ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ひきつづき絵画の話。

2017-09-30 | 物語(ロマン)の愉楽
 ひきつづき、泰西名画のお話を。
 いわゆる現代絵画の源は印象派だ。印象派の登場により、「絵画とは、現実の世界をできるかぎりありのままキャンバスのうえに写すもの」とする絶対の前提が揺らぎはじめた。表象するもの(絵)と表象されるもの(現実世界)とのあいだに、画家の主観を介在させてこその「作品」ではないか、という思想が行きわたるようになったのである。これには同時代における写真機の発達も大きく与っていたといわれる。目に映った光景をリアルに再現するだけなら写真に任せておけばいい。画家にはもっとやるべきことがあるはずだ。

 かくしてセザンヌ、ついでマティス、ピカソ、ジョルジュ・ブラックのように、「現実世界を映すのではなく、キャンバスのうえに画家が自らの世界を再構築する」アーティストがあらわれる。ここからジャクソン・ポロックなどの抽象表現主義まではあと数歩だ。



 (図像は上から、マネ、セザンヌ、ブラック、ポロック)


 用語の厳密な定義からすると厄介なところもあるが、このような動きを「モダニズム」と総称してもいいだろう。それはもとより現代芸術の他のジャンルとも並行しており、文学もまた例外ではなかった。たんじゅんな類比は難しいけれど、やはりジョイス、プルースト、カフカあたりが相当するであろうか。これ以降、「何を書くか」ではなく「いかに書くか」が現代小説のテーマとなっていく。ただ、これは純文学のそれも最尖端にかかわる話で、エンタメ小説においてはこの限りではない。

 エンタメ小説ってものは、まるでモダニズムなどなかったかのように、それと意識しないまま、19世紀小説をダイレクトに受け継ぐ。バルザック、ディケンズ、E・A・ポーあたりである。真正のモダニズムなんて、しょせんはインテリのためのものなのだ。ただし超一流のエンタメ作家は、「これを使えばもっと面白くなりそうだぞ」と思えば、貪婪に新しい手法を取り入れる。ぼくをも含めて、現代日本の読者たちは「不条理」をカフカより先に、「言語実験」や「意識の流れ」をジョイスより先に、筒井康隆という偉大なエンターテイナーから学んだ。それもお勉強としてではなく、げらげら笑いながらである。

 話を絵のほうに戻すと、高度大衆消費社会におけるビジュアル表現の主流もやはりモダニズムではなく19世紀絵画の嫡流である。つまりマンガやアニメのことだ。抽象表現主義で描かれたマンガだのアニメなんて見たことも聞いたこともない。浦沢直樹も井上雄彦も、宮崎駿も新海誠も、あくまでも19世紀絵画の延長線上で作品をつくる。フォルムを備えた人間(キャラ)が、舞台の中で動き回ることで繰り広げられる作品世界だ。パースがきっちり取られていて、デッサンが緻密であればあるほど「巧い絵」と呼ばれる。なんら不思議はない。人間ってものはもともと目に映る世界を鮮やかに再現したビジュアルを見るのが好きなんだと思う。ぼくも「巧い絵」で描かれたマンガやアニメが大好きで、昨年の今ごろは「君の名は。」に夢中だった。

 されどマンガやアニメはともかく、いわば「純文学業界」に当たるアカデミックな美術研究においては、印象派~モダニズムこそが「現代芸術」であるという常識がもちろん強い。それゆえに、「ただただ巧い絵」や「うっとりするほど綺麗な絵」を「うまいなあ」「きれいだなあ」と嘆賞しながら愛でる行為が軽んじられてきたし、今もその風潮はある。しかし人間ってのは上に述べたように「巧い絵」「綺麗な絵」が根っから好きなのだし、そもそも人類の歴史の中ではモダニズムなんてつい最近の話であり、ただもう絵を前にして「ああ巧い」「ああ綺麗」と呟きながら陶然としていた期間のほうが圧倒的に長かったのである。

 だからもっとアカデミズムのほうでもモダニズム/印象派以前の絵を大衆向けに論じるひとが出てこないかなあと思っていたら、10年ほど前から中野京子という方が「怖い絵」という切り口によってそんな仕事をはじめた。この方は専門の美術研究者ではなく、ドイツ文学者/西洋文化史家である。一枚の絵を題材にして、その裏に秘められた物語やエピソードを読み解いていく。そこに「恐怖」がからまっているのがミソだ。恐怖は人間の根源的な情動だから。前回紹介した「レディー・ジェーン・グレイの処刑」も、中野さんが企画にかかわる「怖い絵」展のために招聘されたものである。

