ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

田中邦衛と田村正和の思い出。

2021-05-27 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 田中邦衛といえば『北の国から』で、田村正和といえば『警部補・古畑任三郎』。映画の「寅さん」には及ばないかもしれないが、この2作はほとんど「国民的ドラマ」だから、この名優ふたりの訃報を続けざまに聞くのは辛いものがありました。ぼくもこのご両所が好きってことにかけては人後に落ちないんで、寂寥感をおぼえましたね……。
 邦衛さんは青大将いらいの名脇役だから、主演らしい主演は『北の国から』が初めてでしょう。はじめは高倉健、藤竜也、西田敏行、中村雅俊、緒形拳といった方々が候補にリストアップされてたらしいけど、今から思えば五郎の役は邦衛さん以外考えられない。生真面目で、純朴で、不器用で、そのくせ芯が強くて、人間味に溢れててね。
 1981(昭和56)年にあのドラマが始まったとき、以前にNHKでやってた海外ドラマ『大草原の小さな家』を思い浮かべたんだけど、これは時代も状況もまるで違うんで、あちらは生活のための止むに止まれぬ移住であったのに対し、黒板家のばあいはひとえに五郎の信念に基づくものですからね。生半可な意志の持ち主ではない。
 五郎がいしだあゆみの不倫を許せなかったのは、夫として、男としての自分のプライドを傷つけられたせいっていうより、それが何よりも家族を蔑ろにする行為だったからでしょう。あのひとの性格からすれば、そういうことだと思う。この齢になるとそのあたりがよくわかるな。
 ただ、ぼくはあのドラマの本編はリアルタイムで観たし、理論社から「倉本聰コレクション」の一冊として出た原作シナリオも読んだけれども、純と蛍のその後を描いた後年の単発スペシャルのシリーズはあまり観てないんですよ。だから『北の国から』の全体像については語る資格がないんだな。
 語る資格がないままに、イメージだけでいいますが、「純の人生ってものはほんとにあれでよかったのかなあ……」ってことは、いまだにときどき考えますね。つまり、端的にいえば、「東京から富良野に越して、純は果たして幸せだったのか?」ってことですね。そりゃ、人間としてぐーんと成長したのは間違いない。それはたしかにそうなんだけど、やはり自分の立場としては、吉岡秀隆演じるあの純くんにいちばん感情移入しちゃうんで、「おれがもし純だったら……」ってことは常に考えちゃいますね。もちろん父親のことは好きなんだけども、生涯にわたって、ただシンプルに感謝の念だけを抱き続けてられるかなあと。人生の難所に差し掛かったとき、「あのまま東京で暮らしてたらなあ」ってことを寸秒たりとも想像しないかっていうと、それは自信ないんでね……。
 これはあの作品の根幹にかかわることなんで、つまりは作者たる倉本聰さんの人生観とか、社会観とか、文明観とか、親子観とか、人間観にかかわる話なんで、ここではこれ以上踏み込むだけの準備はないんですけども。
 ともあれ、『北の国から』が戦後日本を代表するテレビドラマのひとつだってことは確かだし、主演が田中邦衛でなきゃあれほどの名作にならなかったことも確かでしょう。







