ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『すずめの戸締まり』について 23.02.26(完全版)

2023-02-26 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 ベルリン国際映画祭における受賞作の発表をうけ、本日は予定をかえてこの話題。




 この映画祭には、アメリカのアカデミー賞とちがって「アニメ部門」がない。実写映画とアニメーション映画とが区別されず、ひとつの「作品」として評価される。いくつかの部門に分かれているが、メインとなるのは「コンペティション部門」で、このたび『すずめの戸締まり』はそのコンペティション部門に招待されていた。裏の事情までは知らぬけれども、売り込みに行ったわけではなく、向こうから招待されたわけだから、それだけで名誉なことだと思う。




 いわゆる「最優秀作品賞」に当たるのが「金熊賞」である。2002(平成14)年に宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が受賞した。それから21年間、日本の映画監督による何本かの作品が「銀熊賞」その他を取りはしたものの、「金熊賞」の受賞はなかった。なお「銀熊賞」とは、監督賞、男優・女優賞、最優秀短編映画賞などの部門に与えられる賞の総称だが、そのなかに「審査員グランプリ(特別賞)」がある。この「審査員グランプリ(特別賞)」の「銀熊賞」は、事実上の「準優勝」といっていい。近いところでは2021(令和3)年に濱口竜介監督の『偶然と想像』が受賞した。
 ちなみに、これらはすべて実写作品だ。もしこのたび「すずめ」が金熊を取ったなら、ベルリンで21年ぶりの栄誉、それもアニメで……ということで、注目が集まっていたわけである。そうなれば、名実ともに「宮崎駿の後継者」=「日本アニメ(オリジナル劇場版)のリーダー」としての評価も固まる……との含みもあったろう。




 本年の金熊賞は、フランスのニコラ・フィリベール監督によるドキュメンタリー作品『オン・ジ・アダマント』に与えられたとの発表があった。つまり「すずめ」は受賞を逸したわけだが、いまのところ、審査結果が伝わってきたのは金熊だけなので、まだ最終結果はわからない。「審査員グランプリ」であれ、ほかの「銀熊賞」であれ、はたまた銀熊以外の賞であれ、ひとつでも取ったら大したものだ。冒頭でも述べたが、招待されるだけでも大変な栄誉なのである。




 余談になるが、ネットでの紹介記事の中に「オン・ジ・アダマント」を「アダマントにて」と訳しているものがあり、これはおかしい。「アダマント」は地名ではない。「オン・ジ・アダマント」はこれ全体で「断固として」という意味の熟語だ。まあ、こんなのはすぐに修正されるだろうから、わざわざ書きつけることもないが……。




 ぼくは『すずめの戸締まり』を4回観た。「震災」をテーマに据えた映像作品として、それこそベルリン映画祭ではないが、アニメと実写との枠組みを突き抜けた傑作だと思う。「震災という重い題材をエンターテインメントに仕立てることがけしからぬ。」といった倫理的な反撥はいまだに見るが、世代を超えて多くの観客に届くようエンタメ化されているところに値打ちがあるわけだ。震災を知らない年齢の人たちの入り口にもなりうるということである。この作品を契機として、震災について認識をもっと深めていきたいと思ったならば、小説(いわゆる「震災後文学」)にせよ、ドキュメンタリーにせよ、たくさん媒体はあるのだから。




 さて。4度も劇場に足を運ぶほど好きで、当ブログでもたびたび話題にしてきたのに、じつはこれまで、正面切ってきちんと論評はしていない。前にも紹介したとおり、優れたテキストがネットで公開されていて、これに付け加えるべきことがほとんどないのである。










『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性
土居伸彰×藤田直哉 対談
2022.12.17
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/doi_fujita/22112




返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く
『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』特別寄稿
土居伸彰
2022.11.15
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/21956




新海誠の『すずめの戸締まり』は、何を閉じたのか?宮崎駿作品の主題、『星を追う子ども』の共通点から考える




考察/新海誠『すずめの戸締まり』が「震災文学」である本当の理由






 ただ、これらプロによる鑑賞・批評・評論はともかく、ネットを見てると、一般客のみなさんのなかに、「いまいち感情移入できなかった。」「展開が強引に思えた。」といったたぐいの意見がある。たぶん若い方たちなのだと思うが、これについて思うところを書いておきたい。




 新海作品はよく「セカイ系」といわれる。「セカイ系」とは、
『「君」と「僕」との関係性の強度が、しかるべき社会的な制度や手続きを介することなく、一挙に「全世界」へと接続してしまう』
 ような作品である。メジャーデビュー以降の3作品では必ずしも「全世界」ではないが、『君の名は。』なら「糸守」という地方の架空の小さな町(被害をもたらすのは隕石の破片)、『天気の子』なら東京のほぼ全域(被害をもたらすのは降りやまぬ雨)、そして『すずめの戸締まり』なら東京をはじめとする日本全土(被害をもたらすのは地震)と、新海さんの作り手としての進化/深化にあわせて、「セカイ」の範囲がスケールアップしているのがわかる。




 「セカイ系」は、文芸批評の用語としてはまだまだ新しいけれども、これは広義の「メロドラマ」に属する。メロドラマは、「昼メロ」みたいな卑俗な意味で使われがちだが、本来は、ひとつの文芸用語として伝統的に確立されている。その要諦をぼくなりに改編しながら要約すると、




(1) 筋立てはシンプルかつ明快で、できるかぎり寄り道を省いてスピーディーに運ばれる。
(2) 主要なキャラはもっぱら劇的な状況に置かれており、喜怒哀楽の「激情」に身を委ねる。
(3) 善と悪とが明快な「二元論」に集約される。つまり、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別される。
(4) 作品のなかでの出来事は美学化されたドラマとなる。ふつうなら陳腐な出来事も、物語全体の意味付けとして「崇高」なものに仕立てられる。
(5) ラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する。




 こんなところだ。『すずめの戸締まり』は、これらメロドラマの原則に則りながら、ポストモダンの作品として、そこからずらしているところもある。(1)については贅言を要しないだろう。椅子にされた草太がダイジンを追って窓から飛び出していった瞬間から、ストーリーは留まることなくエンディングへ向けて一目散に疾駆していく。ダイジンも草太も鈴芽もその運動の渦中にあり、そこに観客もまた巻き込まれる。そのプロセスの総体が「戸締まり」としての旅なのだ。旅の目的は「後ろ戸を閉じること。そして草太をもとの姿に戻すこと」。きわめてシンプルにして明快である。シナリオがそう作られている。




 (2)のばあい、椅子にされてしまった草太が「劇的な状況に置かれて」いるのは自明だろうけど、すずめがどうしてあれほど草太に肩入れし、強引に同行して何度かの「戸締まり」を経験したあげく、「わたしは死ぬのは怖くない。でも、草太さんのいない世界(で生きていくの)が怖いです。」と宣言するまでに至るのか……どうしてそこまで彼に惚れこんでしまうのか……について、納得しかねる向きもあるようだ。確かにここが分からなければ、「感情移入できない」「展開が強引」という感想にもなろう。




 「たんにイケメン好きなだけじゃないか。」という声すら見かけたが、もちろん、それは浅墓すぎるというものだ。すずめは四歳のときに後ろ戸をくぐって常世で未来の自分に会い、励ましを受けて「生」の側へと導かれたけれど、その際に草太にも出会っている。たぶん言葉を交わすことはなかったと思うが、未来の自分に寄り添っていた彼の姿は、心の底に残っていたはずだ。それだけの縁(えにし)を過去から持ち越しているのである(とうぜんタイムパラドックスが生じているが、基本的に、ファンタジーにおいてタイムパラドックスは許容される)。




 もうひとつ。四歳のすずめは励ましの言葉と椅子をもらって常世から戻り、探しに来てくれた環さんに救われて「環さんのうちの子」になるわけだけど、震災で負った心の傷が完全に癒えるはずもなく、成長につれて記憶が薄れ、表面では明るく快活にふるまえるようになってはいても、じつのところ(おそらく彼女自身もはっきりとは自覚していなかったろうが)意識の根底においては常に「べつにいつ死んだっていいや。」といった捨て鉢な気持、もしくは「虚無感」をずっと燻ぶらせていたと思われる。




 だからこそ、深い縁で結ばれた美貌の青年と知り合って、彼(大半は椅子の姿なのだが)との楽しくもハードな旅の時間を共有することで、初めて彼女は「生」の意味を得ることができた。草太の存在によって、ようやく彼女の「虚無」は充填されたのである。「草太さんのいない世界が怖いです。」には、それだけの裏づけがあるわけだ。




 それは恋愛感情には違いないけれど、たんにそれだけのものではない。いや、本当は、真の意味での「愛」というのは、対象の存在がそのまま自分自身の「存在の根拠」になるほどのものなのである。だから本質的にはじつは愛そのものがセカイ系なのだ。むろん、現実の日常においては、そこまでの「愛」はけっして成立しないし、それゆえに物語は性懲りもなく愛を描き続けるわけだが。




 (3)について。ストーリーの中盤に至るまで、この作品において「悪」の表徴を担うのはダイジンひとりだ(神的な存在だから「一柱」というべきかな? 間違っても「一匹」だと畏れ多いのは確かである)。しかし後半部に入ると、じつは彼にはまったく悪気はなく、ただただ無邪気に彼なりの「すずめ(と)の戸締まり(の旅)」を楽しんでいたことがわかる。本作にはシンプルな「悪」は出てこない。あえていえばミミズがそうだが、あれにしたって悪意というものはまったくなく、そもそも意志と呼ぶべきものがなく、たんに膨大なエネルギーが間歇的に噴出するだけのものだ。おそらくあれが本来の、原始的な意味での「神」のありようだろうと思うけれども。




 (4)でいうところの「陳腐な出来事」にしても、「陳腐」といったら言葉がわるいが、つまりは和食の御膳とか、マクドナルドのハンバーガーとか、ポテトサラダを投入した焼うどんとか、ぼくたちが毎日ふつうに喫する当たり前の食事(いやまあポテサラ入りの焼うどんは当たり前ではないが)がいかに大切なものかがこの作品では謳われている。なにげない日常こそが、ほんとうはもっとも大切で尊いものであるというメッセージだ。なぜ大切で尊いのか。それがいつ、唐突に断ち切られてしまうか分からないからだ。




