ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「HUGっと!プリキュア」について 06 未熟だからこそ、リアル。

2018-07-30 | プリキュア・シリーズ
 ぼくがこれまで1年を通して第1話から最終話までみたシリーズは、前回ふれた『GO! プリンセスプリキュア』(2015年)だけだ。何となく途中からまったく見なくなった年もあれば、気が向いたときだけ飛び飛びに見ていた年もある。そもそもプリキュアという番組をまるっきり失念していた時期もある。それはまあ、そんなものだろう。
 だから過去シリーズと比較するにしても、自信をもって対象にできるのは「GOプリ」だけで、あとはオボロげな記憶をネット情報で補足しながら、ってことになるんだけれど、たぶん今作のもっとも大きな特徴は、主役の野乃はなをはじめ、5人のプリキュアたちの未熟さが目立つ、という点にあるように思う。
 未熟というか、もっと強く、「内面に欠落を抱えている」というべきかもしれない。もっとシンプルに、「さびしさ」といったほうがいいか。
 プリキュアチームの中心となる子は、初代の「キュアブラック」を除けばほぼ全員が「ピンク」をイメージカラーにしているので、「桃キュア」と称されているらしいのだが、その歴代の桃キュアのなかで、たぶん野乃はなは群を抜いて子供っぽく、もろい。
 歴代の桃キュアたちは、「まじめな優等生」と「さほど取り柄のない凡庸な子」との2タイプに分かれる(後者には、「スポーツは得意だが勉強はいまいち」というパターンも含む)。
 ただ、「取り柄のない凡庸な子」であっても、じつは芯には「強靭な意志」と「求心力(リーダーシップとは少し違う)」を持っている。そうでなければ、時には年長者も混じる混成チームのセンターにはなれない。
 野乃はなはもちろん「凡庸」のほうだが、「強靭な意志」と「求心力」はどうか。むろん、ヒーローとして闘い続けてる以上、その意志の強さは疑いもないが、それはあくまで「キュアエール」としての顔であり、ひとりの中2女子としての「野乃はな」自身はまた別だ。
 たとえば、「次のテストで平均点を10点上げる」とかなんとか、目に見えるかたちで目標を設定して努力している様子ってものは、見るかぎりまったく伺えない。この点は、学業、スポーツはもとよりバレエ、バイオリン、礼儀作法など「プリンセス」にふさわしい技能を修得すべく日々研鑽を怠らなかった「GOプリ」の春野はるかの対極にある。


 「求心力」はどうだろう。春野はるかのばあい、その人柄もさることながら、常人ばなれした努力と、費やした努力の分だけめきめきと向上する潜在力の高さによっても仲間たちを惹きつけていた。だから見ているこちらにも、彼女に寄せる仲間の信頼が納得できた。
 野乃はなにはそれはない。いや、キュアエールに変身したときは強いし、頼りがいのあるカッコいいヒーローなのだ。しかし野乃はな自身はちがう。彼女の「求心力」の依って来るゆえんをひとことでいうのはむずかしい。
 ①元気さと素直さと愛嬌のよさ。
 ②相手の長所をすばやく見抜いてそれを全肯定してあげる優しさ。
 ③自分がおかしいと感じたことに本気で怒る正義感。
 といったところか。
 たしかにこれらは魅力になりうるだろうけど、子どもっぽいといえば子どもっぽくて、危うさと裏腹でもある。じっさい、元気さと素直さと愛嬌だけでは社会は回って行かないし、相手をひたすら肯定してるだけでは必ずしも相手の成長に寄与しない。ただ甘やかしてるだけってことにもなりかねない。そして、「自分がおかしいと感じたこと」が、ぜったいにおかしいことである保証もない。向こうには向こうの事情がある。少なくとも、あるていどは向こうの事情だって汲んでやらねばならない。それが大人の社会だ。
 それが現実ってもののややこしさで、ただヒーローとして、襲来してくる敵を撃退してればいいのとは違う。
 つまりキュアエールとしての闘いは、もとより苛酷なものに違いないにせよ、明快といえば明快ではある。野乃はなが所属している社会ってやつはもっと複雑で、はな自身はまだ、それにあんまりうまく適応できてはいない。
 カッコいいヒーローとしてのキュアエールと、不器用で幼い野乃はなとの懸隔。もっといえば乖離。このことは、はっきりと作品のなかで前景化されつつある。
 26話の冒頭でも、「さあやは女優、ほまれはスケート、えみるはギター、ルールーはアンドロイド。みんなは何かを持っているのに、私には何もない。」などと、冗談めかした口調ながら、際どいことを述べていた。みずから進んで虎の尾を踏みにいくような発言である。さいわい、今回は久しぶりの「さあや回」であったため、話題はすぐに変わったけれど。
 いずれにしても「野乃はな」は、当初から幼かったうえに、全49話ないし50話の折り返し地点をすぎても、さほど成長した様子がみえない。はじめに「未熟」と呼んだゆえんだけれど、しかしおそらく、それこそまさに、ぼくが野乃はなに肩入れしちまう理由なのだ。
 ああいうもんじゃなかろうか。
 そりゃ世間には幼少期から優秀なひともいっぱいいるとは思うけど、やっぱり大多数の者は、中学時代からそんなに明確な目標をもってはいないし、ものすごい努力をしてるってわけでもないだろう。
 ぼく自身、中2の頃を思い返せば、夢もなく、将来への展望もなく、努力もせず、あまり周囲にも馴染めぬまま、右往左往するばかりであった。恥ずかしながら、3年間かけて卒業までにめざましく成長した実感もない。
 だから、作品の中のキャラクターとして、春野はるかは尊敬するが、その名のとおり遥か遠くにみえる。いっぽう野乃はなには、すぐそこにいるかような共感をいだく。そういうことだ。
 はなとは別のかたちにせよ、ほかのプリキュアの面々も何かしら欠落をかかえている。
 今回ようやく2回目の「当番回」(プリキュアになった02話を含めれば3回目)をもらった薬師寺さあやは、気が回りすぎ、細やかすぎるがゆえに、周囲が求める「さあや像」を察知し、それに自身を合わせようとして、自分のありかを見出せなかった。
 輝木ほまれは、容姿に恵まれ、スケートという特技をもち、大人びていて、生来のスター性を備えているゆえに、いざ銀盤を離れてふつうの中学生に戻ると、集団に溶け込みきれない傾向があった。
 愛崎えみる(CV 田村奈央)は、はなの妹と同じクラスの小6だが、一風(どころではないか?)変わった家庭で育ったゆえに、いろいろ過剰なところがあって、同世代のクラスメイトと円滑なコミュニケーションがとれなかった。


 ルールー・アムール(CV 田村ゆかり)は、なにしろ17話まで敵陣営にいたアンドロイド(!)なので、感情生活においてはまだまだ幼く、IQはずば抜けてはいても、精神年齢においてはえみるとさほど変わらない(それもあってえみるともっとも親しい)。


