ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

24.07.13 「ネトウヨ」と「ネオリベ」

2024-07-13 | 政治/社会/経済/軍事
 2024(令和6)年7月13日朝、ふと思いたって「ネトウヨ ネオリベ」でgoogle検索を試みたら、知恵袋のQ&Aが上位にきた。
 日付は2021年となっているから、それほど昔ではない。
 以下、その質問を引用いたす所存なのだけれど、すこし文意が取りづらいところがあったので、ぼくなりに一部を編集させていただいた。関係者各位はあしからずご了承ください。




「ネトウヨは何故リバタリアンや新自由主義を志向する傾向があるのですか?


・国家を信用しない。
・自分の利益さえ確保できれば国がどうなろうが知ったことではない(自分の都合が悪くなったら海外に移住すれば良い)。
・これらの理由から、そもそも社会を改良するという発想をもたず、貧困や不平等などはあくまでもミクロ(経済学的)な問題として、すべて自己責任に帰する。


 といったところがリバタリアンや新自由主義者の特徴だと思うのですが、
 国粋主義な傾向をもち、「国家」という枠組を何よりも重んじるはずの自民支持者のネトウヨが、
 リバタリアンや新自由主義の思想と親和性がきわめて高いのは何故でしょうか?」




 これはシンプルなようで核心を突く問いかけである。ぼくも前から疑問に思っていた(だからこそ検索をかけたわけだが)。しかし残念ながら、ここに附された回答のほうは、ぼく個人としてはあまり納得のいくものではなかった。
 仕方がないので、どうにか自分なりに考えてみようと思った次第だが、ただ、そのまえにふたつ問題がある。
 ひとつは、「ネトウヨ」という概念が(これだけ一般に行きわたっていながら)、いまひとつ社会学的/政治学的にあいまいだということ。
 かくいうぼくにも、正直よくわかっていない。
 この質問のなかでは「自民支持者のネトウヨ」という使い方がなされている。
 これは「自民党支持者のなかのネトウヨ」ではなく、
 ずばり、「自民党支持者」≒「ネトウヨ」との含意であろう。
 たしかに、
「立憲民主党を支持するネトウヨ」
 という層はいる/ありうるのか?
 あるいは、
「自民党を支持しないネトウヨ」
 という層はいる/ありうるのか?
 と考えていくと、
 ほとんどもう「自民党支持者」≒「ネトウヨ」とみなしても、さほど大きな錯誤ではない気もする。
 ただ、自民党の支持者の中には、「ネトウヨ」と一線を画すひともいるだろう。だから「ネトウヨ」≦「自民党支持者」と書くべきかな?
 とりあえず、そういうことにしておきましょう。
 もうひとつの問題は、「ネオリベ(ラリスト)」≒「ネオリベラリズムの信奉者」≒「新自由主義者」という図式はまあ、よいとして、必ずしもそれが「リバタリアン」とは一致しない……という点である。「ネオリベラリスト」と「リバタリアン」とは厳密にいえば違うので、この点を突き詰めていくなら、また別の記事が必要になる。
 そこで細かい点には目をつぶり、
 上記の質問の中にあるとおり、
① 国家なるものをもともと信用せず、
② 「今だけカネだけ自分だけ」で、当面の利益さえ確保できれば国や他の国民がどうなろうと知ったことではなく、
③ 今はいろいろ都合がいいからニホンにいるけど、経済的な地盤沈下や、重税や、物価高や、治安の悪化やらでいよいよ住めなくなったら海外に移住すればいいや資産はあるし向こうに土地も買ってるし……などと考えており、
④ それゆえに、いま自分が住んでいるこの社会を改良するという発想を持たず(マスコミやネットに顔を出して「こうすれば良くなる」という提言をする論客も多いが、それらはじつは「ネオリベ」を加速するものばかり……)、貧困や不平等などはあくまでもミクロ経済学的な問題として、すべて自己責任に帰する……
 といった思想を、はなはだ乱暴ではあるがひとまずここでは「ネオリベ(ラリズム)」と呼び、そういう思想の持主を「ネオリベ(ラリスト)」と呼んでおくことにしましょう。
 「ネトウヨ」は(正直ほんとにぼくにはよくわからないのだけど)、痩せても枯れても「右翼」なのだから、「国家」という枠組みを重んじる人たちなのだろう……とは思う。だからやっぱり、ふつうに考えれば上記のごとき「ネオリベ」とは相容れない。
 ただ、上で述べたとおり、「ネトウヨ」≦「自民党支持者」と定義づけてしまえば、なんのことはない、「自民党の政策すべてを受容する層」ということで、ようするに、いまの(より正確にいえば小泉=竹中改革以降の)自民党の政策がまるっきりネオリベなのだから、結果として、「ネトウヨ」は「ネオリベ」を支持してるんですよ、という話になる。
 まことにどうも、拍子抜けするほど単純な話で、書いている私もびっくりしている。
 しかし本当にそれだけだったら、どうもあんまり情けないので(私ではなくこの国が)、もうすこしだけ考えてみたい。
 ひとつ思いつくのは、「国家」という概念に託しているものが、いわゆる「ネトウヨ」と「サヨク」とではまったく違うのであろう……ということ。
 なお、ここでいう「サヨク」とは、あくまでもネット用語としての「ネトウヨ」に相対するもので、これも社会学的/政治学的/文化史的にげんみつに定義されたものではない。ご了承のほど。
 ここからは、なんとも大雑把で、しかもやや観念的な物言いになってしまうが、
 「国家」なるものを、
 「サヨク」のほうは、
 〝「市民」たちが合意のうえで契約を結んで形成している共同体の総体〟
 とみる。
 ルソー系ですな、いうなれば。
 それに対して、「ネトウヨ」のほうは、
 「国家」なるものを、
 〝もっともっと権威のある、位階秩序をもったシステム〟
 とみている……のではないかとぼくには思える。
 こっちはまあ、ホッブス系ってとこかね。
 ここで重要なのは、「位階秩序をもった」という点で、こちらの国家観によれば、国家はけっして巨大な横並びの仲良しクラブではない。もともと不平等を前提としている。だから内部で弱肉強食の市場原理が猛烈に働くのも当然で、「勝ち組」と「負け組」とが分かれるのも自明、より極端にいえば「敗者には何もやるな」という話にもなる(じっさい、ここ10年くらいで、そういった内容のマンガやアニメがとても増えた気がする)。
 こう考えるならば、「ネトウヨ」と「ネオリベ」とが親和性を持つのは、まるで不思議ではない。どころか、むしろ当たり前……とも思える。
 しかし、こう考えてもまだ、いくつかの疑問は残る。そのことにつき、ここまでの3倍あまりの分量に当たる草稿を書いたのだけれど、うまくまとまらなかったので、投稿は見合わせ、また次の機会があれば……ということに致しましょう。やはり政治の話はむずかしい。