 その最大の象徴が「あいさつ」である。「行ってきます。」「行ってきまーす。」と家を出て、ついに「ただいま。」が言えなかった人たち。「行ってらっしゃい。」と送り出したあと、ついに「お帰りなさい。」「お帰り。」が言えなかった人たち。当たり前の挨拶が当たり前にできなかったことへの悲しみに対する、作り手の強い共鳴がこの作品を支えている。「行ってきます。」「ただいま。」「お帰りなさい。」といったあまりにも平凡な慣用句が、本当はいちばん崇高なものだということ。『すずめの戸締まり』くらいその真理を端的に訴えかける物語はない。




 上述のとおり、本作には明らかな「悪=敵」はでてこないので、『ラストで「美徳」(味方=善)が勝利した。』とは言いがたい。表面的には申しぶんのないハッピーエンドだけど、よく考えたらそうでもない。ひとまず当面の危機は封じ込めたものの、二柱の要石の力で抑えているだけで、ミミズそのものが完全に滅せられることはないのである。いつまた「後ろ戸」がひらいて出てくるかわからない。脅威はいつも日常の裏に潜んでいる。だからこそラストでの草太の「祝詞」が胸に響く。




――命が仮初(かりそめ)だとは知っています。
死は常に隣にあると分かっています。
それでも私たちは願ってしまう。
いま一年、いま一日、いまもう一時(いっとき)だけでも、私たちは永らえたい!
猛き大大神(おおおおかみ)よ! どうか、どうか――!
――お頼み申します!




 これはキリスト教の神に対する祈りとは違う。しかしその根底にあるのは、ひととして誰しもが抱く切なる願いだ。たんなるエキゾチシズムを超えて、なにかしら普遍的なものを、ヨーロッパの観客も感じ取ったのではないか。作品にとって肝要なのは、いかに多くのひとの胸を震わせ、これからの人生の糧となるかである。賞の帰趨はそのひとつの結果にすぎない。



3度目の戸締まり

2022-12-28 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 12月25日、『すずめの戸締まり』、3度目の鑑賞。同じ映画を3回も劇場まで足を運んで観るのはこれが初めて。
 冬休みに入り、日曜ということもあってか、早朝にも関わらずほぼ満席。小さいお子さんを連れたファミリーが目立った。
 ぼくのばあい、2度目の鑑賞は、かなり分析的というか、批評的に見てしまったので、ややストーリーに没入できなかったきらいがあり、この3度目で、また初回の感動を再体験することができた。
 ことに今回は、ダイジンに肩入れしちゃったなあ……。
 ダイジンとすずめとの関係性が、ほとんどそのまま、すずめと環さんとの関係性に被ってるところがミソだ。
 特典の「環さんのものがたり」を読んだら、御茶ノ水駅前で環さんがすずめ(と芹沢)に邂逅したのはけっして偶然(ご都合主義)ではなかったことがわかった。新海監督の脚本は、細部に至るまで周到に作られている。
 主演の若い2人をはじめ、声優陣はみな素晴らしいが、ことに深津絵里さんが凄い。パーキングエリアでのあのシーンは何回見ても鳥肌が立つ。あれで声優初挑戦とは信じがたい。
 興行収入も100億円突破との由。まだまだ伸びるだろう。





☆☆☆☆☆☆☆






hulu
すずめの戸締まり 本編12分映像(もちろん無料。ただしスマホで見る場合はアプリのダウンロードが必要になる)
https://www.hulu.jp/watch/100127089







☆☆☆☆☆☆☆


再掲




今ネットで(無料で)読める秀逸な『すずめの戸締まり』論まとめ




『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性
土居伸彰×藤田直哉 対談
2022.12.17
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/doi_fujita/22112







 10月17日に『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』(集英社新書)を上梓した土居氏と、10月30日に『新海誠論』(作品社)を刊行した藤田氏との対談。やみくもな礼賛に留まらず、エロティシズム、ナショナリズム、天皇(制)といった難しい問題にも抜かりなく目を配っている。今の時点で『すずめの戸締まり』について語られるべきことは、とりあえずこの中にほぼ尽くされているように思う。








 それぞれの評者による個別のレビューはこちら。



土居伸彰
返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く
『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』特別寄稿
2022.11.15
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/21956


藤田直哉
新海誠の『すずめの戸締まり』は、何を閉じたのか?宮崎駿作品の主題、『星を追う子ども』の共通点から考える
2022.12.15
https://www.cinra.net/article/202212-suzumenotojimari_iktaycl



 ほかに、この方の批評も有益だ。

藤津亮太
考察/新海誠『すずめの戸締まり』が「震災文学」である本当の理由
2022.12.3
https://qjweb.jp/journal/78912/?mode=all


「すずめの戸締まり」新海誠監督が描く「星を追う子ども」「君の名は。」に続く“生者の旅”とは
2022.11.15
https://animeanime.jp/article/2022/11/15/73485.html






 このお三方は「すずめ」を高く評価しているが、いっぽう、「数年ぶりに物凄い怒りと共に執筆しました……」という但し書きを付して公表されたレビューがこちら。批判的意見の急先鋒といおうか。




茂木謙之介
新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム
2022.11.25
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/suzume-tojimari-movie-review-2022-11











 ぼく個人は土居、藤田、藤津氏らと同じ立場であり、この茂木氏の意見には与しないけれども、『すずめの戸締まり』を観て、「なんだか引っかかる」「どこか釈然としない」(いまどきの用語でいえば「モヤモヤする」)といった感想を抱く方々の心情を精緻に言語化すればこうなるのかな……とは思う。きちんと反論を書いてみたい気もするが、いかんせん時間がない。









今ネットで(無料で)読める秀逸な『すずめの戸締まり』論まとめ

2022-12-19 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性
土居伸彰×藤田直哉 対談
2022.12.17
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/doi_fujita/22112



 10月17日に『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』(集英社新書)を上梓した土居氏と、10月30日に『新海誠論』(作品社)を刊行した藤田氏との対談。やみくもな礼賛に留まらず、エロティシズム、ナショナリズム、天皇(制)といった難しい問題にも抜かりなく目を配っている。『すずめの戸締まり』について語られるべきことは、とりあえずこの中にほぼ尽くされていると思う。




 それぞれの評者による個別のレビューはこちら。


土居伸彰
返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く
『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』特別寄稿

藤田直哉
新海誠の『すずめの戸締まり』は、何を閉じたのか?宮崎駿作品の主題、『星を追う子ども』の共通点から考える
2022.12.15
https://www.cinra.net/article/202212-suzumenotojimari_iktaycl




 ほかに、この方の批評も有益だ。


藤津亮太
考察/新海誠『すずめの戸締まり』が「震災文学」である本当の理由
2022.12.3
https://qjweb.jp/journal/78912/?mode=all


「すずめの戸締まり」新海誠監督が描く「星を追う子ども」「君の名は。」に続く“生者の旅”とは
2022.11.15



☆☆☆☆☆☆☆


 これらお三方は「すずめ」を高く評価しているが、いっぽう、「数年ぶりに物凄い怒りと共に執筆しました……」という但し書きを付して公表されたレビューがこちら。批判的意見の急先鋒といおうか。


茂木謙之介
新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム
2022.11.25
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/suzume-tojimari-movie-review-2022-11





 ぼく個人は、土居、藤田、藤津氏らと同じ立場であり、この茂木氏の意見には与しないけれども、『すずめの戸締まり』を観て、「なんだか引っかかる」「どこか釈然としない」(いまどきの用語でいえば「モヤモヤする」)といった感想を抱く方々の心情を精緻に言語化すればこうなるのかな……とは思う。




☆☆☆☆☆☆☆


そのほか。




『すずめの戸締まり』に登場するミミズや閉じ師、猫のダイジンら、民俗学的なモチーフの意味を読み解く
畑中章宏
2022.12.16
https://www.cinra.net/article/202212-suzumetojimari_kawrkcl



タイトルどおり、作中に出てくるキャラクターやイメージやモチーフなどを民俗学的な見地から考察するもの。




新作『すずめの戸締まり』まで連なる、新海誠作品における「孤児」たちの系譜――なぜ、誰かを「ケアする」人物を描くのか
伊藤弘了
2022.12.14
https://yomitai.jp/series/kansoumaigo/05-ito/2/



 「孤児」というキーコンセプトをもとに、『君の名は。』以前まで遡って新海誠作品の系譜をスケッチしたもの。




☆☆☆☆☆☆☆


 蛇足になりますが、これらのレビューはネタバレを含む……というより全編がネタバレそのものなので、くれぐれも、作品をご覧になってからお読みになることをお勧めします。





新海誠監督・『すずめの戸締まり』インタビュー2本

2022-12-12 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
NHK クローズアップ現代
22.12.12 放送分
新海誠、エンターテインメントを語る。未公開インタビュー
https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pvqdx5GOng/









(一部を抜粋)


例えば、2011年というのはもう随分昔のことですから、今の10代、特に被災していない地域の10代にとっては、教科書の中の出来事だと思います。でも、映画を見ている最中は鈴芽になることができるし、教科書の中の出来事だと思っていたことと自分がつながっているということを知ることができるかもしれない。それはもしかしたら、ほかの分野ではできない、エンタメだからこそできる意味のある仕事のような気がします。




(前略)起きた出来事を物語で考える。最初は事実の記録や記憶であったものが、だんだん物語のかたちになっていって、残って伝えられていくということを、人は1000年、2000年繰り返してきた。(……中略……)だったら、エンタメにしかできないことがあるだろうと思いたいですし、信じています。何を言われても、それが僕たちの仕事なんだと思います。




エンターテインメントの力は、共感させること、感情移入させることだと思います。誰かに共感するとか感情移入するっていうのは、すごく不思議な力だと思うんですよ。なぜ僕たちは誰かに共感できるのか。一番強く生きていくのであれば、誰かに共感したり感情移入したりせずに、自分にとって有利な目標に向かって真っすぐ自分のためだけを考えて歩いていけばいいのに、僕たちはそれができないわけです。だから、共感や感情移入が人間社会をちゃんと社会のかたちとしてキープさせ続けている、ぎりぎりの要石のようなものだと思います。…………










eminus このほか、われわれが創作に携わるうえで(ことエンターテインメントに限らず、純文学であっても)、……あるいは、だれかの作品を批評の俎上に載せるうえでも、ぜひ心に留めておきたい言葉がたくさん見受けられました。