 このようなメンバーだからこそ、上で述べた、はなの子どもっぽい、どこか危うい特性が、とりわけ②の「相手の長所を見抜いて全肯定する優しさ」が生きたのである。とりあえず「あなたはそれでいい。なにひとつ卑下することはない。とにかく私はあなたのそばにいて、あなたのことを応援する。」というメッセージを送る。それは彼女の母すみれがこれまで折にふれて何度となく繰り返し伝えてくれたことだ。
 出会ったとき、はなはまずそのメッセージを発した。そして、それがどうにか相手の心に届いたところで、ようやくそれぞれとの交流がはじまったのだ。
 すでに述べたとおり、それは必ずしも相手の成長に寄与するとは限らない。とくに年少のえみるや、かつて敵として悪事に手を染めたルールーに対しては、ほかにもっと然るべき対処があったかもしれない。
 しかし、それは大人の理屈というものだろう。とりあえずは自分の傍まで、こちらの言葉が届く場所まで相手が近づいてくれないことには、話すことすらできぬではないか。そのために、はなは、今の自分にできることをやった。むろん「アホの子」だから計算づくじゃない。本能だ。
 そして4人はおのおのの仕方で彼女を受け容れた。
 それくらい、はな自身をも含め、彼女らの「さびしさ」が大きいものだった、ということでもあろう。
 絵柄は明るく華やかで、ギャグもたっぷりまぶしてあるからつい見過ごしてしまいそうになるが、この作品に描かれた彼女たちの「未熟さ」はひどく切実で、やっぱりぼくには、ひどくリアルなものに思える。

「HUGっと!プリキュア」について 05 ヒーローの条件

2018-07-22 | プリキュア・シリーズ
  ヒーローとは、
  時には愚者。時には勇者。
  時には王者の輝きをもち、時には彷徨(さまよ)い、時には鷲のごとく猛り狂い、時には優しい面持ちをうかべ、時には崇高さをまとい、時には侮辱をうける者。

 古いインドの箴言を、すこしアレンジしてみました。
 ヒーロー(英雄)のもつ両義性、双極性を強調した言葉だけれど、キュアエールこと「野乃はな」くらい、この条件に似つかわしいキャラもいまい。
 「愚者」。



 こういった表現は「変顔」と称されているようだが、生身の人間がちょっと滑稽な顔をしてみせた、といったレベルの話ではないので、ほかの呼称が必要かもしれない。アニメ(マンガ)ならではの手法……には違いないにせよ、しかしジブリや、もしくはディズニーの3Ⅾアニメで登場人物がこんな顔をするとは考えられないから、たぶん日本のテレビアニメに特徴的な表現手段といえるだろう。作画班の負担を減らすと共に、キャラの振れ幅を大きくすることで、上記のような両義性・双極性を印象づける効果がある。一石二鳥だ。
 メインのプリキュア5人は、とくに日常パートにおいてはこの手の顔をよくするが(アンドロイドのルールーさえも)、やはり野乃はなの頻度が際立って多い。主役ってこともあるけれど、よかれあしかれ子供っぽさが強調されているのだ。
 これだけだったらただのギャグマンガなので、とうぜん「勇者」の顔もある。



 崇高さをまとい、鷲のごとく猛っている。
 ギリシア神話のアンドロメダ、古事記のクシナダ姫など、古来より神話においては、若い娘はただただか弱き者であり、怪物(竜……ドラゴンが多い)に供犠(くぎ)として捧げられる。たまたまその地を通りかかった「英雄(ヒーロー)」がその受難を聞きつけ、一計を案じ、力をふるって怪物を倒して彼女を救う。そしてそののち結婚する。
 昔話や童話では、魔女の呪いにかかって永い眠りについた王女が、通りかかった王子様のキスによって目覚めたりする。これも「救出」のバリエーションだろう。いずれにせよ、ヒロインはひたすら無力で、助けを待つだけの存在だったのである。そんな時代が長く長く続いた。
 21世紀、趨勢は変わった。
 プリキュアの面々は、最前線に立って敵と闘い、人々を守る戦士なので、ヒロインではなく彼女ら自身がヒーローだ。このことは過去のシリーズにも伏在していたかと思うが、今作の、とりわけ19話においてはっきりと主題化された。
 「育児」をメインテーマに据える作品だけに、もともとジェンダーフリーに敏感だった。嬰児のはぐたん(CV 多田このみ)の世話をふだん行ってるのはハリー(CV 野田順子/福島潤)であり、人間の姿の時はいわゆる「イクメン」だ。はなの父・森太郎が料理をしているくだりもあったし、さあやの父に至っては、(ここまでワンシーンちらりと登場しただけだが)おそらく専業主夫かと思われる。
 19話では、ファッションショーにドレス姿で出演した美少年アンリが、襲撃してきた怪物に掴み上げられて「これ僕、お姫様ポジションになってない?」と言ったのを受けて、「いいんだよ! 男の子だって、お姫様になれる!」とキュアエール姿のはなが力強く返すシーンがあった。
 ただ、そのときのアンリは、キングコングに掴まれたフェイ・レイみたくきゃあきゃあ絶叫したりせず、じつにクールで、「男らしい」落ち着きをみせていた。しかもその次のシーンでは、自分を掴んだ怪物の心が「旧弊な性差別的心情に縛られた」知人のものであることに気づいて、やさしく抱擁し、情理を兼ね備えた見事な言辞で説得につとめた。
 こうなってくると、現代におけるジェンダーってのはたんに逆転すればいいってもんじゃあないのがわかる。「女の子らしさ」と「男の子らしさ」の良い面と悪しき面とを見極めて、慎重に吟味し、選り分けていくことが求められてるんだろう。
 ジェンダーの話はひとまず置いて、ヒーローについてもう少し。こんな定義もある。