純文学とエンタメ小説24.07.05

2024-07-05 | 純文学って何?
 純文学とエンタメ小説(娯楽小説/大衆小説/通俗小説など、ほかにいくつか呼称はあるが、「エンタメ小説」というのがぼくの語感にしっくりくる)との違いは那辺にあるか……というのは当ブログのメインテーマなので、これまでにも何度か書いてきた。
 西欧・中国・日本それぞれの文化圏における文学史的な定義とか、物語論からのアプローチとか、けっこうあれこれ試みた気がするのだが(めんどうなので過去記事を読み返していない)、今回はもっと実感に即して考えてみたい。
 ようするに、
 波瀾万丈のストーリー展開やすっきりと立ったキャラの魅力でぐいぐいと読ませるのがエンタメ小説で、いっぽう、内容そのものは別にそれほど面白いことが書かれてるわけでもなく、登場人物もなんだか卑近でちまちましていて冴えないけれど、文章がきれいだったり心理描写が緻密だったり、あるいは主人公がなぜか自分の分身としか思えないような気がしたりして、ついつい最後まで読み耽ってしまい、読後にはいくらか自己が更新されたように感じる……ようなものが純文学……という言い方はどうであろうか。
 それは約めていえば「リアル」ということであり、たとえば家族間の葛藤とか、恋愛とか、生活苦とか、自分自身や近親者の病気とか、職場での軋轢とか、就職難とか、仕事がハードすぎるとか、商売がうまくいかないとか、ふつうに生活していれば誰しもが必ず出会うであろう人生の課題を題材にとる。とはいえ、それだけを綿々と書き綴っていたらただの愚痴なので、〝作家〟たるものそこは腕に縒(よ)りをかけて、たんなる愚痴を「作品」に昇華すべく芸を凝らす。昔の「私小説」と呼ばれたジャンルがこの典型で、温故知新というか、それをほとんどそのまま平成の御代に蘇らせたのが西村賢太氏だったが。
 そのさいに命となるのが文体で、考えてみれば落語なんかでもおっそろしくくだらない、どうでもいい話を大のオトナが高座にかけて、それをまた大のオトナが2時間も3時間も座って「あはははは」などと笑いながら聴いている。そのままだったら聴くに値しないただの与太話を「噺」へと昇華するのが落語家の「語り」の芸であり、それに当たるのが作家にとっての文体といえる。
 しかしひとくちに文体といっても、たとえば古井由吉さんまでいくと、ぼくはこのひとの文章を「日本語散文の極北」と考えているのだけれど、これはもう、「なになにを記述している」というよりも、もはや言葉(現代日本語)そのものが記紀神話やら万葉集、源氏物語あたりの色濃い翳(かげ)を纏って立ち上がり、さらには外つ国の宗教者や詩人や作家たちやらのエクリチュールとも響きあいつつ、それ自体で生々しく増殖しながらうごめいている……といった按配になってくる。〝純〟文学というならば、これぞまさしく純粋な文学だろうとは思うけれども、いかなプロ作家とて、こういうものは容易に書けるものではないし、もちろん、みながみな古井さんを目指す必要もない。
 ところで、ぼくは長らく作家としての大江健三郎さんの信奉者で、「作家としての」とわざわざ断ったのは、その政治的立場についてはおおいに疑念を抱いていたからだが、ともあれ、あの方の作品をあらかた読み、大江文学を自身の拠り所としてきた。そのせいもあって「エンタメ小説」はずっと敬して遠ざけてきた。ほぼ10代後半から40代半ばくらいまでのことだ。けっこう長い。
 これもさんざん当ブログで書いたと思うが(あくまで断片的に、だし、しかも書くたび微妙に細部が変わっているような気もするが)、ぼくは他のことはまるでダメだが言葉に関してのみ早熟で、小学校の低学年くらいで漱石の『吾輩は猫である』を愛読していた。何が書いてあるんだか隅々まで理解していたわけではなかろうが、それこそ落語を聴くようなもので、とにかく楽しいから何度となく繰り返し読んでたんである。
 そのいっぽう、中学生くらいでSFを知り(近所の図書館はなぜかSFがむやみと充実していた)、その流れで筒井康隆、平井和正、大藪晴彦といった作家たちにハマった(筒井さんはそのあと前衛小説に芸域を広げて押しも押されもせぬ大家となったが、当時は大体こういう並びの扱いだった)。
 同時に笹沢佐保さんの「紋次郎」シリーズもほとんど読んだが(これも図書館に揃ってたのである)、いうまでもなくこれらの方々は「エンタメ小説」の書き手である。
 すなわち「物語」として面白い。筒井さんだけはやや異質だが、冒頭で述べた、「波瀾万丈のストーリー展開やすっきりと立ったキャラの魅力」は、他のお三方の作品には当てはまるだろう。ウルフガイ犬神明も伊達邦彦も木枯し紋次郎もそれぞれにカッコよかった。今のぼくなら物語論の見地から「英雄」の概念を引き合いに出してあれこれ論じたくなるところだが、むろん中学生はそんなこと考えない。面白いから読んでただけだ。
 しかし、ただ「面白かった」で済ませずに、あらためて立ち止まって内省してみると、その「面白さ」はたんにストーリーやキャラによるものだけではなかった。あけすけにいってしまうなら、つまりはエロス&バイオレンス。ようするにヒトの原初の「ワニ脳」の部分に直截にぶっ刺さってくるからこその「面白さ」であったと、いま思えば得心がいくわけである。
 これはエンタメ小説の通奏低音とでもいうべきもので、それこそ中学生あたりがこういうものを読んでいるさいに、「もうちょっとちゃんとしたものを読みなさい。」と分別のある大人から窘められるのは、やはりそういった要素のはらむ危険性を憂慮してのことだろう。
 ここで「危険性」といったのは必ずしも大仰な物言いではなく、「エロス&バイオレンス」が隠し味として使われてるていどならいいのだけれど、そうではなしに、作品の拠って立つ「世界観」そのものがそれ一色に染め上げられているとなると、これは中坊なんかにはじゅうぶん「毒」になりうるのである。
 だからもともとそういうものは大人が文字どおり「娯楽」のために読むものであって、思春期の子どもにはその年齢にふさわしい読み物がちゃんと用意されている。だが、「そういうものを読んでみたい」という欲望もまた、それくらいの年頃の子ども(の一部)には止みがたくある、というのも事実だ。
 例によってついつい話が長くなり、しかも昔話に傾いてしまうのだが、とにかくぼくは中学の頃には読書は好きだが別に文学少年でも何でもなかったし、将来は理系に進むつもりでいた。それが大きく転回するのが高2の夏の高校の図書館における『死者の奢り・飼育』(新潮文庫)との出会いであった……という話はこれまでにも(自分でもちょっとうんざりするほど)当ブログでやってきた。
 前回の記事でご紹介したような小説を読むようになったのは、それからのことである。
 それ以降はストイックなまでに「エンタメ小説」とは距離を置き、例外といえば20代で読んだ『羊たちの沈黙』くらいか。それが40になってケン・フォレットの『大聖堂』(新潮文庫→ソフトバンク文庫)を知り、山田風太郎の「明治もの」(ほぼ全作がちくま文庫で網羅されている)を読み、そこに又吉直樹の火花ショックが加わって(あれは佳作ではあるが芥川賞に値するほどのものではない。文藝春秋社の仕掛けた商業主義というよりない)、自分の中で「純文学ばなれ」が起こった。
 「純文学」から、広い意味での「物語」へと、関心が移っていったのである。
 あ、そうそう。皆川博子さんを忘れちゃいけない。自分にとってあまりにも重要だからかえって書き落とすところだった。大江さんのいくつかの作品は今も座右にあるけれど、いまの私の教科書は皆川さんの『海賊女王』と『聖餐城』の2作である。
 ともあれそういった変遷はこのブログにも反映されていると思う。2014年にOCNブログから引っ越してきたとき、よもや「プリキュア」や「まどマギ」について論じることになろうとは夢にも思わなかった。
 それらの作品は「物語論」のための題材として格好だと思って選んだわけだが、しかし題材に選ぶのがなぜアニメないしマンガばかりなのか、「小説」のほうはどうなってるのか、というわだかまりは、自分でも、つねに頭の隅にあったのである。
 その理由はきわめてシンプルで、ぼくのばあい、「純文学」から「物語」へと関心は移っても、それがそのまま「純文学」から「エンタメ小説」へ、とはならなかった、ということだ。つまり、活字で書かれた「物語」よりも、アニメやらマンガのほうがまだまだ面白かった。
 これについては今でもさほど考えがかわったわけではなく、じっさい、マンガであれば『ブラックラグーン』『蒼天航路』『鋼の錬金術師』『ナニワ金融道』『子連れ狼』『のたり松太郎』『MASTERキートン』『ガラスの仮面』など、アニメだったら『風の谷のナウシカ』『ヨルムンガンド』『攻殻機動隊』『ミチコとハッチン』などから受けた影響は、ほかのどんな「小説」から受けたものと比べてもいささかも遜色がない。
 そういう意味では、「小説」と「マンガ」「アニメ」とのあいだに懸隔はない……と、わりと本気で考えている。
 だが、しかし、たしか本年4月の記事でも述べたとおり、このところ小説を書いており(たぶん10年ぶりくらいである)、しかもそれが、自分としては異例のことに(おそらく初めてだと思う)「純文学」ではなく「物語」……というか、おおよそのところ「エンタメ小説」なのだった。
 なんだか奥歯に物が挟まったようで、きっぱり「エンタメ小説です!」と言い切れないのは、書いている本人、つまり私はものすごく面白いのだが、これを万人が……いや万人でなくてもいいが、それなりの数の方々が読んで「面白い」と思うかどうか、いまひとつ自信がないからだ。
 そのことはまあ、いいとして、そうなると、というのはつまり「いざ自分でじっさいに小説を書いていると」ということだが、小説(コトバ)を書くうえで頼れるものは、やはり小説(コトバ)しかないのである。そのことが痛感される。
 たとえば、映画なりアニメで観た(と脳内で記憶している)ワンシーンを、言葉を用いて自分なりに加工しながらディスプレイ上に表現しようという際に、いくら映像を思い浮かべても仕方がないので、結局は自分のなかの言葉のストックを引っ張り出したり組み替えたりしつつ書き進めていくしかないわけだ。
 現金なもので、ここに至ってようやく、私は自分に「エンタメ小説」の素養がはなはだ乏しいことを自覚し、「これはちょっと真面目にエンタメ小説を読まなきゃいかんのではないか?」と思ったのだった(真面目にエンタメ、という言い方は少し矛盾を含む気もするが)。
 たとえば、これも4月の記事に書いたと思うが、『鬼平犯科帳』をここにきて初めてきちんと読んだ次第である(6巻までだが)。
 エンタメ小説といっても、謎解きに重きをおいたミステリをはじめ、ふつうの企業・経済小説も今やそれなりに裾野を広げているし、かと思えばSFというマニアックだが最先端をいくジャンルもある。若い人の書く風俗小説も侮れない。さらに昔の名作で未読のものや、海外作品まで含めれば、とても一個人にカバーしきれるものではない。当ブログ内の「これは面白いと思った小説100」(この企画も例によって中断しているが)で取り上げたものなど、大半が評価の定まった名作ぞろいだとは思うけれども、それでも氷山の一角だろう。
 とにかく、我ながら欠落だらけであって、たとえば今になって『池袋ウエストゲートパーク』の第1巻を読み、「へええええー」と感心したりしている。また、2009年に34歳で逝去された伊藤計劃というとてつもない才能をあらためて読み(お名前だけは知っていたが、これまできちんと読んだことがなかった)、丸1日くらい自作の続きに手を付ける気が起きなくなった……くらいのショックを受けたりもしている。
 ともあれ、現状、あいた時間はほぼすべて「書きつつ読み、読みつつ書く」という按配になっているのだが、考えてみれば、エンタメみたいに面白く、かつ純文学のようにコクのある小説があったらそれに越したことはないわけで、自分の書いているのがそういうものになっているかどうかはわからないけれど、なにしろ自分にとっては何にもまして面白く「このキャラたちは一体この先どうなるのか?」が気になって仕方がないので、そう思っていられるうちはとりあえず書き続けていくのであろう。