 邦衛さんは何しろキャラが濃いから、ぼくなんかも子供のころにしぜんと顔と名前を覚えちゃって、はじめてお顔を拝見したのがいつだったのか定かではないんだけれども、正和さんのほうはよく覚えてます。『運命峠』っていう、柴田錬三郎の時代小説……っていうか、まあ伝奇小説だな、それを原作にした時代劇でした。
 いま調べたら、1974年(昭和49年)だって。かなり古いね。
 父親がつけてたテレビを横でちらっと見ただけなんだけど、子供の目にも水際立った美青年で、「これ誰?」てなことを尋ねて、そこで名前を覚えたんだった。
 ただ、子供心にも「せりふ回しが独特だなあ。」というようなことを感じた記憶がありますね。だんだんと年輪を加えていって、「古畑」の頃には、あれが絶妙の「味」になってたわけですが。
 せりふ回し云々でいえば、もちろん田中邦衛もそうで、ふたりともよく物まねされた。それはたんに特徴があるってだけではなくて、幅広く愛されてた証でもあって。
 邦衛さんが軽薄な三枚目役から年輪を加えてシリアスな深みや屈折を体得していったのと対照的に、正和さんのほうは、取り澄ました気障な二枚目が生来の気品とスタイリッシュさはそのままに、軽妙かつ洒脱なコミカルさを身に付けていった……というようなことを思ったりもします。その集大成が古畑任三郎ですね。
 ぼくが好きだったのは……これはちょうど『北の国から』と同じころなんだけど……『夏に恋する女たち』というTBSのドラマだなあ。大貫妙子の同タイトルの主題曲が印象的な、もう「アーバンでオシャレな大人のドラマ」としか言いようのない作品ですが……なんだか今日はやたらとカタカナが多いな……これには原田芳雄が出ていてね、当時ぼくは、原田芳雄の大ファンだったんで、原田芳雄と田村正和が共演するってんで、どうしたってこれは観ますよね。ちなみに正和さんの役柄は売れっ子カメラマン、芳雄さんのほうは盛りを過ぎたナルシストのホストという……。
 あれは田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』などと並んで、80年代バブルの先駆となった作品のひとつだと思ってます。「おれもオトナになったらこんな生活を送れるのかな……」なんてことを思ってたけども、もちろん、20歳を過ぎたらそんな夢想は跡形もなく砕け散ったし、そもそも高校生にもなってそんなこと思ってる時点でどうしようもなくアホだったわけですが。
 それはともかく、それこそバブル期には「トレンディードラマ」と呼ばれるその手のテレビドラマが量産されたわけだけど、『夏に恋する女たち』に比べると、それらはいかにも子供っぽい気がした。あの差はなんだったんだろうな……。演じてる人たちの年齢はさして変わらぬはずなんだけどね。脚本や演出や美術など、スタッフの力量に依るところも大きいんだろうけど、結局はやはり役者の風格ってやつか……。
 田村正和×原田芳雄ということでは、『大胆素敵 いつもあなたに恋してる』ってのもあったんですよ。続編ではないんだけども、同工異曲というか、いまどきの言い方でいえば「世界観を共有している」ドラマでした。やはりTBSで、同じく22時台の時間帯でね。
 番組が始まるさいのタイトルバックで、主要なキャストが声を揃えて題を読み上げるんだけど、『夏に恋する女たち』のほうでは芳雄さんが「……男たち」と言い間違えて「女たち」と言い直すんですよ。でもって、『大胆素敵』のほうだと、「いつも私に恋してる」と言ってから「あなたに恋してる」と言い直すんだよね。あの声でね。
 いっぽう、正和さんは委細構わず例の口調でぼそぼそと読み上げる。その対比がまた面白かった。むろん本編においてもそんな遊び心は横溢していて、お二人の絡みはさながらライトコメディーの趣だったね。ただ、「夏に恋する」は全9話だったのに対し、「大胆素敵」は3話だけだったんで、前者ほどには覚えてる人が少ないようですが。

 『古畑任三郎』は、ぼくは刑事コロンボのファンでもあるんでほとんどぜんぶ観ましたけども(単発のスペシャルで何本か見逃したものあり)、主人公の魅力ってことだけでいえばぼくのなかではピーター・フォークと田村正和とは甲乙つけがたい。追悼特集ということで、松嶋菜々子の回とイチローの回とをTVerでやってて、それ観てて改めて思ったんだけど、田村正和くらい、どんなアングル、どんなライティングで撮っても隙のない俳優ってのは世界レベルで見てもそうはいないね。つくづく絵になる役者さんだな。
 ただ、コロンボは毎回のように脚本も監督も変わるんで、いろいろな趣向が見られたけれど、古畑のほうは脚本の三上幸喜氏をはじめメインスタッフがおおむね不動だったから、やや単調なきらいはありました。それに、三谷さんは当初そんなにミステリーに詳しくなかったようで、とりわけ初期には、トリックやら証拠やら、ちょっとアヤしい回もありましたね。ま、本家にもそういうのはちょくちょくあったから……。
(ちなみに私がいちばん好きなのは、明石家さんまが弁護士役で客演をした回ですが。)
 ともあれ、あの作品もまた、主演が田村正和でなければありえなかったのは間違いないですね。これでまたひとつ「平成」や「昭和」が遠くなりました。ご冥福をお祈りいたします。


