたとえば、「正義」とか「愛」といった実体のない概念の場合はどうであろうか。普遍的な理念が存在せず、すべては人間の恣意に委ねられていて、国の数だけ、民族の数だけ、組織の数だけ「正義」が成り立つというのは危険な事態ではあるまいか? 人の数だけ「愛」が入り乱れてるとしたら、われわれの社会生活は、おそろしく乱脈なものになってしまうではないか?

 あえて極端な言い方をしてみたけれど、そんな具合に考えていくと、「イデア論」(プラトニズムのことをそう呼んだりもする)はけっして哲学史上の一つの考えとして片付けられるものじゃなく、人間の思考の主要なパターンであることが分かる。われわれはやはり心のどこかで、あまねき正義が存在すると信じているし、模範とされるべき愛の姿が存在すると思ってもいるはずだ。いっぽう、「花のイデアなんてものはなく、カテゴリーとしての《花》は、植物学者がいろいろ調べて定義づけるもの」といった考えのほうは「唯名論」と呼ばれるのだが、哲学史とは、ある意味、この「イデア論」と「唯名論」との壮絶な闘いの記録ともいえる。中世における普遍論争ってのもこれだし、高校の倫理社会の授業で習った「大陸合理論」と「イギリス経験論」との対立というのも要するにこれだ。

 これら両者は究極においてどちらが正しいというよりも、人間の認識の二大形式というより仕方ないんじゃないかとぼくは思う。たしかに近代の科学は唯名論的思考のうえに成り立っているが、しかし例えば、「これらはどちらが正しいか?」と問う時のこの「正しさ」というのは、まさにイデア論的なる概念ではないか? イデア論の発想を完全に捨象して物事を思考することは誰にもできない。つまりわれわれ近代人は、唯名論を理性のベースに置きつつも、なお深層ではイデア論を決して捨て去れないのである。それは、イデア論が人間存在の本質に根付いているからだ。

 それはまた、どれほど科学が発達しようと、宗教が決して無くならないことからも分かる。すべての宗教は、例外なくイデア論である。「あの世」も「霊界」も「来世」も「浄土」も「天国」も「地獄」も「アストラル界」も、プラトニズムの説く「彼岸」のさまざまなバリエーションにほかならない。じつはニーチェには、「キリスト教は通俗化されたプラトニズムである。」というショッキングな箴言があって、ぼくなどはこれを、例の「神は死んだ。」よりもっと重要なものだと思っているが、日本ではそれほど広まっていない。「神の死」を頂点とするニーチェの哲学は、じつはプラトニズムへの、言い換えれば、荘厳なる大聖堂のごとき「形而上学」の体系に向けての、全霊を賭した宣戦布告でもあった。

 ここでようやく先ほど述べた「ニーチェは、西欧的な意味における《人間》という理念への、最初にして最大の批判者であった。」というくだりに到達できた。「形而上学」に対する徹底的な批判が、なぜ、西欧的な意味における《人間》という理念への批判となるのか。鋭い人ならお分かりのとおり、それは、形而上学そのものが、《人間》の《理性》の産物にほかならないからである。犬や猫はもちろん、どれほど高度な類人猿であれ、形而上学を持ち合わせてはいない。すなわち、形而上学を産み出すに足る《理性》を有していないということだ。

 だから「知の考古学者」ミシェル・フーコー(1926 昭和1~ 1984 昭和59)は、ニーチェの「系譜学」の方法を押し進め、《狂気》や《監獄》の研究を通じて《近代》や《理性》の成立過程を暴き出した。「哲学者=批評家」ジル・ドゥルーズ(1925 大正14~ 1995 平成7)は、《理性》にかえて《欲望する機械》や《器官なき身体》といった新奇な概念を導入することで、ニーチェの「力(への)意志」の哲学を継いだ。「哲学者」ジャック・デリダ(1930 昭和5~2004 平成16)は、ニーチェの「形而上学批判」のプログラムを「ロゴス中心主義」批判として発展させ、この上もなく犀利かつ緻密に、ほとんどパラノイアックと呼びたいほどの執拗さをもって、《理性》が《真実》を語ってしまうプロセスを脱臼させ続けた(脱構築)。ニーチェが現代思想の源流(のひとつ)であり、マルクス、フロイト、ソシュール、あるいはダーウィンとも並んで、「20世紀に決定的な影響を与えた思想家」と称される所以は、ここのところに存するのだ。