できれば高1の夏休みあたりに読んでみてほしい日本の小説5選(24.05.26加筆)

2024-05-22 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 今回は、この4月に高校に入った学生さんのための企画。といっても、そんな年齢のひとがこのブログを愛読してるとは思えないけど、しかしアニメの記事にはよくアクセスが集まるから、なにかの拍子で目にとまらぬとも限るまい。いずれにせよ、ブログってのは「メッセージ・イン・ア・ボトル」の側面がたしかにあるわけで、こういうものを置いておくのも無駄にはならないと思う。
 いまどきの流行りものについては若い人のほうが詳しいだろうから、いっそもう、ぼくがじっさい高校生のとき読んで強い感銘を受けた作品を選んだ。当時はいわゆる「バブル景気」の前夜。70年代の残影を引きずりつつも、「オシャレ」で「軽薄短小」な時代の予兆がそこここに見て取れる……。そんな時代であった。
 これらの小説は、そのころのぼくから見ても古めかしく感じられたが、しかしその後の人生のなかで、折にふれて何度となく読み返すことになった。そういう意味では掛け値なしの名作ぞろいで、読んで損をすることはない筈だし、じつをいうと、平成生まれがこういうのを読んでどんな感想を抱くか、ちょっと訊いてみたい気持ちもあるのだ。「1周回って(いや1周どころではないか……)新しい。」ということにならないだろうか。まあならないとは思うが。




 『芽むしり 仔撃ち』大江健三郎 新潮文庫
 そうはいっても、この5作のうちでとりわけ本作は、「いま読んでも新しい」というか、いつの時代にも衝撃をもって読み継がれる青春小説だと思う。「1958(昭和33)年に講談社から出版された大江健三郎(当時23歳)初の長編小説。」とwikipediaに記載がある。活字がページから立ち上がってくるような鮮烈な文体で綴られた、少年たちの極限状況下での短い日々。そのなかで見いだされる束の間の自由と高揚。あるいは友情と愛。そして、「大人たち(世間/社会)」への屈服と叛逆。まさしく普遍性にみちた「青春」の寓話であり、主人公たる「僕」の似姿は、今日のアニメなどにおいてもたくさん見つかるはずである。