 このような流れのなかで(と言っていいと思うが)、池上英洋という美術史家が2014年に『官能美術史』という本を出された。「ちくま学芸文庫」のオリジナル企画だが、好評であったらしくその後『残酷美術史』『美少年美術史』『美少女美術史』と続いて、現在4部作となっている。こちらは「恐怖」ではなく人間のもうひとつの根源的な情動「エロス」を切り口としているわけだが(まあ『残酷美術史』だけはむろん恐怖寄りだし、「怖い絵」とかぶるところも多いけど)、とても有意義な試みであり、これによって絵画史のみならず西欧精神史そのものへの理解も深まる。もっともっとこの手の本が増えていってくれればと願う。


ロマン主義者・漱石と二枚の絵

2017-09-16 | 物語(ロマン)の愉楽
 初期の夏目漱石は濃厚な浪漫主義者だった。短編「倫敦塔」はポール・ドラロッシュの「レディー・ジェーン・グレイの処刑」に、中編『草枕』はジャン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」に触発されて書かれた。
 『草枕』には、「水」と「鏡」のモティーフがくりかえし出てくる。清潔なのに艶めかしい。憧れの小説である。グレン・グールドも愛読していたらしい。








 「倫敦塔」は、漱石本人も「甘(うま)く行かんので所々不自然の痕跡が見える」と述べているとおり、幻想小説としてそんなにうまいと思わないけれど、やはりジェーン・グレイの印象が強烈で、忘れがたい。








 しかし10代で初めて読んだ時は、「レディー・ジェーン・グレイの処刑」も「オフィーリア」も見たことがないから、いまひとつピンとこなかった。ネット時代のありがたさで、今はこうして、居ながらにして鑑賞できるし、紹介もできる。
 「オフィーリア」はこれまでに何度か日本に来ている。ファンだから、そのたびに算段して足を運ぶようにしているが、小さい作品である。「レディー・ジェーン・グレイの処刑」は、いま初来日している。こちらは大作だ(ただし彼女がここまでアップになっているわけではない)。
 「9日間の女王」ことジェーン・グレイは、堀北真希主演で2014年に舞台化されたそうだ。堀北さん、ジャンヌ・ダルクに続いて、仏・英を代表する「薄命の美少女」を演ったわけである。
 オフィーリアは何しろ戯曲の登場人物だから、この日本でも数え切れぬほどの女優によって演じられてきた。
 片や歴史上の実在の女性、片や虚構の中の女性という違いはあれ、ご覧になればおわかりのとおり、「ジェーン・グレイ」も「オフィーリア」も、清浄なエロス(性)と晦冥なタナトス(死)とを絶妙のバランスで湛えた稀有のイコンとなっている。見る者の心を揺さぶらずにはおかない。これからも愛され続けるだろう。