  英雄(ヒーロー)とは、きわめて困難な通過儀礼や、神秘と驚異にみちた未知の段階へのイニシエーションを受ける不屈の精神の擬人化である。


 不屈の精神。
 「プリキュアはあきらめない。」ということばが、これまでのシリーズ全作を貫くスローガンとして確立されている。むろん今作でもたびたび出てくる。
 これに加えて、今作のプリキュアのみなさんは、「なりたい自分になる。」という命題を、自らに課してもいる。
 2015年の『GO! プリンセスプリキュア』では、ヒロイン、いやヒーローの春野はるか(CV 嶋村侑)が、「プリンセスになる!」という断固たる決意を貫いて1年のあいだ主役を張った。
 彼女の思う「プリンセス」とは、べつにどこかの王族に嫁ぐとかいう話ではなくて、「擬人化された究極の努力目標」とでもいうべきものだった。
 つまりニーチェの「超人」と同じだ。どれほど努力しても辿り着けない絶巓(ぜってん)だけど、それを遥か高みに設定し、常に仰ぎ見ていることにより、日々、怠ることなく研鑽をつみ、自分を向上させられるわけだ。
 野乃はなは、「私がなりたい野乃はな」の像をもっている。「いけてるオトナのお姉さん」と口にしたりもするけれど、これは彼女の語彙が貧しいせいで、とてもじゃないけど、そんな上っ面だけのものではない。
 優雅さとか気品とか洗練とか、そういったものとは縁遠いにせよ、やっぱりそれは、春野はるかが目指した「プリンセス」と似たものだろう。
 しかも、「プリンセス」という明確なことばで措定されない分だけ、ぼくなんかには、より切実に響く。
 本日放送された25話にて、キュアエトワール姿の輝木ほまれも「なりたい私」というキーワードを口にしていたけれど、初めのころ彼女にはそんな発想はなかった。これは、05話において、はなとさあやから託されたものだ。
 はな「私、なりたい野乃はながあるの。だからがんばるの」
 さあや「私、ほまれさんが好き。前よりずっと好きになった。私やはなちゃんにはできないことが、ほまれさんにはできる。……ほまれさんにはできないことが、私たちにはできる。私たち、きっとすごく仲良くなれる」
 はな「ほまれちゃんは、どんな自分になりたいの?」
(05話より)
 野乃はなの「なりたい私」は、春野はるかにとっての「プリンセス」と同じく、まる1年をかけて追求していくものなので、今の時点では明瞭にはわからない。ただその核心は、すでに01話にて打ち出されていた。とても強烈なかたちで。
 学校がクライアス社の怪物に襲われる。「はぐたん」がはいはいをしながら一人でそれに向かっていく。見るからに危ない。難を避けて逃げる途中のはなは、その姿を見て思わず駆け寄り、そのまま怪物の前に立ちはだかるのである。
「ここで逃げたら、カッコ悪い。……そんなの、私がなりたい野乃はなじゃないッ!」














 「そんなの」と「私がなりたい……」とのあいだに、はぐたんに頬ずりをして、一瞬目を閉じる描写が入る。「ここにこんなにも愛しく、守らねばならないものがいる。」から「私は逃げずに巨大な敵に立ち向かう。」という思い入れである。
 「腕に抱いた愛しきものを守らんがために全霊を賭す。」という姿勢は、かつて「いじめ」から自分を守ってくれた母親から学んだものかも知れないが、無謀ともいえる(いやむしろ、無謀としかいえない)かたちでそれを実行してみせた野乃はなは、どこからどう見ても紛うことなきヒーローだ。「母性」もまた、今やヒーローの条件となりうるのである。

「HUGっと!プリキュア」について 04 朋友(とも)は光のなかに。

2018-07-17 | プリキュア・シリーズ
 「HUGっと!プリキュア」の制作陣は、49話×23分(推定)=1127分(推定)という尺を所与のものとして、劈頭からラストシーンまで、ほぼ隙のない「一本の作品」をつくろうとしてるのではないか、と前々回にぼくは書いた。
 それくらい、ひとつひとつのカットに無駄がなく、すべてが濃密で、有機的につながってるのだ。トータル・コーディネートが行き届いているとでも言うか。
 もうひとつ、「光と影」の描写がおそろしく緻密だ、とも書いた。「光と影」については、16話がとにかく凄くて、2018年の時点におけるアニメ表現のひとつの極ではなかったかと思う。以下の図版は、ほんの片鱗にすぎない。





 16話より。


 この「光と影」と、トータル・コーディネート、ふたつの特徴がいかんなく発揮されたのが次のシークエンスだろう。
 01話。転校初日、ふしぎな赤ちゃんの声に導かれ、校舎の屋上に出た野乃はなが、薬師寺さあや(CV 本泉莉奈)、輝木ほまれ(CV 小倉唯)の2人と出会うシーン。
 いちおう同級生なので、お互いにまるっきりの初対面ではないのだが、3人が一堂に会して顔を合わせるのはこれが最初である。




 のちにプリキュアとして共に闘う仲間たちなので、まあ運命の出会いといっていいと思うが、いかにも運命の出会いにふさわしい、崇高さをおびたシーンとなっている。
 この構図が、そっくりそのまま11話で反復される。
 出会いの時からいくつかの曲折を経て、この時はもう朋友になっているのだけれど、この前の回ではなは、さあやの有能さ、ほまれの卓越した運動能力とスター性に圧倒されて、自分には何の取り柄もないと、すっかり自信を失っていた。明るくて元気な女の子ではあるのだが、前の学校で「いじめ」にあったことが尾を引いて(この時点では視聴者はそれを知らされてないが)、じつはたいそう自己評価が低く、内面に脆さを抱えた娘さんでもあるわけだ。
 「友がみな我より偉く見ゆる日よ」という石川啄木の歌ではないけれど、同じプリキュア仲間のスペックの高さに劣等感をおぼえて落ち込む設定なんて、過去シリーズにはなかったはずだ。
 夜。自分の部屋で眠れずに輾転反側(てんてんはんそく)するはなを、まずは母のすみれが慰撫する。寝室が別なのに娘の様子に異変をおぼえて足を運ぶ繊細さと優しさ。そのことばは娘の屈託を真正面から受け止め、その存在を無条件で丸ごと肯定し、未来へと向かう力を与える。



「どうしてわたしは、さあやみたいに賢くないし、ほまれみたいに運動もできないんだろう。どうしてわたし、何も持ってないんだろう?」
「(はなの頭を撫でながら)はなが産まれてきた時ね、パパとママは、とってもうれしかったの。はなは笑うだけで、私たちを幸せにしてくれた。今もそう。はなの笑顔はどんな時だって、ママたちに幸せをくれる」
「(泣きじゃくり、母の胸に顔を押し当てて)ママ……ママ……めっちゃいけてるお姉さんになりたいのに、あたし、めっちゃカッコ悪いの……。こんな私、ぜんぜん好きじゃ……ない。どうしたらいいか、もうわかんないよぅ」
「(笑って)はなは、少し大人になったのね。フレフレ、はぁな。前を向いて、今をがんばれば、きっとすてきな未来がやってくる」
 こうやって夜を乗り越え、次の日の朝、はなが玄関を出たところで、01話のあのシーンが反復される。2人して、ずっと待っててくれたわけである。





 はなの顔をまっすぐに見つめて、さあやがいう。
「いつでもがんばり屋さん。だれかのために一生懸命になれるところ。失敗してもガッツで乗り越えるところ。すなおで表情がくるくる変わって、見ているだけで元気になれるところ。まだまだいっぱいあるよ。わたしが憧れた、はなの素敵なところ。だから……何もないなんて言わないで!」
 自らの思いをきっちりと言語化できるさあやに対し、ほまれは毅然たる面持ちで、ひとこと、
「はな」
 と力づよく彼女の名を呼び、あとは黙って両手をひろげる。その胸に飛び込んでいくはな。


 注目したいのは、同じシーンの反復でありながら、01話のほうではさあや、ほまれの顔がやや逆光ぎみにいくぶん陰をまとっていることだ。それに対し、この11話では全体にハイライトが当たって、ふたりの朋友はまるっきりもう眩い光のなかにいる。3人の関係性が、それだけ晴れやかなものになったのである。



「HUGっと!プリキュア」について 03 第24話 元気スプラッシュ! 魅惑のナイトプール!