 『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫
 「雑誌『新潮』で1965(昭和40)年1月号より同年9月号まで連載、1966年に新潮社より刊行。」とwikiにある。井伏さんは大江さんより40歳ほど年長なのだが、この作品は「芽むしり」よりも新しいのだ。田中好子さんの主演で映画化もされたからご存じの方も多かろうが、原爆の惨禍を記録に留めたものとして、日本を代表する名作である。しかし被爆小説、戦争小説という括りを超えて、文学として素晴らしい。人類史上未曽有の凶行と、それによって齎された辛苦を描きながら、筆致はどこまでも穏やかで正確で端整。声高に叫ぶわけでも、歌い上げるわけでも、繰り言をつらねるわけでもない。ときに飄逸ですらある。書かれている事柄は異常の極みなのだが、それはあくまで日常の延長のなかでの出来事なのだ。だからこそ、深い悲しみと衝撃が伝わる。小説のみならず、文章を書くうえでの心構えを学んだという点で、ぼくにとっては日本語散文のお手本のひとつである。




 『アメリカひじき・火垂るの墓』野坂昭如 新潮文庫
 高畑勲監督のアニメがあまりにも有名で、いまの新潮文庫版の表紙にも節子が描かれているが、さきの『黒い雨』の実写映画の公開が1989(昭和64/平成元)年、この『火垂るの墓』のアニメ版公開が1988(昭和63)年で、やはりこの辺りがひとつの「節目」であったのだろうか。まあ、それは同時にバブル経済たけなわの頃でもあったわけだが……。
 アニメから入った若い人などは、「ノサカ節」というべき独特な饒舌体の文章に戸惑うやもしれぬが、慣れてしまえばリズミカルな名文とわかる。日本という風土の深層から響いてくる祝詞もしくは呪詛のごとき文体である。
 原作は、wikiによれば「1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞。」とのこと。野坂さんは井伏さんより30歳ほど年少なのだが、執筆は『黒い雨』とほぼ同じ頃だった。どちらもずっしりヘビーであり、『黒い雨』『火垂るの墓』と、続けざまに2作を読んだらへとへとに疲れるけれど、しかし最低でもこのくらいは読んでおかねば「戦争」や「近代」や「ニッポン」について語ることはできないのではないかとぼく個人は思う。




 『流れる』幸田文 新潮文庫
 これは青春小説の対極で、「中年小説」とでもいうか、酸いも甘いも噛みわけた大人の小説である。「1955(昭和30)年に雑誌『新潮』に連載され、翌年出版された。その前年にデビューした幸田の、作家としての名声を確立した傑作。自身の体験を踏まえて、華やかな花柳界と零落する芸者置屋の内実を描ききり、第3回新潮社文学賞と第13回日本芸術院賞を受賞。ラジオ、テレビ、舞台で上演され、また成瀬巳喜男監督で映画化もされた。」とwikipediaにある。この齢になって読んでこそ真の味わいがわかるわけだが、これに高校生の身空で出会ったのは貴重な読書体験であった。いろいろと勉強になったと思う。平成生まれにもぜひいちど挑んでいただきたい。




 『父の詫び状』向田邦子 文春文庫
 「『銀座百点』の1976(昭和51)年から78年にかけて約2年間にわたって連載された、向田の随筆家としてのデビュー作。好評を博し、連載終了後間もなく単行本化された。昭和における日本の家庭像を見事に描いたものとして、向田の代表的な随筆作品と評される。」wikipediaより。
 昭和後期を代表する脚本家で、ホームドラマの名手といわれ、直木賞作家でもある向田さんだけど、その原点はここにある。いわば向田作品のエッセンス。向田さんは1929(昭和4)年生まれだから、16歳までを戦前/戦中に過ごされたわけだが、上で述べた男性作家たちの作品ほどには戦争の色は濃くなくて、そのぶん若い人にも親しみやすいはずだ。とかく手厳しい山本夏彦が、「戦前という時代」を知るための極上の資料として、向田邦子の作品については賞賛を惜しまなかった。小説家としてのデビュー作が発表された際には、「この人はいきなり出てきてほとんど名人である。」ともいった。
 向田さんのご家庭は、うちの両親などの家と比べて格段に恵まれていたはずだから、これが平均と思ってはいけないのだろうが、それでもそこに描かれた家族の姿は、たしかに当時の暮らしを知るための第一級の資料だし、もちろん、たんなる資料的な価値を超えて、文学作品として読み継がれるべきものである。いまどきの若い世代なら、ここに描かれた父親像を、「不器用ながら家族への愛情に溢れた父」ではなくて、むしろ家父長的な暴君……とみるのかもしれない。そういったことも含めて、ぜひ読んで頂きたく思う次第。




 それにしても、いつもながら記事を書くうえで大いにネットのお世話になった(今回はほぼウィキペディアだが。選んだ5作すべてに単独の項目が設けられているとは思わなかったけれども)。ぼくが高校の頃と比べていちばん変わったのはこれかもしれない。たとえば作品の掲載媒体や掲載年度、また作家の生没年など、ちょっとしたことを調べるだけでも、昔はほんとに大汗をかいた。隔世の感ですね。





SF作家おすすめ40

2024-05-08 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 世界的ベストセラー『三体』が文庫化されたのでさっそく読んだら、これがべらぼうに面白く、久しぶりにSF好きの血が騒ぎだした。訳者の大森望氏がいうように、「話の骨格は、セーガン『コンタクト』とクラーク『幼年期の終わり』と小松左京『果しなき流れの果に』を一緒にしたような、古風な本格SF」なのかもしれないが、ふだんSFを読まない層までをもこれほど惹きつける手腕は並大抵のものではない。これを読んでSFに興味をもった若い読者もいるのではないか。
 ところが改めて調べてみると、「これ一冊あれば」と言いたいようなSFのガイドブックが見当たらない。ハヤカワ文庫から『海外SFハンドブック』というのが出ているが、初版が2015(平成27)年といささか古いし、内容もちょっと物足りない。こんなときは自分で試作するしかない。
 リストアップの順番は、生年順ではなく、「ぼくがいま面白いと思う」指数と「SF史上の重要性」指数との合計による。なお、2024年5月現在、主要な著作が新刊として入手できない作家は、いかに面白かろうと重要だろうと泣く泣く落とした。




01 劉慈欣(1963~) 『三体』


02 ロバート・A・ハインライン(1907~1988) 『月は無慈悲な夜の女王』『異星の客』『夏への扉』
03 アーサー・C・クラーク(1917~2008) 『幼年期の終わり』『都市と星』『2001年宇宙の旅』
04 アイザック・アシモフ(1920~1992) 『われはロボット』『鋼鉄都市』『銀河帝国興亡史(ファウンデーション・シリーズ)』


05 グレッグ・イーガン(1961~) 『宇宙消失』『ディアスポラ』『祈りの海』『しあわせの理由』
06 テッド・チャン(1967~) 『あなたの人生の物語』『息吹』