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雑談・応仁の乱05 一休さんのこと。および、引き続き「文化」について。

2021-05-14 | 歴史・文化
 この「応仁の乱」シリーズは、私の中にしっかりとした定見があって、それを少しずつ披歴しているわけではないんですよね。書きながら考えてる、書くことで練っていってるところがあって、それでこんなに時間がかかる。「雑談」と銘打っている所以ですが……。せめて週イチくらいで更新したいと思ってるんだけど、そんなぐあいで遅々として進まない。他にやることが色々あるとか、そもそも根が怠け者だとか、そういった理由もありますが。
 だいたい室町時代って馴染みが薄いでしょ? 大河ドラマで滅多に取り上げないのは前にも述べたとおりだし、サブカルのほうでもね……。ぼくがこの時代に関心をもつきっかけとなった『どろろ』以外だと、子どもの頃にテレビでやってたアニメの『一休さん』くらいじゃないかなあ。あれは足掛け8年ばかし続いたけども、ぼくはあいにくソロバン塾に通っててあまり観られなかった。それでも好きなアニメだったんで、走って帰ってよく途中から観てた記憶があるね(若い人のために念を押しとくと、まだ家庭用のビデオはぜんぜん普及してません)。
 いま思えばあそこに出てきた「将軍様」って3代義満だったんだよね。どうりで金ピカの衣装を着ていたわけだ(笑)。当時はこっちもまるきり子どもだったんで、そんなこともよくわかってなくて、ただ、「なんか普通の時代劇とは違うなあ。」と感じてはいた。実在の一休宗純和尚は1394(明徳5)年の生まれで、アニメの一休さんは8歳くらいの設定だっていうから、史実に従えばあれはちょうど西暦1400年ごろのお話ってことになる。江戸開府に先立つこと実に2世紀ですね。そして舞台は江戸ではなくて(まだ太田道灌が江戸城を築く前だから、当時の江戸はそんなには開けていない)、京の都であったわけだ。
 それでも、幕府御用達の豪商である桔梗屋さんをはじめ、あそこに出てくる町衆たちはじゅうぶんに文化的な暮らしを営んでましたね。とはいえ初期の頃には戦災孤児とか、「いくさによって家を焼かれて行き場を失った人たち」なども描かれており、社会的な階層ってものにもきちんと目配りがなされていた。一休さんが社会の矛盾を憂いて、錫杖の先に髑髏(しゃれこうべ)を掲げ、正月に浮かれる町なかを「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と唱えながら練り歩いてみんなから石を投げつけられるショッキングな回もあったりね。
 しかし戦火はさすがに京の市内までは及ばなかったわけで……。ほぼ70年後の応仁の乱のさい、桔梗屋さん(店がちゃんと存続してればの話だけど)やほかの町衆たちはどんなことになって、どんな生活を送ったのか、かなり気になるところですが。
 最新の研究によれば、「京都一面が焼け野原になった。」「焦土と化した。」という表現は大げさで、たしかに無傷では済まなかったにせよ、わりと被害の薄い地域も多かったっていうんで、意外と無事だったのかもしれないね。もしくは、仮に屋敷や蔵が焼けても、従来からのコネクションや蓄財をつかって早々と復興したのかもしれない。スクラップ・アンド・ビルドってやつで。
 前回の話に絡めていうと、たしかに不安定要素は山ほど抱えていたけれど、15世紀ともなると社会の「システム」はもはや相当に強靭なものになっていたってことでしょうか。ちょっとやそっとじゃ揺るがない。慢性疾患みたいな中~小規模の戦闘が10年にわたってだらだらと続いてるのに、ひとびとはそのことすらも織り込みながら、逞しく、したたかに日々を送ってたってことなんですかね。そういう理解でいいのかなあ。