2018-07-16 | プリキュア・シリーズ
 ドイツの文豪(にして自然科学者にして政治家にして法律家)ゲーテ(1749 寛延2~1832 天保3)の代表作『ファウスト』において、主人公のファウスト博士は、「もし自分が、『時よ止まれ、お前は美しい。』と心の底から思えるような、そんな瞬間が訪れたなら、そのときに私の魂をやろう。」との条件で、悪魔メフィストフェレスと契約する。
 英語にも、「STAY GOLD」という慣用句があって、これをそのままタイトルに使った歌もいっぱいある(宇多田ヒカルにもある)。「STAY」といってるんだから、これも「光り輝くこの時をずっと」みたいな意味だろう。
 ぼく自身は、根っからの苦労性のせいか不幸にしてそういう記憶がないんだけれど、「ああ楽しい。いつまでもこの時間が続けばいいな。」と思った経験は、子ども時分からの思い出をたどれば、たいていの方がお持ちなのではないか。
 「HUGっと!プリキュア」における敵の組織は、「クライアス社」(泣き叫ぶ、という意味のcryと、暗い明日、との両義を含むのであろう)と名乗る謎の会社だ。
 会社といいつつ、どのような経営手段で利益を生み出しているのかは(児童向けアニメなので)不明なのだけれども、その「企業理念」および「目的」だけははっきりしている。それは社長(プレジデント)たるジョージ・クライ(CV 森田順平)の信念でもある。
 公式ページから転載させて頂こう。

クライアス社は創立以来、世界中の人々の幸福を願ってまいりました。
世に蔓延る明日への希望、そこに永遠はありません。
未来は必ずしも明るいわけではないのです。
我々はこれからも皆さまに本当の幸福を提供できるよう精進してまいります。

 いかにもヤバい会社らしく肝心なところをぼかしてるあたりが生々しくて笑えるが、ようするに「時間を強制的に停止する。」のが、クライアス社の目的であり、「そうすることが全人類にとっての真の幸福なのだ。」というのが、ジョージ・クライの信念なのだ。
 純文学ではとうていこれほどスケールの大きな悪役は出せないけれど(出てきたら単なるイカレたひとである)、SF小説、さらにマンガやアニメの世界には、たぶん先蹤(せんしょう)がいるとは思う。とはいえ、挫折して屈折して拗らせまくった元・政治青年(政治青年は、往々にして文学青年でもある)といった風情のキャラ造形とも相まって、プレジデント・クライ、なかなかに魅力的なのである。




 今作のヒロイン、じゃなくてヒーロー野乃はなは、「みんなを応援! 元気のプリキュア、キュアエール」に変身せずとも、ふだんから「誰かを元気づけること、周りの人たちを笑顔にすること」をモットーとしている立派な娘さんである。
 といっても、けして優等生ではなく、転校初日の慌ただしい朝に、イメチェンをはかって(工作バサミで)前髪を切って大失敗したり、遅刻して(それも人助けのためだったのだが)教室に駆け込み、派手にずっこけたりして、ネット上の一部ファンからは愛をこめて「アホの子」などとも呼ばれている。
 ジョージ・クライは、なぜか早くからはながキュアエールであることを見抜いており、偶然をよそおって、これまでに何度か接触をはかってきた。むろん敵の総帥としてではなく、行きずりの、ちょっと風変わりな壮年(ぎりぎり青年かな?)男性として。
 その「正体を隠しての接触」の総決算となったのが23話だ。ふたりの邂逅シーンではよく雨が降る。ここでも、一人きりになったはなが急な雨を避けて飛び込んだ公園の四阿(あずまや)が、幾度目かの再会の場所となる。
 ここではなは、「すべてのひとが笑顔でいられる世界がぼくの夢なんだ。」と語るジョージに、「わたしと同じだ。」と目を輝かせるのだが、その直後、プレジデント・クライとしての本性をあらわした彼が、「そのために、世界の時間を止めるんだよ。」と誇らしげに宣言するのを目にして(当然ながら)ショックを受ける。
 これはバトルアニメであるからして、はなはもちろん、ショックを受けるに留まらず、変身し、怒りに燃えて肉弾戦と相なるわけだが、そうやっていちどはジョージを退けてはみても、こころの痛みはとうてい癒えるものではない。
 ……といった、前回のてんまつを承(う)けての24話であったわけである。
 それでもはなは笑顔を絶やさず、「どんなことがあっても、わたしたちの13歳の夏は1度きりだよ!」と高らかに述べて仲間たちを鼓舞し、「超ナイトプール」ならぬ「町内トプール」へ勇んで出かける。
 愛すべき「アホの子」の面目躍如といったところで、見ているこちらもほっとする。開始時刻を待ちきれず、準備段階のうちに到着したのはいいのだが、そこは彼女の思い描く「いけてる大人のナイトプール」ではぜんぜんなくて、市民プールの中央に盆踊りのやぐらを組み、周囲には大漁旗や鯉のぼりを吊るした、珍妙なダサダサ空間であった。だから町内トだっていってるのに……。
 それでこういうことになる。この手のギャグ顔は、ネットでよく「変顔」と称されているが、もはやそんなレベルではなく、「おそ松さん」に肉薄してるといっていい。




 この顔のまま町内会長に詰め寄るはな。しかし、ここからがこの作品のいいところで、会長さん、「君たちヤング(ヤング、と会長さんはいうのである)が中心なんだから、君たちのセンスで飾り付けてよ。予算はたっぷりあるから。」という。一転、はなの顔がぱっと輝く。
 ていよく使われちゃった、とも言えるが、そこは「育児」と「仕事」をテーマに据えるHUGプリ。はなたちは買い出しに行き、体操着に着かえて、プリキュアチーム全員で、「いけてる大人のナイトプール」を具現化すべく奮闘する。
 その甲斐あって、見事な空間ができあがった。開始時刻がくる。歓声をあげてプールに飛び込む子どもたち。みんな笑顔にあふれている。そのなかには、はなの家族や、クラスメイトたちの顔もある。




 ぼくが今回もっとも感じ入ったのはここからだ。ほかの4人の仲間と離れ、はなはひとりでプールに浮かぶ。自分たちが大汗をかいて創りあげた空間で、みんなが楽しく遊んでいる。ことさら言って回ったりはしないから、はなたちが功労者であることは誰も知らない。それはプリキュアとして世界のために素性を隠して闘い続けるはなたちの姿の写し絵ともなっている。
 ジョージ・クライと何度となく言葉を交わしたのははなだけだ。「みんなが笑顔でいられる世界」を共通の夢として語り合ったのも、はなとジョージ2人だけのことだ。いくら明るく振舞ってはみても、心の痛みはやっぱり彼女がいちばん深い。だから一人にならざるをえない。
 はなはもちろん、笑顔ってものは明日への希望があってこそだと信じている。しかしジョージは時間を止めるという。それだけが笑顔を守る唯一の手段であり、本当の幸福のありかたなのだと。
 プールをゆっくり回遊しつつ、「ああ、みんな楽しそうに笑ってる。よかったな……」という表情をうかべるはな。しかし、なぜかとつぜんその表情がこわばる。