07 ダン・シモンズ(1948~) 『ハイペリオン』『ハイペリオンの没落』『エンディミオン』『エンディミオンの覚醒』


08 ウィリアム・ギブスン(1948~) 『ニューロマンサー』『クローム襲撃』
09 ブルース・スターリング(1954~) 『スキズマトリックス』
10 ニール・スティーヴンスン(1959~) 『ダイヤモンド・エイジ』『クリプトノミコン』『スノウ・クラッシュ』


11 レイ・ブラッドベリ(1920~2012) 『火星年代記』『華氏451度』『刺青の男』
12 スタニスワフ・レム(1921~2006) 『ソラリス』『完全な真空』
13 P・K・ディック(1928~1982) 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『高い城の男』『トータル・リコール』
14 カート・ヴォネガット(1922~2007) 『タイタンの妖女』『スローターハウス5』


15 ジョージ・オーウェル(1903~1950)『1984』
16 ストルガツキー兄弟(1925~1991/1933~2012)『ストーカー』


17 アーシュラ・K・ル=グィン(1929~2018) 『闇の左手』『所有せざる人々』
18 ジェイムス・ティプトリー・ジュニア(1915~1987) 『愛はさだめ、さだめは死』『たったひとつの冴えたやりかた』
19 コニー・ウィリス(1945~) 『ドゥームズデイ・ブック』『航路』『ブラックアウト』『オールクリア』


20 パオロ・バチガルピ(1972~) 『ねじまき少女』
21 ラメズ・ナム           『ネクサス』


22 J・G・バラード(1930~2009) 『結晶世界』『クラッシュ』
23 ブライアン・オールディス(1925~2017) 『地球の長い午後』
24 ウィリアム・バロウズ(1914~1997) 『裸のランチ』


25 グレッグ・ベア(1951~2022) 『ブラッド・ミュージック』『永劫』
26 ロジャー・ゼラズニイ(1937~1995) 『伝道の書に捧げる薔薇』
27 ハーラン・エリスン(1934~2018)『世界の中心で愛を叫んだけもの』


28 フランク・ハーバート(1920~1986) 『デューン 砂の惑星』
29 アルフレッド・ベスター(1913~1987) 『虎よ、虎よ!』
30 ジェイムズ・P・ホーガン(1941~2010) 『星を継ぐもの』
31 ジョン・ヴァーリー(1947~) 『逆行の夏』
32 オースン・スコット・カード(1951~) 『エンダーのゲーム』


33 ダグラス・アダムス(1952~2001) 『銀河ヒッチハイク・ガイド』


34 トム・ゴドウィン(1915~1980) 『冷たい方程式』
35 ダニエル・キイス(1927~2014) 『アルジャーノンに花束を』

36 マーサ・ウェルズ(1964~) 『マーダーボット・ダイアリー』
37 アンディー・ウィアー(1972~) 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』




番外
危険なヴィジョン〔完全版〕1~3
アンソロジー短編集 ハヤカワ文庫










 「新刊で入手できるもの」という条件を入れると、とたんに限定されてしまう。時代を超えて読み継がれていくというのは大変なことだ。誰か重要なひとを忘れているような気もするが、とりあえず今回はここまで。






「ヒッピーのバイブル・文学編」

2024-05-01 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 今回も覚え書き。
 前回あげたロバート・A・ハインラインの作品の中では、たぶん『夏への扉』(ハヤカワ文庫)がいちばん有名だろう。多くのリストで「SFオールタイムベスト」の1位に選ばれている……つまりコアなSFファンにも広く愛されているうえに、「ふだんSFを読まないひとでも、これならば無理なく楽しく読めるんじゃないか」とよく言われる(ぼくもそう思う )。
 ほかに『異星の客(原題 Stranger in a Strange Land)』(創元SF文庫)という長編もあって、これはビル・ゲイツが「私の中学時代からのお気に入りで、わがオールタイムベスト」と絶賛したことで知られる(正直それはそれでどうかと思うが)。アマゾンの当該ページを見ると、「円熟の境にはいったハインラインが、その思想と世界観をそそぎこみ、全米のヒッピーたちの聖典として話題をまいた問題作。」との惹句がついている。
 ヒッピーのバイブル(聖典)。
 ヒッピー文化というのは幅が広くて、「ビートニク」やら「カウンターカルチャー」など、周辺の似た概念群と絡み合ってややこしいのだが、思想としては「カリフォルニアン・イデオロギー」に収斂する。これはたんに文化史的に興味ぶかいのみならず、今日においてもなお重要な概念である。ぼくもかつてnoteにこんな記事を書いた。


カリフォルニアン・イデオロギー
https://note.com/eminus/n/n8909f1e5f384



 それはそれとして、文学(小説/詩)プロパーにかぎっていえば、「ヒッピーのバイブル」と呼ばれる作品は何冊かある。バイブルというのは、「the Bible」と定冠詞をつけて綴られるほどのもので、何冊もあってはいけないのだが、そこはまあ、「とても重要な本」くらいの比喩なのだろう。「聖典」や「聖書」より「経典」と訳すほうがいいかも。
 五木寛之の訳したリチャード・バック『かもめのジョナサン』(新潮文庫)はいくらなんでもシンプルすぎるが、


 ◎J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝・訳 白水社)/『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹・訳 白水社)
 ◎アレン・ギンズバーグ『吠える』(柴田元幸・訳 スイッチパブリッシング)
 ◎ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』(鮎川信夫・訳 河出文庫)
 ◎ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』(青山南・訳 河出文庫)


 などだ。わけても『オン・ザ・ロード(路上)』の影響は大きい。
 さらに源流をたどれば、


 ◎ヘンリー・ソロー『森の生活』(飯田実・訳 岩波文庫)
 ◎ハーマン・メルヴィル『モビー・ディック(白鯨)』(新潮文庫・岩波文庫ほか)
 ◎マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』(岩波文庫ほか)


 あたりに行き着くのだろう。


 アメリカの作家以外では、ヘルマン・ヘッセが1927(昭和2年)に発表した『荒野のおおかみ』(高橋健二・訳 新潮文庫)も逸するわけにはいかない。カナダのロックバンド「ステッペンウルフ」のバンド名の由来となった。さほど関係はなさそうだけど、宇多田ヒカルにも「荒野の狼」という曲がある。





「サブカルの元ネタを知るための海外SF入門」

2024-04-27 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 ……というタイトル(=コンセプト)の本があったら便利なのになあ……というお話。