☆☆☆☆☆☆☆


NHK おばんですいわて
“すずめの戸締まり” 新海誠監督 岩手を選んだ苦悩と覚悟


https://www.nhk.jp/p/ts/GV37P3QRV4/blog/bl/prAM3NPgLr/bp/pLEzDPBgV8/







eminus 大綱は「クローズアップ現代」の内容と同じですが、被災地であり、物語の終着の地である岩手を訪れた際のインタビューだけに、言葉にいっそうの重みを感じます。






「すずめの戸締まり」へのレビューについてのメモ

2022-12-08 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 公開からそろそろ1ヶ月。このあいだ、2度めの「戸締まり」をしてきたが、初見の際にも増して「類い稀なる傑作」との感を強くした。
 こんな短期間に再度劇場に足を運ぶのは『もののけ姫』以来だが、あの時は1度目が試写会、2度目は株主優待券を知り合いに貰った。自腹を切って2度行ったのは初めてだ。しかもなお、「あと2、3回くらいはいいかな……。」などと思っている。
 いま試みに、新旧洋邦、実写とアニメ、前衛とエンタメ、あらゆる区分を取っ払い、「我が人生でもっとも心に刺さった十本」を選ぶとしたら、こんな具合になるだろうか。


10 アレクサンドリア(2009/平成21 アレハンドロ・アメナーバル スペイン)
09 風の谷のナウシカ(1984/昭和59 宮崎駿 日本)
08 ノスタルジア(1983/昭和58 アンドレイ・タルコフスキー イタリア・ソ連)
07 生きる(1952/昭和27 黒澤明 日本)
06 ベルリン・天使の詩(1987/昭和62 ヴィム・ヴェンダース フランス・西ドイツ)
05 陽炎座(1981/昭和56 鈴木清順 日本)
04 ユリシーズの瞳(1995/平成7 テオ・アンゲロプロス ギリシャ・フランス・イタリア)
03 ゴダールのマリア(1984/昭和59 ジャン=リュック・ゴダール フランス・イギリス・スイス)
02 幕末太陽傳(1957/昭和32 川島雄三 日本)


 80年代の作品が多いのは、ぼくがもっとも多感であり、かつ、映画をよく観ていた時期だからだ。古いものはリバイバル上映ないしDVDでみた。
 新しい作品がほとんど入っていない。たぶん、齢を食って、ぼくの感性が乾いてしまったためだろう。
 6年前の『君の名は。』といい、このたびの「すずめ」といい、こうも新海アニメに揺さぶられるのは、そのせいもあるのだと思う。枯渇した感受性をもういちど潤してくれる瑞々しさがあるのだ。
 しかし、こうやって並べてみると、「錚々たる」という形容がぴったりの顔ぶれで、いささか気が引けるけれども、監督の声望とか、歴史的な評価とか、後世に与えた影響とか、さまざまな基準を度外視して、ただただひとえに、「自分の心に刺さった(インパクトを受けた)」という一点のみに限っていえば、これらを抑えて、いまは『すずめの戸締まり』が1位にくる。
 もちろんそれは、たんに熱に浮かされているからで、もう少し時間が経てば、気持ちはかわる。それはわかっているのだが、ブログってのは日記であり、今の心情を書き留めておくものなので、とりあえず書いている。
 ところで、実写作品で、『風の電話』(2020/令和2 諏訪敦彦)が、いろいろな点で「すずめ」と似通っているらしい。『すずめの戸締まり』はエンタテインメントだが、こちらはいわば「純文学」だ。この映画を観ても、きっと、いくらか気持ちはかわると思われる。
 さて今回は、『すずめの戸締まり』そのものへの感想ないし批評ではなく、本作についてのレビューの話なのだった。
 茂木謙之介という方の、以下のレビューがそこそこ話題になっているらしい。アドレスを貼っておくけれど、ネタバレに一切考慮を払っていない文章であり、しかも冒頭にそのことに関する断りもなく、未見の観客に対する配慮をまるっきり欠いているので、くれぐれもご注意のほど。




新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム
最終更新:2022年11月25日
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/suzume-tojimari-movie-review-2022-11






 評者の茂木さんは、東北大学大学院の准教授。1985(昭和60)年生。専攻は日本近代文化史・表象文化論・日本近代文学。
 現在の研究テーマは、
①近現代日本の天皇・皇族・皇室表象の検討を通した天皇(制)研究
②〈幻想文学〉をキーワードとした日本近代文学・メディア史研究
③近現代日本を中心とした怪異・怪談の研究
④地域史料の調査・整理・保全専門
とのこと。


 一読して、「いかにもユリイカあたりに寄稿してそうな学者さんの文章だなあ。」と思ったら、ほんとうに、過去に何度かユリイカに寄稿しておられた。
 このエッセイはとても手厳しい。発表ののち、とうぜん反論のツイートもいくつか出た。それを受けてこの方は、




すごく大事な前提を共有しない方が多いように思ったので一言だけ。
全てのテクストに一元的な正解としての読解はないのです。全ては正しくありえ、全ては誤りたりうる。その中で如何に「証拠」的を見出して、レトリックを構築できるか。そして、その上で絶えざる修正を続けるのです。




 というツイートを発していらした(「証拠」的を見出して、は打ち間違いかと思う。「証拠」を見出して、か、「証拠」的なるものを見出して、が正しいのだろう)。たしかにこれは、ロラン・バルト以降の現代批評の常識のようではあるのだが、とはいえしかし、明らかに誤った読解ってものは残念ながら存在する。『批評の教室』という著書をもつ北村紗衣さんは、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の前書きのなかで、




ここでひとつ強調しておきたいのは、批評をする時の解釈には正解はないが、間違いはある、ということです。よく、解釈なんて自由だから間違いなんかない、と思っている人がいますが、これは大間違いです。(後略)




 と言っておられる。たとえば、作品の中で明瞭に語られている「事実」を、見落としなり錯覚なりによって受容し損ねたり、歪曲して受容してしまったばあい、その結果として紡がれた批評(解釈)は、どうしたって、「間違い(誤り)」と呼ばざるを得ないものになるだろう。
 それはわかりやすいケースだけれども、ほかにも、偏った先入見に基づいて作り手のメッセージを捻じ曲げて受け取るばあい、また、行文の論理展開に飛躍や断裂や陥没などが見られるばあいも、その批評は誤り(と呼ばざるを得ないもの)になろう。
 ここで茂木さんは「被災地と被災者(特に死者)を冒涜した上、天皇をライトに利用しつつ怪異を犠牲にする災害消費エンタメ」と決めつけ、「天人相関説≒天譴論(てんけんろん)」や「天皇(制)」などのキーワード(キーコンセプト)を駆使して、『すずめの戸締まり』を難詰するのだが(そしてその手捌きそのものは、じつは、けっこう面白くもあるのだが)、衒学的な装飾を取り払い、突き詰めてしまえば何のことはない、ただ「3・11をエンタテインメント/ファンタジーとして商品化して消費するのはけしからぬ!」という、ありふれた倫理観をふりかざしているだけなのだった。
 そのうえで、ご自身の近著『SNS天皇論 ポップカルチャー=スピリチュアリティと現代日本』(講談社選書メチエ)の宣伝に繋げるという、きわめてシンプルな便乗商法なのである。
 偉大な作品にただ乗りして商売をさせて貰うなら、いくらなんでも、もうすこし礼儀を尽くすべきかと思う。
 茂木さんの倫理に従えば、3・11は、どうしたって「純文学(ないし、純映画?)」でしか扱えない。しかし、それでは多くの人に、とりわけ若い層、さらには海外の人にも届くまい。
 前述の『風の電話』は、youtubeで予告を見ただけで佳品とわかるが、はたしてこれを、なんにんの人が観たであろうか。
 ことばで書かれた「震災後文学」となると、読者はさらに限られるだろう。
 『すずめの戸締まり』は、熱心なファンによる「聖地巡礼」がはじまっている。その多くは若い世代だと思われる。これが「風化に抗うふるまい」でなければ何であろうか。
 3・11のことなど遠いニュースでしか知らぬ若い子たちは、ただ『ONE PIECE FILM RED』だの『THE FIRST SLAM DUNK』だのを観て(いやもちろん、これらの作品が悪いとかダメだというつもりはないが)「わー面白かったぁ。」と悦に入っていればよい。そのように、茂木氏は仰りたいのだろうか?
 『すずめの戸締まり』が「死者の忘却に加担している」というならば、「もっとも美しき歴史修正主義アニメ」というべき『風立ちぬ』(2013/平成25 宮崎駿)なんて、もはや犯罪レベルであろう。
 現在もっとも大衆への訴求力をもつアニメというメディアで、エンタテインメント/ファンタジーとして3・11を描くのであれば、どうしたってあれ以外には方法はないのだ。嘘だと思うなら、なにも難しいことはない、ご自分で作品をつくってみればいいのである。
 嫌味でも皮肉でもなく、そう思う。批評家は、すべからく自分で創作を試みるべきだ。いかに豊富な知識をもっていようと、最先端の批評理論に通じていようと、読者(観客)はしょせん読者にすぎない。習作のかたちでいいから、いちどは自分で作品をつくってみなきゃ、要諦はけっして掴めない。
 3・11の災禍を現在と未来に伝えつつ、しかも何百万という規模の客を、老若男女とりまぜて、劇場まで引っぱってこられる映画。いや、むろん映画そのものを作れとはいわない。シナリオでも小説でも、なんだったらプロットだけでもいい。そういうものが書けるのであれば、ぜひとも提示してほしい。
 繰り返しになるが、これは嫌味でも皮肉でもレトリックでもなく、心の底から言っている。新海誠が『すずめの戸締まり』でやった方法以外で、そのようなものが可能であるなら、ぜひとも読んでみたいのだ。