 おそらくここで、「このすてきな時間がずっとこのまま続けばいいな」と、彼女は思ったのではないか。そしてそれが、つまりはジョージの「思想」と同じになってしまうことにも気がついてしまったんだろう。
 深い。
 このあたりの機微、ほんらいの対象視聴者層である児童のみなさんに果たしてわかるんだろうか。
 はなは脅え、それから気を取り直し、「わたしはわたしのやり方で、このみんなの笑顔を守る」と決意を固める(台詞として語られるわけではないが、映像でちゃんとそう表現されている)。
 しかしそれはあまりにも重い責任だ。涙がにじむ。それを隠すため、彼女は仰向けの姿勢でプールに沈み込んでいく。
 戦友でもある仲間たちさえ、そんなはなの心に気づかない。母のすみれだけが不審をおぼえて遠くからそっと見守っている。




 哀しくも美しいシーンだ。
 もちろん、子ども向けアニメだから救いはある。えみる&ルールーが、はなたちにも内緒で準備していたサプライズ・ライブをぶちかまし、会場を「アスパワワ」でいっぱいにする。すぐにクライアス社の襲撃によって楽しいムードは薙ぎ払われ、不安と恐怖が周りを包んで、はな自身さえも立ち竦んでしまうのだけれど、しかし、えみルーコンビはひるむことなく、それを上回るパワーでライブを続行、ふたたびみんなが「アスパワワ」を取り戻す。
 その「みんなのアスパワワ」が、今度ははなの力となる。「そうか。守るだけじゃなくて、わたしもまた、みんなから力を貰うんだ。」と、はなは気づいて、キュアエールに変身し、仲間と共に敢然と敵に立ち向かうのだった。
 今作、5人のプリキュアがべったり横並びではなくて、オリジナルの3人と追加の2人と、いわば2チームに分かれているのがよい。
 かくて敵を撃退し、こんどは屈託なく全員そろってプールを愉しむラストシーン、23話で身内から無惨にやられて消滅したかに思えた敵幹部のおやっさんが無事に生還していたことも判明し、ようやく心からの笑顔に包まれるはな。それを遠くから見つめ、「いい笑顔」とこちらも安堵の笑みをうかべるすみれ。前途はもちろん多難だけれど、このたびの危機を、はなはみごとに乗り切ったといえよう。







「HUGっと!プリキュア」について 02 1年という尺を、余すところなく使うということ。

2018-07-13 | プリキュア・シリーズ
 プリキュアシリーズは、今年で15周年をむかえ、今や東映アニメーションのみならず、東映そのものを代表する一大コンテンツとなった(同じく東映が製作する『相棒』で、杉下右京がプリキュアに言及する挿話があるのはよく知られている)。
 玩具メーカーその他との提携も多い。いうまでもないことながら、市場の原理に従っている。制約というと言葉がわるいが、これが製作上の重要な条件であるのは間違いない。
 もともとアニメなんて絵空事だ。まして児童向けアニメとなれば、そのうえに綺麗事でもある。ただしそれは、ひたすらお菓子のように甘ったるいお話をつくればよい、ということとは違う。もとより糖衣で何重にもコーティングしたうえで、ではあるけれど、社会の厳しさ、人間の悪意、といったものを、幼い視聴者のまえに提示しなければならない。
 もうひとつ、親の世代にどこまでアピールできるか、という課題がある。これは今作のスタッフではなかったかもしれぬが、過去のシリーズに携わった方の弁として、「番組を見ながら子どもさんが、面白いね、といって顔を上げたら、となりでお母さんがぼろぼろ泣いてる。そんな作品をつくれたら……」と述べていらしたのを、ネットで見かけた記憶がある。
 親子2世代の心にとどく物語。
 今作のプリキュアは「育児」と「仕事」という大きな主題を正面にすえた。どちらも綺麗事からは遠い。とうぜん反発も予想される。「仕事しながら子どもを育てるってのは、こんな甘いもんじゃないよ」と気をわるくする人もいるかもしれない。スタッフはそれを承知で踏み込み、スポンサー側は受け容れた。その度量にぼくは敬意を払いたい(企画を立ち上げる時点で制作陣とスポンサー側との間にどれだけの話し合いがあるかは知らないが、まるでノータッチってことはないだろう)。
 シビアな現実のまえで「綺麗事」は虚しい。往々にして、たんなる現実逃避に使われたりもする。しかし思えば、「理想」と呼ばれるものだって要するに「綺麗事」ではないか。「綺麗事」をもっとも美しく言い換えた表現こそが「理想」ではないか。
 「変身して悪と闘う女の子」という思えばフシギな(どう考えても日本独自の)フォーマットに乗せて、子どもとその家族との、子どもとその友人たちとの、「理想」の人間関係をていねいに描きだす。それがこのシリーズだ。