「お話」としての物語について。②

2017-09-08 | 物語(ロマン)の愉楽
 イギリスの作家ケン・フォレットが20世紀の激動のヨーロッパを描いた大河ロマン「巨人たちの落日/凍れる世界/永遠の始まり」の「100年三部作」(全11巻。ソフトバンク文庫)に感銘を受けた。これまで長らく自分にとって「文学の基準線」は大江健三郎だったが、それがケン・フォレットに取って代わるくらいの勢いだった。
 それに伴い、「純文学至上主義」がぐらついて、これまで「物語」だと軽侮していたもの、すなわち大衆小説、娯楽小説を熱心に読むようになった。むしろ純文学より、こちらこそが文学の本道ではないか。今やそんなふうにさえ思っている。
 という話を前回やった。
 ケン・フォレットを「文学の基準線」に据えるとは、ケンさんを神棚に祭ってほかを退けるという話ではない。逆だ。物差しなんだから、どしどし使わなきゃいけない。ケン・フォレットを物差しにすると、大江文学ははるかに高い。そして深い。しかしそのぶん、神経が細かすぎ、インテリくさすぎ、関心の領域が偏りすぎている、とも言える。いまどきの一般読者からすれば、高尚すぎるということになろう。
 ケン・フォレットの作品が通俗だってことは論を俟(ま)たない。しかし、大江さんと並ぶ現代ニホン最高峰の作家・古井由吉さんは、「純文学をやってる者は、とかく通俗小説をバカにするけど、俗に通じるってことは、ほんとはとっても難しいんだ」と言っておられた。ぼくがケン・フォレットに敬意を払うのは、まさに俗に通じているがゆえである。
 俗に通じるとは、「卑しい俗情に媚びてやる」ってことではない。「ふつうの大人が読むに堪える」ということだ。日々心身をすり減らしながら、この世知辛い浮世を渡っているわれわれが、すんなりと感情移入できる小説。そういうことである。大人が読める小説を書けるのは大人だけだ。
 「100年三部作」を読むと、作者自身の人生体験に加えて、社会や政治や経済や歴史や風俗についての幅広い知見の蓄積を感じる。もちろん綿密な取材もしてるんだろう。世の中と人間の裏面について、あるいは暴力や悪意についての考察も怠りない。そのうえで、さまざまなキャラが縦横に絡み合いながら豊かなストーリーを織り成していく。文章は簡潔で飾り気はなく、しかし必要なことは的確に伝える。これぞ小説ほんらいの魅力ではないか。
 ケン・フォレットを好きなのは、大衆小説や娯楽小説に往々にして見られるような、「ストーリーの面白さのために肝心の人間性を犠牲にする」ところが殆ど見られないからだ。ちなみに、これに関して真っ先に思い出すのは綾辻行人の『十角館の殺人』(講談社文庫)だ。どんでん返しをやりたいために、あれだけの血を流すとは。何ちゅう幼稚な話であろうか。あんなのが混じってるから、ぼくは推理ものを好きになれんのだ。
 ただ、『十角館の殺人』みたいなものは、明治この方の「近代小説」ではなく、江戸期の「戯作」の変種として捉えるべきかもしれない。嫌味ではない。「近代小説」ではなく「戯作」として評価するならば、『十角館の殺人』はなかなかの作だ。