 いっぽう、藤津亮太氏による「考察/新海誠『すずめの戸締まり』が「震災文学」である本当の理由」
2022.12.3
https://qjweb.jp/journal/78912/?mode=all




は、おそらく茂木氏の上記エッセイをも踏まえて書かれたものと思われるが、作品への敬意を失わぬ良作である。現時点でネットで見られる「すずめ」論としては、これがスタンダードであろう。



2022(令和4).12.15 追加
茂木論考へのカウンターとなりうるもう一つのエッセイ

返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く
『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』特別寄稿
土居伸彰
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/21956


2022(令和4).12.17 さらに追加

このあと見つけた、藤津亮太氏によるもうひとつのエッセイ

「すずめの戸締まり」新海誠監督が描く「星を追う子ども」「君の名は。」に続く“生者の旅”とは
https://animeanime.jp/article/2022/11/15/73485.html





『すずめの戸締まり』主題歌 RADWIMPS - すずめ feat.十明 [Official Lyric Video]

2022-11-15 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり





 『すずめの戸締まり』、昨日はあんなこと書いたけれども、どうしても観たかったんで、夜の部にちょいと寄ってきましたよ。
 いやあ、想像以上に良かったね。アクション、スケール、ラブロマンス、魅力的なキャラ、そして人情、どこをとっても、子供からティーンエイジャーから大人まで、全世代に向けてのエンターテインメントに仕上がってました。
 いろいろと言葉は溢れてくるけども、いま記事にすると、『君の名は。』の鑑賞後の二の舞になっちまうんで……。つまり、コーフンしてあれこれ書きまくって、あとで恥ずかしくなって削除する羽目になりそうなんで……。それに、ネタバレのこともあるので、当面は自重しましょう。
 ひとつだけ言っておきますと(結局言うんかい)、『カリオストロの城』「ナウシカ」「ラピュタ」『魔女の宅急便』『もののけ姫』「千と千尋」「ハウル」など、宮崎駿アニメの名場面を思わせるシーンやカットやイメージが随所にたくさん散りばめられていた……。これからご覧になる方は、それを探してみるのも一興でしょうね。いや、開始早々、怒涛のストーリーに巻き込まれて、それどころではないか……。
 あと、やはり細田守作品や、荒川弘『鋼の錬金術師』に繋がるところもあったなあ……。それはたんに先達たちへのオマージュってだけじゃなく、なんというか、これまで日本のアニメが育んできた想像力やフォーマット、演出や技法や技術なんかの最良の部分が、この一作に流れ込んで繚乱と咲き誇ってる感じでしたね。
 もっと言わせてもらうなら(まだなんか言うんかい)、ここに継承されているのは、たんに日本のアニメやマンガの遺産というだけじゃなく、もっとずっと根底にあるもの、たとえば能楽だとか、神道だとか、それこそ記紀神話から綿々と連なる日本文化の精華そのものでしょう。
 そういった伝統を総動員して、この厄災にまみれた(それは過去に起こったものはもちろん、現在進行形のもの、さらにはこれから起こるだろうものまでをも含めて)ニッポンの状況を悼み、どうにかして鎮めようと努めている。それくらい凄い作品=メディア=媒体であると思いましたね。
 いやいや、この調子だと、また話がどんどん大きくなっちまうなあ。とりあえず今回はここまで……。
 それでは、曲のご紹介。オープニングと、あとエンディングにて流れます。













ファンタジーと現実~新海誠の新作『すずめの戸締まり』に寄せて。

2022-11-14 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 新海誠監督の新作『すずめの戸締まり』が11月11日に公開されて、もうネット上にはネタバレをふくむ感想がちらほら出始めている。ぼくはまだ観ていないが(映画館まで足を運ぶかどうか思案中)、わりと信頼しているアニメ感想サイトでは、ほぼ絶賛に近い評価である。この方は前作『天気の子』に対しては微妙な感想を述べてらしたから、『天気の子』を凌ぐ出来栄えであることは間違いなさそうだ。
 ぼくは6年前に『君の名は。』を映画館で見て年甲斐もなくコーフンし、向こう1ヶ月ばかり『君の名は。』で頭が一杯になって、ブログの記事も何本か上げた。「『君の名は。』/『天気の子』」というカテゴリをつくってそこに入れてあるけれど、しかし最初の2本はあとで読み返したら気恥ずかしくなったので非公開にしてある。高揚しすぎて記事の体をなしていない。それくらい夢中になっていたということだ。
 『天気の子』の公開は2019(令和元)年7月19日で、中国の武漢市において新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の第1例目の感染者が報告される5ヶ月前だった(それからわずか数ヶ月ほどで年を超えて世界規模のパンデミックとなり、今もなお収束していないのは周知のとおり)。
 ぼくはこちらのほうは映画館には行かず、2021年1月3日の地上波初放送の際に観たのだが、コロナ禍をふまえ、エンディングの後に新海さん自らが編集したという「特別エンディング」が付されていた。あれはメッセージと呼ぶべきものであったろう。
 『君の名は。』が『シン・ゴジラ』と並んでポスト3・11の作品であること、つまり東日本大震災の衝撃から生まれた作品だったことは誰の目にも見紛いようがないが、『天気の子』もまた、このニッポンを覆った格差社会の現状と共に、毎年決まって台風の季節に列島を襲う台風の被害を想起せずして観ることのできない作品であった。しかも、ハッピーエンドだった『君の名は。』とは異なり、『天気の子』では遂に雨が止むことはない(災厄が収まらない)。それはぼくには作家としての新海監督にとっての前進であると思えたし、コロナ禍のことを考え合わせても、とても予見的な結末だったと思う。
 新海誠は、アニメ監督=モダンファンタジー作家として、宮崎駿よりも細田守よりも意識的に、それはもう比較にならぬほど意識的に、「ニッポンを見舞う災厄」を作品化することに力を注いできた。しかしいっぽう、これまでぼくの知るかぎりでは、現実に起こった出来事と、自らの作品世界との関わりについて、新海さんがはっきりとしたコメントを出したことはない。できるだけ曖昧に濁してきたはずだ。
 「現実は現実」「フィクションはフィクション」ということで、ずっと一線を画してきたのである。だからぼくも、昨年の1月、テレビで初めて観た後にブログで記事を書いたさい、あえてそういったことには触れず、「ロマン主義の極北」としてのみ、『天気の子』を論じたのだった。いわば社会性を完全に脱色するかたちで感想を述べた。
 『君の名は。』について、元歴史学者で今は批評家というべきポジションにいる與那覇潤がこう書いている。






 映画館の誰もが震災を思い出す小彗星の墜落事故を描きながら、『君の名は。』では、当初はうなだれてばかりだった男の子(瀧)がタイムワープして犠牲者の女の子(三葉)に危機を予告し、彼女が仲間たちと変電所の爆発による停電を起こして、地元を救います。わずか5年前の近い過去を、「遠い場所で起こった」「恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶」へと加工し、経済成長や原発行政の当否といった社会的な側面をすべてオミットすることで、神話上の一モチーフとして無害化する。その意味で『君の名は。』の大ブームとともに甦ったセカイ系の想像力は、往時の戦後映画の文法をなぞると同時に、前年の安倍談話と並んで、歴史なき社会への地ならしも完遂していたのです。


與那覇 潤『平成史―昨日の世界のすべて』(文藝春秋)より






 瀧が「当初はうなだれてばかりだった」というのも何だかピンとこないし(三葉の消息を追って糸守消滅の事実を知った際には打ちひしがれていたが、当初はずっと元気であった)、「タイムワープ」というのも少し違うし(「意識だけがリープして時間を超える」というのも一応は「タイムトラベルもの」に分類はされるけど)、「仲間たちと変電所の爆発による停電を起こ」すことで「地元を救」ったわけでもないし(あれは結局無駄だった。町民を避難させたのは町長である三葉の父親)、作品そのものに対する愛情はあまり感じられない文章だけど、「「遠い場所で起こった」「恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶」へと加工し、経済成長や原発行政の当否といった社会的な側面をすべてオミットすることで、神話上の一モチーフとして無害化する。」というフレーズは、初読の際にぼくの心にぐさりと刺さった。
 ようするにこれは、身も蓋もない言い方をすれば、「現実の過酷さをファンタジーの糖衣に包んで口当たりよく商品化した」ということだろう。しかも、「神話上の一モチーフとして無害化」したというからには、たとえば三葉が由緒正しい神社の巫女であることや、随所に引用される和歌の含意なども、すべてが「作品を飾るための意匠にすぎない」という話になる。
 『君の名は。』一作だけのことならば、たしかに、そう言われても仕方がないところはあるなあと、今もなおこの作品のファンであるぼくも思うのだけれど、ただ新海監督は、上記のとおりそのあと『天気の子』でさらに一歩を踏み出したわけで、そしてまた、ネットでの評判を見るかぎり、この『すずめの戸締まり』において、いよいよきちんと覚悟を決めて、さらに一歩、ファンタジーから「現実」のほうへと踏み込んだように見受けられるのである。
 すでに公式のツイッターなどで、「本作には、地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンがございます。警報音は実際のものとは異なりますが、ご鑑賞にあたりましては、予めご了承いただきます様、お願い申し上げます」との注意喚起がなされているし、ネットでの感想を見ていても、「トラウマを抱えてる人は気を付けたほうがいいかも」といった書き込みが目立つ。どうやら、メジャーデビュー3作目において、ついに新海監督は、正面切って「3・11」を描いたということらしい。
 同時に、『君の名は。』に見られた(そして『天気の子』にも引き継がれていた)「日本神話的なモチーフ」の数々も、たんに上辺を飾って勿体をつけるだけの意匠ではなく、日本という国柄の伝統に見合った民俗学的な重さを備えて、より深いところで捉え直されているようだ(盟友RADWIMPS野田洋次郎の『HINOMARU』の件なども合わせ、そこに一抹の危うさを感じ取る向きもあるやもしれぬが)。
 「日本各地の廃墟を舞台に、災いのもとになる“扉”を閉めていく」というテーマは、新海監督が愛読者であることを隠さない村上春樹の短篇「かえるくん、東京を救う」(新潮文庫『『神の子どもたちはみな踊る』所収)を思わせるし、いやそれよりも、何のことはない、時代を超えて愛され続け、リメイクされ続ける『ゲゲゲの鬼太郎』とも通底している。ようするに、すずめは「守り(護り)人」「鎮め人」の役を担うわけだろう。だから、じつはとっくの昔からすでにもうぼくたちに馴染み深い主題なのではあるのだが、3・11や例年の風水害、頻発する地震、さらにおそらくコロナ禍をも踏まえて、ここにきて新海監督は、映像・脚本ともに最高レベルのクオリティーで、当該テーマの最新版を創り上げたということだろう。
 それが見事な作品に仕上がっているのは想像に難くないけれど、しかし、6年前とは大きく違い、今のぼくはファンタジーそのものに深い疑念を抱いてしまっている。映像が美しければ美しいほど、内容が素晴らしければ素晴らしいほど、作品に感動すれば感動するほど、「おれは現実と向き合うことから逃げてるんじゃないか。」という焦燥に駆り立てられるだろう。そんな気がしている。それが安倍元首相の暗殺された7月8日以降のぼくの偽らざる心情なのである。冒頭で「映画館まで足を運ぶかどうか思案中」と書いたのはそのことなのだった。

