ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

気になる日本語① 「世界観」

2016-08-12 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 べつに偏屈を気取るわけではなくて、正味の話、オリンピックに興味がもてない。
 まあ、この国のうえには一憶数千万もの人がいるのであるからして、ぼくみたいなタイプも、まるっきりの異端ってほどでもないと思う。
 もともとふだんはテレビを見ないのだけれど、ニュースだの天気予報だの、必要に応じてスイッチを入れる。NHKなど、一日の大半が五輪中継である。
 それに文句をつけるつもりはない。これはそういう趣旨の文章ではない。四年にいちどのことであり、次期に東京を控えていることもあり、盛り上がるのも当然だろう。
 というか、もともとテレビを見ないのだから、文句をつける筋合いもない。
 書きたかったのは、表題のとおり、コトバのことだ。
 開会のすぐ後だったか、たまたま付けたら、「現地に入ってみると、やはりオリンピックの空気感には特別なものがありますねー」というようなことを、アナウンサーが述べていて、これが気になった。競技の結果は気にならぬのに、こんなことが気になるのである。
 「空気感」という言い回しはいつごろから出てきたのだろうか。少なくとも、ぼくの子供の頃(昭和五〇年代)なら、間違いなく「空気」で済ませていたところだ。
 「現地に入ってみると、やはりオリンピックの空気には特別なものがありますねー」
 これでとくに問題はあるまい。「空気感」とは、たぶん広辞苑の最新版にも載ってないだろうから、つまりは造語ということになる。ただ、もちろんこの発言者の造語ではなくて、広く行きわたっている造語だろう。ぼくだって、ほかで耳に(目に)した覚えはある。
 ところで、この発言をしたのはアナウンサーではなく、スポーツ解説者であったかもしれない。もうひとつ、「オリンピックの空気感」ではなく、「リオの空気感」だったかもしれない。なにしろパッと付けて、すぐに消してしまったから、そのへんがアイマイである。
 これはけっこう大事なことで、国営放送のアナウンサーならば、日本語の使い方について相応の訓練を積んでいるし、マニュアルも与えられているはずだ。個人的な言語感覚だけで軽々しく喋ったりはできない。あくまでも一般人たるスポーツ解説者とはその点が違う。つまり、もしあれが実際にアナウンサーの発言であったなら、「空気感」という造語は、いうならば、「NHK公認」のものだってことになる。
 ただ、「空気」ではなくわざわざ「空気感」と称する気持もわからなくはない。「空気」というのは、「都会の空気は汚れている」といった具合に、「大気」の意味でも使うからだ。「リオの空気には特別なものがある」という言い方では、「リオの空気は東京ほどは汚れてなくて快適だ」という意味に取られるかもしれない(まあ、じっさいにそう取る人はほとんどいないとは思うが)。
 「空気感」は、われわれの周りに客観的/物理的に存在している「空気」ではなく、「雰囲気」なり「ムード」、そして、それを感じ取るわれわれの「感覚」そのものを指し示している。そのぶんだけ、行き届いた、念入りな言い方だとはいえる。
 ただ、「念入り」と「冗漫」とは紙一重である。また、「空気」に「感」を付ける造語法そのものにいささか無理があるようにも思える。このあたりはそれこそ個々の言語感覚に委ねられるところで、難しい。
 「空気感」で思い出したのは、「世界観」という用語だ。「空気感」とは違って、「世界観」という熟語は昔からあり、その点において造語ではない。ただ、昨今の使われ方を見ていると、あきらかに、従来よりも拡張/深化された意味を担っている。
 調べれば淵源を絞れるのだろうが、今回の記事は雑談であって論考ではないので、このまま筆を進める(正確にいえば「このままキーボードを叩く」だが、それだとどうも有難味がないね……)。
 ぼくの感じだと、今日の意味での「世界観」は、どうやらアニメ由来の用法だろう。「宮崎駿の世界観」「細田守の世界観」「エヴァンゲリオンの世界観」といった類いだ。
 ひとりの(複数による共同作業のばあいもある)アーティストがつくりあげた作品の総体を指して、「世界」と称する用法は古くからあって、むろん今でもよく使われる。個展の際に「モネの世界」「いわさきちひろの世界」「藤城清治 影絵の世界」といったタイトルを付けるのはしぜんなことである。
 あらためて繰り返せば、このばあいの「世界」とは、「特定のアーティストがつくりあげた作品の総体」である。