もういちど、ポストモダンについて。(ニーチェ……「現代思想」の源流  補足)

初出 2010年08月01日



 Q&Aサイト「教えて! goo」の会員のなかに「ghostbuster」という方がおられる。どこかの大学で文学を講じていらっしゃるとお見受けするが、この方の解答がとても勉強になるのでよく見ている。


 こちらでは、概念としての「ポストモダン」とニーチェとの関わりについて、とてもうまく説明されている。
ポストモダンとは何か?
https://otasuke.goo-net.com/qa1396521.html
 なるほど。簡潔にして的確。どうもぼくは文章がくだくだしくなっていけない。この方の説明を要約するとこんな感じだ。

「ポスト・モダニズムとは、何よりもまず、モダニズム/近代性を批判的にとらえ、脱近代化を推し進めようとする理論の総称である。いっぽう、ポスト構造主義とは、学問的方法もしくは思考方法を指す概念だから、所属する人物は重なり合いつつも、その用語が対象とする領域は異なる。

「ポスト・モダニズムを考えるとき、それが批判しようとしている《近代》、あるいはモダニズムがどのようなものなのか、どのようにとらえるのか、ということが問題になる。そのばあい、必ずといっていいほど引用されるのが、ジャン=フランソワ・リオタールの定義だ。

 『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム』(水声社)のなかで、リオタールはこう言っている。

 近代とは、

 ①愛による原罪からの解放というキリスト教の物語

 ②認識による無知や隷属からの解放という啓蒙の物語

 ③労働の社会化による搾取と疎外からの解放というマルクス主義の物語

 ④産業の発展による貧困からの解放という資本主義の物語

 といった、《大きな物語》が信じられた時代である。そして、ポスト・モダンの状況とは、その物語が信じられなくなったような状況である。

「ポストモダンの運動は、こうした《大きな物語》が信じられなくなった状況において、複数の小さな物語を生み出すこと、そしてその複数の物語を異種混合させ、差異を増殖させ、未だ知られざるものを探求し続けることによって、回答を出すのではなく、新たな問題を浮かび上がらせていくことを目指す。

「このポスト・モダニズムを考えていくとき、非常に重要になってくるのがニーチェの思想だ。ポストモダニズムとは、《ニーチェの哲学の長たらしい脚注》(テリー・イーグルトン)にすぎない、という見解すらある。

「ヨーロッパの近世から近代に至るまでの哲学は、数学を理想とし、《自我》や《理性》という原理から、演繹的に導かれた知の体系を築いていこうとした。こうしたありかたに、いちはやく批判を投げかけたのがニーチェであった。これこそポスト・モダニズムのエッセンスとなるような考え方ではないか、というわけだ。」




 引用および要約はここまで。基本的には語調を整えただけが、「阻害」を「疎外」に改めるなど、ぼくの裁量で訂正した部分もあるので、文責はダウンワード・パラダイスに帰すものと致します。ともあれ、この「数学を理想とし、《自我》や《理性》という原理から、演繹的に導かれた知の体系」こそが、ぼくが前回の記事で述べた《形而上学》だということになる。