 いきなり話が大きくなるが、文学の祖型はそもそも神話だ。それが流れ下って昔話や伝説となり、人々の口から口へと語り継がれる。いっぽう文明化した社会では、長短さまざまの詩や戯曲、随想録のような散文などが発達し、優れたものは文献となって残された。けれども、いわゆる中世から近世にかけて、「人間」なるものを濃やかに描いた作品はない。まあ源氏物語、『神曲』、シェイクスピア、『ドン・キホーテ』といった巨大な例外はあるけれど、それらが山脈を形成したわけではない。制度としての「小説」が成立したのは、やはり「近代」になってからである。近代になって近代小説が成立したなんて言ったら、これは同義反復(トートロジー)だけど。
 近代以前、つまり近世、つまり江戸期の日本においては、戯作が読みものの中心だった。町人や下級武士たちはそれを読んだ。知識人たちは漢文の世界に生きていたが、漢文で物語が綴られたわけではない。それは学問と詩のための道具だった。馬琴だって漢字かな交じり文で物語を書いたのだ。明治維新がきて、「西欧」がどっと流入し、新しい時代にふさわしい新しい「読みもの」が必要となったとき、何人かの俊英たちが苦心惨憺してそれに応えた。そのときに「自我」や「内面」や「私」、さらには「風景」「告白」といったものがつくられた。むろん直ちにできあがったのではなく、たくさんの人々(必ずしもそれは文学者とは限らない)の手を経て、少しずつ形成されていったわけだけれども。
 「自我」や「内面」や「私」の形成に携わったのだから、明治から大正期の(純)文学者たちはもともと精神世界に近いところにいた。べつにスピリチュアル系って話じゃないけど、少なからぬ人が「キリスト教」に近いところにはいたのである。ぼくが前回の記事で告白(笑)したように、今日においてなお、純文学が宗教(的なるもの)の代替となりうる要素は揺籃期にあったということだ。
 ともあれ、「近代的自我」をもったキャラクターを確立するために、(純)文学はストーリーの面白さを蔑ろにした。そうしなければならなかったのだ。「筋(物語)」と「キャラ」とを比べたら、物語のほうが強いから。だって、神話以来の伝統をもってるんだから。昨日きょう成立したばかりの「人間」が、これに敵うわけがない。モノガタリを思う存分繰り広げたら、キャラはそこに取り込まれ、ただそれを前に進めるだけの傀儡(かいらい)となってしまうだろう。初期の(純)文学者たちはそれを恐れた。かくて、「私小説」が生まれた。
 物語論の見地からいえば、私小説とは、「物語の誘惑をできうるかぎり排した小説」と定義できるかもしれない。しかしそれでも、そこに何人かのキャラが出てきて何らかの行動をしたり会話をしたりする以上、ロラン・バルトが『S/Z』(みすず書房)でやったような繊細にして緻密きわまる分析を施せば、否応なしに「物語」は抽出されてしまうだろう。それが物語の真の怖ろしさなのだが、こんな話は専門的すぎるから今はいい。
 横光利一みたいな人は、「傀儡(あやつり人形)ではない生きたキャラと面白いストーリーは両立できる」と唱え、自分でもそれを実践した。後世の批評家の中には厳しいことをいう人もいるが、そういう人に限って自分では小説を書かない。ぼく個人は、横光さんは健闘したと思っている。
 ぼくのばあい、かなり長期にわたって「純文学」という箱庭に居り、ここにきてむやみに大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説を読み漁っているので、かえって「純文学」の特異さが際立って見える。今も昔もリアリズムに依拠する純文学の誠実さ、志の高さは美しい。ただ、もうちょっと物語の誘惑に身を委ねてもいいんじゃないか。難しいところではあるが。