 ブログを書くのはけっこう手間暇がかかるので、どうしても更新が滞ってしまう。
 今回はあまり力を入れないで、「読書メモ」「覚え書き」くらいのつもりで書いてみましょう。
 たとえば『機動戦士ガンダム』(初代)は、岡田斗司夫もいうように、ロバート・A・ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』(ハヤカワ文庫)や『宇宙の戦士』(同)から強い影響をうけている。
 いま前編が劇場公開されている浅野いにおの『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(小学館)は、その源流をずうっと辿っていったら、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』(ハヤカワ文庫/創元SF文庫/光文社古典新訳文庫)に行き着くだろう。
 アニメ化もされた有川浩の『図書館戦争』(角川文庫)は、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(ハヤカワ文庫)への有川流のオマージュであり、作中でもそのことは示唆されている。
 浦沢直樹が手塚治虫の「鉄腕アトム/地上最大のロボット」をリメイクした『PLUTO』(小学館)は、いうまでもなくアイザック・アシモフ『われはロボット』(ハヤカワ文庫)の末裔だけども、より近いところでは、マーサ・ウェルズの『マーダーボット・ダイアリー』(創元SF文庫)を想起させる。この2作、発表された時期から考えて、どちらがどちらに影響を与えたとも言い難いし、たぶん双方ともに互いの作品を読んでないと思うが、それでもいろいろ似通ったところがあるので、読み比べてみるのも一興だろう。
 むろん、サブカルにおける影響関係なるものは、J・ボードリヤールのいわゆる「シュミラクル(模像)」ではないけれど、あたかも万華鏡のごとく、複雑多岐に絡み合っていて、時には作り手自身にすらはっきりと意識されてないことすら珍しくないが、ここに挙げた4つのケースは、わりと明確に見て取れるものだと思う。
 ほかにもいくつか事例をメモしておいたのだが、そのノートが見当たらず、これくらいしか思い出せない(それもあって、とりあえず思い出せるだけでもブログにアップしておこう……という気になったのだが)。
 「ネタ元さがし」といった下世話な趣味ではなくて、現代日本のサブカルを代表する作品の数々が、どれくらいSFの(それも古典的名作の)影響を受けているか……についてもっと知れば、文学というものの(純文学だけが文学ではない!)奥行きや厚みを体感できて楽しい。
 ぼくはサブカルもSFも好きだが、どちらについてもさほど詳しいわけではないので、だれか双方に通じたマニアックなひとが「サブカルの元ネタとなった海外SF」を系統立てて網羅した著作を出してくれないものか……と夢想してます。





小説を書く。

2024-04-07 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 しばらく更新を怠っていると、ブログをやっていること自体を忘れてしまう。
 「ダウンワード・パラダイス」の看板を掲げて、かれこれ18年くらいになるのだけれど、そんな調子で、十本くらいしか記事を上げなかった年も、何度かあったと思う。
 このたびも、ふと気づけば前回の記事から2ヶ月ちかくが過ぎており、年度が替わって、あたたかくなり、桜も満開である。
 いちおう「ブログ用ネタ帳」なるものをつくってはいるのだが、いま確かめたところ、そこにちょこちょこと書き込んでいたのも、3月の半ばくらいまでだった。
 ぱらぱら繰ってみると、
① 〝杉本苑子『散華』〟 というメモがある。
 これは杉本さんが1986年から1990年にかけて雑誌に連載していた長編で、副題は「紫式部の生涯」。いまは中公文庫から上下巻で出ている。
 うちにあるのは単行本のほうで、ずいぶん前に、古書店で安く手に入れたものだ。
 冒頭部分を読んだだけで、「まあ、また今度でいいか。」と放り出し、そのまま書棚の奥に押し込んであったものを、引っ張り出してきちんと読んだ。おもしろかった。
 読む気になったのは、もちろん、大河ドラマ『光る君へ』のおかげである。
 ドラマはオリジナル脚本なので、この小説は原作でもなんでもない。だから、どちらも紫式部の生涯を描いているとはいえ、いろいろ異同がある。
 そのあまたの相違が、「小説」と「ドラマ」というふたつのジャンルの違いをあらわしていて興味ぶかい……と感じたので、そのことをブログに書こうと思って、ネタ帳に書きとめたのだった。
 覚え書きとして、アイデアや、文章の断片をいろいろと書き込んでいるが、記事に結実するには至らなかった。
 ほか、
② 〝ニーチェの個人訳〟 というメモもある。
 ニーチェの邦訳はすでに明治から試みられてきたのだが、今に至るまで、個人による全訳はない。
 全集の翻訳としては、ちくま学芸文庫版がもっともポピュラーであろう。ただしこれは、元となった版が70年代のもので、その後のニーチェ研究を鑑みたとき、編集の方針などに、いささか問題なしとしない。
 また、訳業にかかわった方々が、文学ではなく哲学畑の学者がほとんどのため、訳文がいかにも固い。
 このあとに出たニーチェの訳では、ぼくのみるところ、河出文庫から出ている『喜ばしき知恵』『偶像の黄昏』の村井則夫のものが秀逸である。清新で、明快で、よみやすい。
 ただ残念なことに、村井さんによる訳はこの2作だけで、ほかにはない。文庫化されてないというのでなく、訳業そのものがない。
 できればこの方の訳でニーチェの主要作をぜんぶ読みたかったな……と考えるうちに、いや……可能性だけをいうならば、じぶん自身が、そのような仕事に取り組んでいた人生もあったのではないか……と思い至って、なにやら感慨深くなった。
 いまはすっかり単語も文法も放念してしまったが、いちおう昔は独文の学生だったのである。卒論のテーマもニーチェだった。
 しかしあのころは、ニーチェの著作そのものを愛するというより、
「20世紀の思想にニーチェがどんな影響を及ぼしたか」
 に関心があった。
 担当の教授に、
「君のニーチェは、外側からやねえ」
 と言われたことが、いまも記憶に残っている。
 だからニーチェの文章にしても、訳文と原文とを照らし合わせて、おおまかな意味が取れればそれでよい……と思っていた。「この人のドイツ語を自分の手で日本語に移し替えたい」といった情熱は、まるで湧いてこなかったのだ。
 ひとつには、「翻訳なんて、定番のものさえ一つあったら、少しばかり難があっても、それを読み継いでいけばいいだろう」と思っていた。
 だがこれは誤りで、ニーチェよりさらに数百年古いシェークスピアでも、いや、たとえギリシア悲劇であっても、「それぞれの時代にふさわしい現代訳」というものがありうる。それが古典というものだ。
 そのことが、最近になってようやく身に染みてきた。
 それならば、いま気鋭の独文学者なり哲学者が、個人による日本語の全訳に挑戦することは、けして意味のないことではなかろう。
 なにしろニーチェは、おそらく現代思想にいちばん大きな影響を与えた著述家なのだ。文章そのものも魅力的だし。
 プロの学者が、さまざまな事情でそれをできないのであれば、アマチュアがやってもいいではないか。
 いや、いっそもう自分がやったらどうだ。
 しかし、落ち着いて考えるまでもなく、いまからドイツ語をやり直し、ニーチェのほぼ全作を日本語に訳すことなど、できるはずがない。不可能事である。残り時間がない。
 そういったことを考えるにつけ、自らの来し方を顧み、また行く末に思いをはせて、なにやら感慨に耽ってしまった……というようなことを書こうと思いつつ、結局は記事にできなかった。
 ……と書こうとしたのだが、なんのことはない、これについては今あらかた書けてしまったではないか。
 ブログのネタ帳の話にもどる。
 ほかにもいくつか項目が書きつけてあって、最後が〝鬼平犯科帳〟である。
 文春文庫版の1巻から6巻までが紐でくくって古本屋のワゴンに積んであったのを、500円で買ってきた。古い版である。むかしの文春文庫は紙質がわるかったので、1巻あたりは煮しめたようになっている。
 鬼平にかぎらず、池波正太郎さんのものをきちんと読むのは、これが初めてのことだ。
 中村吉右衛門主演でながく続いたテレビドラマの効果もあり、鬼平の人気はことのほか高い。最近になってまた新しく映画化もされた。
 ほとんど本を読まないうちの父親でさえ、「鬼平」だけは24巻ぜんぶ揃えて持っていた。
 藤沢周平の名作『蝉しぐれ』ですら、「ようわからん」と言って読まず、本といったら図書館の除籍本をもらってくるだけで、断じて自腹を切ってあがなうことのなかった父親が、「鬼平」だけは自分で買って手元に置いていたのである。
 おそるべし池波正太郎。おそるべし鬼平犯科帳。
 その大衆性は端倪すべからざるものだ。
 いったい秘訣は那辺にあるのだろうか。知りたい。
 そう思いつつ、これまではなかなか手を出せなかったのだが、好機逸すべからず、ここにきて、ともかく6巻まで読めた。
 時代劇版ミステリーたる捕り物帳に付きもののはずの「快刀乱麻を断つ謎解き」もなく、「あっと驚くどんでん返し」もなく、密偵をふくめた組織力に頼った地道な捜査ばかりがつづき、しかも事件解決のきっかけが往々にして「うますぎる偶然」や「都合の良すぎる展開」であるということで、正直、読後はちょっと戸惑った。
 しかし思えば、外連味(けれんみ)がなく、ご都合主義をおそれぬからこそ、幅広く読まれるのだろうし、くりかえし再読に耐えるのであろう。
 なんといっても、長谷川平蔵はやはりたしかに魅力的である。
 そしてもっとも特筆すべきは、その文章の読みやすさだ。
 これについてはいちいち説明するよりも、今回のこの記事にて自分なりの文体模倣(パスティーシュ)を試みているので、ご覧のとおりである。
 この文体はものすごく具合がいい。ぼくにとってありがたいことには、試しにこの文体で小説を書いてみたところ、自分でも面食らうほど、すらすらと筆がすすむのである(これは慣用句であって、じっさいにはキーを叩いている)。
 ここ何年も、冒頭ふきんの10数枚分を書いては没にし、また一から書き直しては没にし……、ということを繰り返してきた小説が、おもしろいように捗る。
 ぼくにとっての最大の快楽は、小説を書くことであり、これに比すれば、余のことはなべて味が薄い。
 小説の筆がはかどるとは、すなわち、キャラがうごいているということだ。
 キャラがうごいているときには、むしろこちらの筆がキャラを追いかけていく……という按配となり、こうなると文字どおり寝食を忘れる。
 あまり眠くもならないし、空腹も覚えないのである。
 日々の生活のために必要な雑事を除いて、閑暇はすべて小説についやす……さすがに桜は、この季節だけのことなので、花見くらいは行くけれど、ほかのことは何もできない。
 さきの金曜ロードショーで、『すずめの戸締まり』をやっていたようだが、おととしから昨年の初頭にかけて、つごう4回劇場まで足を運び、ブログでも再三とりあげたこの作品さえ、まったく観る気がしなかった。
(そもそも、地震の対応そっちのけで宴会のはしごをしている政権の下で、ファンタジーを見る気分にはなれなかったこともあるが。)
 ともあれ、そういう次第なので、しばらくまた、更新はできないと思います。あしからずご了承のほど……。