《構造》について。

2016-07-31 | 哲学/思想/社会学

 ふと気づけば、ブログをまったく更新せぬまま7月も仕舞いになってしまった。いろいろと忙しいのでございます。このあいだ「金曜ロードSHOW!」で観た「バケモノの子」が面白かったので、そのことを書こうと目論んではいるのだけれども、そんな次第で下書きにすら着手できていない。それでも月間更新ゼロというのは切ないので、またしても「旧ダウンワード・パラダイス」の過去記事の中から使えそうなものをピックアップして再利用いたします。
 ひとつめの「《構造》について」は、たしか「物語」というテーマを扱った最初のもので、ここからあれこれ発展していって今の「物語論(およびその裏返しとしての純文学論)」みたいなことに至っている。そういう点ではけっこう大事な記事なので、もっと早くに再掲していてもよかったんだろうけど、そうしなかったのはたぶん内容がいささかカタくて小難しそうに思えたせいだろう。でも読み返してみたらそれほどでもなかったので、とりあえず載せてみましょう。
 次の「宮崎駿アニメについて(《構造》について・補足)。」は、この「《構造》について」に頂いたコメントに対するご返事で、表題どおりその補足となっております。
 それともう一本、記事のなかで言及している「ニーチェ……「現代思想」の源流。」という、タイトルからしていかにも小難しそうな記事を再掲します。昔の「ダウンワード・パラダイス」は、ブンガクよりむしろこの手のテツガク系(?)の記事が多かった。では、コメントと併せて、どうぞ。



《構造》について



初出 2010年08月20日


 「トポロジスト(位相幾何学者)とは、コーヒーカップとドーナツとの区別がつかない人だ。」というジョークがある。ご存知のとおりコーヒーカップには取っ手があって、そこが輪っかになっている。コーヒーを容れるカップの部分は、凹んではいても外の空間に対しては閉じているから、トポロジカルに変換していけば、輪っかの一部に吸収されてしまう(粘土みたいに可塑性の物だと仮定して、アタマの中でぐにゃ~りと変形させてみてください)。つまり、位相幾何学的に見た場合、コーヒーカップとドーナツとは同じ図形ということだ。

 これをもじってぼくは昔、「構造主義者とは、『ドラえもん』と『デスノート』との区別がつかない人だ。」というジョークを飛ばしたことがある(むろん、面白くないのでさっぱりウケなかったが)。日常生活に充足できない少年の前に、ある日とつぜん《異界》からの使者が現れ、恐るべき力を秘めた《道具》を授ける。彼はその道具を使って《世界》を意のままに操り、いったんはそれに成功するが、最後には相応の報いを受ける……(夜神月はラストにどーんと、のび太くんは週にほぼ2回か3回の割りで、という違いはありますが)。

 もう少し真面目にやるなら、たとえばこういうのはどうか。左側に「風の谷のナウシカ」(84年)、右側に「もののけ姫」(97年)の登場人物を抜き出して、以下の表をつくってみる。

 ヒロイン……ナウシカ⇔もののけ姫・サン / 協働者……アスベル⇔アシタカ / ライバル……クシャナ⇔エボシ御前 / 強大なる力を備えた自然のシンボル……王蟲⇔山狗+猪+シシ神(=ダイダラボッチ) / 先導者あるいはトリックスター……ユパ⇔ジコ坊 / 奪還されるべきもの……王蟲の仔⇔ダイダラボッチの首

 このリストは少なく見積もってもあと五十項目くらいは続けられると思うが、きっと異論も出るだろう。ぼく自身、この照応関係が百%成立すると思っているわけではない。しかし、そういった異論をも含めて、この手の思考がぼくたちを生産的な批評へと導くきっかけとなるのは確かである。何よりまず、「もののけ姫はナウシカのリメイクだ。」「いや宮崎さんはそんなことを言ってない。」といった感じの、いかにも実りのなさそうな論争(?)は解消される。複数の作品(テクスト)が似通った要素を含んでいるとき、それが同種の《構造》を持っていると判断するのは自然なことだ。そして、ここが大事なところだが、それぞれの《構造》を抽出すれば、比較検討が自由にできるようになり、いくらでも豊かな「読み」が可能となるのである。