 しかし、数が多けりゃいいってもんではなくて、「世界」と呼ばれるからには、それ相応の大きさ、深さ、複雑さを伴っていなければならない。だから大抵、「誰それの世界」という「誰それ」の所には巨匠の名前が入る。むろん画家とは限らない。「黒澤明の世界」「手塚治虫の世界」「大江健三郎の世界」「ビートルズの世界」。どれも成立可能だろう。
 例外として、必ずしも「巨匠」というわけではないが、他とは明らかに一線を画した、ワン・アンド・オンリーの表現者に対しても、「世界」という用語は似つかわしいだろう。今ぼくがぱっと思いつくのは谷山浩子だ。あの不思議なシンガーソングライターの生み出す独特な作品の総体を呼ぶには、「谷山浩子の世界」という言い回しのほかに考えられない。
 いずれにしても、この場合の「世界」とは、「つくられたもの」、すなわち生成物である。箱庭をイメージするのがもっとも適切だろうか。音楽だの映画だのは「箱庭」ほど明瞭な実体を伴わないにせよ、それが「生成物」であることに変わりはない。
 いっぽう、「世界観」は「生成物」ではない。「観」なのだから「モノの見方」である。
 「誰それの世界観」とは、「誰それのつくりあげた作品の総体」ではなく、「誰それによる世界の見方」なのである。
 同じようでもまったく違う。「世界」というのはこのばあい、誰かの作った箱庭ではなく、われわれが生きて生活しているこの世界そのもののことになる。むしろ、「社会」といったほうが正しいかもしれない。
 そのような意味での「世界」や「社会」が、われわれの主観を離れて客観的/物理的に「存在」しているかどうかというのは極めて哲学的な問題だけれど、話がややこしくなるのでそのことは置く。「世界」や「社会」は客観的/物理的に「存在」する。そう仮定して、さて、その「世界」なり「社会」を、誰それはどのように観て(捉えて)いるのか。
 「世界観」とはそういう含意だ。
 今ちょっとネットで調べたら、こんな定義が見つかった。
「世界およびその中で生きている人間に対して、人間のありかたという点からみた統一的な解釈、意義づけ。知的なものにとどまらず、情意的な評価が加わり、人生観よりも含むものが大きい。」
 けっこういい線いってるんじゃないか。つまり、「世界認識」と言い換えてもいいんだろうね。「誰それがつくった作品群」ではなく「誰それによる世界の見方(認識)」、それが「世界観」なのである。
 いまどきの「世界観」という言い回しに、ぼくはつねづね違和感を覚えているのだけれど、その最たる理由がこれだ。
 「宮崎駿の世界観」は、「宮崎駿による≪世界の見方≫」なのだ。これはまだいいとして、「エヴァンゲリオンの世界観」は「エヴァンゲリオンによる世界の≪見方≫」である。何のこっちゃ。あの乗り物なのか生物なのかも定かならざる巨体が、どのように「世界」を見ているかなんて、わしゃ知らんぞ。
 これはまあ、「作者たる庵野秀明が、≪エヴァンゲリオン≫という作品を介して≪世界≫を観て(捉えて/描いて)いるその方法」というふうに翻訳可能ではあるけれど、こうなるともう、「世界観」という熟語は、はっきりと誤用されているといっていい。
 もし仮に、「空気」を「空気感」と念入りに呼び変えるようなつもりで、従来の「世界」という用語を念入りに呼び変えたいならば、そこは「世界像」と呼ぶのが正しいはずだ。
 「宮崎駿の(創りあげた)世界像」。「細田守の(創りあげた)世界像」。「エヴァンゲリオン(という作品が表しているところ)の世界像」。
 これでなにか問題があるだろうか。
 もしくは、もっと明確に「作品世界」といったらいい。これならばまったく紛れはない。
 もちろん、「宮崎駿の世界観」「細田守の世界観」、そしてまた、「庵野秀明の世界観」という言い方が成立しないというのではない。「細田守は、あるいは庵野秀明は、ぼくたちの生きるこの現代社会を、どのように観て/捉えて/描いているのか?」という意味で、「世界観」という言い方を使うのはまったく正しい。
 たぶん、「世界観」という用語が今のような形で流通するようになった端緒は、そのように使われていたはずだ。
 ただ、あちこちで濫用されているうちに、本来なら「世界像」なり「作品世界」というべき際まで、「世界観」で賄われるようになり、そのまま定着してしまっている。
 あげくのはてに、近頃では、「尾崎世界観」とかいう芸名を名乗るひとまで出てきたらしい。なにがなんだかわからない。別にまあ、いいんだろうけどね。
 ともあれ、「世界観」の濫用および、「世界像」との混同は、現代日本語の用例として、ぼくがたいへん気になっていることのひとつである。
 これはたんに重箱の隅を突ついてるのではなくて、コトバの乱れ、ひいては言語感覚の乱れは思考の鈍化に直結し、それがまた、全体としては文化の衰退に繋がっていくので、自分としては書かずにいられないのであった。
 気になる日本語はほかにもたくさん目につくので、また機会があれば書いていきたい。