「お話」としての物語について。①

2017-09-08 | 物語(ロマン)の愉楽
 前回はあれこれ書いたが、ふつうに「物語」と聞いたなら、誰しもが思い浮かべるのは「お話」だろう。もちろんそれは誤りではない。前回やった議論のほうが、むしろ特殊だといえる。
 「文学」といえば、これは大学に「文学部」ってものがある。最近は、「文学なんてやったって何の足しにもならねえ。生徒も集まらねえ」ということで、名称も中身も変わりつつあるようだけど、それでも東大や京大から文学部がなくなることはないだろう。明治この方、国立一期校における「文学部」は、研究機関としても教育機関としても、多大な力を持っていたからだ。しかしこれは別の話なので、別の機会にしましょう。
 ともあれ、「文学」である。「文学部」もあれば、「純文学」ってのもあり、とかくお堅いイメージがつきまとう。
 「小説」はどうか。これは「文学」よりはとっつきやすいが、それでも「物語」のほうがさらに楽しそうだ。シンプルに「読んで面白いお話」という感じがする。
 ハリー・ポッター・シリーズは「文学」か「小説」か「物語」か? この三択なら、間違いなく物語だろう。
 3年前にこのブログを始めたとき、ぼくは「物語批判」をやってたんだけど、それは前回やったような「大きな物語」の批判であると共に、「お話」としての「物語」の批判も兼ねていた。つまり大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説のことである。むろんハリポタも含む。
 大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説に対立するのは「純文学」だ。もともとぼくは純文学に対し、信奉に近いくらいの思い入れがあった。「物語」を貶(おとし)めて「純文学」を賞揚しよう、というのが当ブログの方針だったのである。
 しかし読み返してみると、『「大きな物語」に対する解毒剤としても、純文学はすごく有効なんだぜ。』てなことも書いている。
 つまりまあ、「大きな物語」に対する批判と、大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説に対する批判とが、ごっちゃになっていたわけだ。双方を一緒くたにしたうえで、「純文サイコー。純文学はこんなにクールだぜ。みんな物語にばかり溺れてないで、もっと純文学を読みましょう」と訴えていた。大体そんな感じである。
 「なんか強引だよなあ」と当時から感じてはいた。70年代くらいまでならともかく、今日の純文学にそれほどの力はない。だいいちほとんど読まれない。ぼくがブログで何を書こうが、読まれないものは読まれない。というか、そもそもぼくのブログが読まれない。
 それにやっぱり、「大きな物語」と「大衆小説や娯楽小説やエンターテイメント小説」とが区別できてないのはいかんよなあ、とも思っていた。
 「戦後短篇小説再発見を読む。」のシリーズを始めてからは、「大きな物語への批判」はどこやらへ行って、エンタメ批判ばかりになった。どだいノンポリの文学バカなんだから、あるべき姿に戻ったといえる。
 さっきも言ったが、純文学に対して、ぼくは長らく信奉に近い思いをもっていたのである。誇張ではなく、特定の信仰を持たないぼくにとり、それはほとんど宗教の代替であったかもしれない。これはあながち幼稚な錯誤でもなくて、「純文学」という制度は、ある種の性向をもった個人にとって、宗教の代替となりうるくらいの力をもつのだ。もちろんそんなカリスマ性は、今日ではどんどん薄れているが。
 『火花』ブームもあったけど、純文学業界ぜんたいからすれば、まさに火花みたいなもんだった。いちじ又吉直樹よりもテレビに出まくっていた羽田圭介ともども、純文学の値打ちがまたひとつ下がった感すらある。
 ぼくは十代の頃から(はっきりと年度は特定できる。高2の夏だ)純文学に入れ込んでおり、30年近くにわたって、書くのも読むのも、ほぼ純文一辺倒だった。しかし、それまではそうじゃなかった。
 本好きなのは間違いなかった。子供の頃から手当たり次第に読んでいた。小学生の時の愛読書は漱石の『猫』と最近になってドラマ化された獅子文六の『悦ちゃん』。SFも読んだ。中学に上ると近所の図書館に行って森村誠一、笹沢佐保、平井和正、大藪春彦、ほかには名前は覚えていないが、アンテナに引っかかったやつを次から次へと借りては読んだ。西村寿行まで読んだ。よく貸してくれたものである。初期ドタバタ時代の筒井康隆ももちろん読んだ。
