ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

宮崎駿の「風立ちぬ」

2015-02-20 | ジブリ
 たまたま今日、宮崎駿の「風立ちぬ」がテレビ初オンエアということなんで、2年まえ、劇場に見に行った直後に書いた記事を再掲することにしました。




 宮崎駿の『風立ちぬ』。(初出 2013年9月12日)



 前回は罵言を連ねたけれども、『風立ちぬ』は誠に良い映画なのだ。ぼくが20代の頃のように体力があって図々しくて、総入れ替え制でなかったら、朝いちばんで映画館に出かけて最低でも3回は繰り返し観たと思う。それくらい好きだ。こんなに夢中になるのはたんにストーリーの面白さだけでなく、その作品の醸し出す世界そのものに惚れ込んだ証拠である。その空気の中にいつまでも浸っていたいと切に願ってしまうわけだ。同じような感慨を抱く観客は少なくないのではないか。そして、じつはその点にこそもっとも注意を払わねばならぬとも思う次第なのだ。
 『風立ちぬ』が描いているのは1916(大正5)年から敗戦の年1945(昭和20)年までのニッポンである。たしかに緑は今より豊かだったろうし、時間もゆっくり流れていたろう。しかし、関東大震災、治安維持法、金融恐慌、世界大恐慌、満州事変、五・一五事件、二・二六事件、と打ち続くこの時代がそれほど懐かしく見えてしまうのは本来ならばおかしいのだ。「その空気の中にいつまでも浸っていたい」などと呑気なことを言っていられる時代ではなかったはずなのである。実際には。
 つまりこれは郷愁の涙に潤んだ瞳に映る戦前・戦中の日本の姿なのだ。宮崎監督はかつての日本を美化している。それはまた、ゼロ戦という戦闘機をつくった「堀越二郎」(堀越二郎氏は実在の人物だが、宮崎さんが描くのはあくまで虚構の存在だから、「」付で表すこととする)を美化することにも繋がっている。さらにいえばその延長で、日中戦争~太平洋戦争へとつづく先の大戦全体もまた美化されているのかもしれない。「戦争を美化している」という紋切り型が言いすぎであるというならば、「戦争のもたらす惨苦をあえて描いていない」と控えめに換言してもいいだろう。それは高畑勲監督の『火垂るの墓』と比較するなら一目瞭然であろう。
 「飛行機は美しい夢だ。しかし呪われた夢でもある」という意味のことを、「二郎」の夢に現れる「カプローニ伯爵」は繰り返し述べる。しかしその「呪われた」部分をこの映画は正面からは描いていない。設計士でもパイロットでもない、ただの民間人のぼくたちにとって、戦闘機とは何よりもまず頭上に飛来して爆弾を落とす恐るべき脅威なのである。『火垂るの墓』ではそうだった。あれは飛行機から爆撃を受ける側に立った作品だ。しかし、『風立ちぬ』にそんな視点はない。爆撃を受ける側の視点を入れたら作品全体がたちまち瓦解してしまう。それほどに儚い、そしてそれゆえにこそかくも美しき映画なのである。
 そもそもぼくは前回どうしてあれほど怒ってたんだろう。オリンピック招致の狂騒ぶりにほとほとうんざりしていたことがあり、それが『風立ちぬ』のベネチア賞取り報道と相まって、なにか国威発揚の儀式の一環のように思えてしまった。しかも映画の題材が題材である。そのような理由がひとつある。もうひとつ、直近の「ポニョ」「ハウル」(どちらも映画館で観た)の支離滅裂さにずっと腹を立てていた、ということもあったようだ。たんにデタラメだったらまだいいのだが、こちらがあれこれ補完し、断片を繋ぎ合わせて解釈すればいくらでも深読みが可能な作品であり、それがいっそう苛々を募らせていたらしい。しかし『風立ちぬ』はあのような放埓さとは縁がない。すっきりとまとまった端正な大人の映画である。