24.02.22 ちょっとだけ経済の話

2024-02-22 | 政治/社会/経済/軍事
 日経平均株価の値上がりにつき、NHKのネットニュースは以下の要因を挙げてます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240220/k10014364381000.html



1 アメリカの株高
2 日本企業の好調な業績
3 株価を意識した企業経営
4 円安による輸出関連への追い風
5 円安による日本株への割安感
6 中国からの資金シフト
7 日銀の緩和継続姿勢
8 NISA拡充による期待




☆☆☆☆☆☆☆




 いっぽう、「これで景気が好転し、暮らし向きが一挙に楽になり、日本がまたGDPで世界2位の座を(現在はドイツにも抜かれて4位)取り戻す!」なんて思っている人は、よほど楽観的な人の中にもいないでしょう。
 これは昨年あたりにネットに出回った図表らしいけど、ここ30年てぇものは、まあ、こんな按配でした。ふつうに見れば、やはりこれ、衰退と呼ぶのが自然でしょうね。いかに株価が急騰しても、この流れがとつぜん覆るとは思えないわけで。




 こういうのもありました。




 よく言われることだけど、いわゆる〝アベノミクス〟以降は、株価ってものが必ずしも景気の指標とはならない……。もちろん、上記の8項目の中にも「日本企業の好調な業績」や「円安による輸出関連への追い風」があるように、まるで無関係ってことはとうぜん無いんだけども、かつてのバブル時代のように、おカネがぐるぐる国民のあいだを回って、いろんなことが活性化する……という勢いにはなっていかない。問題はそこですよね……。






「これは面白い。」と思った小説100and more パート2  番外編 『六人の嘘つきな大学生』

2024-02-05 | 物語(ロマン)の愉楽
 30 六人の嘘つきな大学生 浅倉秋成 角川文庫
 
 



 

 今回は番外編です。作者は1989年の11月生まれとのことだから、この「『これは面白い。』と思った小説100and more」で紹介する方の中では、初の平成生まれになるのかな。
 official髭男dismとかking gnuとかYOASOBIとかVaundyとかAdoとか、さいきんの若い世代のつくるポップスの進化は目覚ましいけれど、エンタメ小説の領域においても、似たことが起こっているようですね。純文学のほうは、正直よくわからないけども……。
 発端は、2011(平成23)年、あの東北大震災が起こった年。成長著しいIT企業「スピラリンクス」の就職試験が行われ、その最終選考に、6人の大学生が残る。女性ふたりに男性4人。はじめ彼らには「6人で力を合わせてひとつの課題をやり遂げてください。その結果いかんでは、6人全員の内定もありえます。」と告げられるのだけど、彼らがミーティングを重ね、お互いの人柄や能力を認め合って、「ぜったいに6人で入社しような。」と意気投合しているさなか、とつぜん「選考方法が急遽変更になりました。合格者は1名だけです。最終選考日当日、本社にてグループディスカッションをしていただき、全員でひとりを選出してください。」というメールがとどく。
 そして当日、その最後のグループディスカッションの席上、ある「事件」が起こる……。
 こう書くといかにも、作中で登場人物のひとりが述懐するとおり「ソフトでチープなデスゲーム」を連想してしまいそうだけど、けっしてそんな安っぽい作品ではありません。
 特筆すべきは、本作が、「二転三転(いやもっともっと多いけど)する仕掛けを凝らした極上のミステリ」でありながら、同時に「いまどき珍しい純愛ラブストーリー」でもあること。もとよりその両者は別個のものではなく、ストーリーやトリックや人物描写、さらには作品のテーマそのものと見事に絡みあい、響きあいながら、全編を織りなしているわけですが。
 ざっとネットを見たかぎりでは、称賛の声は数あれど、その「純愛ラブストーリー」の側面に気付いている人がほとんどいないようなので、「もったいないなあ。」と思ってる次第。
 ポイントは、Bパートの主人公が「あの人」に向けてそっと呟く「ありがとう」ですね。この人が本当は誰のことが好きだったのか、それをきちんと見極めたうえで、あの「ありがとう」の真意がわかれば、感動はさらに膨らむでしょう。そうそう。それと、ラストにおける主人公のあの「決断」の意味。そこに込められた作者の皮肉……。
 「就活もの」としては、直木賞をとった朝井リョウさんの『何者』が有名で、あれも佳作なんだろうけど、読後感の重さでいえば、ぼくにとってはこちらのほうがずっと上でした。これほどキャラが「生きて」いる小説は、純文学プロパーでもなかなかないから。ただ本作は、芥川賞はむろん、直木賞をとるようなものでもないんだなあ。その理由を書くとネタバレに抵触するし、いろいろと角が立つので差し控えるけど、ともあれ本作が、ジャンルを超えた一流の「小説」であることは間違いありません。