 見落としてはならないことが二つある。まず、個々の作品を絶対無比の「聖典」として崇める見地からは、このような発想はけっして出てこないということ。たとえば、新約聖書におけるイエスの死と復活は、エジプト神話の「オシリス・イシス」神話から影響を受けている(ジョセフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』ほか)のだが、原理主義的なキリスト教徒は、そんな考え自体を受け容れぬだろう。彼らにとって、イエスはあくまでイエスであり、他の何者とも比べられるものではない。

 同様に、作品(テクスト)が作者の意図を反映した生成物であり、100%そのコントロール下にあるのだという考え方からも、このような発想は出てこない。さっきの例を繰り返すなら、宮崎駿氏がインタヴューか何かで「うん。もののけ姫はナウシカに似てるね。」と認めたらそれはそうなのであり、それを否定したならそうじゃない、ということになる。こうなると、ファンたちはただ《教祖》の御説を細大漏らさず拝聴し、それをありがたく伏し頂くだけの立場になってしまう。これはやっぱり健全じゃないし、だいいちちっとも面白くない。

 というわけで、これら二点を裏返すと、いわゆる構造主義(的な考え方)は、「絶対無比の中心」を解体し、同時に「作品(テクスト)の自立」ひいては「作者の死」をもたらしたのだ、と言うことができる。

 少し話が先走りすぎたので元に戻そう。「ナウシカ」と「もののけ姫」であれば誰だって類似点が目につくから、本当は、ことさら《構造》なんて概念を持ち出すまでもない。さっきの登場人物の対照くらいなら、アナロジー(類比)で充分だと思う。しかしこれをさらに徹底させて、作品の持つ「世界像」を、マクロからミクロのレベルにわたって精緻に再構築していけば、たとえば「ナウシカ」と「天空の城 ラピュタ」、それどころか、「魔女の宅急便」「となりのトトロ」でさえもアナロジカルに一望できる。ナウシカが「世界の危機」(厳密にいえば、アニメ版ではとりあえず「風の谷の危機」ですが)を一身に背負って奮闘するのに対し、「宅急便」のキキは自らの「思春期におけるアイデンティティー・クライシス」と内的な葛藤を演じるのだ、というように。そのほかにも相似の点はたくさんある。

 この「比較検討」の対象は、原理的には際限なく拡張していくことができる。評者の側に十分な準備があれば、アニメという限定されたエリアを出て、文学史に名を留めるほどのファンタジー一般、さらに伝説や神話にまで伸びていくこともとうぜん可能だ。仮に大学の「表象文化論」みたいな講義のレポートで「ナウシカ」を取り上げるならば、伝説化されたジャンヌ・ダルクの生涯とか、ラストの「自己犠牲による死」と「友愛による再生」のプロセスを、さっき例に挙げたような諸民族の神話と対比させたりして、あれこれとアカデミックな意匠を凝らすことになるだろう(それでもまあ、合格点を貰うのはかなり大変そうだけど)。

 こういった手法は、きわめて初歩的ではあれ、「構造主義的思考」の一種には違いない。この考えが万人にとって受け容れやすいと思えるのは、それがわれわれが物事を理解するときの常套手段だからである。知人の話をひとくさり聞いて、「要するにそれって○○みたいなこと?」「うーん、微妙に違うけど、大体そんな感じかな。」みたいな会話は誰しも経験があるだろう。「物事を理解する」というのは、なにも突如として頭の中に悟りが降りてくるわけじゃなく、「未知の意味体系が、自らに馴染んだ意味体系へと置き換わる。」ということなのだ。《構造》とは、その「意味体系」の謂である、と、ひとまずは言ってしまっていいだろう。しかし、話はまだまだ終わらない。


