ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

7秒間。

2018-08-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽


 画像はネナ・チェリー。

 

Youssou N'Dour - 7 Seconds ft. Neneh Cherry

 



https://www.youtube.com/watch?v=wqCpjFMvz-k

 

 

 昔むかし、ラジオだか有線だかで耳にして、すごく心に残ったんだけど、調べる術(すべ)とてないままに、雑事に紛れて流れちゃった。ま、よくある事です。それっきり思い出すこともなかったんだけど、この前たまたま聴いてたFMで掛かって、「おお、これこれ」って。

 ありがたいことに、今は当時と違ってたいていの局がオンエア曲のリストをホームページにあげてくれている。それですぐに曲名&アーティスト名がわかって、これまたありがたいことに、youtubeで聴かせていただいて、こうしてご紹介もできるという。

 Youssou N'Dourは、カタカナで表記するならユッスー・ンドゥール。そういやミシェル・ンデゲオチェロという凄い女性シンガーもいる。現代アフリカ文学にはングーギ・ワ・ジオンゴという巨匠がいるし、アフリカの人の名前もOKというルールにしたら、しりとりに勝負はつきませんね。いやそんな話はどうでもいい。

 リリースは1994年。すぐにヨーロッパのチャートを席巻したとか。ぼくが耳にしたのもその頃のはずだから、もう四半世紀も前かあ。まさに光陰矢のごとし。「人の一生は、戸の隙間から、白馬が駆け抜けていくのを覗き見るほどに短い。」というコトワザが中国にあるそうだけど、ほんとにそんなもんかもしれない。

 あらためて聴くと、やっぱり良かった。なぜかナミダが滲んできました。たんに「いい曲」ってだけじゃなく、ぐいぐいと心に迫ってくる。これはきっとなんかあるに違いないと思って、さらに調べてみたですよ(ネットの恩恵その③)。

 Youssou N’Dourは、アフリカはセネガルの出身の歌手。セネガルに古くから伝わる音楽や思想を伝える「語り部」の血を引き、伝統音楽にポピュラー・ミュージックの要素を取り入れた独自の音楽性で知られる。歌手活動のほかにもパーカッショニスト、俳優としても活躍、さらには政治活動も活発に行い、2012年からはセネガルの文化観光大臣も務めたそうな(その後、内閣がかわって、1年ほどで解任されたようですが)。

 歌詞は3ヶ国語で書かれ/歌われてるとのこと。まずユッスーがウォロフ語(セネガルに住むウォロフ族の言語)で歌い、次のパートは女性シンガーのNeneh Cherry ネナ・チェリーが英語で、そして次には再びユッスーがフランス語で歌う。これはもちろん、セネガルが1960年(ついこのあいだじゃん)まで、フランスの植民地だったからですね。ぼくが聴いても、彼のフランス語は上手くない。めちゃ訛ってます。そこがリアルなんだろうな。

 しかしなんといっても、この歌の魅力はふたりの声が重なるパート。ここがむちゃくちゃ強烈で、ぼくの耳に四半世紀も残ってたんですが。

 

(It's not)a second

7 seconds away

Just as long as I stay

I'll be waiting

It's not a second

7 seconds away

Just as long as I stay

I'll be waiting

I'll be waiting

I'll be waiting

 

 この「私」が「できうるかぎりそこに留まる」といい、さらに「この先もずっと待ち続ける」と歌うその「7秒間」ってなんなんだろう。ビデオクリップの映像を観ても、たんなる男女の色恋沙汰とか、そんなものとは思えない。

 ネット上の解釈では、「新生児がこの世に生まれ落ちて最初の7秒間」という解釈が有力ですね。そしてそれは、「世界が抱える様々な問題について、何も知らないでいられる時間」という含意らしい。いろんな人がそう解釈してるってより、ひとつ強力なネタ元があって、それを他の方々が拝借してるって印象でしたけど。それでまあ、ぼくもそのうちの一人なんですけども。

 この節の前の、ネナが歌う英詞のパートがこうなっている。

 

And when a child is born into this world

It has no concept

Of the tone the skin it's living in

 

 「問題」っていうか、conceptだから「概念」かなあ。でも、「肌(の色の違い)がもたらす概念」なんだから、ただの概念じゃなく、葛藤を含んでいるのは確かですね。

 

 さらにその前のパートは、

 