 はっきりと意識してではなかったにせよ、小説(物語)なんておしなべて暇潰しだと見なしていた。難しくいえば、「消閑の具」というやつだ。難しくいっても同じことで、ようするに小馬鹿にしてたのだ。
 理系に進むつもりでいたので、高校に入ってからもその考えに変わりはなかった。それが高2の夏、学校の図書室で大江健三郎の「死者の奢り」と吉行淳之介の「驟雨」と小川国夫の「アポロンの島」に出会い、いっぺんにブンガクにのめり込むこととなった。「信仰」はその時から始まったのである。
 それまでにもっぱら読んできた大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説と、「死者の奢り」や「驟雨」や「アポロンの島」とは、どこが違っていたのだろうか。まず文体が違った。繊細で緻密で余韻があった。そして登場人物の内面が違った。ずっと豊かで屈折していて深かった。ここに自分の本来いるべき場所がある、と高2のぼくは思ったし、いつか自分もこういう作品を書きたいと思った。たぶんそこからすべてが始まっている。
 それ以降まるっきり大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説に手を出さなかったとは言わないが、読む量が激減したのは確かだ。ほとんど読まない。しかし映画、ドラマ、マンガ、アニメは好きだった。コトバで書かれてはいなくとも、これらが「物語」であるのは間違いない。むしろより濃厚に「物語」であるだろう。いま思えば、そうやって「物語」への飢えを満たしていたのだ。
 20世紀が終わってゼロ年代に入ったあたりから、爆発的、といっていいほどの勢いでエンタメ作家が増えてきた。ぼくの子供の頃なんて、上に列挙した人たちを含めて大衆小説のプロなんて200人くらいだったんじゃないか。その大半が松本清張をはじめとする推理小説か、司馬遼太郎・池波正太郎をはじめとする時代小説で、あとSFが一握り、といった按配。いずれにも属さぬ五木寛之、井上ひさし、城山三郎、新田次郎のような人たちのものは、「中間小説」と呼ばれていたはずだ。
 ゼロ年代あたりから爆発的にエンタメ作家が増えたのは、戦後ニホンが、小説以外にもそれこそ映画、ドラマ、マンガ、アニメなどによって膨大な量の物語を供給し、その肥沃な土壌のうえに多くの才能が花開いたってことなんだろうけど、ファンタジー系、ホラー系、さらにゲームとタイアップしたラノベ系、はてはケータイ小説、ネット上での二次創作にまで膨張すると、もはや読むどころか全体像を掴むことすらできない。勝手にしやがれ、という気分で、ぼくはますます純文学の孤塁に閉じ籠ることになる。
 ぼくのばあい、テレビと縁を切ったこともあって映画、ドラマ、アニメからは遠ざかり、『MASTERキートン』『蒼天航路』『鋼の錬金術師』といったマンガに夢中になりながら、いっぽうで純文学、詩、古典、評論、哲学書、歴史書を読む、といった変則的な読書ライフになった。エンタメ小説だけは読まないのである。「物語」への飢えはマンガで満たしつつ、海外のものと日本のものとを問わず、エンタメ小説には手を出さない。頑なだった。そういう時期が30年近くも続いたのだ。
 あれはしかし、フロイトのいう「抑圧」であった気がする。関心があるのに、無理をして抑えつけていたのだ。不健康な話なのである。
 その抑圧から解き放たれて、あたかも「高2の夏」以前に戻ったかのように、またエンタメ小説が好きになった。それが6、7年前だ。山田風太郎の『明治小説全集』(ちくま文庫)、そしてケン・フォレットの『大聖堂』(ソフトバンク文庫)がきっかけであった。ことにケン・フォレットには感銘を受けた。純文学の感覚からすると文章は粗い。キャラもけっして深くはない。まさに通俗。しかしそれがなんだというのだ。むしろこれこそ文学の本道じゃないか。
 今年の7月、ケン・フォレットが20世紀のヨーロッパ史を描いた「巨人たちの落日/凍れる世界/永遠の始まり」の「100年三部作」を読んだことにより、「これが文学の本道じゃないか」という思いはより強くなった。それまでは大江健三郎であった自分のなかの「文学の基準線」が、ケン・フォレットに取って代わるくらいの勢いだった。個人的には、コペルニクス的転換といっていい。
 これに伴い、自分の中での純文学と「物語」、すなわち「大衆小説、娯楽小説、エンターテイメント小説」との関係も、自ずと転換を迫られた。それでこのところずっと、物語のことを考えている。前回やった「大きな物語」ではなくて、シンプルな、「お話」としての物語である。