 この記事を書いた翌日、やはりどうしても観たくなって夜の部の映画館に立ち寄り、『すずめの戸締まり』を鑑賞してきた。とても良かった。
 それで、とりあえずネタバレに配慮しながら書いたのがこちら。

 『すずめの戸締まり』主題歌 RADWIMPS - すずめ feat.十明 [Official Lyric Video]
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/2009b0e165d269292b4ec3f52f0cff6f






天気の子・2021.01.03 テレビバージョン感想

2021-01-04 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり




 雨が横溢する。かつて『言の葉の庭』(2013)で新宿御苑の東屋(あずまや)のまわりをしめやかに濡らしていた雨は、『君の名は。』(2016)を経て、いま東京(≒セカイ)を覆う。覆い尽くす。水没させる。
 作品の主人公は帆高でもなければ陽菜でもない。雨だ。新海誠は雨に恋している。繊弱なものから暴戻なものまで、窓を伝い落ちる雫から、塊となって襲い掛かる豪雨まで、雨のもつさまざまな相貌、あらゆる様相、ほんのささいな変化も見逃さず、あますところなく描きつくす。リアルから虚構に昇華させ、映像として定着し、観客に向けて提示する。そのために持てる情熱と才能のありったけを傾けているようにさえみえる。
 雨に隈なく浸された画面はいうまでもなくロマン主義の舞台だ。ロマン主義の舞台にしかなりようがない。そこでは少年と少女とが青春を生きる。社会から断絶した2人きりのセカイ。しかし、あまりに純粋すぎてそこに性の匂いはない。だからこそ2人のあいだには、どこか両性具有的な「弟」がいる。彼(≒彼女)の存在が2人の純潔を保証する。性愛による合一にはけして至ることのない、硬質で清冽で、どこまでも青いロマンティシズム。これぞ新海誠ワールド。
 死別によって失われた。耐えかねて逃亡した。いずれにしても彼女と彼の傍に両親はいない。家庭がない。社会の中で自立するには若すぎる。社会との断絶、あるいは疎外。孤立の底で少女が少年にめぐんだマクドナルドのハンバーガーは、かつて千尋がハクから手渡されたおむすびにも似て、少年に社会とのかすかな繋がりを蘇らせる。
 帆高が須賀を頼ろうと決めるのは、陽菜からハンバーガーをもらった翌朝だ。
 須賀は、文字どおり「手を差し伸べる」者。フェリーの甲板で少年が海に投げ出されるのを救い、都会では、少年が進退窮まったところを救い(掬い)上げる。
 堅気とはいいがたい。しかしアウトローではない。離れて暮らす娘を想い、事故で(小説版では交通事故と明記)亡くした愛妻を一途に偲びつづけている。彼は少年と社会とのあいだに立つ者だ。リアリストとして少年の逸脱をたしなめ、法規の枠内に押し留めようとするけれど、最後の最後、ぎりぎりのところで少年の……すなわち「青春」のがわに付く。それは老練な刑事が「人生を棒に振ってまで会いたい相手がいるというのは、羨ましい。」と口にしたとき、彼が思わず涙を流した理由でもある。
 「青春」の純潔さは暴力との親和性をもつ。社会に満ちる「悪意」に抗して、愛するものを護る/救うためにはどうしたって力がいる。しかし少年はあまりに無力だ。無力すぎる少年が切実に欲する力は、摘発逃れで隠されていた拳銃として、作品の中に具現化され、彼の手に落ちる。それを使って少年は少女を「汚辱(現実)」の側から「純粋(ロマン)」の側へと引き戻す。
 剥き出しの暴力を目の当たりにした少女は混乱し、怒りを見せ、そのあと2人は和解する。
 2人+弟は仕事をはじめる。他人とかかわり、社会とかかわる。そうすることで少しずつ、社会に足場を築いていく。はかない足場ではあるが。
 されど、やまない雨をほんのひととき、かぎられた範囲で晴らす力は暴力ではないのか? それは誰かに笑顔をもたらし、ひとの流れを円滑にするものかもしれない。しかし、自然の理(ことわり)を捻じ曲げ、人間の営みに影響を与える強大な力は、理不尽なまでに強大なものというしかない。そして、悪意の有無にかかわらず、われわれは理不尽なまでに強大な力を暴力と呼ぶのだ。それは落雷というかたちで可視化されもする。
 力の行使には相応の代償を伴う。これは古今東西、あらゆる物語を貫く鉄則だ。
 少女は「人柱」として天に召される。『君の名は。』では鮮やかな成功をみた「現代と前近代との融合」だけど、彼女の「消失」は、劇場の大スクリーンならいざ知らず、お茶の間のテレビサイズではいささか苦しくみえた。全編が透明なロマンティシズムに染め上げられていなかったら、あるいは荒唐無稽の印象は拭えなかったかもしれない。
 しかし、ともあれ、もっとも大切なものが目の前から失われた。奪われた。もちろん少年は、少女を取り返さねばならない。
 かくして帆高(CV・醍醐虎汰朗)は、夏美(CV・本田翼)、須賀(CV・小栗旬)、そして凪(CV・吉柳咲良)の助力を得て、官憲の追走を背にひたすら疾走し、廃ビル(旧・代々木会館)まで辿り着き、屋上に行き、鳥居をくぐり、空を昇り、雲のうえの彼岸へと至って陽菜(CV・森七菜)を奪還する。「僕には、全世界よりも、君のほうが大切なんだ。」とはロマン主義的恋愛の要諦である。だから彼のその選択は当然至極であり、ここに賛否を分かつ余地はない。
 「異界」からの2人揃っての帰還は、物語のルールからすれば異例である。ふつうは「見るなの禁止」を侵すことによって失敗に終わり、奪還を目論んだ者は独りですごすごと、時には命からがら逃げ戻ってくるところだ。
 少年は少女を伴ってぶじ帰還した。その代償を払うのは2人ではなくセカイのがわだ。須賀と立花冨美(CV・倍賞千恵子)がそれぞれのことばで彼のその選択を肯ってやる。
 少年が愛する少女と引き換えにしたセカイは、雨の降り続く世界に戻った。ふたたび頭上を雨雲が覆い、青空は失われた。しかし滅びたわけではない。保護観察を終えた少年は「青年」となって都会へと戻り、高校生になった少女に再会する。少女は世界を改変してしまった責を負い、今も天に向かって祈りを捧げている。青年は涙を流し、「大丈夫。」と力強く告げて、彼女の背負った責を分かち持ち、ともに歩みだすことを決める。
 新しいドラマがそこから始まるだろう。




 コロナ禍のなか、テレビバージョンには特別なエンディングが附された。


世界はあっという間に変わってしまった。
もう元の世界に戻ることはないのかもしれない。
それでも、僕らは、この世界で生きていく――
生きていくしかない
だから、せめて、
食べて、
笑って、
恋をして、
泣いて、
怒って、
喧嘩して、
それでも、
ただ一瞬でも多く笑いあって、
その瞬間を愛おしく思えたら、
だいじょうぶ。
僕たちは、僕たちの世界をきっと、
乗り越えていける。




WEATHERING WITH YOU
(意味:あなたと嵐を乗り越える)




 2021年の幕開けにふさわしいアニメを見せて頂きました。そしてワタシは、読書と勉強に専念するため、しばらくアニメ断ちをいたします。





RADWIMPS HINOMARUについて 02 ~『君の名は。』はセカイ系か?

