「物語論」の見地からすると、このアニメがとてもシンプルなつくりだってことは、この連載の一回目からずっといってきた。
「ここではない何処かへ」「喪の仕事」という課題をそれぞれに担う2人のキャラを中心に据えて、そのサイドに2人の補助メンバーを配する。そこから話が組み立てられる。ただ、たしかにキマリと報瀬がメインなんだけど、日向と結月にもちゃんと課題は与えられていて、互いが互いを支えたり、背中を押したりしながら4人で前に進んでいく。そのバランスが絶妙なのだ。
といって、むろん彼女たちだけでは南極には行けない。大人の中に混じって、文字どおり「便乗」させてもらうわけである。
第7話「宇宙(そら)を見る船」の舞台はオーストラリアのフリーマントル。ここがほんとの出発地点だ。ここにきて4人は、ついに大人組と本格的に合流する。
ここの大人たちはけっこうすごい。「民間でプロジェクトを立ち上げて南極に行き、基地で暮らす」という、途轍もない実行力をもった人たちだ(フィクションだから為しうることで、現実にはまず無理じゃないかな)。
観測船や基地はとうぜん国から払い下げられたものだけど、それにしても大変なことだ。
南極での活動は、「観測」や「研究」であって、すぐには利益を生み出さない。隊員たちは他のことで生計を立てている。公務員じゃないから、ふだんは別の仕事をやって資金を貯め、「いざ南極。」となったら馳せ参じて、任務に就くわけである(やっぱり、現実にはムリだろうなあ……とぼくは思う)。
もちろん任意だから、都合がつかなかったら来なくてもいいわけだけど、一回目に参加した人は、今回も全員集まったという。
作中ではそんなコトバは使われてないけど、これは「同志」と呼ぶのがいちばん近いんじゃないか。
営利団体ではない。与えられた職務を粛々とこなすだけの組織でもない。
「夢とロマン」を分かち持つ仲間なのだ。アツい人たちなんである。
アツくて凄い人たちなんだけど、作中ではまあ、いろいろと抜けてたり、すっとぼけてたりして、みなさん、わりとコミカルに描かれている。それがこのアニメのいいところだ。
このような、「同志的紐帯」で結ばれた人たちが協働して事を為す、というのも、「物語類型」のひとつである。古くは水滸伝。いや、そもそも三国志だってそうか。新しいところだと、そうだなあ、『七人の侍』? 『オーシャンズ11』? ぜんぜん新しくないな。どうも最近さっぱり映画を観てないもんでね。映画よりむしろ日本のマンガやアニメのほうに、山ほど類例があるだろう。それこそ「麦わらの一味」なんか。
この作品は大きな称賛に包まれているが、一部には、むろん批判の声もある。その中のひとつに「観測隊の設定にリアリティーが乏しい。」というものがある。たしかに厳密に検証すればムリっぽい部分は見受けられる(ぼくもさっきからそう言っている)。しかし「物語」としてみるならば、まさに正統中の正統なのだ。
隊員の頭数は、ほぼこのとおりだ。
08話、出航直後の記念撮影より。「2」を象ってるのは、これが2回目のチャレンジだからだろう
女性隊員も少なくないが、大半が男性である。年長の男性も混じるこのメンバーを束ねるのが、隊長の藤堂吟だ。けして社交的ではなく、ムードメーカーでもないのに(そちらは副隊長の前川かなえが担当している)これだけの重責を担うのだから、さぞ有能なのだろう。とにかく意志の強そうな人だ。むろん、表情はいっけん冷たそうでも、胸の内はアツい人でもある。
船を前にして。貴子を思って俯けていた顔を、きっぱりと上げたところ
報瀬の母・貴子(CV・茅野愛衣)も、もちろんアツい人だった。夢とロマンのひとだった。
というか、彼女の情熱があったからこそ、このプロジェクトが立ち上がったわけで、いわば発起人なのだ。
ありし日の貴子。かなえが持ってきた話に目を輝かせる