 ぼくはむしろ後期の宮崎さんにはこのような作品をあと2、3本つくっておいて欲しかった。引退宣言がつくづく残念だった。前回の記事で、「武器とは何か、兵器とは何か、殺戮とは何か、破壊とは何か、戦争とは何か。具体的には、先の太平洋戦争、そしてそれに先立つ日中戦争とはいったい何だったのか。そういったことを宮崎駿が我と我が身を振り絞るようにして考え抜いたことはない。」と記したくだりは、八つ当たり半分とはいえあまりにも僭越で、やはり撤回すべきかもしれない。確かに『風立ちぬ』という映画は、ここに羅列したような問題についての見解を示したものではない。しかし、だからといって宮崎さんがこれらの問題を切実に考えていないと決め付けることはできない。作者は自分の考えや意見のすべてを作品に投影するわけではないからである。しかもそれが商業映画で、さらにアニメーションともなれば、制約の上にも制約を重ねることになるのは当然だ。失礼なことを述べてしまった。
 作品の半ば、軽井沢の「草軽ホテル」(「三笠ホテル」がモデルらしい)に宿泊した「二郎」は、カストルプ(トーマス・マンの『魔の山』の主人公と同じ名前)という謎めいたドイツ人からこう言われる。「ここはとても良い所。ここは魔の山。モスキート(蚊)いない。クレソンおいしい。何もかも忘れる。不景気わすれる。満州事変わすれる。国連脱退わすれる……。何もかも忘れる……」。 一度しか観てないし、シナリオが手元にないので正確ではないが、おおむねそんな意味だったと思う。このドイツ人はリヒャルト・ゾルゲではないかと多くのサイトが指摘しており、げんに「二郎」はこのあと都会に戻ってから特高にマークされることとなるのだが、この草軽ホテルは彼が菜穂子と再会してお互いの愛を確認し、のちの求婚へのステップとなるとても大切な場所でもある。ふたりの交流はこのうえもなく清冽に、しかも情感ゆたかに描かれている。ぼくはこの映画を観ていて4回涙が溢れ出したが、その一番目がここだった。
 しかし、「下界」ではカストルプの言うとおりすでに満州事変も起こっているし、五・一五事件も起こっているし、ドイツではナチス政権が成立しているし、日本は国際連盟を脱退しているのだ。「二郎」と菜穂子には、まるでそのようなことは関わりがない。いわばふたりは、別の世界を生きているのである。それはこの「魔の山」の山頂にいるからではなく、「下界」に戻った後もなお、二人にはずっとこの二人だけの別の時間が流れているとしか言いようがないのだ。
 それはやはり、「堀越二郎」という人物の特異さに大きく与っていると思われる。「二郎」は「三菱内燃機株式会社」で戦闘機の設計に携わっているのだが、同期であり大学以来の親友でもある本庄に向かって「どこと戦争するつもりなんだろう……」という問いを何度かつぶやく。入社当初はまだいいとして、日中戦争が始まって、太平洋戦争が間近に迫ってからもなお同じことを言っているのである。ゼロ戦の設計者ならずともそれはあまりに浮世ばなれが過ぎるというべきで、じっさいに本庄のほうは「……中国、イギリス、オランダ、それにアメリカだろうな」と正確なことを答えている。
 ふつうのインテリならばそれくらいは常識であるはずで、やはり「堀越二郎」は(念のため言うが、実在の堀越氏ではなく、宮崎さんのつくった「堀越二郎」のことだ)尋常の人ではないように思う。ずば抜けた英才であり、優秀な設計士であり、「義を見てせざるは勇なきなり。」といった真っ当な正義感を持った人格者であり、適度の社交性もあり、好きな女性を一途に想う純情かつ高潔な青年なのだが、しかしこの人はまともではない。宮崎さんの企画書に、「狂気」という文字が見えるけれども、「堀越二郎」はとても精密で静かな狂気に浸された人のようにぼくには思えた。そのような意味で庵野秀明氏の声は怖いほど「二郎」に合っていた。それは現代社会の病理を一身に集めた「エヴァンゲリオン」という作品の「設計者」にしか出せない声なのだ。