2018-06-16 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 RADWIMPSの「HINOMARU」にこだわるのは、前回も述べたとおり、このバンドがアニメ『君の名は。』にふかく関わったからである。
 たんに主題歌をふくむ4曲を提供したというだけでなく、作品の製作中から新海誠監督となんども打ち合わせを重ね、ストーリー展開や、「世界観」そのものにも影響を与えた。ただの音楽担当じゃないんである。
 でもって、ぼくは2年まえ、その『君の名は。』に激しく入れ込んだのだった。今でも好きだ。
 そんな縁がなかったら、こんなややこしそうな話題、ブログで取り上げたりしない。
 「右」と「左」との、いわゆるイデオロギー論争てきなやつは、ここでは遠慮しておきたい。ちなみにぼくは、「右」のほうの立場だ。それで、日本語にはかなり厳格である。だから前回は、内容については棚上げして、ひとえに「文法」もしくは「用法」の見地からこの歌詞を難じた。
 「HINOMARU」の歌詞における擬古文の使いかたはあまりに稚拙で、ありていにいって「中2レベル」であり、とても看過できない。もともと中2っぽいブンガク臭が野田洋次郎の詞のウリであったにせよだ。なぜなら、これが「愛国(心)を歌ったうた」だから。愛国(心)を歌うのならば、せめて正しく美しい日本語を使ってくれ。それが前回のぼくの主張であった。これについてはもちろん、「この内容をがっちがちの文語調でやったらほんとに軍歌になってしまう。野田さんはそれを避けたのだ。」との反論もありうるだろう。ただ、ぼくが見たところ、野田さんにはそこまでの素養はなく、仮に文語調をやりたくても、できなかったと思う。
 ふつうのひとなら別にいいけど、いやしくも表現者を自認する者が「愛国(心)」をテーマに作品を世に問うならば、最低でも古事記、日本書紀、万葉集、古今と新古今、源氏、ずっと飛ばして芭蕉、蕪村、さらにずっと飛ばして漱石、これくらいには目を通しておいてほしい。精読しろとはいわない。目を通すだけでいい。漢詩だの本居宣長だのまでやれとも言わない。だから、けして無理はいってないはずである。
 このことは、野田さんだけじゃなく、ゆずの北川悠仁さんにも当てはまる。
 まあ、こんなことをわーわー言うのはぼくくらいだろう。いずれにせよ、「右か左か左か右か」のせめぎ合いみたいなのからは、ちょっと距離を置かせて頂きたいのだ。ぼくがこよなく大切に思うのは(「愛」とはすこし違うようだ)、「日本」よりむしろ「日本語」なのかもしれない。
 あと、「表現の自由」の問題も出ている。ぼく自身は、「表現の自由」を何より重視するものである。このたび野田さんがツイッターで謝罪したのは、たぶん営業上の理由が大きいと思うが(この夏に韓国をふくむアジアツアーがある)、この曲そのものを廃盤にしたり、ライブでの演奏を自粛するなんてのは、もってのほかだと思う。
 それくらい強い禁足処置が必要なのは、特定の個人や集団などを、明確に名指しで傷つけたばあいだけだろう。この歌は、たしかに危ういものを孕んでいるかもしれないが、そこまでリアルに誰かを傷つけているわけじゃない。そのような表現までをも抑圧するのは、社会そのものにとってもよくない。そのほうがずっと危うい。
 はてさて。なんだか前回からアツくなってるが、やはり題材が題材だけに、気が高ぶってるんだと思う。
 今回書きたかったのは少し別の話である。冒頭でのべた『君の名は。』のことだ。
 このたびの件でぼくは、作詞家としての野田洋次郎にはなはだ失望した。
 念のためいうが、「ウヨク的だ」と思って失望したわけじゃない。歌詞の日本語が稚拙すぎたからだ。そしてもちろん、「表現(歌詞そのもの)」と「内容(歌詞のあらわす世界観。とりあえずここでは曲のことは度外視)」とは不可分一体のものだから、歌詞の脆弱さは、けっきょくのところ、野田さんの思想そのものの脆弱さにつながる。
 そこでぼくは気が滅入ったわけである。だって、冒頭でのべたとおりRADWIMPSは『君の名は。』に深くかかわってるのだ。野田さんの思想の脆弱さは、ぼくの大好きな『君の名は。』にも通底してるんじゃなかろうか……。
 たしかに、オトナの目で冷静に見返してみると、『君の名は。』はけっして完全無欠のおハナシではない。圧倒的な映像美と、卓越した編集技術をふくむ映像表現で覆い隠されてはいるけれど、ストーリーそのものをつぶさに見れば、弱いな、と思える点はある。
 これまでぼくは、あえてその点に目をつぶってきた。でも今回の件で、なんだかどうも、真剣に向き合っとかなきゃいけない気分になってきたのだ。
 そのための手掛かりがほしい。
 「右か左か」のイデオロギー論争とも、「表現の自由」の問題とも違う立場から、「HINOMARU」にアプローチした文章はないか。そう思ってネットを見ていたら、石黒隆之という方のエッセイを見つけた。
 肩書は「音楽評論家」である。前回のwikipedia引用の中にもお名前があった。椎名林檎の「NIPPON」について、
「日本に限定された歌がずっと流れることになるのも、相当にハイリスク」
「過剰で、TPOをわきまえていないフレーズ。日本以前にサッカーそのものを想起させる瞬間すらない」
 と批判した(とwikipediaに記されていた)方だ。
 なおぼくは、林檎嬢のファンってことを抜きにしても、このご意見にはまったく賛同できぬことを書き添えておく。
 その石黒さんが、「HINOMARU」についてこう書いておられる。

 さて政治的な興味から注目された「HINOMARU」ですが、野田氏の“幼い全能感”は他の曲からも見て取ることができます。「五月の蝿」(2013年、作詞・作曲 野田洋次郎)という曲が典型的ですね。上っ面だけ暴力的な言葉の羅列によって、とりあえずセカイと個人が対決しているような雰囲気を作る。そんな不可解な戦いの中で、どういうわけか重要な真理を知った気になってしまう。


 「五月の蝿」は、YOU TUBEに公式PVがアップされているけれど、「問題作」「怪作」と呼ばれ、スプラッタムービーを思わせる語句が並んでいるので、そういうのが苦手な方、食事前の方などはくれぐれも注意されたい。ぼくにいわせれば、まあ、ボードレールの末流であり、そりゃポップスの歌詞としてはショッキングだろうが文学的には別にどうってこともない。ただ、本を読まない若い子たちが「トラウマ級だ」だの「すげえやっぱ野田天才」だのと持てはやす気持はわかる。そんな歌である。
 「五月の蝿」論はさておき、ぼくが注目したのは「セカイと個人が対決している」のくだりだ。なるほど。セカイ系か。気づいてみれば何を今さらって感じだけれど、『君の名は。』=新海誠さんは、「セカイ系」というキーワード(キーコンセプト)によってRADWIMPS=野田洋次郎さんと繋がるのだ。
 「『君の名は。』の脆弱さと向き合わねば。」というぼく個人の今回の課題は、ここにきて、「『君の名は。』はセカイ系なのか?」という設問に置き換えられた。
 セカイ系とはなにか。
 東浩紀さんの定義が明快だ。
 セカイ系とは、『主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)とを中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと』である。
 なるほど。しかし「抽象的な」よりも、「おおげさな」のほうがより分かりやすいと思う。
 代表的なものとして、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人のラノベ『イリヤの空、UFOの夏』、そして新海さんの『ほしのこえ』が挙げられている。『ほしのこえ』は、2002年に公開された、新海監督の初の劇場用アニメだ。
 ぼくは観てないが、wikiによれば、「携帯電話のメールをモチーフに、宇宙に旅立った少女と地球に残った少年の遠距離恋愛を描く」ものであったとか。
 もともと新海さんは、「セカイ系」の代表と見なされるほどの人だったのだ。むろん、前に読んだ「ユリイカ」の特集号にもそのことは書かれてあった筈であり、これを失念していたのは、やはりぼくが『君の名は。』の脆弱さから目を背けたかったせいだろう。
 『「ぼく」と「きみ」とが、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といったおおげさな大問題に直結する作品』をセカイ系と呼ぶなら、そりゃあまあ、『君の名は。』はセカイ系に違いない。
 しかし、「具体的な中間項」とは何だろう。
 「個人」がいて、「世界の危機」があって、そのあいだに挟まる「具体的な中間項」といえば、ほとんどもう自衛隊クラスの、強大なパワーをもった国家的機構くらいしか考えられない。
 となると、『君の名は。』と同じ2016年に公開された『シン・ゴジラ』がすぐ思い浮かぶ。あの特撮ドラマの事実上の主人公は「日本の官僚機構」そのものだろう。矢口蘭堂(長谷川博己)はいわばそのシンボルにすぎない。
 とはいえ、いちおう名前を与えられ、人格を備えてるんだから、ひとりの「個人」には違いない。強引だけど、この蘭堂と、カヨコ・アン・パターソン(石原さとみ)とを「ぼく」と「きみ」だと見なすなら、『シン・ゴジラ』は、『「ぼく」と「きみ」とが、具体的な中間項をぎっしりと挟んで「世界の危機」「この世の終わり」といったおおげさな大問題と結びつく作品』であるから、「セカイ系」とは呼ばれないはずである。
 ネットで確認したところ、果たしてそのとおりだった。『シン・ゴジラ』は、あきらかに、「セカイ系」とは一線を画すものとして扱われている。さすがにあれだけの設定を整え、取材に基づいて綿密にシステムの内実を描き込んだら、「セカイ系」とは呼ばれないのである。
 だけどこれだと、ようするにシミュレーション・ノベル以外のものは、たやすく「セカイ系」っぽくなっちまうんじゃないか。
 伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』なんてどうだろう。ぼくは映画版をテレビで見て、このブログで分析もやったが、あれだって、人はいっぱい出てくるし、「国家的謀略」なんてのが絡まってもいるが、ありようは、「青柳」と「晴子」とのお話なのである(ふたりは結局、ひとことも言葉を交わさないけれど)。
 「世界の危機」とまではいかないけど、一組の男女のラブストーリーを描きたいがために、「国家的謀略」なんてのを持ち出すんだから、おおげさといえばおおげさだ。
 こう考えていくと、「セカイ系」というコンセプトは、思いのほか射程が広いかも知れない。
 いきなり話が大きくなるが、世界文学の古典中の古典、ダンテの『神曲』だって、ダンテがベアトリーチェという(べつに恋人でもない)女性にべらぼうな思い入れをして創り上げた作品である。
 「世界の危機」ではないにせよ、地獄、煉獄、天国を経巡るんだから、格調高き妄想炸裂ファンタジー、といえないこともない。
 あるいは、ゲーテの『ファウスト』はどうか。ラブストーリーの要素は薄いが、悪魔と契約し、グレートヒェンという美少女と熱烈な恋に落ちて(じきに捨ててしまうんだけどね。ひどい奴なのである)、異世界にまで及ぶ大冒険の果てに天国に迎えられるんだから、やはり相当おおげさである。
 マンガだと、『20世紀少年』などどうか。これも昔ぼくは当ブログで分析したが、小学校の同窓生だけで「じんるいのめつぼう」にまで至ってしまう世界。いちおう国会の様子も描かれてたし、ローマ法王なども出演されてらしたが、それだけをもって「具体的な中間項」と呼べるだろうか。
 現代小説でも、「日常べったりのリアリズム」から離れて、少しでもSFチック、ファンタジックな発想を導入したら、ほとんどもう、「セカイ系」っぽくなっちゃうんじゃないか。言い換えると、フィクションってものは、そもそも根っこに「セカイ系」たる資質を含んでるのではないか。
 そんなふうにも思えてくる。
 セカイ系とはじつは、文芸用語でいうならば、「ロマンティシズム(ロマン主義)」の一種だ。
 これもいろいろ定義はあるが、ドイツ・ロマン派の精髄は、「自己(自我)と世界との合一」である。そのばあい、やはり独りじゃ物悲しいし、話としても面白くないので、だいたい恋愛要素が絡む(失恋に終わるケースが多いが)。
 自己(自我)と世界とが、「具体的な中間項」なしに合一する。恋愛もからむ。
 もろセカイ系ではないか。
 『君の名は。』は、『シン・ゴジラ』と比べるまでもなく、べっちゃべちゃのロマンティシズムの作品だ。もともと新海さん自身がそういう作家で、だから『君の名は。』がセカイ系に属することは間違いなくて、それだけを指摘しても、さほどたいしたことはなさそうだ。
 『君の名は。』がセカイ系に属するのは前提として、このアニメが、セカイ系を超え出ている要素はないか。そう考えてみたい。
 『君の名は。』は、「世界の危機」を扱ってはいない。「ニッポンの危機」「東京(首都)の危機」を扱ってるわけでもなくて、ここで危機に晒されるのは、「糸守」という地方の(架空の)小さな町である。
 もういちど、初めの定義に戻ってみる。
 セカイ系とは、主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)とを中心とする小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといったおおげさな問題に直結する作品である。
 『君の名は。』とは、ヒロイン(三葉)と青年(瀧)とを中心とする(超自然的ではあるが)小さな関係性が、具体的な中間項を挟むことなく、「糸守の危機」「糸守の終わり」という大きな問題に結びつく作品だった。
 微妙だが、決定的な差異がある。「糸守」は、「世界」に比べてはるかに小さい。三葉にはたぶん、住民ひとりひとりの顔が(濃淡の差はあれ)ぜんぶ判っているはずだ。そのことはもちろん、瀧もよく知っている。
 だから、三葉のからだに入った瀧は、半信半疑のテッシー&さやちんと組んで、糸守町ぜんたいを救おうと(文字どおり)奔走した。
 町長(父)がまったく取り合ってくれず、必死の叫びも住民に届かず、ついに彗星が頭上で割れ始めたとき、すでに自分のからだに戻っていた三葉は、自分ひとりで、あるいは、せめて祖母と妹を連れて、逃げ出すこともできたはずである。
 しかし、彼女はそうはしなかった。それどころか、そんな発想に思い至る様子すらなかった。やっぱりそれは、彼女が糸守の町そのものと、その住民や、風景や歴史と深く「結ばれて」いたせいだ。
 三葉と瀧は、けして自分たちだけで完結して、そのまま世界と合一しちゃったわけではない。周りの人たちとの「結び」をちゃんと保っていた。
 この一点において、『君の名は。』は、ありきたりの「セカイ系」に留まらず、3・11以降の「リアル」に向かって手を差し伸べているといえないだろうか。
 とりあえず今回ぼくは、そのような結論に達した。当面のあいだは、『君の名は。』を好きなままでいられそうである。