 このエッセイを書き始めたのは、「ニーチェ 構造主義」というキーワードで検索を掛けてここに来る方がおられるからだ。ぼくの「ニーチェ……現代思想の源流」という記事は、「ニーチェ 現代思想」だったらグーグルでいちばん上にくるし、「ニーチェ ポストモダン」でもかなり上位にランクされているのだが、「ニーチェ 構造主義」ってのはいささか辛い。有り体にいって、ニーチェと構造主義とのあいだに直接の関係はないだろう。古いのと、口調がへんに砕けているのが難点だが、新書サイズの入門書としてはもっとも詳しく(ソシュールとレヴィ=ストロースはもちろん、数学者F・クラインの『エルランゲン・プログラム』にまできちんと言及している)、定評のある橋爪大三郎さんの『はじめての構造主義』(88年刊。入手可。講談社現代新書)にも、ついにニーチェの名前は出てこない。

 いっぽう、『はじめての構造主義』から十五年近く後に書かれた内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』(02年刊。文春新書)には、マルクス(及びその礎としてのヘーゲル)とフロイトに並んでニーチェが「構造主義の地ならしをした先人」としてリストアップされている。内田樹という方は、難解きわまる現代思想をぼくたちの日常と身体感覚に即した柔らかなことばに置き換えてくれる良き先生だけど、この新書の中では、構造主義のエッセンスを、以下のとおりに定義している。

 「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に《見せられ》《感じさせられ》《考えさせられている》。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視野に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。/私たちは自分では判断や行動の《自律的な主体》であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。」(寝ながら学べる構造主義 P25)

 「無意識的に排除」というのは別の用語でいえば「抑圧」だけど、戦後日本がもっとも抑圧してきたものといったらアメリカへの屈折した思いにほかならず、これがぼくたちの精神をいかに歪めてきた(そして今も歪めつつある)かをユーモアあふれる筆致で綴った好著が同氏の『街場のアメリカ論』であり、この楽しくも切実な本はこのたび文春文庫に入ったからぜひご一読をお薦めしたいが(590円+税)、それはさておき、エッセンスだけをぎゅっと絞れば、まあ構造主義ってそういうものだ。つまり、「私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」ような、「ある時代、ある地域、ある社会集団」が形成している「条件」のシステムのことを、《構造》と呼ぶわけである。

 やや誇張していえば、それはぼくたち(の共同体)が乗りこんでいる巨大な船を徹底的に点検したり、筏に乗り移って「外部」から見たり、ことによったら転覆の方法を目論んだりするほどラディカルな態度といえるだろう。何しろ、それまではほとんど疑われることのなかったものを根底から疑うんだから……。構造主義が、20世紀の認識革命と称される所以である。

 成立に至る学問的経緯や細かい考証なんかを省いて、《構造主義》の概念をここまで大きく開いてしまえば、そりゃあとうぜんニーチェは、(マルクスやフロイトと並んで)「先人」の栄誉に浴すであろう。内田氏もいうとおり、「私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の《偏見》に他ならないということをニーチェほど激しく批判した人はおそらく空前絶後」(寝ながら学べる構造主義 P41)だからだ。「ある時代や地域」とはもちろん「西欧近代」のことであり、われわれ日本人は明治維新以降ほとんど命がけで、がむしゃらに「西欧近代」を模倣・応用してここまでやってきたわけだから(途中、十五年戦争という大きすぎる犠牲を払い、戦後は「西欧近代」の亜種たるアメリカにモデルをシフトチェンジしたけれど)、ニーチェの批判は相当の部分で、ぼくたちをも厳しく責め立てるわけである。

 ニーチェの呵責なき《批判》のことはまた別の機会に書くとしよう。じつは、この「《構造》について」というエッセイを書き始めた理由はもうひとつあるのだ。ニーチェ(およびフロイト)と並ぶもうひとりの「先人」マルクスのことである。ぼくの本年7月26日の記事「ニーチェ……現代思想の源流」を読むと(とりわけ「その1」のほうに顕著なのだが)、あたかも今日においてはマルクスの思想はすべて過去のものとして葬り去られて然るべき、みたいな書き方をしている。これがけっこう気になっていた。