Roughneck and rudeness,

We should be using, on the ones who practice wicked charms

For the sword and the stone

Bad to the bone

Battle is not over

Even when it's won

 

 なんとなくわかるんだけど、ぼくの英語力では、すっきりと日本語にならない。

 

 粗野や不作法、私たちはもう、使ってなきゃだめなんだ。

 剣と石とのおかげで、邪悪な魅力を湛えた連中。

 やつらは骨の髄までのワル。

 闘いは終わらない。

 勝利の後でも。

 

 だいたいそんな感じだろうけど、自信ない。ラスト2行は、「やつらは争いをやめようとしない。/もうとっくに勝ってるのに」かな? 短すぎて主語がわからんよ。うーん。まあいいや、最初ので行きましょう。

 

 なめらかな日本語にして、つなげてみると、

 

 私たちはもう、粗野や不作法を我慢してちゃだめなんだ。

 剣と石が大好きな、邪悪な魅力を湛えた連中に抗うために。

 やつらは骨の髄までのワル。

 闘いは終わらない。

 かりそめの勝利の後でも。

 赤ちゃんがこの世に生まれ落ちたとき、

 まだ何も知らない。

 肌の色の違いがこの先の人生でもたらす色んなことを。

 それはたったの1秒じゃない。

 7秒あるんだ。すぐに過ぎ去っていくけれど。

 私はできうるかぎりそこに留まる。

 この先もずっと待ち続ける。

 それはたったの1秒じゃない。

 7秒あるんだ。すぐに過ぎ去っていくけれど。

 私はできうるかぎりそこに留まる。

 この先もずっと待ち続ける。

 待ち続ける。

 この先もずっと。

 

 

 ほんと試訳なんで、でたらめかも知れないけど、とりあえず私はこう意味を汲みました。

 「まだ何も知らない」時間というのは、まあ、純粋無垢な時間なんでしょうね。ただ、じっさい医学的というか、認知心理学的というか、新生児が出生ののち外界を認識しはじめるまでの時間が「7秒」だっていう科学的裏付けがあるわけじゃない。あくまでもこれはこの歌の中だけのフィクションですね。

 あと、それが「1秒」ではなく「7秒」なんだと強調してるけど、ぼくには1秒も7秒も大差ないように思えるんだけどなあ。いやいや、その「有るか無しかの僅かな差」に思いを込めて、希望を懸けてみるっていうのがこの歌のキモか。

 ユッスー・ンドゥールさんは、上で述べたとおり2013年に政権がかわって大臣を解任されたんだけど、wikipediaによれば、そのあとでまた(当然ながら)音楽に復帰したそうです。あと、ネットを逍遥しているうちに、それよりも前の話になりますが、

 

 9.11テロの後、イスラム教徒への反感が高まる中、「平和を求める本来のイスラム教の姿を知って欲しい」と、「エジプト」プロジェクトを立ち上げた。当初は、こうした活動に対し、イスラム教徒からの反発もあった。しかし、セネガル伝統音楽にポップスの要素を加えた歌は世界中で大ヒット、2004年米グラミー賞を受賞する。イスラムゆえの葛藤を抱えながら、音楽で人々に平和や幸福を訴えかけている。

 

 という記事に出会って、いろいろと感じるところがありました。

 第三世界というのは、音楽と政治との距離が近くて、そのぶんすごく熱いんですね。ちょっと羨ましい気もする。それにしても、7 Seconds、意味がわかるとますます心に沁みる良い曲だ。

 

 

 


日本はアメリカに負けたのか。

2018-08-13 | 政治/社会/経済/軍事
 8月になると必ず『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫 第1集・第2集)を読み返す。このことは毎年書いてると思う。
 2016年のブログをみると、

 ニッポンの夏は、とりわけ8月は本来、オリンピックでも高校野球の季節でもなく、ましてやポケモンGOに興じる季節でもなく、先の大戦を偲ぶ季節である。
 何よりもまずそれは、慰霊のため、鎮魂のための季節だ。旱天に鳴り響く蝉しぐれは、あれは無慮数百万の戦没者を弔う挽歌なのだ。
 ぼくは毎年、この時期になると岩波文庫の『きけ わだつみのこえ』を読み返す。広島にも長崎にも行かないし、靖国神社にも行かないけれど、ぼくなりの、それが慰霊ないし鎮魂の儀式なのである。