『君の名は。 Another Side Earthbound』 なぜ町長はとつぜん態度を翻し、町民の避難を敢行したか(再掲)

2018-01-05 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
初出 2016-10-15


 映画「君の名は。」にはふたつの「原作」がある。監督である新海誠さん自身の手になる『小説 君の名は。』と、加納新太さんによるスピンオフ(番外編)『君の名は。 Another Side Earthbound』だ。
 Another Sideはわかるが、Earthboundとは聞きなれない。これについては、
①(根などが)地に固着している。②(動物・鳥などが)地表から離れられない。③世俗にとらわれた、現世的な、想像力のない、散文的な。
 そして、
 (宇宙船などが)地球に向かっている。
 と、四つの語義がちゃんと目次のうしろに書かれている。ラストまで読めば、すべての意味が腑に落ちる仕掛けになっている。
 『小説 君の名は。』は角川文庫から出ている。『Earthbound』は、カドカワはカドカワでも「スニーカー文庫」のほうだ。ライトノベルなのである。
 映画「君の名は。」にイカレちゃった私は、監督による原作本につづき、ついにこちらにまで手を出した。おお。人生初のラノベ体験。それにしてもなんだこの表紙は。映画のことがなかったら、とても買えたものではない。





 さすがライトノベル。30分で読めた。でも、満足した。そして了解できた。映画を見ながら抱いた重要な疑問点に関してだ。あまつさえ、最後の1行でちょっぴりナミダまで滲んでしまった。
 もちろんそれは、映画の力があってこその話で、そもそも映画を観ずにこれだけ読んでも何のことだかわからぬわけで、つまりこれは紛れもない「補完本」なのだけれども、逆にいうと、これを読んで初めて映画「君の名は。」は完結するといえるかもしれない。
 もともとぼくは、「補完本」の類いには否定的だった。だいたい作品なんてのは、それ自体で完結してるのが当たり前じゃないか。観客が「キツネにつままれた」みたいな気持ちで劇場をあとにするならば、それは失敗作ってことである。
 「裏設定」を後になってから持ち出してきて、「いやじつはあそこんとこはこういうことになってたんすよ。まあちょっとわかりにくかったですかねえ。でもこれを読んでもらえたらご納得いただけると思いますんで。どうかひとつ。ええ」なんていうのは本来ならばルール違反だろう。どう見ても、それってただの言い訳じゃないか。
 もっと始末がわるいのは、作り手の側の練り込み不足ゆえ、プロット自体にあきらかな破綻や矛盾や欠落があるにも関わらず、それを承知で、というよりむしろ半ば売り物にして、当の作品を世に問うケース。
 初めからピースが足らなかったり、間違ったピースが紛れ込んでるジグソーパズルを売りつけるようなもんである。
 そうすることで、まじめなファンたちがわいわい騒いで「謎解き」や「考察」をくりひろげてくれる。「謎本」だの「解釈本」だのが相次いで出て、ブームがいっそう加熱する。
 はっきりいうが、ぼくは「エヴァンゲリヲン」にはそういう傾向が無きにしも非ずだと思っている。もう完結しているが、浦沢直樹の『20世紀少年』にも似たものを感じた。「もののけ姫」いこうの宮崎駿作品にも、また、あえていうなら村上春樹のいくつかの近作にも。
 むろんこれは私見であるから、「いや俺は私はそんな謎めいた作品こそが好きなのだ。」という方もおられるだろうし、「いやそもそも俺は私はそれらの作品に謎なんてまるで感じない。すべてが完璧に理解できる。」という方だっておられるかもしれない。そこはもう見解の相違というよりないが、とりあえずぼく個人は、庵野秀明さんや浦沢さんや宮崎さんや村上さんの作風につねづね不満を感じてきた、ということだ。
 しかし映画「君の名は。」と、それを補完する『Another Side Earthbound』に対しては、ぜんぜん不満を感じないのである。よくぞ書いて下された、と申し上げたいのである。
 ことに第四話「あなたが結んだもの」に対しては。
 この「裏設定」はよくできている。そして、映画本編には入れにくかったってこともよくわかる。尺の問題だけでなく、強烈すぎて、観客の注意がこちらに取られかねないからだ。
 『Another Side』は、2016年10月現在、ベストセラーにランク入りしているらしい。そうだろうなあ。「君の名は。」が観客を集める限り、この本も売れ続けるだろう。そして、くどいようだが、いちばんの目玉は第四話である。
 そう。この小説は四つの章から成っている。一話ずつ、中心(視点)となるキャラクターがかわる。ただし一人称ではなく、どれもいちおう三人称だが。
 第一話が「三葉に入っている時の瀧」目線。
 映画本編では、「瀧に入っている時の三葉」のようすはいろいろと描かれたけれど、その逆のほうは少なかった。「ご神体」に口嚙み酒を奉納にいくときのような重要な挿話を除いて、日常生活での「三葉に入っている時の瀧」はさほど描かれない。「入れ替わり初日」のもようさえ、朝めざめた時のあと、編集によって見事にすっ飛ばされていたくらいだ。
 第一話はそこを補完する。なにしろ「同世代の女子の体に意識が入ってしまった思春期の男子」である。これぞライトノベルの真骨頂だろう。いやぼくはラノベのことはよくは知らんが。
 けして嫌らしくはなりすぎず、しかし適度なお色気も漂わせつつ話は進む。くすっと笑わされたのは、「入れ替わり」について説明するさい、「大林宣彦の『転校生』とか、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』とか、ああいうのを思い浮かべてくれたらいい」などと書かれているところだ。いやあ。豪快なものだなあ。純文学はおろか、ふつうの娯楽小説でも、ちょっとこんな真似はできない。
 それにしても、三人称でありながら、どこか一人称も混じったフシギな文体である。カルチャースクールの「創作講座」みたいな所だったら、いっぱい朱を入れられそうな気がする。しかしもちろん、加納新太さんはそれを承知でやってるわけで、つまりはこれがライトノベルの文体なんだろう。よくしたもので、頁をくるたびに少しずつ馴染んで、だんだん気にならなくなってくる。
 「瀧in三葉」は、未知の暮らしに戸惑いながらも、都会とはまるで違った豊かな自然に胸をふるわせ、祖母の語る古来の伝統に心を打たれ、テッシーやサヤちんをはじめとする周囲の人たちとの交友をいとなむ。そんななかで、「年頃の娘」らしい慎みある振る舞いを忘れてちょっとした騒動を起こしたり、瀧ほんらいの喧嘩っ早さでかえって三葉の株を上げたりもするのだが、やがてそのうち、彼女のことを誰よりもふかく、たぶん妹の四葉や父の俊樹、さらに祖母の一葉よりもずっとふかく、理解していくのである。意識の表面では、まだそのことを自覚してはいないけれど。
 映画ではもっぱらコミカルに処理されていた「入れ替わり」だけど、よく考えるならば、ある意味これはセックスよりもはるかに濃密な「結び」であろう。三葉のからだのなかに入った瀧のこころを細かく描いていくことで、ふたりの「結び」の強さをあらためて読者に得心させる章である。
 ネットを見ていて驚くのは、「なんでふたりが相思相愛になったのかわからない。」と書いてる若い人が多いことだ。いや、だって……それはさあ……映画の流れをふつうに追ってりゃしぜんに分かると思うけどなあ……。ちょっと「いまどきの若者」たちの感性に不安を覚えさせられるけど、そんな若い人たちでも、この章を読めばさすがに納得できるはずである。
 第二話は、テッシー目線。この愛すべき好漢が、なぜ「あの晩」に瀧(からだは三葉)の荒唐無稽な予告を信じて変電所にダイナマイトまで仕掛けたか、その辺りの機微がわかるようになっている。テッシーの中には地元および自身の境遇に対する屈折した思いが渦巻いており、この章はちょっとした青春小説のおもむきだ。三葉のからだを借りた瀧とテッシーとの(男同士の)友情がアツい。
 第三話は、四葉目線。だからとうぜんいちばん可愛い章である。週にほぼ二、三度のわりで明らかに様子がおかしくなる姉に面食らったり迷惑がったり、しかしそれでもやっぱり心配で、あれこれと子供らしい理由を忖度する。おさない言動のうちに姉への愛情がほの見える。そして或る日、ふと興味を覚えて自分のつくった「口噛み酒」を口にして、彼女もまた超常的な体験をする。宮水の家に伝わる「霊媒」としての能力を強調するとともに、「意識の上では忘れても、からだの奥に(あるいは魂に?)記憶は刻まれる」という作品のテーマを印象づける章だ。
 そして第四話である。
 これまでの章は、「補完」というよりむしろ「補強」に近い感じであった。読めば映画がもっと面白くはなるが、どうしても読まねばならない、というほどでもない。
 しかしこの章は違う。正真正銘の「補完」であり、これで作品が初めて完結するといっていいほどのものだ。いわば映画本編が積み残したもっとも大きなピースが、このエピソードによってぴたりと嵌まるのである。
 ここにきて、文体も「襟を正す」かのように引き締まり、重みを帯びて、「ふつうの小説」に近くなる。
 主人公は三葉(および四葉)の父、宮水俊樹。宮水は入り婿になってからの名乗りで、旧姓は「溝口」。これもこの小説によって初めて知らされることだ。
 溝口といえば日本映画史の誇る名匠・溝口健二や、三島由紀夫『金閣寺』の主人公などが連想されるところだが、きりがないのでその手の考察は略。
 この章の眼目は、「なぜあれほど冷淡だった俊樹(三葉の父にして、現・糸守町町長)が、いきなり三葉の説得に応じて、町民を強制避難させたのか?」という点に尽きる。
 あの彗星落下の夜、瀧の意識がからだから離れ、自分じしんのからだに意識が戻った三葉は、瀧の記憶を急速に薄れさせつつも、それでも何かに励まされ、町民の避難を要請すべく、父である町長のもとへ駆けていく。
 途中、真っ暗な山道を転げ落ち、泥まみれ、傷だらけになる。気力が萎えかかって涙をこぼすが、しかしそこで、手のひらに書かれた「すきだ」の文字に気がつき、それに勇気づけられて、ふたたび走り出す。
 クライマックスシーンのひとつといっていいだろう。しかし映画では、町長室に駆け込んできた三葉をひとめ見た俊樹が「三葉……おまえ……」と呟くように言って絶句するところで、すぐに場面が変わってしまう。
 町長が強権発動して、町民をきゅうきょ避難させ、全員が災禍を逃れたことは、観客には、事後のニュース記事のかたちで知らされるのみ。一切の細かい経緯は描かれないのだ。
 原作ではどうなってるんだろう、と思って新海さん自身の手になる小説を読むと、もっとびっくり。三葉が「すきだ」に励まされ、ふたたび走り出す場面で場面が終わっちまってる。町長室に駆け込むところすらないのである。
 つまりこのくだりは、原作の時点で新海さんが盛り切れなかった点を加納さんが補い、それが映画本編に採用されたわけである。加納さんはただの番外編担当ライターじゃなく、脚本スタッフの一人だったってことだ。冒頭でぼくがこの小説を「原作」のひとつといったのはそれゆえだ。
 さて。
「なぜ町長は、とつぜん態度をひるがえし、ほんの数時間前までは相手にもしなかった娘の『妄言』を受け容れて、町民の強制避難を敢行したか。」
 これにつき、ぼくは以前このような解釈を述べた。