話は2人の高校時代にさかのぼる。
そのころ、藤堂は南極になど何の関心もなく、いうならば貴子に引っ張り込まれたのである。その時の貴子のコトバが、「私、だれも踏んでない雪に足跡つけるの好きなんだよねー。」であったことからも、彼女が骨の髄まで「夢とロマン」のひとだったのは明らかだ。
高校時代の藤堂と貴子。貴子はここで初めて藤堂に南極への夢を語るが、これは01話で報瀬がキマリに「じゃあ、一緒に行く?」と誘ったのと同じ舘林のつつじが岡公園。制服から、この2人が報瀬とキマリの先輩だということがわかる
詳しい経緯は語られないが、貴子と藤堂は成人ののち、何らかの形で観測隊の一員となり、少なくとも一度は南極に行った。そこで前川かなえと知り合い、意気投合した。日本に帰ってきてから、かなえが「観測船と基地が民間に移譲される。」という話をもってきて、貴子が、やる!と手を挙げたことから、プロジェクト名「南極チャレンジ」が立ち上がったわけだ。
その貴子が、3年まえ、第1回めの南極行で不帰のひととなった。隊員たちは深甚なショックを受け、スポンサーは次々と撤退していった。
貴子からの最後の通信を受ける
藤堂、かなえはいうまでもなく、今回の旅に参加するみんなが、その悲しみを背負ってここにいる。
「同志」を亡くした悲しみだ。
藤堂にとっては、親友を亡くした悲しみでもある。しかも、自分は隊長だったのだから、たとえ貴子自身の過失による事故だったとしても、一定の責任はある。そんなことよりも何よりも、自責の念というものがある。
その思いを胸に、「臥薪嘗胆」で3年を過ごし、資金を集め、準備を整え、ようやくここまでこぎ付けた。まさしく「捲土重来」、さいきんの用語でいえば「リベンジ」だ。
そのリベンジの旅に、亡友の娘が同行する。その胸中はいかばかりか。
報瀬も内心ふくざつだろうけど、藤堂だって負けず劣らずふくざつだ。
この第7話いこうは、報瀬と藤堂との関係性の深まりも、大きな見どころになってくる。
この原稿を書くまえ、ぼくは、「友を亡くした男が、その亡友の息子の導き手となる」という物語類型があると思っていた。そんなハリウッド映画をいっぱい見てきたつもりでいた。ところが、いざ改まって考えてみると、適当なものが浮かばない。
小説やドラマやアニメやマンガまで広げても、いっこうに思い浮かばない。ネットを調べて、2015年公開の『クリード チャンプを継ぐ男』というのをやっと見つけた。あの『ロッキー』のスピンオフで(それにしてもえらく間があいたもんだが)、かつての好敵手・アポロの息子を、ロッキー(演じるはいうまでもなくスタローン)が鍛え上げる。
これはたいそうわかりやすい。しかし、べつにスポーツものに限らずとも、この手のものは他にもあるはずだ……と思うのだが、やっぱり思い浮かばない。
まして、「友を亡くした女が、その亡友の娘の導き手となる」話となると、さらに思い当たらない。女性の社会進出が始まってから、まだそんなに時間が経ってないからだ。
とりわけ、その友の死に自分自身がふかく関わっている……なんて話だと、ほとんど先例がないんじゃないか(もしご存知の方があれば、コメント欄でご教示ください)。
そうなると、このアニメ、さまざまな物語の粋(エッセンス)を結集したようでありながら、このテーマに関しては、意外と先陣を切っているのかもしれない。
追記) 書いたあとで、『精霊の守り人』を思い出した。主人公バルサの短槍の師で、育ての親でもあるジグロはバルサの亡き父カルナの親友だった。ただこれは、「友を亡くした男がその亡友の娘の導き手となる」ケースなので、やや変則である。しかし、ぼくが子どもの頃のフィクションだったら、このばあい、バルサはまず間違いなく男子として設定されていたはずだ。とはいえ身近にこんな類例があるんだから、ほかにも見落としはあるんだろうな。