 「元気のプリキュア、キュアエール」こと野乃はなを育んだ家庭は、文字どおり理想のモデルケースである。父親の森太郎も立派なひとだけど、やはり母のすみれがすばらしい。繊細さと強さと包容力、そして適切な厳しさを兼備した母親。ひとつの人格としての娘の尊厳を、何よりも大事に思うひと。うちの母親なんてこのすみれさんを180°そっくりそのまま裏返した人物だったが、そこまではひどくなくとも、たとえば街を歩いていて、子どもを(精神的に)こづき回してる母親なんてしょっちゅう見かける。それが現実だ。
 現実とは醜く下劣なもので、深夜アニメではその点をリアルに写し取るどころか、よりいっそう誇張してみせる作品も多いようだ(ようだ、と書くのはぼくがアニメを、というか本作を除いてテレビをまったく観ないため)。それもひとつの、現代における表現だろう。
 いっぽうプリキュアシリーズは、シビアな課題を取り込みつつ、やはり総体としては「現実」を美化して「理想」をえがく。このような表現もまた、なくてはならないものだと思う。
 さて。制作にまつわるもうひとつの条件は、放送が1年の長きにわたるということだ。ぼくなどが子どもの頃は、「世界名作劇場」なるものがあり、高畑勲、宮崎駿といった巨匠たちもそこから巣立っていったのだが(さらに前歴を遡るなら二人とも東映動画の出身だが)、「世界名作劇場」が1996(平成8)年に打ち切られてからは、1年かけて全話を語るテレビアニメはなくなった(ワンピースとかドラゴンボールとか、原作付きのものは別として)。
 プリキュアシリーズはおおむね全49話。暦のかげんで全50話の年もある。放送時間は30分だが、CMやOP・EDの歌、予告、それに「バンク」と呼ばれる「使い回し」のカットなどを除くと、毎回のストーリー進行に使える時間はほぼ20分そこそことなる。まあ23分としましょうか。そうすると、23分×49=1127分の尺をもちいて、物語世界をつむぐわけである。
 劇場映画『君の名は。』が112分で、けっこう長いが、さらにその10本分にあたる。
 いわゆる「水戸黄門」方式でルーティンを回していくだけなら、全体としての密度はさほど関係がない。プリキュアの誕生~仲間との出会いにはじまり、各種イベントを織り込みながら、いくつかの試練を乗り越えて、最後に「ラスボス」(敵の総帥)との闘いに至る。
 この大枠さえ外さなければ、中のエピソードの増減によって、全体の密度はいくらでも調節できる。だから、「これは今回、脚本も作画班も楽をしてるな……」と苦笑させられる回も、過去のシリーズでは、あった。それは責められるべきことではない。劇場版もふくめて膨大な量の作業をこなしてるんだから、「お休み回」や「お遊び回」も必要だろうし、そうでない回でも、随所に「捨てカット」や「ゆるいシーン」があってしかるべきである。
 しかし今作はちがう。
 ぼくが今作のスタッフに畏敬の念をおぼえるのは、1127分(推定)という尺を所与として、劈頭からラストシーンまで、ほぼ隙のない「一本の作品」をつくろうとしているんじゃないか、と感じられるからだ。
 1秒たりと、ワンカットたりとも無駄にせず、すべてを余すところなく使い切って、ひとつの作品世界をつくる。
 そんな気迫が、(少なくとも23話まででは)伝わってくるのである。もちろんまあ、気迫だけじゃあムリで、CGやなんかの技術的な向上も大きいんだろうけど。
 売りものの変身シーンがカットされた回もあったし、それどころか、野乃はなをはじめ、プリキュアが変身しないまま終わった回もあった。作中のキャラ(えみるとルールー)がうたうデュエットがそのままエンディングにつらなり、本来のEDに差し替えられて、終幕にいたる回もあった(これは15年の歴史の中で初めての試みだったそうである)。
 そういった、目につきやすい工夫だけではなしに、映像表現の粋を尽くして、シナリオ(台詞)だけには盛り切れない内面のもようや、ふくざつな人間関係をあらわす描写がたくさんみられる。
 前回の記事でぼくは、01話のすべりだしの印象として、「画面の色調もBGMも引坂さんの演技もほんとに明るい。」と書いた。
 ここは「画面のムードもBGMも引坂さんの演技も……」と書くべきだったかもしれない。というのも、確かに印象は明るいのだけれど、「画面の色調」そのものはじつは暗かったからだ。
 前回の記事に添えた2枚の画像を参照してください。上が前髪にハサミを入れる間際のはなで、これは自分の部屋である。左側から光が当たっているのがご確認いただけると思う。
 下は学校の教室でのシーン。光がまんべんなく画面を覆っている感じで、ぼくたちがふつうアニメで見る画像はほとんどがこれだ。
 最初に見たとき、じつをいうと、部屋の中がやけに薄暗いので、ぼくは訝しく思ったのだった。カメラはまず、はなの後姿を捉えるのだが、ベランダ(左側)のカーテンが半分だけ開いていて、画面正面、はなの頭上の小窓から光が差し込んでいる。そんな画面構成だったのだ。
 しかしまあ、BGMは軽快で楽しげだし、引坂さんも軽妙に台詞を回してるもんで、「ま、ぜんぶ開けると眩しいから、こうしてるってことかな。」と、さして気には止めなかった。
 だけど23話まで観て、今作のスタッフがおそろしいほど「光と影」の描写にこだわり、かつ、そのこだわりを鮮やかに表現しているのを知って、考えがあらたまった。
 この画面構成はぐうぜんではなかった。たんに、「ぜんぶ開けると眩しい」ってだけでもなかった。この薄暗さはやはり、はなの不安を表してたのである。そして、頭上の小さな窓から差し込む光が、その絞り込まれた光量が、この時点における彼女の「希望」の総量をあらわしてたのだろう。
 これもまた、23話で彼女の過去があかされて、「より深く、より重い意味を帯びて立ち上がって」きた事柄のひとつである。
 画面づくりに込められたスタッフの熱意と腕前には感嘆するしかないが、今作において、こういった表現はけして突出したものではない。むしろ、枚挙にいとまがないほどだ。



「HUGっと!プリキュア」について 01 突き進む巨船としての「物語」

2018-07-11 | プリキュア・シリーズ
 このたびの豪雨で被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。





 アニメ「HUGっと!プリキュア」がすばらしい。子ども向けアニメの枠にとうてい収まるものではない。「現代における物語」を考えるうえでの教材として、折にふれて考えていきたいと思う。