アイロニー

2017-09-06 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 本心とは真逆(まぎゃく)の言葉を表明することをアイロニー、もしくはイロニーという。裏腹(うらはら)とはよく言ったもので、まさに腹の中身を裏返して相手に伝えるわけである。レトリック(修辞)の一種で、かなり高度なものではあるが、一面、だれしもが普段の生活でけっこう使っていることでもある。
 虫の好かない上司ないしお得意さんの接待をして、丸一日を棒に振ってしまった帰り際、「今日はほんとうに楽しい一日を過ごさせて頂いて」と口にするとき、あなたはアイロニーを実践している。だからアイロニーは、たんに「皮肉」と訳されたりもする。ただこのばあい、それが皮肉だと(少なくとも露骨には)受け取られぬよう、細心の注意を払わなければなるまいが。
 むろん、もっと高尚なアイロニーもある。ソクラテスは「私は何も知らない。だから私に、あなたの知っていることを教えてくれ」というアイロニーを駆使して人々に対話を仕掛けた。これによって、問答の相手が「知ってるつもりでいただけで、じつは何も知らなかった。誠実に物事を考えたことがなかった」ことを暴いたのである。文書として残っている中では、これはおそらく人類史上初めての「哲学的実践」だろう。一部の人たちは感動してソクラテスを尊敬したが、もっと多くの人たちは「どんだけ嫌味なヤローだ。すっげームカつく」と怒った。結果、(まあそれだけが理由じゃないけど)ソクラテスは裁かれ、毒杯を仰ぐ羽目となった。アイロニーを使うのは時として命懸けである。
 しかし人間という生きものが、自分に対しても他人に対しても社会に対しても「どこまでも誠実」であり続けることなどできない以上、アイロニーは人間の営みすべてに付いて回るともいえる。ことに文藝のような知的営為においては。そこに目を付けたフランスのジャンケレヴィッチさんって哲学者が、『イロニーの精神』(ちくま学芸文庫)という本を書いた。けだし、アイロニーは一冊の本が著せるほど深いテーマなのだ。
 又吉直樹の『火花』(文春文庫)にも、アイロニーを使ったくだりがあった。苦楽を共にしてきたコンビの解散記念ライブ。「よーし、ほんなら今から、思てんのと反対のこと言うていくでー」と宣言して、相方への悪口を述べ立てていくのだ。ふつうなら照れ臭くて言えない気持を、裏返しにして伝えるのである。泣かせどころだが、あらかじめ「反対のことをいう」と断っているので、響きが薄い気もする。
 ぼくが近ごろ出会った最上のアイロニーは、『おんな城主 直虎』の8月20日放送分「嫌われ政次の一生」のワンシーンだ。『おんな城主 直虎』について予備知識のない方は、当ブログ8月3日の記事「『おんな城主 直虎』がおもしろい。」をご覧ください。
 いよいよ政次の処刑が決まり、ほかの僧たちと共に直虎は立ち会う。彼女は尼僧でもあるので、「引導を渡す」という名目で刑場に臨むわけである。磔刑台に括りつけられる政次。満身創痍で痛々しく、髪もざんばら。かつての切れ者「但馬守」の面影はない。直虎は目を背けることなく、彼を注視している。
 執行役の兵がふたり、左右から槍を構える。テレビの前のぼくは、脚本の森下佳子さん、一体ここで直虎に何をさせるんだろうと思っていた。ただ黙って一部始終を見守っているだけでは、21世紀の大河ドラマのヒロインではない。おれだったら直虎にどんな行動を取らせるかなあ……。いやあ……ちょっと思いつかんなあ……。
 じっさいの展開は、ぼくなどの思いもよらぬものだった。テレビ業界の激戦の中で日々しのぎを削る売れっ子ライターの真価を見た気がする。なんと直虎は、一躍して傍らの兵から槍をもぎ取ると、磔刑台に駆け寄り、気合一閃、自らの手で、それを政次の胸に突き立てたのである。
 柴咲コウさんは目が大きい。その目をかっと見開いて、「眦(まなじり)を決する」という慣用句そのままの形相で、こう叫ぶ。
「地獄へ落ちろ、小野但馬。地獄へ……。ようも、ようもここまでわれを欺いてくれたな。遠江(とおとうみ)一、日の本一の卑怯者と、未来永劫語り伝えてやるわッ」
 ここまで半死半生のていだった小野政次、さらに胸を一突きされて、絶息しても不思議はない筈のところだが、最愛の女性・直虎からの呼びかけに、逆に一瞬、生気がよみがえる。若き名優・高橋一生、これが最後の(そしてたぶん最高の)見せ場だ。よもや演技にぬかりはない。
 ぐふ、ぐわあっ、と血を吐いて、
「笑止! 未来など……。もとより女(おなご)頼りの井伊に、未来などあると思うのか。生き抜けるなどと思うておるのか。家老ごときに容易く謀られるような愚かな井伊が……。やれるものならやってみよ。地獄の底から……見届け……」
 ここまで述べて力尽き、首を垂れる。
 直虎、槍を取り落とす。
 いうまでもないことながら、政次に向けた直虎のせりふ、直虎に向けた政次のせりふ、これらはいずれもアイロニーである。そっくりそのまま裏返せば、それぞれ真の意味になる。
 周りを敵の兵士に囲まれた中で、直虎が政次への心からの感謝を込めた別れの言葉を伝えるためには、政次が直虎への絶大な信頼と励ましを伝えるためには、アイロニーを使うほかなかったということだ。アイロニーは使いかた次第でここまで胸を打つものになる。