 それは、「時空を超えた瀧(たき)の声によって励まされた三葉が、揺るぎない意志をもって、父を説き伏せた」からだ。
 父である町長の側からいえば、「傷だらけになってもまるで動じることなく、信念に満ちて語る娘のことばを信じたから」ということになる。
 意識が互いのからだに戻るまえ、三葉のからだで、住民避難のために(テッシーと共に)奔走していた「瀧」は、いちど町長の説得に失敗し、「俺じゃだめだ……三葉でなきゃだめなんだ」という意味のことをつぶやく。
 ひとびとを救うのは、あくまでも、三葉でなければならない。瀧は、その手助けをするだけである。だから三葉が、自分のことばで、実の父親を説得したのである。



 まるっきり的外れだとは思わない。じっさい、映画本編だけを観るかぎり、これがもっともしぜんな解釈だろう。しかし、第四章を読み終えると、真相ははるかに深いところにあったとわかる。
 ひとつ気になってたのは、タイムリミットからいって(三葉が必死に走っているとき、もう彗星は割れ始めていた)、説得に費やす時間はほとんど残ってなかったろうという点だった。駆け込んできた娘を見て、俊樹が瞬時にすべてを信用してしまうくらいの勢いでなきゃ、全員の避難は間に合わなかったはずなのだ。
 はたして、そうだったのだ。駆け込んできて、自分の目の前に立った三葉を見た刹那、すぐに俊樹はすべてを信じた。いや、「悟った」という言い方のほうが正確か。たんに三葉のことばを信じたというだけではない。
 「なぜ自分が、町長というこの立場で、今ここにいるのか。」そのことの意味を悟ったのだ。すべてはこの日、この時のために準備されていたのだと。
 むずかしくいえば、これは「決定論」というやつである。哲学者のみならず、量子論いこうの現代では、物理学者もこの問題にかかわっている。とうぜんハードSFなんかでも、このテーマはよく取り上げられる。
 「君の名は。」はファンタジーであってSFではないが、新海さん自身はハードSFに造詣がふかい。
 この作品の主題である「結び」とは、ひととひと、あるいは、ひとと世界、ひとと森羅万象との関係性の謂(いい)でもあるが、もうひとつ、「決定論」のことでもある。ひらたくいえば「運命」のことだ。
 「運命」に対するものは「自由意志」だ。「自由意志」は、モダンであり、合理的であり、都会的である。いっぽう、「運命」は、前近代的な概念である。いまどきのテレビドラマなんかでこれをやっても、噓くさくなってアウトだろう。
 ただし、それだけにロマンティックな概念ではある。そこに「愛」がかさなるならば、「運命」はよりいっそうロマンティックな響きを帯びる。「前世からの縁(えにし)」だって、もちろん「運命」である。
 俊樹のこころをうごかしたのは、目の前にふたたび現れた娘の三葉というよりも、彼女のなかにまざまざと浮かんだ、亡き妻・二葉のおもかげだった。
 映画本編では回想シーンでちらりと映るだけだった二葉が、俊樹ともども、この第四章の主人公といっていい。そもそも話は、新進気鋭の民俗学者だった俊樹が、研究のためにこの土地を訪れ、宮水神社に立ち寄って若き日の二葉と出会うところからはじまる。
 聡明で、民俗学にも造詣が深く、良き語り手であり良き聴き手でもある二葉。すぐに意気投合し、土地の伝承をめぐって会話はどこまでも深まっていく。かつてこの地に彗星が落ち、そのことが独自の神話や工芸(組み紐)に強い影響を及ぼしているという考察……。
 みるみるうちに縮まる距離。やがて二人は結婚のことを口にする。因習にとらわれた町。いっぽうの俊樹じしんの立場。二葉の母(一葉)や周囲との軋轢。しかし、二葉への俊樹の愛は万難を乗り越えるに足るものだった。実家からは勘当され、学者への前途を絶っての入り婿。きびしい修行ののちに始まった、神主としての日々。
 どこか馴染めぬものを残しながらも、ふたりの娘にも恵まれ、それなりに穏やかな生活だった。何よりも、最愛の妻がいつも傍にいるのだから――。しかしそれは、彼女のとつぜんの病と、急逝によって一挙に吹き飛ぶ。そう。「これがお別れではないから。」という言葉を残して、二葉がこの世を去ってしまうのだ。
 立ち上がれぬほどの悲嘆のなかで、「もし娘たちの命と引き換えに、二葉を生き返らせてくれるというなら、自分はそれを選ぶかもしれない」とまで、俊樹は思いつめる。
 二葉の死後、一葉との確執はますます深まり、ついに俊樹は宮水家を出る。ふたりの娘は自分に付いてこなかった(彼の三葉に対する屈折した態度の所以がここからわかる)。ふつうなら土地を離れてもおかしくはないところだが、彼はそのまま留まるどころか、「政治家」として町の頂点に立たんとする道を選んだ。
 一見すると強引なようだが、このあたりの心理のうごきも、その野心を可能ならしめた手法も、無理なくきちんと描かれている。そして彼は、二年ののち、首尾よく当選し、町長の椅子に座る。
 そして相応の実績を積み、次期の再選もほぼ確実だろうという時期、あの彗星落下の夜がきて、町長室で彼は(目の前に立った三葉を介して)、最愛の妻と「再会」する。
 三葉と瀧との時空を超えたラブロマンスの背後には、このような、もうひとつのラブロマンスがあったのだ。それは三葉と瀧ほど超自然的ではないけれど、やはり一対の男女の「魂」が、時空を超え、生死を超えて、もういちど「結ばれた」としかいいようがない。
 そうして彼は悟るのだ。「なぜ自分が、町長というこの立場で、今ここにいるのか。」すべてはこの日、この時のために準備されていたのだ、と。そして脳裏に、二葉のことばがよみがえる。「これがお別れではないから。」
 かくてあらゆる事象が結びつき、全部のピースがぴたりと嵌まる。「君の名は。」とは、日本古来の伝統美の力を総動員して、この殺伐たる21世紀の世に、臆面もないロマンスを繰り広げてみせる作品だったと、改めてぼくたちは思い知るのである。