 たしかにマルクシズム(マルクス主義)は失効したとはぼくも思う。だが、そのこととマルクス自身の言説の有効性とはまた別である(どれくらい「別」であるのかは、ちょっとここでは明言できないけれど)。ぼくたちが属している《構造》を根底から批判した点ではニーチェとフロイトも同じだが、マルクスはもっぱら経済学の用語と概念とを使ってその《構造》を全体的に描き出そうとした。そういう人はほかにはいない。それはもちろんその理論には欠陥も錯誤もあっただろうし、邪まな人々によって悪用された不幸な歴史もあったけど、それはあとの二人も同じである(とくにニーチェ)。どれほど新自由主義が世界を席捲していようとも、マルクスの著作は汲めども尽きせぬ知の源泉として、今もぼくたちの前に置かれている。



 コメント



①主題からは外れてしまいますが…。
宮崎アニメを全て見ている訳ではないのですが、この間「もののけ姫」をテレビでチラッと見て、「エボシ御前ってコナンの敵の女兵士にもああいうのがいたなぁ」と思いました。
男の子と強い女の子、楽しい仲間がいて、自然に畏敬の念を抱いていて、敵も憎めない奴らで、基本的にはあまり人や動物が死ななくて。
(でも観客の気持ちを盛り上げる為に、わざわざ殺したりもする。)
宮崎アニメはパターンが分かりやす過ぎるって思いました。
それをうまく使えば、万人ウケする物語の1つや2つや3つや4つ、作れるのではないでしょうか?
ただ、猿真似では面白くないですが。
先日も、「これって難しい様に見えて、実は泣いた赤鬼のパクりじゃん?」と思ったものがありました。
それが何だったのか忘れましたが。。
デスノートとドラえもんを同系列?と考えるのは面白いですね。
今、ローカルテレビで機動戦士ガンダム(通称ファーストガンダム)の再放送をやっていて懐かしく見ているのですが、大人になったからこそ見える部分がたくさんあり、とても面白いです。
これも実際の戦争の書を読み尽くしたって感がありますが…。
古い作品ですがとてもよく出来ていて、ガンダム世代と言われる人達がいたり、マニアがいたりするのがよく解ります。
また、「自由に主体的にものを見ている訳ではない」という発想はなかったので面白かったです。
確かに国や地域や社会情勢やらに、かなり左右されてしまうものかもしれませんね。

投稿 えみ | 2010/08/23


②楽しく読ませていただきました。殆どに納得します。

ただ、ウェブによってさまざまな情報に接することができる2010年的にいうとどうかといえば、ニーチェもマルクスも特定の意図にしたがって、既存の価値観の崩壊に世の中を導いていった。ということです。
アナロジカルに考えれば、ヒットラーもニーチェもマルクスもルターもシェイクスピアもビートルズも同じことになります。

構造主義もひとつの表層を扱っているのであって、本質は何かについて応えてくれない。だから、構造主義のムーブメントは立ち消えになってしまったのだと、私には感じられます。