 と、かなりコーフン気味に述べている。『きけ わだつみのこえ』を読むと、どうしてもコーフン気味になるのである。
 きけわだつみのこえ? 何それ?という方もおられるかと思うので、長くなるけど、さらに続きも再掲しましょう。

 「きけ わだつみのこえ」は、あえて漢字で書くなら「聞け わだつみの声」だ。「わだつみ」とは、広辞苑には「わたつみ」として記載されているが、「海神」または「綿津見」と表記するそうで、読んで字のごとく「海の神」のことであり、さらにはまた、海そのもののことでもある。
 元ちとせの歌に「ワダツミの木」というのがあった。若い人にはそちらのほうでお馴染みだろうか。
 元さんには、「死んだ女の子」というショッキングな名曲もある。「ワダツミの木」は、やっぱり『きけ わだつみのこえ』が下敷きになっているのだろう。
(……中略……)
 この本の扉には、
 「なげけるか いかれるか  /  はたもだせるか  /  きけ はてしなきわだつみのこえ」
 と、どういうわけかすべて平仮名で、詩のごとき文句が記してある。
 漢字で書けば、「嘆けるか 怒れるか はた黙せるか 聞け 果てしなき ワダツミの声」だろう。嘆いているか、怒っているか、あるいはずっと沈黙を守りつづけるつもりなのか、それは定かでないけれど、それでもわたしたちは、「ワダツミの声」に耳を傾けなければならない、と、この本の編者は述べているわけだ。
 戦没学生たちの手記なのである。いや、学生とは限らないけれど、20歳くらいから、せいぜい25、6歳くらいまでの、あの十五年戦争で命を散らした若者たちの思いが、ここには言葉となって綴られている。
 ひとつひとつの文章は、どれも高潔で、知的で、真情にあふれている。兵卒として招集され、厳しい検閲を経ていながら、よくもこれだけ「生々しい肉声」が留められたものだ。その日本語の見事さには、読み返すたびに感銘を受ける。
 そしてまた、これほどの高い志と知性の持ち主が、ひとり残らず、あたかも城壁に卵を叩きつけるかのように、次々と死に追いやられていった事実を思い、そのことにただ暗澹とする。だから8月には、毎年ぼくは暗澹としている。


 といった具合で、コーフンしつつも暗澹としている。この本を読むと、だいたいまあ、いつもそういう気分になる。だからこの時期いがいはあんまり読まない。
 ただ、ぼくなんかのばあい、高校から20代前半くらいまでにかけて貪るように読み耽っていた作家たちがみな父親と同じか、さらにその上の「昭和ヒトケタ」世代だったから、ことさら「戦記もの」でなくとも、戦争体験の話はいわばデフォルトでしぜんと刷り込まれてきた。
 まず大江健三郎、井上ひさし、古井由吉、筒井康隆。もう少し上だと開高健、野坂昭如、五木寛之。そして丸谷才一、吉行淳之介、安岡章太郎、大岡昇平。
 もちろんまだまだたくさんおられる。
 三島由紀夫は昔から苦手で、ずっと敬遠していて、この齢になってなぜか夢中で読んでいるけれど、この人もむろん戦中派だ。石原慎太郎は今も昔も嫌いで、『わが人生の時の時』(新潮文庫 絶版)を除いていまだに読む気がしないけど、この人だってそうである。
 『きけ わだつみのこえ』に手記を留める若者たちは戦火に散り(という紋切り型の表現は、カッコよすぎて、本当は慎むべきかもしれないが)、わずかにその心情や思想の断片だけを遺した。上にあげた作家たちは生き延びて、戦後社会でモノカキとして身を立てた。
 その違いは、紙一重とまではいわないが、それほど大きなものでもないような気がする。
 『きけ わだつみのこえ』の中の文章の多くに、ぼくは激しく感情移入するし、だからこそコーフンもすれば暗澹ともさせられるわけだが、今年はすこしアタマを冷やして、「なんでこの有為な青年たちが戦没せねばならなかったのか。ていうか、そもそもなんであんな負け戦を始めやがったんだよボケが」ということを考えた。
 じつは2015年の8月に「なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。」という記事を書いており、「太平洋戦争に踏み切るまでの経緯」についてはまとめた。これもさっき読み返したが、山のように不満はあるにせよ、ひとつのレポートとしては、まずまずそつなく纏まっていると思う。
 だが、じつをいうと、何というかもう、問題の立て方そのものに根本的な誤りがある……との感も否めない。この3年で、ぼくもいくらかは成長したようだ。
 「太平洋戦争(日米戦争)」をメインと見なし、「日中戦争」をその「前段」と見なしているところ。これがどうにも間違ってるんじゃないか。
 むしろ「日中戦争」こそが……というか、「日清~日露戦争いらいの日本と中国との関わり方」そのものに根源的なもんだいがあって、その延長として、アメリカ(その他)との戦争に踏み込んでしまったのではないか。
 與那覇 潤さんの『中国化する日本 増補版』(文春文庫)はものすごく面白い本だが、タイトルが誤解を招きやすいので、ぼくはカバーをかけて、表紙に「明快 日本史講義」と自己流の題をつけている。ようするにそういう本だ。
 この本の230ページに、こう書かれている。