 全編にわたってほぼ棒読みで台詞を語る「二郎」すなわち庵野氏が、「やむにやまれず」といった具合にぐぐっと感情を込めてしまうシーンが二箇所ほどある。そこで自らの感情を揺さぶられる観客も多いことだろう。それがどこかはここでは詳しく書かないが、いずれも菜穂子との交流に関わっている。菜穂子との交流を持つときに、「二郎」はもっとも人間らしくなるとも言える。ゆえに、病床に臥す菜穂子の手を握り締めながら、「片手で計算尺を扱うコンクールがあればぼくは一番だね。」などと言いつつ淡々と戦闘機の設計図を引く「二郎」の姿は一種の戦慄をそそる。一見すれば微笑ましく、しかし菜穂子の病状を思えばひどく切ないシーン……。されどよくよく考えてみれば、こんなに怖いシーンが他にあるだろうか。ひとりの女性にこれほど優しく情愛を注げるひとが、一方の手で殺戮兵器を作っている。あのシーンに戦慄を覚えるか否かで、この作品に対する評価は大きく変わってくるように思う。少なくともぼく個人にとっては、ゼロ戦の残骸が散らばるラストシーン以上に、この場面のほうがショッキングだったし、「兵器」というものに対する宮崎さんの葛藤を垣間見たように思えた。
 ゼロ戦の設計者である堀越二郎と共に、「堀越二郎」に面影が投影された実在の人物は作家の堀辰雄である。この二人はほぼ同年で(堀越は1903=明治36年、堀は04年の生まれ)、ご覧のとおり名前も似ている。しかしその他の共通項は東京帝大卒ということくらいで、接点もない。対照的といってもいいほどだ。そのような二人を重ね合わせる着眼点は非凡としか言いようがないが、「二郎」と菜穂子との清潔で哀しく切ないラブストーリーのほうは、この堀辰雄の作品および生涯から着想を得ている。ただ、『風立ちぬ』は堀辰雄作品の中でもっとも名高い代表作だが、この作のヒロインの名は菜穂子ではなく節子であり、『菜穂子』という作品は別にある。玄人筋にはこちらのほうが評価が高い。高原のサナトリウムを無断で抜け出すという大胆さもまた、「節子」ではなく「菜穂子」のものだ。
 『風立ちぬ』は映画に合わせて新潮・角川・集英社文庫などで版を重ねているようだが、『菜穂子』はいま岩波文庫版しか入手できない。けれど青空文庫で読むことはできる。名作だから読んでおいて損することはけっしてない。とはいえ、愛しさに駆られて会いたい一心で恋人のもとを訪れる情熱や、映画で描かれたあの息を呑むほど美しい「嫁入り」の情景はこの「原作」には書かれてはいない。あれは映画作家・宮崎駿のオリジナルである。実写たるとアニメたるとを問わず、あの「嫁入り」と「初夜」ほどに綺麗な場面を見たことはあまり覚えがないように思うし、あのシーンを見るためだけでも映画館に足を運ぶ値打ちはあるんじゃないかと個人的には思っている。批判すべき点はたしかにあろう。しかしそれでも、もういちど繰り返すけれど、『風立ちぬ』は誠に良い映画なのだ。

 ここで言及されている「前回の記事」も、参考までに再掲しようかと思ったんだけど、いま読み返すとあんまり感情が表に出すぎていて、自分でもイヤになりました。よって掲載は控えておきます。



追記)
 劇場で『風立ちぬ』を観てから6年が過ぎ、近代史の勉強をし直すなどして、いろいろと考えが深まったので、改めてじっくりこの作品について考察し、7回かけて書きました。よろしければご参照のほど。

「ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。①」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/a513e094a5fb87d0e2c2e9aca516d4ab