投稿 スポンタ | 2010/08/30





 ぼくからのご返事


 ①えみさんへ。
 返事を書いたら長くなったので記事にしました。
 ほんとに長いんで、またお時間がおありの際にお読みください。

投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/08/25





 ②スポンタさんへ。
 示唆に富むコメントをありがとうございます。色々と考えさせられました。
 「構造主義」は、つとにその限界が指摘され、これを批判的・発展的に継承しようというムーブメントとして「ポスト構造主義」が出来してきた。そんなあたりが「現代思想」界隈の共通認識かと思います。
 現代とは、今もって「ポスト構造主義」の時代である、とぼくは考えておりますが、ではその「ポスト構造主義」とは何ぞや? といった話題をこの手のブログで扱うとなると、これがけっこう難しい。ぼくもあれこれとアプローチを画策しているのですが、なかなかうまくいきません。いずれ「ニーチェとポスト構造主義」といったタイトルで愉しいエッセイが書けたらと思うのですが……。
 ともあれ、ご指摘のような「ウェブ革命」以降の社会を鮮やかに剔抉するほどの「現代思想」は、ヨーロッパからも、アメリカからも、もとよりこの日本からも、いまだ生まれていないのではないでしょうか。ぼくの知見が狭いだけかも知れませんが(中国などからそんな「思想家」が突出してきたら面白いのですが、まずそんな事態は起こりますまい)……。
 さて、表層の分析だけに力を傾けて、「本質は何かについて応えてくれない。」のは、構造主義のみならず、ポスト構造主義にしても同じでしょう。そして、そのことが現代人の心に空隙を生じせしめているのは間違いないと思います。たとえばサンデル教授や「超訳ニーチェ」がブームになるのも、この辺りに一因があるはずです。かつて構造主義は実存主義を「近代的ヒューマニズムの産物」として退けましたが、アカデミズムの枠内であればいざ知らず、大衆社会のレベルにおいて、それが一種の価値紊乱、知的荒廃をもたらさなかったとは言い切れません。
 これはもとより熟考に値するテーマです。ただ、先ほども書きましたとおり、現代がポスト構造主義の時代であるのも事実です。そしてその母胎となった構造主義が、20世紀中庸における「認識革命」であり、じつに使い勝手のいい「科学的方法」であるのもまた事実。しかるにネット上の論説などを見ておりますと、せっかくのその「認識」なり「方法」が、この日本にあっては、構造主義の台頭から半世紀近くを閲した今においても、隅々まで行き渡っているとは思えない(これもまた、ぼくの知見が狭いだけかも知れませんが。苦笑)。
 言い換えるなら、ぼくたちが二十代の頃に夢中になったあの「現代思想」ブームは、アカデミズムとその周辺だけで消費されてしまったのではないか。それはあまりにもったいないことじゃなかろうか……今回のエッセイを書いたのは、とりあえずそういう動機でした。

投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/08/31



宮崎駿アニメについて(《構造》について・補足)。


初出 2010年08月24日


 「未来少年コナン」(と書かないと、近ごろは名探偵のほうと間違われてしまいます。笑)に出てくる敵役の女性兵士といえばモンスリーですね。最初はばりばりの武闘派でしたが、後半になるにつれて本来の善良な心根が表れ、コナン側の「仲間」に近くなってきます(ルックスは、「カリオストロの城」の不二子に似てます。笑)。

 ヒーローが仲間たちと力を合わせて悪者を倒し、捕らわれの姫を救い出す、というのは、宮崎アニメに限らず、冒険活劇の王道でしょう。ハリウッド製の娯楽大作(スターウォーズの第一作とか)も基本はこれだし。ただし最近は、女性の社会進出を受けて、「姫」がずいぶん強くなりました。日本のアニメだと、「ヒーロー」が女子で「姫」が男子という例も珍しくない、というか、むしろそちらが主流です。それはそれでまた、社会心理学の対象として、興味深いテーマのような気もしますが(「ゼロ年代の日本アニメにおけるジェンダー・トラブル」みたいな? 「草食系男子」にもつながってくる話ですね)。

 この原型は西欧中世の騎士道物語、さらにはギリシア神話(ペルセウスのアンドロメダ救出)あたりまで遡行できると思いますが(日本だと、スサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治ですね)、宮崎さんの場合、ご指摘のように、「自然」に注ぐまなざしがとても繊細です。ディズニーアニメとは全然違う。この点は、宮崎さんの個人的な資質でもあり、その根底に農村共同体の心性を色濃く宿す「日本」という風土の特質でもあるのでしょう。

 ただ、この「王道パターンの冒険活劇」は『天空の城ラピュタ』(86年)までで、そのあとはどんどん「脱構築」のほうに傾いていきます。『千と千尋の神隠し』(01年)はよく出来た和風ファンタジーだと思いますが、『ハウルの動く城』(04年)は、賛否両論分かれるところではないでしょうか。ぼくもこないだテレビで観て(5回めくらいかな?)、「なるほど、ここはこういうことだったのか」と膝を打った箇所もありますが、やはり完全には納得できないままでした。