  要するに、「あの戦争」とは日本と中国という二大近世社会が文字通り命がけで雌雄を競った戦いだったのであり、そして日本はアメリカに負ける前に中国に負けたのです。だって、アメリカとも戦わないと中国との戦争を続けられなくなった時点で、すでに負けじゃないですか。
  『あの戦争になぜ負けたのか』式の著作は山ほどありますが、負けた相手をアメリカだと書いている時点で、まったくわかってないのと同じ。対中戦争と対米戦線の両方を含んだ「あの戦争」をいかに呼ぶかについては、右派好みの「大東亜戦争」から左派好みの「十五年戦争」「アジア・太平洋戦争」まで諸案がありますが、私の授業では『日中戦争とそのオマケ』と呼べと指導しています。対米開戦以降の太平洋戦争自体が、それまでの日中戦争の敗戦処理なのです。
(與那覇 潤『中国化する日本 増補版』文春文庫より)

 これを読んだのは2014年の暮れだったけど、「さすがに言い過ぎだろう」と思った。けど、それからいろいろ資料をあつめて目を通し、自分でも「なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。」みたいなのを書いたら、「いやどうもそう考えるのがいちばん正しいぞ」という気になってきた。
 日本の本土にいっぱい爆弾を落とし、沖縄に攻め込んできたのはアメリカの軍隊だけど、そもそも日本はその前に、大陸で中国に(と呼べるほどには主体を備えた「国家」ではまだなかったんだけど。でもって、そのせいでいよいよ話がややこしくなってたわけだけど)敗北を喫していたのである。
 「膠着状態」とはいうけれど、たんなる膠着じゃなくて、ずっと消耗しつづけてるんだから長引けば長引くだけジリ貧なのだ。短期決戦で勝負がつかず、「持久戦」にもつれこんだ時点で本当は負けてたわけだ。大陸スケールの「戦術」を、島国の尺度で量っていたゆえの錯誤であったか。
 軍部も政府も官僚も、もちろん一般庶民も、その事実上の「敗北」を認めることができず、結果として大日本帝国は展望もないままずるずるずるずる中国への派兵を続けた。そのあげくのハルノートであり、真珠湾だった。
 もろもろの要素を捨象して、思いきって一筆書きでやってしまえば、そういうことになる。
 アメリカではなく、中国とのかかわりを軸に、近代史を読み直してみよう、と思っております。