24.02.01 芦原妃名子さんの悲劇について考えるための2本の記事

2024-02-01 | 政治/社会/経済/軍事
 芦原妃名子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。








① ITmedia ビジネスオンライン
『セクシー田中さん』の悲劇で加速する 日本マンガ実写化ビジネスの海外流出
窪田順生
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2401/31/news045.html





 「テレビ情報番組制作、週刊誌記者、新聞記者、月刊誌編集者を経て現在はノンフィクションライターとして週刊誌や月刊誌へ寄稿する傍ら、報道対策アドバイザーとしても活動」(記事末に付された肩書より)しておられる方が、このたびの事件の経緯をまとめ、問題点を指摘したうえで、このような事態を齎すに至った日本社会の構造的な欠陥までをも分析した記事。
 いちいち尤もであり、ことに、
「芦原さんが必死の思いで訴えたことについてはこのままフタをするべきではない。なぜこんな行き違いが起きたのかと日本テレビは第三者調査を実施、その結果を踏まえて、テレビドラマ業界、漫画原作者、そして代理人を務める出版社が知恵を出しあって、漫画の実写化で二度とこのような問題が起きないようにすべきだ、と強く思う。」
 といった提言にはふかく頷かされる。ただ、惜しむらくはこの記事、冒頭部分に誤解をうむ余地がある。事情を知らぬまま一読すると、あたかも先に原作者たる芦原さんがネット上(ブログおよびX。現在はいずれも削除)にて発言をされたようにみえてしまうが、じっさいはまったく逆であって、脚本家の側が先にインスタグラムで内部事情を暴露したのである(現在は閲覧不能)。そのため、火の粉が降りかかるかたちになった芦原さんのほうが、小学館の担当者とじっくり検討したうえで、そうなるにいたった経緯をていねいに説明せざるを得なくなったわけだ。
 この時系列をがっちりと抑えておかねば、肝心のところがぼやけてしまうし、芦原さんの名誉のためにもいかがなものかと思う。
 すでに原文が削除されているので、ぼくはスクリーンショットで拝見したのだが、芦原さんの文章は、とても誠実かつ繊細で、心を打つものであった。筋が通っており、関係各位への配慮も行き届いていた。『セクシー田中さん』というタイトルから、「どうせ軽薄なラブコメだろう。」と判断してこの件に無頓着だったぼくが、一転して関心をもつようになったのはその文章を読んだためだ。
 脚本家によるインスタグラムの投稿は、いまは閲覧不能になっているので、こちらもぼくはスクリーンショットで見たのだけれど、芦原さんの文章に比べてずっと見劣りがした。短いうえに曖昧なため、責任の所在が定かでないし、なによりも悪いことに、原作者への敬意が微塵も感じられない。むしろ不満がそちらに向かっているように読める。そこに付いている同業業者のコメントと併せると、原作者に非があるような印象操作をしているとしか映らないのだ。
 こんなものを出されたら、誰だって自らの立場を釈明せざるをえないではないか。そうせざるをえないよう先に仕向けたのは脚本家の側であって、それがこのたびの悲劇につながった。ふつうに時系列を追っていけばそう判断せざるをえず、だからこそこれほどの「炎上」を招いているのだ。
 むろん個人攻撃や誹謗中傷は厳に慎むべきだけど、少なくとも、多くのひとの目にふれるかたちであのような投稿をして火種を蒔いたからには、脚本家の方は、ご自身の口から何らかの言明をすべきだとぼくは思う。いまは混乱してそれどころではないのか、あるいは、日本テレビのスタッフや関係者や法務担当者などと協議してらっしゃる最中なのかもしれないが、いずれにせよ、このままずっと口を噤んでいられるものではない。文筆で口を糊しておられる方なら尚更である。










 とはいえ、繰り返しになるが、個人攻撃や誹謗中傷は厳に慎むべきものである。ぼくなどが義憤に駆られているのは、脚本家さんがインスタグラムに軽率な投稿をして先に火種を蒔いたことに関してであって、そもそもの原因は原作者サイド(小学館)とドラマ制作側(日本テレビ)との齟齬にある。その点においては脚本家もまた被害者なのかもしれない(その根本的な原因にしっかり向き合うことなく、不特定多数が閲覧できるインスタグラムで一方的に内情をぶちまけた非はやっぱりご本人にあるとは思うが)。
 そこでもうひとつの記事。




➁東洋経済オンライン
「セクシー田中さん」悲しい出来事の裏にある現実
ドラマ関係者のバッシング過熱に感じること
木村隆志
https://toyokeizai.net/articles/-/731303



 これは、「コラムニスト、人間関係コンサルタント、テレビ解説者」の肩書をもつ木村氏が、「漫画や小説をドラマ化する際、関係者の間などで問題になりやすいところなどを挙げつつ、考えられる対策などを探って」いくために書かれたもの。ちょっと微妙な書き方ながら、「脚本家のインスタグラムのあとで原作者の言明が出た。」という時系列についても明示してある。制作現場の内情を知悉しておられる方らしく、とても参考になるが、率直なところをいわせてもらえば、「やはり業界に近い方のご意見だから、そっちのほうに甘いなぁ。」とぼく個人は感じた。たとえばメディアミックスによる収益配分ひとつ取っても、すべての根源たるべきクリエーター……本来ならば誰よりも大切にされるはずの、「ゼロ」から作品を生み出す原作者その人……がとかく冷遇されているのは周知のことだ。まずはそのあたりから見直していかねばなるまい。
 いずれにせよ、ここで紹介させていただいたお二方がそれぞれのかたちで述べておられるとおり、日本テレビは、なぜこのような行き違いが起きたか、第三者機関を入れて徹底的に調査し、その結果をできうるかぎり公表したうえで、それを踏まえて、ドラマ業界、その代理人を務める出版社、そして原作者たちが知恵を出しあい、実写化のプロジェクトによって二度とこのような問題が起きぬよう、全力を尽くすべきだろう。