 「時間的および因果的に前もって起こっていた事」を、あとになって読者(観客)に提示する手法を「後説(こうせつ)法」とよぶ。
 よく使われるのは、メインの登場人物が、「表面では明るくふるまっているが、じつはこんなに重い過去を背負っていたのだ……」というケース。
 改めてその事実を提示されることで、読者(観客)は、それまで自分が辿ってきたエピソードの数々を思い起こし、これまでとはまた違った目で、それらのエピソードを見返すことになる。
 じぶんのなかで、物語の「再構成」をせまられるわけだ。
 いうまでもなく、そのキャラクターにむけるまなざしもかわる。
 「HUGっとプリキュア!」は、23話まで進んだところで、主人公(のひとり)野乃はな(CV 引坂理絵)が、かつて「いじめ」にあっていたことが明らかになる。「ぼっち(仲間外れ)」というやつだが、もとよりこれも、まごうかたなき「いじめ」である。
 いじめられていたクラスメイトを庇ったせいでそうなったことも、短いカットで示される。
 だから23話までくると、01話……サブタイトルは「フレフレみんな! 元気のプリキュア、キュアエール誕生!」……からのすべてのエピソードが、より深く、より重い意味を帯びて立ち上がってくることになる。
 いじめの解決策として、はなの母親・野乃すみれ(CV 桑谷夏子)が選んだ手段は「転校」だった。
 01話の冒頭は、はなの転校初日のその朝なのだ。
 リアルタイムで観ているとき、われわれ視聴者にそのことはわからない。夢にも思わない。すべりだしの印象は、ただただ明るかった。
 作品内におけるはなの第一声は、「フレーフレーわたしぃー。がんばれがんばれわたしぃー」だ。「みんなを応援! 元気のプリキュア、キュアエール」の第一声は、何よりも、まず自らを鼓舞するエールだったのである。
 全体の印象は、画面の色調もBGMも引坂さんの演技もほんとに明るい。そりゃあまあ、日曜朝の子ども向けアニメが、いきなり暗くちゃしょうがない。しかし23話を見終えた目であらためて見返すと、自身へと向けるこのエールに、切実なものを感じずにはいられない。
 ただやはり、整合性がきちんと取れているかというと、そこはいささか心許なくて、23話のあのエピソードからどれだけの時間が経っているかはわからないけれど、本来ならば、このときのはなは、もっと緊張しているはずだし、もっともっと内面で葛藤を演じてるはずだ。
 なにしろ「中学生活のやり直し」を懸けた転校初日の朝なのである。とてもじゃないが、朝ごはん前の慌ただしい時に、「この日のために伸ばしてきた」前髪を切ってる(それも工作バサミで)余裕なんぞないだろう。ふつうなら、せめて前の晩のうちにやる。
 もちろん、全話の滑り出しとして、はなが自らの手で前髪を切る(そしてもちろん失敗する)このくだりはとても魅力的である。シナリオとしても、演出としても、ぜひ冒頭に持ってきたい。昨夜にうちに済ませときましたじゃ面白くない。ぼくが脚本を書いてもそうする。
 しかし、リアリズムの見地からいえばやっぱりおかしい。つまりここは、「お話としての面白さ」と「リアリズム」とを秤にかけて、スタッフが前者を選んだ事例といえる。
 もうひとつ。23話において、はなが過去のつらい記憶をフラッシュバックさせたのは(言い換えれば、彼女の過去がぼくたち視聴者に提示されたのは)「キュアエールさんはすごいよな。自分より大きなものに立ち向かって」というクラスメート(男子)の噂話が耳に入ってきたせいだが、ここで思い出すのなら、これまでにもその機会は何度となくあったはずなのだ。
 もちろん、じっさいにそんなもんいちいち思い出してた日にゃあ、話は澱むし、陰気くさくなるし、ストーリー自体が成立しなくなってしまうから、それは仕方がないのである。つまりここでも、「お話としての面白さ」が「リアリズム」に優先している。
 誤解しないで頂きたいが、ぼくはけっして難ずるつもりで書いてるのではない。それどころか、「HUGっと!プリキュア」は、自分がこれまで見てきたアニメの中でベスト5に入るとさえも思っている。まだ半分もいっていないが、よほどこのさき迷走したり、破綻をきたしたりしないかぎりは、その評価はゆるがないだろう。
 「児童向けアニメだからそんなもんだろう」と、たかをくくってるわけでもない。今作のスタッフは、そんな安易さとは縁がない。だからこっちも本気で観ている。上に書いたような齟齬(そご)などは、はるかに予算をかけたハリウッド映画でもひんぱんに見受けられることである。つまりこれは、「物語」というものが否応なしに抱え込んでしまうバグなのだ。ピンセットで埃を摘まみ出すみたいに、これらのバグをことごとく取り除こうと努めたら、およそ物語を紡ぐことなど不可能となろう。
 よき物語(作品)とは、数知れぬ微細なバグを抱え込みながら、それでも断固として突き進んでいく巨船みたいなもんじゃないかと、最近ときどき考える。それを動かす力は作り手のもつ強い意志だ。バグを侮ってはむろんいけない。しかし、あまりにそれを恐れては、物語そのものが進まない。1年に及ぶ長尺とあらば尚のことである。
 それに、「はなの過去」との整合性が取れないのは、ぼくの見たところその2点くらいなのである。そのほかは、「はなが過去にいじめにあっていた」ことを考え合わせると、あらためて腑に落ちることが多い。初めに述べたとおり、「すべてのエピソードが、より深く、より重い意味を帯びて立ち上がってくる」のだ。齟齬を突つくことよりも、そちらに目を向けたほうが、生産的に決まってる。
 さて。視聴者の予想どおり、はなのヘアカットは失敗し、「前髪ぱっつん」のスタイルとなる。
 「前髪ぱっつん」は、三戸なつめさんという歌手がいるので、オリジナルとはいえないが、変といえば変、可愛いといえば可愛い、とても際どいスタイルだ。サイドのヘアーと、顔ぜんたいとのバランスに左右されるのであろう。
 アニメなので、はなのルックスはもちろん魅力的に設えられている。ただ、ちょっと変な感じも残してあって、絶妙なキャラデザインといえる。




 はなの理想の「なりたい私」は、かたわらのスケッチブックに描かれてあった。ラフだけどしっかりした素描で、なかなかの腕前である。「あわわわー」というコミカルな嘆声にあわせて、窓からの風がそのページをふわりと閉じる。ていねいな演出だ。
 ここまでが、OPの歌のまえ、いわゆる「アバン」だ。
 一階で食卓につくはな。家族構成は、父・森太郎(CV 間宮康弘)、母・すみれ、妹・ことり(CV 佐藤亜美菜)の4人。はなとことりが並んで座り、両親は画面の奥にいる。
 すみれが何らかの仕事についていること。デフォルメされてるのか?と思うくらいガタイのよい森太郎が、その体格どおりじつに安定した人柄であること。結果としてこの家庭が、共稼ぎであっても殺伐とはせず、和やかさに満ちていること。これらの情報が的確なカットでぼくたちに届けられる。
 画面の手前では、はなが食卓に顔を伏せている。ことりが前髪のことでつっこみをいれる。はなは「切りすぎちゃったよ~」と泣きを入れるが、引坂さんの芝居はあくまでも陽性だし、うしろでは軽快なテーマがずっと流れているので深刻にはならない。仮に転校初日ならずとも、女子にとってはけっこうクリティカルな状況じゃないかと思うが、とにかくムードはひたすら明るい。
 すみれが、「ごはんよ」といって皿を出すと、はなはとたんに「うわあ~、オムレツだ~」と顔を輝かせ、さっそく食事に取り掛かる。はなの子供っぽさをからかうことり。はなは中2。ことりは小6。「どこか抜けてる姉」と「しっかりしている妹」のセットは、わりとよくみるパターンで、この姉妹もその文脈のうちにある。もちろん、仲はたいへん良いのである。はなが(父親に似ず)かなり小柄であることも、このとき強調される。
 はな(とことり)に朝食を出し、美味しそうにむしゃぶりつく様を見守るすみれは、出勤前のビジネスパーソンではなく、母親の顔だ。「育児」と「仕事」がこの作品のテーマなのだけれど、彼女はその両方を体現し、かつ、のちにプリキュアとなったはなにその大切さを身をもって示していく点で、とても重要な存在である。
 玄関先。とんとん、と靴の爪先を床に打ち付けて履き、「行ってきます」と声を掛けるはな。玄関まで見送りにきたすみれが「じゃあ、ハグ」といってはなを抱きしめ、はなが「ハグ」といってそれに応じる。
 タイトルが「HUGっと」で、オープニングの歌でもそのへんは強調されてたから、野乃家は毎朝こうやって娘たちを送り出す習慣なのかな、と最初にみたときは思った。でもたぶんそういうわけでもないんだろう。むろん、ニッポンの平均的な家庭に比べて「ハグ」の回数は多いのだろうが、やはり今日がとくべつな日だからこそ、ここですみれは、はなをハグしたのだろう。
 「がんばってね」というすみれに、はなは、腕をぐるぐる回しながら「うん。ママもがんばれ。フレフレ」と返す。ささいなようだが、「受け取ったエールは、きちんと返す」という彼女のポリシー、ひいては作品全体を貫くテーマが、さりげなく点綴されたシーンだ。
 はなの人格を育んだ基盤は家庭である。さらりとしたタッチで、しかしきっちりと彼女の家庭をはじめに描いたことで、この作品は強い訴求力をえた。