『この世界の片隅に』と『何とも知れない未来に』

2018-08-10 | 政治/社会/経済/軍事





 こうの史代(ふみよ)原作/片渕須直(かたぶちすなお)監督のアニメ『この世界の片隅に』は素晴らしい作品で、上映から2年経った今も多くの人から愛されている。松本穂香・松坂桃李のお二人が主演するドラマ版も好評のようだ。2011年にも北川景子さん主演でドラマ化されているのだが、その時は2時間の単発スペシャルだった。
 思えば2016年はたいへんな年で、『君の名は。』『シン・ゴジラ』、そしてこの作品と、ニッポンの表現史を画する秀作が3本も顔をそろえた。偶然には違いないけれど、あの震災から5年を経て、それぞれの作り手が受けた衝撃の記憶が熟して作品のかたちになった、という言い方はできるかもしれない。まだ世に出ていない人も含めて、この3本はこれから先も、数多くのクリエイターに末永く影響を与えつづけるだろう。
 『この世界の片隅に』は、ご承知のとおり太平洋戦争下の呉の町が舞台となっているわけだし、原作の連載は2007年から2009年までだったから、あの震災とは直接のかかわりはないのだが、どうしてもそこに何かしらの巡り合わせを感じないではいられない。
 アニメ『この世界の片隅に』は、何よりもまずひとつの作品として素晴らしい。そして、「銃後」の暮らしを描いた記録としても秀逸だ。10代から20代はじめくらいの若い人で、これまでにほとんど戦争を描いた小説や映画にふれたことがない観客がいたら、まっさきにお勧めしたい作品である。内容にはもちろんシビアなところもあるが、絵柄が優しいし、主人公のすずさんがほんとうにすてきな女性だからだ。
 高畑勲監督の『火垂るの墓』ももちろん必見の一作だけど、「とっつきやすさ」でいうならば、『この世界の片隅に』のほうだろう。今は「とっつきやすさ」がとても大切な時代なのである。
 もう少しきちんとした言葉でいえば、「訴求力」ということになろうか。
 このところずっと、「訴求力」について考えてるもんで、文学ブログでありながら、ついついアニメの、それもプリキュアの話なんかしている。ブンガクの話を書くよりも、プリキュアの話のほうがとりあえずアクセス数は増えるのだ。アクセス数のためにブログやってるんじゃないけれど、やはり読まれないよりは読まれたほうがいい。
 ヒロシマとナガサキへの原爆投下をモチーフにした短篇(と詩)のアンソロジーで、『何とも知れない未来に』(集英社文庫)という本があった。編んだのは大江健三郎さんだ。刊行は1983年で、1990年代の半ばごろまでは店頭でふつうに手に入った。
 同じ集英社文庫のアンソロジー『太平洋戦争 兵士と市民の記録』とあわせて、いつも手近なところに置いている……つもりだったが、今なぜか見当たらない。記憶とネットを頼りにして、収録リストを記しておこう。
 原民喜「心願の国」「夏の花」
 井伏鱒二「かきつばた」
 山代巴「或るとむらい」
 太田洋子「ほたる」
 石田耕治「雲の記憶」
 井上光晴「手の家」
 佐多稲子「色のない画」
 竹西寛子「儀式」
 桂芳久「氷牡丹」
 小田勝造「人間の灰」
 中山士朗「死の影」
 林京子「空罐」
 どれも胸に沁みる良作で、こういう本がいつでもだれでも買いたい時に買えるニッポンであって欲しいと切望するが、どうも思うに任せない。東野圭吾や綾辻行人は山積みになってるのに、『何とも知れない未来に』や『太平洋戦争』は絶版だ。そのくせ変なウヨクっぽい言説だけはあふれている。「あの戦争」のことを折にふれて考え続けることが、「愛国」的なふるまいであるとぼくなんか思うけどなあ。なんだかなあ。
 たとえば井伏さんの「かきつばた」なんて、それこそ最新の技術でアニメ化すれば、まことに美しく切ないものに仕上がるだろうな……と夢想してみる。商業ベースに乗るかどうかは微妙ながら(いやここがいちばん肝心なんだが)、珠玉のような作品ができあがるのは間違いない。原作のほうは絶版になっても、アニメなら多くの人に観てもらえる。それが訴求力だ。
 しかし、夢想はあくまで夢想である。宮崎駿さんの『風立ちぬ』でさえ採算ラインに届かなかったというし、たとえ優れたアニメでも、いんうつで地味な戦争ものはなかなか動員を見込めないだろう。だからこそ『この世界の片隅に』のヒットがますます喜ばしいわけだ。

 「何とも知れない未来に」というタイトルは、収録された原民喜「心願の国」の一節からとられている。


 ふと僕はねむれない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いてゐる。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだらうか。まだ発見されない物質、まだ発想されたことのない神秘、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一斉に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。
 だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みてゐたやうな気がする。


 重苦しい主旋律が、ラスト2行でほのかな希望に転調する。このくだりは、『この世界の片隅に』終幕近くのすずさんの台詞に通じているようにも思う。


「8月15日も、16日も、17日も、9月も10月も11月も来年も再来年も。
 10年後も。ずっと。ずっと。」

「晴美さんはよう笑うてじゃし。晴美さんのことは笑うて思いだしてあげよう思います。この先わたしはずっと、笑顔の入(い)れもんなんです。」

 のん(能年玲奈)さんのアテレコが、声質も台詞回しもほんとにぴったり。書き写すだけで、じわっとナミダが滲んでくる。