創作の教科書たりうる一冊。廣野由美子『批評理論入門』(中公新書)

2017-09-02 | 物語(ロマン)の愉楽
 このたび文庫になった筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社文庫)はとても面白く、役にも立つけれど、ご本人が「これは老作家の繰り言みたいなもの」と書いておられるとおり、「教科書」と呼ぶには物足りない。
 では、いまどきの若者が小説を書きたい、できれば作家になりたいと思ったとき、教科書たりうる本ってなんだろう。
 むろん、いい小説を書くには、ひたすら読み、ひたすら書くしかないのだが、それはそれとして、の話だ。
 プロの作家が書いたその手の本でぱっと思いつくのは、
 高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)
 島田雅彦『小説作法ABC』(新潮選書)
 辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社文庫)
 保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫)
 クーンツ『ベストセラー小説の書き方』(朝日文庫)
 キング『書くことについて』(小学館文庫)
 村上春樹『職業としての小説家』(新潮文庫)
 といったところだろうか。それぞれに面白いし、ことにキングの本はパワフルで即効性がある。しかしやっぱりどれも、教科書と呼ぶのははばかられる。どこか過剰であったり、いびつであったり、脱線したり。それこそが作家の作家たるゆえんなのだが。
 古いところでは大江健三郎さんの『小説の方法』(岩波同時代ライブラリー)と『新しい文学のために』(岩波新書)。ぼくなんか20代の頃ぼろぼろになるまで読んだ。このうち『新しい文学のために』のほうは、30年近く経った今でも新刊で売っている。
 ほかには岩波文庫から、ボルヘスやカルヴィーノといった錚々たる巨匠の文学講義録が何冊も出ている。巨匠による講義といえば、その名もずばり『ナボコフの文学講義』(河出文庫)というのもある。
 まあ、この手の本を読み漁ったからってプロになれるわけじゃないのは、わが身を振り返ってみれば明らかですけどね。キングとかクーンツなら、「そんなものに費やす暇があるなら、君自身の作品を一ページでも一行でも前に進めろ」というだろう。
 ごもっとも。ただ、そうやって書き上げた代物がいっこうに商品価値を認められぬから、いつまでたっても「入門書」から縁が切れないわけである。
 この話に深入りすると暗くなる。いったん忘れて、ブックガイドに戻ろう。
 「この一冊」というならデイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』(白水社)か。ロッジはイギリスの現役作家で、大学で教えていたこともある。新聞に連載したのをまとめた本で、よみやすい。ただ、単行本だからちょいとお高い。
 ぼくがいちばん感服したのは渡部直己『日本小説技術史』(新潮社)だが、これはあまりにも高度過ぎて、精読すると「もう小説なんて書かなくていいや」という気分になってしまう。これではいけません。値段ももっと高いし。
 キングとかクーンツなら、「作家を志す者にとってはむしろ有害。絶対読むな」というかもしれない。そう言われても面白いので読んじまうだろうけど。
 それやこれやで思い出したのは、廣野由美子『批評理論入門』(中公新書)だ。「批評理論」と銘打っているが、大学でのレポートのためだけでなく、実作のためのヒントが詰まっている。12年前に出たのだが、これだけコストパフォーマンスのいい本はいまだにないと思う。もちろん新刊で売っている。
 副題が『フランケンシュタイン』解剖講義。メアリー・シェリーのあの有名な「フランケンシュタイン」を題材にして、小説技法、ならびに現代批評理論をわかりやすく紹介してるのだ。著者は現在、京大の教授である(本著の執筆当時は助教授)。やはり「教科書」を書くのは学者の仕事だ。
 第一部が「小説技法篇」、第二部が「批評理論篇」。実用的なのは第一部だが、第二部のほうも知っておいて損はなかろう。ロッジの本にはこちらの要素が欠けていた。
 ついでにいうと、フランケンシュタインは博士の名前だから、「フランケンシュタインの(創った)怪物」が正しい(でもめんどくさいので皆わかってはいてもそうは書かない)。原作は今も新潮文庫ほかで入手可だ。
 ざっくりいえば通俗小説なんだろうけど、そうとばかりも言えない多義性を孕んでおり、それゆえに題材に選んだ、と廣野さんは書いている。むろん新書なんだから、一般受けする題材を、という配慮もあったろう。
 これは廣野さんとは関係なく、ぼくが勝手に言うことだが、フランケンシュタイン(の怪物)は、19世紀ロマン主義の産物であり、その美学は現代日本のエンタメにも滔々と流れ込んでいる。
 石ノ森章太郎の「サイボーグ009」やその変形としての「仮面ライダー」、あれもフランケンシュタインの末裔だ。仮面ライダーなんて、いまだに毎年バージョンチェンジして日曜の朝を賑わせている。もはや改造人間ではないらしいので、フランケンシュタイン的色合いは薄れてるけど、しかし根源が19世紀ロマン主義にあったことは間違いない。本来なら、石森プロはメアリー・シェリー女史に足を向けては寝られない。
 もちろん廣野さんは、そんな下世話なことには言及せず、アカデミズムの枠内で、整然と論を進めている。そこは大学の先生である。第一部では、冒頭、ストーリーとプロット、語り手、焦点化、提示と叙述、時間、性格描写、アイロニー、声、イメジャリー、反復、異化、間テクスト性、メタフィクション、結末、という15の基本用語(=基本概念=基本技術)が簡潔かつ明晰に説明され、小説を読む、あるいは書くための道具がひととおり揃う。
 第二部では、伝統的批評、ジャンル批評、読者反応批評、脱構築批評、精神分析批評、フェミニズム批評、ジェンダー批評、マルクス主義批評、文化批評、ポストコロニアル批評、新歴史主義、文体論的批評、透明な批評、といった、当節の主な批評理論が解説される。
 こういうのはまあ、キングやクーンツなら「どーでもいいんだよそんな眠たい話はよー」と一蹴するところかも知れないが(さすがにそこまで下品な言い方はしないか。すいません)、有意な作家志望者ならば、知っておいてけして損はあるまい、と思うわけである。
 この本を手元に置いてじっくり読む。あとはもう、純文学とエンターテイメントたるとを問わず、国産たると翻訳ものたるとを問わず、古典たると近現代文学たるとを問わず、ひたすら読み、ひたすら書く。それでもって、才能があって運がよくって売り込みの労を惜しまなければ、いつの日かプロになれるんじゃないでしょうか。なったことがないので断言はできませんけども。