芥川賞と「企業小説」

2018-07-03 | 純文学って何?
 (……前略)あらためて言うまでもなく、純文学は社会的にはキャラクター小説よりもはるかに大きな存在感を保っている。そして、その理由は必ずしも無根拠な権威化によるものとは言えない。というのも、キャラクター小説の読者は、数として多くても質的に限られているが、純文学の読者はさまざまな階層や年齢に散らばっているからである。
 そして、その多様さは、純文学が現実を描いているという「期待」で支えられている。そのような期待が端的に現れるのは、芥川賞受賞作をめぐる報道記事である。それらの記事では、多くの場合、小説の内容が社会問題と結びつけて語られる。ミステリやホラーは娯楽のために読むが、純文学は娯楽ではなく、社会を知るために(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在を知るために)教養として読むという前提が、この国では半年ごとに再強化されている。むろん、純文学に別の可能性を見ている読者はいるだろうし、批評に親しんだ読者ならば、むしろこのような文学観に強い抵抗を覚えるだろう。しかし、ここ数年の話題作や、その語られ方を見るに、純文学への期待の中心がそのような素朴なリアリズムであることは否定しがたい。(……略)
 このような日本文学の状況は、歴史的には一種の反動だとも考えられる。少なくとも1980年代には、近代文学批判の言説は今よりも大きな影響力をもち、純文学とジャンル小説(引用者註・ミステリやホラーやSFやファンタジーなど)の融合や越境が積極的に試みられていた。(……略)
 しかし、1990年代後半に入ると状況は大きく変わってしまう。1995年(引用者註・もちろん、震災とオウム事件の年だ)以降、筆者が『動物化するポストモダン』で「動物の時代」と呼んだ時代が始まると、人々は複雑な理想や虚構ではなく単純な現実を求め始め、純文学は、文学的な実験の場所というよりも、むしろその素朴な欲望の受け皿として機能し始める。(……後略……)



 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社現代新書)より。だからこの「筆者」というのは東さんのことです。あ、それと、「キャラクター小説」とはいわゆるライトノベルのことです。
 で、長々と引用させてもらってアレだけど、ぼくはこの文章に一から十まで賛同しているわけではない。まず、東さんも承知のうえで言ってるんだとは思うけど、「芥川賞受賞作」と「純文学」とは必ずしも合致しないので、このふたつを一緒くたにするのはほんとはまずい。「純文学」がカテゴリー全体の総称で、「芥川賞受賞作」はその一部……ということもあるし、ほかにもいくつか問題がある。
 ただ、「社会がそれを純文学の右代表と見なしてる」という点では確かに芥川賞受賞作=純文学にはちがいない。だから今回のこの記事の中では、ぼくもあんまりややこしいことは言わないで、そのつもりで話を進めていきましょう。
 それともうひとつ、これもまたマニアックになるが、1980年代の「純文学」が、「ジャンル小説との融合や越境を積極的に試み」ていたってのも、ぼくには正しい認識とは思えない。とはいえ、これらはいずれも本筋とは無関係なので、これ以上は踏み込まないことにする。
 「純文学は娯楽ではなく、社会を知るために(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在を知るために)教養として読むもの。」そう多くの人が思っている。ここが今回の記事のテーマである。
 池澤夏樹さんが選考委員の中に名を連ねていらした頃なら、「沖縄県民の現在を……」という一文を入れてもよかったろう。
 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』は面白い本で、今でも版を重ねているが、初版が出たのは2007(平成18)年だ。11年まえ。このかん、円城塔さんの「道化師の蝶」、黒田夏子さんの「abさんご」といった異色作は単発的に出たものの、東さんのこの指摘は、今でも総じて有効だろう。
 いや有効どころか、楊逸(ヤン・イー)、津村記久子、西村賢太、村田沙耶香といった方々の受賞によって、より補強されているというべきか。社会派リアリズム小説としての芥川賞受賞作(純文学)、という定式。
 かといってそれは、たとえば池井戸潤さんみたいな、いわゆる企業小説でもない。正業をもった会社員が主人公に選ばれるほうが珍しく、そのばあいでも「大企業の役付き」なんてことはけっしてない。
 2009年の受賞者である磯崎健一郎さんなんて、当時は三井物産本店の人事総務部人材開発室次長を務めるエリートだったが、その「終の棲家」には、会社(組織)で働く主人公の姿は描かれていない。文学者としての磯崎さんは、ボルヘスやカフカやムージルを愛読書に挙げる学究タイプで、あの作品も、社会派どころか、むしろポストモダニスティックな実験小説だった。
 昔でいえば、たとえば城山三郎、深田祐介といった方々は「文學界」新人賞の受賞者で、つまり彼らの小説は「純文学」と見なされてたのだが、まさにこれらの方々の活躍によって「企業小説」というジャンルが成立してしまうと、「企業小説」は、「ミステリ」や「ホラー」や「時代小説」と並ぶ一つの「ジャンル小説」となり、潔癖症というべきか、「純文学」は自ら峻別をはかるべく、そこから離れていったのだ。おおむね昭和40年代半ば以降の話である。これもまた、読まれなくなった要因のひとつではあるのだが。
 とはいえ、明治期半ばに成立した頃から、「純文学」はもっぱら「立身出世」コースから外れた高踏遊民やら不平分子を中心に据えて生長してきた。とくに日本においてはそうなのだ。だから元来そういう指向をもっている。
 かくて、東さんが冒頭の一節を書いた11年前も今も、「純文学」にはフリーター、ニート、売れない芸人、主婦、大学生ないし高校生、時には犯罪者すれすれの人などといった、どう見ても社会の中枢を担っているとはいえない階層が頻出するわけである。
 ぼく個人は、こんな話はべつだん「文学」とは関係なくて、「社会学」に属する主題だろうと思っている。とはいえ、「芥川賞」は文学イベントである以上に社会的イベントでもあるわけで、そういう意味(に関するかぎり)では、避けては通れない話だとも思う。
 芥川賞受賞作は、年に2回、「文藝春秋」誌上に選評つきで掲載される。ご存知のとおり、文藝と名乗ってはいても、これは文学プロパーの雑誌ではなく、政治、経済、社会、あと中国への悪口といったもので構成される総合誌だ。
 いまの日本は非正規雇用者が増えているから一概には言えぬだろうが、やはり主たる購読者層はそこそこの齢の、正業をもった社会人、それも男性が大半だと思う。
 このような階層にとっては、フリーター、ニート、下積み芸人、主婦、一人暮らしの独身女性、ちょっと古い例だと身体改造に熱中するアブない娘や、クラスで浮いてる女子高生……たちの生活とか内面といったようなものは、東さんの「教養」という言葉が適切かどうかはともかく、それなりに興味をひかれるものではあろう。
 自らの属する社会的グループの近傍にありつつ、自分がとても入っていけないグループ。そういうものに対する興味ってのは、社会的動物たる人間にとって健全な知的好奇心ではある。
 芥川賞受賞作が、文学性とはまた別に、そういった「高級ルポルタージュ」的な側面を暗黙のうちに期待される傾向はこの先もつづくであろうと思われる。