 宮崎アニメの変遷を「衰退による混乱」と取るか、「創造的破壊」と取るかは難しいけれど、『崖の上のポニョ』(08年)のあの絵本みたいな描線を見てしまったら、『借りぐらしのアリエッティ』を若手監督(米林宏昌さん)に委ねたのも仕方ないかなあ、とぼくなんかは思ってしまいますね。

 近藤善文さんの記事でも書いたように、ジブリ作品の生命は「リアリズム」だと思います。宮崎アニメの魅力としてよく指摘される飛行シーンでも、リアルな身体を備えた人間が、重力に抗って浮き上がり、風圧を押しのけるようにして飛んでいく感触が巧みに描かれてるところが素晴らしいわけで。内田樹さんはこの点を指して、「ヒューマンスケールからの逸脱」と言っておられます。「日常的な生活身体を以てしては決して経験することのできない《速度》や《高度》や《風景》や《体感》に同調することである。」と。

 だから宮崎作品の醍醐味は、ほんと「アニメならでは」というよりなくて、たんに物語のパターンを踏襲しただけでは真似できないでしょうね(さっきも書いたとおり、近年はその「物語のパターン」自体が壊れてきてるし……笑)。一時期ぼくは、アニメという表現手段の持つ強さに圧倒されて、小説がまるで書けなくなったことがありましたけど。

 じつは今でも完全には立ち直ってなくて、それでつい、この手の批評めいた文章ばかりに走ってしまいがちなのですが、小説というのはその性質上「内面描写」に長けたメディアであって、動き(アクション)を描くのには向いてません。この点においてはアニメの訴求力にはとても及ばない。壮大かつ緻密な世界像を提示して、読者(観客)をたちまち作品の中へ巻き込んでしまうパワーも、アニメのほうがずっと上。それは「純文学」の売れ行きと、アニメの観客動員数との差にはっきり表れています(泣)。

 それにしても、「泣いた赤鬼のパクり」って、なんなんでしょうね。ちょっと面白そうですね(笑)。「友情のため、自らを犠牲(道化者・敵役)に仕立てて、友達を誰かと仲良くさせる」ってパターンでしょうか。西欧文学で言えば、「シラノ・ド・ベルジュラック」あたりが思い浮かぶところですが。

 「ガンダム」については、どういうわけか性に合わなくて、これまでほとんど観たことがありません。もはや「サーガ」と呼べるくらいに膨大になって、シロートがおいそれと入っていけるものではなくなってるような(笑)。あっ。そうそう。「ソレスタル・ビーイング」(天上人、みたいな意味かな?)という青年たちの出てくるシリーズは何本か観ました。「戦争の根絶」を目指す私設武装組織が、圧倒的な武力で以って、対立を続ける3陣営の戦争に介入するというコンセプトの話。ポスト冷戦時代の世界情勢を戯画化したような設定で、いろいろ考えさせられましたね。それこそ「正義論」の検討課題になりそうだ。

 デスノートとドラえもんは、一見すると思いがけない取り合わせなので、よく使います(ぜんぜんウケませんけどねー)。「異界からの訪問者が、平凡な日常を撹乱していく」ということで、何のことはない、要するにファンタジーの基本ですね。少年マンガ誌をめくっていけば、同工異曲のものはいくらでも見つかるでしょう。「訪問者」が可愛い魔女かなにかであれば、萌え系ラブコメ路線へと一気に傾いていきます(笑)。

 「自由に主体的にものを見ている訳ではない」というところは、今回のエッセイの主眼です。「国や地域や社会情勢やらに左右されてしまう」この《思いこみ》のことを、哲学用語でドクサ(臆見)と呼んだりもしますが、ふつうに「偏見」といっても、別にそれほど外してるわけではないでしょう。ただ、近代から現代への端境期にあって、この「ドクサ」を人類史的な規模で暴き出したのはマルクス、ニーチェ、フロイトの三人であり、そのスケールを考えると、やっぱりそれは、《構造》という特別な概念を付与することがふさわしいでしょうね。