 歴史観ってものは人それぞれに違うんで、それこそ各々の「世界観」が如実に反映されるんだけど、わたしは元来たいへんにペシミスティック(悲観的)な性格なもんで、ついつい暗いほうへ、暗いほうへと物事を見てしまうけれども、当時のわれわれのご先祖ってものは、もちろん今よりはずっと大変だったと思うけれども、大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして、けっこう楽しくやっていたのかもしれないんだよね。ぼくなんかが想像してる以上にね。
 「大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして精いっぱい楽しくやっていく」。ああ、これはまさしく「文化」ですよね。そうなんだ。それは文化の果たす大切な役割のひとつでもある。
 文化で思い出したけど、前々回ぼくは、8代将軍義政のことを、「桃源郷としての文化に逃避した。」みたいに書いたけれども、あれはいかにも「近代的」すぎる解釈であったなと今は考えています。たしかに「民の暮らしを一切顧みない」という点においては逃避には違いないけども、それは義政という個人が己の趣味の中に引きこもって沈殿していたということではない。
 当時の上流階級にとって、「文化」というのは何よりもまず「社交」なんですよ。以前に書いた連歌はもとより、室町期に成立・発達した他の芸事、お茶も生け花もみんなそう。能だってそうですね。すべてが社交の具なわけだ。けっして個人が単独でやるもんじゃない。「文化」が純粋に個人のものになっていくのは近代いこうの話です。とくに文学、もっというなら小説ですね。そう考えるなら近代小説ってものは文化史においては「異常」なメディアなんだよね。もともと文化ってのは社交の具として豊かになってくものなんだ。
 そして、将軍とはいえあそこまで公家化しちゃった義政みたいな政治家にとっては、「社交」はほとんどそのまま「政治」でもある。幕府を支える有力大名やら重臣たちと入れ代わり立ち代わり毎日のように顔を合わせて、閑談から高級な遊戯まで、くだけた宴会から堅苦しい評定まで、べちゃべちゃと、ねちねちと、均衡を保ちながら世を治めていく(ろくに治まってないんだけどね)のが義政流の「政治」であった。今はそんなイメージをもってます。
 例の御所とか庭園にしても然りで、自分ひとりがそこに籠って書を読み耽ったり夢想したりしたいからそういうものを設えたわけではなくて、人をそこに招いて色んなことをするために、いわばサロンの会場にするために、贅を尽くしてそういうものを造ったわけね。そこのところはしっかり抑えておくべきですね。
 それが領民や町衆からの税収によって賄われたことを思えばもちろん腹は立ちますがね……。ただ、そうやって練磨されたもろもろの技芸が庶民のあいだに行きわたることでさらなる活力を与えられ、幅広く浸透していって、今へとつながる日本文化の厚みを形づくったことは認めざるをえませんね。


補足
 言い忘れましたが、3代義満は晩年に出家して息子の義持に将軍職を譲った(ほぼ一休さんが生まれた年のことですが)から、本来ならば僧形で描かれなければならないし、そもそももう「将軍様」ではないわけです。でも、そんなこと言ったら小僧の一休さんと(いかに後小松天皇の落胤であったとしても)あんなに親しく交わることもありえないわけで、つまりは対象年齢層に向けてわかりやすく仕立てた設定だってことですね。やはりネームバリューのある義満のほうが面白いし、話もつくりやすいもんね。なお、「蜷川新右衛門」にも実在のモデルがいますが、これは一休が禅僧として名を成してから師事したひとで、もっと後年、いま話題にしている8代義政に仕えた役人であったということです。アニメ『一休さん』はこれらのさまざまな史実をうまく脚色しながら各回のエピソードを組み立てていたわけですね。